公安編【全4話】
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桂陽を離れると趙雲との時間は減ってしまう。
それでもいざ公安に戻るとなれば、それなりに楽しみになる○。
趙雲の執務室で荷造りをしながら、○は鼻歌交じりに話す。
「まあ、子龍様と二人きりの時間は惜しいですけど…公安に戻れば星彩や月英様もいらっしゃるし…楽しみですね。お土産買っておかないと」
その明るい声を聞きながら、趙雲は一人、複雑な胸中で筆を動かしていた。
彼にとって「公安に戻る」ということは、単なる場所の移動ではなく、○の様な気軽さはない。
中央に戻った後の趙雲の任務は、劉備の直近での護衛。
それは名誉ある職務だが、同時に一日の大半を主君の傍らで過ごし、軍律と礼節の鎖に縛られることを意味する。
今のように政務の合間に○と軽口を叩き合い、同じ食卓を囲む…
そんな「一人の男」としての自由は、公安の門を潜った瞬間に失われる。
「○。……公安に帰るのがそんなに楽しみか」
「え? ええ、まあ、賑やかなのも楽しいですし…子龍様だって、劉備様にお会いしたいでしょう?」
「……主君にお仕えするのは本望だ。だがこんな生活を知ってしまうと気を負ってしまってな」
○は荷造りの手を止める。
「ははーん。さては子龍様、寂しいんですね。私のこと、うるさいとか鬱陶しいとか言っておいて」
「そんな事は言っていない」
勝ち誇ったように笑う○を、一瞥する趙雲。
「私は寂しいですよ。だけど、私と子龍様はこの先も何十年と一緒にいるんですから!その内、今よりももっとゆっくり一緒にいられる日が来ますよ」
ニコニコしながらそう言った○に趙雲は黙り込む。
「それに劉備様が天下を取ってくださったら、子龍様も流石に第一線を引かれるんじゃないですか?そしたら私か子龍様の村に帰りましょう」
「何を言う。そうなっても私は劉備殿の傍を離れない」
「はははっ、ですよねぇ」
笑いながら荷造りを再開した○の背中に、趙雲はフンと鼻を鳴らした。
*****
数日後。
ついに趙雲達一行は、活気に満ちた公安の城門をくぐった。
桂陽の静かな時間とは打って変わり、耳に飛び込んでくるのは兵たちの訓練の声と、見知った仲間たちの騒がしい足音。
「お帰りなさい、趙雲殿。○も、元気そうでよかった。予定よりも遅かったのね」
真っ先に姿を見せたのは、凛とした佇まいの星彩。
その隣には安堵の表情を浮かべた関平が控えている。
この期間は多方面で太守を担っていた将が集まり始めていて、城の中はざわついていた。
劉備への報告を終えた頃には、すっかり日が沈んでいた。
ようやく安堵の溜息をついて部屋を出た趙雲と○の前に、穏やかな微笑みを湛えた女性が現れる。
「お久しぶりです。○さん、今宵は一緒にお食事でもいかがですか? 帰ってこられると聞いて、楽しみにお待ちしておりました」
月英だ。
○はパッと顔を輝かせた。
桂陽では趙雲と二人きりで、それはそれで幸せだったが、やはり気心の知れた月英との女性同士の付き合いも捨てがたい。
○はチラリと趙雲を見た。
月英はクスクスと笑い、それから彼女も趙雲を見つめる。
「趙雲殿。○さんを少しばかりお借りしてもよろしいでしょうか? 私の夫も今夜は公務で遅くなりますし、女同士、ゆっくりと羽を伸ばしたいと思いまして」
「無論です。私の許可などなくとも、いくらでも」
そう言った趙雲に月英は微笑むと、○の腕を取った。
「では、行ってきます!子龍様、また明日。しっかり寝てくださいね」
手を振り去っていく○。
その手には、あの日贈った腕輪がついていた。
”また明日”という言葉がなんだか懐かしい。
今夜、月英から「桂陽で何があったのか」を根掘り葉掘り聞かれるであろう○への心配を胸に、自室へと向かった。
趙雲は、一人静かに寝台へと横たわった。
(……ようやく安眠できる)
心の中で、自分自身に言い聞かせるように呟く。
桂陽ではいつ隣室の○が侵入してくるか分からず冷や冷やしていた。
なにかにつけて”桂陽でしかできませんよ”と言っては無茶を言う○。
天井を見つめ、趙雲は深く息を吐く。
これこそが”自分らしい”夜だと思った。
規律正しく、静かに、一日を思い出しながら明日の為に眠る。
しかし。
「…………」
ふと、右手のひらに意識が向く。
未だに残る、寝ぼけて○の胸をがっしりと掴んでしまった、あの時の感触。
隣の部屋で寝ていてもドスンと寝台から落ちる夜中の騒音。
(……静かすぎるな)
趙雲は寝返りを打つ。
(元からこんなものだ。ただ、……慣れとは恐ろしい)
しかし気になる事が一つ。
