共通ルート
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
益州の深い霧が、劉備軍の陣営を静かに包み込んでいた。
成都包囲から数ヶ月。
劉備軍は劉璋軍との間で睨み合いを続けており、陣中にはどこか張り詰めた、しかし停滞した空気が漂っている。
もうずいぶんと長い間、戦線は動かない。
その日の偵察任務に就いていたのは、常山の勇将・趙雲と、彼を師と仰ぐ若き将・×だった。
「見てください、趙雲殿。この髪飾り……星彩殿が、私に似合うと選んでくださったのです」
×は、歩みを緩めて隣を行く趙雲を見上げた。
まとめ上げた髪の端で銀の飾りが控えめに揺れている。
十八歳の彼女にとってそれは、戦場に追われる日常の中で、精一杯の女としての自己主張だ。
趙雲は歩みを止めず、前方の街道から視線を外さないまま、×へ一瞬だけ目を向けた。
「ああ、よく似合っている。星彩の心遣いは、相変わらず細やかだな」
趙雲は、慈しむような、しかしどこまでも清々しい微笑みを浮かべた。
その表情には一点の曇りもなく、ただ教え子の成長を祝う純粋な温かさがあった。
「……それだけですか?」
×は思わず足を止め、ヤキモキとした声を漏らす。
彼女が望んでいたのは、そのような「師としての全うな評価」ではない。
一人の男として自分をどう見ているのか。
大分と年が離れ、すでに武人として完成されている趙雲に対し、×の想いはいつも空を切るばかりだった。
「趙雲殿は、いつも私を子供扱いなさいます。私だって、もう槍を執れば立派に一軍を任される身です。……いつまで経っても、私を『教え子』としてしか見てくださらない」
×が唇を噛んで詰め寄ると趙雲はようやく足を止め、不思議そうに眉を寄せた。
「……×。貴殿を蔑ろにしているつもりはない。私にとって貴殿は、未来の蜀を背負って立つ、誇り高き武人だ。……何か、気に障ることを言っただろうか?」
趙雲の瞳には悪気など欠片もない。
その誠実すぎる鈍感さこそが×にとっては残酷な壁だ。
「……もう結構です!」
×が憤然と背を向け、先行しようとしたその時。
前方の暗闇から息を切らした偵察兵が駆け寄ってきた。
「報告いたします。……まだ距離はありますが、あちらの山道に不審な馬が一頭、こちらへ向かっております」
趙雲が鋭い眼差しを闇の奥へ向ける。
「一頭だけか。伏兵の可能性は?」
偵察兵は首を振る。
「いえ、足取りは覚束なく、ただトボトボと歩いているように見えます。……背には、何か荷のようなものを載せているようですが」
「荷……?商人の馬でしょうか…行ってみましょう、趙雲殿」
二人は音の主へと馬を寄せる。
近づくにつれ、立ち込める霧の向こうから、一頭の軍馬が力なく姿を現した。
鞍の上に乗っているのは、荷などではない。
ぐったりと馬の首筋に伏せり、今にも転げ落ちそうな襤褸布を被った人影だった。
確かに遠目に見れば布袋を背負った馬に見える。
趙雲たちに警戒した馬が動きを変えたので、背中の人影がズルリと落ちる。
「……! 危ない」
趙雲が即座に馬を飛ばし、落馬しそうになったその体を間一髪で抱き止めた。
「……女か?」
偵察兵の差し出した松明の光に照らし出されたのは、襤褸布の下から覗く死人のように真っ青な女の顔。
衣服は無惨に裂け、そこから覗く肌は冷たく、自らのものなのか返り血なのか分からない生々しい血に染まっている。
この辺りでは見ない装飾品を身に着け、長い乱れた髪が血と混じり肌に貼りついていた。
傷のせいか、夜風で冷えたのか、身体が熱を持っている。
「この傷……それに、この熱。ただ事ではないな」
趙雲の腕の中で、意識を失った女の指先から、一振りの白銀の懐刀が零れ落ちる。
趙雲はそれを拾い上げると、その見事な意匠に目を細めた。
「×、偵察はここまでだ。この方を医務官のもとへ運ぶ。お前はこの事を諸葛亮殿に伝えてくれ」
