赤壁編【全9話】
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赤壁の勝利から一夜明けて…
○は熱を出していた。
医者の見立てでは風邪の諸症状はでていないことから、疲れからくる発熱では?との事だ。
朝から寝ていたので、大分身体は楽になってきている。
日が暮れた頃、首に包帯を巻いた趙雲が薬の乗った盆を持って入ってきた。
「……○。気分はどうだ」
「子龍様…あれ、首の包帯…」
「見た者に余計な事を言われるから隠しているだけだ。怪我ではない」
そこには周倉のつけた痣と、○のつけた歯形がある。
趙雲は溜息をつきながら、○の枕元に腰を下ろした。
盆に乗っているのは、月英が煎じてくれた苦い薬草茶と、身体を温める粥。
月英は”自分もあの騒動に拍車をかけた一人になってしまいました”と言って、お詫びの気持ちを込めてこれを渡してくれたらしい。
「食べたくありません……食欲ないし、沸かない」
○はそう力なく呟くと、布団を頭まで被り、趙雲に背を向けて丸まってしまった。
趙雲はふと、不思議な感覚に陥る。
考えてみれば、いつも○が朝早くから彼の幕舎へ起こしに来るので、趙雲がこうして○が寝ている姿を眺めるのは初めてのことだったからだ。
普段は趙雲の為に整えている髪はぐちゃぐちゃで寝台に広がり、布団に潜り込んで身を縮める姿。
それは普段の喧騒からは想像もつかないものだった。
不覚にも「少し楽しい」とさえ感じてしまった趙雲だが、すぐに気を取り直すと○の肩を優しくゆすった。
「そう言わずに一口でも食べなさい。月英殿が良く効くと……」
「いらない」
○が布団を跳ね除け、寝転んだ姿勢のまま趙雲の腰に後ろから抱き着く。
趙雲の背中に○の熱い頬が押し当てられるが、すぐに○の手がするりと趙雲の脇を通り、下半身の辺りにまでストンと落ちた。
その手が予期せぬ場所を掠めそうになり、趙雲は心臓が口から飛び出そうなほど激しく動揺する。
「○っ」
思わず声が上ずるが、○にそんな下心はない。
彼女はただ、趙雲の腰のあたりに顔をぐいぐいと擦り付け、深く息を吸い込むと――。
「あぁ…子龍様の匂い……この汗の匂いがまた…」
満足げにそう呟いたかと思うと、そのまま趙雲の腰にしがみついて寝息を立て始めた。
慌てているのは自分だけで呑気に触ってくる○。
「……全く。……無事でよかった…」
趙雲はしばらく固まっていたが、やがて大きくため息をつくと、自分を抱きしめたまま眠る○の手に、そっと自分の大きな手を重ねてポンと優しく叩いた。
○を起こしては可哀そうだ、と趙雲も寝台に座ったままうたた寝してしまう。
戦場での緊張が嘘かのような、穏やかなひととき。
つい昨日までは、ここにも戦の音が聞こえていたはずなのに、今は静かなものだ。
数刻後。
ふと意識が戻った時には、 趙雲は寝台に寝転んでいた。
腰の温もりが消えていることに気づいて目を開ける。
「○?」
慌てて周囲を見渡すと、あろうことか○は寝台から転げ落ち、幕舎内の敷物の上で大の字になって眠っていた。
「……なっ、なぜそんなところで……」
趙雲は絶句した。
普段の彼女は、趙雲の身の回りの世話を完璧にこなし、料理を作らせれば絶品、繕い物をさせれば手早く美しい。
隙のない「世話女房」を自称する○が、まさかこれほどまでに凄まじい寝相の持ち主だったとは。
「……ふふっ。ははは……」
静まり返った幕舎に、趙雲の低い笑い声が漏れた。
しっかりしているようで、どこか詰めが甘く、危なっかしい。
まさに”ちゃっかり”を体現したような。
嫉妬深さ故に我儘も言うが、その一途さに悪い気がしないのも事実だ。
(床で寝ていては熱が悪化する)
趙雲は膝をつき、○の体を抱き上げた。
ところが寝台へ戻そうとしたその時。
だらりと垂れ下がった○の腕。
地べたでゴロゴロと暴れたせいで緩くなった衣の合わせが大きくはだけ、○の胸の片側が露わになっているのが目に入った。
ツンとしたその先までしっかり見える。
趙雲は慌てて視線を上へ逸らし、手探りで布団を引っ張り上げると、○を簀巻きにして寝台の上へ転がす。
(何も見ていない…何も見ていない!)
