赤壁編【全9話】
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○が陸遜と別れて陣に戻っていたその頃。
趙雲は腕を組み、仁王立ちで長江からの風に吹かれていた。
彼の視線は○が帰ってくるであろう方向にむけられている。
(遅い。撤収作業など、とっくに終わっているはずだ。私に渡す物があるはずだというのに)
心の中では「まあ、好きにすればいい」と唱えながらも、帰りが遅くなると気になる。
そして今日は特に気がかりがあった。
程なくしてこちらに戻ってくる○の姿を小さく見つけ、趙雲は弾かれたように食事用の幕舎へと滑り込む。
空いていた席に腰を下ろすと、さも「随分前からここに座って、食事をしていました」という風を装って箸を動かし始める。
しばらくして○が幕舎に入ってきた。
「あ、子龍様。もう戻られてたんですね。お疲れ様です!」
○は特に疑う様子もなく、自分の分の食事を取りに行くと、当然のように趙雲の隣に座った。
「……ずいぶん遅かったな。撤収作業に出ていた他の兵は、夕方前には帰っていたようだが」
実は先に帰った兵士に、”○は陸遜と話をしていたから少し遅れて戻ると思う”と聞いていた趙雲。
○は箸を動かしながら、事もなげに答えた。
「片付けの後に少し散歩していたら、いつの間にか時間が経っちゃって」
陸遜の名前は一言も口に出さない。
○からすれば”友達とお菓子を食べた”くらいの認識で、報告するほどの事ではないものだった。
しかし、その”言わない”という態度が、逆に趙雲の疑心暗鬼に火をつける。
(……陸遜殿といたことは伏せるつもりか)
しかし趙雲は「○は別に私のなんでもないのだから、好きにすればいい」と心の中で何度も唱えた。
そしてさりげなく話しかける。
「私に、渡す物はないか?」
「渡す物…?子龍様にですか?」
「いや、いい。風邪が治ったばかりなのだから、余計な道草は慎め」
「…?はい。………?」
なんだか今の趙雲は何が言いたいのかよく分からない。
首をかしげる○。
妙な沈黙が流れたその時。
周倉が「ノド乾いた~」と、幕舎に入ってきた。
周倉は趙雲達に挨拶をすると水を飲みながらそこらの物をつまみなつつ、○の腰の根付けをめざとく見つける。
「うわ!懐かしいな、それ!何年か前にめちゃくちゃ流行ったやつじゃねえか。俺の田舎の妹も欲しがってたぜ!まだあるんだなぁ」
「あ、ご存じですか? これ、陸遜殿にいただいたんです」
○はあっさりと、そしてなんの気負いもなく答えた。
隠す必要など微塵も感じておらず、むしろ自慢げに根付を見せている。
根付の存在にも気付いていなかった趙雲は、その会話に箸が止まった。
趙雲の脳裏には、爽やかに微笑む陸遜の顔が浮かんだ。
自分にはない溌溂さと、○と同じ時代を共有しているという事実。
すらすらと言ってのける誉め言葉。
「……周倉。用が済んだなら、早々に持ち場へ戻れ。今日は夜の哨戒任務があったはずだ」
そのなにやら怒った様子に周倉は慌てて出て行く。
再び訪れる、二人きりの沈黙。
○は趙雲のただならぬ気配に首を傾げた。
「子龍様? ……どうかしたんですか? さっきから、すごく……その、怖い顔をしてますけど」
「……別にどうもしない。○がどこで何をしようが、私の知ったことではない」
「???私ですか?」
それでも意味が分からない○は食事を続ける。
その意味が分かっていない様子に趙雲は追い打ちをかけた。
「そんなにその根付が気に入ったのなら、陸遜殿のところへ行けばよかろう」
吐き捨てるようにそう言った趙雲の言葉は、いつになく子供じみた響きを含んでいた。
これでやっと気づいた○。
箸を止めて、まじまじと腰の根付を見つめる。
「え? そんな重大なものでしたか、これ……。ただ、懐かしいなと思って…子龍様がお嫌なら明日、返し「気にはならん」
趙雲は○の言葉を最後まで聞こうともせず、短く遮る。
そして残りの飯を猛烈な勢いでかき込むと、器を置いて幕舎を出ていってしまった。
呆然とそれを見送る○。
