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翌日。
髪を短く切り揃えたことで、○の顔立ちは劇的に様変わりした。
髪が長かったことで柔らかな雰囲気をもっていたのが、今は引き締まって見える。
腹部の傷を庇いながら、○が身体を解していた時のことだ。
「おい、○! ……昨日は、その、悪かったな!」
地響きのような声とともに現れた張飛。
その隣には彼の娘である星彩が付き添っている。
「昨日は父上が申し訳ない事をしました」
星彩が静かに頭を下げると、張飛も大きな身体を縮こまらせて、居心地悪そうに頭を掻いた。
○は二人を見て短くなった髪を一度指で撫でると、感情を押し殺したような声で告げた。
「……一生、許しません」
そう言うと張飛が狼狽し、目に見えて慌てふためく。
そのあまりに素直で豪快な反応に、○は堪えきれなくなった。
「ふふっ……。冗談です、張飛殿。大丈夫です。私自身、これで踏ん切りがつきましたから」
○の口元から、微かな笑みがこぼれた。
この陣に来て初めて見せた、年相応の柔らかな表情。
星彩はそれを見て小さく息を吐いて微笑み、張飛は「なんだ、驚かせやがって!」と豪快に笑い飛ばした。
二人の姿が見えなくなると、○はハッとしたように表情を引き締め、何事もなかったかのように口元を拭った。
趙雲に付き従いながら×が楽しそうに話しかけている様子を遠目に、○が家宝の剣の手入れをしていると。
「……見事な剣ですね」
関平が声をかけてきた。
隣には星彩がいる。
二人の視線は○の持つ剣の柄に刻まれた、一族の象徴である精緻な意匠に注がれていた。
「……ああ。これは我が家の家宝であり、父の剣なのです」
”父の剣”という言葉に星彩は何かを察したようだ。
「見せていただいても? 蜀や魏の剣とは、重心の取り方が違うように見えます」
関平の真っ直ぐな瞳に、○はわずかに迷ったが静かに剣を差し出した。
「構いませんよ」
関平がその重みに感嘆し、星彩が細かな彫刻を指先でなぞる。
○はその様子を眺めていた。
星彩や関平と穏やかに言葉を交わしていた○の元へ諸葛亮が歩み寄る。
「○殿、少々よろしいですか。折り入ってお話したいことがございます」
軍師の突然の登場に三人は背筋を正した。
諸葛亮は柔和な笑みを浮かべてはいるが、何を考えているのか分からない目をしている。
○は父の剣を鞘に収めると、「承知いたしました」と短く応じ、諸葛亮の後を追って歩き出した。
その二人の後ろ姿を、離れた場所から趙雲が見つめていた。
×は趙雲の側で熱心に語り続けていたが、彼の視線が自分ではなく、諸葛亮に伴われて去っていく○に釘付けになっていることに気づく。
趙雲の瞳にあるのは単なる同僚への関心を超えた、深い憂慮の色であり、×が見た事のないものだった。
諸葛亮は人気のない陣の外れまで来ると、足を止め、○を振り返った。
「○殿。随分と顔色が良くなりましたね。短くされた髪も似合っていらっしゃいます。傷の具合も、もはや障りはないようで安心いたしました」
「……お気遣い、痛み入ります。皆さまの手厚い看護のおかげです」
○が静かに頭を下げると、諸葛亮はふっと表情を引き締めた。
「さて、いよいよ劉備殿による成都攻略の最終局面……本格的な進軍が始まります。貴女にはその先陣の一翼を担っていただきたい」
諸葛亮は成都へと続く空を見た。
「貴女には、趙雲殿、そして先ほどの若き将たちと共に『金雁橋』へと向かってもらいます。敵の守りも固く、一筋縄ではいかぬ要衝ですが……引き受けていただけますか?」
金雁橋。
そこを落とせば、成都の喉元を掴んだも同然である。
