再会編【全5話】
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十八で故郷を出て公孫瓚の元にいた趙雲は、二十四の歳、兄の訃報を受けて故郷の地を踏んだ。
常山の郷を吹き抜ける風は、記憶にあるものよりもどこか冷たく感じられた。
あれから村の若者は戦場に駆り出された者も多いと聞いている。
実家の門を潜り、静まり返った奥の間へ進むと、そこには、かつて自分を厳しく、時に優しく導いてくれた兄の位牌が静かに鎮座していた。
趙雲は膝をつき、深く頭を垂れる。
香の煙が細く立ち上る。
しばらくの間、無言で手を合わせていた趙雲だったが、傍らで控えていた父がポツリと言葉を漏らした。
「子龍よ。お前が不在の間、この村も野盗の類に随分とかき乱されてな。兄も心労が絶えなんだ……」
趙雲の眉が険しく寄る。
乱世の火種は、この静かな農村にまで及んでいたのか。
しかし父は続けて柔和な笑みを浮かべた。
「だが一年ほど前か。一人の若い娘がこの村に流れてきてな。お前の槍の師範の元に身を寄せながら、独りで野盗どもを追い払ってくれているのだ。○というのだが…知り合いか?」
「?いえ、初めて聞く名です。公孫瓚殿の所で縁があったのでしょうか…」
「なんでも拳法の免許皆伝者だそうだ。お前のことを探して、遠く雁門郡から来たと言っていた。お前が公孫瓚軍にいると知って追いかけようとしていた様だが、この村の窮状を見かねてそのまま居着いて防衛を担ってくれている。今や村の者たちは、皆、彼女を頼りにしているのだ。…懐かしいな。雁門郡とは十数年前に共に行ったことがある」
趙雲は師範の道場へと向かった。
竹林に囲まれた道場からは声が聞こえてくる。
「師範、水を汲んできますね」
その声の後、戸が開く。
出てきたのは凛烈な気を纏った女性だった。
この村での見覚えはない。
しかし立ち姿を見ただけでも、彼女が父の言う女性だという事が分かった。
無駄のない体つき。
彼女は茫然と立ち尽くす趙雲を、真っ直ぐに見据えた。
「やっと会えた…!帰ってこられたのですね、子龍様!」
「…?」
趙雲は首をかしげる。
女性は満面の笑みで近づいてきた。
「○です!六歳の時に影踏み遊びをした!あなたのお嫁さんになる為に、修行を終えてきました!」
その言葉で趙雲は急激にあの日の事を思い出す。
○は、あの時と同じようににっこりと、けれど今度は大人の女の艶を帯びた笑みを浮かべた。
「約束…?嫁…?」
趙雲は、呆然としたままその場に立ち尽くした。
「ええ。六歳のあの日、私は子龍様に影を踏まれました。忘れたとは言わせませんよ?」
「それは…確かに遊んだ記憶はあるが、あれはただ遊びに付き合っただけで…」
困惑を隠せない趙雲の背後から、低く快活な笑い声が響いた。
道場の奥から姿を現したのは、趙雲の槍の師範である。
「なんだ。お前はこの子と影踏みをしたのか。どうりで」
「師範…お久しぶりです。あの…どういう意味でしょうか」
趙雲が向き直ると、師範は腕を組み、面白そうに髭を撫でた。
「○殿が育ったあの村には、古くからの慣習があるのだ。夕方から日が沈むまでの間に男女で影踏みで勝負し、負けた女は男の妻になる…。○殿から『影踏み』を誘われたのではないか?」
「…」
「女が己の生涯を預ける男を選ぶ『婿選びの儀式』だ。だからあの村の少女は幼いころから足を鍛えるのだ」
