赤壁編【全9話】
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翌日。
趙雲は朝から遠出の戦後処理に出てそのまま宴に出る。
○に会わないためだ。
会場につくと待ち受けたように女官に手を引かれて、華やかな席に連れていかれた。
一方の○は、関平、関索、星彩とで端の方に座って飲んでいた。
趙雲を視界に入れると腹が立つので、あえて壁側を向いて座る○。
こうして座っていると、宴も悪くないなと思う。
気兼ねなく話せて、普段は出来ないような話題も出せて素直に楽しかった。
「お酒がなくなりましたね。貰ってきますよ」
○は星彩と楽しそうに話す関平を見て、そう言って席を立つ。
関索に目配せをすると、彼も察して立ち上がる。
なんとなくいい雰囲気の二人を、そっとしておいてやろうという気遣いだった。
○と関索の二人は、劉備軍が持ち込んだ酒の置いてある部屋に向かい、酒を持って部屋に戻った。
宴会場からは灯りと笑い声が漏れてくるのに、この廊下はとても静かだ。
「でもよかった。宴会って好きじゃなかったけど、三人のお陰で子龍様を気にしなくていいし、とっても気が…」
「待て」
少し先を歩いていた関興が、角を曲がる所でサッと後ろに下がる。
「あちらの廊下から帰ろう」と、急に遠回りになる逆方向に歩きだす関興に○は首を傾げた。
関興の脇を抜けて、ひょいと角から頭を出した○に「あ」と関興が言葉を発する。
その影の主を覗き込んだ瞬間…○の世界から音が消えた。
そこには月明かりの下で、あの美人な女官の肩を両手で抱き寄せた趙雲がいた。
こちらには女官の後ろ姿しか見えないが、趙雲を見上げる女官と首を少し傾けて口づける趙雲。
その後はそっと彼の胸に身を任せている。
その様子を凝視する○を、後ろから関興が引っ張った。
「○……見ちゃ駄目だ。行こう」
関興は○を無理矢理壁から引きはがす。
茫然としている○は、怒ってあちらに乱入するかと思いきや、大人しく関興についていった。
○は席に戻るなり酒を煽った。
”酒をあまり飲めない”と言っていたのにいきなりの飲みっぷりに、星彩が目を丸くする。
「関興、なにかあったの?」
星彩が尋ねるが関興は「飲みたい気分らしい」としか答えない。
そんな心配をよそに、○はどんどん酒を平らげていく。
心配そうに顔を覗き込む関興。
するとそこへ、入り口から人が入ってくる気配がする。
戻ってきたのは趙雲。
そして、その少し後ろを、顔を赤らめ、少し恥ずかしそうな空気を纏った女官がついて歩いていた。
一瞬で視線を逸らして手元の酒を見る○に、関興は小さく話しかけた。
「○。俺も、見ちゃいけないと思ってすぐに目を逸らしたが…冷静になってみると、趙雲殿に限ってあのような不実があるとは思えない」
幼い頃から趙雲に武芸の薫陶を受けてきた関興。
彼にとって、趙雲は「師」であり、超えるべき「壁」であり、何より最も信頼する武人。
現場を見たには見たが、なにか事情がある気がしていた。
「見間違い…あるいは、角度の悪戯ではないだろうか? 趙雲殿は、おいそれと身体を許すような方では…」
「おいそれって…あの人とはなんやかんやで結構接点があるわ」
「うーん…」
「そもそも、あの場所であの距離感であの女官の顔の角度…関興だって、…してるって思ったから隠れたんでしょ」
絞り出すような○の声に、関興は二の句が継げない。
すると突然、部屋の明かりが落とされ、中央に孫権が用意した楽団が並んだ。
闇の中に浮かび上がる鮮やかな衣装と、低く響き始めた異国の調べ。
周囲の将兵たちがその華やかな余興に目を奪われる。
関平と星彩も楽団に見入っていてこちらを見ていない。
酒のせいもあって涙腺が緩み、○はその暗がりに紛れるようにして涙が溢れ出した。
「お前、泣き上戸なのか」
関興は隣でポロポロと涙を零す彼女に困惑し、首を傾げる。
「私……世間知らずだから、知らなかったのかしら」
涙を拭って俯く。
「ねえ。年頃の男女は……抱擁も、口づけも……それなりに仲良くなって雰囲気が良くなったら、するものなの?」
「…。人によると思う…でも、趙雲殿はそんな人ではないかと…。お前なら分かってるんじゃないのか?なにか事情があったのかもしれない。とにかく自棄になっては駄目だ」
関興は、震える○の背中を、子供をあやすように優しくトントンと叩く。
もはや何を言ってもあの状況を見てしまった○には効果をなさない。
「じゃ、じゃあ……本気で、抱きしめて……その、口付け、してたってこと……?」