○は短くなった髪を揺らす風を感じながら、腰に帯びた父の剣に触れた。
きっと自分は試されている。
ちゃんと戦えるのか。
劉備軍の将としていられるのか。
「承知いたしました。諸葛亮殿が私を拾い、生かしてくださった恩、戦場にてお返しいたします」
*****
金雁橋を臨む平原は、伏兵を潜ませるには絶好の深い霧と、生い茂る草木に覆われていた。
劉備軍の先鋒として進軍する趙雲の傍らには、副将として馬を寄せる○の姿があった。
「○殿、無理はされぬよう。連携もまだ上手く取れないはずですから、まずは私の背を追うことだけを考えてください」
趙雲の静かな制止に、○は父の剣の柄を握り直し、短く応じた。
○からすれば、馬超に比べれば怖いものなどない。
それに西涼にいた頃は精鋭兵として働いていた自負もある。
一方で趙雲の背後には×も控えていたが、彼女に与えられた役割は遊撃の兵。
副将として趙雲の隣を許された○への嫉妬は、戦場にあっても消えることはなかった。
(ここで戦えなければ、この女もお役御免だわ)
そう心の中で愚痴っていると、霧を切り裂いて無数の矢が降り注いだ。
金雁橋を死守せんとする張任の精鋭たちが、四方の茂みから一斉に躍り出た。
○は襲い来る敵兵の喉笛を斬りつけていく。
甲冑の隙間に剣を差しいれ仕留めるのは、○の特技でもある。
さらにそのための薄い剣だ。
そんな乱戦の最中、×が敵の執拗な包囲に捕らわれていた。
×は必死に槍を振るうが、手練れの敵兵数人に退路を断たれ、背後から斧が振り下ろされる。
「×!」
趙雲が叫んだが、彼は敵に狙われ囲まれ距離がある。
すると○が馬を大きく立ち上がらせて方向を変えた。
馬の手綱を引き前足で数人の兵士を踏みつけながら駆け寄ると、馬から降り敵の間をすり抜けて、×の目の前までかけよる。
×が呆然と見守る前で敵を斬り伏せた○は、「無事ですか、こちらに…」と手を掴む。
しかし×はその手を振り払うと、また敵兵に向かって行った。
功を焦る若い×は趙雲の制止も耳に入らず、敵軍の分厚い壁へと深く突き進んでいく。
「私がいきます!趙雲殿はそのまま進んでください!」
○は趙雲にそう言うと×の背中を追う。
自分の復讐を果たすためには、ここで消耗するわけにはいかない。
でも目の前で命を散らそうとしている若き兵を放っておけるほど、心は荒んでいなかった。
背後から×を狙った長槍の先が目に入る。
○は反射的に×の身体を突き飛ばし、自らの肩でその一撃を受け流した。
鋭い刃が軽装の鎧を裂くが、避けたままの勢いで敵兵を殺す。
突き飛ばされた地面から這い上がった×が振り向く。
馬鹿にしていた○に助けられた屈辱と、自分の方が劣っていると突きつけられた現実が、彼女を逆上させていた。
しかし○は少し笑っていた。
「……×殿。貴女はまだ私よりもずっと若く、戦の経験が少ないのです。それは仕方のないこと。意地を張らないで」
その正論は、何よりも深く×の自尊心を抉った。
やがて趙雲が率いる本隊が敵の心臓部を貫き、金雁橋はついに劉備軍の手へと落ちた。
勝利の鬨が上がる中、陣営に戻った○と×を待っていたのは、沈痛な面持ちの趙雲だった。
俯く×の前に立つ。
「×……。今回の貴殿の行動、断じて看過できぬ。功を焦り、軍列を乱し、あまつさえ規律に則って従軍していた○殿を動かし深手を負わせた。……貴殿が振るっているのは、己の虚栄を満たすための枝切れか?」
「……」
「○殿が貴殿を庇わねば、今頃その首は敵の槍先に掲げられていた。師として、これほど情けないことはない」
趙雲の言葉は、×にとって刃で斬られるよりも辛い罰だ。
憧れの師に○の目の前で未熟を突きつけられたのだから。
