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翌日、傷の痛みで浅い眠りを繰り返していた○のもとに、一人の女性が訪れた。
その身に纏う空気は温かく、手には薬草の小瓶を携えている。
「失礼いたします。……○殿とお聞きしました。私は月英。諸葛孔明の妻でございます」
○は驚いて身を固くしたが、月英の穏やかな微笑みに毒気を抜かれた。
「孔明様から、西涼より怪我をされた御方が来られたと伺いました。聞けば私と同年代とのこと……。この殺伐とした陣中で同世代の女性とお話ししたくて、無理を言って私が今日からのお世話係を申し出たのです。ご迷惑ではありませんか?」
月英の飾らない言葉と親しみやすい声音に、○の強張っていた肩の力がふっと抜けた。
父を失い、兄を失い、敵地とも知れぬ場所で孤独を感じていた○にとって、同世代の女性の存在は何よりの救いだった。
「……いいえ。私の方こそ、月英殿のようなお優しい方に声をかけていただき、心が洗われるようです」
二人は自然と言葉を交わし始め、天幕の中には穏やかな空気が流れた。
だがその頃、軍議に使う本営の幕舎で、諸葛亮は手元の筆を止めて遠くを見つめていた。
月英が○の世話を焼く…それは○を陣に馴染ませ、その心を開かせるためには最も効率的で最善の策であるはずだ。
軍師としての自分が下した判断に、一片の曇りもない。
(しかし…この胸騒ぎは)
諸葛亮は得体のしれない心のざわつきを感じていた。
月英が医務の幕舎から静かに出てくると、そこには所在なげに佇む趙雲の姿があった。
彼は月英の姿を認めると歩み寄った。
「月英殿。……○殿の様子はいかがですか」
月英は手にした薬箱を抱え直し、困ったように眉を下げて趙雲を見上げた。
「……あまり、無理に近くにいてはいけないのかもしれません」
「どういう意味ですか」
「あの方は私に対してとても穏やかに、頑張って笑ってくださいます。ですが、その笑顔で……そっと壁を作られているのです。触れてはいけない、とても深い悲しみの淵に立っておられるような……」
月英の言葉に趙雲は沈黙した。
戦場での深手は魂も削るものだ。
月英は幕舎の方を一度振り返る。
「私が彼女を助力できればと思ったのですが…難しいのかもしれません」
諸葛亮殿ですら沈黙を守る、○の過去。
「……案ずるな、月英殿。彼女が心を開くのが時を要するのであれば、ただ待つのみです」
趙雲は自らに言い聞かせるように力強い声で告げた。
******
一週間の時が流れ、○の傷は少しずつだが癒えていった。
腹部に多少の痛みはあるが日常生活を支障なく送れるまでになった彼女を、月英は「劉備殿にお会いする前に、身綺麗にいたしましょう」と、陣の端にある清らかな水源へと連れ出した。
これまでは布で拭うのみだったので、西涼から逃れてきた際に全身にこびりついた泥や戦火の煤は、容易には落ちていなかった。
髪にこびりついた血もまだ少し固まっている。
○は月英に手伝われ、久しぶりにその身を清めた。
水浴びの際、月英は○の背や肩に残る、数多の古い傷跡を静かに見つめる。
それは苛烈な実戦を幾度も潜り抜けてきた武人の証だった。
水浴びを終え、○は月英から借りた衣に袖を通す。
体格が似ていたので、誂えたように馴染んだ。
清潔な衣の香りに○の心も僅かに解けていった。
医務の幕舎に戻ると、月英は○を椅子に座らせ櫛を手にする。
「髪を梳きましょう。これほど見事な髪を、煤と血で汚れたままにしておくのは勿体ないですよ」
西涼の血を引く○の髪は、毛先に柔らかな癖があり、煤を洗い流すと濃茶色の独特の輝きを放っていた。
背中まで届く髪を、月英が丁寧に梳いていく。
その時。
「失礼、○殿。劉備殿がお待ちで……」
断りもなく幕舎の入り口が開いた。
そこに立っていたのは、○を迎えに参じた諸葛亮だった。
しかし彼は一歩足を踏み出したところで、凍りついたように動きを止める。
そこには戦装束を脱ぎ捨て、月英の衣を纏った瑞々しい○の姿があった。
梳かれたばかりの癖のある髪が、肩から背へと美しい曲線を描いている。
「これは失礼しました」
稀代の天才軍師ともあろう男が目に見えて動揺し、弾かれたように背を向けた。
