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馬超の参入からわずか十日。
その圧倒的な威光と「西涼の錦」という武名の響きだけで、成都を死守していた劉璋はついに降伏を申し出た。
長い野営生活の土埃にまみれた日々からようやく解放される。
劉備軍の将兵たちの顔には、久方ぶりの安堵と清々しさが広がっていた。
投降後の整理が進む中、主だった将たちの宿舎が割り振られる。
諸葛亮をはじめ、趙雲や張飛、そして降ったばかりの馬超もまた、小さな中庭の付いた風情ある宿舎を与えられた。
諸葛亮も言っていた。
”馬超を破格の厚遇で迎え入れる”と。
(……馬孟起。あの日、私のすべてを奪った男が、今は我が物顔か)
○はその現実を、奥歯を噛み締めながら見つめていた。
荷を運ぶ最中、隣を歩く趙雲がふと足を止め、新しく割り振られた静かな中庭を眺めて呟いた。
「……ようやく屋根の下で眠れる。だが野営でなくなる分、皆との距離が離れてしまうのは、少しばかり寂しいものだな」
趙雲のその言葉に、○は思わず彼を見た。
戦功を誇るでもなく、豪華な部屋を喜ぶでもない。
あの雑多な温もりを惜しんでいる。
(趙雲殿らしい)
○の荒んだ心にその言葉が穏やかに染み渡った。
まだ趙雲と知り合って間もないが、彼は優しい人間だと思った。
そんな感慨に浸っていたのも束の間、背後から賑やかな足音が近づいてきた。
「趙雲殿、あんな立派なお部屋を頂いて寂しがるなんて贅沢ですよ! ねえ、○殿。私たちはあの建物の個室です。私、○殿のすぐ側の部屋でした」
誇らしげに胸を張って現れたのは×だった。
彼女は近頃、こうして気軽に接してくれる。
「×。あまり○殿を困らせるんじゃない。お前は時折、分別のない幼いことを言うからな」
「なんですか、それは!」
そのやり取りは血生臭い戦場にいた○にとって、あまりに眩しく、そして平穏だった。
野営地とは違う、板張りの床の匂い。
趙雲や馬超といった重鎮たちに与えられたのは、中庭を囲むように独立した小ぶりな一軒家が並ぶ一角だった。
一方、○や×たち一般の将に割り振られたのは、そこから少し離れた長屋形式の宿舎だ。
壁一枚隔てて仲間の気配が伝わる安心感はあるものの、主軍の核心部からは物理的な距離がある。
荷物もない○は、ただ寝台にぼんやりと座っていた。
日が沈みきった頃。
諸葛亮の使いが○を訪ねてきた。
「軍師殿がお呼びです。離れの書斎まで来てほしいとの事です」
その会話を戸口で交わしていると、様子を見に来た×は「えっ、こんな夜更けに?」と声を上げた。
しかし諸葛亮は上官だ。
○は身支度を整えると部屋を出た。
諸葛亮の書斎は、将達の宿舎から少し離れた離れだ。
書斎に入ると、諸葛亮は一人で文机に向かっていた。
蝋燭の炎が揺れ、彼の端正な輪郭に深い影を落としている。
「……来ましたか」
諸葛亮は顔を上げず、さらさらと筆を走らせたまま口を開いた。
「新しい宿舎の居心地はいかがですか。他人の目がない空間は羽を伸ばせるでしょう」
○は入り口で立ち尽くしたまま、答えずに諸葛亮を見つめる。
「……私に、何のご用でしょうか」
諸葛亮は不意に筆を置き、ゆっくりと立ち上がり近づいた。
「馬超を殺したいという願い。……それは、まだ変わりませんか?」
○の身体が微かに強張る。
諸葛亮は彼女の反応を楽しむかのように、さらに一歩、その距離を詰めた。
「彼は今、劉備軍の英雄としてこの成都に君臨しています。彼を討てば、あなたは反逆者として処断されることになるでしょう。張飛殿や趙雲殿の手で。それでも、その刃を振るう覚悟はありますか?」
諸葛亮の手が、○の頬をかすめるようにして背後の戸に掛けられた。
カチ、と鍵がかかる音がする。
二人きりの空間。
外では風が竹林を揺らしている。
「覚悟なら、あの日からできています。馬超を殺せるのなら死んでも構わない」
「そうですか。ならば……その『覚悟』が本物かどうか、今ここで私に見せていただきましょう」