趙雲が今までにないほど真剣な、そして案じるような表情で○を抱き抱える。
女の腰元には、一振りの美しい剣が固く握られたまま離れない。
「は、はい! ……ですが、この女は一体」
「……何者かは分からぬ。しかし、息がある以上このままにもしておけない」
曹操の元へ向かうはずが、皮肉にも父の仇・馬超が後に身を寄せることになる劉備軍の手によって、○の命は繋ぎ止められようとしていた。
*****
「西涼の…それなりの家柄の娘のようですね」
劉備軍の本陣。
運び込まれた○を検分した諸葛亮は、羽扇を口元に当て、沈痛な面持ちで呟いた。
○の身なりは重厚な甲冑を脱ぎ捨てた軽装であったが、その衣の織りや装飾品、手元に残された品々が彼女の素性を物語っていた。
それに中原では見ない、彫りの深い顔立ちをしている。
傍らに置かれた家宝の剣、そして趙雲が拾い上げた白銀の懐刀。
それらはいずれも一朝一夕に手に入る代物ではない。
「これほどの深手を負いながら単身西涼から逃れてきたとなれば…何か相当な事があったのでしょうね」
諸葛亮の瞳が、意識を失い、青白い顔で寝台に横たわる○を見つめる。
「医師の報告によれば、刃物による斬撃が数箇所。特に腹部の傷は深く、これほどの熱が出るのも無理はないようです。……彼女が目を覚ました折には、混乱し、我らを敵と見なして暴れるやもしれませんので、兵をつけましょう」
諸葛亮が言葉を切ると、傍らで腕を組んでいた趙雲が一歩前へ出た。
「……ならば、私が医務室の外で待機しましょう」
その隣で、×が僅かに眉をひそめた。
「趙雲殿、貴方のような将が、得体のしれない女に付き添うなど……。他にも成すべき公務がありましょうに」
×の言葉には心配を装いつつも、趙雲の意識が○に向けられていることへの微かな苛立ちが混じっている。
諸葛亮も意外そうに眉を動かす。
「彼女が武芸に長けていた場合、暴れた際にすぐに押さえつけられる者でなければ危険です」
「……分かりました。では、彼女の身辺は貴殿に預けます。何かあれば、すぐに私へ」
諸葛亮は頷き、羽扇を揺らして医務幕舎を辞した。
趙雲はその背中を見送りながら、医務の幕舎の外に置いてあった木箱に腰を下ろした。
○は己の悲鳴で意識を浮上させた。
視界に飛び込んできたのは、見知らぬ天幕の天井だ。
西涼や魏の乾いた風ではない。
「…!」
○は声を発さずに飛び起きる。
家宝の剣も、懐刀もない。
辺りを見渡すと医務室らしいことは分かる。
○は痛む腹部に歯を食いしばり、脂汗を流しながら寝台を這い出す。
武器になりそうなものはなく、手近な棒を握った。
腹部の傷が焼けるように熱い。
逃げねばならない。
女である自分は、捕まればどうなるか分からない。
一生監禁される恐れもある。
馬超を討つまでは死ぬわけにはいかないのだ。
壁を伝い、一歩ずつ出口の幕へと近づく。
とにかく人を見つけたら殺す。
震える手で幕を押し開けた、その時。
「……目が覚めましたか」
静かな声がかかる。
○は反射的に持っていた棒で殴りかかろうとしたが、強靭な力がその右腕を封じた。
見上げれば、そこには白銀の甲冑を纏った将が立っていた。
趙雲である。
○は必死に腕を振り払おうともがくが、万軍を割って進む趙雲の腕力は、今の○では到底抗えるものではなかった。
「案ずるな。我々は貴殿の敵ではない」
「…離せ!敵でないなら、今すぐここから出せ!出せないというのなら…っ」
趙雲は、その必死な抵抗に眉をひそめることもない。
「怪我に障ります。医者を呼びますから、どうか中へ戻ってください」
「お前に……指図は……っ!…ぁ、」
○は自らの腕を趙雲から引き剥がそうと身をよじったことで、腹部の傷が痛む。
その時、騒ぎに気づいた医師が薬箱を抱えて駆け寄ってきた。
「ああ! なんてことだ! また血が……!」
