赤壁編【全9話】
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翌日、皆がそれぞれ鍛錬をしていると、劉備が諸葛亮を伴ってやってきた。
「今しがた、孫権殿より申し出があった。赤壁の決戦を前に、両軍の結束を深めるための宴を開いてくれるそうだ。今夜は英気を養うが良い!」
「おおおーっ!」と沸き立つ将兵たち。
しかし、その喧騒の中で○は、ふといつしかの陸遜との会話を思い出していた。
(そういえば陸遜殿、「孫権様は酒を愛し、何かにつけて宴を開くのがお好きでして」なんて苦笑いしてたっけ…)
孫権は無類の酒好きとして有名だ。
しかし、○の脳裏をよぎったのは、そんな賑やかな宴の情景ではない。
(ということは、あの女官だって絶対にいるはずよね…あーゾッとする。また子龍様のアレを見ないと駄目なの…?)
○は”見なければ我慢できるかもしれない”と、今宵の宴会は欠席しようと決めた。
決めたのに…。
「いけません。あなたも参加してください」
諸葛亮が一刀両断した。
「あなたが親交を深めているあの”陸遜殿”。彼はまだ無名の将を装っていますが、観察していると他の者と扱いが若干違うように見えるのです。呉の次世代を担う軍師となる器であったなら、顔を売っておいて損はありません」
そう言われて宴会場に放り出された。
あの後、趙雲にも詰め寄ったが、「私の一存で欠席できるものではないし、仕方ないだろう。邪魔するな」と言われて、案の定趙雲はあの女官の傍にいる。
しかしこうして壁際で観察していると、関平も周倉もあの若い星彩ですら、それぞれお相手が見繕われているらしい。
皆、にこやかに対応している。
(……なんて破廉恥な世界なの。欲望渦巻くって感じ。あ~やだやだ)
劉備軍の面々が次々と呉の美女や美丈夫に囲まれていく様子は、○にとってはもはや軍事同盟と言う名のお見合いだ。
広間は豪華絢爛な装飾と、呉の潤沢な資金力を象徴するような美酒佳肴で溢れている。
貧乏な劉備軍ではこんな大きな宴会なんてした事がないので、最初は新鮮であったが、こうもたて続くと疲れてしまう。
男たちは案の定、席に着くやいなや華やかな女性たちにさらわれていった。
(なによ、もう。子龍様ったら不本意そうな顔をしていたのは最初だけで、今はあんなに近くに寄られて……。もしかして、私が見ていないところでは、他の女性にあんな顔をして甘い言葉を囁いてるんじゃないの?)
遠くの席で、あの女官が趙雲の盃に酒を注ぎ、耳元で何かを囁いている。
趙雲は困ったような顔をしながらも、彼女を突き放すことはしない。
(昔、軍の付き合いで女性と”そういう事”をしたって言ってたけど、もしかしてこういう所で知り合ってそのまま部屋を移動してって…そういうこと?)
そんな事を悶々と考えていると、自然と眉間にしわが寄る。
「こんばんは」
不意にかけられた言葉にそちらを見ると、やはりの陸遜。
この場で話しかけてくるのは陸遜だけだ。
「壁際にいらっしゃることが多いのですね。見つけるのに一苦労しました」
「あ…ええ…なんだかこの空気にはついて行けなくて」
「ふふ、私もです。また、あちらの隅で軽く飲みませんか?」
陸遜はまたも宴席の端を示した。
趙雲に背を向けて座る○。
今日の陸遜はその隣に座っている。
宴会の騒ぎが大きいせいで、陸遜が○に話しかける時は顔を寄せる。
その会話で○が肩を揺らして笑った。
その様子を遠目にチラチラと見ていた趙雲は、その様子が気になりつつも、それを忘れるように次々と女官の注ぐ酒を飲んだ。
感情を殺し、表情を鉄の仮面で覆い隠す趙雲。
酒はそこまで弱くないはずだが、強い酒を飲んだようで、熱気と女官たちの香油で少し頭が痛くなった。
すると、昨日、文を寄越したあの女官がそっと趙雲の手を取る。
「……趙将軍、少し顔が赤いようですわ。外の風に当たりませんか?」
普段の趙雲であれば、礼を尽くして断ったはず。
しかし今の彼は、どこか○にあてつけるような気持ちが生まれて、誘われるがままに騒がしい宴会場を後にした。
静かな縁側。
夜風が火照った頬を撫でる。
趙雲の意識はどこか遠くにあった。
(私は何をしているんだ。この様な所まで来てしまった)
そんな事を思いながら縁側に腰を下ろすと、女官は待っていましたと言わんばかりに隣へ滑り込む。