その後ろから、こっそりと様子を伺っていた周倉が、忍び足で近寄ってきた。
「……○さん。趙雲殿に、あの『胡餅』をやってくれねぇか?」
「え?でもあれは昼間に皆さんに配ってしまいました。もうありません」
陸遜にあげた胡餅。
あれは今朝、陸遜だけではなく、劉備軍の他の面々にも配って回っていたものだった。
「それがな……趙雲殿、朝早く出て行ったからアレあげてないだろ。帰ってきてから貰えると思ってたんじゃねえかな、と」
”そしたら陸遜との話を聞いて、さらに機嫌が悪くなったのでは”…とは、趙雲の手前、言えなかった周倉。
○は驚いて目を丸くする。
「あれは、子龍様に差し上げる分から余った材料で作ったものです。これから仕上げて、夜警に出ている間にこっそり幕舎に置いて驚かせようと思っていたんですけど…」
そう言うと○は、調理場の一角に借りた箱から大きな何かを取り出す。
それは座布団のように巨大な胡餅。
その表面に”大好き 子龍様 お疲れ様です”と紅を使って文字を書く。
それを見た周倉は顔をひきつらせた。
「う、うわぁ……! しゅ、趣味の悪ぃ……! むしろそれ、本気で趙雲殿に渡すつもりか?」
「はい! これくらい大きく書かないと、鈍感な子龍様には伝わりません!材料を買うために、小さな任務を沢山こなしてお金を貯めたんです。赤壁は大きな戦だと聞いていたので、慰労になればと」
微笑む○に、周倉はいじらしさを感じた。
○は予定通り、趙雲が夜警に出たのを見計らうと、胡餅を枕元の机に置いた。
「……○殿。そんなことしないで、明日の朝イチにでも直接みんなの前で手渡ししてやりゃいいのに」
「いいんです」
そう言って虎の根付を無造作に隣に置く。
趙雲が気に入らないなら、このまま”そんな物置いてなかった”と言って捨てても良いと思ったからだ。
○は周倉の背中を押すと、幕舎を出て行った。
夜警を終えて幕舎に戻った趙雲。
悶々とした気持ちのまま、異様に漂う胡麻の香りに中を見回した。
ふと見ると、寝台の傍に座布団のような胡餅。
紅でこれでもかと書かれた文字。
禍々しくも見える趣味の悪い造形。
今、こんなものが出てきたという事は、材料の面から考えて赤壁前から計画していたのだろう。
趙雲は吹き出しながら、胡餅を持ち上げた。
胡餅を自分に渡さなかった理由が分かったのと、あれしきで態度に出し過ぎた自分が少し恥ずかしかった。
*****
すっかり日が昇ってから、○が趙雲の幕舎にやってきた。
そこには既に鎧を完璧に着込み、背筋を伸ばして座るいつもの趙雲の姿。
傍らには半分ほどに減った巨大な胡餅。
「子龍様、おはようございます! ……お味はいかがですか?」
○が目を輝かせて駆け寄ると、趙雲はわざとらしく咳払いをし、いつもの無表情で答える。
「……ああ。味は悪くない。趣味は…良くないが」
「またそんな事…。ご機嫌は直りましたか?」
○に覗き込まれ、趙雲はふいと顔を背ける。
「なんの話だ。直るも何もいつも通りだ。それよりも手伝ってくれ。さすがに一人では食べきれん」
二人はしばらく胡餅を黙々と食べた。
「蜂蜜の配分もちょうどいいですね。良かった」
ニコニコしながらそう言う○に、趙雲は虎の根付を差し出した。
「……これを落としていた。懐かしい物なのだろう。それに、呉の将からの贈り物を粗末にしては外交問題になりかねん」
「…あ、すみません、落としていましたか?…ふふ、外交問題だなんて大袈裟ですよ。私なんて、給仕をさせられるような立場ですよ?」
○は笑いながら根付を受け取ると、さっそく腰に結び直す。
「さて、ではそろそろ仕事だ。曹操軍の拠点跡が多すぎて確認が大変でな。早くいかなくては」
二人は揃って幕舎の外に出る。
すると趙雲が幕舎から出てくるのを待っていたのか、関平が駆け寄ってきた。
「あ、趙雲殿」
「関平。どうかしたか」
「いえ、実は先ほど呉の遣いの方が数名到着したのですが……。例の、趙雲殿が熱心にお相手をされていた女官殿が、『外交官の付き添い』という名目で一緒に来ているのです。あの…」
