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乱れた髪を指で乱暴に掻き揚げ、殺意を剥き出しのままに○は深夜の回廊を歩いた。
イライラする。
すると、影のようにその男は現れた。
「騒がしいので覗いてみたら…随分と仲のよろしい事ですね」
諸葛亮は回廊の柱に背を預け、羽扇を静かに動かしながら○を見据えていた。
不快感が染み出している。
○は足を止め睨みつけた。
馬超にねじ伏せられた際に唇を切り、血が溜まっている。
首筋の包帯は無残に剥がれ落ちていた。
「見ていたのなら、お分かりでしょう。馬超直々に……仇討ちの許可を貰いました。もう、”馬超を殺したらこの国の誰かが私を殺す”などという脅しはききません」
ボロボロの身体、はだけた胸元。
その姿は一見すれば辱めを受けた無惨な女だが、目だけは生き生きとした輝きを放っている。
「……。こちらへ。手当てをしましょう」
諸葛亮の声は穏やかだったが強制力がある。
こちらに背を向けて歩き出した諸葛亮だが、○は動かなかった。
足が動かない。
馬超の様な男と打ち合った事で何かに気付いた。
この男の後に続くことは、肉体を刻まれるよりも深い傷を負いかねないと思った。
足を止めたままの○に、諸葛亮が振り返る。
「おや。来ないのですか?… 私が恐ろしいですか」
諸葛亮は小さく笑う。
「馬超にはあれほど猛々しく立ち向かい、寝所にまで忍び込む度胸がありながら……文官である私に付いてくることはできませんか」
言いながら○の目前までやってくる。
「以前から思っていました」
「…」
「本来のあなたなら、私を跳ね飛ばして逃げることもできるというのに、それをしない…心のどこかで、私に触れられるのを求めているのではないかと」
「そんなわけが…」
「ならば証明してください。あなたは私にどうこうされる程、弱くはないのでしょう?」
挑発的な言葉に乗ってはいけない…そう思ったが、正解が分からない。
ただここで逃げるのは、自分の誇りすら諸葛亮に塗り替えられてしまう気がした。
○は諸葛亮の背を追って歩き出す。
案内されたのは、あの離れにある諸葛亮の執務室だった。
部屋に入ると、諸葛亮は慣れた手つきで薬箱を取り出し、卓の上に置く。
椅子を勧められて座ると、諸葛亮は驚くほど淡々と普通に手当てを始めた。
先ほどまでの剥き出しの執着はどこに隠したのか。
彼はただ丁寧な手つきで○の首筋の汚れを拭い、新しい薬を塗布していく。
「沁みますか?」
○が黙って首を振ると、彼は手際よく新しい包帯を巻き直した。
趙雲よりも上手に処置する。
「次はこの髪ですね」
諸葛亮はそう言うと、卓に置かれていた櫛を手に取る。
断ることもなく○の髪を梳いた。
馬超との揉み合いで酷くもつれた彼女の髪を、毛先からゆっくりと解き始める。
○の身体が思わず強張る。
諸葛亮の細くて長い指が幾度も髪の間を通り、頭皮をかすめる。
それは馬超の暴力的な力とも、趙雲の遠慮がちな手とも違う。
「……何が、目的なのですか」
○は鏡越しに、自分の背後に立つ男の瞳を盗み見た。
「目的など。あなたがあまりにも自分を粗末に扱いすぎるので、整えているだけです」
穏やかな顔をしながら、髪を梳くその指先が時折わざとらしく○のうなじを撫でる。
内心では○の反応を楽しんでいるのだろう。
「出来ました。少しは人心地がついたでしょう」
鏡の中には、見違えるほど整えられた○と、その背後で満足げに目を細める軍師の姿がある。
諸葛亮は櫛を置くと、そのまま○の背後に寄り添うようにして顔を寄せた。
整えられたばかりの髪に頬を寄せる。
「逃げてもいいのですよ」
そう言いながら、試す様に顔を滑らせる。
諸葛亮の冷ややかな唇が、新しく巻き直されたばかりの白い包帯の端を這う。
彼の指先は、首筋から肩の曲線をなぞり、鎖骨のくぼみを経て、ゆっくりと胸元へと滑り落ちていく。
まるで高価な織物の手触りを確かめるかのような優しい手つき。
○はその手を拒絶するでもなく、鏡越しにじっと見つめていた。
ふと息をつく。
「私の、なにがそんなにいいのです」
復讐というどす黒い感情だけで生きている死にぞこないの亡霊。
そんな自分に、蜀の軍師ともあろうものがなぜこれほどまでに執着し、その手を、妻からの信頼を汚すのか。
諸葛亮の動きが止まった。
彼は○の首筋に顔を埋めたまま答えた。
「あなたは、とても美しいですよ」
その言葉は、○が期待したような甘い情愛などではなかった。
「死んでもいいと思いながらも、生を諦めきれない。たまに見せる絶望の底にいるその瞳…その昏い美しさを私は愛しているのです。馬超への復讐を遂げたり、趙雲殿の優しさに触れることで、それが摩耗するのがあまりにも惜しい」