「ふふ、今夜は拒まれないのですね」
彼女の白く細い腕が、吸い付くように趙雲の腕絡みつく。
酒のせいか思考が鈍っている趙雲は、その感触を振り払うこともしない。
「今日の趙将軍……お酒のせいかしら、いつも以上に凛々しくて。……こうして寄り添っていると、まるで睦み合っている最中のようで……。わたくし、緊張して鼓動が止まりません」
彼女の指先が趙雲の胸元を愛おしそうになぞる。
(……睦み合っている、か)
趙雲はぼんやりと庭を眺める。
自分を追い、自分だけを見ていると言いながら、他の男と楽しげに過ごす○。
彼女を追い出し突き放しながら、ああして他の男といられると気になる自分。
女官の甘い匂いに包まれながら、趙雲は重い溜息を吐き、彼女のしたい様にさせていた。
*****
窓から差し込む朝日の眩しさに趙雲は重い瞼を開けた。
昨夜の記憶は、宴の喧騒と女官の甘い香りのあたりで途切れている。
酒のせいで暑かったのか上半身を脱いでいる。
慣れない深酒を呪いながら身を捩ろうとした時、異様な温かさを隣に感じた。
(……何だ?隣が温かい)
横を見ると、そこにはなぜか周倉が同じ布団に入り、狭い寝台の半分を占領して爆睡していた。
「周倉!?」
困惑する趙雲を余所に、周倉は隣で動いた趙雲に反応してその逞しい腕を伸ばす。
何と勘違いしているのか、趙雲の胴体を抱き込んでその頬を趙雲の首筋に寄せる。
「やめろ! 離れろ周倉!目を覚ま……いたた、」
趙雲は周倉の顔を掌で全力で押し返すも、酒のせいで頭痛がする。
怪力の周倉は寝ぼけているが故に加減を知らず、趙雲の鎖骨の辺りに口づけをした。
そのまま力強く吸われる。
趙雲は脊髄反射で周倉の腹を蹴り飛ばし、寝台から叩き落とした。
「あだっ!! ……ぅえっ!? なんで俺、床に……え!趙雲殿、なんで裸!?」
床に転がった周倉が、後頭部をさすりながら信じられないものを見る目で趙雲を見上げる。
一方の趙雲は、荒い息をつきながら鎖骨を見た。
そこには鮮明な”吸い跡”。
「……周倉。自分が何をしたか分かっているのか」
「え? いや、俺は……綺麗な夢を見てただけで……。って、うわああ! 首、ものすげぇ跡がついてるじゃないすか! 誰にやられたんすかそれ!?」
「貴殿だ!!」
趙雲は禍々しい”跡”を指でなぞり、天を仰いで深く嘆息する。
「最悪だ…」
「いや、 俺だって被害者ですよ!そもそもは趙雲殿が悪いんですから!」
「……は?まず、なぜ周倉が私の寝台にいる。あの宴の後、私はどうなった?」
「覚えてねぇんですか? 趙雲殿、あの女官としっぽり縁側でベタベタしてたじゃないですか。それを、宴会場に趙雲殿がいないって探しに来た○さんに見られたんですよ」
趙雲の肩がビクリと跳ねる。
「○さんが話しかけてもウトウトするばかりで……○さんはそれはもう、この世の終わりみたいな顔をした後、『最低』って怒って、関平殿たちと一緒にさっさと宿に帰っちまったんです。しかしあれは今思うと…何か盛られたんすかね」
趙雲は信じられないという顔でいる。
「俺は残された趙雲殿が放っておけなくて、泥酔してたのを担いでここまで運んだんですよ。そしたら部屋に着いた途端、趙雲殿が俺の腰をガシィッ!と手繰り寄せて離さねぇもんだから……。俺も酔ってたし、離してもらうのを待ってるうちにそのまま寝ちまったってわけです」
「女官とは…」
「何もなかったです。というか、何かできる状態じゃなかったです」
「その代わりに、私が、貴殿を抱き寄せたと?」
「ええ。もう凄まじい力でしたよ。○殿だったら喜んだでしょうに」
「余計な事は言わないでほしい…」
趙雲は顔を覆い項垂れた。
誤解を解かなければならない○は激怒して帰宅しており、目の前には自分に印を付けたむさ苦しい男。
彼と互いの熱を分け合って仲良く眠っていた事実。
そして鎖骨には”情事の跡”にしか見えない赤い痕。
「それ、俺がやったって言わないでくださいね。女にモテたい人間なので、俺。変な噂がたっちまう」
周倉が真剣な顔で言う。
趙雲は眉をあげる。
「駄目だ。正直に言わなくては…こんなもの、○に見られたら大騒ぎだ」
「じゃあ俺、証言しませんぜ?女官とは何もなく帰ったっていうのは、連れて帰った俺しか知らないんです。別にいいじゃないすか。何もなかったけど、ソレだけはつけられたって事で」