○の衣には、腹部の傷から溢れ出した鮮血がまた滲み始めていた。
「趙雲殿、早く中へ!そのままでは命に関わります!」
趙雲は暴れる○の手首を掴んだまま強引に支え、再び天幕の中へと押し込んだ。
明らかな非戦闘員である医師が現れたことで、○の警戒がいくらか和らぐ。
○の隣に膝をついた趙雲が話しかけた。
「ここは益州だ。我らは劉備軍で、その陣外をお一人、馬上で彷徨っていたのだ。傷が深く、意識もなかったところを保護させてもらった」
その言葉に○の肩から僅かに力が抜けた。
敵ではない。
その事実に安堵したわけではないが、目の前の白銀の将から発せられる気圧されるほどの誠実さが、彼女の疑念を押し込めた。
医師が傷口を塞ぐために立ち働き、ようやく血が止まり始めた頃。
趙雲は傍らに立ち、静かに問いかけた。
「私は趙雲子龍と言います。名を聞いてもよいだろうか」
「……○、です」
「○殿か。のちに、我が軍の軍師である諸葛亮殿が参られるはずだ。貴殿の身柄については、そのお方が判断される。預かっている武器も、その際に聞くといい」
「…身柄。売られるの」
「そういう事ではない。安心してほしい」
趙雲はそう告げると、身を翻して天幕の出口へと向かった。
幕を押し開け、外へ出ようとする趙雲の背中に、○は消え入りそうな声で言葉を絞り出した。
「……ありがとう。趙雲殿」
趙雲は足を止め、振り返ることなく一度だけ小さく頷くと、静かに幕の外へと消えていった。
医師も出て行き、天幕の中に再び沈黙が訪れる。
遠くで兵たちの唱和する声や、焚き火のはぜる音が聞こえてくる。
○は膝を抱いて涙を流した。
全部夢じゃなかった。
○は鳴咽が漏れぬよう、自分の腕を噛み締めながら、声を殺して泣いた。
その天幕のすぐ外。
趙雲は、中から漏れ聞こえる微かな震えを背中で受け止め遠くを見つめる。
その隣で×が複雑な表情で趙雲の横顔を見つめた。
入り口の幕が静かに開き、諸葛亮がやってきた。
「……○殿、とお聞きしました。お体の方は、幾分か落ち着かれましたか」
彼は○の枕元から少し距離を置いた場所に腰を下ろした。
「こちらを先にお返しします。これがなくては、あなたは何も話してくれそうにありませんから。我々が敵ではないという証明です」
そう言って懐刀と家宝の剣を寝台に置いた。
○はひったくるように剣を抱きしめた。
諸葛亮は○の沈黙を責めることもなく、懐刀に視線を落とした。
「見事な意匠です。これほどの品、西涼の有力な家門でなければ持ち得ぬもの。……そしてその傷……何があったか想像はつきますが…あなたの口から語るおつもりはありませんか」
○は唇を噛み締める。
敗北し、逃げて、行き倒れ、見知らぬ地で保護された己の無力さを話さなくてはならないのか。
○は絞り出すような声で口を開いた。
「……馬孟起という男を……知っていますか」
諸葛亮の羽扇が動きを止めた。
「西涼の錦馬超。……戦に身を投じる者で、知らぬ者はおりません」
「……その男に、家族を、全員殺されました。父も、兄も。……そして、私の身代わりとなった女性までもが、あの者の槍に……」
言葉にするたび、視界が滲む。
「馬超は、一族を曹操に殺された復讐の為だと言って、私の城を、民を、すべて焼き尽くしました。我々だけではありません。あの男は敵対せずとも自身に従わぬ者を殺して回っている……狂った人殺しです……!」
諸葛亮はただ静かに○の言葉を受け止めた。
もちろん彼は知っていた。
復讐に燃える馬超が、その途上でどれほどの返り血を浴びているかを。
「そうでしたか…貴殿の背負った悲劇の重さ、察するに余りあります」
諸葛亮は内心驚いていた。
○の父の名を聞いた事があったからだ。
彼は高潔な仁君として知られ、民や近隣の豪族からも厚い信頼を寄せられていた人物だ。
その血を引く○が生き延びたという事実は、単なる悲劇の生存者という意味を超えている。