趙雲の背筋に冷や汗が流れた。
あの時、父が「遊んではいけない」と厳格に禁じた理由が、十二年越しに分かってくる。
「あ、あの時はただの遊びだと……!」
「娘側が誘い、男がそれに応じて影を踏んだ。その時点で、その村の法では契りは成ったも同然なのだ。お主が公孫瓚殿の元へ去った後も、この娘さんは十七で免許皆伝を受けるや否や、着の身着のままでお主を追ってここまで来たのだぞ」
趙雲は言葉を失い、改めて○を見た。
一年前、自分の不在を知りながらもこの村に留まり、野盗から村を守り続けてくれた女性。
彼女の十八年間のうち、実に十二年もの歳月が、あの日の約束に捧げられていたのだ。
「子龍様」
○が一歩、踏み込む。
その瞳には拳法家としての鋭さと、一途な女の熱が混在していた。
「私はもう子供ではありません。貴方が武家の方だと聞いていたので、村を出るために免許も皆伝し、貴方の背中を追えるまでになりました。共に戦場をかけることもできるように、戦にも出ました!お邪魔にはなりません!お嫁さんにしてください!」
「そ、その様な習わしがあったとは、露ほども知らなかったのだから無効だ」
天下の白馬義従として数多の戦場を駆けてきた趙雲が、今や一人の小娘を前にして、槍も持たずに後退りしていた。
しかし、○は逃がさない。
一歩、また一歩と間合いを詰める。
「でも、子龍様。今はもう、知ってしまいましたよね?」
目の力が凄い。
「……あ、いや。しかしだ。私は武に身を捧げる身。いつ戦場に散るかも分からぬ男だ。そのような大事な約束を、軽々と」
「軽々しくなんて思っていません!」
○は燃えるような真剣な眼差しを向ける。
「拳法師範の兄に厳しく言われていたんです。『武家の男について行くなら、自分の身くらい護れる様に…免許皆伝を授かるまで村を出てはならない』って。……だから私、必死で稽古しました。子龍様に追いつきたくて!隣に立っても恥ずかしくない女になりたくて、この十二年、一日も欠かさず!」
○の拳には、いくつもの小さなタコがあり、その肌は白く柔らかなだけの深窓の令嬢のものではない。
血の滲むような努力を積み重ねてきた武芸者の手だった。
あまりに真っ直ぐな想いの吐露に、趙雲は言葉を失った。
十二年前の影踏み。
あんな遊びが彼女の人生を決めてしまったというのか。
「子龍、そう固くなるな。まずは手合わせでもしてみろ」
師範が楽しげに二人の間に割って入った。
「身体を動かせば打ち解けよう」
「……そうですね。いいだろうか」
趙雲は箱に入った鍛錬用の木槍を取る。
○は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔を見せた。
「いいですよ、旦那様」
「だっ…誰が旦那だ」
二人は向かい合った。
趙雲の放つ木槍が○の肩口を狙う。
○はそれをしっかり目で捉えており、しなやかな身のこなしでかわすと、槍の柄を伝うようにして懐へ潜り込んできた。
趙雲は瞬時に石突で応戦しようとするが、○の動きはさらにその上をいく。
○が低く地を這うような掃腿から、一気に跳ね上がって趙雲の持つ訓練用の槍を真下から捉える。
趙雲の手から獲物が吹き飛んだ。
武器を失ったが、趙雲は即座に反応する。
彼は乱れた呼吸を整える間もなく、一歩踏み込んで○の動きを封じにかかった。
逃がすまいと腕を伸ばし、○の胴着の胸ぐらをぐいと掴み上げ引き寄せる。
(捕まえた…!)