「周倉…!」
「考えといてください。とりあえず、俺は自室に帰りま…」
「子龍様、起きてますか!? お話ししたいことが山ほどあります!」
周倉が閂をあけて部屋の戸を開けたのとほぼ同時に○が立っていた。
突然の訪問に鎖骨を隠せなかった趙雲。
はだけた襟元から覗く鮮やかな「紅い跡」に釘付けになる○。
思わず周倉が口を開く。
「○さん! 落ち着いて聞いてくれ。昨日、将軍をあの女官から引き剥がして、部屋までしっかり担いで帰ったのはこの俺だ!趙雲殿はそれはもうフラフラで何も出来ない状態だったし、帰ってからはすぐ寝てた! 趙雲殿はちゃんと無事に帰ってきたんだ!」
勝手に先走って周倉が言い訳をする。
周倉としては、これで「不貞はなかった」と安心させるつもりだったが、○は違う方向に考える。
「では、あの後、公衆の面前でそんなものをつけられたんですか」
「いや、それは」
趙雲が何か言いかけた時、月英が通りかかる。
「お静かに。外まで丸聞こえです。これから陣を張りに出ますから、各々準備をせよとの事です」
ピシャリとそう言った後に、月英はそっと○の肩に手を置く。
「武将様というお立場は、時に個人の意思だけでは立ち行かぬもの。……○さん、お気持ちは痛いほど分かります。ですが、あれだけの『印』で済んだのだと、今は自分を納得させるしかありません」
月英は悟りきったような瞳で静かに諭す。
「この乱世、正妻の他に幾人もの側室を置くお方は沢山いらっしゃいます。我が夫とて、いつ主君からそのような話を下されるか……。あなたも趙雲殿の妻を名乗るのであれば、この程度…と、殿方としてのお付き合いとして流すしかないのです。…さあ、行きましょう」
そういうと○をサッと連れて行ってしまった。
「…良くない方向に話が進んだ気がする」
「そうですねぇ…かと言って、正直に言っても、今はよくて男色だと思われて終わる気もします」
「…」
「とはいえ、何もなかったのは伝わってるでしょうし…」
趙雲は深くため息をつく。
「…仕方がない。今は大戦が目の前だ。余計な事に気を回す時ではない。私は潔白なのだから時間が解決するだろう」
*****
幕舎の設営が進み、軍馬の嘶きが響く喧騒の中、○は軍馬の世話を言いつけられていた。
少し離れた所で、趙雲は自分の愛馬の世話をする。
いつもならなんだかんだで距離を詰めてくる○が、今日は話しかけてこない。
こちらに背を向けて、黙々と馬の手入れをする。
趙雲が、重苦しい沈黙に耐えかねて○の傍によって話しかけた。
「……○、そこの櫛を取ってくれないか」
「はい、どうぞ」
にこ、と反射的に微笑んで櫛を渡した○だったが、趙雲の顔を見てサッと目を反らす。
「……誰にでも肌を許す人とは、口をきかないんだった」
「○」
「子龍様のばか……もういいです。私、あっちを手伝います」
ぷいっとそっぽを向き、足早に去っていく○。
喉元まで出かかったその真実は、どうしても口にすることができない。
誤解を解けば自分の尊厳が死に、黙っていれば○の信頼を失う。
(しかしこの先、月英殿が仰ったような事は起きるやもしれぬ)
そうなれば今回の一件は、遅かれ早かれ乗り越えなくてはならない事なのかもしれない。
そして自分を避ける今の○なら、常に危険な前線に向かう自分と距離を置いてくれるかも…という期待もある。
共に鍛錬をしてきた中で、そこら辺の兵士に負ける○ではないことは分かっている。
しかし敵の本陣に突っ込むとなれば心配があった。
(私から離れて戦ってほしい)
心からそう願った。
「今しがた、孫権殿より申し出があった。赤壁の決戦を前に、両軍の結束を深めるための宴を開いてくれるそうだ。今夜は英気を養うが良い!」
「おおおーっ!」と沸き立つ将兵たち。
しかし、その喧騒の中で○は、ふといつしかの陸遜との会話を思い出していた。
(そういえば陸遜殿、「孫権様は酒を愛し、何かにつけて宴を開くのがお好きでして」なんて苦笑いしてたっけ…)
孫権は無類の酒好きとして有名だ。
しかし、○の脳裏をよぎったのは、そんな賑やかな宴の情景ではない。
(ということは、あの女官だって絶対にいるはずよね…あーゾッとする。また子龍様のアレを見ないと駄目なの…?)
