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ある夜、馬超を囲んだささやかな歓迎会が行われる事となった。
まだ戦の最中なので、張飛や劉備などの重鎮と一部の文官だけの、ささやかなもの。
その快活な笑い声や馬超の若々しくも力強い声が風に乗って届くたび、陣の隅に身を潜める○は胸が痛んだ。
○は古びた幹に背をもたれ、顔を伏せて目を閉じていた。
馬超がここに来て三日。
彼女は一度として馬超と視線を合わせていない。
その声を聞くだけで眩暈がして、指先が勝手に懐刀を探してしまうからだ。
しかし馬超の声はよく通り、陣中にいると嫌でも聞こえてくる。
だから○は自然と陣の端に座っていた。
趙雲はそんな彼女の危うさを誰よりも案じていた。
巡回の合間、彼はあえて足音を潜めながら、○の居場所を確認して遠目に見守る。
手を貸すことも、言葉をかけることも、今の彼女には毒になると悟っていた。
そうして今夜も姿を認め離れた時。
趙雲の視界を静かに揺れる羽扇の影が横切った。
「……諸葛亮殿?」
趙雲は小さく呟き眉を寄せた。
宴の席にいるはずの諸葛亮が、迷いのない足取りで○がいる暗がりへと歩いていく。
その眼には月英と仲睦まじく歩いていた時のような穏やかさはなく、どこか人を寄せ付けぬ雰囲気が宿っている。
趙雲はその背中を追った。
○は誰かが近づいてくる気配に気づき顔を向けた。
そこにいたのはあの日、自分をその腕の中に閉じ込めた男だった。
「……まだ耳を塞いでいるのですか、○」
彼は○の数歩手前で足を止め、宴の喧騒が響く中央の方を顎で示した。
諸葛亮は人前では”○殿”と呼ぶのに、二人になると呼び捨てる。
その真意も○は測りかねていた。
軍師という生き物はどこからが本心なのかが分からない。
「あの方の声が、それほどまでにあなたを苛むのか。……あるいは、あの方を『英雄』として迎え入れているこの陣の空気が、耐え難いのですか」
○は答えずため息をついた。
諸葛亮は彼女の反応を待たず、さらに一歩距離を詰める。
趙雲は離れた場所でその様子を見ていた。
割って入るべきか、静観すべきか。
だが昨夜の抱擁を思い出すと、趙雲の胸には苦い感情がせり上がってくる。
諸葛亮は○の目の前まで来ると、その青白い顔を覗き込むようにして囁いた。
「逃げていても、何も変わりませんよ。○…あなたが彼を殺したいと願うなら、その声を、その存在を、誰よりも近くで受け入れなさい。……それができないというのなら、あなたの復讐などただの火遊びに過ぎません」
その残酷な激励は、○の傷口を抉るように響いた。
○は木の幹に背を預けたまま、震える呼吸を整えた。
「……私を駒にする為に、そこまでして心を壊したいのですか」
諸葛亮はふっと視線を落とす。
宴の喧騒から漏れ出す篝火の明かりが彼の横顔を淡く照らし出す。
その瞬間、○は思わず息を呑んだ。
(誰…これ)
そこにいたのは、自分の知っている諸葛亮ではない。
「……心を壊す、ですか」
諸葛亮は自嘲気味に呟く。
「流石に心が壊れた駒など使えませんよ」
そう言ってまた近づくとしゃがみこむ。
「私があなたを抱きしめたのは、軍師としての憐憫ではありません。……純粋に私自身が触れたかった。本当に、それだけの事です」
その視線は熱かった。
月英の前で見せる穏やかな夫の顔でもなく、劉備の前で見せる忠義の顔でもない。
諸葛亮の手が迷わずに○の顎を掬い上げた。
その指先は○の肌を焦がすような緊張感を孕んでいる。
○は諸葛亮の瞳の奥に、自分と同じ孤独を見た。
この男もまた、劉備の陰で誰にも癒せぬ傷を抱えているのではないだろうか。
「……あなたも、私と同じなの?」
○の問いに、諸葛亮は答えなかった。
ただ顎を掬い上げた手に力を込め、彼女の吐息が触れるほどの距離で静かに目を閉じた。