×は唇を血が出るほど噛み締め、一言も発さずその場を走り去った。
趙雲は深く溜息をつき、○の方へ向き直る。
「……○殿。弟子の不始末、申し訳ない。貴殿のその傷、私の不徳の致すところだ」
「いいのです。私にもああいった経験があります。気持ちは分かります」
「え…?」
「その時は兄にひっぱたかれました。叱ってくれる師がいるのは幸せな事だと、彼女も気づくでしょう」
兄の事を口にした○は、とても穏やかな顔をしていた。
戦いの喧騒が遠のき、金雁橋に夜の静寂が訪れる頃。
○は自らの天幕で肩の傷に巻かれた包帯を指でなぞっていた。
×を庇った際に受けた傷は深くはないが、動くたびに鋭い痛みが走る。
「失礼いたします、○殿。傷の具合はいかがですか?」
幕を上げて入ってきたのは、薬箱を手にした月英だった。
彼女は穏やかな微笑みを絶やさず、○の隣に腰を下ろすと、手際よく新しい布と薬草の準備を始めた。
「月英殿……。夜分に恐縮です。大した傷ではありませんのに」
「いいえ。趙雲殿から、あなたが身を挺して×を救ったと伺いました。あの方は、自分の不徳だとひどく落ち込んでおられましたよ」
月英の白い指先が、○の傷口に丁寧に薬を塗っていく。
「×殿には、すっかり嫌われてしまって…」
「×は、幼い頃から趙雲殿の背中だけを追いかけてきた子なのです。今の彼女にとって、趙雲殿が自分以外の女性にこれほど心を砕く姿を見るのは、初めてのことなのでしょう」
月英は一度言葉を切り、○を見つめたが、○と目が合う事はない。
「嫉妬という言葉で片付けるには、あまりに純粋で脆い憧憬なのです。あの子もまた、自分の未熟さに誰より傷ついている。……○殿、どうか彼女の無礼を許してあげてください」
「……許すも何も。よそ者の私はいずれ去るのですから、どのように扱われても構いません」
そう言った○は、自身が×くらいの年齢だった頃の事を思い出していた。
○にも憧れていた年上の将がいて、ああして後ろを追い回していたことがある。
趙雲ほどの誠実さはなかったが、あのような師がいれば自分ももう少し違ったかもしれない。
「趙雲殿も不器用な方ですから。傷ついた貴女を守りたいという想いが強すぎて、それが結果として×を突き放すような形になってしまった。……あの方はあなたの中に、かつての自分と同じ何かを見ているのかもしれません」
月英の言葉に○がやっと顔を上げる。
「さあ、今夜はゆっくりお休みください」
月英が去った後、○は一人、天幕の隙間から見える月を見上げた。
久しぶりにぶつけられた他人からの激情は、どこか○に安らぎを与えていた。
○は疼く肩を抱えながら自身の幕舎を出た。
向かった先は陣の端にひっそりと張られた×の幕舎。
「……何の用。貴女まで私を叱りに来たの?」
幕を捲って現れた○に対し、×は顔を背けたまま、尖った声で迎えた。
その瞳は赤く、つい先ほどまで一人で悔し涙を流していたことを物語っている。
○は構わずに、誘われもしない狭い幕舎の中へと足を踏み入れた。
「いえ……ただ、少し話をしたいと思って」
「話? 勝ち誇りに来たの間違いじゃないの」
「×殿。……あなたを見ていると、かつての自分を見ているような気がするのです」
唐突な言葉に、×は毒気を抜かれたように動きを止めた。
○は近くの木箱に腰を下ろすと、短くなった自らの髪を指先で弄んだ。
「私の国では、物心がつく頃から戦士になる為に武芸を仕込むものでした。……だから私も、盲目的に強くなりたいと、そればかりを考えて。かつてはあなたが趙雲殿の背中を追うように、憧れた年上の将の後を追ったものです」
○の静かな声音には、どこか懐かしむような響きがあった。