○の顔色を伺いながら話す関平からの説明。
趙雲が何か言う暇もなく。
「趙雲様!ご無事だとは聞いていましたが、一目お会いしたくて……!」
関平の後ろから現れたのは、華やかで美しいあの呉の女官だった。
彼女は周囲の視線も構わず、趙雲の手を取らんばかりの勢いで駆け寄る。
その瞳は潤み、頬は高揚し、誰がどう見ても「恋する乙女」のそれだ。
「宴の夜……あんなにも優しくしてくださったのにお礼も出来ず申し訳ありません。私、夜になるとあの時の事を思い出してしまって……」
「は…、何を…」
趙雲はその場で固まる。
周倉によれば酔って何もせずに座って寝ていただけだと聞いている。
だからそれで安心していたのだが、彼が見ていない所で余計な事をしたのかもしれない。
その可能性が全くない事もないので言葉に詰まった。
背後で○は大声を出しかけるが、グッとこらえる。
呉の女官の前では、”絶対に”大人しくしていないと駄目だ。
諸葛亮にきつく言われている。
赤壁で死にかけた時も、もっと大人になると決めた。
趙雲の女関係くらい、身体の関係がないのであれば飲み下さなければ。
「……。良かったですね。お会いできて。夜になると思い出すんですって。羨ましい。私は仕事をしなくちゃ。行こう、関平殿」
「え、ええ…では、ごゆっくり」
ニッコリ微笑んだ○は、感情のない声でそう言って趙雲の隣を抜けて関平と歩いていく。
「待て。二人とも誤解を…」
「まあ、誤解だなんて、趙雲様。あの時の事、私忘れていませんわ。あの時の手の温もり、今でも……」
(何の話だ…)
○は少しだけ振り返る。
「……ほんと、よくこれで陸遜殿の事であれだけ……。まぁ、いいですけど」
彼女は趙雲の弁明を待つこともなく、きびすを返す。
それに追従した関平だが、思い出したように趙雲に振り返った。
「ああ、趙雲殿。忘れていました。諸葛亮殿が『趙雲殿は、ぜひそちらの方と有意義な時間をお過ごしください』と仰ってましたよ! 今日の作業は免除だそうです」
○は咳ばらいをすると関平を振り返る。
「関平殿!もういいから行きましょ!」
「ああ、はい…では!」
趙雲の制止も虚しく、関平は爽やかな笑顔で○と去っていく。
後に残されたのは、獲物を前にした狩人のような瞳で微笑む絶世の女官と、彫像のように立ち尽くす趙雲。
しかしそれを物ともせず、女官は腕を絡ませる。
趙雲はただただ余所行きの笑顔で応対するしかなかった。
*****
今日の撤収作業には関平の他に星彩と関興がいた。
関興は本格的な戦にはまだ出たことがなく、後衛や支援側にいたこともあり、趙雲と前線に出る事が多い○はちゃんと話した事がなかったが、関平に仲介してもらって挨拶をした。
余り人と話す人間ではない天才肌と聞いていた関興だったが、○と趙雲のいざこざも知っていて年が近い事もあり、すぐに馴染めた。
話してみると冗談も言えるし、全員を呼び捨てる気さくさもある。
一日一緒に作業をし、夕方ごろには四人は和やかな空気になる。
「ねえ、知ってる?明日、また宴会があるらしいの」
星彩が言うと、○だけではなく関平もうなだれた。
「ええ!急だな」
「撤収作業の終わりが見えて来たからってことみたい。これで最後じゃないかしら」
「にしても孫権殿って、宴会、多すぎない?呉の宴会って、私、苦手…そもそもお酒あまり飲めないし、時間まで帰れないし」
「拙者もだ」
それぞれ違う理由で俯く二人を、星彩は困った様に見つめる。
「○」
関興が話しかけた。
「俺も誰かの相手をさせられるのは困る。お前さえよければ、一緒に座っていないか?年の近い者同士でいれば不自然にもならないだろうし、同じ陣営の者同士でいれば流石に呉の人間も入ってこないと思うんだ」
陸遜には悪い気もしたが、関興の誘いは魅力的だ。
○は大きくうなずいた。
すると星彩と関平もそれに賛同して、明日は四人で固まっていようという話になった。
そうなってくると少し楽しみになる。
四人は連れ立って陣に帰っていった。
