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諸葛亮の離れで、○と諸葛亮の攻防が続いていた。
諸葛亮の手が痺れ、○の力が勝ち始める。
刃が再び○の首に食い込みだした時。
諸葛亮は彼女の身体を抱きしめた。
○は驚愕し、刃を首にあてたまま固まる。
諸葛亮の抱擁は逃げ場を許さない。
「……あなたに死なれては、困るのです。私が……困る」
諸葛亮の声は、耳元で低く掠れている。
小刀が当たっていない側の○の頬に、自らの頬をすり寄せた。
○は混乱する。
「ま、待ってください…正気に戻ってください! 月英殿が……!」
○は必死に声を振り絞り、彼が最も大切にしているはずの存在を引き合いに出した。
その手はもう力が抜けている。
諸葛亮はその言葉に怯むどころかさらに深く顔を寄せ、○の髪に触れる。
「あなたが欲しいのです」
「は!?何を仰っているのですか……!」
諸葛亮は○の震える手首を抑え込み、首筋からゆっくりと刃を遠ざけた。
「あなたを死なせません。……そして、あなたを誰の手にも渡さない」
「いやだ…! やめて…!」
○は悲鳴に近い声を上げ、諸葛亮の腕の中から逃れようともがいた。
軍師としての清廉な仮面の下に潜んでいた、歪んだ情念。
それを知って○は震えた。
思い切りつき飛ばそうとすると、腹部の傷があった所を軽く押されて痛みが走る。
血こそ出ないが傷口は完璧に塞がっていないので、押し込まれると流石に痛い。
その時、離れの戸が激しく叩かれた。
「――諸葛亮殿。夜分に申し訳ない。×から、○殿がこちらに向かってから戻らないと相談を受けたのですが……いらっしゃいますか?」
その穏やかな声が書斎の澱んだ空気を一瞬で霧散させた。
憑き物が落ちたように我に返った諸葛亮はゆっくりと○を解放すると、何事もなかったかのように端正な顔を整え、戸を開けた。
「趙雲殿。夜更けにご苦労様です。○殿なら、こちらに」
月明かりの下、戸口に立つ趙雲の鋭い眼光が室内を見渡す。
諸葛亮の背後で肩を震わせ、首筋から血を流している○の姿を捉え驚く。
「その傷は……! 諸葛亮殿、これは一体どういうことですか?」
「……待ってください、趙雲殿。これは私の独断です」
○が、首の傷を押さえながら趙雲を見る。
「私は諸葛亮殿に、この命と引き換えに馬超を断罪してほしいと……そう願い出たのです。諸葛亮殿は私の無謀を止めようとしてくださっただけです」
その言葉は、諸葛亮を庇うための言葉だった。
嘘でもない。
そうして自分を庇った○を見る諸葛亮の目は歪だ。
趙雲は○の首筋の傷と諸葛亮の眼差しを交互に見やり、深く溜息をついた。
「……諸葛亮殿。これ以上の『お話し』は不要かと存じます。彼女を医務室に連れて行き部屋まで送ります。……失礼いたします」
趙雲は一礼をすると○の肩を軽く引き寄せ、諸葛亮から離すように部屋から出した。
離れから自室に戻る諸葛亮。
渡り廊下の曲がり角で、彼は足を止めた。
そこには最愛の妻である月英が佇んでいた。
月明かりに照らされた彼女の顔は、静謐でありながら、すべてを見透かしているようだ。
「まだ起きていたのですか?」
諸葛亮の声は穏やかだったが、月英は答えない。
彼女の視線の先にあるのは、夫の端正な顔でも、その手に握られた羽扇でもない。
諸葛亮の白い衣の胸元、そこに一滴だけ飛び散った、○の血の跡だった。
「あの方は、生きることを選びましたか?」
そこには嫉妬も、怒りも、夫を責める響きさえない。
ただ○という一人の女への哀れみが混じり合っていた。
「いいえ。彼女は死を選ぼうとしました。それを私が…止めたのです。強引に」
「左様ですか」
月英は夫の瞳を真っ直ぐに見据えた。