その慌て様に、○は思わず小さく口角を上げた。
「いいえ、諸葛亮殿。大丈夫です。身繕いを人に見られるのには慣れています……私の方こそ、このような姿で失礼ではありませんか?」
○の声に、諸葛亮は背を向けたまま話す。
「いえ……その、見違えました。あまりに……」
最後まで言いかけて妻の前である事に気づき、言葉を詰まらせた諸葛亮。
その耳が微かに赤らんでいるのを、月英は愉しげに見つめている。
一方の諸葛亮は、自らの胸の奥で、経験したことのないような鼓動が打たれていることに戸惑っていた。
「……外でお待ちしております」
彼は逃げるように幕舎を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、○は鏡に映る自分の姿を見つめた。
諸葛亮の先導で本陣へ足を踏み入れると、そこには蜀の主・劉備が、温和ながらも威厳に満ちた佇まいで待っていた。
その傍らには不動の姿勢で控える趙雲の姿がある。
趙雲は、現れた○を一目見て、微かに眉を動かした。
泥と血に塗れ、死の淵を彷徨っていたあの夜の面影は、今の彼女にはない。
背中まで流れる髪を整え結わえ、気の強そうな目元。
身体や顔にある細かな傷をのぞけば、確かに”良家のお嬢様”だ。
荒々しい陣中には不釣り合いなほどだった。
「よくぞ参られた。貴殿が、諸葛亮が目をかけたという○殿か」
劉備は柔和な笑みを浮かべ、○の前に歩み寄った。
「こうして身綺麗にされた姿を拝見すると……どこぞの国のご令嬢かと見紛うほどだ。戦場の埃にまみれさせておくのが、惜しく感じられるな」
「……恐縮に存じます。ですが劉備殿。私は幼き頃より戦働きしかしたことがございません。こうして女の衣を纏ってはおりますが、琴を弾くことも、花を愛でることも……女性らしいことは何一つ、身についておらぬのです」
○の声には、自嘲に似た響きがあった。
手に残った剣だこ、そして衣の下に隠された傷跡。
それこそが自分の真実だ。
劉備はその言葉に否定も肯定もせず、ただ深く頷いた。
「そうか。だが、我が軍には、志を持って剣をとる女性も多い。貴殿がその力を、我らの仁の世のために振るってくれるのであれば、私は心から歓迎しよう」
劉備の瞳には、馬超への憎悪に凝り固まった○の心をも包み込むような、底知れぬ慈愛が宿っていた。
本陣を辞した諸葛亮は○を伴い、陣中を静かに歩く。
兵たちの威勢のいい唱和が響く中、紹介されたのは若き将たちだった。
「関平殿、星彩殿。……こちらが、昨日お話しした○殿です」
関平は爽やかな笑みを浮かべて会釈し、星彩は静かだが芯のある瞳で○を見つめ、短く言葉を交わした。
○は礼儀正しく応じ、その唇に微かな微笑みを浮かべたものの浮かない表情。
諸葛亮はその様子を細やかに観察していた。
陣の端、木々の間から成都の城壁が遠くに霞んで見えるひらけた場所へと辿り着く。
諸葛亮は近くの岩に腰を下ろすと、○に隣を勧めた。
「○殿、……無理をなさる必要はございません。慣れぬ地で、見知らぬ者たちに囲まれるのは、心身ともに酷なこと。今はあなたの歩幅で歩まれればよいのです」
諸葛亮の声は穏やかだった。
その慰めの言葉は軍師としての打算ではなく、一人の男としての労いだ。
○は岩に浅く腰掛け、視線を足元の枯れ草に落とす。
しばらくの沈黙の後、絞り出すような声が漏れる。
「……毎晩、悪夢を見ます」
諸葛亮は○を見た。
「目を閉じれば、あの炎の熱さが蘇り、父上の亡骸が倒れる姿が…。身代わりとなって果てた義姉の叫びが、耳の奥から離れないのです。こんな事なら…」
○は胸を詰まらせ、膝の上で兄の懐刀を握りしめた。
白銀の鞘をなぞる指先が強張っている。
諸葛亮は、安易な慰めなど今の彼女には何の救いにもならないと思い、黙り込む。
立ち上がり、薄闇に沈みゆく空を見上げた。
「その悪夢を終わらせる為に必要な力は、私達が必ずや貴女に授けましょう」
○はその横顔を見上げた。
この若き軍師の知性は、自分の絶望すらも、未来への糧に変えようとしている。
○は内心、それでもいいと思った。
今は自分で何も考えたくない。
諸葛亮が何を企んでいようと、あるいは自分をどのような駒として盤上に置こうと、構いはしなかった。