ようやく解放された趙雲は、女官が「ではまた、明日の宴会で……」と名残惜しそうに去っていくのを見送り、大きくため息をついた。
(戦よりも、こういう立ち回りの方がよほど骨が折れる。正解が分からん)
傍の木にもたれて一息ついていると。
「……浮気は駄目ですよ」
背後から突き刺さるような低い声が響く。
心臓が跳ね上がるのを感じながら趙雲が勢いよく振り向くと、そこにはいつの間にか背後に立っていた○が、どこか泣きだしそうな瞳で趙雲をじっと見つめていた。
「いつからそこに……」
「明日の約束をされてる時からです。……私が陸遜殿から根付けを頂いただけで、あんなにお怒りになったのに。子龍様は、あんなに堂々と見せびらかすみたいに一日じゅう美人と肩を寄せて歩いて……。少しは、私の旦那様だという自覚があるんですか?」
「……な、何を馬鹿なことを。いつ私がお前の”旦那様”になったのだ。私は、主である劉備殿のために命を懸けて働くのみだ。お前の戯言に付き合っている暇はない」
「まだそんな事を言ってるんですか!」
○は趙雲の背中に言う。
「大体、任務任務って……あの方から何か軍事的な機密でも得られているんですか?なんっにも聞いた事がありません」
「それは……。今はまだ、信頼関係を築いている段階で……」
「あんなにデレデレしてるのに、まだ信頼関係を築けていないんですか?しかも戦は終わりましたよ。同盟中もずっとこの関係を続けるんですか?本当は断れなくて、なし崩し的な感じなのでは?本当はなんやかんやで美人にベタベタされて嬉しいんでしょ!」
「…お前の妄想に付き合わされては話にならん。私は今日一日しっかり仕事が出来ていないからな。やることがある」
「今日の仕事は免除って言われてましたよね」
「…もう行く」
「あ!話はまだ終わっていません」
○を振り切って大股で歩く趙雲。
足の長さで○は不利だ。
陣中を撒くようにジグザグに歩きまわり、○の視界が遮られた一瞬を狙って趙雲は咄嗟に近くの空いている幕舎に入った。
そこは巡回兵の休憩場所で、趙雲は音を立てぬよう素早く帳を閉じる。
中で休憩していた周倉が驚いて振り向いた。
「げっ!なんすかぁ、いきなり! 趙雲殿!土足で……」
「静かに!」
「あー……。また○殿ですか」
「”また”とはなんだ」
「趙雲殿が挙動不審な動きをしてる時は○殿絡みって、我が軍の共通認識ですけど」
外の気配を伺う趙雲に、周倉は「やれやれ」と頭を掻く。
「趙雲殿。前から思ってましたけど……○殿の何がそんなに問題なんすか? あの子、一途だし、料理はうまいし、ニコニコしてて明るいし。俺ならさっさと結婚して落ち着きますけどねぇ。……それとも、趙雲殿って意外と、あちこちの女と遊びたい派とか?」
「そんな不埒な考えがあるはずがないっ」
趙雲は反射的に怒鳴りかけたが、すぐに声を潜め、力なくため息をつく。
「私は……劉備殿の天下のために、この命を捧げると決めたのだ。この身は常に戦場にあり、明日の命さえ定まらぬ。このような不安定な状況で、婚姻などという責任を負えるはずがない。……○を、未亡人にするわけにはいかんのだ」
(またその理論か)
周倉は椅子に座り直す。
「そんなに責任取れないとか何とか言うなら、いっそ手放してあげりゃいいじゃないですか。そうすれば、○殿だって他の男なりと幸せになれるでしょうよ。結婚適齢期、逃しちゃいますよ。このままじゃ」
「……手放すだと? 簡単に言うな」
趙雲は再び外を伺いながら、苦々しく言う。
「かつて村に置いてきたのに二年越しに追ってきた程だ。そんなことでどこかへ行くようなタマではない」
そんな事を言っていると、幕舎の外を○が通り過ぎた。
「まったく。何が“信頼関係を築いてる”よ。その後どうするつもりなんだかっ」
ブツブツと怒りながら幕舎の前を通り過ぎて離れて行った。
その足音を見送ると、趙雲はホッと息をつく。
「こんなの、その場しのぎでじゃないですか?」
「いや、案外さっぱりした人間だからな。頭が冷えたらそこまでしつこくない。しかし、いま見つかると長くなる。今日はここで寝るとしよう」
