桂陽編【全4話】
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ついに美女・樊氏がやってきた。
趙範に連れられて現れた彼女は、白磁のような肌に、憂いを帯びた瞳、そして柳のようにしなやかな立ち居振る舞い。
一歩歩くたびに芳しい香りが漂うような、まさに非の打ち所がない佳人だった。
○は、廊下の影から息を潜めてその様子を盗み見る。
(凄い美人…)
呉の女官も美人だったが、また違う系統の美人だ。
応接の間では、趙範がこれ見よがしに趙雲へ話しかけた。
「将軍、こちらが義姉の樊氏にございます。将軍のお噂を聞き、ぜひ一目お会いしたいと、心を込めて贈り物を持参いたしました」
「樊氏にございます。お初にお目にかかります、趙将軍」
透き通った声は同じ女性の○ですらウットリしてしまう。
しかし趙雲は、”趙範の兄嫁”という立場の女性とは、○がいようがいまいがどうこうなるつもりはないといつになくハッキリ断っていた。
色々引っかかる所はあるが、一方の趙雲を伺うと、見たことがない位の無表情だった。
彼は樊氏が差し出した見事な刺繍の品にも、彼女の熱っぽい視線にも、一切動じる気配がない。
しかしふと○を見ると、少し顔を振って”出て行くように”と合図を出す。
その真剣な表情に、○はすごすごと部屋を出て行く。
(そうだ!お茶のお代わりをお持ちしよう!それでさりげなく話が聞こえる距離に入れる!)
そう思いつくと台所に走って行った。
○が部屋を出て行ったのを確認した趙雲は、趙範たちに向き直る。
「贈り物、痛み入ります。しかし昨日も申し上げた通り、私は一介の武辺者。今はこのような地位におりますが、じきに戦場に戻る身です。このような高価な品は分に過ぎます。お持ち帰りいただきたい」
「そんな! 義姉が精魂込めて縫い上げたものにございますぞ!」
「礼節を欠くつもりはないが、私は今、君主のために桂陽の統治に全精力を注がなくてはなりません」
「しかしここに残るは数少ない手勢のみ…色々不自由もありましょう」
「……私には、すでにこの身を案じてくれる者がおります。以後、この話は二度となさらぬようお願いします」
趙範は、趙雲のあまりに冷淡な拒絶に狼狽する。
彼としても、なにも本当に趙雲の身を案じて兄嫁を紹介しているわけではない。
趙雲と兄嫁が関係を持てば、自分の立場も高くなる。
そんな目論見のもとの提案であるため、この話は受けてほしい。
趙範は趙雲に追い出されて応接の間を出ると、歩きながら原因を探る。
すると前からお茶を持って歩いてくる○。
「あら、もうお帰りですか?お茶のお代わりをお持ちしましたのに」
そう言って笑いかける○に見覚えがある趙範。
劉備が帰順の為に城に来た際、後ろに控えた趙雲の側にいた女性だと思い出す。
女官すらほとんどいない劉備軍に、武装した女性など珍しいと思い覚えていたのだ。
女官すら自軍から出せず、元から仕えていた者を採用するほど女手がないのに、こんな所に置いて行った○の身の上を怪しんだ。
(なるほど、この娘か)と察した趙範は数日後、政務中の趙雲の元を再び訪れた。
「趙将軍、実は折り入ってご相談が。近隣の村にて織物を生産しているのですが、その成果の報告に不備があり、現地の調査が必要なのです。……つきましては、こちらの○殿に、ぜひ調査に出て頂きたい」
趙雲は不審そうに目を細める。
「何故、○をご存じなのです。ご紹介しましたか?」
「先日、帰り際に廊下でお会いしました」
「……あやつは武辺者です。文官の仕事は向かぬかと」
不審そうな趙雲に、趙範は首を横に振る。
「いえいえ!村は織物を生産しているだけあって女性の働き手がほとんどです。女性が向かわれる方が何かと円滑かと」
なおも眉間のしわをなくさない趙雲。
「数日…いや、十日もあれば片付く仕事です。あの方がこの城でなさっている仕事は、我が方から代わりを出します」
「……十日、ですか」
趙範の「画策」が、まるで見え透いている。
○を遠ざけ、その隙に樊氏を送り込もうという浅はかな計略なのだろう。