ただ馬超を殺すために傷を癒し、牙を研ぐことだけを考えていればいい。
(……あの男を討つならば、もはや相討ち以外に道はない。私では到底かなわないもの。それまでに身体がもてばいい)
脳裏に刻まれた馬超の圧倒的な武。
鎧を血に染め、獅子のごとく吼えていたあの男を仕留めるには、己の命すべてを投げ込まねば届かない。
○はその結末を静かに受け入れていた。
仇を殺した後に、自分が生きていける気などしない。
灰になった故郷も、帰らぬ父も、身代わりとなった女官も、すべてはあの世にある。
この鳴りやまない悲鳴や怒号を聞きながら生きていくなど、耐えられない。
ならば刺し違えて果てることこそが、自分に許された唯一の安らぎに思えた。
「……諸葛亮殿。私は、貴方の望むままに」
○は潤んだ瞳を拭い、諸葛亮を見上げた。
その瞳には、暗い決意が宿っている。
諸葛亮は羽扇を動かす手を止め、眉を寄せた。
「勘違いしておられますね。私は貴女を使い潰すために、ここに留めたわけではありませんよ」
諸葛亮の静かな言葉。
軍師としての冷徹な計算の裏側に、一人の人間としての…あるいは彼女を惜しむ者としての、微かな揺らぎが混じっていた。
「……そうですね。潰されては困ります」
○の瞳は足元の暗がりに落ちた。
「私には、やるべきことがあるのですから。……あの男を、この手で地獄へ引きずり落とすまでは、潰れてはならないのです」
諸葛亮は羽扇を動かす手を止め、小さく溜息をついた。
今の彼女にとって、生きる理由は復讐という名の死の中にしかない。
諸葛亮はそれ以上何も言わなかった。
今は何を説いても、彼女の耳には虚しく響くだけだと悟ったからだ。
「……夜風が冷え込みます。幕舎へ戻りましょう。これ以上、月英を心配させるわけにはいきません」
諸葛亮は一歩下がり、○の歩みを促した。
二人は並んで、松明の火が揺れる陣中を歩いた。
劉備の傍らには、不動の姿勢で護衛を務める趙雲の姿があったが、彼は諸葛亮が○を伴っているのを確認すると、深く一礼し、それ以上の介入は控えた。
主君の守護という己の責務を全うしながらも、その鋭い視線は一瞬、○の沈痛な横顔を捉える。
幕舎の前まで辿り着くと、諸葛亮は足を止めた。
「○殿。……焦ってはなりません。貴女が求める『機会』は、正しき時に、正しき形で訪れるでしょう。それまでは、ただ己を養いなさい」
「……分かりました」
○は短く応じると、一度だけ深く頭を下げ、幕舎の中へと消えていった。
一人残された諸葛亮は、彼女が戻った幕舎を見つめる。
彼女が抱く復讐心。
それがいつか、どういう結末を辿るのか。
******
翌週。
○は傷の癒えとともに、その身なりを武人としてのものに改めた。
西涼の城にいた頃と同じく、高く髪を結い上げ、月英が用意してくれた動きやすい軽装の鎧を纏う。
腰に剣を差し、その姿は一端の武人だ。
諸葛亮は○を伴い、張飛の守る陣営へと足を運んだ。
そこには劉備の義弟である猛将・張飛を中心に、諸葛亮、趙雲、そして苦々しい表情を浮かべた×が顔を揃えていた。
「張飛殿。本日より、○殿には我が軍の将として働いていただきます」
諸葛亮の紹介に対し、張飛は蛇矛を傍らに立て、巨大な体を揺らして鼻で笑った。
その眼光は鋭く、獲物を値踏みする獣のようだ。
「……おい、諸葛亮。今日まで何を聞いても素性も言えねぇ、どこぞの馬の骨とも知れねぇ細っちい女が、将だと? 笑わせるんじゃねぇ」
張飛はのしのしと歩み寄ると、○の目の前で足を止めた。
威圧感そのもの感じていない様な空虚な表情の○。
張飛はその大きな手で、彼女が結い上げた髪の房を乱暴に掴み上げた。
「見てみろ。戦場に出るってのに、こんなチャラチャラした長い髪をなびかせやがって。俺はな、こんな覚悟のねぇ女に、背中も命も預けられねぇんだよ」
張飛の無作法な振る舞いに、趙雲が鋭く眉を寄せた。
女性の髪に…それも本人の意思を無視して触れるなど礼節に反する。
趙雲が制止のために一歩前へ踏み出そうとした、その時。
○の手が懐刀を握りこむ。
張飛が瞬時に身構えたが、○の狙いは彼ではない。
○は自らの髪を張飛の手から奪い返すと、懐刀を迷いなくその髪の束へと滑らせた。
