桂陽編【全4話】
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趙雲が桂陽の太守として過ごしてから二月が経った。
○は野党退治や盗賊の根城の根絶に精を出し、趙雲は城で事務全般を行っていた。
この生活にも慣れてきた頃。
諸葛亮からの書状が届いた。
『趙雲殿と○殿は中央である公安に帰還せよ』
いつもなら即座に荷造りを始めるはずの趙雲だが、この時ばかりは書状を持ったまま沈黙した。
「なんて書いてあったんですか?」
「諸葛亮殿だ。中央へ戻れとの命だ」
「えぇっ、もう戻るんですか?」
○は残念そうに言った。
中央に戻れば、そこには主君・劉備がいて、軍師がいて、関羽や張飛といった猛将たちが勢揃いしている。
元々がその生活だったので元に戻るだけだが、一度こうして暮らしてしまうとなんだか窮屈に感じてしまうのは否めない。
「半月後に、ここを出る」
「今すぐでなくていいんですか?」
「後任もまだ到着していない。後任が来たらそこから引き継ぎもあるからそのくらいはかかるだろう」
言いながら書簡を丸める趙雲に、○は「あと半月かぁ」と寂しそうに言った。
*****
一週間後。
「子龍様、今日、市が出るみたいですよ!出かけませんか?もうすぐ中央に戻らなきゃいけませんし」
先日到着した後任の太守に引き継ぎをする為の書き物をしていた趙雲は、腕を引っ張る○に目配せする。
「……今日の業務が終わってからなら、考えてもいい」
趙雲のその言葉が終わるか終わらないかのうちに、○は「準備して待ってます!」と弾んだ声を残して部屋を飛び出していった。
バタンと扉が閉まり、再び静寂が戻った執務室で、趙雲は深く、長い溜息をつく。
手元にあるのは山積みの報告書。
本来なら一刻も早く片付けて中央へ戻り、主君の力になるべき身。
しかし。
(中央に戻れば……また、あの喧騒が始まるのか)
屈強な男たちの熱気が渦巻く戦場。
軍議の席では関羽や張飛の怒号が飛び交い、外交の場となれば同盟国である呉の若手たちが平然と出入りするだろう。
特に、○に妙な執着を見せる陸遜や、何やら距離の近い関興。
さらに、趙雲自身も「軍を代表する美丈夫」として、本人の意思とは無関係に女官や文官の娘たちの噂の的になるだろう。
そのたびに○が目を吊り上げて割って入る。
それに比べれば、この桂陽はどうだろう。
趙範の姑息な策はあったが、それを退けた今、まるで常山の村にいた頃の様な空気で暮らせている。
○も(相変わらず乱暴者ではあるが)穏やかで、趙雲が一人でどこかに行くのも目くじらを立てずに送り出す。
(ここは平和だ)
趙雲は筆を置き、窓の外を眺める。
自分がここでこうして過ごしている事すら、本来ならおかしなことだ。
人生の長期休暇なのかもしれない。
趙雲は自分でも驚くほど、その残り少ない時間を愛おしく感じていた。
自分が文官であったなら、こうして日々を過ごせたのだろうか。
そんな事を考えた所で仕方のない事なのに。
仕事を終え、平服に着替えた趙雲が○の部屋に行くと、待ちくたびれた様子の○が待っていた。
城を出ると、○はニコニコと微笑みながら趙雲の顔を覗き込み、顔色を伺いながら指を絡ませその手を握る。
特に文句を言わない趙雲に満足した様に、○はつないだ手を振った。
「○。あまり目立つ事はするな。太守だと気づかれたらどうする」
「いいじゃないですか、もうすぐお別れなんですから」
賑やかな夜市の喧騒の中、○はあっちの屋台、こっちの小物屋と、趙雲の手を引く。
中央では、常に「趙子龍」としての威厳を求められる。
劉備の護衛につくことも多い彼は、背筋を伸ばし、一分の隙もなく主君に仕える日々。
しかし今、この桂陽の雑踏の中では、ただ○に振り回されて街を歩く一人の男でいられる。
故郷の村にいた頃は、○が十八という事もあり異様に若く見えたのもあって必要以上に距離を置いていた。
あの時は二年も一緒にいたのに桂陽での二カ月の方が濃厚な気がする。
「お嬢さん、見て行かないかい?」
ふと露天商に声をかけられた○。
そこにはこの辺り特有の、瑞々しい翡翠を使った髪飾りや胸飾り、耳飾りなどの装飾品が並んでいた。
「この石、この辺りの特産品なんですよ。ここから北には売ってません」
「へぇ…綺麗ですね。でも、髪留めってすぐなくしてしまうんですよね」
○は呼び止められたから何となく見ていただけだったのに、趙雲が横から手を伸ばす。
「こちらの方がよさそうだ」
趙雲が指し示したのは、乳白色の白い石に、小さな赤い花が彫り込まれたものが付いた、少し厚みのある腕輪だった。