言いながら○の指に、自分の指を絡ませる。
「私も孤独なのです。軍師という重圧はいいにしても、本当の理解者はいない。一人で部屋にいると叫びたくなる夜もあります」
「その孤独を、月英殿なら分かってくださるでしょう」
「そうでしょうね…彼女なら、理解する努力をするでしょう。ですが、経験したことの無い者のそれは偽物です。慰めにもならない」
諸葛亮は○の髪の匂いを嗅ぐように息を吸った。
「○を私の檻に閉じ込めて共にいたい。今の気持ちのまま、美しくいてほしいのです」
それは愛の告白などではない。
ただ自分が気に入ったものを完全に支配したいだけだ。
○は、ふと微笑んだ。
「それが愛であったなら、私も受け入れたのかもしれません。…とても残念です」
○から零れ落ちた言葉は、諸葛亮の胸を刺した。
拒絶でも恐怖でもない。
ただ残念そうに悲しそうに告げられたそれに、諸葛亮は首筋に埋めていた顔をゆっくりと上げた。
鏡の中に映る諸葛亮は動揺していた。
「○…?」
諸葛亮が狼狽した。
その時。
「孔明様、こちらにいらっしゃるのですか?」
静寂を切り裂くように、部屋の外から月英の声が響いた。
すべてを見透かしているかのような穏やかな声に、室内の異様な熱が一気に引く。
諸葛亮の指先が○から離れた。
「……月英ですか。少し、○殿の手当てをしていたところです」
諸葛亮は○の背後から離れ、何事もなかったかのよう答えて戸を開けた。
○は鏡の中の自分を見つめたまま、微塵も動かない。
「夜も更けました。怪我人には静養が必要です。孔明様、あとは私にお任せいただけますか?」
月英はそういうと○に近づいた。
月英に促され、○が部屋を去った後。
諸葛亮は、先ほどまで○が座っていた椅子を見つめたまま動かない。
指先が無意識に櫛をなぞる。
(それが愛であったなら…)
脳裏に○の声が反芻される。
彼にとって月英への気持ちは、互いの知性と孤独を認め合った末に辿り着いたものだ。
彼女の親が仲介して出会い、彼女となら共にいられると思った。
対して○に向けるこの渇望は何だろう。
○にとって、自分の気持ちはどうやら”愛”ではないらしい。
いや、諸葛亮も○にああ言われるまで、この気持ちはなんだかわからなかった。
自分の○に対する気持ちが”愛”なのだと伝えれば○は違った顔を見せるのか。
そしてそれを自分も欲しがっているのだとしたら。
彼女が望むのが”愛”であるならば、それを自分なりに与えてみたいと思った。
イライラする。
すると、影のようにその男は現れた。
「騒がしいので覗いてみたら…随分と仲のよろしい事ですね」
諸葛亮は回廊の柱に背を預け、羽扇を静かに動かしながら○を見据えていた。
不快感が染み出している。
○は足を止め睨みつけた。
馬超にねじ伏せられた際に唇を切り、血が溜まっている。
首筋の包帯は無残に剥がれ落ちていた。
「見ていたのなら、お分かりでしょう。馬超直々に……仇討ちの許可を貰いました。もう、”馬超を殺したらこの国の誰かが私を殺す”などという脅しはききません」
ボロボロの身体、はだけた胸元。
その姿は一見すれば辱めを受けた無惨な女だが、目だけは生き生きとした輝きを放っている。
「……。こちらへ。手当てをしましょう」
諸葛亮の声は穏やかだったが強制力がある。
こちらに背を向けて歩き出した諸葛亮だが、○は動かなかった。
足が動かない。
馬超の様な男と打ち合った事で何かに気付いた。
この男の後に続くことは、肉体を刻まれるよりも深い傷を負いかねないと思った。
足を止めたままの○に、諸葛亮が振り返る。
「おや。来ないのですか?… 私が恐ろしいですか」
諸葛亮は小さく笑う。
「馬超にはあれほど猛々しく立ち向かい、寝所にまで忍び込む度胸がありながら……文官である私に付いてくることはできませんか」
言いながら○の目前までやってくる。
「以前から思っていました」
「…」
「本来のあなたなら、私を跳ね飛ばして逃げることもできるというのに、それをしない…心のどこかで、私に触れられるのを求めているのではないかと」
「そんなわけが…」
「ならば証明してください。あなたは私にどうこうされる程、弱くはないのでしょう?」
挑発的な言葉に乗ってはいけない…そう思ったが、正解が分からない。
ただここで逃げるのは、自分の誇りすら諸葛亮に塗り替えられてしまう気がした。
○は諸葛亮の背を追って歩き出す。
案内されたのは、あの離れにある諸葛亮の執務室だった。
部屋に入ると、諸葛亮は慣れた手つきで薬箱を取り出し、卓の上に置く。
椅子を勧められて座ると、諸葛亮は驚くほど淡々と普通に手当てを始めた。
先ほどまでの剥き出しの執着はどこに隠したのか。
彼はただ丁寧な手つきで○の首筋の汚れを拭い、新しい薬を塗布していく。