(……○は月英殿と何を話すんだ。……いらぬことを言っていなければいいが…また余計な事を吹き込まれても困る)
男女の事に関しては、何故か月英や周倉から聞いた事を鵜吞みにする○が気にかかった。
色々気にはなったが、今は出来ることはないので、目を閉じ、無理やり眠りについた。
その頃、○は月英の部屋にいた。
月英は、好奇心を隠すことなく身を乗り出す。
「……さて、○さん。積もる話というのは、もちろん『戦果』のことです。趙雲殿とは、どこまで進展を……?」
「いいえ、特には」
「では、情熱的な愛の言葉などは?」
「いいえ、全く」
「では、その……身体は、許したのですか?」
「いいえ、とんでもない!」
相変わらずニコニコしながらそう言う○に、月英はガクッと肩を落とし、深いため息をついた。
「……むしろ一体、二人きりで二カ月間、何をしていたのですか……。趙雲殿の自制心は、鉄門より硬いようですね」
「ふふ、そうですね。あ、でも、こちらを頂きました」
○は腕の装飾品を見せる。
少し武骨な作りながらも美しいそれ。
「まあ…あの趙雲殿が女性に贈り物ですか」
「”好き”とは言ってくれませんけど…いいんです。私が子龍様の事を愛していて、それを否定されないなら」
「なるほど……。ならば、趙雲殿にはこちらでの生活の方が、より刺激的でよろしいでしょう。公安には誘惑も、邪魔者も、そして『競合相手』も掃いて捨てるほどいますから」
「競合相手……?」
「ええ。○さんはあまり気にされていませんが、生物は命の危機を感じるほどに本能的に”子を残す”事に意識が行くものなのです。その為に、愛する者を探します。この様な乱世であればなおの事。…わが軍は女性が少ないのですから、○さんもお気を付けください」
月英の予言めいた言葉に、○は首を傾げた。
「”も”というと、月英さんは危機にさらされたことがおありですか?」
「……は?」
「諸葛亮殿がお忙しく公務に当たられている間に、月英さんに言い寄る殿方もいる…と捉えてもいいのでしょうか」
「…妙に鋭いのですね」
「ちなみに私、言い寄られた事なんてありません。星彩はよく恋文を貰うそうですが、そう言ったものも一切ないのです。ですから考えた事もなかったのですが…それを心配するという事は」
○の期待を込めたまなざしに月英は狼狽えた。
「誰にも言いませんから、教えてください!」
その夜は月英にとっても心臓に良くない夜になった。
それでもいざ公安に戻るとなれば、それなりに楽しみになる○。
趙雲の執務室で荷造りをしながら、○は鼻歌交じりに話す。
「まあ、子龍様と二人きりの時間は惜しいですけど…公安に戻れば星彩や月英様もいらっしゃるし…楽しみですね。お土産買っておかないと」
その明るい声を聞きながら、趙雲は一人、複雑な胸中で筆を動かしていた。
彼にとって「公安に戻る」ということは、単なる場所の移動ではなく、○の様な気軽さはない。
中央に戻った後の趙雲の任務は、劉備の直近での護衛。
それは名誉ある職務だが、同時に一日の大半を主君の傍らで過ごし、軍律と礼節の鎖に縛られることを意味する。
今のように政務の合間に○と軽口を叩き合い、同じ食卓を囲む…
そんな「一人の男」としての自由は、公安の門を潜った瞬間に失われる。
「○。……公安に帰るのがそんなに楽しみか」
「え? ええ、まあ、賑やかなのも楽しいですし…子龍様だって、劉備様にお会いしたいでしょう?」
「……主君にお仕えするのは本望だ。だがこんな生活を知ってしまうと気を負ってしまってな」
○は荷造りの手を止める。
「ははーん。さては子龍様、寂しいんですね。私のこと、うるさいとか鬱陶しいとか言っておいて」
「そんな事は言っていない」
勝ち誇ったように笑う○を、一瞥する趙雲。
「私は寂しいですよ。だけど、私と子龍様はこの先も何十年と一緒にいるんですから!その内、今よりももっとゆっくり一緒にいられる日が来ますよ」
ニコニコしながらそう言った○に趙雲は黙り込む。
「それに劉備様が天下を取ってくださったら、子龍様も流石に第一線を引かれるんじゃないですか?そしたら私か子龍様の村に帰りましょう」
「何を言う。そうなっても私は劉備殿の傍を離れない」
「はははっ、ですよねぇ」
笑いながら荷造りを再開した○の背中に、趙雲はフンと鼻を鳴らした。
*****
数日後。
ついに趙雲達一行は、活気に満ちた公安の城門をくぐった。
桂陽の静かな時間とは打って変わり、耳に飛び込んでくるのは兵たちの訓練の声と、見知った仲間たちの騒がしい足音。
「お帰りなさい、趙雲殿。○も、元気そうでよかった。予定よりも遅かったのね」
真っ先に姿を見せたのは、凛とした佇まいの星彩。