「彼に良い所を見せたくて張り切りすぎ、何度叱責されたかしれません。だからあなたの気持ちも痛いほどわかります。頭で思う様に動かない身体も、上手くいかない戦況も。これは趙雲殿がいる間に、たくさん叱られながら強くなるしかありません」
×の雰囲気が少し柔らかくなる。
少し困った様に、○は肩の力を抜く。
「ちなみに…私の道を辿ると婚期を逃しますよ。おすすめしません」
「え?」
「そうして剣の道にのめり込んでいるうちに、気がつけば適齢期も過ぎて。今や戦場にしか居場所はありません」
○が自嘲気味に悪戯っぽく口角を上げると、×は驚いたように目を見開いた。
笑いもしない冷徹な武人だと思っていた○から飛び出した「婚期」という、年相応の女性らしい悩みの言葉。
「……○殿でも、そんなこと考えるの?」
「ええ。西涼の女は気が強いと言われますが、私も一人の女子ですから」
×は黙って俯き、膝の上で拳を握りしめた。
○の言葉は月英や趙雲の慰めとは違う。
「……ごめんなさい。私、貴女が鼻につくからって、あんな無茶をして……」
「いいのです。それに私のこの顔は、中原の方たちには異質らしく、昔から初対面はうまくいかない事が多いのです。気に入らない表情に見えるのでしょうね」
そう言って頬を撫でる○。
「…異民族の血が混ざっているの?」
「ええ。祖母が」
×の頑なだった心が少しだけ解けた。
しかし二人の間に流れた束の間の平穏を、引き裂くような急報が陣中に響き渡る。
「伝令! 北方、葭萌関に西涼の精鋭が出現!錦馬超かと思われます」
その瞬間、○の顔から血の気が引いた。
先ほどまでの穏やかな微笑みは消え失せ勢い良く立ち上がる。
「…馬超…?」
腰の剣に手をかける○の手は、激しく震えている。
「○殿……?」
×が不安げに声をかけるが、○には届かない。
彼女は一言も発さず、憑りつかれたような足取りで幕舎を飛び出していった。
髪を短く切り揃えたことで、○の顔立ちは劇的に様変わりした。
髪が長かったことで柔らかな雰囲気をもっていたのが、今は引き締まって見える。
腹部の傷を庇いながら、○が身体を解していた時のことだ。
「おい、○! ……昨日は、その、悪かったな!」
地響きのような声とともに現れた張飛。
その隣には彼の娘である星彩が付き添っている。
「昨日は父上が申し訳ない事をしました」
星彩が静かに頭を下げると、張飛も大きな身体を縮こまらせて、居心地悪そうに頭を掻いた。
○は二人を見て短くなった髪を一度指で撫でると、感情を押し殺したような声で告げた。
「……一生、許しません」
そう言うと張飛が狼狽し、目に見えて慌てふためく。
そのあまりに素直で豪快な反応に、○は堪えきれなくなった。
「ふふっ……。冗談です、張飛殿。大丈夫です。私自身、これで踏ん切りがつきましたから」
○の口元から、微かな笑みがこぼれた。
この陣に来て初めて見せた、年相応の柔らかな表情。
星彩はそれを見て小さく息を吐いて微笑み、張飛は「なんだ、驚かせやがって!」と豪快に笑い飛ばした。
二人の姿が見えなくなると、○はハッとしたように表情を引き締め、何事もなかったかのように口元を拭った。
趙雲に付き従いながら×が楽しそうに話しかけている様子を遠目に、○が家宝の剣の手入れをしていると。
「……見事な剣ですね」
関平が声をかけてきた。
隣には星彩がいる。
二人の視線は○の持つ剣の柄に刻まれた、一族の象徴である精緻な意匠に注がれていた。
「……ああ。これは我が家の家宝であり、父の剣なのです」
”父の剣”という言葉に星彩は何かを察したようだ。
「見せていただいても? 蜀や魏の剣とは、重心の取り方が違うように見えます」