諸葛亮の背中に遮られ、趙雲の位置からは○の表情を窺い知ることはできない。
ただ月明かりの下で二人が微動だにせず、濃密な沈黙を共有していることだけが痛いほど伝わってきた。
趙雲は知っている。
諸葛亮がいかに妻である月英を慈しんでいるかを。
戦場にあってなお寄り添い、言葉を交わさずとも通じ合うあの夫婦の姿は、殺伐とした陣中において唯一の安らぎですらあった。
劉備が全幅の信頼を寄せる軍師であり、趙雲自身もまた、その知略と高潔さを疑ったことはない。
だからこそ、その背中に向けて発すべき言葉は選ばなくてはならない。
一方、○は顔を近づける諸葛亮から拒絶するように顔を背けた。
(駄目だ…。この方には、あんなに素晴らしい奥方がいらっしゃるのに)
しかし諸葛亮はその顔を再び自分に向ける。
その時、背後から趙雲の声がかかった。
「――おや、諸葛亮殿?」
諸葛亮の動きがぴたりと止まる。
彼は何事もなかったかのように、○の顎に添えていた手を静かに下ろした。
趙雲は、ただ夜の巡回中に偶然二人を見つけたかのような落ち着いた足取りで近づいてくる。
「ああ。そちらに○殿がいらっしゃるのが見えましたので、明日の軍議についてお伝えしておこうと思ったのですが…諸葛亮殿もいらっしゃったのですね」
趙雲の言葉は、その場に流れていた不穏な空気を一瞬で戦場に引き戻した。
彼は諸葛亮の隣に並び立つと、暗闇の中に座り込む○を真っ直ぐに見つめる。
諸葛亮は一度深く息を吐き、いつもの涼やかな顔に戻った。
「趙雲殿。夜分にご苦労様です。私も丁度、○殿の心の持ちようを確かめていたところでした」
嘘ではない。
だが、すべてでもない。
諸葛亮の言葉の裏にある微かな熱を、趙雲は敏感に感じ取っていた。
それは主君を支える軍師としての献身でも、部下を導く師としての厳格さでもない。
もっと昏く澱んだ、一人の男としての独占欲に近い何かだ。
「諸葛亮殿、月英殿がお待ちでしょう。今はあちらに戻られた方がよろしいかと」
月英殿の名を出すことで諸葛亮が守るべき一線と、彼が陣中で体現しているはずの正しき姿を暗に突きつけた。
諸葛亮は薄く笑みを浮かべた。
その瞳は興を削がれたようでもあった。
「左様ですね。夜風にあたりすぎたようです。では、失礼いたしましょう」
諸葛亮は一度だけ○に視線を投げ、それから優雅な足取りで宴の喧騒の中へと戻っていった。
残された○は強張った身体をようやく解く。
諸葛亮の指先が触れていた顎のあたりがいまだに痺れている。
「○殿。私と戻りましょう。×も心配して待っていますから」
趙雲が隣に立ち、そっと肩に手を添えた。
******
翌日。
○が陣の中央を横切っていた時だった。
背後から「待て」と声がかかる。
○にとっては心臓を素手で掴まれるような嫌悪を呼び起こす声だった。
ゆっくり振り返る。
「俺がここに来て五日。将兵の中でまともに挨拶を交わしていないのはお前だけだ。……改めて挨拶をさせてくれ」
馬超はそう言って歩み寄ったが、至近距離で○の姿を正面から捉えた瞬間、わずかに眉を上げた。
乱戦でついた生々しい打撲の痕。
痛々しく額を横切る、凝固した血の混じった傷跡。
「名は、何という。俺は馬超。馬孟起だ」
「……○」
「○か。……そうか。その額の傷、悪かったな」
馬超はそれが、武人同士の果敢な切り合いの結果であると信じて疑わない様子だ。
「あの剣筋、見事だった。戦の中でついたその傷……許せとは言わん。だが、これからは同じ主君をいただく仲だ。その傷が癒えたらまた改めて手合わせ願いたいものだな」
馬超の言葉に、○は奥歯が砕けんばかりに噛み締めた。
ただ馬超を睨みつける。
その視線の険しさに馬超もようやく何かを感じ取ったのか、わずかに表情を硬くした。
その時、遠くから「○殿!治療しますよ!どこー?」と呼ぶ×の声がした。
