公安編【全4話】
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※孫尚香の性格は史実寄りにしています。
孫尚香を迎えてからの公安での新生活は、趙雲にとって戦場とはまた別の意味での修羅場となった。
劉備が呉から迎えた孫尚香は、その美貌以上に、あまりに苛烈な気性で知られていた。
彼女が連れてきた百余人の女官たちは常に武装し、邸内では剣戟の音が絶えない。
劉備に”なにかあれば趙雲に”と言われていたのもあり、気まぐれに趙雲を呼びつけては城下に出ていた。
要人である孫尚香は、劉備が信頼を置く趙雲に託されたようなものだ。
しかし彼女やその侍女達の傍若無人な振る舞いは、劉備軍の諸将を悩ませていた。
今日も城内の決められた立場の者しか武装してはいけない場所で、彼女たちは平気で剣を持ち鍛錬を行う。
蜀の文官たちが顔を青くして通り過ぎる中、○は回廊の柱の陰から、じっとその様子を伺っていた。
(陸遜殿に聞いた話では、もう少し”快活”な雰囲気だったのに…あれでは”暴れん坊”だわ。わざわざあんな所でやる必要だってないのに。挑発って事…?)
孫尚香は劉備軍の法を意に介さない。
劉備がどれほど宥めても、彼女は「呉ではこれが当たり前です」と、不敵な笑みを浮かべて剣を振るうばかりだった。
そして規律を重んじ劉備を尊重する趙雲にとって、この状況は看過できるものではない。
いつも彼女たちをどう制すればいいのか思案しており、近頃はギスギスしている。
剣を振るう孫尚香達の元に、やはり趙雲が現れた。
彼の視線は鋭く、孫尚香の女官たちがたむろする一画へ向けられる。
「奥方様。ここは武装したままの徘徊は許可なき将にも許されぬ場所。即刻、武装を解かれますよう」
趙雲の鋭い言葉にも、気の強い彼女は意に介さない。
「まあ!驚いた。劉備様ですら黙認されていることを、一介の将軍が指図するのかしら?」
一触即発の空気が流れる。
○の後ろにはいつの間にか立っていた周倉がおり、彼も青い顔をしていた。
「趙雲殿にあんないい方されて言い返すたあ、とんだじゃじゃ馬だ」
「…なんだか、凄い方ですね」
結局、趙雲はその場を一歩も引かなかった。
睨み合った結果、孫尚香が苛立ち混じりに奥へ引き上げた後も、彼はその場に立ち、孫尚香達が戻ってこない様に見張っていた。
夕刻。
○と周倉が廊下で立ち話をしていると、やっと先ほどの場所を離れた趙雲が歩いてきた。
○は側に駆け寄り趙雲の隣を歩く。
「奥方様の件、お疲れ様でした」
「……見ていたのか。騒がしい思いをさせたな」
「ええ…随分とお伺いしていた印象と違う方で、思わず見入ってしまって。なんだか…」
そこまで言って口をつぐんだ○に、趙雲はわずかに視線を落とした。
「劉備殿への報告がある。先に夕餉でもとって休みなさい」
趙雲はそのまま、○を残して足早に去っていく。
その後ろ姿を見送った○に周倉が近づく。
「大分、お疲れだな」
「ね」
それだけ言った○は、孫尚香の離れを見る。
「孫尚香様、意地もあるのでしょうね」
「は?」
「だって。聞いた話では急遽二つ返事でこちらに来られたのでしょう?心の準備もなく」
「らしいな」
「ご自身のここでの立場を、明確にしたいんじゃないかなって」
あの陸遜がなんの躊躇もなく”快活な姫様”と言っていた様子を見るに、本来はあんな感じではないのかもしれないと思ったのだ。
周倉も何か思う所はある様で、大きくため息をついた。
*****
孫尚香が公安に腰を落ち着けて二カ月が過ぎた。
それでも彼女の横暴ぶりは留まるところを知らず、城内は常に呉の女官たちの軍靴の音と、劉備の困り果てた溜息に包まれていた。
事態が動いたのは、劉備が益州に向かう事が決まった時だ。