(そうか…○の目には、趙雲殿が「心からその行為に耽っていた」ように見えているのか)
お互いのあの場の空気感の捉え方が違う。
関興から見れば、確かに口づけをしているようには見えたが、甘ったるい雰囲気には見えていなかった。
「関興は、し、したことある?口付け……」
不意に振られた問いに、関興は一瞬言葉を詰まらせ、気まずそうに視線を逸らしてから、小さく「……ある」と肯定した。
「…やっぱり私がそういう事に耐性がないから、必要以上に騒いでしまうのかもね。現に関興は落ち着いてるし…。案外誰かとしていれば、”ああ、そんな事”って思えるとか…?」
「それは駄目だ」
酔いもあって普段なら口にしないようなことを言う○を、関興が止める。
「誰とでもするものではない。……ましてや、誰かを忘れたり、その行為を軽くする為にするものでもない。趙雲殿が、本当にあの方を想ってあのようなことをしたのか……私には、どうしてもそうは思えないんだ」
関興のその誠実さは、皮肉にも、○が信じていた趙雲の姿そのものだった。
「演奏が終わったら泣いていたことが知られる。ほら、早く拭け」
関興は手拭いで「鼻水も出てる」とゴシゴシ拭いた。
「ご、ごめんね…折角の楽しい席に。話したらちょっとスッキリしたから…切り替える」
「それほどまでに、趙雲殿を深く想っている証拠だし……謝る必要なんて、どこにもない」
関興は○の肩に腕を回して、落ち着かせるように叩いた。
一方、○達から離れて水平線上にいた趙雲は、○の様子を凝視していた。
関興となにやら話しながら大泣きして、慰めてもらっている様子。
関興はその肩を抱き寄せもしている。
(……なぜだ。なぜ、○はあのような……)
混乱する頭を冷やそうとした、その時。
趙雲の脳裏ですべての断片が繋がる。
先ほど廊下で女官といた時、廊下の角から走り去った人影を見たような気がした。
そして宴会場に戻ってから一切こちらを見ない○。
(……まさか、あの人影は…)
あの”最悪の瞬間”を、○が見ていた事を察した。
*****
○がふと目を覚ますと、頬に伝わるのは規則正しい振動と、聞き慣れた低い声。
目の前には暗い夜道。
自分が誰かの背に負われ、ゆっくりと運ばれていることに気づいた。
「……関平……?」
「ようやく目が覚めましたか。随分と深く寝入っていましたね」
関平が、背中の○を落とさないよう、ぐいっと持ち上げ直す。
「すみません……重いですよね。下ろしてください。自分で歩けます」
「いいですよ、このままで。興に、ちゃんと送ってやってくれと頼まれてます」
関興はあの後、父である関羽に連れられて、諸将に挨拶周りをしてから帰る事になったという。
「聞きましたよ、興に。目に毒なものを見てしまったとか」
「……子龍様は……?」
「女性陣が退席した途端、今度は男性陣に捕まってまだあちらにいます」
その言葉には、呆れと、そして少しだけの同情が混じっている。
それからは何も話さずに陣営に戻っていった。
陣営に着く頃。
○が関平の背中から降りてお礼を言っていると、激しい馬蹄の音が聞こえてきた。
「……待て! ○、待ってくれ!」
叫びながら駆けてくる趙雲。
○は関平に「また」とだけ言って、もつれる足取りで走りだした。
何度か躓きながら自分の幕に入る。
馬から飛び降りて追ってくる趙雲の目の前で、乱暴に閉じられた幕の隙間から、押し殺したような、けれど激しい泣き声が漏れ聞こえてきた。
趙雲が幕に手をかける。
「○、入「入らないでください!」
聞いた事もない厳しい声がする。
関平は見ていてはいけないと思ったのか、そっと立ち去った。
「……○、頼む。顔を見て話をさせてくれ」
「嫌です!私は顔を見たくありません!」
「……お前が、どの角度からそれを見たのかは分からぬ。だが……その、お前が思っているようなことは、起きていない」
「衿に…ついてましたよ、紅」
そう言われて慌てて衿を引っ張って見下ろすと、趙雲からはなかなか見えない所に赤い紅がついていた。
「こんなものが…!違う、○。これは最悪な偶然が重なったものだ」
「もうご自身の幕に戻って下さい。今は、子龍様とお話したくないんです…」
自分にはあれほど「節度」を説き、くっつくことさえ許さなかった人が、他の女性にはあんなにも容易く身体を許した。
その事実が、○の心をズタズタに引き裂いていた。
本人にその気持ちをぶつけたら、今度は歯止めが利かない。
このまま言い合ったら余計な事まで言いそうで、趙雲にどこかに行ってほしかった。
趙雲はゆっくりその場に座り込む。
幕舎の向こう側で、○の気配だけがする。