「沁みますか?」
○が黙って首を振ると、彼は手際よく新しい包帯を巻き直した。
趙雲よりも上手に処置する。
「次はこの髪ですね」
諸葛亮はそう言うと、卓に置かれていた櫛を手に取る。
断ることもなく○の髪を梳いた。
馬超との揉み合いで酷くもつれた彼女の髪を、毛先からゆっくりと解き始める。
○の身体が思わず強張る。
諸葛亮の細くて長い指が幾度も髪の間を通り、頭皮をかすめる。
それは馬超の暴力的な力とも、趙雲の遠慮がちな手とも違う。
「……何が、目的なのですか」
○は鏡越しに、自分の背後に立つ男の瞳を盗み見た。
「目的など。あなたがあまりにも自分を粗末に扱いすぎるので、整えているだけです」
穏やかな顔をしながら、髪を梳くその指先が時折わざとらしく○のうなじを撫でる。
内心では○の反応を楽しんでいるのだろう。
「出来ました。少しは人心地がついたでしょう」
鏡の中には、見違えるほど整えられた○と、その背後で満足げに目を細める軍師の姿がある。
諸葛亮は櫛を置くと、そのまま○の背後に寄り添うようにして顔を寄せた。
整えられたばかりの髪に頬を寄せる。
「逃げてもいいのですよ」
そう言いながら、試す様に顔を滑らせる。
諸葛亮の冷ややかな唇が、新しく巻き直されたばかりの白い包帯の端を這う。
彼の指先は、首筋から肩の曲線をなぞり、鎖骨のくぼみを経て、ゆっくりと胸元へと滑り落ちていく。
まるで高価な織物の手触りを確かめるかのような優しい手つき。
○はその手を拒絶するでもなく、鏡越しにじっと見つめていた。
ふと息をつく。
「私の、なにがそんなにいいのです」
復讐というどす黒い感情だけで生きている死にぞこないの亡霊。
そんな自分に、蜀の軍師ともあろうものがなぜこれほどまでに執着し、その手を、妻からの信頼を汚すのか。
諸葛亮の動きが止まった。
彼は○の首筋に顔を埋めたまま答えた。
「あなたは、とても美しいですよ」
その言葉は、○が期待したような甘い情愛などではなかった。
「死んでもいいと思いながらも、生を諦めきれない。たまに見せる絶望の底にいるその瞳…その昏い美しさを私は愛しているのです。馬超への復讐を遂げたり、趙雲殿の優しさに触れることで、それが摩耗するのがあまりにも惜しい」
言いながら○の指に、自分の指を絡ませる。
「私も孤独なのです。軍師という重圧はいいにしても、本当の理解者はいない。一人で部屋にいると叫びたくなる夜もあります」
「その孤独を、月英殿なら分かってくださるでしょう」
「そうでしょうね…彼女なら、理解する努力をするでしょう。ですが、経験したことの無い者のそれは偽物です。慰めにもならない」
諸葛亮は○の髪の匂いを嗅ぐように息を吸った。
「○を私の檻に閉じ込めて共にいたい。今の気持ちのまま、美しくいてほしいのです」
それは愛の告白などではない。
ただ自分が気に入ったものを完全に支配したいだけだ。
○は、ふと微笑んだ。
「それが愛であったなら、私も受け入れたのかもしれません。…とても残念です」
○から零れ落ちた言葉は、諸葛亮の胸を刺した。
拒絶でも恐怖でもない。
ただ残念そうに悲しそうに告げられたそれに、諸葛亮は首筋に埋めていた顔をゆっくりと上げた。
鏡の中に映る諸葛亮は動揺していた。
「○…?」
諸葛亮が狼狽した。
その時。
「孔明様、こちらにいらっしゃるのですか?」
静寂を切り裂くように、部屋の外から月英の声が響いた。
すべてを見透かしているかのような穏やかな声に、室内の異様な熱が一気に引く。
諸葛亮の指先が○から離れた。
「……月英ですか。少し、○殿の手当てをしていたところです」
諸葛亮は○の背後から離れ、何事もなかったかのよう答えて戸を開けた。
○は鏡の中の自分を見つめたまま、微塵も動かない。
「夜も更けました。怪我人には静養が必要です。孔明様、あとは私にお任せいただけますか?」
月英はそういうと○に近づいた。
月英に促され、○が部屋を去った後。
諸葛亮は、先ほどまで○が座っていた椅子を見つめたまま動かない。
指先が無意識に櫛をなぞる。
(それが愛であったなら…)
脳裏に○の声が反芻される。
彼にとって月英への気持ちは、互いの知性と孤独を認め合った末に辿り着いたものだ。
彼女の親が仲介して出会い、彼女となら共にいられると思った。
対して○に向けるこの渇望は何だろう。
○にとって、自分の気持ちはどうやら”愛”ではないらしい。
いや、諸葛亮も○にああ言われるまで、この気持ちはなんだかわからなかった。
自分の○に対する気持ちが”愛”なのだと伝えれば○は違った顔を見せるのか。
そしてそれを自分も欲しがっているのだとしたら。
彼女が望むのが”愛”であるならば、それを自分なりに与えてみたいと思った。