○は”見なければ我慢できるかもしれない”と、今宵の宴会は欠席しようと決めた。
決めたのに…。
「いけません。あなたも参加してください」
諸葛亮が一刀両断した。
「あなたが親交を深めているあの”陸遜殿”。彼はまだ無名の将を装っていますが、観察していると他の者と扱いが若干違うように見えるのです。呉の次世代を担う軍師となる器であったなら、顔を売っておいて損はありません」
そう言われて宴会場に放り出された。
あの後、趙雲にも詰め寄ったが、「私の一存で欠席できるものではないし、仕方ないだろう。邪魔するな」と言われて、案の定趙雲はあの女官の傍にいる。
しかしこうして壁際で観察していると、関平も周倉もあの若い星彩ですら、それぞれお相手が見繕われているらしい。
皆、にこやかに対応している。
(……なんて破廉恥な世界なの。欲望渦巻くって感じ。あ~やだやだ)
劉備軍の面々が次々と呉の美女や美丈夫に囲まれていく様子は、○にとってはもはや軍事同盟と言う名のお見合いだ。
広間は豪華絢爛な装飾と、呉の潤沢な資金力を象徴するような美酒佳肴で溢れている。
貧乏な劉備軍ではこんな大きな宴会なんてした事がないので、最初は新鮮であったが、こうもたて続くと疲れてしまう。
男たちは案の定、席に着くやいなや華やかな女性たちにさらわれていった。
(なによ、もう。子龍様ったら不本意そうな顔をしていたのは最初だけで、今はあんなに近くに寄られて……。もしかして、私が見ていないところでは、他の女性にあんな顔をして甘い言葉を囁いてるんじゃないの?)
遠くの席で、あの女官が趙雲の盃に酒を注ぎ、耳元で何かを囁いている。
趙雲は困ったような顔をしながらも、彼女を突き放すことはしない。
(昔、軍の付き合いで女性と”そういう事”をしたって言ってたけど、もしかしてこういう所で知り合ってそのまま部屋を移動してって…そういうこと?)
そんな事を悶々と考えていると、自然と眉間にしわが寄る。
「こんばんは」
不意にかけられた言葉にそちらを見ると、やはりの陸遜。
この場で話しかけてくるのは陸遜だけだ。
「壁際にいらっしゃることが多いのですね。見つけるのに一苦労しました」
「あ…ええ…なんだかこの空気にはついて行けなくて」
「ふふ、私もです。また、あちらの隅で軽く飲みませんか?」
陸遜はまたも宴席の端を示した。
趙雲に背を向けて座る○。
今日の陸遜はその隣に座っている。
宴会の騒ぎが大きいせいで、陸遜が○に話しかける時は顔を寄せる。
その会話で○が肩を揺らして笑った。
その様子を遠目にチラチラと見ていた趙雲は、その様子が気になりつつも、それを忘れるように次々と女官の注ぐ酒を飲んだ。
感情を殺し、表情を鉄の仮面で覆い隠す趙雲。
酒はそこまで弱くないはずだが、強い酒を飲んだようで、熱気と女官たちの香油で少し頭が痛くなった。
すると、昨日、文を寄越したあの女官がそっと趙雲の手を取る。
「……趙将軍、少し顔が赤いようですわ。外の風に当たりませんか?」
普段の趙雲であれば、礼を尽くして断ったはず。
しかし今の彼は、どこか○にあてつけるような気持ちが生まれて、誘われるがままに騒がしい宴会場を後にした。
静かな縁側。
夜風が火照った頬を撫でる。
趙雲の意識はどこか遠くにあった。
(私は何をしているんだ。この様な所まで来てしまった)
そんな事を思いながら縁側に腰を下ろすと、女官は待っていましたと言わんばかりに隣へ滑り込む。
「ふふ、今夜は拒まれないのですね」
彼女の白く細い腕が、吸い付くように趙雲の腕絡みつく。
酒のせいか思考が鈍っている趙雲は、その感触を振り払うこともしない。
「今日の趙将軍……お酒のせいかしら、いつも以上に凛々しくて。……こうして寄り添っていると、まるで睦み合っている最中のようで……。わたくし、緊張して鼓動が止まりません」