周囲の幕ではイビキが聞こえたり、いまだ不在だったり。
そんな中で、この空間だけが切り抜かれた様だった。
それから、どれほどの時間が過ぎたのか。
幕舎の周囲には虫の音だけが響くようになった頃。
○は熱を持った顔を冷まそうと、重い手で幕舎の布をあけた。
しかし、外の空気を感じる暇もない。
そこには地べたにしゃがみ込み、じっと地面を見つめていた趙雲がいたからだ。
彼は○の気配を察するや、弾かれたように顔を上げ、しゃがんだままの状態で幕舎の隙間に迷わず大きな手をかけた。
「ぅわっ!」
と、○は慌てて布を閉じようとするも、鍛え抜かれた趙雲の腕はびくともしない。
そのわずかな隙間を少しずつ広げながら趙雲が話しかける。
「……○、聞いてほしい。あれは事故だったんだ。偶然が重なって起きたことで……」
「あんな事、事故で起きますかね……? 私の人生では、あんな偶然が起きた事なんて一度もありませんでしたけど…!」
「事故というか……。そもそも会場の熱気でフラつくというから廊下に出たら、相手が倒れそうになったんだ。だから両手で肩を持って支えたら…」
「へえ、お優しい。私にはそんな優しさ見せてていただいたことがないので想像もつきませんね…!」
趙雲は「お前と女官では身体の丈夫さが違うからで……」と言いかけたが、火に油を注ぐだけだと気づき、苦しげに口を噤む。
「もういいです!大丈夫ですから!子龍様の『節度』と『優しさ』の正体が、よーく分かりました か ら !」
○が渾身の力で幕舎を閉じようとする。
「噓をつくな!何も分かっていないだろう!」
趙雲も思わず力を込め、幕の布の引っ張り合いになる。
「とにかく、一度落ち着いて話を…っ!」
「もう聞きました!」
「聞いただけで納得していないだろう!」
そう言って思い切り趙雲が幕を開くと、○は力負けして幕ごと引っ張られた。
○は酒を飲んでいたのに力んだ為か、フラついて外に倒れた。
「危ない!」
咄嗟にしゃがんだまま○を受け止めようと手を広げた趙雲に、○も無意識にとびこむ。
全体重で乗りかかられて趙雲は地面に仰向けに倒れた。
○を支えるために両手が使えずに背中打つ趙雲。
その上に○がのしかかった。
ガツン、と衝撃が来て、その痛みに趙雲は目をしかめる。
目がチカチカするほどの痛みに、そっと目を開ける。
目の前に○の顔がある。
その唇が趙雲と半分だけ重なっていた。
しかしすごい勢いでぶつかられたので、顔面強打してヒリヒリする。
鼻がジンジンと痛む。
歯がぶつかり合う様な感触もあったから、口の中が切れたかもしれない。
色んな刺激に思わず趙雲の思考が止まった。
一方の○は酒のせいもあって趙雲ほどの痛みは感じていないらしい。
ただ、今の状況が分かっていないらしく、小さく 「 いたた…」 と言いながら、その場で顔をしかめた。
しかし目を開けた途端に○は今の状況を察して、「ごっ、ごめんなさい!」と、慌てて上半身を起こす。
趙雲はしたたかに打ち付けた後頭部をさすりながら、上体を起こす。
膝の上に座ったままの真っ赤な○に咳払いをする。
「……ほら。……こういうこともある」
「ち、違います! 今のは……! 子龍様が、手を広げたからつい倒れこんで…子龍様が誘導したようなものです!完全な偶然ではありません!」
「誘導などしていないっ!お前が覆いかぶさって来たのだから」
「……」
「……だが、○。これでお前も分かっただろう。……意図せずとも、身体の一部が触れてしまうことはあるのだと」
二人の間に、気まずさと、先ほどの唇の感触の余韻、そして互いの鼓動が聞こえてきそうなほど濃密な沈黙が流れる。
少し考えたそぶりを見せた○は、グッと目を見開く。
「…今度はちゃんとしてほしいです」
「は…?」
「だって…凄く口が痛かったんです。歯が当たる音もして。口づけって本来、あんなものではないですよね?子龍様との初めてがあんなに痛いなんて…!」
そう言って顔を近づける○。
極度の興奮と緊張で酒が回っているのかもしれない。
顔が上気して見える。
「なにを破廉恥な事を…っ!もう寝ろ」
そう言って○を無理矢理に膝から降ろすと、趙雲はさっさと自分の幕に向かった。
「ああなったのは子龍様も原因のひとつですよねっ」
趙雲が寝台に入って布団をかぶっても、それを引き剥がそうと引っ張ってくる。
その内、寝台に上がって隣からずっと話しかけてきた。
「初めての口づけがあんなに痛いなんて…やり直してほしいだけです」
「子龍様ってば」
「起きてますよね」
ずっとそうして話しかける声を聞きながら、趙雲は眠ってしまった。
ゴン!