ザク、という音と共に見事な艶を湛えていた○の長い髪が、無惨に宙を舞う。
肩の上でザンバラに切り揃えられた髪。
さっきまでの令嬢の面影を自ら断ち切ったその姿に、その場にいた全員が息を呑み、静まり返った。
○は手にした髪の束を張飛に差し出す。
「……こんなものが貴方の仰る『覚悟』の妨げになりますか、張飛殿。気になるのならば差し上げます」
短くなった髪の間から覗く○の瞳には、一切の迷いがなかった。
張飛は目の前の娘が放つ異様な気迫に、思わず目を丸くする。
「……ふん、言うじゃねぇか。面白い」
張飛がニヤリと口角を上げると、その場を去っていく。
背後でそれを見ていた×は、あまりの衝撃に言葉を失い、槍を握る手を震わせていた。
○は、肩の上で不揃いになった髪を、自らの手でバサバサと乱暴に払う。
趙雲はゆっくりと歩み寄った。
「……○殿。流石に、そこまでせずとも」
だが○は、フンと息を吐くと趙雲を見る。
「いいのです、趙雲殿。どうせいつか切るつもりでした。こんなもので張飛殿に覚悟を示せたのであれば、一石二鳥というものです」
その言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
趙雲はザンバラになったままの彼女の毛先を見つめる。
「……そのままで歩くわけにもいくまい。私でよければ、整えようか。……幼子の髪を切った経験くらいしかありませんが」
趙雲の不器用な申し出に、○は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
しかし柔らかな、どこか諦念の混じった笑みを浮かべる。
「……お願いできますか。不器用な私よりは、趙雲殿の方がずっと上手くやってくださるでしょうから」
張飛が去った後の静まり返った調練場で、○は近くの切り株に静かに腰を下ろした。
趙雲は○のザンバラになった髪を慎重に切り揃える。
○は目を閉じ、後頭部に触れる趙雲の指の温もりを、ただ静かに受け入れていた。
しかし程なくして、鋭い足音が土を蹴って近づいてきた。
「……何をしているのですか、趙雲殿!」
現れたのは×。
彼女は○を睨みつけると声を荒らげた。
「覚悟を示して髪を切ったとか何とか言って……結局はそうやって子龍殿の手を煩わせ、甘えているだけではないですか! 皆が貴女を特別扱いするからといって、付け上がるのも大概になさい!」
×の罵声が響き渡る中、○は一切の反論をせず、ただ黙ってその言葉を聞く。
○はゆっくりと目を開けると、椅子代わりにしていた切り株から立ち上がった。
「……失礼いたしました。あなたの仰る通りです」
○は感情の読み取れぬ抑揚のない声で、淡々と告げた。
そして背後に立つ趙雲を振り返る。
「趙雲殿、もう結構です。彼女の言う通り、自分の始末は自分ですべきでした。……これ以上、あなたの時間を奪うわけには参りません。残りは自分でやりますわ」
○は趙雲の手から懐刀を受け取ろうと手を伸ばしたが、趙雲はその手を制し、彼女の肩を静かに押し留めた。
「待ちなさい、○殿。……×、言葉が過ぎる。彼女は病み上がりであり、今は我が軍の将としてその身を整えている最中だ。私が手を貸すことに、甘えなどという謗りを受ける謂れはない」
「趙雲殿……! どうしてその女を庇うのですか!そりゃ、凄い怪我もしていましたが…っ」
趙雲が自分ではなく、出会って間もない余所者の肩を持った。
その事実が×の心をさらに激しく逆撫でする。
彼女にとって、趙雲の誠実さは自分だけに向けられるべきものであり、それをいきなり出てきた○が平然と受け取っている事が、何よりも腹立たしかった。
「自分でやると言っているではありませんか! 趙雲殿がそこまでなさる必要なんて……!」
「×。もしこれが○殿でなくても、私は手を貸した。…今は下がりさない」
×は言葉を詰まらせ悔しさに唇を噛む。
地を這うような足取りでその場を立ち去ったが、その背中からは隠しきれぬ敵意が立ち上っていた。
○は去りゆく×の背中を見つめ、小さく溜息をついた。
「……趙雲殿。私のような者のために、仲違いなさることはありません」