そのまま逃げるように幕舎を飛び出した。
趙雲は自身の昂ぶりを抑えるために、夜風に当たりながら陣中を歩き回った。
*****
朝になり、すっきりと目覚めた○は、自分の状況に少しだけ首を傾げた。
(あれ……? 私、どうやって寝台に戻ったのかしら。いつも床で転がってるのに。……きっと、子龍様が戻してくださったのね)
それから気付く、すっかりはだけた胸元。
酷い時は帯しか残っていない日すらあるので、○にとっては日常茶飯事だ。
胸元を整えながら、(うわ…見られたかな)と思う気恥ずかしさはあるものの、それ以上に「看病してくれた」という喜びが勝り、足取りも軽く食事の用意がされた幕舎へと向かった。
一方の趙雲は食事の席についても落ち着かない。
隣に座って食事をする、すっかり元気な○。
その顔を見ると昨夜の光景を思い出して、不可抗力ではあったものの罪悪感にさいなまれる。
(思っていたよりあったな…どうやって隠しているんだ。引き締まって見えるのに。それに…久しぶりに見た)
○を見ながらそんな邪な事を思う自分を振り払う。
「それでね、子龍様…」
話しかけてくる○の話が耳に入らない。
○はそんな趙雲をじっと見つめていたが、やがて何かを察したように小声で恥ずかしそうに切り出す。
「……もしかして子龍様、私の、その……見ちゃいました?」
「…」
「私、寝相が悪くて。酷い時は帯だけになってしまうんです」
思わず想像してしまうが、気合で振り払う趙雲の事など気にせずに○は続ける。
「今朝は起きたら布団にグルグル巻きになっていたので、もしかしたらなぁと思って。誰かと寝る時はちゃんと厚着するようにしているのですが」
「不可抗力だ」
弁明する趙雲に、○はニコニコ微笑む。
「いえ、いいんです!むしろ子龍様に見て頂けて良かったです。子龍様の中の私が、六歳の頃のままだったら嫌だなと思っていたんですけど…ちゃんと大人でしたでしょ?」
平然と言い放つ○。
趙雲はついに耐えきれず、両手で顔を覆って深く頭を抱え込む。
「当然だろう、○が二十超えているくらい分かっている」
「子龍様なら触ってくださっても良かったのに」
「触らない。……少しは慎みというものを覚えなさい」
すっかり元気を取り戻した○は、その後すぐに劉備と諸葛亮の元へ挨拶に向かい、戦後の片づけに向かった。
*****
諸葛亮により、孫権軍との合同作業に振り分けられた○。
すると爽やかに陸遜が話しかけてきた。
「陸遜殿!…その節はお世話になりました」
○は深々と頭を下げる。
「元気になられたのですね。しばらくお姿を見かけなかったので、劉備軍の方にお聞きしたら”熱がある”と…」
「そうなんです。疲れが溜まっていたみたいで」
笑う○に、陸遜は「お見舞いというか、お土産です」と言って何かを差し出す。
それは小さな虎の根付だった。
「わぁ!これ、小さいときに流行ったものですね!」
「以前、懐かしい生地を見かけた店があったでしょう。あそこに売っていました。私達世代には楽しい店でしたよ」
陸遜の語り口は、戦の血生臭さを一切感じさせないほど爽やかだ。
「今日はお兄様……趙雲殿はいらっしゃらないのですか?」
陸遜がさりげなく周囲を見渡しながら尋ねた。
○は虎の根付をさっそく腰のあたりにぶら下げながら答える。
「はい。あ、兄は拠点の占領任務なんです。将ですから」
「……なるほど。では、ゆっくりお話しできますね。作業をしながらですが」
陸遜は柔らかな笑みを浮かべ、○の隣に立って荷運びを手伝い始める。
「そうだ。ゴマ、お嫌いでなければ、お返しにいかがです?」
○は腰の巾着から、懐紙に丁寧に包まれた胡餅を取り出す。
「今朝、お昼代わりに作ったんです」
個別に包まれたそれを受け取った陸遜は嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます。……食べるのが勿体ないですね」
「食べた方がいいですよ。痛みます」
(そういう意味ではなくて…)と苦笑しながらも、陸遜は期待を込めた目をする。
「……作業が終わったら、少しだけ長江のほとりを歩きませんか? これを一緒にいただきましょう」