劉備は孫尚香周りを含めた公安の全てを、趙雲に任せて出て行った。
関羽は今やここより馬で二日の江陵におり、張飛では喧嘩になりかねない。
きちんと孫尚香と距離を取れる趙雲の抜擢は、消去法でもあった。
孫尚香は相変わらず自分の従者の様に趙雲を呼びつけるし、最近では侍女たちをけしかけて趙雲をからかったりしている。
○はそれを腹ただしげに見ていたが、ここで彼を邪魔するわけにはいかないし、流石に相手が孫尚香ともなれば、我慢するしかない。
ここ二カ月、趙雲は朝から晩まで孫尚香の傍に控えていた。
いつ何時、無茶を言い出すか分からない彼女に根気強く対応している。
そんなある日、趙雲は呉から嫁いできた孫尚香の心細さを察し、ある心遣いを見せた。
趙雲は密かに、呉の風土に近い味を再現させた菓子を取り寄せたのだ。
故郷を離れて半年近く。
殺伐とした空気の中で過ごす孫尚香の気が少しでも和らげばという、彼なりの配慮だった。
○はそれを陰から見守っていた。
孫尚香が少しでも頬を綻ばせることがあれば、趙雲に教えてあげたいと思ったからだ。
しかし、折悪しく孫尚香の機嫌は最悪だった。
女官が趙雲からの菓子を離れに持っていき差し出した瞬間、彼女はそれを激しく跳ね除けた。
「……劉備様から贈られたものならともかく、他の男がこんな小細工で私の機嫌を取れると思っているの?」
陶器の器が砕ける音と共に、色鮮やかな菓子が庭の土の上に散らばる。
静まり返る庭園。
流石の女官も息をのむのが分かる。
孫尚香も一瞬、ハッとしたように目を見開いた。
地面に落ちた菓子を見つめる彼女の瞳に、隠しきれない後悔と、言いようのない寂寥感がよぎる。
しかし、すぐに表情を取り繕い、背を向けて奥へと消えていった。
○は孫尚香が完全に去るのを待って庭へと降りて、土にまみれた菓子を懐紙に拾う。
それは趙雲が忙しい職務の合間を縫って手配したもの。
こんな所に散らばっているのを、誰にも見せたくなかった。
すると背後から鋭い声が飛んだ。
「……何をしているの。そんな汚れたものを拾って。食べる気?」
何故か戻ってきた孫尚香。
彼女の言葉は棘を含んでいたが、その声はどこか震えているようにも聞こえた。
その手には漆塗りの箱がある。
(もしかして、孫尚香様も拾いに…?)
○は慌てて残りの菓子を拾って立ち上がると、手元で懐紙を閉じる。
(ど、どうしよう…孫尚香様と話しちゃいけないと言われているのに)
「なに?話せないの?…ああ、話してはいけないと言われてるのかしら。いいわ、私が許可するから好きに話してみて。こんな安物の菓子で私の機嫌を取ろうなんて、おこがましいと思わない?…年の近い子の意見が聞きたいわ」
まるで”肯定しなさい”とでもいう様な表情。
迷った○だが、趙雲の誠実さを踏みにじられた怒りが突き動かす。
「……こ、こんな事をなさってはいけません」
○の声は静かだが、毅然としていた。
「し、…趙将軍は奥方様の寂しさを少しでも埋められればと、こちらを取り寄せていらっしゃいました、から……」
「なっ……! 無礼な!一介の兵が私を諭すつもり?」
「そんな…め、滅相もございません…」
孫尚香の頬が怒りで赤く染まる。
持っていた漆の箱を投げつけられた。
受け止める事も出来たが、それはさらに彼女を怒らせる気がして少し身体を逸らす。
○の肩にゴン、と漆の箱が当たる。
鈍い音に孫尚香が少し怯んだが、怒りの治めどころがなく顔を真っ赤にしている。
○は自分に当たって落ちたその箱を拾い、孫尚香の足元に置いて返す。
「……菓子は、私が下げておきます」
「さっさと下がりなさい!」
そこでやっと周囲が二人の諍いに気付いた。
「何事だ」
趙雲の声に、○は慌てて菓子を隠した。
その場の空気が一瞬で凍りつく。
