江陵編【全5話】
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江陵に届く公安からの公文書。
その隅に添えられる諸葛亮からの伝聞や、事務的な軍報の中に、○が待ち望んでいる趙雲個人からの言葉は一文字もなかった。
○は関羽と、関平や関興と共に、届いた書簡や物資の整理をする。
(……やっぱり、今月も私宛てのものはない)
○は、関平が広げている書簡の束を覗き込んでは溜息をついた。
公安を離れてもう二月が過ぎる。
先月も勿論音沙汰ナシだった。
「子龍さまは、寂しくないのかしら……私がいない方が、静かで清々しているのかも」
しょんぼりと肩を落とす○に、隣で槍の手入れをしていた関平が、困ったように笑いかけた。
「寂しいと思うよ、本当は。もしかすると、そんなことを感じる暇もないくらいに今は奥方様に振り回されているのかもしれないが」
(…そうだった。私、孫尚香様に嫉妬して喧嘩した事になってるんだった。それでまだ怒ってるのかも…)
「私、孫尚香様が落ち着くまでここにいなきゃいけないって言われたんだけど。いつ帰れるのかも分からないし、このまま忘れられちゃったらどうしよう。戻ったら子龍様が侍女の誰かと恋人になってたり…」
「そんなに気になるなら、○から文を送ってみればいいのではないか?」
「逆効果じゃないかなぁ…。子龍様、きっと怒ってるもの。私から送ったら”まだ懲りないのか”って思われそう…」
不安を吐露する○の背後で、届いたばかりの書簡を読み終えた関羽が静かに口を開いた。
「案ずるな、○。お主ほどの武才と気立てがあれば、どこへ行こうと道は開ける」
関羽は流れるような髭を撫で、どこか楽しげに目を細めた。
「もし、あちらに戻れぬというのであれば、我が息子の平や興と江陵で夫婦になればよい。こちらとしては大歓迎だ。身体の強い子が生まれそうだ」
関平が飛び上がらんばかりに驚き、顔を真っ赤にする半面、関興は飄々とした顔でいる。
「お待ちください、父上!冗談が過ぎます!」
「俺は構わないけど」
そんな二人を見ながら、「またまたぁ」とヘラヘラ笑う○。
関羽は少し考えてから、公安に返すための書簡を仕上げた。
*****
数日後。
公安の詰め所にて、趙雲は江陵からの返信を受け取っていた。
そこには、関羽から趙雲への個人的な文が入っている。
『○殿、こちらの暮らしに馴染み、平や興とも睦まじく過ごしている。気立ての良く、武の筋の良い娘で、公安に戻れぬのなら我が関家の籍にほしいくらいだ』
それは、趙雲に遠慮している○を思っての事と、関羽なりの冗談だった。
「……趙雲殿、どうされました? 随分と顔が険しいようですが」
何も知らない諸葛亮が尋ねる。
「いえ…関羽殿からの個人的な文が入っており、内容が少々私には分かりかねましたもので」
そう言って立ち去った。
そんな公安の空気は、日を追うごとに刺々しさを増していた。
孫尚香は劉備が不在となったのをいいことに、我儘の限りを尽くしている。
ある日は「体がなまる」と言って趙雲を稽古相手に指名し、ある日は「退屈だ」と言って、趙雲を護衛に立たせて市場を一日中連れ回した。
趙雲の周囲には、常に武装した呉の侍女たちが群がっている。
彼女たちは、趙雲の端正な横顔を執拗に眺め、時にはからかうような言葉を投げかけるが、趙雲はそれらすべてを柳に風と受け流していた。
左右からひっきりなしに浴びせられる、甘い声と花の香り。
呉で趙雲に執着していた女官から趙雲の情報を聞いているのだろう、彼女と似たようなことを言ってくる者もいる。