これには、さすがの○も少しだけ考えた。
「お兄様が気になりますか?」
「えっ…」
「大丈夫ですよ、すぐそこまでです。貴方の陣まで歩いてすぐの場所です」
そこまで言われて、○は(まぁ…子龍様は放任主義だし、お忙しいから分からないかな)と、首を縦に振る。
「さぁ。では作業の続きです。この辺りを片付けなくては。此度の戦は怪我人が多く規模を大きいので、片づけが大変ですよ」
そう言う陸遜に○はついて行った。
今日の作業を終えて、○と陸遜は約束通り長江の傍に腰かけた。
ようやく胡餅を包みから取り出す。
それを一口食べた陸遜は「美味しいです」と微笑む。
「○殿の心がこもっているのですから、当然でしたね。……貴女は、武芸だけでなく、こうした細やかな気遣いも、人を安心させる不思議な力を持っていますね」
陸遜は胡餅を一口運ぶごとに、まるで息をするように爽やかな称賛の言葉を○に贈る。
下心が透けて見えるような厭らしさはなく、あくまで自然に。
(……すごいなぁ、陸遜殿は。こういうことを、さらっと言えちゃうんだから)
○は感心しながらあの無骨な「兄」を思い浮かべた。
(子龍様なんて私が何かしても、『好きにしろ』か『慎め』の二言くらいだもの。せめてこのくらい自然に、一言くらい褒めてくれればいいのに)
胡餅を食べ終えた二人。
そろそろ帰ろうかと陸遜が立ち上がる。
さりげなく○に手を差し出すが、○はその手を取らずに立ち上がった。
そして、腰にぶら下げた虎の根付に触れる。
「この根付、大切にしますね。ありがとうございます」
陸遜は少しだけ寂しげに、けれど満足そうに微笑んだ。
もう彼は気づいている。
○と趙雲が兄妹などではない事も、○がどれほど趙雲を慕っているかも。
更に言うなら、趙雲がどれほど無自覚に彼女を自分の傍に留めようとしているかまで。
「……○殿。またお会い出来たらいいですね。その時は……今度は私が、何か美味しいものを用意しておきますよ」
「楽しみにしてます」
大きく手を振りながら劉備軍の幕舎へと駆け戻っていく○の後ろ姿を、陸遜は見つめていた。
○は熱を出していた。
医者の見立てでは風邪の諸症状はでていないことから、疲れからくる発熱では?との事だ。
朝から寝ていたので、大分身体は楽になってきている。
日が暮れた頃、首に包帯を巻いた趙雲が薬の乗った盆を持って入ってきた。
「……○。気分はどうだ」
「子龍様…あれ、首の包帯…」
「見た者に余計な事を言われるから隠しているだけだ。怪我ではない」
そこには周倉のつけた痣と、○のつけた歯形がある。
趙雲は溜息をつきながら、○の枕元に腰を下ろした。
盆に乗っているのは、月英が煎じてくれた苦い薬草茶と、身体を温める粥。
月英は”自分もあの騒動に拍車をかけた一人になってしまいました”と言って、お詫びの気持ちを込めてこれを渡してくれたらしい。
「食べたくありません……食欲ないし、沸かない」
○はそう力なく呟くと、布団を頭まで被り、趙雲に背を向けて丸まってしまった。
趙雲はふと、不思議な感覚に陥る。
考えてみれば、いつも○が朝早くから彼の幕舎へ起こしに来るので、趙雲がこうして○が寝ている姿を眺めるのは初めてのことだったからだ。
普段は趙雲の為に整えている髪はぐちゃぐちゃで寝台に広がり、布団に潜り込んで身を縮める姿。
それは普段の喧騒からは想像もつかないものだった。
不覚にも「少し楽しい」とさえ感じてしまった趙雲だが、すぐに気を取り直すと○の肩を優しくゆすった。
「そう言わずに一口でも食べなさい。月英殿が良く効くと……」
「いらない」
○が布団を跳ね除け、寝転んだ姿勢のまま趙雲の腰に後ろから抱き着く。
趙雲の背中に○の熱い頬が押し当てられるが、すぐに○の手がするりと趙雲の脇を通り、下半身の辺りにまでストンと落ちた。
その手が予期せぬ場所を掠めそうになり、趙雲は心臓が口から飛び出そうなほど激しく動揺する。
「○っ」
思わず声が上ずるが、○にそんな下心はない。
彼女はただ、趙雲の腰のあたりに顔をぐいぐいと擦り付け、深く息を吸い込むと――。