すると○の動きがぴたりと止まった。
反撃が来るかと身構えていた趙雲だったが、彼女は抵抗するどころか掴まれたままの姿勢で、呆然と趙雲の顔を見つめている。
「……○殿?」
趙雲が訝しげに声をかける。
すると彼女の白い頬がカーッと朱色に染まっていく。
「……ああ、なんて……なんて素敵なの……」
「はぁ!?」
○の瞳は潤み、うっとりと夢を見るような表情で、自分を捕らえている趙雲の腕にそっと手を添えた。
「こんなに近くで、そんなに凛々しいお顔で見つめられたら……私、もう、お稽古なんてできません…ああ、好き…」
「な、何を、何を言っているんだ! 稽古の最中だろう!」
先ほどまでの鋭い武芸者の気配はどこへやら。
○は完全に「恋する乙女」の顔になる。
掴んでいた胸ぐらを慌てて突き放すように離す趙雲だが、○は趙雲の胸に体重をかけて倒れ掛かり離れない。
グイグイと凄い力で押してくる。
「子龍様のその真っ直ぐな瞳…。やっぱり、私の選んだお婿さんは大陸一です」
「師範! 師範、見ておいでですか! 稽古になりません、これは!剥がしてください!」
助けを求めて振り返る趙雲だったが、当の師範は道場の隅で心底楽しそうに笑っているだけだった。
落ち着いた○は、趙雲から離れてモジモジしている。
「子龍様のお顔は十二年前のままで止まっていましたから……。今のその、あまりに凛々しいお姿は、目の毒です」
上目遣いに、本気で顔を赤らめて呟く○。
趙雲は肩を落とす。
「まったく。私は至って真面目に稽古をしていたというのに」
「私だって真面目でしたよ。子龍様がいけなんです。あんな風に口説いて…」
「は?」
調子を狂わされ、趙雲は逃げるようにその日の稽古を切り上げた。
しかし彼女の視線を思い出す。
頬を染める直前まで○の瞳に宿っていたのは、間違いなく真剣な武人の光。
木槍を蹴飛ばされた瞬間の足運び、あれは生半可な修行で身につくものではない。
免許皆伝は本当の様だ。
その夜。
趙雲は膳を運んできた老僕に、ふと気になっていたことを尋ねた。
「……○殿のことだが。彼女は、この郷で本当にそれほどの手練れとして知られているのか?」
老僕は「おお、それはもう」と、待ってましたと言わんばかりに膝を打った。
「子龍様、お疑いですか? ○様がここへ来てすぐの頃、郷を荒らしに来た野盗の頭目がおりましてな。身の丈六尺はあろうかという大男でしたが、○様はそれをこう、首根っこを掴んで地面に叩きつけなすった。あの音といったら、地響きがしましたぞ」
「……あの細い体で、大男を?」
趙雲の脳裏に、先ほど自分の胸元に頭を預けてきた華奢な肩が浮かぶ。
平均的な女性の背格好だった。
「それだけではございませぬ。近隣の村々が集まって開かれる武芸大会では独壇場です。槍自慢も刀自慢も、彼女の拳一つに沈められておりますよ。…少々、武勇を振るっていらっしゃる間は気性が荒くなられる点だけが難点ですが」
趙雲は絶句した。
あの姿からは想像もつかない、猛者としての実績。
(あの村の『影踏み』の教え。そして、私を追うために積んだという十二年の研鑽。彼女は、本気なのだな)
単なる幼子の憧れではない。
一人の武人が、一人の男を追い求めて、血の滲むような日々を越えてきてしまった。
「……困ったことだ」
小さくため息をついた。
*****
「お断りする」
○と再会したあの日。
道場の縁側に引き留められた趙雲は、隣で熱心に将来の話を語る○に対し、断固とした声で告げた。
「えっ…どうしてですか? 私、花嫁修業も済ませています。お掃除もお料理も、それに野盗退治だって人一倍できます!」
落胆したように肩を落とす○。
だが趙雲は正面を見据えたまま、その眼差しを緩めない。
「○殿の才については疑うべくもない。しかしこの乱れた世では、昨日までの主が今日は刃を交える敵となる。明日をも知れぬ戦乱の中に私は身を置いているのだ。そのような身で妻を迎えるなど……到底、私にはできぬ。なにかあれば貴殿が人質になる事すらあるのだ。安易に貴殿の人生を背負うことは、誠実ではない」
「それは……もう、戦へ行ってしまうということですか?」
「…………」
趙雲は沈黙した。兄の喪に服すために戻った故郷だが、彼の心は依然として「義」を成すべき場所を求めている。
「二年は兄の喪に服すつもりだからここにいる。それにこの郷の周りには未だ野盗が蔓延っていると聞くしな」
趙雲は初めて、隣に座る○を真っ直ぐに見つめた。
