桂陽編【全4話】
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赤壁の熱狂も冷めやらぬまま、劉備軍は休む間もなく南進を開始する。
曹操軍が撤退した空白地を埋めるべく、荊州の各郡をこの戦後のゴタゴタの中で次々と掌中に収めていくために、休むことなく強行軍で帰順させるために回っていく。
そして、その一角である桂陽。
「趙雲に、しばしこの地を任せたい。民心が安定し、我らが周辺地域を治めるまで、太守としてここに残ってくれ」
劉備の言葉に、趙雲は迷わず膝をついた。
「この趙子龍、命に代えましても桂陽の安寧を守り抜きましょう」
その横で、○は趙雲と劉備の顔を交互に見比べる。
そんな○に劉備は柔和な笑みを浮かべた。
「○殿もここに残ってほしい。初めからそのつもりだった。落ち着けばまた中央へ戻ってもらうが、それまではどうか趙雲を支えてやってくれ。……諸葛亮が言うには、長くとも三か月程度で済むらしいから、その心づもりでな」
それを聞いた○は、パァッと明るく笑った。
桂陽の太守はあっさりと劉備に帰順した事もあり、主軍は一週間そこそこで次の目的地に出発してしまった。
彼らがいなくなると、賑やかだった陣営は静かになる。
残されたのは、太守として政務を執る趙雲と、その傍らに控える○。
そして、わずかな守備兵のみ。
「……あぁ。久しぶりに、子龍様と二人きり……!」
○は頬に手を当て、キラキラと目を輝かせて周囲を見渡した。
広い太守邸。
これまでのように関平が趙雲に気を利かせて割って入ってきたり、周倉に茶化されることもない。
「見てください、子龍様。このお庭、とっても素敵ですよ! 鍛錬も、お食事も、ずっと二人きりですね……!子龍様の村で暮らしていた時の事を思いだします」
足取り軽く、今にも飛んでいきそうな○と比べ、趙雲はといえば。
「……○。勘違いするな。私は太守としてここに来たのだ。羽を伸ばしに来たわけではない。……それに、二人きりでもない。兵もいるし、女官たちもいる」
「子龍様のお世話は私がしますってお伝えしましたので、とりあえずこの部屋には誰も来ませんよ」
根回しの速さに趙雲はため息をついた。
「あのな。…まず、太守邸は使わない。たった数か月で発つのだぞ。それまでにやる事は山積みだ。執務室の隣の部屋で寝泊まりすることにした」
「ええっ!折角こんなに広い邸宅があるのに…」
「執務室の隣も、太守の私室として使っていた部屋だから十分広い。○は私の隣の部屋を用意してもらっているから、そこで休むように」
こんな別邸に寝泊まりしたら碌なことにならないと判断した、趙雲の英断だった。
執務室の隣なら守備兵も廊下を行き来するし人の目がある。
とにかく、まったく人目のない所に○を野放しにするのを避けたかった。
その日の夜。
劉備達が去った直後という事もあり、夜まで政務と引き継ぎをしていた。
重い足取りで自室に戻り、扉を開けた瞬間に凍りつく。
煌々と灯された明かりと、寝台を占領している○の姿があったからだ。
「やっぱり太守様の使われる部屋は凄いですね。 寝台が3つもあります!ご家族用でしょうか…。これを全部くっつければ流石の私も床に落ちることはないと思うんです」
布団の中から「早く寝ましょう」と手招きする○。
その手には自分の寝巻の帯を握りしめていた。
「………。何をしているんだ、お前は」
「何って、寝支度です」
「そうではなくて。なぜ帯を外している」
「だって…ここなら子龍様も他の方の目を気にせずに色々できるかと思って」
「”他の者の目があるから”何もしないと思っていたなら大間違いだ」
そういうと布団で○を包んだまま掴む。
「…………出て行きなさい。今すぐにだ」
趙雲は布団ごと○を持ち上げる。
「恋仲でもなく、婚姻も結んだわけでもないのに、同じ部屋で休むなど…何を考えているんだ」
そう言うと軽々と部屋を出て、隣の○の部屋に入り、その寝台におろす。
「いいか、○。この城でまともに将として戦えるのは我らしかいないのだ。何があるか分からぬ中なのだから、常に出陣できるように心がけ、節度というものを持て……おやすみ」
有無を言わさずに一方的にそう言い捨てると、趙雲は部屋を出て行った。
*****
翌朝。
趙雲が身なりを整え、公務の机に向かって間もなく。
ひょっこりと顔を出したのは、昨夜の追い出し劇など微塵も引きずっていない様子の○だった。
「おはようございます、子龍様!お部屋にいらっしゃらなかったので探しました。朝食もとらずにもうお仕事ですか?」