幕舎の隙間から顔だけを出してキョロキョロする、普段の趙雲からは想像もつかない姿に周倉は笑った。
趙雲は腕を組み、仁王立ちで長江からの風に吹かれていた。
彼の視線は○が帰ってくるであろう方向にむけられている。
(遅い。撤収作業など、とっくに終わっているはずだ。私に渡す物があるはずだというのに)
心の中では「まあ、好きにすればいい」と唱えながらも、帰りが遅くなると気になる。
そして今日は特に気がかりがあった。
程なくしてこちらに戻ってくる○の姿を小さく見つけ、趙雲は弾かれたように食事用の幕舎へと滑り込む。
空いていた席に腰を下ろすと、さも「随分前からここに座って、食事をしていました」という風を装って箸を動かし始める。
しばらくして○が幕舎に入ってきた。
「あ、子龍様。もう戻られてたんですね。お疲れ様です!」
○は特に疑う様子もなく、自分の分の食事を取りに行くと、当然のように趙雲の隣に座った。
「……ずいぶん遅かったな。撤収作業に出ていた他の兵は、夕方前には帰っていたようだが」
実は先に帰った兵士に、”○は陸遜と話をしていたから少し遅れて戻ると思う”と聞いていた趙雲。
○は箸を動かしながら、事もなげに答えた。
「片付けの後に少し散歩していたら、いつの間にか時間が経っちゃって」
陸遜の名前は一言も口に出さない。
○からすれば”友達とお菓子を食べた”くらいの認識で、報告するほどの事ではないものだった。
しかし、その”言わない”という態度が、逆に趙雲の疑心暗鬼に火をつける。
(……陸遜殿といたことは伏せるつもりか)
しかし趙雲は「○は別に私のなんでもないのだから、好きにすればいい」と心の中で何度も唱えた。
そしてさりげなく話しかける。
「私に、渡す物はないか?」
「渡す物…?子龍様にですか?」
「いや、いい。風邪が治ったばかりなのだから、余計な道草は慎め」
「…?はい。………?」
なんだか今の趙雲は何が言いたいのかよく分からない。
首をかしげる○。
妙な沈黙が流れたその時。
周倉が「ノド乾いた~」と、幕舎に入ってきた。
周倉は趙雲達に挨拶をすると水を飲みながらそこらの物をつまみなつつ、○の腰の根付けをめざとく見つける。
「うわ!懐かしいな、それ!何年か前にめちゃくちゃ流行ったやつじゃねえか。俺の田舎の妹も欲しがってたぜ!まだあるんだなぁ」
「あ、ご存じですか? これ、陸遜殿にいただいたんです」
○はあっさりと、そしてなんの気負いもなく答えた。
隠す必要など微塵も感じておらず、むしろ自慢げに根付を見せている。
根付の存在にも気付いていなかった趙雲は、その会話に箸が止まった。
趙雲の脳裏には、爽やかに微笑む陸遜の顔が浮かんだ。
自分にはない溌溂さと、○と同じ時代を共有しているという事実。
すらすらと言ってのける誉め言葉。
「……周倉。用が済んだなら、早々に持ち場へ戻れ。今日は夜の哨戒任務があったはずだ」
そのなにやら怒った様子に周倉は慌てて出て行く。
再び訪れる、二人きりの沈黙。
○は趙雲のただならぬ気配に首を傾げた。
「子龍様? ……どうかしたんですか? さっきから、すごく……その、怖い顔をしてますけど」
「……別にどうもしない。○がどこで何をしようが、私の知ったことではない」
「???私ですか?」
それでも意味が分からない○は食事を続ける。
その意味が分かっていない様子に趙雲は追い打ちをかけた。
「そんなにその根付が気に入ったのなら、陸遜殿のところへ行けばよかろう」
吐き捨てるようにそう言った趙雲の言葉は、いつになく子供じみた響きを含んでいた。
これでやっと気づいた○。
箸を止めて、まじまじと腰の根付を見つめる。
「え? そんな重大なものでしたか、これ……。ただ、懐かしいなと思って…子龍様がお嫌なら明日、返し「気にはならん」
趙雲は○の言葉を最後まで聞こうともせず、短く遮る。
そして残りの飯を猛烈な勢いでかき込むと、器を置いて幕舎を出ていってしまった。
呆然とそれを見送る○。
その後ろから、こっそりと様子を伺っていた周倉が、忍び足で近寄ってきた。