彼女が劉備軍にいれば、その名に誘われて西涼の勇士が入るかもしれない。
(劉備殿の勢力に欲しい所ですね)
諸葛亮の瞳に、軍師としての冷徹な光が宿った。
しかし○は彼を見据えて言い放つ。
「手当てをしてくださったことには感謝いたします、諸葛亮殿。……ですが私は、曹操殿の元へ行かねばなりません。あの男を討てる兵力を持つのは、もはや魏のみ。ここでお世話になるわけにはいかないのです」
○は痛む脇腹を抱えながら、立ち上がろうとする。
その無謀なまでの執念に、諸葛亮は有無を言わせぬ口調で制した。
「お待ちなさい。……ここから魏の領土まで、健脚な馬を飛ばしても一月以上はかかります。その深手で、刺客や野盗の目を逃れ山道を越えられるとお思いですか。目的地に着く前に、貴殿の命が尽き果てるのは火を見るより明らかです」
「それでも、行かねばならないのです!」
「焦りは禁物です。……幸い、現在我が軍と成都の劉璋軍は膠着状態にあります。大きな戦は当分起こりません。傷を癒やすにはこれ以上ない好機と言えましょう」
諸葛亮は一歩、○に歩み寄った。
「そう遠くない未来、我が主・劉備殿は必ずや成都を攻略し、この益州を平定されるでしょう。その時まで、この陣に身を寄せられてはいかがですか。傷を癒やし、力を蓄える時間は十分にあります。……復讐を果たすためにもまずは元気にならなくては、何も始まりません」
その理路整然とした説得に、○は言葉を失った。
魏へ向かう執念はある。
だが自身の体が悲鳴を上げていることもまた事実。
「……諸葛亮殿。一つ伺いたい。あなたの目的は何ですか」
「目的、と仰いますと?」
諸葛亮は羽扇をゆったりと動かし、表情を変えずに問い返す。
○は自嘲気味に口角を上げた。
「これほど軍が膠着し、一兵たりとも無駄にできぬ状況で、素性の知れぬ私を匿う理由が分かりません。……私はもう、城主の娘ではない。一族も、領地も、すべてあの日失いました。あなた達に差し出せる利用価値など、何一つないはずです」
その言葉に、諸葛亮は静かに目を細めた。
彼は○の瞳の奥に宿る武人としての矜持を見る。
「正直に申し上げましょう。我が軍は常に人材が不足しております。膠着状態にあるとはいえ、日々の小競り合いや哨戒に割く手はいくらあっても足りません」
諸葛亮は○の手元にある剣を見つめた。
「西涼の猛将を相手に打ち合い生き延びた胆力。……それだけの才、眠らせておくにはあまりに惜しい。○殿、もし宜しければ、傷が癒えた暁には、我が軍の将として働いていただけませんか」
「……将として、私を?」
○は驚きに目を見開いた。
命を救われたばかりか、一軍を任せると提案されるなど、思いも寄らぬことだ。
「ここに留まる対価として剣を振るう。……悪くない取引だとは思いませんか。貴殿にとっても軍の中に身を置くことは、曹操殿の元へ向かうための実戦の勘を鈍らせぬことにも繋がりましょう」
諸葛亮の言葉には説得力があった。
「……お世話になった末、敵となる魏に向かってもいいのですか」
「ええ。かまいません」
「……分かりました。成都が落ちるまで、この剣、劉備殿のために預けましょう」
○が力なく頷くと、諸葛亮は満足げに微笑む。
「賢明な判断です。……あなたの身の回りの差配は、先ほどの趙雲殿に頼んでおきましょう。彼の命ならば、あなたを不当に扱う者はおりますまい」
諸葛亮は天幕を辞すと、外で待機していた趙雲の元へ歩み寄った。
「趙雲殿、彼女はしばらくこの陣に留まることになりました。……傷が癒えるまで、あなたが彼女を見守って差し上げてください。くれぐれも、他の者には彼女の素性を深く探らせぬよう」
「承知いたしました。しかし、彼女のあの怪我は一体…」
趙雲の問いに、諸葛亮は答えなかった。
彼女の仇が馬超であること。
そして、その馬超を味方に引き入れる計略をすでに練っていること。
それは、まだ誰にも明かすわけにはいかない事だった。