「早く目が覚めたからな」
○は執務机の隣に机を置くと、そこに朝餉を用意した。
「久しぶりに朝餉を作ってみました!子龍様のご実家にいた時は毎日作ってましたよね」
「あ、ああ…そうだったな」
「私たちの暮らしていた場所とは作物も何も違うので、同じものは出来ませんでしたけど、いかがでしょう」
趙雲は差し出された箸を取り一口食べる。
あの頃の味が蘇る。
突然の○の登場に困惑してたじろいで、突飛な行動に頭を悩ませながらも今思えば楽しかった二年間。
戦場や陣営での食事とは違う、○が作る「家庭の味」だった。
○は趙雲のすぐ隣に腰を下ろすと、ニコニコ微笑みながら食べる様子を見つめる。
「美味しい。やはり、お前の作るものは、私の体に一番馴染むようだ」
「よかった!じゃあ、桂陽にいる間は、毎日私が作りますね。……いいでしょう、子龍様?」
「……ああ。……頼む」
趙雲が食事をする傍らで、次に○は書簡を取り出す。
「そうそう、そういえば…。私、昨日一晩色々考えたんですよ」
言いながら見せられた書簡を、趙雲は眺めた。
そこには”野党の討伐”や”盗賊の根城の壊滅”などの相談内容が記載されていた。
「この類のお仕事を、一手に引き受けようと思っていまして」
「この類…というと、討伐任務という事か」
「はい!子龍様はここでしっかりお仕事しててください。力仕事は私がやりますっ」
拳を握りしめて目を輝かせる。
「いや、しかし…危険ではないか?」
「大丈夫です。私、子龍様にお会いする前も、曹操様の軍にいた時も、討伐任務ばかりやっていましたから」
「うーん…」
「万が一危険な事になっても自分で逃げるくらいはできますから!それにここで私がしっかり子龍様を支えられるって劉備様に分かっていただければ、将来またこうして過ごせる日が来るかもしれないし」
○はもうかなり先の未来の事まで考えているらしい。
打算的ではあるがかなり張り切っている様子だ。
「私がガンガン働いてお金をためて、将来は子龍様に楽させなくっちゃ」
男らしい事を言う○に、趙雲は困った様に笑った。
「分かった。お前を信じる。ただし危険な目にあったら考えるぞ」
「はい!」
○は書簡を丸めながら嬉しそうに頷いた。
その日、桂陽を治めていた元太守の趙範が、何やら神妙な面持ちで訪ねてきた。
「趙将軍……実は、一つ折り入ってのご提案がございまして。将軍のような英傑が、お一人でこの地を統治されるのはあまりに寂しいこと。そこで、ぜひ縁談のお話を」
趙雲の手が、ぴたりと書状の上で止まる。
反射的に部屋の隅で棚の整理をしていた○の背中を、刺すような視線で確認した。
絶対に聞こえているのに彼女は振り向かない。
(……まずいな)
下手をすれば○が会話に割り込んでくる可能性がある。
こんなところで拗らせたくない趙雲は、声を落として答えた。
「趙範殿、今は政務の最中だ。そのような私事は…」
「まあ、そう仰らずに! 近いうちにまた顔を出させます。ぜひ一度、お会いください。亡き兄の嫁ですが、この界隈では美女と名高く、気立ても良い。将軍にこそ相応しい女性なのです」
「兄嫁」という言葉に、趙雲はさらに眉をひそめた。
礼節を重んじる彼にとって、承服しかねる提案だった。
「お断りする。私は…」
「ははは! 照れておられるのですな!一度お会いいただければ、気持ちも変わりましょう!また後ほど」
趙範は趙雲の拒絶を「謙遜」だと勝手に解釈して去ってしまった。
静まり返った部屋。
趙雲は恐る恐る、棚の方を振り返る。
そこには微動だにしない○の後ろ姿。
「○?」
「…………絶世の美女」
「話を聞いていただろう。私は断った」
「会いに来るって……仰ってましたよね」
○はじろりと趙雲を睨みつける。
「ああ。趙範殿が、勝手に言っていただけだ」
趙雲は背筋を伸ばし身構える。
ところが。
「…………まあ、いいです。会いに来るのはあちらの勝手ですから」
○はふんっと鼻を鳴らすと、手元の雑巾を畳みなおしながらそう言った。
何事もなかったかのように再び棚の掃除を再開する。
そのあまりの切り替えの早さと、予想に反した「小言」程度の反応に、趙雲の方が驚いた。
「…………それだけか?」
「 何がですか?」
「いや……もっと、こう、激しく詰め寄られるかと……」
「だって、子龍様が断ったのは聞こえてましたし。それに、私がここで怒って暴れたら、趙範殿に『うちの兄嫁の方が淑やかでいい』と思われそうで癪です」