「貴殿がこの一年、独りでこの地を守り抜いてくれたこと、心から尊敬している。……しばらくの間、私はこの村に留まる。だからこの地が真に落ち着くまで、"友として"共に防衛を担わせてはもらえないだろうか」
「一緒に戦ってくれるんですか?」
「あぁ。『夫』にはなれぬが、戦場を共にする『友』としてなら、貴殿の隣に立てる」
○は唇を噛み締め、それから大きく息を吐き出した。
「……わかりました。今は、それで我慢します」
そう頷いた。
はずなのに。
昨夜、あれほど厳かに、かつ誠実に「妻にはできない」と説いたはずだった。
趙雲は、自分の言葉が○の心に深く刻まれ、今日からは節度ある「友」としての距離が保たれるものと信じて疑わなかった。
なのに。
「おはようございます! 昨夜はよく眠れましたか?」
翌朝、井戸に水を汲みに来た趙雲に弾んだ声がかけられる。
振り返る間もなく、柔らかな体温が腕に触れる。
「うわ…っ!? ○殿! 昨夜の私の話を聞いていたのか!?距離を取れ!」
趙雲は飛び退くように距離を取ったが、○はちっとも堪えた様子がない。
それどころか小走りで距離を詰め、逃げる趙雲の袖をぎゅっと掴んだ。
「聞いていましたよ?でも、世が定まれば良いってことじゃないですか。昨日聞いた時はちょっと落ち込んだんですけど、私、とっても前向きに解釈することにしたんです!つまり、乱世が終わるまでついて行けばいいんですよね?」
「何をどう捻ればそうなる……!貴殿を不安定な私の境遇に縛り付けるわけにはいかないから、実家に帰りなさいと…」
「家出同然で飛び出してきたので戻れません!それにどんな境遇になっても大丈夫ですよ?私、こう見えてすごく頑丈なんです」
○は趙雲の説教を心地よい子守唄か何かのように聞き流しながら、じりじりと距離を詰める。
趙雲がたじろいで一歩下がれば、彼女は二歩踏み込む。
ついに民家の壁に追い詰められて、○はグイッと身を寄せた。
「……○殿、近すぎる。離れなさい」
「ああ。旦那様の匂いがします」
「頼むから話を聞いてくれ……」
視界の端に入る○の顔は、困らせている自覚があるのかないのか、この上なく幸せそうに綻んでいる。
(……参った。この娘一人を遠ざける方法が分からん)
「そうそう、旦那様。鹿肉を分けて頂けたので、またご自宅にお持ちしますね。それから今日は、道場の師範が昼から来てほしいと仰っていました」
「…『旦那様』はやめてくれ」
顔を真っ赤にして嘆く趙雲の声が、静かな郷の朝に空白く響き渡る。
常山の郷を吹き抜ける風は、記憶にあるものよりもどこか冷たく感じられた。
あれから村の若者は戦場に駆り出された者も多いと聞いている。
実家の門を潜り、静まり返った奥の間へ進むと、そこには、かつて自分を厳しく、時に優しく導いてくれた兄の位牌が静かに鎮座していた。
趙雲は膝をつき、深く頭を垂れる。
香の煙が細く立ち上る。
しばらくの間、無言で手を合わせていた趙雲だったが、傍らで控えていた父がポツリと言葉を漏らした。
「子龍よ。お前が不在の間、この村も野盗の類に随分とかき乱されてな。兄も心労が絶えなんだ……」
趙雲の眉が険しく寄る。
乱世の火種は、この静かな農村にまで及んでいたのか。
しかし父は続けて柔和な笑みを浮かべた。
「だが一年ほど前か。一人の若い娘がこの村に流れてきてな。お前の槍の師範の元に身を寄せながら、独りで野盗どもを追い払ってくれているのだ。○というのだが…知り合いか?」
「?いえ、初めて聞く名です。公孫瓚殿の所で縁があったのでしょうか…」
「なんでも拳法の免許皆伝者だそうだ。お前のことを探して、遠く雁門郡から来たと言っていた。お前が公孫瓚軍にいると知って追いかけようとしていた様だが、この村の窮状を見かねてそのまま居着いて防衛を担ってくれている。今や村の者たちは、皆、彼女を頼りにしているのだ。…懐かしいな。雁門郡とは十数年前に共に行ったことがある」
趙雲は師範の道場へと向かった。
竹林に囲まれた道場からは声が聞こえてくる。
「師範、水を汲んできますね」
その声の後、戸が開く。
出てきたのは凛烈な気を纏った女性だった。
この村での見覚えはない。
しかし立ち姿を見ただけでも、彼女が父の言う女性だという事が分かった。
無駄のない体つき。
彼女は茫然と立ち尽くす趙雲を、真っ直ぐに見据えた。
「やっと会えた…!帰ってこられたのですね、子龍様!」
「…?」
趙雲は首をかしげる。
女性は満面の笑みで近づいてきた。
「○です!六歳の時に影踏み遊びをした!あなたのお嫁さんになる為に、修行を終えてきました!」