孫尚香は都合が悪そうに顔を背ける。
「その子、不快だわ。早く下げて」
原因を問う間もなく、一方的にそう言うと足早に奥へと引き上げてしまった。
詰め所へと連れ戻された○を待っていたのは、かつてないほどに険しい表情の趙雲だった。
彼は部屋の扉を閉めると、机を叩くような勢いで○に向き直った。
「……○。何があった。あの御方には近づくなと言ったはずだ。主君の奥方に失礼な態度を取り、あのような大喧嘩を演じるとは…」
趙雲の声は低く、○が聞いた事もない程に怒っているのが分かる。
それも当然だと思った。
自分の行動は、趙雲の顔に泥を塗ったのだから。
趙雲はハッと目を見張る。
「まさか、孫尚香殿にまでいつもの…嫉妬をしたのではないだろうな」
問い詰めるような視線が痛いほど突き刺さる。
これも日頃の行いからくるものだ。
とはいえ、あそこであったことを趙雲に言うつもりもなかった。
”好きに話せ”と言われたからと、孫尚香を否定する様な言葉を言ったのは事実。
何を言っても言い訳にしかならず、趙雲からすれば余計に見苦しく映るだろうと思った。
趙雲の顔に泥を塗った事を償えるのであれば、罰を受け入れようと覚悟する。
趙雲は、○の沈黙を肯定と受け取らざるを得ず、深い溜息と共に視線を外す。
「まさかお前が、ここまで愚かだとは思わなかった」
「……」
「……これ以上の釈明がないのであれば、軍師殿の裁定に従うほかない。今日は私もまだ任務がある。自室にて謹慎しなさい。諸葛亮殿が明日の朝一番に、部屋に来るようにとのことだ。しばらく行動制限がかかるかもしれん」
「……はい。申し訳ありませんでした」
いつになく大人しく、顔を上げない○は、のろのろと立ち上がると背中を向けた。
しかし今の趙雲には、この状況でも嫉妬して孫尚香と喧嘩をする彼女にかける言葉は見つからなかった。
一方で諸葛亮は、趙雲が来るよりも前から、庭での騒動を静かに見守っていた。
○の言い分は理解できたものの、ここ公安は呉との危うい均衡の上に成り立つ場所。
孫尚香が許可したとはいえ、主君の妻である彼女に真正面から言い返す行為は、一歩間違えれば外交問題に発展しかねない。
さらに○は趙雲に釈明をしなかったと聞く。
諸葛亮は決断を下した。
*****
翌朝、諸葛亮は○を呼び出した。
その表情にはいつもの柔和な微笑みはなく、政を司る者としての厳格さが漂っている。
「○殿。昨日の騒ぎ…実は私は、最初から見ていたのです」
「そ、そうですか…」
「あなたの気持ちもわかりますが、良くない事だという事は分かっていますね」
「はい」
○は俯くしかない。
「孫尚香殿は昨日の件を趙雲殿にも言うつもりはないようです。ですから原因を彼は知りませんし、今は知る必要がないと私は考えています。昨日彼に問いただされ、貴方も何も話さなかったと報告が来ています。つまり、貴方も言う必要はないと考えている…ということで宜しいですか」
「…そう、です」
「殊勝な心掛けです。今、趙雲殿と孫尚香殿の間でこれ以上の亀裂は避けたい所ですから」
諸葛亮は少し満足げに微笑む。
「趙雲殿は今、極めて困難かつ大切な任務に就いているのです。元々彼はこの国の主力であり、殿が最も信頼を寄せる武人。あなたは”妻”を自称するのであれば、それをしっかり理解し、支えなくてはなりません」
諸葛亮は一歩、○に近づいた。
「現に彼が孫尚香殿の傍に控えているおかげで、気性の荒い呉の侍従たちも最近では比較的大人しく、あの奔放な侍女たちでさえ趙雲殿の前では節度を保ち始めているのです。彼がいることで、公安の平穏が守られている。……その重圧を、あなたは考えたことがありますか?」
○は叱られた犬の様に諸葛亮を上目遣いで見上げる。