関平の真っ直ぐな瞳に、○はわずかに迷ったが静かに剣を差し出した。
「構いませんよ」
関平がその重みに感嘆し、星彩が細かな彫刻を指先でなぞる。
○はその様子を眺めていた。
星彩や関平と穏やかに言葉を交わしていた○の元へ諸葛亮が歩み寄る。
「○殿、少々よろしいですか。折り入ってお話したいことがございます」
軍師の突然の登場に三人は背筋を正した。
諸葛亮は柔和な笑みを浮かべてはいるが、何を考えているのか分からない目をしている。
○は父の剣を鞘に収めると、「承知いたしました」と短く応じ、諸葛亮の後を追って歩き出した。
その二人の後ろ姿を、離れた場所から趙雲が見つめていた。
×は趙雲の側で熱心に語り続けていたが、彼の視線が自分ではなく、諸葛亮に伴われて去っていく○に釘付けになっていることに気づく。
趙雲の瞳にあるのは単なる同僚への関心を超えた、深い憂慮の色であり、×が見た事のないものだった。
諸葛亮は人気のない陣の外れまで来ると、足を止め、○を振り返った。
「○殿。随分と顔色が良くなりましたね。短くされた髪も似合っていらっしゃいます。傷の具合も、もはや障りはないようで安心いたしました」
「……お気遣い、痛み入ります。皆さまの手厚い看護のおかげです」
○が静かに頭を下げると、諸葛亮はふっと表情を引き締めた。
「さて、いよいよ劉備殿による成都攻略の最終局面……本格的な進軍が始まります。貴女にはその先陣の一翼を担っていただきたい」
諸葛亮は成都へと続く空を見た。
「貴女には、趙雲殿、そして先ほどの若き将たちと共に『金雁橋』へと向かってもらいます。敵の守りも固く、一筋縄ではいかぬ要衝ですが……引き受けていただけますか?」
金雁橋。
そこを落とせば、成都の喉元を掴んだも同然である。
○は短くなった髪を揺らす風を感じながら、腰に帯びた父の剣に触れた。
きっと自分は試されている。
ちゃんと戦えるのか。
劉備軍の将としていられるのか。
「承知いたしました。諸葛亮殿が私を拾い、生かしてくださった恩、戦場にてお返しいたします」
*****
金雁橋を臨む平原は、伏兵を潜ませるには絶好の深い霧と、生い茂る草木に覆われていた。
劉備軍の先鋒として進軍する趙雲の傍らには、副将として馬を寄せる○の姿があった。
「○殿、無理はされぬよう。連携もまだ上手く取れないはずですから、まずは私の背を追うことだけを考えてください」
趙雲の静かな制止に、○は父の剣の柄を握り直し、短く応じた。
○からすれば、馬超に比べれば怖いものなどない。
それに西涼にいた頃は精鋭兵として働いていた自負もある。
一方で趙雲の背後には×も控えていたが、彼女に与えられた役割は遊撃の兵。
副将として趙雲の隣を許された○への嫉妬は、戦場にあっても消えることはなかった。
(ここで戦えなければ、この女もお役御免だわ)
そう心の中で愚痴っていると、霧を切り裂いて無数の矢が降り注いだ。
金雁橋を死守せんとする張任の精鋭たちが、四方の茂みから一斉に躍り出た。
○は襲い来る敵兵の喉笛を斬りつけていく。
甲冑の隙間に剣を差しいれ仕留めるのは、○の特技でもある。
さらにそのための薄い剣だ。
そんな乱戦の最中、×が敵の執拗な包囲に捕らわれていた。
×は必死に槍を振るうが、手練れの敵兵数人に退路を断たれ、背後から斧が振り下ろされる。
「×!」
趙雲が叫んだが、彼は敵に狙われ囲まれ距離がある。
すると○が馬を大きく立ち上がらせて方向を変えた。
馬の手綱を引き前足で数人の兵士を踏みつけながら駆け寄ると、馬から降り敵の間をすり抜けて、×の目の前までかけよる。
×が呆然と見守る前で敵を斬り伏せた○は、「無事ですか、こちらに…」と手を掴む。