「……時が、解決してくれることを願うばかりです」
諸葛亮はそう言い残した。
成都包囲から数ヶ月。
劉備軍は劉璋軍との間で睨み合いを続けており、陣中にはどこか張り詰めた、しかし停滞した空気が漂っている。
もうずいぶんと長い間、戦線は動かない。
その日の偵察任務に就いていたのは、常山の勇将・趙雲と、彼を師と仰ぐ若き将・×だった。
「見てください、趙雲殿。この髪飾り……星彩殿が、私に似合うと選んでくださったのです」
×は、歩みを緩めて隣を行く趙雲を見上げた。
まとめ上げた髪の端で銀の飾りが控えめに揺れている。
十八歳の彼女にとってそれは、戦場に追われる日常の中で、精一杯の女としての自己主張だ。
趙雲は歩みを止めず、前方の街道から視線を外さないまま、×へ一瞬だけ目を向けた。
「ああ、よく似合っている。星彩の心遣いは、相変わらず細やかだな」
趙雲は、慈しむような、しかしどこまでも清々しい微笑みを浮かべた。
その表情には一点の曇りもなく、ただ教え子の成長を祝う純粋な温かさがあった。
「……それだけですか?」
×は思わず足を止め、ヤキモキとした声を漏らす。
彼女が望んでいたのは、そのような「師としての全うな評価」ではない。
一人の男として自分をどう見ているのか。
大分と年が離れ、すでに武人として完成されている趙雲に対し、×の想いはいつも空を切るばかりだった。
「趙雲殿は、いつも私を子供扱いなさいます。私だって、もう槍を執れば立派に一軍を任される身です。……いつまで経っても、私を『教え子』としてしか見てくださらない」
×が唇を噛んで詰め寄ると趙雲はようやく足を止め、不思議そうに眉を寄せた。
「……×。貴殿を蔑ろにしているつもりはない。私にとって貴殿は、未来の蜀を背負って立つ、誇り高き武人だ。……何か、気に障ることを言っただろうか?」
趙雲の瞳には悪気など欠片もない。
その誠実すぎる鈍感さこそが×にとっては残酷な壁だ。
「……もう結構です!」
×が憤然と背を向け、先行しようとしたその時。
前方の暗闇から息を切らした偵察兵が駆け寄ってきた。
「報告いたします。……まだ距離はありますが、あちらの山道に不審な馬が一頭、こちらへ向かっております」
趙雲が鋭い眼差しを闇の奥へ向ける。
「一頭だけか。伏兵の可能性は?」
偵察兵は首を振る。
「いえ、足取りは覚束なく、ただトボトボと歩いているように見えます。……背には、何か荷のようなものを載せているようですが」
「荷……?商人の馬でしょうか…行ってみましょう、趙雲殿」
二人は音の主へと馬を寄せる。
近づくにつれ、立ち込める霧の向こうから、一頭の軍馬が力なく姿を現した。
鞍の上に乗っているのは、荷などではない。
ぐったりと馬の首筋に伏せり、今にも転げ落ちそうな襤褸布を被った人影だった。
確かに遠目に見れば布袋を背負った馬に見える。
趙雲たちに警戒した馬が動きを変えたので、背中の人影がズルリと落ちる。
「……! 危ない」
趙雲が即座に馬を飛ばし、落馬しそうになったその体を間一髪で抱き止めた。
「……女か?」
偵察兵の差し出した松明の光に照らし出されたのは、襤褸布の下から覗く死人のように真っ青な女の顔。
衣服は無惨に裂け、そこから覗く肌は冷たく、自らのものなのか返り血なのか分からない生々しい血に染まっている。
この辺りでは見ない装飾品を身に着け、長い乱れた髪が血と混じり肌に貼りついていた。
傷のせいか、夜風で冷えたのか、身体が熱を持っている。
「この傷……それに、この熱。ただ事ではないな」
趙雲の腕の中で、意識を失った女の指先から、一振りの白銀の懐刀が零れ落ちる。
趙雲はそれを拾い上げると、その見事な意匠に目を細めた。
「×、偵察はここまでだ。この方を医務官のもとへ運ぶ。お前はこの事を諸葛亮殿に伝えてくれ」
趙雲が今までにないほど真剣な、そして案じるような表情で○を抱き抱える。