○は馬超に背を向け、一言も発さずにその場を立ち去った。
馬超は去りゆく○の背中を独り、不可解そうに見送っていた。
馬超の執着は彼自身の純粋な好奇心ゆえに執拗だった。
「おい、○。お前の剣は誰に習った?」
「貴殿、西涼の者ではないのか?」
陣中を歩けば影のように馬超が付き纏う。
彼にとってそれは、見事な腕を持つ同郷かもしれない若き将への親愛の情に過ぎない。
しかしその声を聞くたびに、○の脳裏にはあの日の光景が蘇る。
極めつけはその昼下がり。
「○、今日はこれから共に飯を食わんか? 西涼の味が恋しいだろう。俺の部下が羊を潰した。貴殿にも分けてやりたい」
快活に屈託なく笑いながら肩に手を置こうとする馬超。
触るな、と怒鳴りかけて鞘に手をかけようとしたその時。
「馬超殿。そこまでにしていただきたい」
低く、有無を言わせぬ威圧感を持った声が響いた。
二人の間に割って入ったのは趙雲だった。
彼は○を背中に隠すように一歩前へ出ると、馬超から向けられる親愛の視線を代わりに受け止める。
「趙雲か。何だ、俺はただこいつと親睦を深めようとしただけだ」
馬超は不思議そうに眉を寄せるが、趙雲の表情は微塵も緩まない。
「○殿は此度の戦で心身ともに深く傷を負っております。諸葛亮殿からも、静養を優先させるよう仰せつかっている。……無理に付き纏うのは、彼女の回復を妨げる行為です」
「付き纏うとは人聞きの悪い。俺はただ……」
「馬超殿。貴殿の武勇は疑いようもありませんが、人の心に土足で踏み込むのは感心いたしません」
頑として動かない様子の趙雲に馬超は肩をすくめる。
「……ふん。堅苦しい男だな。わかったよ、今は引こう」
馬超が十分遠ざかるのを確認してから、趙雲は○の方へ向き直った。
「……○殿。大丈夫ですか。手が、震えています」
趙雲は彼女の細い手首をそっと握り、その震えを鎮めるように力を込めた。
趙雲の声はどこまでも慈愛に満ちていた。
だが今の○にとって、その優しさは自分をこの場に留まらせる枷でしかない。
馬超の快活な声、同郷を気取る馴れ馴れしい視線。
それら全てが許せない。
○は趙雲の手を振り払うようにして、大きくかぶりを振った。
言葉にならない拒絶を突きつけて、手の震えを強引に足取りへと変え無我夢中で歩き出す。
その後を、趙雲は何も言わずに…しかし一定の距離を保って静かに付いていった。
その背中を、演武場の高台から見下ろす二つの影があった。
「趙雲殿にお任せして、良かったですね」
月英が隣に立つ夫の横顔を穏やかに見上げながら呟いた。
「あの方は責任感が強く義理も厚い。今の○殿の危うさを、誰よりも深く理解し支えてくれるでしょう。あの方が側にいれば、○殿もいつか笑える日が来るかもしれません」
月英の言葉には、同じ女性としての切実な想いが込められていた。
しかし諸葛亮の反応は、妻の温かな推測とは正反対のものだった。
諸葛亮は何も答えず、羽扇を動かす手さえも止めていた。
その瞳はいつもの知者の者ではない。
彼は、趙雲が○の肩に触れようとした瞬間の動きを、そして○が趙雲にだけは見せた脆さを、すべて見ていた。
諸葛亮の胸の内には、自分でも説明のつかない、歪な感情が渦巻いている。
自分が○を突き放した”馬超と生きる絶望”という名の生。
それを趙雲が”自分が傍にいる優しさ”で塗り替えようとすることへの、耐え難い不快感。
彼女を駒として誰よりも深く、誰よりも残酷に理解しているのは、この自分であるはずだという傲慢な独占欲だった。
「……そうですね。趙雲殿は、実に見事な『盾』」
月英は夫の微かな声の調子に、一瞬だけ眉を寄せた。
夫が今、自分ではなく、遠ざかるあの二人の背中を恐ろしいほどの熱量で凝視していることに気づいたからだ。
「ですが彼の『盾』は、彼女を閉じ込める檻になるのかもしれませんよ」
諸葛亮はそう言い残すと本陣へと戻っていった。