その言葉で趙雲は急激にあの日の事を思い出す。
○は、あの時と同じようににっこりと、けれど今度は大人の女の艶を帯びた笑みを浮かべた。
「約束…?嫁…?」
趙雲は、呆然としたままその場に立ち尽くした。
「ええ。六歳のあの日、私は子龍様に影を踏まれました。忘れたとは言わせませんよ?」
「それは…確かに遊んだ記憶はあるが、あれはただ遊びに付き合っただけで…」
困惑を隠せない趙雲の背後から、低く快活な笑い声が響いた。
道場の奥から姿を現したのは、趙雲の槍の師範である。
「なんだ。お前はこの子と影踏みをしたのか。どうりで」
「師範…お久しぶりです。あの…どういう意味でしょうか」
趙雲が向き直ると、師範は腕を組み、面白そうに髭を撫でた。
「○殿が育ったあの村には、古くからの慣習があるのだ。夕方から日が沈むまでの間に男女で影踏みで勝負し、負けた女は男の妻になる…。○殿から『影踏み』を誘われたのではないか?」
「…」
「女が己の生涯を預ける男を選ぶ『婿選びの儀式』だ。だからあの村の少女は幼いころから足を鍛えるのだ」
趙雲の背筋に冷や汗が流れた。
あの時、父が「遊んではいけない」と厳格に禁じた理由が、十二年越しに分かってくる。
「あ、あの時はただの遊びだと……!」
「娘側が誘い、男がそれに応じて影を踏んだ。その時点で、その村の法では契りは成ったも同然なのだ。お主が公孫瓚殿の元へ去った後も、この娘さんは十七で免許皆伝を受けるや否や、着の身着のままでお主を追ってここまで来たのだぞ」
趙雲は言葉を失い、改めて○を見た。
一年前、自分の不在を知りながらもこの村に留まり、野盗から村を守り続けてくれた女性。
彼女の十八年間のうち、実に十二年もの歳月が、あの日の約束に捧げられていたのだ。
「子龍様」
○が一歩、踏み込む。
その瞳には拳法家としての鋭さと、一途な女の熱が混在していた。
「私はもう子供ではありません。貴方が武家の方だと聞いていたので、村を出るために免許も皆伝し、貴方の背中を追えるまでになりました。共に戦場をかけることもできるように、戦にも出ました!お邪魔にはなりません!お嫁さんにしてください!」
「そ、その様な習わしがあったとは、露ほども知らなかったのだから無効だ」
天下の白馬義従として数多の戦場を駆けてきた趙雲が、今や一人の小娘を前にして、槍も持たずに後退りしていた。
しかし、○は逃がさない。
一歩、また一歩と間合いを詰める。
「でも、子龍様。今はもう、知ってしまいましたよね?」
目の力が凄い。
「……あ、いや。しかしだ。私は武に身を捧げる身。いつ戦場に散るかも分からぬ男だ。そのような大事な約束を、軽々と」
「軽々しくなんて思っていません!」
○は燃えるような真剣な眼差しを向ける。
「拳法師範の兄に厳しく言われていたんです。『武家の男について行くなら、自分の身くらい護れる様に…免許皆伝を授かるまで村を出てはならない』って。……だから私、必死で稽古しました。子龍様に追いつきたくて!隣に立っても恥ずかしくない女になりたくて、この十二年、一日も欠かさず!」
○の拳には、いくつもの小さなタコがあり、その肌は白く柔らかなだけの深窓の令嬢のものではない。
血の滲むような努力を積み重ねてきた武芸者の手だった。
あまりに真っ直ぐな想いの吐露に、趙雲は言葉を失った。
十二年前の影踏み。
あんな遊びが彼女の人生を決めてしまったというのか。
「子龍、そう固くなるな。まずは手合わせでもしてみろ」
師範が楽しげに二人の間に割って入った。
「身体を動かせば打ち解けよう」
「……そうですね。いいだろうか」
趙雲は箱に入った鍛錬用の木槍を取る。
○は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔を見せた。
「いいですよ、旦那様」
「だっ…誰が旦那だ」
二人は向かい合った。
趙雲の放つ木槍が○の肩口を狙う。
○はそれをしっかり目で捉えており、しなやかな身のこなしでかわすと、槍の柄を伝うようにして懐へ潜り込んできた。
趙雲は瞬時に石突で応戦しようとするが、○の動きはさらにその上をいく。
○が低く地を這うような掃腿から、一気に跳ね上がって趙雲の持つ訓練用の槍を真下から捉える。
趙雲の手から獲物が吹き飛んだ。
武器を失ったが、趙雲は即座に反応する。
彼は乱れた呼吸を整える間もなく、一歩踏み込んで○の動きを封じにかかった。
逃がすまいと腕を伸ばし、○の胴着の胸ぐらをぐいと掴み上げ引き寄せる。
(捕まえた…!)