「気にしないでください。×にも言いましたが、これがあなたでなくても私は手を貸したでしょうから」
趙雲は再び懐刀を構え、○の髪に触れた。
その身に纏う空気は温かく、手には薬草の小瓶を携えている。
「失礼いたします。……○殿とお聞きしました。私は月英。諸葛孔明の妻でございます」
○は驚いて身を固くしたが、月英の穏やかな微笑みに毒気を抜かれた。
「孔明様から、西涼より怪我をされた御方が来られたと伺いました。聞けば私と同年代とのこと……。この殺伐とした陣中で同世代の女性とお話ししたくて、無理を言って私が今日からのお世話係を申し出たのです。ご迷惑ではありませんか?」
月英の飾らない言葉と親しみやすい声音に、○の強張っていた肩の力がふっと抜けた。
父を失い、兄を失い、敵地とも知れぬ場所で孤独を感じていた○にとって、同世代の女性の存在は何よりの救いだった。
「……いいえ。私の方こそ、月英殿のようなお優しい方に声をかけていただき、心が洗われるようです」
二人は自然と言葉を交わし始め、天幕の中には穏やかな空気が流れた。
だがその頃、軍議に使う本営の幕舎で、諸葛亮は手元の筆を止めて遠くを見つめていた。
月英が○の世話を焼く…それは○を陣に馴染ませ、その心を開かせるためには最も効率的で最善の策であるはずだ。
軍師としての自分が下した判断に、一片の曇りもない。
(しかし…この胸騒ぎは)
諸葛亮は得体のしれない心のざわつきを感じていた。
月英が医務の幕舎から静かに出てくると、そこには所在なげに佇む趙雲の姿があった。
彼は月英の姿を認めると歩み寄った。
「月英殿。……○殿の様子はいかがですか」
月英は手にした薬箱を抱え直し、困ったように眉を下げて趙雲を見上げた。
「……あまり、無理に近くにいてはいけないのかもしれません」
「どういう意味ですか」
「あの方は私に対してとても穏やかに、頑張って笑ってくださいます。ですが、その笑顔で……そっと壁を作られているのです。触れてはいけない、とても深い悲しみの淵に立っておられるような……」
月英の言葉に趙雲は沈黙した。
戦場での深手は魂も削るものだ。
月英は幕舎の方を一度振り返る。
「私が彼女を助力できればと思ったのですが…難しいのかもしれません」
諸葛亮殿ですら沈黙を守る、○の過去。
「……案ずるな、月英殿。彼女が心を開くのが時を要するのであれば、ただ待つのみです」
趙雲は自らに言い聞かせるように力強い声で告げた。
******
一週間の時が流れ、○の傷は少しずつだが癒えていった。
腹部に多少の痛みはあるが日常生活を支障なく送れるまでになった彼女を、月英は「劉備殿にお会いする前に、身綺麗にいたしましょう」と、陣の端にある清らかな水源へと連れ出した。
これまでは布で拭うのみだったので、西涼から逃れてきた際に全身にこびりついた泥や戦火の煤は、容易には落ちていなかった。
髪にこびりついた血もまだ少し固まっている。
○は月英に手伝われ、久しぶりにその身を清めた。
水浴びの際、月英は○の背や肩に残る、数多の古い傷跡を静かに見つめる。
それは苛烈な実戦を幾度も潜り抜けてきた武人の証だった。
水浴びを終え、○は月英から借りた衣に袖を通す。
体格が似ていたので、誂えたように馴染んだ。
清潔な衣の香りに○の心も僅かに解けていった。
医務の幕舎に戻ると、月英は○を椅子に座らせ櫛を手にする。
「髪を梳きましょう。これほど見事な髪を、煤と血で汚れたままにしておくのは勿体ないですよ」
西涼の血を引く○の髪は、毛先に柔らかな癖があり、煤を洗い流すと濃茶色の独特の輝きを放っていた。
背中まで届く髪を、月英が丁寧に梳いていく。
その時。
「失礼、○殿。劉備殿がお待ちで……」
断りもなく幕舎の入り口が開いた。
そこに立っていたのは、○を迎えに参じた諸葛亮だった。
しかし彼は一歩足を踏み出したところで、凍りついたように動きを止める。
そこには戦装束を脱ぎ捨て、月英の衣を纏った瑞々しい○の姿があった。
梳かれたばかりの癖のある髪が、肩から背へと美しい曲線を描いている。
「これは失礼しました」
稀代の天才軍師ともあろう男が目に見えて動揺し、弾かれたように背を向けた。
その慌て様に、○は思わず小さく口角を上げた。