しかし×はその手を振り払うと、また敵兵に向かって行った。
功を焦る若い×は趙雲の制止も耳に入らず、敵軍の分厚い壁へと深く突き進んでいく。
「私がいきます!趙雲殿はそのまま進んでください!」
○は趙雲にそう言うと×の背中を追う。
自分の復讐を果たすためには、ここで消耗するわけにはいかない。
でも目の前で命を散らそうとしている若き兵を放っておけるほど、心は荒んでいなかった。
背後から×を狙った長槍の先が目に入る。
○は反射的に×の身体を突き飛ばし、自らの肩でその一撃を受け流した。
鋭い刃が軽装の鎧を裂くが、避けたままの勢いで敵兵を殺す。
突き飛ばされた地面から這い上がった×が振り向く。
馬鹿にしていた○に助けられた屈辱と、自分の方が劣っていると突きつけられた現実が、彼女を逆上させていた。
しかし○は少し笑っていた。
「……×殿。貴女はまだ私よりもずっと若く、戦の経験が少ないのです。それは仕方のないこと。意地を張らないで」
その正論は、何よりも深く×の自尊心を抉った。
やがて趙雲が率いる本隊が敵の心臓部を貫き、金雁橋はついに劉備軍の手へと落ちた。
勝利の鬨が上がる中、陣営に戻った○と×を待っていたのは、沈痛な面持ちの趙雲だった。
俯く×の前に立つ。
「×……。今回の貴殿の行動、断じて看過できぬ。功を焦り、軍列を乱し、あまつさえ規律に則って従軍していた○殿を動かし深手を負わせた。……貴殿が振るっているのは、己の虚栄を満たすための枝切れか?」
「……」
「○殿が貴殿を庇わねば、今頃その首は敵の槍先に掲げられていた。師として、これほど情けないことはない」
趙雲の言葉は、×にとって刃で斬られるよりも辛い罰だ。
憧れの師に○の目の前で未熟を突きつけられたのだから。
×は唇を血が出るほど噛み締め、一言も発さずその場を走り去った。
趙雲は深く溜息をつき、○の方へ向き直る。
「……○殿。弟子の不始末、申し訳ない。貴殿のその傷、私の不徳の致すところだ」
「いいのです。私にもああいった経験があります。気持ちは分かります」
「え…?」
「その時は兄にひっぱたかれました。叱ってくれる師がいるのは幸せな事だと、彼女も気づくでしょう」
兄の事を口にした○は、とても穏やかな顔をしていた。
戦いの喧騒が遠のき、金雁橋に夜の静寂が訪れる頃。
○は自らの天幕で肩の傷に巻かれた包帯を指でなぞっていた。
×を庇った際に受けた傷は深くはないが、動くたびに鋭い痛みが走る。
「失礼いたします、○殿。傷の具合はいかがですか?」
幕を上げて入ってきたのは、薬箱を手にした月英だった。
彼女は穏やかな微笑みを絶やさず、○の隣に腰を下ろすと、手際よく新しい布と薬草の準備を始めた。
「月英殿……。夜分に恐縮です。大した傷ではありませんのに」
「いいえ。趙雲殿から、あなたが身を挺して×を救ったと伺いました。あの方は、自分の不徳だとひどく落ち込んでおられましたよ」
月英の白い指先が、○の傷口に丁寧に薬を塗っていく。
「×殿には、すっかり嫌われてしまって…」
「×は、幼い頃から趙雲殿の背中だけを追いかけてきた子なのです。今の彼女にとって、趙雲殿が自分以外の女性にこれほど心を砕く姿を見るのは、初めてのことなのでしょう」
月英は一度言葉を切り、○を見つめたが、○と目が合う事はない。
「嫉妬という言葉で片付けるには、あまりに純粋で脆い憧憬なのです。あの子もまた、自分の未熟さに誰より傷ついている。……○殿、どうか彼女の無礼を許してあげてください」
「……許すも何も。よそ者の私はいずれ去るのですから、どのように扱われても構いません」
そう言った○は、自身が×くらいの年齢だった頃の事を思い出していた。