女の腰元には、一振りの美しい剣が固く握られたまま離れない。
「は、はい! ……ですが、この女は一体」
「……何者かは分からぬ。しかし、息がある以上このままにもしておけない」
曹操の元へ向かうはずが、皮肉にも父の仇・馬超が後に身を寄せることになる劉備軍の手によって、○の命は繋ぎ止められようとしていた。
*****
「西涼の…それなりの家柄の娘のようですね」
劉備軍の本陣。
運び込まれた○を検分した諸葛亮は、羽扇を口元に当て、沈痛な面持ちで呟いた。
○の身なりは重厚な甲冑を脱ぎ捨てた軽装であったが、その衣の織りや装飾品、手元に残された品々が彼女の素性を物語っていた。
それに中原では見ない、彫りの深い顔立ちをしている。
傍らに置かれた家宝の剣、そして趙雲が拾い上げた白銀の懐刀。
それらはいずれも一朝一夕に手に入る代物ではない。
「これほどの深手を負いながら単身西涼から逃れてきたとなれば…何か相当な事があったのでしょうね」
諸葛亮の瞳が、意識を失い、青白い顔で寝台に横たわる○を見つめる。
「医師の報告によれば、刃物による斬撃が数箇所。特に腹部の傷は深く、これほどの熱が出るのも無理はないようです。……彼女が目を覚ました折には、混乱し、我らを敵と見なして暴れるやもしれませんので、兵をつけましょう」
諸葛亮が言葉を切ると、傍らで腕を組んでいた趙雲が一歩前へ出た。
「……ならば、私が医務室の外で待機しましょう」
その隣で、×が僅かに眉をひそめた。
「趙雲殿、貴方のような将が、得体のしれない女に付き添うなど……。他にも成すべき公務がありましょうに」
×の言葉には心配を装いつつも、趙雲の意識が○に向けられていることへの微かな苛立ちが混じっている。
諸葛亮も意外そうに眉を動かす。
「彼女が武芸に長けていた場合、暴れた際にすぐに押さえつけられる者でなければ危険です」
「……分かりました。では、彼女の身辺は貴殿に預けます。何かあれば、すぐに私へ」
諸葛亮は頷き、羽扇を揺らして医務幕舎を辞した。
趙雲はその背中を見送りながら、医務の幕舎の外に置いてあった木箱に腰を下ろした。
○は己の悲鳴で意識を浮上させた。
視界に飛び込んできたのは、見知らぬ天幕の天井だ。
西涼や魏の乾いた風ではない。
「…!」
○は声を発さずに飛び起きる。
家宝の剣も、懐刀もない。
辺りを見渡すと医務室らしいことは分かる。
○は痛む腹部に歯を食いしばり、脂汗を流しながら寝台を這い出す。
武器になりそうなものはなく、手近な棒を握った。
腹部の傷が焼けるように熱い。
逃げねばならない。
女である自分は、捕まればどうなるか分からない。
一生監禁される恐れもある。
馬超を討つまでは死ぬわけにはいかないのだ。
壁を伝い、一歩ずつ出口の幕へと近づく。
とにかく人を見つけたら殺す。
震える手で幕を押し開けた、その時。
「……目が覚めましたか」
静かな声がかかる。
○は反射的に持っていた棒で殴りかかろうとしたが、強靭な力がその右腕を封じた。
見上げれば、そこには白銀の甲冑を纏った将が立っていた。
趙雲である。
○は必死に腕を振り払おうともがくが、万軍を割って進む趙雲の腕力は、今の○では到底抗えるものではなかった。
「案ずるな。我々は貴殿の敵ではない」
「…離せ!敵でないなら、今すぐここから出せ!出せないというのなら…っ」
趙雲は、その必死な抵抗に眉をひそめることもない。
「怪我に障ります。医者を呼びますから、どうか中へ戻ってください」
「お前に……指図は……っ!…ぁ、」
○は自らの腕を趙雲から引き剥がそうと身をよじったことで、腹部の傷が痛む。
その時、騒ぎに気づいた医師が薬箱を抱えて駆け寄ってきた。
「ああ! なんてことだ! また血が……!」
○の衣には、腹部の傷から溢れ出した鮮血がまた滲み始めていた。
「趙雲殿、早く中へ!そのままでは命に関わります!」