「お前は動き回るし、武器も使わない。これならおいそれと壊れぬし、いつでも身に着けていられるだろう」
そう言ってそれを手に取ると、驚くほど優しい手つきで○の腕に当てた。
趙雲は店主に支払いを済ませて○の腕にそれをつけてくれる。
「白は私を…赤はお前を思わせるな」
満足そうに頷いてそう言う趙雲に、○は頬を赤くした。
「ありがとうございます…!子龍様に…初めて贈り物を頂きました!とても素敵なお言葉まで…!私、一生忘れません!」
あまりの感激のしかたに趙雲は視線を逸らす。
○に言われて、今更自分が恥ずかしい事を言ったと気づいた。
「ここでの暮らしは…私の人生の長期休暇の様なものだと思ったのだ。この先、こんなにゆっくりできる事などないかもしれない。中央に戻っても、ここでこうしてお前と過ごした事を忘れないようにという………ただの記念の品だ」
市を抜けて、静かな川面に月が映る橋の上に差し掛かった時。
○は不意に立ち止まり、目を見開いて熱い目で趙雲を見つめた。
「子龍様。私のこと、好きですか?」
「……は?」
あまりに唐突な問いに、百戦錬磨の勇将も、気の抜けたような声を上げる。
「好 き で す か ? 私の事」
○は一歩踏み込み、念を押すように問いかけた。
趙雲は視線を泳がせ、喉を一度鳴らしてから、絞り出すように答える。
「……もうしばらくここに居たいと……思える程度には」
「だから、それってどういうことですか?それじゃ意味が広すぎます」
○はなおも迫るが、趙雲は無視して川を見下ろし、何故か急に魚を探し始めてしまった。
「ねえ、ねえ」と言いながら趙雲の袖を掴んで引っ張る○。
趙雲は小さくため息をついた。
「いいか、○。中央に行ったら、節度を守るように。これから劉備殿はさらに勢力を拡げられ、私にも将軍としての体裁を守る必要がある。公衆の面前で、この様に馴れ馴れしくするのは……」
趙雲はいつもの”説教”を装い、話を逸らそうとした。
川の中を覗き込むように橋の欄干に肘をついている趙雲。
○はそんな彼の言葉を黙って見つめて聞いていたが、趙雲が息を継いだその、一瞬の隙。
背伸びをした○の唇が、趙雲の頬に、柔らかな音を立てて触れた。
「ぅわっ!?」
趙雲は雷に打たれたように身体を起こし、信じられない物を見る様な目で○を見る。
○は構わず趙雲に抱き着く。
「私は、大好きです」
そう言った○に、趙雲は小さく肩を震わせながら息をつくと「お前に一生勝てる気がしない」と呟いた。
○は野党退治や盗賊の根城の根絶に精を出し、趙雲は城で事務全般を行っていた。
この生活にも慣れてきた頃。
諸葛亮からの書状が届いた。
『趙雲殿と○殿は中央である公安に帰還せよ』
いつもなら即座に荷造りを始めるはずの趙雲だが、この時ばかりは書状を持ったまま沈黙した。
「なんて書いてあったんですか?」
「諸葛亮殿だ。中央へ戻れとの命だ」
「えぇっ、もう戻るんですか?」
○は残念そうに言った。
中央に戻れば、そこには主君・劉備がいて、軍師がいて、関羽や張飛といった猛将たちが勢揃いしている。
元々がその生活だったので元に戻るだけだが、一度こうして暮らしてしまうとなんだか窮屈に感じてしまうのは否めない。
「半月後に、ここを出る」
「今すぐでなくていいんですか?」
「後任もまだ到着していない。後任が来たらそこから引き継ぎもあるからそのくらいはかかるだろう」
言いながら書簡を丸める趙雲に、○は「あと半月かぁ」と寂しそうに言った。
*****
一週間後。
「子龍様、今日、市が出るみたいですよ!出かけませんか?もうすぐ中央に戻らなきゃいけませんし」
先日到着した後任の太守に引き継ぎをする為の書き物をしていた趙雲は、腕を引っ張る○に目配せする。
「……今日の業務が終わってからなら、考えてもいい」
趙雲のその言葉が終わるか終わらないかのうちに、○は「準備して待ってます!」と弾んだ声を残して部屋を飛び出していった。
バタンと扉が閉まり、再び静寂が戻った執務室で、趙雲は深く、長い溜息をつく。
手元にあるのは山積みの報告書。
本来なら一刻も早く片付けて中央へ戻り、主君の力になるべき身。
しかし。
(中央に戻れば……また、あの喧騒が始まるのか)
屈強な男たちの熱気が渦巻く戦場。
軍議の席では関羽や張飛の怒号が飛び交い、外交の場となれば同盟国である呉の若手たちが平然と出入りするだろう。
特に、○に妙な執着を見せる陸遜や、何やら距離の近い関興。
さらに、趙雲自身も「軍を代表する美丈夫」として、本人の意思とは無関係に女官や文官の娘たちの噂の的になるだろう。
そのたびに○が目を吊り上げて割って入る。
それに比べれば、この桂陽はどうだろう。