月英はその背中を言いようのない不安と共に見送るしかなかった。
まだ戦の最中なので、張飛や劉備などの重鎮と一部の文官だけの、ささやかなもの。
その快活な笑い声や馬超の若々しくも力強い声が風に乗って届くたび、陣の隅に身を潜める○は胸が痛んだ。
○は古びた幹に背をもたれ、顔を伏せて目を閉じていた。
馬超がここに来て三日。
彼女は一度として馬超と視線を合わせていない。
その声を聞くだけで眩暈がして、指先が勝手に懐刀を探してしまうからだ。
しかし馬超の声はよく通り、陣中にいると嫌でも聞こえてくる。
だから○は自然と陣の端に座っていた。
趙雲はそんな彼女の危うさを誰よりも案じていた。
巡回の合間、彼はあえて足音を潜めながら、○の居場所を確認して遠目に見守る。
手を貸すことも、言葉をかけることも、今の彼女には毒になると悟っていた。
そうして今夜も姿を認め離れた時。
趙雲の視界を静かに揺れる羽扇の影が横切った。
「……諸葛亮殿?」
趙雲は小さく呟き眉を寄せた。
宴の席にいるはずの諸葛亮が、迷いのない足取りで○がいる暗がりへと歩いていく。
その眼には月英と仲睦まじく歩いていた時のような穏やかさはなく、どこか人を寄せ付けぬ雰囲気が宿っている。
趙雲はその背中を追った。
○は誰かが近づいてくる気配に気づき顔を向けた。
そこにいたのはあの日、自分をその腕の中に閉じ込めた男だった。
「……まだ耳を塞いでいるのですか、○」
彼は○の数歩手前で足を止め、宴の喧騒が響く中央の方を顎で示した。
諸葛亮は人前では”○殿”と呼ぶのに、二人になると呼び捨てる。
その真意も○は測りかねていた。
軍師という生き物はどこからが本心なのかが分からない。
「あの方の声が、それほどまでにあなたを苛むのか。……あるいは、あの方を『英雄』として迎え入れているこの陣の空気が、耐え難いのですか」
○は答えずため息をついた。
諸葛亮は彼女の反応を待たず、さらに一歩距離を詰める。
趙雲は離れた場所でその様子を見ていた。
割って入るべきか、静観すべきか。
だが昨夜の抱擁を思い出すと、趙雲の胸には苦い感情がせり上がってくる。
諸葛亮は○の目の前まで来ると、その青白い顔を覗き込むようにして囁いた。
「逃げていても、何も変わりませんよ。○…あなたが彼を殺したいと願うなら、その声を、その存在を、誰よりも近くで受け入れなさい。……それができないというのなら、あなたの復讐などただの火遊びに過ぎません」
その残酷な激励は、○の傷口を抉るように響いた。
○は木の幹に背を預けたまま、震える呼吸を整えた。
「……私を駒にする為に、そこまでして心を壊したいのですか」
諸葛亮はふっと視線を落とす。
宴の喧騒から漏れ出す篝火の明かりが彼の横顔を淡く照らし出す。
その瞬間、○は思わず息を呑んだ。
(誰…これ)
そこにいたのは、自分の知っている諸葛亮ではない。
「……心を壊す、ですか」
諸葛亮は自嘲気味に呟く。
「流石に心が壊れた駒など使えませんよ」
そう言ってまた近づくとしゃがみこむ。
「私があなたを抱きしめたのは、軍師としての憐憫ではありません。……純粋に私自身が触れたかった。本当に、それだけの事です」
その視線は熱かった。
月英の前で見せる穏やかな夫の顔でもなく、劉備の前で見せる忠義の顔でもない。
諸葛亮の手が迷わずに○の顎を掬い上げた。
その指先は○の肌を焦がすような緊張感を孕んでいる。
○は諸葛亮の瞳の奥に、自分と同じ孤独を見た。
この男もまた、劉備の陰で誰にも癒せぬ傷を抱えているのではないだろうか。
「……あなたも、私と同じなの?」
○の問いに、諸葛亮は答えなかった。
ただ顎を掬い上げた手に力を込め、彼女の吐息が触れるほどの距離で静かに目を閉じた。
諸葛亮の背中に遮られ、趙雲の位置からは○の表情を窺い知ることはできない。