静かに歩み寄り、諸葛亮の胸元の血痕にそっと触れる。
「……汚れましたね。明日の軍議までには、私が綺麗にしておきましょう」
その言葉は、彼を軍師という公の立場に引き戻す為のものでもあった。
医務室への道すがら、趙雲は○を振り返り少し困った様な顔をした。
切った場所が首筋というあまりに危うい箇所であった為、医務室へ連れて行けば「自害の企て」か「内紛」を疑われ、上に報告されると騒ぎになりかねないと思ったのだ。
趙雲は医務室から道具だけを借りて自室に連れて行くことにした。
新しく割り振られたばかりの趙雲の宿舎は、まだ荷物も片付いていない。
そこで椅子に○を座らせると、薬草を浸した布で患部を拭った。
血はもう止まっている。
「……劉備殿が心から信頼を置く方ですから。私もあの方を疑いたくはありません。……ですが、今の彼はどこか、我々の知る『諸葛亮』ではないように見える」
趙雲は武人としての矜持と、それを上回るほどのやり場のない怒りが綯い交ぜになっていた。
「諸葛亮殿に、一体何を言われたのです。……あの時、離れで何があったのか、教えてはいただけませんか」
趙雲の問いは、責めるような響きではない。
切実な願いの様だった。
しかし○は悩む。
月英という妻がいながら自分に向けられた諸葛亮のあの昏い情熱を、趙雲に伝えてもいいのか。
「……離れでお話した通りです。私の命と引き換えに馬超を殺してもらおうとしました。私を斬りつけたのは馬超だという事にして罰してほしいと」
そこまでの話の流れを聞きたかった趙雲だが、○に言う気はないと察してうつむいた。
趙雲は黙って○の首筋に新しい包帯を巻き、その終わりを丁寧に留め、○の両手を包み込むように握りしめた。
「二度と、このような真似はしないでください」
その力強い言葉に、○はぼんやりと尋ねる。
「馬超を仇として襲えば謀反とされて、張飛殿やあなたの手で処断されると言われました。あなた方は劉備殿のためならと、きっとそうするでしょう…だけど私の復讐が無駄に他の方の手を汚すのなら、私の命を懸けた嘆願で馬超を処断してほしかった」
そう言った○は首に巻かれた包帯に触れる。
趙雲は薬箱を片付けながら目配せをした。
「元々、成都攻略が成れば魏に行くつもりでした。馬超を討つために力が必要だったから。予定外に馬超がここに来たので留まっているのですが……やっぱり馬超が生きている限り、この鬱屈した思いは消えない。だけど私はここにいたら、色んなしがらみで馬超を殺せない…だから今からでも、曹操の所へ行こうと考えています」
「……やめてください」
遮る趙雲の声は、これまでに聞いたことがないほど低い。
片付けの手を止めて○を見る。
○を劉備軍の同志として見守り続けてきた彼にとって、その言葉は馬超への復讐以上に受け入れがたい裏切りに等しい響きを持っていたのかもしれない。
「魏へ行く……曹操のもとへ身を寄せると? ○殿、正気で仰っているのですか」
趙雲は○に歩み寄り、その膝元に片膝をつくと、○の両肩に手を置く。
「魏へ行けば、あなたは本当に壊れてしまいます。何か対策を練りましょう。ですからここにいてください。ここには私も…それから×もいますから。…なにせ×が、あなたが諸葛亮殿の元から戻らないと教えに来てくれたのです」
「…。×殿、私の事が嫌いだったはずなのに…」
「当初は突っかかっていましたが、今ではあなたの心配をよく口にしますよ」
揺らぐ小さな灯の中で少し呆れたようにそう言った趙雲を、○はぼんやりと眺める。
立派な宿舎の寝台で、今も平然と寝息を立てているであろう仇・馬超がいる。
そして奥には、全てを見透かし、○の心を壊してでも手に入れようとする諸葛亮がいる。
「……ここにいたら、いつか趙雲殿も傷つけてしまう」