○にも憧れていた年上の将がいて、ああして後ろを追い回していたことがある。
趙雲ほどの誠実さはなかったが、あのような師がいれば自分ももう少し違ったかもしれない。
「趙雲殿も不器用な方ですから。傷ついた貴女を守りたいという想いが強すぎて、それが結果として×を突き放すような形になってしまった。……あの方はあなたの中に、かつての自分と同じ何かを見ているのかもしれません」
月英の言葉に○がやっと顔を上げる。
「さあ、今夜はゆっくりお休みください」
月英が去った後、○は一人、天幕の隙間から見える月を見上げた。
久しぶりにぶつけられた他人からの激情は、どこか○に安らぎを与えていた。
○は疼く肩を抱えながら自身の幕舎を出た。
向かった先は陣の端にひっそりと張られた×の幕舎。
「……何の用。貴女まで私を叱りに来たの?」
幕を捲って現れた○に対し、×は顔を背けたまま、尖った声で迎えた。
その瞳は赤く、つい先ほどまで一人で悔し涙を流していたことを物語っている。
○は構わずに、誘われもしない狭い幕舎の中へと足を踏み入れた。
「いえ……ただ、少し話をしたいと思って」
「話? 勝ち誇りに来たの間違いじゃないの」
「×殿。……あなたを見ていると、かつての自分を見ているような気がするのです」
唐突な言葉に、×は毒気を抜かれたように動きを止めた。
○は近くの木箱に腰を下ろすと、短くなった自らの髪を指先で弄んだ。
「私の国では、物心がつく頃から戦士になる為に武芸を仕込むものでした。……だから私も、盲目的に強くなりたいと、そればかりを考えて。かつてはあなたが趙雲殿の背中を追うように、憧れた年上の将の後を追ったものです」
○の静かな声音には、どこか懐かしむような響きがあった。
「彼に良い所を見せたくて張り切りすぎ、何度叱責されたかしれません。だからあなたの気持ちも痛いほどわかります。頭で思う様に動かない身体も、上手くいかない戦況も。これは趙雲殿がいる間に、たくさん叱られながら強くなるしかありません」
×の雰囲気が少し柔らかくなる。
少し困った様に、○は肩の力を抜く。
「ちなみに…私の道を辿ると婚期を逃しますよ。おすすめしません」
「え?」
「そうして剣の道にのめり込んでいるうちに、気がつけば適齢期も過ぎて。今や戦場にしか居場所はありません」
○が自嘲気味に悪戯っぽく口角を上げると、×は驚いたように目を見開いた。
笑いもしない冷徹な武人だと思っていた○から飛び出した「婚期」という、年相応の女性らしい悩みの言葉。
「……○殿でも、そんなこと考えるの?」
「ええ。西涼の女は気が強いと言われますが、私も一人の女子ですから」
×は黙って俯き、膝の上で拳を握りしめた。
○の言葉は月英や趙雲の慰めとは違う。
「……ごめんなさい。私、貴女が鼻につくからって、あんな無茶をして……」
「いいのです。それに私のこの顔は、中原の方たちには異質らしく、昔から初対面はうまくいかない事が多いのです。気に入らない表情に見えるのでしょうね」
そう言って頬を撫でる○。
「…異民族の血が混ざっているの?」
「ええ。祖母が」
×の頑なだった心が少しだけ解けた。
しかし二人の間に流れた束の間の平穏を、引き裂くような急報が陣中に響き渡る。
「伝令! 北方、葭萌関に西涼の精鋭が出現!錦馬超かと思われます」
その瞬間、○の顔から血の気が引いた。
先ほどまでの穏やかな微笑みは消え失せ勢い良く立ち上がる。
「…馬超…?」
腰の剣に手をかける○の手は、激しく震えている。
「○殿……?」
×が不安げに声をかけるが、○には届かない。
彼女は一言も発さず、憑りつかれたような足取りで幕舎を飛び出していった。