すると○の動きがぴたりと止まった。
反撃が来るかと身構えていた趙雲だったが、彼女は抵抗するどころか掴まれたままの姿勢で、呆然と趙雲の顔を見つめている。
「……○殿?」
趙雲が訝しげに声をかける。
すると彼女の白い頬がカーッと朱色に染まっていく。
「……ああ、なんて……なんて素敵なの……」
「はぁ!?」
○の瞳は潤み、うっとりと夢を見るような表情で、自分を捕らえている趙雲の腕にそっと手を添えた。
「こんなに近くで、そんなに凛々しいお顔で見つめられたら……私、もう、お稽古なんてできません…ああ、好き…」
「な、何を、何を言っているんだ! 稽古の最中だろう!」
先ほどまでの鋭い武芸者の気配はどこへやら。
○は完全に「恋する乙女」の顔になる。
掴んでいた胸ぐらを慌てて突き放すように離す趙雲だが、○は趙雲の胸に体重をかけて倒れ掛かり離れない。
グイグイと凄い力で押してくる。
「子龍様のその真っ直ぐな瞳…。やっぱり、私の選んだお婿さんは大陸一です」
「師範! 師範、見ておいでですか! 稽古になりません、これは!剥がしてください!」
助けを求めて振り返る趙雲だったが、当の師範は道場の隅で心底楽しそうに笑っているだけだった。
落ち着いた○は、趙雲から離れてモジモジしている。
「子龍様のお顔は十二年前のままで止まっていましたから……。今のその、あまりに凛々しいお姿は、目の毒です」
上目遣いに、本気で顔を赤らめて呟く○。
趙雲は肩を落とす。
「まったく。私は至って真面目に稽古をしていたというのに」
「私だって真面目でしたよ。子龍様がいけなんです。あんな風に口説いて…」
「は?」
調子を狂わされ、趙雲は逃げるようにその日の稽古を切り上げた。
しかし彼女の視線を思い出す。
頬を染める直前まで○の瞳に宿っていたのは、間違いなく真剣な武人の光。
木槍を蹴飛ばされた瞬間の足運び、あれは生半可な修行で身につくものではない。
免許皆伝は本当の様だ。
その夜。
趙雲は膳を運んできた老僕に、ふと気になっていたことを尋ねた。
「……○殿のことだが。彼女は、この郷で本当にそれほどの手練れとして知られているのか?」
老僕は「おお、それはもう」と、待ってましたと言わんばかりに膝を打った。
「子龍様、お疑いですか? ○様がここへ来てすぐの頃、郷を荒らしに来た野盗の頭目がおりましてな。身の丈六尺はあろうかという大男でしたが、○様はそれをこう、首根っこを掴んで地面に叩きつけなすった。あの音といったら、地響きがしましたぞ」
「……あの細い体で、大男を?」
趙雲の脳裏に、先ほど自分の胸元に頭を預けてきた華奢な肩が浮かぶ。
平均的な女性の背格好だった。
「それだけではございませぬ。近隣の村々が集まって開かれる武芸大会では独壇場です。槍自慢も刀自慢も、彼女の拳一つに沈められておりますよ。…少々、武勇を振るっていらっしゃる間は気性が荒くなられる点だけが難点ですが」
趙雲は絶句した。
あの姿からは想像もつかない、猛者としての実績。
(あの村の『影踏み』の教え。そして、私を追うために積んだという十二年の研鑽。彼女は、本気なのだな)
単なる幼子の憧れではない。
一人の武人が、一人の男を追い求めて、血の滲むような日々を越えてきてしまった。
「……困ったことだ」
小さくため息をついた。
*****
「お断りする」
○と再会したあの日。
道場の縁側に引き留められた趙雲は、隣で熱心に将来の話を語る○に対し、断固とした声で告げた。