○がこの城でやっている仕事は”野盗退治”だというのに、女性だから”趙雲の世話”だと思っている様だ。
「○殿は引き受けてくださいましたよ」
その言葉に趙雲は顔を上げる。
「先日廊下でお会いした際、軽く提案してみたのです。ご本人は通常のお仕事と変わらず引き受けてくださいました。このような仕事、趙将軍の信頼される方にしかお任せできませんから。なに、危険はありません。明日、お迎えにあがります」
「何をさせられようとしているのか分かっているのか?」
荷造りを進める○の背中に、趙雲は切実で低い声を投げかける。
○は振り返りもせず、テキパキと旅装束を整えた。
「分かっています。ただ、野盗退治よりも危険はない仕事なので引き受けました。子龍様は、劉備様に期待されてこの桂陽を任されたんですから、その信頼にお応えするお手伝いをしたいんです」
そう言うと荷物の紐を縛る。
「私、こう見えて旅慣れていますし平気です。それに幸い、度重なる野盗退治で、この辺りに土地勘も出来ています。十日もお会いできないのは寂しいですけど…」
趙雲は言葉を失った。
以前の○なら、それこそ「浮気をするつもりだ!」と騒ぎ立て、女性がらみとなれば相手の魂胆を見抜き、絶対に自分のそばを離れようとしなかったはず。
それが桂陽に来て、自分が「太守」という重い責任を背負った途端、○は驚くほど物分かりが良くなり、自ら進んでこのような役目まで引き受けようとしている。
趙雲を支えたい気持ちが強すぎるのだ。
(……私が、このような立場を持ってしまったからか)
趙雲は、自分の不甲斐なさに深く落ち込んだ。
自分が完璧な太守であろうとすればするほど、○は「足手まといになりたくない」と自分を押し殺して一歩引こうとしている。
その聞き分けの良さが、今の趙雲には、どんな罵倒よりも胸に刺さった。
*****
翌日。
「……本当に行くのだな。何かあればすぐに使いを出すように」
「大丈夫ですよ。馬で一刻の距離ですから。何かあれば逃げられます。私、三歳から道場で鍛錬してきたんですよ!平気です」
そう言うと趙範が準備した馬車に乗り込んだ。
その日の夕刻。
趙雲が一人で書状に目を落としていると、待ってましたと言わんばかりに趙範が姿を現した。
「将軍、お疲れのご様子。○殿がいらっしゃらぬ間、心細かろうと存じまして……」
趙範の後ろから、しずしずと現れたのは、あの絶世の美女・樊氏。
今日は以前よりもさらに薄手の、体温が透けるような見事な絹の衣を纏い、手には酒器を持っていた。
趙範は頭を下げると樊氏を部屋に残し、自分は扉を閉めてさっさと退室していった。
*****
一方、村に到着した○。
「この小屋に生産品を置いておくのです」と説明を受けて入った小屋の扉を閉められて、閉じ込められてしまった。
案内役の男たちは、城を出た時とは打って変わって、冷ややかな目で○を見下ろす。
中から何を言っても無視された。
重い閂が下ろされる音。
小屋の中には藁が少し敷いてあるだけ。
(もしかして…騙された…?)
部屋の隅々まで確認したが逃げられそうなところはない。
石造りの建物で、出入り口は目の前の木の扉と、明り取りの格子付きの窓だけだった。
*****
樊氏は趙雲に近づくと、その肩に触れようとした。
「……おやめください」
趙雲は短く告げる。
諸葛亮や劉備からの命であれば、彼は私情を殺してでも礼を尽くしてきた。
あるいは軍内で肩身の狭い思いをしている女官たちの頼みであれば、無下にはしなかった。
しかし、この趙範のやり方は目に余る。
自らの地位を盤石にするため、わざわざ○を遠ざけ、甘言と美女をもって付け入ろうとするその魂胆が気に入らない。
樊氏は差し出した手のやり場を失い、屈辱と驚きで頬を震わせた。
「私では…、不満だというのですか?」
「不満か否かの問題ではありません。私は、主君よりこの地を預かる身。政務の場に、酒や、ましてやこのような誘惑を持ち込むことは、許せません」
趙雲は立ち上がった。
「趙範殿は、貴女をこちらにしばらく滞在させるおつもりか?」