「いいえ、諸葛亮殿。大丈夫です。身繕いを人に見られるのには慣れています……私の方こそ、このような姿で失礼ではありませんか?」
○の声に、諸葛亮は背を向けたまま話す。
「いえ……その、見違えました。あまりに……」
最後まで言いかけて妻の前である事に気づき、言葉を詰まらせた諸葛亮。
その耳が微かに赤らんでいるのを、月英は愉しげに見つめている。
一方の諸葛亮は、自らの胸の奥で、経験したことのないような鼓動が打たれていることに戸惑っていた。
「……外でお待ちしております」
彼は逃げるように幕舎を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、○は鏡に映る自分の姿を見つめた。
諸葛亮の先導で本陣へ足を踏み入れると、そこには蜀の主・劉備が、温和ながらも威厳に満ちた佇まいで待っていた。
その傍らには不動の姿勢で控える趙雲の姿がある。
趙雲は、現れた○を一目見て、微かに眉を動かした。
泥と血に塗れ、死の淵を彷徨っていたあの夜の面影は、今の彼女にはない。
背中まで流れる髪を整え結わえ、気の強そうな目元。
身体や顔にある細かな傷をのぞけば、確かに”良家のお嬢様”だ。
荒々しい陣中には不釣り合いなほどだった。
「よくぞ参られた。貴殿が、諸葛亮が目をかけたという○殿か」
劉備は柔和な笑みを浮かべ、○の前に歩み寄った。
「こうして身綺麗にされた姿を拝見すると……どこぞの国のご令嬢かと見紛うほどだ。戦場の埃にまみれさせておくのが、惜しく感じられるな」
「……恐縮に存じます。ですが劉備殿。私は幼き頃より戦働きしかしたことがございません。こうして女の衣を纏ってはおりますが、琴を弾くことも、花を愛でることも……女性らしいことは何一つ、身についておらぬのです」
○の声には、自嘲に似た響きがあった。
手に残った剣だこ、そして衣の下に隠された傷跡。
それこそが自分の真実だ。
劉備はその言葉に否定も肯定もせず、ただ深く頷いた。
「そうか。だが、我が軍には、志を持って剣をとる女性も多い。貴殿がその力を、我らの仁の世のために振るってくれるのであれば、私は心から歓迎しよう」
劉備の瞳には、馬超への憎悪に凝り固まった○の心をも包み込むような、底知れぬ慈愛が宿っていた。
本陣を辞した諸葛亮は○を伴い、陣中を静かに歩く。
兵たちの威勢のいい唱和が響く中、紹介されたのは若き将たちだった。
「関平殿、星彩殿。……こちらが、昨日お話しした○殿です」
関平は爽やかな笑みを浮かべて会釈し、星彩は静かだが芯のある瞳で○を見つめ、短く言葉を交わした。
○は礼儀正しく応じ、その唇に微かな微笑みを浮かべたものの浮かない表情。
諸葛亮はその様子を細やかに観察していた。
陣の端、木々の間から成都の城壁が遠くに霞んで見えるひらけた場所へと辿り着く。
諸葛亮は近くの岩に腰を下ろすと、○に隣を勧めた。
「○殿、……無理をなさる必要はございません。慣れぬ地で、見知らぬ者たちに囲まれるのは、心身ともに酷なこと。今はあなたの歩幅で歩まれればよいのです」
諸葛亮の声は穏やかだった。
その慰めの言葉は軍師としての打算ではなく、一人の男としての労いだ。
○は岩に浅く腰掛け、視線を足元の枯れ草に落とす。
しばらくの沈黙の後、絞り出すような声が漏れる。
「……毎晩、悪夢を見ます」
諸葛亮は○を見た。
「目を閉じれば、あの炎の熱さが蘇り、父上の亡骸が倒れる姿が…。身代わりとなって果てた義姉の叫びが、耳の奥から離れないのです。こんな事なら…」
○は胸を詰まらせ、膝の上で兄の懐刀を握りしめた。
白銀の鞘をなぞる指先が強張っている。
諸葛亮は、安易な慰めなど今の彼女には何の救いにもならないと思い、黙り込む。
立ち上がり、薄闇に沈みゆく空を見上げた。
「その悪夢を終わらせる為に必要な力は、私達が必ずや貴女に授けましょう」
○はその横顔を見上げた。
この若き軍師の知性は、自分の絶望すらも、未来への糧に変えようとしている。
○は内心、それでもいいと思った。
今は自分で何も考えたくない。
諸葛亮が何を企んでいようと、あるいは自分をどのような駒として盤上に置こうと、構いはしなかった。
ただ馬超を殺すために傷を癒し、牙を研ぐことだけを考えていればいい。