「とはいえ、私としても彼女の態度を鑑みて、貴方を公安で軟禁状態にするというのはいささか不憫に思います。そこで、江陵へ向かって頂きたいのです」
「江陵ですか…」
確か、関羽が関興達と守っている場所だ。
「ちょうど江陵を守る関羽殿の元へ、関平殿が任務補佐に向かうことになっています。○殿、あなたもしばらくの間、関平殿に同行し、江陵へ向かいなさい。出発は本日の昼です」
それは事実上の、公安からの追放、あるいは隔離であった。
○は愕然とした。
江陵に行けば、趙雲の側を離れることになる。
片道、馬を走らせて丸一日…慣れない道なら二日かかる距離だ。
「あの…どのくらいの期間でしょう」
「孫尚香殿が落ち着かれるまでです。江陵はここと違い、穏やかな空気だと聞きますよ」
諸葛亮は静かに答える。
「趙雲殿には私から伝えておきます。……孫尚香殿とこれ以上の衝突を避けることは、趙雲殿の立場を守ることにも繋がるのです。なにも側で支えるだけが全てではありません」
趙雲の名前を出され、○は反論の言葉を失った。
自分がここに居続けることが、今の彼の重荷になる。
その事実は、どんな叱責よりも○の胸に突き刺さった。
「……はい。承知いたしました。準備をいたします」
○は諸葛亮の部屋を退室すると、重い足取りで荷造りに向かった。
*****
昼頃。
出立の準備を整えた○は、城門へと向かった。
趙雲に一目だけでも会いたかったが、彼は今、孫尚香の離れの警護についており、持ち場を離れることは許されない。
門の前には、馬を引き連れた関平が待っていた。
「○、行きましょう。父上も興も、あなたが来れば喜ぶ!」
関平の気遣いに、○は力なく頷くことしかできなかった。
*****
趙雲が○の江陵への出立を知ったのは夕刻だった。
「江陵へ、ですか」
「はい。流石に彼女を軟禁状態にするというのも、可哀そうに思いましてね。武人であるのに腕が鈍るのもいただけません」
「しかし…一言ご相談いただいても良かったのでは」
「何故です。彼女は保護者が必要な年齢ではありませんし、ましてや…あなたはご家族でもない。本人が了承したのですから」
そう言われては何も言い返せず、趙雲は黙り込んだ。
ただ窓の外、○が向かったであろう東の空を見据えた。
公安を離れ、江陵へと続く道を馬に揺られながら、○の心は沈みきっていた。
隣を行く関平が「江陵の活気は凄いぞ」「父上もきっと歓迎してくださる」と努めて明るく声をかけるが、○の返事は力なく、視線は常に馬のたてがみに落ちたままだった。
脳裏を離れるのは、最後に交わした趙雲の冷徹な言葉と、孫尚香との喧嘩の光景ばかりだ。
(子龍様、怒ってたな…私がヤキモチ妬いて喧嘩したと思ってるから。呆れられたかな…)
小さな呟きは風に流され、二日後、一行は関羽が守護する江陵へと到着した。
孫尚香を迎えてからの公安での新生活は、趙雲にとって戦場とはまた別の意味での修羅場となった。
劉備が呉から迎えた孫尚香は、その美貌以上に、あまりに苛烈な気性で知られていた。
彼女が連れてきた百余人の女官たちは常に武装し、邸内では剣戟の音が絶えない。
劉備に”なにかあれば趙雲に”と言われていたのもあり、気まぐれに趙雲を呼びつけては城下に出ていた。
要人である孫尚香は、劉備が信頼を置く趙雲に託されたようなものだ。
しかし彼女やその侍女達の傍若無人な振る舞いは、劉備軍の諸将を悩ませていた。
今日も城内の決められた立場の者しか武装してはいけない場所で、彼女たちは平気で剣を持ち鍛錬を行う。
蜀の文官たちが顔を青くして通り過ぎる中、○は回廊の柱の陰から、じっとその様子を伺っていた。
(陸遜殿に聞いた話では、もう少し”快活”な雰囲気だったのに…あれでは”暴れん坊”だわ。わざわざあんな所でやる必要だってないのに。挑発って事…?)