趙雲は暴れる○の手首を掴んだまま強引に支え、再び天幕の中へと押し込んだ。
明らかな非戦闘員である医師が現れたことで、○の警戒がいくらか和らぐ。
○の隣に膝をついた趙雲が話しかけた。
「ここは益州だ。我らは劉備軍で、その陣外をお一人、馬上で彷徨っていたのだ。傷が深く、意識もなかったところを保護させてもらった」
その言葉に○の肩から僅かに力が抜けた。
敵ではない。
その事実に安堵したわけではないが、目の前の白銀の将から発せられる気圧されるほどの誠実さが、彼女の疑念を押し込めた。
医師が傷口を塞ぐために立ち働き、ようやく血が止まり始めた頃。
趙雲は傍らに立ち、静かに問いかけた。
「私は趙雲子龍と言います。名を聞いてもよいだろうか」
「……○、です」
「○殿か。のちに、我が軍の軍師である諸葛亮殿が参られるはずだ。貴殿の身柄については、そのお方が判断される。預かっている武器も、その際に聞くといい」
「…身柄。売られるの」
「そういう事ではない。安心してほしい」
趙雲はそう告げると、身を翻して天幕の出口へと向かった。
幕を押し開け、外へ出ようとする趙雲の背中に、○は消え入りそうな声で言葉を絞り出した。
「……ありがとう。趙雲殿」
趙雲は足を止め、振り返ることなく一度だけ小さく頷くと、静かに幕の外へと消えていった。
医師も出て行き、天幕の中に再び沈黙が訪れる。
遠くで兵たちの唱和する声や、焚き火のはぜる音が聞こえてくる。
○は膝を抱いて涙を流した。
全部夢じゃなかった。
○は鳴咽が漏れぬよう、自分の腕を噛み締めながら、声を殺して泣いた。
その天幕のすぐ外。
趙雲は、中から漏れ聞こえる微かな震えを背中で受け止め遠くを見つめる。
その隣で×が複雑な表情で趙雲の横顔を見つめた。
入り口の幕が静かに開き、諸葛亮がやってきた。
「……○殿、とお聞きしました。お体の方は、幾分か落ち着かれましたか」
彼は○の枕元から少し距離を置いた場所に腰を下ろした。
「こちらを先にお返しします。これがなくては、あなたは何も話してくれそうにありませんから。我々が敵ではないという証明です」
そう言って懐刀と家宝の剣を寝台に置いた。
○はひったくるように剣を抱きしめた。
諸葛亮は○の沈黙を責めることもなく、懐刀に視線を落とした。
「見事な意匠です。これほどの品、西涼の有力な家門でなければ持ち得ぬもの。……そしてその傷……何があったか想像はつきますが…あなたの口から語るおつもりはありませんか」
○は唇を噛み締める。
敗北し、逃げて、行き倒れ、見知らぬ地で保護された己の無力さを話さなくてはならないのか。
○は絞り出すような声で口を開いた。
「……馬孟起という男を……知っていますか」
諸葛亮の羽扇が動きを止めた。
「西涼の錦馬超。……戦に身を投じる者で、知らぬ者はおりません」
「……その男に、家族を、全員殺されました。父も、兄も。……そして、私の身代わりとなった女性までもが、あの者の槍に……」
言葉にするたび、視界が滲む。
「馬超は、一族を曹操に殺された復讐の為だと言って、私の城を、民を、すべて焼き尽くしました。我々だけではありません。あの男は敵対せずとも自身に従わぬ者を殺して回っている……狂った人殺しです……!」
諸葛亮はただ静かに○の言葉を受け止めた。
もちろん彼は知っていた。
復讐に燃える馬超が、その途上でどれほどの返り血を浴びているかを。
「そうでしたか…貴殿の背負った悲劇の重さ、察するに余りあります」
諸葛亮は内心驚いていた。
○の父の名を聞いた事があったからだ。
彼は高潔な仁君として知られ、民や近隣の豪族からも厚い信頼を寄せられていた人物だ。
その血を引く○が生き延びたという事実は、単なる悲劇の生存者という意味を超えている。
彼女が劉備軍にいれば、その名に誘われて西涼の勇士が入るかもしれない。
(劉備殿の勢力に欲しい所ですね)