彼女の指先が趙雲の胸元を愛おしそうになぞる。
(……睦み合っている、か)
趙雲はぼんやりと庭を眺める。
自分を追い、自分だけを見ていると言いながら、他の男と楽しげに過ごす○。
彼女を追い出し突き放しながら、ああして他の男といられると気になる自分。
女官の甘い匂いに包まれながら、趙雲は重い溜息を吐き、彼女のしたい様にさせていた。
*****
窓から差し込む朝日の眩しさに趙雲は重い瞼を開けた。
昨夜の記憶は、宴の喧騒と女官の甘い香りのあたりで途切れている。
酒のせいで暑かったのか上半身を脱いでいる。
慣れない深酒を呪いながら身を捩ろうとした時、異様な温かさを隣に感じた。
(……何だ?隣が温かい)
横を見ると、そこにはなぜか周倉が同じ布団に入り、狭い寝台の半分を占領して爆睡していた。
「周倉!?」
困惑する趙雲を余所に、周倉は隣で動いた趙雲に反応してその逞しい腕を伸ばす。
何と勘違いしているのか、趙雲の胴体を抱き込んでその頬を趙雲の首筋に寄せる。
「やめろ! 離れろ周倉!目を覚ま……いたた、」
趙雲は周倉の顔を掌で全力で押し返すも、酒のせいで頭痛がする。
怪力の周倉は寝ぼけているが故に加減を知らず、趙雲の鎖骨の辺りに口づけをした。
そのまま力強く吸われる。
趙雲は脊髄反射で周倉の腹を蹴り飛ばし、寝台から叩き落とした。
「あだっ!! ……ぅえっ!? なんで俺、床に……え!趙雲殿、なんで裸!?」
床に転がった周倉が、後頭部をさすりながら信じられないものを見る目で趙雲を見上げる。
一方の趙雲は、荒い息をつきながら鎖骨を見た。
そこには鮮明な”吸い跡”。
「……周倉。自分が何をしたか分かっているのか」
「え? いや、俺は……綺麗な夢を見てただけで……。って、うわああ! 首、ものすげぇ跡がついてるじゃないすか! 誰にやられたんすかそれ!?」
「貴殿だ!!」
趙雲は禍々しい”跡”を指でなぞり、天を仰いで深く嘆息する。
「最悪だ…」
「いや、 俺だって被害者ですよ!そもそもは趙雲殿が悪いんですから!」
「……は?まず、なぜ周倉が私の寝台にいる。あの宴の後、私はどうなった?」
「覚えてねぇんですか? 趙雲殿、あの女官としっぽり縁側でベタベタしてたじゃないですか。それを、宴会場に趙雲殿がいないって探しに来た○さんに見られたんですよ」
趙雲の肩がビクリと跳ねる。
「○さんが話しかけてもウトウトするばかりで……○さんはそれはもう、この世の終わりみたいな顔をした後、『最低』って怒って、関平殿たちと一緒にさっさと宿に帰っちまったんです。しかしあれは今思うと…何か盛られたんすかね」
趙雲は信じられないという顔でいる。
「俺は残された趙雲殿が放っておけなくて、泥酔してたのを担いでここまで運んだんですよ。そしたら部屋に着いた途端、趙雲殿が俺の腰をガシィッ!と手繰り寄せて離さねぇもんだから……。俺も酔ってたし、離してもらうのを待ってるうちにそのまま寝ちまったってわけです」
「女官とは…」
「何もなかったです。というか、何かできる状態じゃなかったです」
「その代わりに、私が、貴殿を抱き寄せたと?」
「ええ。もう凄まじい力でしたよ。○殿だったら喜んだでしょうに」
「余計な事は言わないでほしい…」
趙雲は顔を覆い項垂れた。
誤解を解かなければならない○は激怒して帰宅しており、目の前には自分に印を付けたむさ苦しい男。
彼と互いの熱を分け合って仲良く眠っていた事実。
そして鎖骨には”情事の跡”にしか見えない赤い痕。
「それ、俺がやったって言わないでくださいね。女にモテたい人間なので、俺。変な噂がたっちまう」
周倉が真剣な顔で言う。
趙雲は眉をあげる。
「駄目だ。正直に言わなくては…こんなもの、○に見られたら大騒ぎだ」