「あぁ…子龍様の匂い……この汗の匂いがまた…」
満足げにそう呟いたかと思うと、そのまま趙雲の腰にしがみついて寝息を立て始めた。
慌てているのは自分だけで呑気に触ってくる○。
「……全く。……無事でよかった…」
趙雲はしばらく固まっていたが、やがて大きくため息をつくと、自分を抱きしめたまま眠る○の手に、そっと自分の大きな手を重ねてポンと優しく叩いた。
○を起こしては可哀そうだ、と趙雲も寝台に座ったままうたた寝してしまう。
戦場での緊張が嘘かのような、穏やかなひととき。
つい昨日までは、ここにも戦の音が聞こえていたはずなのに、今は静かなものだ。
数刻後。
ふと意識が戻った時には、 趙雲は寝台に寝転んでいた。
腰の温もりが消えていることに気づいて目を開ける。
「○?」
慌てて周囲を見渡すと、あろうことか○は寝台から転げ落ち、幕舎内の敷物の上で大の字になって眠っていた。
「……なっ、なぜそんなところで……」
趙雲は絶句した。
普段の彼女は、趙雲の身の回りの世話を完璧にこなし、料理を作らせれば絶品、繕い物をさせれば手早く美しい。
隙のない「世話女房」を自称する○が、まさかこれほどまでに凄まじい寝相の持ち主だったとは。
「……ふふっ。ははは……」
静まり返った幕舎に、趙雲の低い笑い声が漏れた。
しっかりしているようで、どこか詰めが甘く、危なっかしい。
まさに”ちゃっかり”を体現したような。
嫉妬深さ故に我儘も言うが、その一途さに悪い気がしないのも事実だ。
(床で寝ていては熱が悪化する)
趙雲は膝をつき、○の体を抱き上げた。
ところが寝台へ戻そうとしたその時。
だらりと垂れ下がった○の腕。
地べたでゴロゴロと暴れたせいで緩くなった衣の合わせが大きくはだけ、○の胸の片側が露わになっているのが目に入った。
ツンとしたその先までしっかり見える。
趙雲は慌てて視線を上へ逸らし、手探りで布団を引っ張り上げると、○を簀巻きにして寝台の上へ転がす。
(何も見ていない…何も見ていない!)
そのまま逃げるように幕舎を飛び出した。
趙雲は自身の昂ぶりを抑えるために、夜風に当たりながら陣中を歩き回った。
*****
朝になり、すっきりと目覚めた○は、自分の状況に少しだけ首を傾げた。
(あれ……? 私、どうやって寝台に戻ったのかしら。いつも床で転がってるのに。……きっと、子龍様が戻してくださったのね)
それから気付く、すっかりはだけた胸元。
酷い時は帯しか残っていない日すらあるので、○にとっては日常茶飯事だ。
胸元を整えながら、(うわ…見られたかな)と思う気恥ずかしさはあるものの、それ以上に「看病してくれた」という喜びが勝り、足取りも軽く食事の用意がされた幕舎へと向かった。
一方の趙雲は食事の席についても落ち着かない。
隣に座って食事をする、すっかり元気な○。
その顔を見ると昨夜の光景を思い出して、不可抗力ではあったものの罪悪感にさいなまれる。
(思っていたよりあったな…どうやって隠しているんだ。引き締まって見えるのに。それに…久しぶりに見た)
○を見ながらそんな邪な事を思う自分を振り払う。
「それでね、子龍様…」
話しかけてくる○の話が耳に入らない。
○はそんな趙雲をじっと見つめていたが、やがて何かを察したように小声で恥ずかしそうに切り出す。
「……もしかして子龍様、私の、その……見ちゃいました?」
「…」
「私、寝相が悪くて。酷い時は帯だけになってしまうんです」
思わず想像してしまうが、気合で振り払う趙雲の事など気にせずに○は続ける。
「今朝は起きたら布団にグルグル巻きになっていたので、もしかしたらなぁと思って。誰かと寝る時はちゃんと厚着するようにしているのですが」
「不可抗力だ」
弁明する趙雲に、○はニコニコ微笑む。
「いえ、いいんです!むしろ子龍様に見て頂けて良かったです。子龍様の中の私が、六歳の頃のままだったら嫌だなと思っていたんですけど…ちゃんと大人でしたでしょ?」
平然と言い放つ○。
趙雲はついに耐えきれず、両手で顔を覆って深く頭を抱え込む。
「当然だろう、○が二十超えているくらい分かっている」
「子龍様なら触ってくださっても良かったのに」