「……○さん。趙雲殿に、あの『胡餅』をやってくれねぇか?」
「え?でもあれは昼間に皆さんに配ってしまいました。もうありません」
陸遜にあげた胡餅。
あれは今朝、陸遜だけではなく、劉備軍の他の面々にも配って回っていたものだった。
「それがな……趙雲殿、朝早く出て行ったからアレあげてないだろ。帰ってきてから貰えると思ってたんじゃねえかな、と」
”そしたら陸遜との話を聞いて、さらに機嫌が悪くなったのでは”…とは、趙雲の手前、言えなかった周倉。
○は驚いて目を丸くする。
「あれは、子龍様に差し上げる分から余った材料で作ったものです。これから仕上げて、夜警に出ている間にこっそり幕舎に置いて驚かせようと思っていたんですけど…」
そう言うと○は、調理場の一角に借りた箱から大きな何かを取り出す。
それは座布団のように巨大な胡餅。
その表面に”大好き 子龍様 お疲れ様です”と紅を使って文字を書く。
それを見た周倉は顔をひきつらせた。
「う、うわぁ……! しゅ、趣味の悪ぃ……! むしろそれ、本気で趙雲殿に渡すつもりか?」
「はい! これくらい大きく書かないと、鈍感な子龍様には伝わりません!材料を買うために、小さな任務を沢山こなしてお金を貯めたんです。赤壁は大きな戦だと聞いていたので、慰労になればと」
微笑む○に、周倉はいじらしさを感じた。
○は予定通り、趙雲が夜警に出たのを見計らうと、胡餅を枕元の机に置いた。
「……○殿。そんなことしないで、明日の朝イチにでも直接みんなの前で手渡ししてやりゃいいのに」
「いいんです」
そう言って虎の根付を無造作に隣に置く。
趙雲が気に入らないなら、このまま”そんな物置いてなかった”と言って捨てても良いと思ったからだ。
○は周倉の背中を押すと、幕舎を出て行った。
夜警を終えて幕舎に戻った趙雲。
悶々とした気持ちのまま、異様に漂う胡麻の香りに中を見回した。
ふと見ると、寝台の傍に座布団のような胡餅。
紅でこれでもかと書かれた文字。
禍々しくも見える趣味の悪い造形。
今、こんなものが出てきたという事は、材料の面から考えて赤壁前から計画していたのだろう。
趙雲は吹き出しながら、胡餅を持ち上げた。
胡餅を自分に渡さなかった理由が分かったのと、あれしきで態度に出し過ぎた自分が少し恥ずかしかった。
*****
すっかり日が昇ってから、○が趙雲の幕舎にやってきた。
そこには既に鎧を完璧に着込み、背筋を伸ばして座るいつもの趙雲の姿。
傍らには半分ほどに減った巨大な胡餅。
「子龍様、おはようございます! ……お味はいかがですか?」
○が目を輝かせて駆け寄ると、趙雲はわざとらしく咳払いをし、いつもの無表情で答える。
「……ああ。味は悪くない。趣味は…良くないが」
「またそんな事…。ご機嫌は直りましたか?」
○に覗き込まれ、趙雲はふいと顔を背ける。
「なんの話だ。直るも何もいつも通りだ。それよりも手伝ってくれ。さすがに一人では食べきれん」
二人はしばらく胡餅を黙々と食べた。
「蜂蜜の配分もちょうどいいですね。良かった」
ニコニコしながらそう言う○に、趙雲は虎の根付を差し出した。
「……これを落としていた。懐かしい物なのだろう。それに、呉の将からの贈り物を粗末にしては外交問題になりかねん」
「…あ、すみません、落としていましたか?…ふふ、外交問題だなんて大袈裟ですよ。私なんて、給仕をさせられるような立場ですよ?」
○は笑いながら根付を受け取ると、さっそく腰に結び直す。
「さて、ではそろそろ仕事だ。曹操軍の拠点跡が多すぎて確認が大変でな。早くいかなくては」
二人は揃って幕舎の外に出る。
すると趙雲が幕舎から出てくるのを待っていたのか、関平が駆け寄ってきた。
「あ、趙雲殿」
「関平。どうかしたか」
「いえ、実は先ほど呉の遣いの方が数名到着したのですが……。例の、趙雲殿が熱心にお相手をされていた女官殿が、『外交官の付き添い』という名目で一緒に来ているのです。あの…」
○の顔色を伺いながら話す関平からの説明。
趙雲が何か言う暇もなく。