(……あの男を討つならば、もはや相討ち以外に道はない。私では到底かなわないもの。それまでに身体がもてばいい)
脳裏に刻まれた馬超の圧倒的な武。
鎧を血に染め、獅子のごとく吼えていたあの男を仕留めるには、己の命すべてを投げ込まねば届かない。
○はその結末を静かに受け入れていた。
仇を殺した後に、自分が生きていける気などしない。
灰になった故郷も、帰らぬ父も、身代わりとなった女官も、すべてはあの世にある。
この鳴りやまない悲鳴や怒号を聞きながら生きていくなど、耐えられない。
ならば刺し違えて果てることこそが、自分に許された唯一の安らぎに思えた。
「……諸葛亮殿。私は、貴方の望むままに」
○は潤んだ瞳を拭い、諸葛亮を見上げた。
その瞳には、暗い決意が宿っている。
諸葛亮は羽扇を動かす手を止め、眉を寄せた。
「勘違いしておられますね。私は貴女を使い潰すために、ここに留めたわけではありませんよ」
諸葛亮の静かな言葉。
軍師としての冷徹な計算の裏側に、一人の人間としての…あるいは彼女を惜しむ者としての、微かな揺らぎが混じっていた。
「……そうですね。潰されては困ります」
○の瞳は足元の暗がりに落ちた。
「私には、やるべきことがあるのですから。……あの男を、この手で地獄へ引きずり落とすまでは、潰れてはならないのです」
諸葛亮は羽扇を動かす手を止め、小さく溜息をついた。
今の彼女にとって、生きる理由は復讐という名の死の中にしかない。
諸葛亮はそれ以上何も言わなかった。
今は何を説いても、彼女の耳には虚しく響くだけだと悟ったからだ。
「……夜風が冷え込みます。幕舎へ戻りましょう。これ以上、月英を心配させるわけにはいきません」
諸葛亮は一歩下がり、○の歩みを促した。
二人は並んで、松明の火が揺れる陣中を歩いた。
劉備の傍らには、不動の姿勢で護衛を務める趙雲の姿があったが、彼は諸葛亮が○を伴っているのを確認すると、深く一礼し、それ以上の介入は控えた。
主君の守護という己の責務を全うしながらも、その鋭い視線は一瞬、○の沈痛な横顔を捉える。
幕舎の前まで辿り着くと、諸葛亮は足を止めた。
「○殿。……焦ってはなりません。貴女が求める『機会』は、正しき時に、正しき形で訪れるでしょう。それまでは、ただ己を養いなさい」
「……分かりました」
○は短く応じると、一度だけ深く頭を下げ、幕舎の中へと消えていった。
一人残された諸葛亮は、彼女が戻った幕舎を見つめる。
彼女が抱く復讐心。
それがいつか、どういう結末を辿るのか。
******
翌週。
○は傷の癒えとともに、その身なりを武人としてのものに改めた。
西涼の城にいた頃と同じく、高く髪を結い上げ、月英が用意してくれた動きやすい軽装の鎧を纏う。
腰に剣を差し、その姿は一端の武人だ。
諸葛亮は○を伴い、張飛の守る陣営へと足を運んだ。
そこには劉備の義弟である猛将・張飛を中心に、諸葛亮、趙雲、そして苦々しい表情を浮かべた×が顔を揃えていた。
「張飛殿。本日より、○殿には我が軍の将として働いていただきます」
諸葛亮の紹介に対し、張飛は蛇矛を傍らに立て、巨大な体を揺らして鼻で笑った。
その眼光は鋭く、獲物を値踏みする獣のようだ。
「……おい、諸葛亮。今日まで何を聞いても素性も言えねぇ、どこぞの馬の骨とも知れねぇ細っちい女が、将だと? 笑わせるんじゃねぇ」
張飛はのしのしと歩み寄ると、○の目の前で足を止めた。
威圧感そのもの感じていない様な空虚な表情の○。
張飛はその大きな手で、彼女が結い上げた髪の房を乱暴に掴み上げた。
「見てみろ。戦場に出るってのに、こんなチャラチャラした長い髪をなびかせやがって。俺はな、こんな覚悟のねぇ女に、背中も命も預けられねぇんだよ」
張飛の無作法な振る舞いに、趙雲が鋭く眉を寄せた。
女性の髪に…それも本人の意思を無視して触れるなど礼節に反する。
趙雲が制止のために一歩前へ踏み出そうとした、その時。
○の手が懐刀を握りこむ。
張飛が瞬時に身構えたが、○の狙いは彼ではない。
○は自らの髪を張飛の手から奪い返すと、懐刀を迷いなくその髪の束へと滑らせた。
ザク、という音と共に見事な艶を湛えていた○の長い髪が、無惨に宙を舞う。