その隣には安堵の表情を浮かべた関平が控えている。
この期間は多方面で太守を担っていた将が集まり始めていて、城の中はざわついていた。
劉備への報告を終えた頃には、すっかり日が沈んでいた。
ようやく安堵の溜息をついて部屋を出た趙雲と○の前に、穏やかな微笑みを湛えた女性が現れる。
「お久しぶりです。○さん、今宵は一緒にお食事でもいかがですか? 帰ってこられると聞いて、楽しみにお待ちしておりました」
月英だ。
○はパッと顔を輝かせた。
桂陽では趙雲と二人きりで、それはそれで幸せだったが、やはり気心の知れた月英との女性同士の付き合いも捨てがたい。
○はチラリと趙雲を見た。
月英はクスクスと笑い、それから彼女も趙雲を見つめる。
「趙雲殿。○さんを少しばかりお借りしてもよろしいでしょうか? 私の夫も今夜は公務で遅くなりますし、女同士、ゆっくりと羽を伸ばしたいと思いまして」
「無論です。私の許可などなくとも、いくらでも」
そう言った趙雲に月英は微笑むと、○の腕を取った。
「では、行ってきます!子龍様、また明日。しっかり寝てくださいね」
手を振り去っていく○。
その手には、あの日贈った腕輪がついていた。
”また明日”という言葉がなんだか懐かしい。
今夜、月英から「桂陽で何があったのか」を根掘り葉掘り聞かれるであろう○への心配を胸に、自室へと向かった。
趙雲は、一人静かに寝台へと横たわった。
(……ようやく安眠できる)
心の中で、自分自身に言い聞かせるように呟く。
桂陽ではいつ隣室の○が侵入してくるか分からず冷や冷やしていた。
なにかにつけて”桂陽でしかできませんよ”と言っては無茶を言う○。
天井を見つめ、趙雲は深く息を吐く。
これこそが”自分らしい”夜だと思った。
規律正しく、静かに、一日を思い出しながら明日の為に眠る。
しかし。
「…………」
ふと、右手のひらに意識が向く。
未だに残る、寝ぼけて○の胸をがっしりと掴んでしまった、あの時の感触。
隣の部屋で寝ていてもドスンと寝台から落ちる夜中の騒音。
(……静かすぎるな)
趙雲は寝返りを打つ。
(元からこんなものだ。ただ、……慣れとは恐ろしい)
しかし気になる事が一つ。
(……○は月英殿と何を話すんだ。……いらぬことを言っていなければいいが…また余計な事を吹き込まれても困る)
男女の事に関しては、何故か月英や周倉から聞いた事を鵜吞みにする○が気にかかった。
色々気にはなったが、今は出来ることはないので、目を閉じ、無理やり眠りについた。
その頃、○は月英の部屋にいた。
月英は、好奇心を隠すことなく身を乗り出す。
「……さて、○さん。積もる話というのは、もちろん『戦果』のことです。趙雲殿とは、どこまで進展を……?」
「いいえ、特には」
「では、情熱的な愛の言葉などは?」
「いいえ、全く」
「では、その……身体は、許したのですか?」
「いいえ、とんでもない!」
相変わらずニコニコしながらそう言う○に、月英はガクッと肩を落とし、深いため息をついた。
「……むしろ一体、二人きりで二カ月間、何をしていたのですか……。趙雲殿の自制心は、鉄門より硬いようですね」
「ふふ、そうですね。あ、でも、こちらを頂きました」
○は腕の装飾品を見せる。
少し武骨な作りながらも美しいそれ。
「まあ…あの趙雲殿が女性に贈り物ですか」
「”好き”とは言ってくれませんけど…いいんです。私が子龍様の事を愛していて、それを否定されないなら」
「なるほど……。ならば、趙雲殿にはこちらでの生活の方が、より刺激的でよろしいでしょう。公安には誘惑も、邪魔者も、そして『競合相手』も掃いて捨てるほどいますから」
「競合相手……?」
「ええ。○さんはあまり気にされていませんが、生物は命の危機を感じるほどに本能的に”子を残す”事に意識が行くものなのです。その為に、愛する者を探します。この様な乱世であればなおの事。…わが軍は女性が少ないのですから、○さんもお気を付けください」
月英の予言めいた言葉に、○は首を傾げた。
「”も”というと、月英さんは危機にさらされたことがおありですか?」
「……は?」
「諸葛亮殿がお忙しく公務に当たられている間に、月英さんに言い寄る殿方もいる…と捉えてもいいのでしょうか」
「…妙に鋭いのですね」
「ちなみに私、言い寄られた事なんてありません。星彩はよく恋文を貰うそうですが、そう言ったものも一切ないのです。ですから考えた事もなかったのですが…それを心配するという事は」
○の期待を込めたまなざしに月英は狼狽えた。
「誰にも言いませんから、教えてください!」
その夜は月英にとっても心臓に良くない夜になった。