「……ええ。義弟は、そのように申しておりましたが……」
「……趙範殿には、後ほど私から厳重に抗議を行います。貴女もすぐにお帰りください。趙範殿に言いつけられて出かけた○が気になります。おそらくまともな依頼ではないのでしょう」
そう言って樊氏を見ることも無い趙雲に、彼女はお辞儀をして部屋を出て行った。
*****
○が小屋に閉じ込められて数刻。
外は真っ暗だ。
○は過去の経験から考え出した、ここを脱する計画の為に大人しくしていた。
木製の扉の一か所をずっと瓦礫で叩き続けるのは有効だが、これは物音がするので見張りのいる今、警戒されるだけ。
戸の隙間から外を見ていると見張りは一人しかいなかった。
閂もしてある石造りの小屋で、見張りの対象は女である自分一人。
しかも武器を持たずに来た自分を文官だと思っているはず。
油断している。
こういう時は女を最大限利用しないといけない。
○は深夜になるのを待った。
そして待ちに待った深夜。
○はそっと見張りに声をかける。
「すみませぇん…あの、お手洗いに行きたいの」
精一杯恥ずかしそうにそう言うと、見張りはこちらを気にし始める。
「そこでしろ」
「い、嫌です、こんな…しばらく閉じ込められるんですよね?」
「…」
「怪しむのなら腕を縛ってください。私が用を足している時も、どこから見張ってくださっても構いませんから。…お願いです」
見張りがつばを飲み込むのが分かる。
戸を開ける間、壁に戸をついている様に言われてその通りにした。
見張りは○の両手を縛ると草むらに連れて行く。
「…あ、あの…」
○は縛られた手で裾を太腿まで持ち上げると、おずおずと見張りに振り向いて声をかけた。
「両手がこれでは…その…。肌着を脱がしてくださいませんか?」
見張りはあからさまな下心を見せながら近づいて来ると、覗き込むように○の前にしゃがみこみ、わざわざ○の太腿を撫でながら腰に手を当てた。
ゴツン、という鈍い音。
一瞬で見張りはその場に伸びた。
○の膝が思い切り顎に入ったためだ。
(あぁ…やだやだ。気持ち悪い)
ゲンナリしながら見張りの持っていた剣で、手を縛る紐を切った。
次は馬を手に入れなくては…と草むらから出た所で、別の見張りに見つかってしまう。
そこからは大立ち回りだ。
まさか○が武官だとは思っていなかった彼らは大した武装もなく、素手での戦闘が得意な○とは相性が悪かった。
(とにかく、動きを止めないと…!)
○はそこらの岩で相手の頭をたたき割っていく。
そこらの木の棒で。
瓦礫で。
どんどん頭をカチ割る。
殺す順番を考えながら無表情で殴り掛かる○に、相手が逃げ出した。
それを追う事もなく、○は顔にできた小さな傷を拭うと、馬が止められている所へ向かった。
趙範に連れられて現れた彼女は、白磁のような肌に、憂いを帯びた瞳、そして柳のようにしなやかな立ち居振る舞い。
一歩歩くたびに芳しい香りが漂うような、まさに非の打ち所がない佳人だった。
○は、廊下の影から息を潜めてその様子を盗み見る。
(凄い美人…)
呉の女官も美人だったが、また違う系統の美人だ。
応接の間では、趙範がこれ見よがしに趙雲へ話しかけた。
「将軍、こちらが義姉の樊氏にございます。将軍のお噂を聞き、ぜひ一目お会いしたいと、心を込めて贈り物を持参いたしました」
「樊氏にございます。お初にお目にかかります、趙将軍」
透き通った声は同じ女性の○ですらウットリしてしまう。
しかし趙雲は、”趙範の兄嫁”という立場の女性とは、○がいようがいまいがどうこうなるつもりはないといつになくハッキリ断っていた。
色々引っかかる所はあるが、一方の趙雲を伺うと、見たことがない位の無表情だった。
彼は樊氏が差し出した見事な刺繍の品にも、彼女の熱っぽい視線にも、一切動じる気配がない。
しかしふと○を見ると、少し顔を振って”出て行くように”と合図を出す。
その真剣な表情に、○はすごすごと部屋を出て行く。
(そうだ!お茶のお代わりをお持ちしよう!それでさりげなく話が聞こえる距離に入れる!)