「趙雲様!ご無事だとは聞いていましたが、一目お会いしたくて……!」
関平の後ろから現れたのは、華やかで美しいあの呉の女官だった。
彼女は周囲の視線も構わず、趙雲の手を取らんばかりの勢いで駆け寄る。
その瞳は潤み、頬は高揚し、誰がどう見ても「恋する乙女」のそれだ。
「宴の夜……あんなにも優しくしてくださったのにお礼も出来ず申し訳ありません。私、夜になるとあの時の事を思い出してしまって……」
「は…、何を…」
趙雲はその場で固まる。
周倉によれば酔って何もせずに座って寝ていただけだと聞いている。
だからそれで安心していたのだが、彼が見ていない所で余計な事をしたのかもしれない。
その可能性が全くない事もないので言葉に詰まった。
背後で○は大声を出しかけるが、グッとこらえる。
呉の女官の前では、”絶対に”大人しくしていないと駄目だ。
諸葛亮にきつく言われている。
赤壁で死にかけた時も、もっと大人になると決めた。
趙雲の女関係くらい、身体の関係がないのであれば飲み下さなければ。
「……。良かったですね。お会いできて。夜になると思い出すんですって。羨ましい。私は仕事をしなくちゃ。行こう、関平殿」
「え、ええ…では、ごゆっくり」
ニッコリ微笑んだ○は、感情のない声でそう言って趙雲の隣を抜けて関平と歩いていく。
「待て。二人とも誤解を…」
「まあ、誤解だなんて、趙雲様。あの時の事、私忘れていませんわ。あの時の手の温もり、今でも……」
(何の話だ…)
○は少しだけ振り返る。
「……ほんと、よくこれで陸遜殿の事であれだけ……。まぁ、いいですけど」
彼女は趙雲の弁明を待つこともなく、きびすを返す。
それに追従した関平だが、思い出したように趙雲に振り返った。
「ああ、趙雲殿。忘れていました。諸葛亮殿が『趙雲殿は、ぜひそちらの方と有意義な時間をお過ごしください』と仰ってましたよ! 今日の作業は免除だそうです」
○は咳ばらいをすると関平を振り返る。
「関平殿!もういいから行きましょ!」
「ああ、はい…では!」
趙雲の制止も虚しく、関平は爽やかな笑顔で○と去っていく。
後に残されたのは、獲物を前にした狩人のような瞳で微笑む絶世の女官と、彫像のように立ち尽くす趙雲。
しかしそれを物ともせず、女官は腕を絡ませる。
趙雲はただただ余所行きの笑顔で応対するしかなかった。
*****
今日の撤収作業には関平の他に星彩と関興がいた。
関興は本格的な戦にはまだ出たことがなく、後衛や支援側にいたこともあり、趙雲と前線に出る事が多い○はちゃんと話した事がなかったが、関平に仲介してもらって挨拶をした。
余り人と話す人間ではない天才肌と聞いていた関興だったが、○と趙雲のいざこざも知っていて年が近い事もあり、すぐに馴染めた。
話してみると冗談も言えるし、全員を呼び捨てる気さくさもある。
一日一緒に作業をし、夕方ごろには四人は和やかな空気になる。
「ねえ、知ってる?明日、また宴会があるらしいの」
星彩が言うと、○だけではなく関平もうなだれた。
「ええ!急だな」
「撤収作業の終わりが見えて来たからってことみたい。これで最後じゃないかしら」
「にしても孫権殿って、宴会、多すぎない?呉の宴会って、私、苦手…そもそもお酒あまり飲めないし、時間まで帰れないし」
「拙者もだ」
それぞれ違う理由で俯く二人を、星彩は困った様に見つめる。
「○」
関興が話しかけた。
「俺も誰かの相手をさせられるのは困る。お前さえよければ、一緒に座っていないか?年の近い者同士でいれば不自然にもならないだろうし、同じ陣営の者同士でいれば流石に呉の人間も入ってこないと思うんだ」
陸遜には悪い気もしたが、関興の誘いは魅力的だ。
○は大きくうなずいた。
すると星彩と関平もそれに賛同して、明日は四人で固まっていようという話になった。
そうなってくると少し楽しみになる。
四人は連れ立って陣に帰っていった。
ようやく解放された趙雲は、女官が「ではまた、明日の宴会で……」と名残惜しそうに去っていくのを見送り、大きくため息をついた。