○がいればややこしい事になっていた可能性を鑑みれば、江陵に追い出したのは正解だったのかもしれないと思った。
今日もそんな一日を過ごして自室に戻った趙雲は、甲冑を脱ぐ気力もないまま、机に突っ伏した。
かつては○が寝台に忍び込む気配に神経をすり減らしていたのが、もう何年も前の事の様だ。
趙雲は、ふと引き出しから一通の書簡を取り出した。
江陵の関羽から届いた、『○を関家の籍に入れたい』というあの知らせだ。
「……馬鹿馬鹿しい。関羽殿も、やることが子供じみていらっしゃる。○の影響ではないだろうな」
趙雲は吐き捨てた。
*****
○が江陵にきて三ヶ月。
男兄弟に挟まれて育った○は男所帯になれているのもあり、すっかり関羽親子の仲間入りをしていた。
○の一日は、まだ薄暗い時間に関興の寝所へ踏み込むことから始まる。
まずは起きるように声をかけて、部屋の窓を開ける。
朝が弱い関興はまだ起きないので、先にこうして声だけをかけて一旦部屋を出て行く。
次に関平。
彼はいつも先に起きているが、服をそこらに散らかす癖があるので、床に落ちている服を拾い集める。
そして関羽の元へ。
関羽の着替えを手伝い洗濯物を回収する。
最後は関興の部屋に戻る。
これでもまだ布団にしがみいている関興から布団を取り上げて起こす。
その後は女官に交じり洗濯をし、昼食の弁当を準備して関平達と鍛錬をして夜になる。
夜は○なりの趣味の時間にあてて、裁縫を楽しんでいた。
「よし、完成」
○の手元には不格好な小さな布人形。
お腹には”趙”と刺しゅうした。
ここに来て暇を見ては作っていたので、もう何体目か分からない趙雲人形だ。
関平や関興にあげようと思ったが、流石に趙雲を模した人形は「いらない」と言われてしまった。
「ああ…子龍様人形では、屁の突っ張りにもならない…さみしい…会いたい…会わせる顔がないけど…」
寝台に寝転ぶと、今日も疲れた…と目を閉じた。
*****
諸葛亮は、今月の江陵からの報告を見て息をついた。
関羽が明らかに趙雲に発破をかけている。
長坂での○の合流の経緯や、今までの趙雲への献身を知っている関羽。
さらに江陵で○の甲斐甲斐しさは重宝されているようで、どうしても肩入れしてしまうらしい。
定期連絡で関羽自身の身の回りのことなど書いて寄こしたことなどないのに、○が江陵に行ってからは彼女の事を思わせぶりに書いてくる。
趙雲はまだ○に怒っているのか…丸四か月○を放置している。
(見せてもいいものか)と諸葛亮は悩んでいたが、趙雲はすでにその書簡を手に取っていた。
『○殿、平や興をよく支え、我らの身支度も手伝い大変結構。武人にふさわしき食事にも通じ、世話になっている。○殿もこちらの生活に馴染んでおる故、もし趙雲が○を必要とせぬのなら、その旨聞かせてほしい』
その文言を読む趙雲の表情は読めない。
しかし諸葛亮は穏やかな声をかける。
「趙雲殿、少しお疲れの様ですね」
「そのような事は」
趙雲は読んだ書簡を畳むと棚に片付ける。
その背中に諸葛亮は続けた。
「毎日ここに缶詰めでは、あなたもお辛いかと。……どうでしょう、一度江陵へ、関羽殿への軍令を届けに走りませんか? 往復で数日。気晴らしにはなるでしょう」
「しかし…その間の夫人は」
「数日ならば、私と張飛殿で何とかしたします。貴女が行きたくないのなら、無理にとは申しません」
諸葛亮なりの、精一杯の「罪滅ぼし」の提案だった。
趙雲はしばらく動かずに背中を向けたままだったが、振り返ると深く頭を下げた。
「直ちに出立の準備をいたします」
「待ってください。届ける書簡の準備がまだです」
諸葛亮は苦笑した。
趙雲はそれでも準備をすると言って退室する。