「えっ…どうしてですか? 私、花嫁修業も済ませています。お掃除もお料理も、それに野盗退治だって人一倍できます!」
落胆したように肩を落とす○。
だが趙雲は正面を見据えたまま、その眼差しを緩めない。
「○殿の才については疑うべくもない。しかしこの乱れた世では、昨日までの主が今日は刃を交える敵となる。明日をも知れぬ戦乱の中に私は身を置いているのだ。そのような身で妻を迎えるなど……到底、私にはできぬ。なにかあれば貴殿が人質になる事すらあるのだ。安易に貴殿の人生を背負うことは、誠実ではない」
「それは……もう、戦へ行ってしまうということですか?」
「…………」
趙雲は沈黙した。兄の喪に服すために戻った故郷だが、彼の心は依然として「義」を成すべき場所を求めている。
「二年は兄の喪に服すつもりだからここにいる。それにこの郷の周りには未だ野盗が蔓延っていると聞くしな」
趙雲は初めて、隣に座る○を真っ直ぐに見つめた。
「貴殿がこの一年、独りでこの地を守り抜いてくれたこと、心から尊敬している。……しばらくの間、私はこの村に留まる。だからこの地が真に落ち着くまで、"友として"共に防衛を担わせてはもらえないだろうか」
「一緒に戦ってくれるんですか?」
「あぁ。『夫』にはなれぬが、戦場を共にする『友』としてなら、貴殿の隣に立てる」
○は唇を噛み締め、それから大きく息を吐き出した。
「……わかりました。今は、それで我慢します」
そう頷いた。
はずなのに。
昨夜、あれほど厳かに、かつ誠実に「妻にはできない」と説いたはずだった。
趙雲は、自分の言葉が○の心に深く刻まれ、今日からは節度ある「友」としての距離が保たれるものと信じて疑わなかった。
なのに。
「おはようございます! 昨夜はよく眠れましたか?」
翌朝、井戸に水を汲みに来た趙雲に弾んだ声がかけられる。
振り返る間もなく、柔らかな体温が腕に触れる。
「うわ…っ!? ○殿! 昨夜の私の話を聞いていたのか!?距離を取れ!」
趙雲は飛び退くように距離を取ったが、○はちっとも堪えた様子がない。
それどころか小走りで距離を詰め、逃げる趙雲の袖をぎゅっと掴んだ。
「聞いていましたよ?でも、世が定まれば良いってことじゃないですか。昨日聞いた時はちょっと落ち込んだんですけど、私、とっても前向きに解釈することにしたんです!つまり、乱世が終わるまでついて行けばいいんですよね?」
「何をどう捻ればそうなる……!貴殿を不安定な私の境遇に縛り付けるわけにはいかないから、実家に帰りなさいと…」
「家出同然で飛び出してきたので戻れません!それにどんな境遇になっても大丈夫ですよ?私、こう見えてすごく頑丈なんです」
○は趙雲の説教を心地よい子守唄か何かのように聞き流しながら、じりじりと距離を詰める。
趙雲がたじろいで一歩下がれば、彼女は二歩踏み込む。
ついに民家の壁に追い詰められて、○はグイッと身を寄せた。
「……○殿、近すぎる。離れなさい」
「ああ。旦那様の匂いがします」
「頼むから話を聞いてくれ……」
視界の端に入る○の顔は、困らせている自覚があるのかないのか、この上なく幸せそうに綻んでいる。
(……参った。この娘一人を遠ざける方法が分からん)
「そうそう、旦那様。鹿肉を分けて頂けたので、またご自宅にお持ちしますね。それから今日は、道場の師範が昼から来てほしいと仰っていました」
「…『旦那様』はやめてくれ」
顔を真っ赤にして嘆く趙雲の声が、静かな郷の朝に空白く響き渡る。