と、凄い音がして趙雲は目を覚ます。
身体を起こすと、床で○が寝ている。
あのまま趙雲の横で寝てしまったらしい。
その後、ただでさえも狭い寝台から、いつもの寝相で下に落ちたのだろう。
朝の薄明かりの中で大の字になり、スヤスヤ寝息を立てている。
(またこいつは…結局、隣で寝てたのか)
趙雲は○を抱き上げようと隣にしゃがみこむ。
(しかし…昨日のアレは、凄く痛かった)
昨日の”事故”を思い出すと思わず笑ってしまった。
あんな経験は初めてだ。
呆れ果てながらも、趙雲の脳裏には昨夜の○の唇の感触が思い出される。
床の○は大の字になっているので、捲れ上がった裾から今日は太ももが見えていた。
以前、”私の身体を見て頂けて良かったです” 、”触っても良かったのに”と言った○の言葉が思い出される。
それもあったのか。
なんとなく、○の太腿に手を伸ばしてみる。
そっと柔らかな太腿を撫でた。
もっと筋肉質だと思っていたのにすべすべして柔らかかった。
寝台から落ちても起きない様な○は、その程度では反応しない。
ツツ、とその手を少しだけ衣服の中に差し込んでみた。
その時。
○が寝返りしながら勢いよく跳ね上げたもう片方の足が、趙雲の急所を直撃する。
途端にガタガタと音を立てて引き下がる趙雲と蹴とばした自分の足の感覚に、○は目を覚ました。
「…ん?ああ、また私、床で…」
そう言って身を起こした○は、寝台に膝をついて肩を震わせる趙雲の背中をみつけた。
「あ、おはようございます。…どうなさったんですか?」
「―――――いや」
「あ、もしかして…寝ぼけてどこか蹴っちゃいましたか!?ごめんなさい。寝てる時は流石に力の制御ができなくて」
○は慌てて趙雲に近づくが、その服装がまた問題だった。
趙雲相手なら気にしていないのか、わざとなのか。
着物の合わせも大きくはだけ、趙雲が触った太腿が付け根まで露わになったまま。
なるべく直視しない様に趙雲は首を横に振る。
「……いいか、○。よく聞け。……朝から、そのような……破廉恥な姿を晒すな。たとえ相手が私であってもだ」
「お嫌いですか?…私としては、見てもらってその気になって貰えたらいいな、とか…」
「いいから!とにかく着替えて来なさい!」
なにやら気が立ってきた趙雲に、○は 「分かりましたよ、もう!」と着物を直して外に出る。
そこには周倉がいてニヤついて立っていた。
「…もしかして盗み聞きですか?」
「いやいや。外を通りかかったら丸聞こえだったって」
そう言って○と趙雲の幕舎を交互に見る。
「……で、どうだったんだ? その様子じゃ、結局なーんにもなかったか」
周倉のからかうような問いに、○は髪を触りながら口を尖らせる。
「そうなんですよね…子龍様、何もしてくれないんです」
その声を幕舎の中で聞いた趙雲は寝台に顔を埋めた。
何もしていない訳ではない事が罪悪感を生む。
(そうだ…勝手に○の太腿に触れたからだ…寝ている女性にコソコソ触れたから、天が私に罰を与えたのだ……)
しかしいつまでもこうしてはいられない。
趙雲は気を取り直して立ち上がると、乱れた着物をこれ以上ないほどキッチリと整え、深呼吸を一つ。
そして、いつもの顔を無理やり作り上げた。
ここでの撤収作業もあとわずか。
その数日を乗り越えればいくらか気持ちは楽になる。
勢いよく幕から出た。
「……周倉。朝から騒がしいぞ。……演武場へ行く。○も、身なりを整えたら来い」
そう一息に行ってさっさと歩いて行った趙雲に、○と周倉は顔を見合わせて笑った。
趙雲は朝から遠出の戦後処理に出てそのまま宴に出る。
○に会わないためだ。
会場につくと待ち受けたように女官に手を引かれて、華やかな席に連れていかれた。
一方の○は、関平、関索、星彩とで端の方に座って飲んでいた。
趙雲を視界に入れると腹が立つので、あえて壁側を向いて座る○。
こうして座っていると、宴も悪くないなと思う。
気兼ねなく話せて、普段は出来ないような話題も出せて素直に楽しかった。
「お酒がなくなりましたね。貰ってきますよ」
○は星彩と楽しそうに話す関平を見て、そう言って席を立つ。
関索に目配せをすると、彼も察して立ち上がる。
なんとなくいい雰囲気の二人を、そっとしておいてやろうという気遣いだった。