「構いません」
趙雲は即座に答え、○の手を強く握り締めた。
諸葛亮の手が痺れ、○の力が勝ち始める。
刃が再び○の首に食い込みだした時。
諸葛亮は彼女の身体を抱きしめた。
○は驚愕し、刃を首にあてたまま固まる。
諸葛亮の抱擁は逃げ場を許さない。
「……あなたに死なれては、困るのです。私が……困る」
諸葛亮の声は、耳元で低く掠れている。
小刀が当たっていない側の○の頬に、自らの頬をすり寄せた。
○は混乱する。
「ま、待ってください…正気に戻ってください! 月英殿が……!」
○は必死に声を振り絞り、彼が最も大切にしているはずの存在を引き合いに出した。
その手はもう力が抜けている。
諸葛亮はその言葉に怯むどころかさらに深く顔を寄せ、○の髪に触れる。
「あなたが欲しいのです」
「は!?何を仰っているのですか……!」
諸葛亮は○の震える手首を抑え込み、首筋からゆっくりと刃を遠ざけた。
「あなたを死なせません。……そして、あなたを誰の手にも渡さない」
「いやだ…! やめて…!」
○は悲鳴に近い声を上げ、諸葛亮の腕の中から逃れようともがいた。
軍師としての清廉な仮面の下に潜んでいた、歪んだ情念。
それを知って○は震えた。
思い切りつき飛ばそうとすると、腹部の傷があった所を軽く押されて痛みが走る。
血こそ出ないが傷口は完璧に塞がっていないので、押し込まれると流石に痛い。
その時、離れの戸が激しく叩かれた。
「――諸葛亮殿。夜分に申し訳ない。×から、○殿がこちらに向かってから戻らないと相談を受けたのですが……いらっしゃいますか?」
その穏やかな声が書斎の澱んだ空気を一瞬で霧散させた。
憑き物が落ちたように我に返った諸葛亮はゆっくりと○を解放すると、何事もなかったかのように端正な顔を整え、戸を開けた。
「趙雲殿。夜更けにご苦労様です。○殿なら、こちらに」
月明かりの下、戸口に立つ趙雲の鋭い眼光が室内を見渡す。
諸葛亮の背後で肩を震わせ、首筋から血を流している○の姿を捉え驚く。
「その傷は……! 諸葛亮殿、これは一体どういうことですか?」
「……待ってください、趙雲殿。これは私の独断です」
○が、首の傷を押さえながら趙雲を見る。
「私は諸葛亮殿に、この命と引き換えに馬超を断罪してほしいと……そう願い出たのです。諸葛亮殿は私の無謀を止めようとしてくださっただけです」
その言葉は、諸葛亮を庇うための言葉だった。
嘘でもない。
そうして自分を庇った○を見る諸葛亮の目は歪だ。
趙雲は○の首筋の傷と諸葛亮の眼差しを交互に見やり、深く溜息をついた。
「……諸葛亮殿。これ以上の『お話し』は不要かと存じます。彼女を医務室に連れて行き部屋まで送ります。……失礼いたします」
趙雲は一礼をすると○の肩を軽く引き寄せ、諸葛亮から離すように部屋から出した。
離れから自室に戻る諸葛亮。
渡り廊下の曲がり角で、彼は足を止めた。
そこには最愛の妻である月英が佇んでいた。
月明かりに照らされた彼女の顔は、静謐でありながら、すべてを見透かしているようだ。
「まだ起きていたのですか?」
諸葛亮の声は穏やかだったが、月英は答えない。
彼女の視線の先にあるのは、夫の端正な顔でも、その手に握られた羽扇でもない。
諸葛亮の白い衣の胸元、そこに一滴だけ飛び散った、○の血の跡だった。
「あの方は、生きることを選びましたか?」
そこには嫉妬も、怒りも、夫を責める響きさえない。
ただ○という一人の女への哀れみが混じり合っていた。
「いいえ。彼女は死を選ぼうとしました。それを私が…止めたのです。強引に」
「左様ですか」
月英は夫の瞳を真っ直ぐに見据えた。
静かに歩み寄り、諸葛亮の胸元の血痕にそっと触れる。