「触らない。……少しは慎みというものを覚えなさい」
すっかり元気を取り戻した○は、その後すぐに劉備と諸葛亮の元へ挨拶に向かい、戦後の片づけに向かった。
*****
諸葛亮により、孫権軍との合同作業に振り分けられた○。
すると爽やかに陸遜が話しかけてきた。
「陸遜殿!…その節はお世話になりました」
○は深々と頭を下げる。
「元気になられたのですね。しばらくお姿を見かけなかったので、劉備軍の方にお聞きしたら”熱がある”と…」
「そうなんです。疲れが溜まっていたみたいで」
笑う○に、陸遜は「お見舞いというか、お土産です」と言って何かを差し出す。
それは小さな虎の根付だった。
「わぁ!これ、小さいときに流行ったものですね!」
「以前、懐かしい生地を見かけた店があったでしょう。あそこに売っていました。私達世代には楽しい店でしたよ」
陸遜の語り口は、戦の血生臭さを一切感じさせないほど爽やかだ。
「今日はお兄様……趙雲殿はいらっしゃらないのですか?」
陸遜がさりげなく周囲を見渡しながら尋ねた。
○は虎の根付をさっそく腰のあたりにぶら下げながら答える。
「はい。あ、兄は拠点の占領任務なんです。将ですから」
「……なるほど。では、ゆっくりお話しできますね。作業をしながらですが」
陸遜は柔らかな笑みを浮かべ、○の隣に立って荷運びを手伝い始める。
「そうだ。ゴマ、お嫌いでなければ、お返しにいかがです?」
○は腰の巾着から、懐紙に丁寧に包まれた胡餅を取り出す。
「今朝、お昼代わりに作ったんです」
個別に包まれたそれを受け取った陸遜は嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます。……食べるのが勿体ないですね」
「食べた方がいいですよ。痛みます」
(そういう意味ではなくて…)と苦笑しながらも、陸遜は期待を込めた目をする。
「……作業が終わったら、少しだけ長江のほとりを歩きませんか? これを一緒にいただきましょう」
これには、さすがの○も少しだけ考えた。
「お兄様が気になりますか?」
「えっ…」
「大丈夫ですよ、すぐそこまでです。貴方の陣まで歩いてすぐの場所です」
そこまで言われて、○は(まぁ…子龍様は放任主義だし、お忙しいから分からないかな)と、首を縦に振る。
「さぁ。では作業の続きです。この辺りを片付けなくては。此度の戦は怪我人が多く規模を大きいので、片づけが大変ですよ」
そう言う陸遜に○はついて行った。
今日の作業を終えて、○と陸遜は約束通り長江の傍に腰かけた。
ようやく胡餅を包みから取り出す。
それを一口食べた陸遜は「美味しいです」と微笑む。
「○殿の心がこもっているのですから、当然でしたね。……貴女は、武芸だけでなく、こうした細やかな気遣いも、人を安心させる不思議な力を持っていますね」
陸遜は胡餅を一口運ぶごとに、まるで息をするように爽やかな称賛の言葉を○に贈る。
下心が透けて見えるような厭らしさはなく、あくまで自然に。
(……すごいなぁ、陸遜殿は。こういうことを、さらっと言えちゃうんだから)
○は感心しながらあの無骨な「兄」を思い浮かべた。
(子龍様なんて私が何かしても、『好きにしろ』か『慎め』の二言くらいだもの。せめてこのくらい自然に、一言くらい褒めてくれればいいのに)
胡餅を食べ終えた二人。
そろそろ帰ろうかと陸遜が立ち上がる。
さりげなく○に手を差し出すが、○はその手を取らずに立ち上がった。
そして、腰にぶら下げた虎の根付に触れる。
「この根付、大切にしますね。ありがとうございます」
陸遜は少しだけ寂しげに、けれど満足そうに微笑んだ。
もう彼は気づいている。
○と趙雲が兄妹などではない事も、○がどれほど趙雲を慕っているかも。
更に言うなら、趙雲がどれほど無自覚に彼女を自分の傍に留めようとしているかまで。
「……○殿。またお会い出来たらいいですね。その時は……今度は私が、何か美味しいものを用意しておきますよ」
「楽しみにしてます」
大きく手を振りながら劉備軍の幕舎へと駆け戻っていく○の後ろ姿を、陸遜は見つめていた。