肩の上でザンバラに切り揃えられた髪。
さっきまでの令嬢の面影を自ら断ち切ったその姿に、その場にいた全員が息を呑み、静まり返った。
○は手にした髪の束を張飛に差し出す。
「……こんなものが貴方の仰る『覚悟』の妨げになりますか、張飛殿。気になるのならば差し上げます」
短くなった髪の間から覗く○の瞳には、一切の迷いがなかった。
張飛は目の前の娘が放つ異様な気迫に、思わず目を丸くする。
「……ふん、言うじゃねぇか。面白い」
張飛がニヤリと口角を上げると、その場を去っていく。
背後でそれを見ていた×は、あまりの衝撃に言葉を失い、槍を握る手を震わせていた。
○は、肩の上で不揃いになった髪を、自らの手でバサバサと乱暴に払う。
趙雲はゆっくりと歩み寄った。
「……○殿。流石に、そこまでせずとも」
だが○は、フンと息を吐くと趙雲を見る。
「いいのです、趙雲殿。どうせいつか切るつもりでした。こんなもので張飛殿に覚悟を示せたのであれば、一石二鳥というものです」
その言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
趙雲はザンバラになったままの彼女の毛先を見つめる。
「……そのままで歩くわけにもいくまい。私でよければ、整えようか。……幼子の髪を切った経験くらいしかありませんが」
趙雲の不器用な申し出に、○は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
しかし柔らかな、どこか諦念の混じった笑みを浮かべる。
「……お願いできますか。不器用な私よりは、趙雲殿の方がずっと上手くやってくださるでしょうから」
張飛が去った後の静まり返った調練場で、○は近くの切り株に静かに腰を下ろした。
趙雲は○のザンバラになった髪を慎重に切り揃える。
○は目を閉じ、後頭部に触れる趙雲の指の温もりを、ただ静かに受け入れていた。
しかし程なくして、鋭い足音が土を蹴って近づいてきた。
「……何をしているのですか、趙雲殿!」
現れたのは×。
彼女は○を睨みつけると声を荒らげた。
「覚悟を示して髪を切ったとか何とか言って……結局はそうやって子龍殿の手を煩わせ、甘えているだけではないですか! 皆が貴女を特別扱いするからといって、付け上がるのも大概になさい!」
×の罵声が響き渡る中、○は一切の反論をせず、ただ黙ってその言葉を聞く。
○はゆっくりと目を開けると、椅子代わりにしていた切り株から立ち上がった。
「……失礼いたしました。あなたの仰る通りです」
○は感情の読み取れぬ抑揚のない声で、淡々と告げた。
そして背後に立つ趙雲を振り返る。
「趙雲殿、もう結構です。彼女の言う通り、自分の始末は自分ですべきでした。……これ以上、あなたの時間を奪うわけには参りません。残りは自分でやりますわ」
○は趙雲の手から懐刀を受け取ろうと手を伸ばしたが、趙雲はその手を制し、彼女の肩を静かに押し留めた。
「待ちなさい、○殿。……×、言葉が過ぎる。彼女は病み上がりであり、今は我が軍の将としてその身を整えている最中だ。私が手を貸すことに、甘えなどという謗りを受ける謂れはない」
「趙雲殿……! どうしてその女を庇うのですか!そりゃ、凄い怪我もしていましたが…っ」
趙雲が自分ではなく、出会って間もない余所者の肩を持った。
その事実が×の心をさらに激しく逆撫でする。
彼女にとって、趙雲の誠実さは自分だけに向けられるべきものであり、それをいきなり出てきた○が平然と受け取っている事が、何よりも腹立たしかった。
「自分でやると言っているではありませんか! 趙雲殿がそこまでなさる必要なんて……!」
「×。もしこれが○殿でなくても、私は手を貸した。…今は下がりさない」
×は言葉を詰まらせ悔しさに唇を噛む。
地を這うような足取りでその場を立ち去ったが、その背中からは隠しきれぬ敵意が立ち上っていた。
○は去りゆく×の背中を見つめ、小さく溜息をついた。
「……趙雲殿。私のような者のために、仲違いなさることはありません」
「気にしないでください。×にも言いましたが、これがあなたでなくても私は手を貸したでしょうから」
趙雲は再び懐刀を構え、○の髪に触れた。