孫尚香は劉備軍の法を意に介さない。
劉備がどれほど宥めても、彼女は「呉ではこれが当たり前です」と、不敵な笑みを浮かべて剣を振るうばかりだった。
そして規律を重んじ劉備を尊重する趙雲にとって、この状況は看過できるものではない。
いつも彼女たちをどう制すればいいのか思案しており、近頃はギスギスしている。
剣を振るう孫尚香達の元に、やはり趙雲が現れた。
彼の視線は鋭く、孫尚香の女官たちがたむろする一画へ向けられる。
「奥方様。ここは武装したままの徘徊は許可なき将にも許されぬ場所。即刻、武装を解かれますよう」
趙雲の鋭い言葉にも、気の強い彼女は意に介さない。
「まあ!驚いた。劉備様ですら黙認されていることを、一介の将軍が指図するのかしら?」
一触即発の空気が流れる。
○の後ろにはいつの間にか立っていた周倉がおり、彼も青い顔をしていた。
「趙雲殿にあんないい方されて言い返すたあ、とんだじゃじゃ馬だ」
「…なんだか、凄い方ですね」
結局、趙雲はその場を一歩も引かなかった。
睨み合った結果、孫尚香が苛立ち混じりに奥へ引き上げた後も、彼はその場に立ち、孫尚香達が戻ってこない様に見張っていた。
夕刻。
○と周倉が廊下で立ち話をしていると、やっと先ほどの場所を離れた趙雲が歩いてきた。
○は側に駆け寄り趙雲の隣を歩く。
「奥方様の件、お疲れ様でした」
「……見ていたのか。騒がしい思いをさせたな」
「ええ…随分とお伺いしていた印象と違う方で、思わず見入ってしまって。なんだか…」
そこまで言って口をつぐんだ○に、趙雲はわずかに視線を落とした。
「劉備殿への報告がある。先に夕餉でもとって休みなさい」
趙雲はそのまま、○を残して足早に去っていく。
その後ろ姿を見送った○に周倉が近づく。
「大分、お疲れだな」
「ね」
それだけ言った○は、孫尚香の離れを見る。
「孫尚香様、意地もあるのでしょうね」
「は?」
「だって。聞いた話では急遽二つ返事でこちらに来られたのでしょう?心の準備もなく」
「らしいな」
「ご自身のここでの立場を、明確にしたいんじゃないかなって」
あの陸遜がなんの躊躇もなく”快活な姫様”と言っていた様子を見るに、本来はあんな感じではないのかもしれないと思ったのだ。
周倉も何か思う所はある様で、大きくため息をついた。
*****
孫尚香が公安に腰を落ち着けて二カ月が過ぎた。
それでも彼女の横暴ぶりは留まるところを知らず、城内は常に呉の女官たちの軍靴の音と、劉備の困り果てた溜息に包まれていた。
事態が動いたのは、劉備が益州に向かう事が決まった時だ。
劉備は孫尚香周りを含めた公安の全てを、趙雲に任せて出て行った。
関羽は今やここより馬で二日の江陵におり、張飛では喧嘩になりかねない。
きちんと孫尚香と距離を取れる趙雲の抜擢は、消去法でもあった。
孫尚香は相変わらず自分の従者の様に趙雲を呼びつけるし、最近では侍女たちをけしかけて趙雲をからかったりしている。
○はそれを腹ただしげに見ていたが、ここで彼を邪魔するわけにはいかないし、流石に相手が孫尚香ともなれば、我慢するしかない。
ここ二カ月、趙雲は朝から晩まで孫尚香の傍に控えていた。
いつ何時、無茶を言い出すか分からない彼女に根気強く対応している。
そんなある日、趙雲は呉から嫁いできた孫尚香の心細さを察し、ある心遣いを見せた。
趙雲は密かに、呉の風土に近い味を再現させた菓子を取り寄せたのだ。
故郷を離れて半年近く。
殺伐とした空気の中で過ごす孫尚香の気が少しでも和らげばという、彼なりの配慮だった。
○はそれを陰から見守っていた。
孫尚香が少しでも頬を綻ばせることがあれば、趙雲に教えてあげたいと思ったからだ。
しかし、折悪しく孫尚香の機嫌は最悪だった。
女官が趙雲からの菓子を離れに持っていき差し出した瞬間、彼女はそれを激しく跳ね除けた。
「……劉備様から贈られたものならともかく、他の男がこんな小細工で私の機嫌を取れると思っているの?」
陶器の器が砕ける音と共に、色鮮やかな菓子が庭の土の上に散らばる。
静まり返る庭園。
流石の女官も息をのむのが分かる。
孫尚香も一瞬、ハッとしたように目を見開いた。
地面に落ちた菓子を見つめる彼女の瞳に、隠しきれない後悔と、言いようのない寂寥感がよぎる。
しかし、すぐに表情を取り繕い、背を向けて奥へと消えていった。
○は孫尚香が完全に去るのを待って庭へと降りて、土にまみれた菓子を懐紙に拾う。
それは趙雲が忙しい職務の合間を縫って手配したもの。
こんな所に散らばっているのを、誰にも見せたくなかった。
すると背後から鋭い声が飛んだ。
「……何をしているの。そんな汚れたものを拾って。食べる気?」
何故か戻ってきた孫尚香。
彼女の言葉は棘を含んでいたが、その声はどこか震えているようにも聞こえた。
その手には漆塗りの箱がある。
(もしかして、孫尚香様も拾いに…?)