○と関索の二人は、劉備軍が持ち込んだ酒の置いてある部屋に向かい、酒を持って部屋に戻った。
宴会場からは灯りと笑い声が漏れてくるのに、この廊下はとても静かだ。
「でもよかった。宴会って好きじゃなかったけど、三人のお陰で子龍様を気にしなくていいし、とっても気が…」
「待て」
少し先を歩いていた関興が、角を曲がる所でサッと後ろに下がる。
「あちらの廊下から帰ろう」と、急に遠回りになる逆方向に歩きだす関興に○は首を傾げた。
関興の脇を抜けて、ひょいと角から頭を出した○に「あ」と関興が言葉を発する。
その影の主を覗き込んだ瞬間…○の世界から音が消えた。
そこには月明かりの下で、あの美人な女官の肩を両手で抱き寄せた趙雲がいた。
こちらには女官の後ろ姿しか見えないが、趙雲を見上げる女官と首を少し傾けて口づける趙雲。
その後はそっと彼の胸に身を任せている。
その様子を凝視する○を、後ろから関興が引っ張った。
「○……見ちゃ駄目だ。行こう」
関興は○を無理矢理壁から引きはがす。
茫然としている○は、怒ってあちらに乱入するかと思いきや、大人しく関興についていった。
○は席に戻るなり酒を煽った。
”酒をあまり飲めない”と言っていたのにいきなりの飲みっぷりに、星彩が目を丸くする。
「関興、なにかあったの?」
星彩が尋ねるが関興は「飲みたい気分らしい」としか答えない。
そんな心配をよそに、○はどんどん酒を平らげていく。
心配そうに顔を覗き込む関興。
するとそこへ、入り口から人が入ってくる気配がする。
戻ってきたのは趙雲。
そして、その少し後ろを、顔を赤らめ、少し恥ずかしそうな空気を纏った女官がついて歩いていた。
一瞬で視線を逸らして手元の酒を見る○に、関興は小さく話しかけた。
「○。俺も、見ちゃいけないと思ってすぐに目を逸らしたが…冷静になってみると、趙雲殿に限ってあのような不実があるとは思えない」
幼い頃から趙雲に武芸の薫陶を受けてきた関興。
彼にとって、趙雲は「師」であり、超えるべき「壁」であり、何より最も信頼する武人。
現場を見たには見たが、なにか事情がある気がしていた。
「見間違い…あるいは、角度の悪戯ではないだろうか? 趙雲殿は、おいそれと身体を許すような方では…」
「おいそれって…あの人とはなんやかんやで結構接点があるわ」
「うーん…」
「そもそも、あの場所であの距離感であの女官の顔の角度…関興だって、…してるって思ったから隠れたんでしょ」
絞り出すような○の声に、関興は二の句が継げない。
すると突然、部屋の明かりが落とされ、中央に孫権が用意した楽団が並んだ。
闇の中に浮かび上がる鮮やかな衣装と、低く響き始めた異国の調べ。
周囲の将兵たちがその華やかな余興に目を奪われる。
関平と星彩も楽団に見入っていてこちらを見ていない。
酒のせいもあって涙腺が緩み、○はその暗がりに紛れるようにして涙が溢れ出した。
「お前、泣き上戸なのか」
関興は隣でポロポロと涙を零す彼女に困惑し、首を傾げる。
「私……世間知らずだから、知らなかったのかしら」
涙を拭って俯く。
「ねえ。年頃の男女は……抱擁も、口づけも……それなりに仲良くなって雰囲気が良くなったら、するものなの?」
「…。人によると思う…でも、趙雲殿はそんな人ではないかと…。お前なら分かってるんじゃないのか?なにか事情があったのかもしれない。とにかく自棄になっては駄目だ」
関興は、震える○の背中を、子供をあやすように優しくトントンと叩く。
もはや何を言ってもあの状況を見てしまった○には効果をなさない。
「じゃ、じゃあ……本気で、抱きしめて……その、口付け、してたってこと……?」
(そうか…○の目には、趙雲殿が「心からその行為に耽っていた」ように見えているのか)
お互いのあの場の空気感の捉え方が違う。
関興から見れば、確かに口づけをしているようには見えたが、甘ったるい雰囲気には見えていなかった。
「関興は、し、したことある?口付け……」
不意に振られた問いに、関興は一瞬言葉を詰まらせ、気まずそうに視線を逸らしてから、小さく「……ある」と肯定した。
「…やっぱり私がそういう事に耐性がないから、必要以上に騒いでしまうのかもね。現に関興は落ち着いてるし…。案外誰かとしていれば、”ああ、そんな事”って思えるとか…?」