諸葛亮はそう言うと、懐から小刀を取り出し机の上に置いた。
「これは馬超殿の小刀です。降った際に押収しました。あなたがこれで私の足か腕を斬ってください。”馬超殿が斬った”と証言しましょう。大丈夫です。その発言が通る様に手回しはしてあります」
ただ穏やかに月明りの中で諸葛亮は言った。
○は小刀を持つ。
「私の力では馬超には届かない。私はそもそも奴と刺し違えて殺すつもりです。この身を切らせても奴を殺す。ただ…」
小刀の鞘を抜いた。
「私はずっと、あの城から逃げ出し、今日まで生き長らえてしまった自分自身も憎いのです。恨んでもいない相手を傷つけねば馬超に届かぬというのなら……私は、もうここで終わってもいい」
○は淡々とそう言うと、一気に小刀の刃を自らの細い首筋へと押し当てた。
「馬超に切られたのは私という事にしてください。どのような形でも構わない。あの男に相応の制裁を与えてください。それだけが、私の最期の願いです」
「○!」
諸葛亮の余裕に満ちていた表情が、一瞬で瓦解する。
○の皮膚が裂け、白い首筋に一筋の赤い線が走り、刃が肉へと食い込んでいく。
流石に一気には引けず、荒く息をしながら○の手にもう一度力がこもる。
諸葛亮は弄ぶような挑発をしたのは自分自身であったはずなのに、目の前の女が躊躇なく自らの命を差し出そうとするその狂気に怯んだ。
諸葛亮は反射的に手を伸ばし、○の震える手首を掴んだ。
「正気ですか! 止めなさい!」
「離して! ……貴方が言ったんです! 覚悟を見せろと!これは最後の機会かもしれないのです!私の力では奴を殺せないのですから!」
○は狂ったように叫び、諸葛亮の手を振り払おうともがいた。
文官とはいえ諸葛亮は成人した男。
その膂力は刃物を取り上げるまでには至らないまでも、○の動きを封じ込めるには十分だった。
二人の呼吸が荒く重なる。
「ではお聞きします! もし私が仮にあなたを刺していたら、あなたはどうするつもりだったのですか!?」
詰め寄る○の瞳には、諸葛亮という重要な存在が自分ひとりのために命を賭けたことへの、堪え難い恐怖が混じり合っていた。
諸葛亮は○の手首を掴んだまま、言葉を失ったように彼女を見つめる。
いつも饒舌に天下の理を説くその唇が、今はわずかに震える。
「あなたなら、私を刺さないと。そう、踏んでいました」
「そんな博打のようなことで…!」
「いいえ。博打ではありません」
諸葛亮は○の首筋から流れる一筋の血を、空いた方の指でそっと拭った。
「まさかご自身を斬るとは思いませんでしたが、あなたが私を斬るとは微塵も考えませんでした」
一方その頃、×は趙雲の宿舎を訪れていた。
「夜分に申し訳ありません。……○殿が、諸葛亮殿に呼ばれたまま戻ってこないのです。もう夜も更けたというのに」
趙雲は戸口で首をかしげて、落ち着いた声で返した。
「案ずるな。諸葛亮殿のことだ、馬超殿が加わった今、○殿の心中を慮って話をされているのだろう」
×は納得のいかない様子ながらも趙雲の言葉に渋々頷き、自分の部屋へと戻っていった。
しかし×を送り出した後の趙雲の胸中には、言葉にできないざわめきが広がっていた。
あの夜、闇の中で○を抱きしめていた諸葛亮のあの眼差し。
趙雲は「見回り」という名目で、静かに夜の城内に出て行った。
諸葛亮の宿舎へと向かう。
たどり着いた宿舎の窓際では、月英が灯火の下で筆を走らせていた。
(……月英殿はこちらにいらっしゃる。ならば、諸葛亮殿はお一人か)
諸葛亮が月英を誰よりも愛し、敬っていることは知っていた。
しかしそれならば、なぜこのような時間に○を呼び出したのか。
(諸葛亮殿を疑うのか?……劉備殿がすべてを託したあの方を。いや、月英殿がいながらあの方が道を外れるなどということが、あるはずがない)
自分に言い聞かせながらも静まり返った離れへと向かった。
諸葛亮という男の理性を信じたい。
彼と月英の間の、あの清らかな愛情を信じたい。