「……汚れましたね。明日の軍議までには、私が綺麗にしておきましょう」
その言葉は、彼を軍師という公の立場に引き戻す為のものでもあった。
医務室への道すがら、趙雲は○を振り返り少し困った様な顔をした。
切った場所が首筋というあまりに危うい箇所であった為、医務室へ連れて行けば「自害の企て」か「内紛」を疑われ、上に報告されると騒ぎになりかねないと思ったのだ。
趙雲は医務室から道具だけを借りて自室に連れて行くことにした。
新しく割り振られたばかりの趙雲の宿舎は、まだ荷物も片付いていない。
そこで椅子に○を座らせると、薬草を浸した布で患部を拭った。
血はもう止まっている。
「……劉備殿が心から信頼を置く方ですから。私もあの方を疑いたくはありません。……ですが、今の彼はどこか、我々の知る『諸葛亮』ではないように見える」
趙雲は武人としての矜持と、それを上回るほどのやり場のない怒りが綯い交ぜになっていた。
「諸葛亮殿に、一体何を言われたのです。……あの時、離れで何があったのか、教えてはいただけませんか」
趙雲の問いは、責めるような響きではない。
切実な願いの様だった。
しかし○は悩む。
月英という妻がいながら自分に向けられた諸葛亮のあの昏い情熱を、趙雲に伝えてもいいのか。
「……離れでお話した通りです。私の命と引き換えに馬超を殺してもらおうとしました。私を斬りつけたのは馬超だという事にして罰してほしいと」
そこまでの話の流れを聞きたかった趙雲だが、○に言う気はないと察してうつむいた。
趙雲は黙って○の首筋に新しい包帯を巻き、その終わりを丁寧に留め、○の両手を包み込むように握りしめた。
「二度と、このような真似はしないでください」
その力強い言葉に、○はぼんやりと尋ねる。
「馬超を仇として襲えば謀反とされて、張飛殿やあなたの手で処断されると言われました。あなた方は劉備殿のためならと、きっとそうするでしょう…だけど私の復讐が無駄に他の方の手を汚すのなら、私の命を懸けた嘆願で馬超を処断してほしかった」
そう言った○は首に巻かれた包帯に触れる。
趙雲は薬箱を片付けながら目配せをした。
「元々、成都攻略が成れば魏に行くつもりでした。馬超を討つために力が必要だったから。予定外に馬超がここに来たので留まっているのですが……やっぱり馬超が生きている限り、この鬱屈した思いは消えない。だけど私はここにいたら、色んなしがらみで馬超を殺せない…だから今からでも、曹操の所へ行こうと考えています」
「……やめてください」
遮る趙雲の声は、これまでに聞いたことがないほど低い。
片付けの手を止めて○を見る。
○を劉備軍の同志として見守り続けてきた彼にとって、その言葉は馬超への復讐以上に受け入れがたい裏切りに等しい響きを持っていたのかもしれない。
「魏へ行く……曹操のもとへ身を寄せると? ○殿、正気で仰っているのですか」
趙雲は○に歩み寄り、その膝元に片膝をつくと、○の両肩に手を置く。
「魏へ行けば、あなたは本当に壊れてしまいます。何か対策を練りましょう。ですからここにいてください。ここには私も…それから×もいますから。…なにせ×が、あなたが諸葛亮殿の元から戻らないと教えに来てくれたのです」
「…。×殿、私の事が嫌いだったはずなのに…」
「当初は突っかかっていましたが、今ではあなたの心配をよく口にしますよ」
揺らぐ小さな灯の中で少し呆れたようにそう言った趙雲を、○はぼんやりと眺める。
立派な宿舎の寝台で、今も平然と寝息を立てているであろう仇・馬超がいる。
そして奥には、全てを見透かし、○の心を壊してでも手に入れようとする諸葛亮がいる。
「……ここにいたら、いつか趙雲殿も傷つけてしまう」
「構いません」
趙雲は即座に答え、○の手を強く握り締めた。