そう思いつくと台所に走って行った。
○が部屋を出て行ったのを確認した趙雲は、趙範たちに向き直る。
「贈り物、痛み入ります。しかし昨日も申し上げた通り、私は一介の武辺者。今はこのような地位におりますが、じきに戦場に戻る身です。このような高価な品は分に過ぎます。お持ち帰りいただきたい」
「そんな! 義姉が精魂込めて縫い上げたものにございますぞ!」
「礼節を欠くつもりはないが、私は今、君主のために桂陽の統治に全精力を注がなくてはなりません」
「しかしここに残るは数少ない手勢のみ…色々不自由もありましょう」
「……私には、すでにこの身を案じてくれる者がおります。以後、この話は二度となさらぬようお願いします」
趙範は、趙雲のあまりに冷淡な拒絶に狼狽する。
彼としても、なにも本当に趙雲の身を案じて兄嫁を紹介しているわけではない。
趙雲と兄嫁が関係を持てば、自分の立場も高くなる。
そんな目論見のもとの提案であるため、この話は受けてほしい。
趙範は趙雲に追い出されて応接の間を出ると、歩きながら原因を探る。
すると前からお茶を持って歩いてくる○。
「あら、もうお帰りですか?お茶のお代わりをお持ちしましたのに」
そう言って笑いかける○に見覚えがある趙範。
劉備が帰順の為に城に来た際、後ろに控えた趙雲の側にいた女性だと思い出す。
女官すらほとんどいない劉備軍に、武装した女性など珍しいと思い覚えていたのだ。
女官すら自軍から出せず、元から仕えていた者を採用するほど女手がないのに、こんな所に置いて行った○の身の上を怪しんだ。
(なるほど、この娘か)と察した趙範は数日後、政務中の趙雲の元を再び訪れた。
「趙将軍、実は折り入ってご相談が。近隣の村にて織物を生産しているのですが、その成果の報告に不備があり、現地の調査が必要なのです。……つきましては、こちらの○殿に、ぜひ調査に出て頂きたい」
趙雲は不審そうに目を細める。
「何故、○をご存じなのです。ご紹介しましたか?」
「先日、帰り際に廊下でお会いしました」
「……あやつは武辺者です。文官の仕事は向かぬかと」
不審そうな趙雲に、趙範は首を横に振る。
「いえいえ!村は織物を生産しているだけあって女性の働き手がほとんどです。女性が向かわれる方が何かと円滑かと」
なおも眉間のしわをなくさない趙雲。
「数日…いや、十日もあれば片付く仕事です。あの方がこの城でなさっている仕事は、我が方から代わりを出します」
「……十日、ですか」
趙範の「画策」が、まるで見え透いている。
○を遠ざけ、その隙に樊氏を送り込もうという浅はかな計略なのだろう。
○がこの城でやっている仕事は”野盗退治”だというのに、女性だから”趙雲の世話”だと思っている様だ。
「○殿は引き受けてくださいましたよ」
その言葉に趙雲は顔を上げる。
「先日廊下でお会いした際、軽く提案してみたのです。ご本人は通常のお仕事と変わらず引き受けてくださいました。このような仕事、趙将軍の信頼される方にしかお任せできませんから。なに、危険はありません。明日、お迎えにあがります」
「何をさせられようとしているのか分かっているのか?」
荷造りを進める○の背中に、趙雲は切実で低い声を投げかける。
○は振り返りもせず、テキパキと旅装束を整えた。
「分かっています。ただ、野盗退治よりも危険はない仕事なので引き受けました。子龍様は、劉備様に期待されてこの桂陽を任されたんですから、その信頼にお応えするお手伝いをしたいんです」
そう言うと荷物の紐を縛る。
「私、こう見えて旅慣れていますし平気です。それに幸い、度重なる野盗退治で、この辺りに土地勘も出来ています。十日もお会いできないのは寂しいですけど…」
趙雲は言葉を失った。
以前の○なら、それこそ「浮気をするつもりだ!」と騒ぎ立て、女性がらみとなれば相手の魂胆を見抜き、絶対に自分のそばを離れようとしなかったはず。
それが桂陽に来て、自分が「太守」という重い責任を背負った途端、○は驚くほど物分かりが良くなり、自ら進んでこのような役目まで引き受けようとしている。
趙雲を支えたい気持ちが強すぎるのだ。
(……私が、このような立場を持ってしまったからか)
趙雲は、自分の不甲斐なさに深く落ち込んだ。
自分が完璧な太守であろうとすればするほど、○は「足手まといになりたくない」と自分を押し殺して一歩引こうとしている。
その聞き分けの良さが、今の趙雲には、どんな罵倒よりも胸に刺さった。
*****
翌日。
「……本当に行くのだな。何かあればすぐに使いを出すように」
「大丈夫ですよ。馬で一刻の距離ですから。何かあれば逃げられます。私、三歳から道場で鍛錬してきたんですよ!平気です」
そう言うと趙範が準備した馬車に乗り込んだ。
その日の夕刻。
趙雲が一人で書状に目を落としていると、待ってましたと言わんばかりに趙範が姿を現した。
「将軍、お疲れのご様子。○殿がいらっしゃらぬ間、心細かろうと存じまして……」
趙範の後ろから、しずしずと現れたのは、あの絶世の美女・樊氏。
今日は以前よりもさらに薄手の、体温が透けるような見事な絹の衣を纏い、手には酒器を持っていた。
趙範は頭を下げると樊氏を部屋に残し、自分は扉を閉めてさっさと退室していった。
*****
一方、村に到着した○。
「この小屋に生産品を置いておくのです」と説明を受けて入った小屋の扉を閉められて、閉じ込められてしまった。
案内役の男たちは、城を出た時とは打って変わって、冷ややかな目で○を見下ろす。
中から何を言っても無視された。
重い閂が下ろされる音。
小屋の中には藁が少し敷いてあるだけ。
(もしかして…騙された…?)