「じゃあ俺、証言しませんぜ?女官とは何もなく帰ったっていうのは、連れて帰った俺しか知らないんです。別にいいじゃないすか。何もなかったけど、ソレだけはつけられたって事で」
「周倉…!」
「考えといてください。とりあえず、俺は自室に帰りま…」
「子龍様、起きてますか!? お話ししたいことが山ほどあります!」
周倉が閂をあけて部屋の戸を開けたのとほぼ同時に○が立っていた。
突然の訪問に鎖骨を隠せなかった趙雲。
はだけた襟元から覗く鮮やかな「紅い跡」に釘付けになる○。
思わず周倉が口を開く。
「○さん! 落ち着いて聞いてくれ。昨日、将軍をあの女官から引き剥がして、部屋までしっかり担いで帰ったのはこの俺だ!趙雲殿はそれはもうフラフラで何も出来ない状態だったし、帰ってからはすぐ寝てた! 趙雲殿はちゃんと無事に帰ってきたんだ!」
勝手に先走って周倉が言い訳をする。
周倉としては、これで「不貞はなかった」と安心させるつもりだったが、○は違う方向に考える。
「では、あの後、公衆の面前でそんなものをつけられたんですか」
「いや、それは」
趙雲が何か言いかけた時、月英が通りかかる。
「お静かに。外まで丸聞こえです。これから陣を張りに出ますから、各々準備をせよとの事です」
ピシャリとそう言った後に、月英はそっと○の肩に手を置く。
「武将様というお立場は、時に個人の意思だけでは立ち行かぬもの。……○さん、お気持ちは痛いほど分かります。ですが、あれだけの『印』で済んだのだと、今は自分を納得させるしかありません」
月英は悟りきったような瞳で静かに諭す。
「この乱世、正妻の他に幾人もの側室を置くお方は沢山いらっしゃいます。我が夫とて、いつ主君からそのような話を下されるか……。あなたも趙雲殿の妻を名乗るのであれば、この程度…と、殿方としてのお付き合いとして流すしかないのです。…さあ、行きましょう」
そういうと○をサッと連れて行ってしまった。
「…良くない方向に話が進んだ気がする」
「そうですねぇ…かと言って、正直に言っても、今はよくて男色だと思われて終わる気もします」
「…」
「とはいえ、何もなかったのは伝わってるでしょうし…」
趙雲は深くため息をつく。
「…仕方がない。今は大戦が目の前だ。余計な事に気を回す時ではない。私は潔白なのだから時間が解決するだろう」
*****
幕舎の設営が進み、軍馬の嘶きが響く喧騒の中、○は軍馬の世話を言いつけられていた。
少し離れた所で、趙雲は自分の愛馬の世話をする。
いつもならなんだかんだで距離を詰めてくる○が、今日は話しかけてこない。
こちらに背を向けて、黙々と馬の手入れをする。
趙雲が、重苦しい沈黙に耐えかねて○の傍によって話しかけた。
「……○、そこの櫛を取ってくれないか」
「はい、どうぞ」
にこ、と反射的に微笑んで櫛を渡した○だったが、趙雲の顔を見てサッと目を反らす。
「……誰にでも肌を許す人とは、口をきかないんだった」
「○」
「子龍様のばか……もういいです。私、あっちを手伝います」
ぷいっとそっぽを向き、足早に去っていく○。
喉元まで出かかったその真実は、どうしても口にすることができない。
誤解を解けば自分の尊厳が死に、黙っていれば○の信頼を失う。
(しかしこの先、月英殿が仰ったような事は起きるやもしれぬ)
そうなれば今回の一件は、遅かれ早かれ乗り越えなくてはならない事なのかもしれない。
そして自分を避ける今の○なら、常に危険な前線に向かう自分と距離を置いてくれるかも…という期待もある。
共に鍛錬をしてきた中で、そこら辺の兵士に負ける○ではないことは分かっている。
しかし敵の本陣に突っ込むとなれば心配があった。
(私から離れて戦ってほしい)
心からそう願った。