赤壁編【全9話】
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翌朝、○一番乗りで趙雲の部屋を訪れた。
しかし、昨日の「日の出の花」の一件がよほど衝撃だったのか、今日は布団をひっ掴んで捲るような暴挙には出ず、趙雲が身を起こすのを無言で見つめる。
「……○。そう無言で凝視されると、かえって落ち着かない。着替えるから、廊下に出てくれ」
趙雲に促され、○は素直に部屋の外へ。
廊下で○が手持ち無沙汰に佇んでいると、ちょうど通りかかった関平と周倉が、目を丸くして足を止めた。
「おや、○殿。早いですね。趙雲殿の身支度待ちですか?」
関平が爽やかに笑いかけると、横から周倉が笑う。
「いやぁ、○殿が合流してからの趙雲殿は、すっかり人間味が出たっていうか……。なぁ関平殿」
「そうですね。○殿が来る前の趙雲殿は、日が昇るか昇らないかの頃には起きて、誰よりも先に一人で黙々と鍛錬をされていました。こんな風に女性に起こされて着替えを待たせるなんて、想像もつきませんでしたよ」
二人が懐かしそうに話していると、部屋の扉が開く。
「……余計なことを吹き込まないでくれ。新しい情報を仕入れるたびに検証が始まって大変なのだ」
そこには、身なりを整えいつになく不機嫌そうな趙雲。
「あ、おはようございます。今日は諸葛亮殿に頼まれたものを買いに…?」
「ああ。○を荷物持ちに連れて行く」
「ま、戦が始まったら色々どうなるか分かりませんからね。今の内にたのしんできてくだせえ」
「これも任務だ。楽しまない」
そう言いながら歩き出した趙雲に○はついて行った。
呉の活気ある市場を歩きながら、○は隙あらば趙雲の腕に抱きつく。
「○……歩きにくい。それに、孫権軍の方々の目に入ったらどう説明する。離れなさい」
「えー!昨日はあの女官の方に町中であんなに密着させていたのに」
「あれはそういう事ではない」
趙雲は世間話がてら、昨日陸遜越しに聞いた話を振った。
「そういえば、○の兄たちは皆、同じように拳法を?」
「はい!兄の一人が父を継いで、今は師範をしているはずです。長兄は一回り年上なので子龍様より年上ですね。確か、子龍様と影踏みしてた時に迎えに来てくれて…後で影踏みをしていたのを知って『あの時知っていれば!』って落ち込んでました」
○は懐かしそうに、けれど少しだけ困ったように笑いながら、当時の様子を振り返る。
「私の村って閉鎖的で。外の人間と影踏みの話なんてしても理解してもらえないんだから、向こうは忘れているだろうし、村の男とやって結婚しろってうるさかったんです。兄の友人まで紹介されて。それもあって逃げるように飛び出してきたから…兄さん、怒ってるかなぁ」
それを聞いた趙雲の足が、わずかに遅れた。
彼らは自分の村の風習が外の世界では通用しない事をきちんと理解していた。
だから自分の知らない場所で、○を大切に想う家族が、彼女の幸せを願って別の男を勧めていたという事実が少し胸につかえる。
「……彼らのそれは正しい。そこまで無茶をして追いかけた私が結婚しているかもしれない…などとは考えなかったのか?」
「その可能性を全く考えずに飛び出したんですよ。十七でしたからね。子龍様がどなたともご結婚されていなくて、本当に良かったです!」
○の無邪気な一途さが、趙雲の胸を締め付けた。
二人は諸葛亮に頼まれていた品物を買い集めて、荷車に積む。
ふと趙雲が一息ついた。
「よし。では用事も終えたし好きなものを食べていい。今日は○の望むままにしよう」
そう告げた時、彼の心の中には「これまでの無関心を償いたい」という、気持ちがあった。
考えてみれば、彼女がどんな思いで自分を追ってきたかは知っていても、一緒にいた二年間も趙雲に合わせてばかりで、彼女自身が何を好み、何に心を躍らせるのか、日常の些細なことを何ひとつ知ろうとしてこなかったからだ。
”なんでも好きなもの”と言われて○が向かったのは、店先から鼻を突くような刺激臭と、目に染みるような赤い煙が立ちのぼる、呉でも評判の激辛料理店だった。
趙雲は一瞬、その強烈な香りに気圧されたものの、一度言った言葉を飲み込むわけにはいかず、意を決して暖簾をくぐった。
夕暮れ時、橙色に染まる呉の町を二人は宿へと向かって歩く。
荷車の前を趙雲が引き、○が後ろから荷物が落ちないかを見ながら押す。
「大丈夫でしたか?辛いものって、弱い人はお腹を壊しますよ」
「…大丈夫だ」