しかしいつか見た、○を抱きしめた時の諸葛亮の目は、欲に駆られた男の目だった。
その圧倒的な威光と「西涼の錦」という武名の響きだけで、成都を死守していた劉璋はついに降伏を申し出た。
長い野営生活の土埃にまみれた日々からようやく解放される。
劉備軍の将兵たちの顔には、久方ぶりの安堵と清々しさが広がっていた。
投降後の整理が進む中、主だった将たちの宿舎が割り振られる。
諸葛亮をはじめ、趙雲や張飛、そして降ったばかりの馬超もまた、小さな中庭の付いた風情ある宿舎を与えられた。
諸葛亮も言っていた。
”馬超を破格の厚遇で迎え入れる”と。
(……馬孟起。あの日、私のすべてを奪った男が、今は我が物顔か)
○はその現実を、奥歯を噛み締めながら見つめていた。
荷を運ぶ最中、隣を歩く趙雲がふと足を止め、新しく割り振られた静かな中庭を眺めて呟いた。
「……ようやく屋根の下で眠れる。だが野営でなくなる分、皆との距離が離れてしまうのは、少しばかり寂しいものだな」
趙雲のその言葉に、○は思わず彼を見た。
戦功を誇るでもなく、豪華な部屋を喜ぶでもない。
あの雑多な温もりを惜しんでいる。
(趙雲殿らしい)
○の荒んだ心にその言葉が穏やかに染み渡った。
まだ趙雲と知り合って間もないが、彼は優しい人間だと思った。
そんな感慨に浸っていたのも束の間、背後から賑やかな足音が近づいてきた。
「趙雲殿、あんな立派なお部屋を頂いて寂しがるなんて贅沢ですよ! ねえ、○殿。私たちはあの建物の個室です。私、○殿のすぐ側の部屋でした」
誇らしげに胸を張って現れたのは×だった。
彼女は近頃、こうして気軽に接してくれる。
「×。あまり○殿を困らせるんじゃない。お前は時折、分別のない幼いことを言うからな」
「なんですか、それは!」
そのやり取りは血生臭い戦場にいた○にとって、あまりに眩しく、そして平穏だった。
野営地とは違う、板張りの床の匂い。
趙雲や馬超といった重鎮たちに与えられたのは、中庭を囲むように独立した小ぶりな一軒家が並ぶ一角だった。
一方、○や×たち一般の将に割り振られたのは、そこから少し離れた長屋形式の宿舎だ。
壁一枚隔てて仲間の気配が伝わる安心感はあるものの、主軍の核心部からは物理的な距離がある。
荷物もない○は、ただ寝台にぼんやりと座っていた。
日が沈みきった頃。
諸葛亮の使いが○を訪ねてきた。
「軍師殿がお呼びです。離れの書斎まで来てほしいとの事です」
その会話を戸口で交わしていると、様子を見に来た×は「えっ、こんな夜更けに?」と声を上げた。
しかし諸葛亮は上官だ。
○は身支度を整えると部屋を出た。
諸葛亮の書斎は、将達の宿舎から少し離れた離れだ。
書斎に入ると、諸葛亮は一人で文机に向かっていた。
蝋燭の炎が揺れ、彼の端正な輪郭に深い影を落としている。
「……来ましたか」
諸葛亮は顔を上げず、さらさらと筆を走らせたまま口を開いた。
「新しい宿舎の居心地はいかがですか。他人の目がない空間は羽を伸ばせるでしょう」
○は入り口で立ち尽くしたまま、答えずに諸葛亮を見つめる。
「……私に、何のご用でしょうか」
諸葛亮は不意に筆を置き、ゆっくりと立ち上がり近づいた。
「馬超を殺したいという願い。……それは、まだ変わりませんか?」
○の身体が微かに強張る。
諸葛亮は彼女の反応を楽しむかのように、さらに一歩、その距離を詰めた。
「彼は今、劉備軍の英雄としてこの成都に君臨しています。彼を討てば、あなたは反逆者として処断されることになるでしょう。張飛殿や趙雲殿の手で。それでも、その刃を振るう覚悟はありますか?」
諸葛亮の手が、○の頬をかすめるようにして背後の戸に掛けられた。
カチ、と鍵がかかる音がする。
二人きりの空間。
外では風が竹林を揺らしている。
「覚悟なら、あの日からできています。馬超を殺せるのなら死んでも構わない」
「そうですか。ならば……その『覚悟』が本物かどうか、今ここで私に見せていただきましょう」
諸葛亮はそう言うと、懐から小刀を取り出し机の上に置いた。