ただ月明かりの下で二人が微動だにせず、濃密な沈黙を共有していることだけが痛いほど伝わってきた。
趙雲は知っている。
諸葛亮がいかに妻である月英を慈しんでいるかを。
戦場にあってなお寄り添い、言葉を交わさずとも通じ合うあの夫婦の姿は、殺伐とした陣中において唯一の安らぎですらあった。
劉備が全幅の信頼を寄せる軍師であり、趙雲自身もまた、その知略と高潔さを疑ったことはない。
だからこそ、その背中に向けて発すべき言葉は選ばなくてはならない。
一方、○は顔を近づける諸葛亮から拒絶するように顔を背けた。
(駄目だ…。この方には、あんなに素晴らしい奥方がいらっしゃるのに)
しかし諸葛亮はその顔を再び自分に向ける。
その時、背後から趙雲の声がかかった。
「――おや、諸葛亮殿?」
諸葛亮の動きがぴたりと止まる。
彼は何事もなかったかのように、○の顎に添えていた手を静かに下ろした。
趙雲は、ただ夜の巡回中に偶然二人を見つけたかのような落ち着いた足取りで近づいてくる。
「ああ。そちらに○殿がいらっしゃるのが見えましたので、明日の軍議についてお伝えしておこうと思ったのですが…諸葛亮殿もいらっしゃったのですね」
趙雲の言葉は、その場に流れていた不穏な空気を一瞬で戦場に引き戻した。
彼は諸葛亮の隣に並び立つと、暗闇の中に座り込む○を真っ直ぐに見つめる。
諸葛亮は一度深く息を吐き、いつもの涼やかな顔に戻った。
「趙雲殿。夜分にご苦労様です。私も丁度、○殿の心の持ちようを確かめていたところでした」
嘘ではない。
だが、すべてでもない。
諸葛亮の言葉の裏にある微かな熱を、趙雲は敏感に感じ取っていた。
それは主君を支える軍師としての献身でも、部下を導く師としての厳格さでもない。
もっと昏く澱んだ、一人の男としての独占欲に近い何かだ。
「諸葛亮殿、月英殿がお待ちでしょう。今はあちらに戻られた方がよろしいかと」
月英殿の名を出すことで諸葛亮が守るべき一線と、彼が陣中で体現しているはずの正しき姿を暗に突きつけた。
諸葛亮は薄く笑みを浮かべた。
その瞳は興を削がれたようでもあった。
「左様ですね。夜風にあたりすぎたようです。では、失礼いたしましょう」
諸葛亮は一度だけ○に視線を投げ、それから優雅な足取りで宴の喧騒の中へと戻っていった。
残された○は強張った身体をようやく解く。
諸葛亮の指先が触れていた顎のあたりがいまだに痺れている。
「○殿。私と戻りましょう。×も心配して待っていますから」
趙雲が隣に立ち、そっと肩に手を添えた。
******
翌日。
○が陣の中央を横切っていた時だった。
背後から「待て」と声がかかる。
○にとっては心臓を素手で掴まれるような嫌悪を呼び起こす声だった。
ゆっくり振り返る。
「俺がここに来て五日。将兵の中でまともに挨拶を交わしていないのはお前だけだ。……改めて挨拶をさせてくれ」
馬超はそう言って歩み寄ったが、至近距離で○の姿を正面から捉えた瞬間、わずかに眉を上げた。
乱戦でついた生々しい打撲の痕。
痛々しく額を横切る、凝固した血の混じった傷跡。
「名は、何という。俺は馬超。馬孟起だ」
「……○」
「○か。……そうか。その額の傷、悪かったな」
馬超はそれが、武人同士の果敢な切り合いの結果であると信じて疑わない様子だ。
「あの剣筋、見事だった。戦の中でついたその傷……許せとは言わん。だが、これからは同じ主君をいただく仲だ。その傷が癒えたらまた改めて手合わせ願いたいものだな」
馬超の言葉に、○は奥歯が砕けんばかりに噛み締めた。
ただ馬超を睨みつける。
その視線の険しさに馬超もようやく何かを感じ取ったのか、わずかに表情を硬くした。
その時、遠くから「○殿!治療しますよ!どこー?」と呼ぶ×の声がした。
○は馬超に背を向け、一言も発さずにその場を立ち去った。
馬超は去りゆく○の背中を独り、不可解そうに見送っていた。