諸葛亮の瞳に、軍師としての冷徹な光が宿った。
しかし○は彼を見据えて言い放つ。
「手当てをしてくださったことには感謝いたします、諸葛亮殿。……ですが私は、曹操殿の元へ行かねばなりません。あの男を討てる兵力を持つのは、もはや魏のみ。ここでお世話になるわけにはいかないのです」
○は痛む脇腹を抱えながら、立ち上がろうとする。
その無謀なまでの執念に、諸葛亮は有無を言わせぬ口調で制した。
「お待ちなさい。……ここから魏の領土まで、健脚な馬を飛ばしても一月以上はかかります。その深手で、刺客や野盗の目を逃れ山道を越えられるとお思いですか。目的地に着く前に、貴殿の命が尽き果てるのは火を見るより明らかです」
「それでも、行かねばならないのです!」
「焦りは禁物です。……幸い、現在我が軍と成都の劉璋軍は膠着状態にあります。大きな戦は当分起こりません。傷を癒やすにはこれ以上ない好機と言えましょう」
諸葛亮は一歩、○に歩み寄った。
「そう遠くない未来、我が主・劉備殿は必ずや成都を攻略し、この益州を平定されるでしょう。その時まで、この陣に身を寄せられてはいかがですか。傷を癒やし、力を蓄える時間は十分にあります。……復讐を果たすためにもまずは元気にならなくては、何も始まりません」
その理路整然とした説得に、○は言葉を失った。
魏へ向かう執念はある。
だが自身の体が悲鳴を上げていることもまた事実。
「……諸葛亮殿。一つ伺いたい。あなたの目的は何ですか」
「目的、と仰いますと?」
諸葛亮は羽扇をゆったりと動かし、表情を変えずに問い返す。
○は自嘲気味に口角を上げた。
「これほど軍が膠着し、一兵たりとも無駄にできぬ状況で、素性の知れぬ私を匿う理由が分かりません。……私はもう、城主の娘ではない。一族も、領地も、すべてあの日失いました。あなた達に差し出せる利用価値など、何一つないはずです」
その言葉に、諸葛亮は静かに目を細めた。
彼は○の瞳の奥に宿る武人としての矜持を見る。
「正直に申し上げましょう。我が軍は常に人材が不足しております。膠着状態にあるとはいえ、日々の小競り合いや哨戒に割く手はいくらあっても足りません」
諸葛亮は○の手元にある剣を見つめた。
「西涼の猛将を相手に打ち合い生き延びた胆力。……それだけの才、眠らせておくにはあまりに惜しい。○殿、もし宜しければ、傷が癒えた暁には、我が軍の将として働いていただけませんか」
「……将として、私を?」
○は驚きに目を見開いた。
命を救われたばかりか、一軍を任せると提案されるなど、思いも寄らぬことだ。
「ここに留まる対価として剣を振るう。……悪くない取引だとは思いませんか。貴殿にとっても軍の中に身を置くことは、曹操殿の元へ向かうための実戦の勘を鈍らせぬことにも繋がりましょう」
諸葛亮の言葉には説得力があった。
「……お世話になった末、敵となる魏に向かってもいいのですか」
「ええ。かまいません」
「……分かりました。成都が落ちるまで、この剣、劉備殿のために預けましょう」
○が力なく頷くと、諸葛亮は満足げに微笑む。
「賢明な判断です。……あなたの身の回りの差配は、先ほどの趙雲殿に頼んでおきましょう。彼の命ならば、あなたを不当に扱う者はおりますまい」
諸葛亮は天幕を辞すと、外で待機していた趙雲の元へ歩み寄った。
「趙雲殿、彼女はしばらくこの陣に留まることになりました。……傷が癒えるまで、あなたが彼女を見守って差し上げてください。くれぐれも、他の者には彼女の素性を深く探らせぬよう」
「承知いたしました。しかし、彼女のあの怪我は一体…」
趙雲の問いに、諸葛亮は答えなかった。
彼女の仇が馬超であること。
そして、その馬超を味方に引き入れる計略をすでに練っていること。
それは、まだ誰にも明かすわけにはいかない事だった。
「……時が、解決してくれることを願うばかりです」
諸葛亮はそう言い残した。