○は慌てて残りの菓子を拾って立ち上がると、手元で懐紙を閉じる。
(ど、どうしよう…孫尚香様と話しちゃいけないと言われているのに)
「なに?話せないの?…ああ、話してはいけないと言われてるのかしら。いいわ、私が許可するから好きに話してみて。こんな安物の菓子で私の機嫌を取ろうなんて、おこがましいと思わない?…年の近い子の意見が聞きたいわ」
まるで”肯定しなさい”とでもいう様な表情。
迷った○だが、趙雲の誠実さを踏みにじられた怒りが突き動かす。
「……こ、こんな事をなさってはいけません」
○の声は静かだが、毅然としていた。
「し、…趙将軍は奥方様の寂しさを少しでも埋められればと、こちらを取り寄せていらっしゃいました、から……」
「なっ……! 無礼な!一介の兵が私を諭すつもり?」
「そんな…め、滅相もございません…」
孫尚香の頬が怒りで赤く染まる。
持っていた漆の箱を投げつけられた。
受け止める事も出来たが、それはさらに彼女を怒らせる気がして少し身体を逸らす。
○の肩にゴン、と漆の箱が当たる。
鈍い音に孫尚香が少し怯んだが、怒りの治めどころがなく顔を真っ赤にしている。
○は自分に当たって落ちたその箱を拾い、孫尚香の足元に置いて返す。
「……菓子は、私が下げておきます」
「さっさと下がりなさい!」
そこでやっと周囲が二人の諍いに気付いた。
「何事だ」
趙雲の声に、○は慌てて菓子を隠した。
その場の空気が一瞬で凍りつく。
孫尚香は都合が悪そうに顔を背ける。
「その子、不快だわ。早く下げて」
原因を問う間もなく、一方的にそう言うと足早に奥へと引き上げてしまった。
詰め所へと連れ戻された○を待っていたのは、かつてないほどに険しい表情の趙雲だった。
彼は部屋の扉を閉めると、机を叩くような勢いで○に向き直った。
「……○。何があった。あの御方には近づくなと言ったはずだ。主君の奥方に失礼な態度を取り、あのような大喧嘩を演じるとは…」
趙雲の声は低く、○が聞いた事もない程に怒っているのが分かる。
それも当然だと思った。
自分の行動は、趙雲の顔に泥を塗ったのだから。
趙雲はハッと目を見張る。
「まさか、孫尚香殿にまでいつもの…嫉妬をしたのではないだろうな」
問い詰めるような視線が痛いほど突き刺さる。
これも日頃の行いからくるものだ。
とはいえ、あそこであったことを趙雲に言うつもりもなかった。
”好きに話せ”と言われたからと、孫尚香を否定する様な言葉を言ったのは事実。
何を言っても言い訳にしかならず、趙雲からすれば余計に見苦しく映るだろうと思った。
趙雲の顔に泥を塗った事を償えるのであれば、罰を受け入れようと覚悟する。
趙雲は、○の沈黙を肯定と受け取らざるを得ず、深い溜息と共に視線を外す。
「まさかお前が、ここまで愚かだとは思わなかった」
「……」
「……これ以上の釈明がないのであれば、軍師殿の裁定に従うほかない。今日は私もまだ任務がある。自室にて謹慎しなさい。諸葛亮殿が明日の朝一番に、部屋に来るようにとのことだ。しばらく行動制限がかかるかもしれん」
「……はい。申し訳ありませんでした」
いつになく大人しく、顔を上げない○は、のろのろと立ち上がると背中を向けた。
しかし今の趙雲には、この状況でも嫉妬して孫尚香と喧嘩をする彼女にかける言葉は見つからなかった。
一方で諸葛亮は、趙雲が来るよりも前から、庭での騒動を静かに見守っていた。
○の言い分は理解できたものの、ここ公安は呉との危うい均衡の上に成り立つ場所。
孫尚香が許可したとはいえ、主君の妻である彼女に真正面から言い返す行為は、一歩間違えれば外交問題に発展しかねない。
さらに○は趙雲に釈明をしなかったと聞く。
諸葛亮は決断を下した。
*****
翌朝、諸葛亮は○を呼び出した。
その表情にはいつもの柔和な微笑みはなく、政を司る者としての厳格さが漂っている。
「○殿。昨日の騒ぎ…実は私は、最初から見ていたのです」
「そ、そうですか…」
「あなたの気持ちもわかりますが、良くない事だという事は分かっていますね」