背中を向けたままそう言った○。
身構えていた分、拍子抜けした趙雲は、なんだかバツが悪くなって椅子に座り直した。
曹操軍が撤退した空白地を埋めるべく、荊州の各郡をこの戦後のゴタゴタの中で次々と掌中に収めていくために、休むことなく強行軍で帰順させるために回っていく。
そして、その一角である桂陽。
「趙雲に、しばしこの地を任せたい。民心が安定し、我らが周辺地域を治めるまで、太守としてここに残ってくれ」
劉備の言葉に、趙雲は迷わず膝をついた。
「この趙子龍、命に代えましても桂陽の安寧を守り抜きましょう」
その横で、○は趙雲と劉備の顔を交互に見比べる。
そんな○に劉備は柔和な笑みを浮かべた。
「○殿もここに残ってほしい。初めからそのつもりだった。落ち着けばまた中央へ戻ってもらうが、それまではどうか趙雲を支えてやってくれ。……諸葛亮が言うには、長くとも三か月程度で済むらしいから、その心づもりでな」
それを聞いた○は、パァッと明るく笑った。
桂陽の太守はあっさりと劉備に帰順した事もあり、主軍は一週間そこそこで次の目的地に出発してしまった。
彼らがいなくなると、賑やかだった陣営は静かになる。
残されたのは、太守として政務を執る趙雲と、その傍らに控える○。
そして、わずかな守備兵のみ。
「……あぁ。久しぶりに、子龍様と二人きり……!」
○は頬に手を当て、キラキラと目を輝かせて周囲を見渡した。
広い太守邸。
これまでのように関平が趙雲に気を利かせて割って入ってきたり、周倉に茶化されることもない。
「見てください、子龍様。このお庭、とっても素敵ですよ! 鍛錬も、お食事も、ずっと二人きりですね……!子龍様の村で暮らしていた時の事を思いだします」
足取り軽く、今にも飛んでいきそうな○と比べ、趙雲はといえば。
「……○。勘違いするな。私は太守としてここに来たのだ。羽を伸ばしに来たわけではない。……それに、二人きりでもない。兵もいるし、女官たちもいる」
「子龍様のお世話は私がしますってお伝えしましたので、とりあえずこの部屋には誰も来ませんよ」
根回しの速さに趙雲はため息をついた。
「あのな。…まず、太守邸は使わない。たった数か月で発つのだぞ。それまでにやる事は山積みだ。執務室の隣の部屋で寝泊まりすることにした」
「ええっ!折角こんなに広い邸宅があるのに…」
「執務室の隣も、太守の私室として使っていた部屋だから十分広い。○は私の隣の部屋を用意してもらっているから、そこで休むように」
こんな別邸に寝泊まりしたら碌なことにならないと判断した、趙雲の英断だった。
執務室の隣なら守備兵も廊下を行き来するし人の目がある。
とにかく、まったく人目のない所に○を野放しにするのを避けたかった。
その日の夜。
劉備達が去った直後という事もあり、夜まで政務と引き継ぎをしていた。
重い足取りで自室に戻り、扉を開けた瞬間に凍りつく。
煌々と灯された明かりと、寝台を占領している○の姿があったからだ。
「やっぱり太守様の使われる部屋は凄いですね。 寝台が3つもあります!ご家族用でしょうか…。これを全部くっつければ流石の私も床に落ちることはないと思うんです」
布団の中から「早く寝ましょう」と手招きする○。
その手には自分の寝巻の帯を握りしめていた。
「………。何をしているんだ、お前は」
「何って、寝支度です」
「そうではなくて。なぜ帯を外している」
「だって…ここなら子龍様も他の方の目を気にせずに色々できるかと思って」
「”他の者の目があるから”何もしないと思っていたなら大間違いだ」
そういうと布団で○を包んだまま掴む。
「…………出て行きなさい。今すぐにだ」
趙雲は布団ごと○を持ち上げる。
「恋仲でもなく、婚姻も結んだわけでもないのに、同じ部屋で休むなど…何を考えているんだ」
そう言うと軽々と部屋を出て、隣の○の部屋に入り、その寝台におろす。
「いいか、○。この城でまともに将として戦えるのは我らしかいないのだ。何があるか分からぬ中なのだから、常に出陣できるように心がけ、節度というものを持て……おやすみ」
有無を言わさずに一方的にそう言い捨てると、趙雲は部屋を出て行った。
*****
翌朝。
趙雲が身なりを整え、公務の机に向かって間もなく。
ひょっこりと顔を出したのは、昨夜の追い出し劇など微塵も引きずっていない様子の○だった。
「おはようございます、子龍様!お部屋にいらっしゃらなかったので探しました。朝食もとらずにもうお仕事ですか?」
「早く目が覚めたからな」