「それは駄目だ」
酔いもあって普段なら口にしないようなことを言う○を、関興が止める。
「誰とでもするものではない。……ましてや、誰かを忘れたり、その行為を軽くする為にするものでもない。趙雲殿が、本当にあの方を想ってあのようなことをしたのか……私には、どうしてもそうは思えないんだ」
関興のその誠実さは、皮肉にも、○が信じていた趙雲の姿そのものだった。
「演奏が終わったら泣いていたことが知られる。ほら、早く拭け」
関興は手拭いで「鼻水も出てる」とゴシゴシ拭いた。
「ご、ごめんね…折角の楽しい席に。話したらちょっとスッキリしたから…切り替える」
「それほどまでに、趙雲殿を深く想っている証拠だし……謝る必要なんて、どこにもない」
関興は○の肩に腕を回して、落ち着かせるように叩いた。
一方、○達から離れて水平線上にいた趙雲は、○の様子を凝視していた。
関興となにやら話しながら大泣きして、慰めてもらっている様子。
関興はその肩を抱き寄せもしている。
(……なぜだ。なぜ、○はあのような……)
混乱する頭を冷やそうとした、その時。
趙雲の脳裏ですべての断片が繋がる。
先ほど廊下で女官といた時、廊下の角から走り去った人影を見たような気がした。
そして宴会場に戻ってから一切こちらを見ない○。
(……まさか、あの人影は…)
あの”最悪の瞬間”を、○が見ていた事を察した。
*****
○がふと目を覚ますと、頬に伝わるのは規則正しい振動と、聞き慣れた低い声。
目の前には暗い夜道。
自分が誰かの背に負われ、ゆっくりと運ばれていることに気づいた。
「……関平……?」
「ようやく目が覚めましたか。随分と深く寝入っていましたね」
関平が、背中の○を落とさないよう、ぐいっと持ち上げ直す。
「すみません……重いですよね。下ろしてください。自分で歩けます」
「いいですよ、このままで。興に、ちゃんと送ってやってくれと頼まれてます」
関興はあの後、父である関羽に連れられて、諸将に挨拶周りをしてから帰る事になったという。
「聞きましたよ、興に。目に毒なものを見てしまったとか」
「……子龍様は……?」
「女性陣が退席した途端、今度は男性陣に捕まってまだあちらにいます」
その言葉には、呆れと、そして少しだけの同情が混じっている。
それからは何も話さずに陣営に戻っていった。
陣営に着く頃。
○が関平の背中から降りてお礼を言っていると、激しい馬蹄の音が聞こえてきた。
「……待て! ○、待ってくれ!」
叫びながら駆けてくる趙雲。
○は関平に「また」とだけ言って、もつれる足取りで走りだした。
何度か躓きながら自分の幕に入る。
馬から飛び降りて追ってくる趙雲の目の前で、乱暴に閉じられた幕の隙間から、押し殺したような、けれど激しい泣き声が漏れ聞こえてきた。
趙雲が幕に手をかける。
「○、入「入らないでください!」
聞いた事もない厳しい声がする。
関平は見ていてはいけないと思ったのか、そっと立ち去った。
「……○、頼む。顔を見て話をさせてくれ」
「嫌です!私は顔を見たくありません!」
「……お前が、どの角度からそれを見たのかは分からぬ。だが……その、お前が思っているようなことは、起きていない」
「衿に…ついてましたよ、紅」
そう言われて慌てて衿を引っ張って見下ろすと、趙雲からはなかなか見えない所に赤い紅がついていた。
「こんなものが…!違う、○。これは最悪な偶然が重なったものだ」
「もうご自身の幕に戻って下さい。今は、子龍様とお話したくないんです…」
自分にはあれほど「節度」を説き、くっつくことさえ許さなかった人が、他の女性にはあんなにも容易く身体を許した。
その事実が、○の心をズタズタに引き裂いていた。
本人にその気持ちをぶつけたら、今度は歯止めが利かない。
このまま言い合ったら余計な事まで言いそうで、趙雲にどこかに行ってほしかった。
趙雲はゆっくりその場に座り込む。
幕舎の向こう側で、○の気配だけがする。
周囲の幕ではイビキが聞こえたり、いまだ不在だったり。
そんな中で、この空間だけが切り抜かれた様だった。
それから、どれほどの時間が過ぎたのか。
幕舎の周囲には虫の音だけが響くようになった頃。
○は熱を持った顔を冷まそうと、重い手で幕舎の布をあけた。