「はい」
○は俯くしかない。
「孫尚香殿は昨日の件を趙雲殿にも言うつもりはないようです。ですから原因を彼は知りませんし、今は知る必要がないと私は考えています。昨日彼に問いただされ、貴方も何も話さなかったと報告が来ています。つまり、貴方も言う必要はないと考えている…ということで宜しいですか」
「…そう、です」
「殊勝な心掛けです。今、趙雲殿と孫尚香殿の間でこれ以上の亀裂は避けたい所ですから」
諸葛亮は少し満足げに微笑む。
「趙雲殿は今、極めて困難かつ大切な任務に就いているのです。元々彼はこの国の主力であり、殿が最も信頼を寄せる武人。あなたは”妻”を自称するのであれば、それをしっかり理解し、支えなくてはなりません」
諸葛亮は一歩、○に近づいた。
「現に彼が孫尚香殿の傍に控えているおかげで、気性の荒い呉の侍従たちも最近では比較的大人しく、あの奔放な侍女たちでさえ趙雲殿の前では節度を保ち始めているのです。彼がいることで、公安の平穏が守られている。……その重圧を、あなたは考えたことがありますか?」
○は叱られた犬の様に諸葛亮を上目遣いで見上げる。
「とはいえ、私としても彼女の態度を鑑みて、貴方を公安で軟禁状態にするというのはいささか不憫に思います。そこで、江陵へ向かって頂きたいのです」
「江陵ですか…」
確か、関羽が関興達と守っている場所だ。
「ちょうど江陵を守る関羽殿の元へ、関平殿が任務補佐に向かうことになっています。○殿、あなたもしばらくの間、関平殿に同行し、江陵へ向かいなさい。出発は本日の昼です」
それは事実上の、公安からの追放、あるいは隔離であった。
○は愕然とした。
江陵に行けば、趙雲の側を離れることになる。
片道、馬を走らせて丸一日…慣れない道なら二日かかる距離だ。
「あの…どのくらいの期間でしょう」
「孫尚香殿が落ち着かれるまでです。江陵はここと違い、穏やかな空気だと聞きますよ」
諸葛亮は静かに答える。
「趙雲殿には私から伝えておきます。……孫尚香殿とこれ以上の衝突を避けることは、趙雲殿の立場を守ることにも繋がるのです。なにも側で支えるだけが全てではありません」
趙雲の名前を出され、○は反論の言葉を失った。
自分がここに居続けることが、今の彼の重荷になる。
その事実は、どんな叱責よりも○の胸に突き刺さった。
「……はい。承知いたしました。準備をいたします」
○は諸葛亮の部屋を退室すると、重い足取りで荷造りに向かった。
*****
昼頃。
出立の準備を整えた○は、城門へと向かった。
趙雲に一目だけでも会いたかったが、彼は今、孫尚香の離れの警護についており、持ち場を離れることは許されない。
門の前には、馬を引き連れた関平が待っていた。
「○、行きましょう。父上も興も、あなたが来れば喜ぶ!」
関平の気遣いに、○は力なく頷くことしかできなかった。
*****
趙雲が○の江陵への出立を知ったのは夕刻だった。
「江陵へ、ですか」
「はい。流石に彼女を軟禁状態にするというのも、可哀そうに思いましてね。武人であるのに腕が鈍るのもいただけません」
「しかし…一言ご相談いただいても良かったのでは」
「何故です。彼女は保護者が必要な年齢ではありませんし、ましてや…あなたはご家族でもない。本人が了承したのですから」
そう言われては何も言い返せず、趙雲は黙り込んだ。
ただ窓の外、○が向かったであろう東の空を見据えた。
公安を離れ、江陵へと続く道を馬に揺られながら、○の心は沈みきっていた。
隣を行く関平が「江陵の活気は凄いぞ」「父上もきっと歓迎してくださる」と努めて明るく声をかけるが、○の返事は力なく、視線は常に馬のたてがみに落ちたままだった。
脳裏を離れるのは、最後に交わした趙雲の冷徹な言葉と、孫尚香との喧嘩の光景ばかりだ。
(子龍様、怒ってたな…私がヤキモチ妬いて喧嘩したと思ってるから。呆れられたかな…)
小さな呟きは風に流され、二日後、一行は関羽が守護する江陵へと到着した。