部屋の隅々まで確認したが逃げられそうなところはない。
石造りの建物で、出入り口は目の前の木の扉と、明り取りの格子付きの窓だけだった。
*****
樊氏は趙雲に近づくと、その肩に触れようとした。
「……おやめください」
趙雲は短く告げる。
諸葛亮や劉備からの命であれば、彼は私情を殺してでも礼を尽くしてきた。
あるいは軍内で肩身の狭い思いをしている女官たちの頼みであれば、無下にはしなかった。
しかし、この趙範のやり方は目に余る。
自らの地位を盤石にするため、わざわざ○を遠ざけ、甘言と美女をもって付け入ろうとするその魂胆が気に入らない。
樊氏は差し出した手のやり場を失い、屈辱と驚きで頬を震わせた。
「私では…、不満だというのですか?」
「不満か否かの問題ではありません。私は、主君よりこの地を預かる身。政務の場に、酒や、ましてやこのような誘惑を持ち込むことは、許せません」
趙雲は立ち上がった。
「趙範殿は、貴女をこちらにしばらく滞在させるおつもりか?」
「……ええ。義弟は、そのように申しておりましたが……」
「……趙範殿には、後ほど私から厳重に抗議を行います。貴女もすぐにお帰りください。趙範殿に言いつけられて出かけた○が気になります。おそらくまともな依頼ではないのでしょう」
そう言って樊氏を見ることも無い趙雲に、彼女はお辞儀をして部屋を出て行った。
*****
○が小屋に閉じ込められて数刻。
外は真っ暗だ。
○は過去の経験から考え出した、ここを脱する計画の為に大人しくしていた。
木製の扉の一か所をずっと瓦礫で叩き続けるのは有効だが、これは物音がするので見張りのいる今、警戒されるだけ。
戸の隙間から外を見ていると見張りは一人しかいなかった。
閂もしてある石造りの小屋で、見張りの対象は女である自分一人。
しかも武器を持たずに来た自分を文官だと思っているはず。
油断している。
こういう時は女を最大限利用しないといけない。
○は深夜になるのを待った。
そして待ちに待った深夜。
○はそっと見張りに声をかける。
「すみませぇん…あの、お手洗いに行きたいの」
精一杯恥ずかしそうにそう言うと、見張りはこちらを気にし始める。
「そこでしろ」
「い、嫌です、こんな…しばらく閉じ込められるんですよね?」
「…」
「怪しむのなら腕を縛ってください。私が用を足している時も、どこから見張ってくださっても構いませんから。…お願いです」
見張りがつばを飲み込むのが分かる。
戸を開ける間、壁に戸をついている様に言われてその通りにした。
見張りは○の両手を縛ると草むらに連れて行く。
「…あ、あの…」
○は縛られた手で裾を太腿まで持ち上げると、おずおずと見張りに振り向いて声をかけた。
「両手がこれでは…その…。肌着を脱がしてくださいませんか?」
見張りはあからさまな下心を見せながら近づいて来ると、覗き込むように○の前にしゃがみこみ、わざわざ○の太腿を撫でながら腰に手を当てた。
ゴツン、という鈍い音。
一瞬で見張りはその場に伸びた。
○の膝が思い切り顎に入ったためだ。
(あぁ…やだやだ。気持ち悪い)
ゲンナリしながら見張りの持っていた剣で、手を縛る紐を切った。
次は馬を手に入れなくては…と草むらから出た所で、別の見張りに見つかってしまう。
そこからは大立ち回りだ。
まさか○が武官だとは思っていなかった彼らは大した武装もなく、素手での戦闘が得意な○とは相性が悪かった。
(とにかく、動きを止めないと…!)
○はそこらの岩で相手の頭をたたき割っていく。
そこらの木の棒で。
瓦礫で。
どんどん頭をカチ割る。
殺す順番を考えながら無表情で殴り掛かる○に、相手が逃げ出した。
それを追う事もなく、○は顔にできた小さな傷を拭うと、馬が止められている所へ向かった。