しかし、外の空気を感じる暇もない。
そこには地べたにしゃがみ込み、じっと地面を見つめていた趙雲がいたからだ。
彼は○の気配を察するや、弾かれたように顔を上げ、しゃがんだままの状態で幕舎の隙間に迷わず大きな手をかけた。
「ぅわっ!」
と、○は慌てて布を閉じようとするも、鍛え抜かれた趙雲の腕はびくともしない。
そのわずかな隙間を少しずつ広げながら趙雲が話しかける。
「……○、聞いてほしい。あれは事故だったんだ。偶然が重なって起きたことで……」
「あんな事、事故で起きますかね……? 私の人生では、あんな偶然が起きた事なんて一度もありませんでしたけど…!」
「事故というか……。そもそも会場の熱気でフラつくというから廊下に出たら、相手が倒れそうになったんだ。だから両手で肩を持って支えたら…」
「へえ、お優しい。私にはそんな優しさ見せてていただいたことがないので想像もつきませんね…!」
趙雲は「お前と女官では身体の丈夫さが違うからで……」と言いかけたが、火に油を注ぐだけだと気づき、苦しげに口を噤む。
「もういいです!大丈夫ですから!子龍様の『節度』と『優しさ』の正体が、よーく分かりました か ら !」
○が渾身の力で幕舎を閉じようとする。
「噓をつくな!何も分かっていないだろう!」
趙雲も思わず力を込め、幕の布の引っ張り合いになる。
「とにかく、一度落ち着いて話を…っ!」
「もう聞きました!」
「聞いただけで納得していないだろう!」
そう言って思い切り趙雲が幕を開くと、○は力負けして幕ごと引っ張られた。
○は酒を飲んでいたのに力んだ為か、フラついて外に倒れた。
「危ない!」
咄嗟にしゃがんだまま○を受け止めようと手を広げた趙雲に、○も無意識にとびこむ。
全体重で乗りかかられて趙雲は地面に仰向けに倒れた。
○を支えるために両手が使えずに背中打つ趙雲。
その上に○がのしかかった。
ガツン、と衝撃が来て、その痛みに趙雲は目をしかめる。
目がチカチカするほどの痛みに、そっと目を開ける。
目の前に○の顔がある。
その唇が趙雲と半分だけ重なっていた。
しかしすごい勢いでぶつかられたので、顔面強打してヒリヒリする。
鼻がジンジンと痛む。
歯がぶつかり合う様な感触もあったから、口の中が切れたかもしれない。
色んな刺激に思わず趙雲の思考が止まった。
一方の○は酒のせいもあって趙雲ほどの痛みは感じていないらしい。
ただ、今の状況が分かっていないらしく、小さく 「 いたた…」 と言いながら、その場で顔をしかめた。
しかし目を開けた途端に○は今の状況を察して、「ごっ、ごめんなさい!」と、慌てて上半身を起こす。
趙雲はしたたかに打ち付けた後頭部をさすりながら、上体を起こす。
膝の上に座ったままの真っ赤な○に咳払いをする。
「……ほら。……こういうこともある」
「ち、違います! 今のは……! 子龍様が、手を広げたからつい倒れこんで…子龍様が誘導したようなものです!完全な偶然ではありません!」
「誘導などしていないっ!お前が覆いかぶさって来たのだから」
「……」
「……だが、○。これでお前も分かっただろう。……意図せずとも、身体の一部が触れてしまうことはあるのだと」
二人の間に、気まずさと、先ほどの唇の感触の余韻、そして互いの鼓動が聞こえてきそうなほど濃密な沈黙が流れる。
少し考えたそぶりを見せた○は、グッと目を見開く。
「…今度はちゃんとしてほしいです」
「は…?」
「だって…凄く口が痛かったんです。歯が当たる音もして。口づけって本来、あんなものではないですよね?子龍様との初めてがあんなに痛いなんて…!」
そう言って顔を近づける○。
極度の興奮と緊張で酒が回っているのかもしれない。
顔が上気して見える。
「なにを破廉恥な事を…っ!もう寝ろ」
そう言って○を無理矢理に膝から降ろすと、趙雲はさっさと自分の幕に向かった。
「ああなったのは子龍様も原因のひとつですよねっ」
趙雲が寝台に入って布団をかぶっても、それを引き剥がそうと引っ張ってくる。
その内、寝台に上がって隣からずっと話しかけてきた。
「初めての口づけがあんなに痛いなんて…やり直してほしいだけです」
「子龍様ってば」
「起きてますよね」
ずっとそうして話しかける声を聞きながら、趙雲は眠ってしまった。
ゴン!