(拗らせた大人は、扱いにくいものです)
早速書簡を準備する諸葛亮だった。
その隅に添えられる諸葛亮からの伝聞や、事務的な軍報の中に、○が待ち望んでいる趙雲個人からの言葉は一文字もなかった。
○は関羽と、関平や関興と共に、届いた書簡や物資の整理をする。
(……やっぱり、今月も私宛てのものはない)
○は、関平が広げている書簡の束を覗き込んでは溜息をついた。
公安を離れてもう二月が過ぎる。
先月も勿論音沙汰ナシだった。
「子龍さまは、寂しくないのかしら……私がいない方が、静かで清々しているのかも」
しょんぼりと肩を落とす○に、隣で槍の手入れをしていた関平が、困ったように笑いかけた。
「寂しいと思うよ、本当は。もしかすると、そんなことを感じる暇もないくらいに今は奥方様に振り回されているのかもしれないが」
(…そうだった。私、孫尚香様に嫉妬して喧嘩した事になってるんだった。それでまだ怒ってるのかも…)
「私、孫尚香様が落ち着くまでここにいなきゃいけないって言われたんだけど。いつ帰れるのかも分からないし、このまま忘れられちゃったらどうしよう。戻ったら子龍様が侍女の誰かと恋人になってたり…」
「そんなに気になるなら、○から文を送ってみればいいのではないか?」
「逆効果じゃないかなぁ…。子龍様、きっと怒ってるもの。私から送ったら”まだ懲りないのか”って思われそう…」
不安を吐露する○の背後で、届いたばかりの書簡を読み終えた関羽が静かに口を開いた。
「案ずるな、○。お主ほどの武才と気立てがあれば、どこへ行こうと道は開ける」
関羽は流れるような髭を撫で、どこか楽しげに目を細めた。
「もし、あちらに戻れぬというのであれば、我が息子の平や興と江陵で夫婦になればよい。こちらとしては大歓迎だ。身体の強い子が生まれそうだ」
関平が飛び上がらんばかりに驚き、顔を真っ赤にする半面、関興は飄々とした顔でいる。
「お待ちください、父上!冗談が過ぎます!」
「俺は構わないけど」
そんな二人を見ながら、「またまたぁ」とヘラヘラ笑う○。
関羽は少し考えてから、公安に返すための書簡を仕上げた。
*****
数日後。
公安の詰め所にて、趙雲は江陵からの返信を受け取っていた。
そこには、関羽から趙雲への個人的な文が入っている。
『○殿、こちらの暮らしに馴染み、平や興とも睦まじく過ごしている。気立ての良く、武の筋の良い娘で、公安に戻れぬのなら我が関家の籍にほしいくらいだ』
それは、趙雲に遠慮している○を思っての事と、関羽なりの冗談だった。
「……趙雲殿、どうされました? 随分と顔が険しいようですが」
何も知らない諸葛亮が尋ねる。
「いえ…関羽殿からの個人的な文が入っており、内容が少々私には分かりかねましたもので」
そう言って立ち去った。
そんな公安の空気は、日を追うごとに刺々しさを増していた。
孫尚香は劉備が不在となったのをいいことに、我儘の限りを尽くしている。
ある日は「体がなまる」と言って趙雲を稽古相手に指名し、ある日は「退屈だ」と言って、趙雲を護衛に立たせて市場を一日中連れ回した。
趙雲の周囲には、常に武装した呉の侍女たちが群がっている。
彼女たちは、趙雲の端正な横顔を執拗に眺め、時にはからかうような言葉を投げかけるが、趙雲はそれらすべてを柳に風と受け流していた。
左右からひっきりなしに浴びせられる、甘い声と花の香り。
呉で趙雲に執着していた女官から趙雲の情報を聞いているのだろう、彼女と似たようなことを言ってくる者もいる。
○がいればややこしい事になっていた可能性を鑑みれば、江陵に追い出したのは正解だったのかもしれないと思った。