唇がまだヒリヒリするが、我慢して帰路につく。
○は辛い物が好きで、お茶を淹れるのが得意。
よく食べて酒は苦手。
兄が三人いて、両親は亡くなっている。
装飾品はあまり持っておらず、動きやすい服装を好む。
ほんの数刻で得た情報を、趙雲は頭の中で整理しながら歩いた。
宿の門をくぐると、帳場にいた主人が趙雲に気づいて手元を差し出した。
「お帰りなさいませ。あなた様宛てに文が届いておりますよ」
差し出されたのはほんのりと香の焚き染められた、上質な紙の小文。
趙雲はそれを受け取った瞬間、直感が警鐘を鳴らした。
(……これは、まずい)
「何ですかそれ? 子龍様、誰から……」
○が横から覗き込もうとするよりも早く、趙雲はその文を懐へとねじ込む。
その異様な速さに○の目つきが変わる。
「……何でもない。軍務の連絡だ」
「軍務…?諸葛亮殿は同じ宿にいるのに?わざわざ?」
「声に出せない内容は、このようにしてやりとりする事もある。…いいから、○は一度部屋に戻って汗を流してきなさい。私は買い出しの報告がある」
有無を言わさぬ口調で○を追い払うと、趙雲は自室に駆け込み、一人になったところでようやく懐から文を取り出す。
中身は案の定、昨日の女官からのもの。
『孫権様が、決戦を前に宴会を開くとのこと。今一度、夜の宴でお目にかかりたく……。二人きりでお話ししたいことがございます』
情熱的とも取れるその文面に、趙雲は思わず「見られなくてよかった…」と、戦場でもかいたことのないような冷や汗を拭った。
その後、すぐに諸葛亮の元へ行き、困り果てた様子でその文を差し出す。
「諸葛亮殿。例の女官から、このような誘いが」
諸葛亮は文を一読すると、隠しきれない愉悦を瞳に宿す。
「ほう。…どうもあの女官は孫権殿の傍に仕える者の一人の様なのです」
「なんと…」
「あちらもただ趙雲殿を気に入ったのか、何か思惑があるのか…何を考えているのか計りかねますが、また宴会を催すというのは私にも連絡はきていません」
「…この様な時期に宴会などされるでしょうか。孫権殿は酒宴がお好きで、事あるごとに決起集会と銘打って開くとは彼女に聞きましたが、ここまでとは…」
「同盟を強固にするための『親睦』。無下にするわけにもいきません。催されるのなら、参加するしかないでしょうね」
また一波乱が起きる予感に、趙雲は身震いした。
しかし、昨日の「日の出の花」の一件がよほど衝撃だったのか、今日は布団をひっ掴んで捲るような暴挙には出ず、趙雲が身を起こすのを無言で見つめる。
「……○。そう無言で凝視されると、かえって落ち着かない。着替えるから、廊下に出てくれ」
趙雲に促され、○は素直に部屋の外へ。
廊下で○が手持ち無沙汰に佇んでいると、ちょうど通りかかった関平と周倉が、目を丸くして足を止めた。
「おや、○殿。早いですね。趙雲殿の身支度待ちですか?」
関平が爽やかに笑いかけると、横から周倉が笑う。
「いやぁ、○殿が合流してからの趙雲殿は、すっかり人間味が出たっていうか……。なぁ関平殿」
「そうですね。○殿が来る前の趙雲殿は、日が昇るか昇らないかの頃には起きて、誰よりも先に一人で黙々と鍛錬をされていました。こんな風に女性に起こされて着替えを待たせるなんて、想像もつきませんでしたよ」
二人が懐かしそうに話していると、部屋の扉が開く。
「……余計なことを吹き込まないでくれ。新しい情報を仕入れるたびに検証が始まって大変なのだ」
そこには、身なりを整えいつになく不機嫌そうな趙雲。
「あ、おはようございます。今日は諸葛亮殿に頼まれたものを買いに…?」
「ああ。○を荷物持ちに連れて行く」
「ま、戦が始まったら色々どうなるか分かりませんからね。今の内にたのしんできてくだせえ」
「これも任務だ。楽しまない」
そう言いながら歩き出した趙雲に○はついて行った。
呉の活気ある市場を歩きながら、○は隙あらば趙雲の腕に抱きつく。
「○……歩きにくい。それに、孫権軍の方々の目に入ったらどう説明する。離れなさい」
「えー!昨日はあの女官の方に町中であんなに密着させていたのに」
「あれはそういう事ではない」
趙雲は世間話がてら、昨日陸遜越しに聞いた話を振った。
「そういえば、○の兄たちは皆、同じように拳法を?」
「はい!兄の一人が父を継いで、今は師範をしているはずです。長兄は一回り年上なので子龍様より年上ですね。確か、子龍様と影踏みしてた時に迎えに来てくれて…後で影踏みをしていたのを知って『あの時知っていれば!』って落ち込んでました」