と、凄い音がして趙雲は目を覚ます。
身体を起こすと、床で○が寝ている。
あのまま趙雲の横で寝てしまったらしい。
その後、ただでさえも狭い寝台から、いつもの寝相で下に落ちたのだろう。
朝の薄明かりの中で大の字になり、スヤスヤ寝息を立てている。
(またこいつは…結局、隣で寝てたのか)
趙雲は○を抱き上げようと隣にしゃがみこむ。
(しかし…昨日のアレは、凄く痛かった)
昨日の”事故”を思い出すと思わず笑ってしまった。
あんな経験は初めてだ。
呆れ果てながらも、趙雲の脳裏には昨夜の○の唇の感触が思い出される。
床の○は大の字になっているので、捲れ上がった裾から今日は太ももが見えていた。
以前、”私の身体を見て頂けて良かったです” 、”触っても良かったのに”と言った○の言葉が思い出される。
それもあったのか。
なんとなく、○の太腿に手を伸ばしてみる。
そっと柔らかな太腿を撫でた。
もっと筋肉質だと思っていたのにすべすべして柔らかかった。
寝台から落ちても起きない様な○は、その程度では反応しない。
ツツ、とその手を少しだけ衣服の中に差し込んでみた。
その時。
○が寝返りしながら勢いよく跳ね上げたもう片方の足が、趙雲の急所を直撃する。
途端にガタガタと音を立てて引き下がる趙雲と蹴とばした自分の足の感覚に、○は目を覚ました。
「…ん?ああ、また私、床で…」
そう言って身を起こした○は、寝台に膝をついて肩を震わせる趙雲の背中をみつけた。
「あ、おはようございます。…どうなさったんですか?」
「―――――いや」
「あ、もしかして…寝ぼけてどこか蹴っちゃいましたか!?ごめんなさい。寝てる時は流石に力の制御ができなくて」
○は慌てて趙雲に近づくが、その服装がまた問題だった。
趙雲相手なら気にしていないのか、わざとなのか。
着物の合わせも大きくはだけ、趙雲が触った太腿が付け根まで露わになったまま。
なるべく直視しない様に趙雲は首を横に振る。
「……いいか、○。よく聞け。……朝から、そのような……破廉恥な姿を晒すな。たとえ相手が私であってもだ」
「お嫌いですか?…私としては、見てもらってその気になって貰えたらいいな、とか…」
「いいから!とにかく着替えて来なさい!」
なにやら気が立ってきた趙雲に、○は 「分かりましたよ、もう!」と着物を直して外に出る。
そこには周倉がいてニヤついて立っていた。
「…もしかして盗み聞きですか?」
「いやいや。外を通りかかったら丸聞こえだったって」
そう言って○と趙雲の幕舎を交互に見る。
「……で、どうだったんだ? その様子じゃ、結局なーんにもなかったか」
周倉のからかうような問いに、○は髪を触りながら口を尖らせる。
「そうなんですよね…子龍様、何もしてくれないんです」
その声を幕舎の中で聞いた趙雲は寝台に顔を埋めた。
何もしていない訳ではない事が罪悪感を生む。
(そうだ…勝手に○の太腿に触れたからだ…寝ている女性にコソコソ触れたから、天が私に罰を与えたのだ……)
しかしいつまでもこうしてはいられない。
趙雲は気を取り直して立ち上がると、乱れた着物をこれ以上ないほどキッチリと整え、深呼吸を一つ。
そして、いつもの顔を無理やり作り上げた。
ここでの撤収作業もあとわずか。
その数日を乗り越えればいくらか気持ちは楽になる。
勢いよく幕から出た。
「……周倉。朝から騒がしいぞ。……演武場へ行く。○も、身なりを整えたら来い」
そう一息に行ってさっさと歩いて行った趙雲に、○と周倉は顔を見合わせて笑った。