「これは馬超殿の小刀です。降った際に押収しました。あなたがこれで私の足か腕を斬ってください。”馬超殿が斬った”と証言しましょう。大丈夫です。その発言が通る様に手回しはしてあります」
ただ穏やかに月明りの中で諸葛亮は言った。
○は小刀を持つ。
「私の力では馬超には届かない。私はそもそも奴と刺し違えて殺すつもりです。この身を切らせても奴を殺す。ただ…」
小刀の鞘を抜いた。
「私はずっと、あの城から逃げ出し、今日まで生き長らえてしまった自分自身も憎いのです。恨んでもいない相手を傷つけねば馬超に届かぬというのなら……私は、もうここで終わってもいい」
○は淡々とそう言うと、一気に小刀の刃を自らの細い首筋へと押し当てた。
「馬超に切られたのは私という事にしてください。どのような形でも構わない。あの男に相応の制裁を与えてください。それだけが、私の最期の願いです」
「○!」
諸葛亮の余裕に満ちていた表情が、一瞬で瓦解する。
○の皮膚が裂け、白い首筋に一筋の赤い線が走り、刃が肉へと食い込んでいく。
流石に一気には引けず、荒く息をしながら○の手にもう一度力がこもる。
諸葛亮は弄ぶような挑発をしたのは自分自身であったはずなのに、目の前の女が躊躇なく自らの命を差し出そうとするその狂気に怯んだ。
諸葛亮は反射的に手を伸ばし、○の震える手首を掴んだ。
「正気ですか! 止めなさい!」
「離して! ……貴方が言ったんです! 覚悟を見せろと!これは最後の機会かもしれないのです!私の力では奴を殺せないのですから!」
○は狂ったように叫び、諸葛亮の手を振り払おうともがいた。
文官とはいえ諸葛亮は成人した男。
その膂力は刃物を取り上げるまでには至らないまでも、○の動きを封じ込めるには十分だった。
二人の呼吸が荒く重なる。
「ではお聞きします! もし私が仮にあなたを刺していたら、あなたはどうするつもりだったのですか!?」
詰め寄る○の瞳には、諸葛亮という重要な存在が自分ひとりのために命を賭けたことへの、堪え難い恐怖が混じり合っていた。
諸葛亮は○の手首を掴んだまま、言葉を失ったように彼女を見つめる。
いつも饒舌に天下の理を説くその唇が、今はわずかに震える。
「あなたなら、私を刺さないと。そう、踏んでいました」
「そんな博打のようなことで…!」
「いいえ。博打ではありません」
諸葛亮は○の首筋から流れる一筋の血を、空いた方の指でそっと拭った。
「まさかご自身を斬るとは思いませんでしたが、あなたが私を斬るとは微塵も考えませんでした」
一方その頃、×は趙雲の宿舎を訪れていた。
「夜分に申し訳ありません。……○殿が、諸葛亮殿に呼ばれたまま戻ってこないのです。もう夜も更けたというのに」
趙雲は戸口で首をかしげて、落ち着いた声で返した。
「案ずるな。諸葛亮殿のことだ、馬超殿が加わった今、○殿の心中を慮って話をされているのだろう」
×は納得のいかない様子ながらも趙雲の言葉に渋々頷き、自分の部屋へと戻っていった。
しかし×を送り出した後の趙雲の胸中には、言葉にできないざわめきが広がっていた。
あの夜、闇の中で○を抱きしめていた諸葛亮のあの眼差し。
趙雲は「見回り」という名目で、静かに夜の城内に出て行った。
諸葛亮の宿舎へと向かう。
たどり着いた宿舎の窓際では、月英が灯火の下で筆を走らせていた。
(……月英殿はこちらにいらっしゃる。ならば、諸葛亮殿はお一人か)
諸葛亮が月英を誰よりも愛し、敬っていることは知っていた。
しかしそれならば、なぜこのような時間に○を呼び出したのか。
(諸葛亮殿を疑うのか?……劉備殿がすべてを託したあの方を。いや、月英殿がいながらあの方が道を外れるなどということが、あるはずがない)
自分に言い聞かせながらも静まり返った離れへと向かった。
諸葛亮という男の理性を信じたい。
彼と月英の間の、あの清らかな愛情を信じたい。
しかしいつか見た、○を抱きしめた時の諸葛亮の目は、欲に駆られた男の目だった。