(戦よりも、こういう立ち回りの方がよほど骨が折れる。正解が分からん)
傍の木にもたれて一息ついていると。
「……浮気は駄目ですよ」
背後から突き刺さるような低い声が響く。
心臓が跳ね上がるのを感じながら趙雲が勢いよく振り向くと、そこにはいつの間にか背後に立っていた○が、どこか泣きだしそうな瞳で趙雲をじっと見つめていた。
「いつからそこに……」
「明日の約束をされてる時からです。……私が陸遜殿から根付けを頂いただけで、あんなにお怒りになったのに。子龍様は、あんなに堂々と見せびらかすみたいに一日じゅう美人と肩を寄せて歩いて……。少しは、私の旦那様だという自覚があるんですか?」
「……な、何を馬鹿なことを。いつ私がお前の”旦那様”になったのだ。私は、主である劉備殿のために命を懸けて働くのみだ。お前の戯言に付き合っている暇はない」
「まだそんな事を言ってるんですか!」
○は趙雲の背中に言う。
「大体、任務任務って……あの方から何か軍事的な機密でも得られているんですか?なんっにも聞いた事がありません」
「それは……。今はまだ、信頼関係を築いている段階で……」
「あんなにデレデレしてるのに、まだ信頼関係を築けていないんですか?しかも戦は終わりましたよ。同盟中もずっとこの関係を続けるんですか?本当は断れなくて、なし崩し的な感じなのでは?本当はなんやかんやで美人にベタベタされて嬉しいんでしょ!」
「…お前の妄想に付き合わされては話にならん。私は今日一日しっかり仕事が出来ていないからな。やることがある」
「今日の仕事は免除って言われてましたよね」
「…もう行く」
「あ!話はまだ終わっていません」
○を振り切って大股で歩く趙雲。
足の長さで○は不利だ。
陣中を撒くようにジグザグに歩きまわり、○の視界が遮られた一瞬を狙って趙雲は咄嗟に近くの空いている幕舎に入った。
そこは巡回兵の休憩場所で、趙雲は音を立てぬよう素早く帳を閉じる。
中で休憩していた周倉が驚いて振り向いた。
「げっ!なんすかぁ、いきなり! 趙雲殿!土足で……」
「静かに!」
「あー……。また○殿ですか」
「”また”とはなんだ」
「趙雲殿が挙動不審な動きをしてる時は○殿絡みって、我が軍の共通認識ですけど」
外の気配を伺う趙雲に、周倉は「やれやれ」と頭を掻く。
「趙雲殿。前から思ってましたけど……○殿の何がそんなに問題なんすか? あの子、一途だし、料理はうまいし、ニコニコしてて明るいし。俺ならさっさと結婚して落ち着きますけどねぇ。……それとも、趙雲殿って意外と、あちこちの女と遊びたい派とか?」
「そんな不埒な考えがあるはずがないっ」
趙雲は反射的に怒鳴りかけたが、すぐに声を潜め、力なくため息をつく。
「私は……劉備殿の天下のために、この命を捧げると決めたのだ。この身は常に戦場にあり、明日の命さえ定まらぬ。このような不安定な状況で、婚姻などという責任を負えるはずがない。……○を、未亡人にするわけにはいかんのだ」
(またその理論か)
周倉は椅子に座り直す。
「そんなに責任取れないとか何とか言うなら、いっそ手放してあげりゃいいじゃないですか。そうすれば、○殿だって他の男なりと幸せになれるでしょうよ。結婚適齢期、逃しちゃいますよ。このままじゃ」
「……手放すだと? 簡単に言うな」
趙雲は再び外を伺いながら、苦々しく言う。
「かつて村に置いてきたのに二年越しに追ってきた程だ。そんなことでどこかへ行くようなタマではない」
そんな事を言っていると、幕舎の外を○が通り過ぎた。
「まったく。何が“信頼関係を築いてる”よ。その後どうするつもりなんだかっ」
ブツブツと怒りながら幕舎の前を通り過ぎて離れて行った。
その足音を見送ると、趙雲はホッと息をつく。
「こんなの、その場しのぎでじゃないですか?」
「いや、案外さっぱりした人間だからな。頭が冷えたらそこまでしつこくない。しかし、いま見つかると長くなる。今日はここで寝るとしよう」
幕舎の隙間から顔だけを出してキョロキョロする、普段の趙雲からは想像もつかない姿に周倉は笑った。