○は執務机の隣に机を置くと、そこに朝餉を用意した。
「久しぶりに朝餉を作ってみました!子龍様のご実家にいた時は毎日作ってましたよね」
「あ、ああ…そうだったな」
「私たちの暮らしていた場所とは作物も何も違うので、同じものは出来ませんでしたけど、いかがでしょう」
趙雲は差し出された箸を取り一口食べる。
あの頃の味が蘇る。
突然の○の登場に困惑してたじろいで、突飛な行動に頭を悩ませながらも今思えば楽しかった二年間。
戦場や陣営での食事とは違う、○が作る「家庭の味」だった。
○は趙雲のすぐ隣に腰を下ろすと、ニコニコ微笑みながら食べる様子を見つめる。
「美味しい。やはり、お前の作るものは、私の体に一番馴染むようだ」
「よかった!じゃあ、桂陽にいる間は、毎日私が作りますね。……いいでしょう、子龍様?」
「……ああ。……頼む」
趙雲が食事をする傍らで、次に○は書簡を取り出す。
「そうそう、そういえば…。私、昨日一晩色々考えたんですよ」
言いながら見せられた書簡を、趙雲は眺めた。
そこには”野党の討伐”や”盗賊の根城の壊滅”などの相談内容が記載されていた。
「この類のお仕事を、一手に引き受けようと思っていまして」
「この類…というと、討伐任務という事か」
「はい!子龍様はここでしっかりお仕事しててください。力仕事は私がやりますっ」
拳を握りしめて目を輝かせる。
「いや、しかし…危険ではないか?」
「大丈夫です。私、子龍様にお会いする前も、曹操様の軍にいた時も、討伐任務ばかりやっていましたから」
「うーん…」
「万が一危険な事になっても自分で逃げるくらいはできますから!それにここで私がしっかり子龍様を支えられるって劉備様に分かっていただければ、将来またこうして過ごせる日が来るかもしれないし」
○はもうかなり先の未来の事まで考えているらしい。
打算的ではあるがかなり張り切っている様子だ。
「私がガンガン働いてお金をためて、将来は子龍様に楽させなくっちゃ」
男らしい事を言う○に、趙雲は困った様に笑った。
「分かった。お前を信じる。ただし危険な目にあったら考えるぞ」
「はい!」
○は書簡を丸めながら嬉しそうに頷いた。
その日、桂陽を治めていた元太守の趙範が、何やら神妙な面持ちで訪ねてきた。
「趙将軍……実は、一つ折り入ってのご提案がございまして。将軍のような英傑が、お一人でこの地を統治されるのはあまりに寂しいこと。そこで、ぜひ縁談のお話を」
趙雲の手が、ぴたりと書状の上で止まる。
反射的に部屋の隅で棚の整理をしていた○の背中を、刺すような視線で確認した。
絶対に聞こえているのに彼女は振り向かない。
(……まずいな)
下手をすれば○が会話に割り込んでくる可能性がある。
こんなところで拗らせたくない趙雲は、声を落として答えた。
「趙範殿、今は政務の最中だ。そのような私事は…」
「まあ、そう仰らずに! 近いうちにまた顔を出させます。ぜひ一度、お会いください。亡き兄の嫁ですが、この界隈では美女と名高く、気立ても良い。将軍にこそ相応しい女性なのです」
「兄嫁」という言葉に、趙雲はさらに眉をひそめた。
礼節を重んじる彼にとって、承服しかねる提案だった。
「お断りする。私は…」
「ははは! 照れておられるのですな!一度お会いいただければ、気持ちも変わりましょう!また後ほど」
趙範は趙雲の拒絶を「謙遜」だと勝手に解釈して去ってしまった。
静まり返った部屋。
趙雲は恐る恐る、棚の方を振り返る。
そこには微動だにしない○の後ろ姿。
「○?」
「…………絶世の美女」
「話を聞いていただろう。私は断った」
「会いに来るって……仰ってましたよね」
○はじろりと趙雲を睨みつける。
「ああ。趙範殿が、勝手に言っていただけだ」
趙雲は背筋を伸ばし身構える。
ところが。
「…………まあ、いいです。会いに来るのはあちらの勝手ですから」
○はふんっと鼻を鳴らすと、手元の雑巾を畳みなおしながらそう言った。
何事もなかったかのように再び棚の掃除を再開する。
そのあまりの切り替えの早さと、予想に反した「小言」程度の反応に、趙雲の方が驚いた。
「…………それだけか?」
「 何がですか?」
「いや……もっと、こう、激しく詰め寄られるかと……」
「だって、子龍様が断ったのは聞こえてましたし。それに、私がここで怒って暴れたら、趙範殿に『うちの兄嫁の方が淑やかでいい』と思われそうで癪です」
背中を向けたままそう言った○。
身構えていた分、拍子抜けした趙雲は、なんだかバツが悪くなって椅子に座り直した。