○は懐かしそうに、けれど少しだけ困ったように笑いながら、当時の様子を振り返る。
「私の村って閉鎖的で。外の人間と影踏みの話なんてしても理解してもらえないんだから、向こうは忘れているだろうし、村の男とやって結婚しろってうるさかったんです。兄の友人まで紹介されて。それもあって逃げるように飛び出してきたから…兄さん、怒ってるかなぁ」
それを聞いた趙雲の足が、わずかに遅れた。
彼らは自分の村の風習が外の世界では通用しない事をきちんと理解していた。
だから自分の知らない場所で、○を大切に想う家族が、彼女の幸せを願って別の男を勧めていたという事実が少し胸につかえる。
「……彼らのそれは正しい。そこまで無茶をして追いかけた私が結婚しているかもしれない…などとは考えなかったのか?」
「その可能性を全く考えずに飛び出したんですよ。十七でしたからね。子龍様がどなたともご結婚されていなくて、本当に良かったです!」
○の無邪気な一途さが、趙雲の胸を締め付けた。
二人は諸葛亮に頼まれていた品物を買い集めて、荷車に積む。
ふと趙雲が一息ついた。
「よし。では用事も終えたし好きなものを食べていい。今日は○の望むままにしよう」
そう告げた時、彼の心の中には「これまでの無関心を償いたい」という、気持ちがあった。
考えてみれば、彼女がどんな思いで自分を追ってきたかは知っていても、一緒にいた二年間も趙雲に合わせてばかりで、彼女自身が何を好み、何に心を躍らせるのか、日常の些細なことを何ひとつ知ろうとしてこなかったからだ。
”なんでも好きなもの”と言われて○が向かったのは、店先から鼻を突くような刺激臭と、目に染みるような赤い煙が立ちのぼる、呉でも評判の激辛料理店だった。
趙雲は一瞬、その強烈な香りに気圧されたものの、一度言った言葉を飲み込むわけにはいかず、意を決して暖簾をくぐった。
夕暮れ時、橙色に染まる呉の町を二人は宿へと向かって歩く。
荷車の前を趙雲が引き、○が後ろから荷物が落ちないかを見ながら押す。
「大丈夫でしたか?辛いものって、弱い人はお腹を壊しますよ」
「…大丈夫だ」
唇がまだヒリヒリするが、我慢して帰路につく。
○は辛い物が好きで、お茶を淹れるのが得意。
よく食べて酒は苦手。
兄が三人いて、両親は亡くなっている。
装飾品はあまり持っておらず、動きやすい服装を好む。
ほんの数刻で得た情報を、趙雲は頭の中で整理しながら歩いた。
宿の門をくぐると、帳場にいた主人が趙雲に気づいて手元を差し出した。
「お帰りなさいませ。あなた様宛てに文が届いておりますよ」
差し出されたのはほんのりと香の焚き染められた、上質な紙の小文。
趙雲はそれを受け取った瞬間、直感が警鐘を鳴らした。
(……これは、まずい)
「何ですかそれ? 子龍様、誰から……」
○が横から覗き込もうとするよりも早く、趙雲はその文を懐へとねじ込む。
その異様な速さに○の目つきが変わる。
「……何でもない。軍務の連絡だ」
「軍務…?諸葛亮殿は同じ宿にいるのに?わざわざ?」
「声に出せない内容は、このようにしてやりとりする事もある。…いいから、○は一度部屋に戻って汗を流してきなさい。私は買い出しの報告がある」
有無を言わさぬ口調で○を追い払うと、趙雲は自室に駆け込み、一人になったところでようやく懐から文を取り出す。
中身は案の定、昨日の女官からのもの。
『孫権様が、決戦を前に宴会を開くとのこと。今一度、夜の宴でお目にかかりたく……。二人きりでお話ししたいことがございます』
情熱的とも取れるその文面に、趙雲は思わず「見られなくてよかった…」と、戦場でもかいたことのないような冷や汗を拭った。
その後、すぐに諸葛亮の元へ行き、困り果てた様子でその文を差し出す。
「諸葛亮殿。例の女官から、このような誘いが」
諸葛亮は文を一読すると、隠しきれない愉悦を瞳に宿す。
「ほう。…どうもあの女官は孫権殿の傍に仕える者の一人の様なのです」
「なんと…」
「あちらもただ趙雲殿を気に入ったのか、何か思惑があるのか…何を考えているのか計りかねますが、また宴会を催すというのは私にも連絡はきていません」
「…この様な時期に宴会などされるでしょうか。孫権殿は酒宴がお好きで、事あるごとに決起集会と銘打って開くとは彼女に聞きましたが、ここまでとは…」
「同盟を強固にするための『親睦』。無下にするわけにもいきません。催されるのなら、参加するしかないでしょうね」
また一波乱が起きる予感に、趙雲は身震いした。