今日もそんな一日を過ごして自室に戻った趙雲は、甲冑を脱ぐ気力もないまま、机に突っ伏した。
かつては○が寝台に忍び込む気配に神経をすり減らしていたのが、もう何年も前の事の様だ。
趙雲は、ふと引き出しから一通の書簡を取り出した。
江陵の関羽から届いた、『○を関家の籍に入れたい』というあの知らせだ。
「……馬鹿馬鹿しい。関羽殿も、やることが子供じみていらっしゃる。○の影響ではないだろうな」
趙雲は吐き捨てた。
*****
○が江陵にきて三ヶ月。
男兄弟に挟まれて育った○は男所帯になれているのもあり、すっかり関羽親子の仲間入りをしていた。
○の一日は、まだ薄暗い時間に関興の寝所へ踏み込むことから始まる。
まずは起きるように声をかけて、部屋の窓を開ける。
朝が弱い関興はまだ起きないので、先にこうして声だけをかけて一旦部屋を出て行く。
次に関平。
彼はいつも先に起きているが、服をそこらに散らかす癖があるので、床に落ちている服を拾い集める。
そして関羽の元へ。
関羽の着替えを手伝い洗濯物を回収する。
最後は関興の部屋に戻る。
これでもまだ布団にしがみいている関興から布団を取り上げて起こす。
その後は女官に交じり洗濯をし、昼食の弁当を準備して関平達と鍛錬をして夜になる。
夜は○なりの趣味の時間にあてて、裁縫を楽しんでいた。
「よし、完成」
○の手元には不格好な小さな布人形。
お腹には”趙”と刺しゅうした。
ここに来て暇を見ては作っていたので、もう何体目か分からない趙雲人形だ。
関平や関興にあげようと思ったが、流石に趙雲を模した人形は「いらない」と言われてしまった。
「ああ…子龍様人形では、屁の突っ張りにもならない…さみしい…会いたい…会わせる顔がないけど…」
寝台に寝転ぶと、今日も疲れた…と目を閉じた。
*****
諸葛亮は、今月の江陵からの報告を見て息をついた。
関羽が明らかに趙雲に発破をかけている。
長坂での○の合流の経緯や、今までの趙雲への献身を知っている関羽。
さらに江陵で○の甲斐甲斐しさは重宝されているようで、どうしても肩入れしてしまうらしい。
定期連絡で関羽自身の身の回りのことなど書いて寄こしたことなどないのに、○が江陵に行ってからは彼女の事を思わせぶりに書いてくる。
趙雲はまだ○に怒っているのか…丸四か月○を放置している。
(見せてもいいものか)と諸葛亮は悩んでいたが、趙雲はすでにその書簡を手に取っていた。
『○殿、平や興をよく支え、我らの身支度も手伝い大変結構。武人にふさわしき食事にも通じ、世話になっている。○殿もこちらの生活に馴染んでおる故、もし趙雲が○を必要とせぬのなら、その旨聞かせてほしい』
その文言を読む趙雲の表情は読めない。
しかし諸葛亮は穏やかな声をかける。
「趙雲殿、少しお疲れの様ですね」
「そのような事は」
趙雲は読んだ書簡を畳むと棚に片付ける。
その背中に諸葛亮は続けた。
「毎日ここに缶詰めでは、あなたもお辛いかと。……どうでしょう、一度江陵へ、関羽殿への軍令を届けに走りませんか? 往復で数日。気晴らしにはなるでしょう」
「しかし…その間の夫人は」
「数日ならば、私と張飛殿で何とかしたします。貴女が行きたくないのなら、無理にとは申しません」
諸葛亮なりの、精一杯の「罪滅ぼし」の提案だった。
趙雲はしばらく動かずに背中を向けたままだったが、振り返ると深く頭を下げた。
「直ちに出立の準備をいたします」
「待ってください。届ける書簡の準備がまだです」
諸葛亮は苦笑した。
趙雲はそれでも準備をすると言って退室する。
(拗らせた大人は、扱いにくいものです)
早速書簡を準備する諸葛亮だった。