趙範の姑息な策はあったが、それを退けた今、まるで常山の村にいた頃の様な空気で暮らせている。
○も(相変わらず乱暴者ではあるが)穏やかで、趙雲が一人でどこかに行くのも目くじらを立てずに送り出す。
(ここは平和だ)
趙雲は筆を置き、窓の外を眺める。
自分がここでこうして過ごしている事すら、本来ならおかしなことだ。
人生の長期休暇なのかもしれない。
趙雲は自分でも驚くほど、その残り少ない時間を愛おしく感じていた。
自分が文官であったなら、こうして日々を過ごせたのだろうか。
そんな事を考えた所で仕方のない事なのに。
仕事を終え、平服に着替えた趙雲が○の部屋に行くと、待ちくたびれた様子の○が待っていた。
城を出ると、○はニコニコと微笑みながら趙雲の顔を覗き込み、顔色を伺いながら指を絡ませその手を握る。
特に文句を言わない趙雲に満足した様に、○はつないだ手を振った。
「○。あまり目立つ事はするな。太守だと気づかれたらどうする」
「いいじゃないですか、もうすぐお別れなんですから」
賑やかな夜市の喧騒の中、○はあっちの屋台、こっちの小物屋と、趙雲の手を引く。
中央では、常に「趙子龍」としての威厳を求められる。
劉備の護衛につくことも多い彼は、背筋を伸ばし、一分の隙もなく主君に仕える日々。
しかし今、この桂陽の雑踏の中では、ただ○に振り回されて街を歩く一人の男でいられる。
故郷の村にいた頃は、○が十八という事もあり異様に若く見えたのもあって必要以上に距離を置いていた。
あの時は二年も一緒にいたのに桂陽での二カ月の方が濃厚な気がする。
「お嬢さん、見て行かないかい?」
ふと露天商に声をかけられた○。
そこにはこの辺り特有の、瑞々しい翡翠を使った髪飾りや胸飾り、耳飾りなどの装飾品が並んでいた。
「この石、この辺りの特産品なんですよ。ここから北には売ってません」
「へぇ…綺麗ですね。でも、髪留めってすぐなくしてしまうんですよね」
○は呼び止められたから何となく見ていただけだったのに、趙雲が横から手を伸ばす。
「こちらの方がよさそうだ」
趙雲が指し示したのは、乳白色の白い石に、小さな赤い花が彫り込まれたものが付いた、少し厚みのある腕輪だった。
「お前は動き回るし、武器も使わない。これならおいそれと壊れぬし、いつでも身に着けていられるだろう」
そう言ってそれを手に取ると、驚くほど優しい手つきで○の腕に当てた。
趙雲は店主に支払いを済ませて○の腕にそれをつけてくれる。
「白は私を…赤はお前を思わせるな」
満足そうに頷いてそう言う趙雲に、○は頬を赤くした。
「ありがとうございます…!子龍様に…初めて贈り物を頂きました!とても素敵なお言葉まで…!私、一生忘れません!」
あまりの感激のしかたに趙雲は視線を逸らす。
○に言われて、今更自分が恥ずかしい事を言ったと気づいた。
「ここでの暮らしは…私の人生の長期休暇の様なものだと思ったのだ。この先、こんなにゆっくりできる事などないかもしれない。中央に戻っても、ここでこうしてお前と過ごした事を忘れないようにという………ただの記念の品だ」
市を抜けて、静かな川面に月が映る橋の上に差し掛かった時。
○は不意に立ち止まり、目を見開いて熱い目で趙雲を見つめた。
「子龍様。私のこと、好きですか?」
「……は?」
あまりに唐突な問いに、百戦錬磨の勇将も、気の抜けたような声を上げる。
「好 き で す か ? 私の事」
○は一歩踏み込み、念を押すように問いかけた。
趙雲は視線を泳がせ、喉を一度鳴らしてから、絞り出すように答える。
「……もうしばらくここに居たいと……思える程度には」
「だから、それってどういうことですか?それじゃ意味が広すぎます」
○はなおも迫るが、趙雲は無視して川を見下ろし、何故か急に魚を探し始めてしまった。
「ねえ、ねえ」と言いながら趙雲の袖を掴んで引っ張る○。
趙雲は小さくため息をついた。
「いいか、○。中央に行ったら、節度を守るように。これから劉備殿はさらに勢力を拡げられ、私にも将軍としての体裁を守る必要がある。公衆の面前で、この様に馴れ馴れしくするのは……」
趙雲はいつもの”説教”を装い、話を逸らそうとした。
川の中を覗き込むように橋の欄干に肘をついている趙雲。
○はそんな彼の言葉を黙って見つめて聞いていたが、趙雲が息を継いだその、一瞬の隙。
背伸びをした○の唇が、趙雲の頬に、柔らかな音を立てて触れた。
「ぅわっ!?」
趙雲は雷に打たれたように身体を起こし、信じられない物を見る様な目で○を見る。
○は構わず趙雲に抱き着く。
「私は、大好きです」
そう言った○に、趙雲は小さく肩を震わせながら息をつくと「お前に一生勝てる気がしない」と呟いた。