馬超の執着は彼自身の純粋な好奇心ゆえに執拗だった。
「おい、○。お前の剣は誰に習った?」
「貴殿、西涼の者ではないのか?」
陣中を歩けば影のように馬超が付き纏う。
彼にとってそれは、見事な腕を持つ同郷かもしれない若き将への親愛の情に過ぎない。
しかしその声を聞くたびに、○の脳裏にはあの日の光景が蘇る。
極めつけはその昼下がり。
「○、今日はこれから共に飯を食わんか? 西涼の味が恋しいだろう。俺の部下が羊を潰した。貴殿にも分けてやりたい」
快活に屈託なく笑いながら肩に手を置こうとする馬超。
触るな、と怒鳴りかけて鞘に手をかけようとしたその時。
「馬超殿。そこまでにしていただきたい」
低く、有無を言わせぬ威圧感を持った声が響いた。
二人の間に割って入ったのは趙雲だった。
彼は○を背中に隠すように一歩前へ出ると、馬超から向けられる親愛の視線を代わりに受け止める。
「趙雲か。何だ、俺はただこいつと親睦を深めようとしただけだ」
馬超は不思議そうに眉を寄せるが、趙雲の表情は微塵も緩まない。
「○殿は此度の戦で心身ともに深く傷を負っております。諸葛亮殿からも、静養を優先させるよう仰せつかっている。……無理に付き纏うのは、彼女の回復を妨げる行為です」
「付き纏うとは人聞きの悪い。俺はただ……」
「馬超殿。貴殿の武勇は疑いようもありませんが、人の心に土足で踏み込むのは感心いたしません」
頑として動かない様子の趙雲に馬超は肩をすくめる。
「……ふん。堅苦しい男だな。わかったよ、今は引こう」
馬超が十分遠ざかるのを確認してから、趙雲は○の方へ向き直った。
「……○殿。大丈夫ですか。手が、震えています」
趙雲は彼女の細い手首をそっと握り、その震えを鎮めるように力を込めた。
趙雲の声はどこまでも慈愛に満ちていた。
だが今の○にとって、その優しさは自分をこの場に留まらせる枷でしかない。
馬超の快活な声、同郷を気取る馴れ馴れしい視線。
それら全てが許せない。
○は趙雲の手を振り払うようにして、大きくかぶりを振った。
言葉にならない拒絶を突きつけて、手の震えを強引に足取りへと変え無我夢中で歩き出す。
その後を、趙雲は何も言わずに…しかし一定の距離を保って静かに付いていった。
その背中を、演武場の高台から見下ろす二つの影があった。
「趙雲殿にお任せして、良かったですね」
月英が隣に立つ夫の横顔を穏やかに見上げながら呟いた。
「あの方は責任感が強く義理も厚い。今の○殿の危うさを、誰よりも深く理解し支えてくれるでしょう。あの方が側にいれば、○殿もいつか笑える日が来るかもしれません」
月英の言葉には、同じ女性としての切実な想いが込められていた。
しかし諸葛亮の反応は、妻の温かな推測とは正反対のものだった。
諸葛亮は何も答えず、羽扇を動かす手さえも止めていた。
その瞳はいつもの知者の者ではない。
彼は、趙雲が○の肩に触れようとした瞬間の動きを、そして○が趙雲にだけは見せた脆さを、すべて見ていた。
諸葛亮の胸の内には、自分でも説明のつかない、歪な感情が渦巻いている。
自分が○を突き放した”馬超と生きる絶望”という名の生。
それを趙雲が”自分が傍にいる優しさ”で塗り替えようとすることへの、耐え難い不快感。
彼女を駒として誰よりも深く、誰よりも残酷に理解しているのは、この自分であるはずだという傲慢な独占欲だった。
「……そうですね。趙雲殿は、実に見事な『盾』」
月英は夫の微かな声の調子に、一瞬だけ眉を寄せた。
夫が今、自分ではなく、遠ざかるあの二人の背中を恐ろしいほどの熱量で凝視していることに気づいたからだ。
「ですが彼の『盾』は、彼女を閉じ込める檻になるのかもしれませんよ」
諸葛亮はそう言い残すと本陣へと戻っていった。
月英はその背中を言いようのない不安と共に見送るしかなかった。