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西を覆う土煙は、瞬く間に城門を突き破った。
西涼の地は、一人の男の暴走ともとれるそれによって赤く染まろうとしていた。
「西涼の錦」と謳われる馬超の進撃は、烈風の如き速さであった。
その武勇は天下に轟き、彼が駆る軍勢の前には、いかなる堅城も紙のごとく瓦解した。
馬超は一族を曹操に殺された復讐に燃え、涼州で再起をするために必要なものを奪うために槍が振るわれた。
城を落として支配圏を広げる…しかし馬超の暴力性に異を唱えるならば潰されてきた。
○の父が治める城もまた、その渦中にあった。
父は、民を愛し、部下に慕われる仁君であった。
無用な争いを好まず、ただ静かに領民の平穏を守ることを願っていた。
だが、その仁あふれる治世も、馬超の圧倒的な武力の前には無力。
馬超に和平を求めたが最後、城を襲われていた。
「○様! ここは我らが食い止めます! どうか、裏門から脱出を!」
城門が轟音と共に打ち破られ、馬超軍の兵が雪崩れ込んできた。
○の身を案じる将たちが、彼女を城外へ逃れさせようとする。
しかし、○はその制止を振り払った。
彼女の瞳には、幼い日々を過ごした城や町が蹂躙され、次々と兵や民が馬超の槍に倒れていく光景が映っていた。
「先に城の者を、民を一人でも多く逃しなさい! 私が父の元に行きます!」
○はそう叫ぶと、腰の剣を抜き父の執務室へと駆け出した。
○は一族の精鋭として父から直々に武芸を叩き込まれていた。
異国の血が混じっていることもあり体格がよく、その身体から繰り出される剣筋には自信がある。
立ちはだかる馬超軍の兵を斬り伏せていく。
彼女の心にあるのは恐怖ではなく、父を救いたいという一心と、父を脅かす者への激しい怒りだった。
城内は、悲鳴と怒号、そして重厚な鎧が擦れ合う音に支配されていた。
○は肺が焼けそうなほど息をする。
ようやく父の部屋の前に辿り着いた。
しかし、そこで彼女が目にしたのは、あまりにも残酷な光景だった。
父の部屋の扉は無惨に破壊され、その中心には、一人の男が立っていた。
白銀の鎧を纏い、獅子の如き生気を放つ男…馬超だ。
その足元には、降伏の意を示し膝を突いた姿のまま、父が倒れていた。
馬超の槍先から、父の血が床に滴り落ちていく。
「父上…!」
○の声は、震えていた。
父は城の者や民を救うために、無抵抗で馬超に降ると言っていた。
それなのに、馬超はその父を、無慈悲に斬り捨てた。
○の瞳から光が消え、代わりに底知れぬ殺気が立ち昇った。
○は父を手にかけた男――馬超を、ただ一点に見据える。
馬超はその気配に気づき、ゆっくりと振り返った。
父を斬ったばかりの槍先を○に向け、微かな興味の色を浮かべる。
「まだ逃げ出さぬ、骨のある者が残っていたか」
馬超は、○の鬼気迫る様子に、油断なく槍を構えた。
「女だからといって手加減はせんぞ。殺してやる」
○がいきなり動いた。
手にある剣はすでに刃こぼれし、返り血で粘ついていた。
○はその無用の長物と化した剣を、力任せに馬超へと投げつける。
馬超が首をわずかに捻ってそれを回避した隙に、○は壁に掲げられた一族の家宝の名剣を取る。
鯉口を切り、一息に抜き放つ。
馬超は即座に槍の柄でそれを受け止めた。
○はその衝撃を物ともせず、何度も斬りかかる。
馬超の攻撃を防衛することはできないと判断したからだ。
やられる前にやるしかない。
「女の腕にしては、重いな」
しかし西涼随一と謳われる馬超の剛力は、○の細い腕力を削っていく。
彼女の力では馬超の持つ圧倒的な武の力の前には、決定打を欠いていた。
五合目で馬超の突きを強引に受け流そうとし、○の手に痺れが走る。
握力を失った指先から家宝の剣が転げ落ちた。
その隙を逃さず馬超が斬りつけた。
脇腹が裂ける。
膝を突き、肩で息をする○。
今の馬超は一族を曹操に皆殺しにされた怒りにより、正義も慈悲も届かない。
その槍は牙を剥く者であれば女子供であっても斬り伏せてきたと聞く。
「俺を前に立ち向かうとは、その気迫、見事。……俺と戦い、ここまで生き残った女は初めてだ。…だが、残念だったな」
馬超はそう言うと、○に最後の一撃を見舞おうとした。
「…くそ!」
○は最期の力を振り絞り、懐に隠し持っていた家宝の懐刀を抜き放った。
白銀の鞘に収められたその短刀は、一族のみが持つことを許された品。
○はその懐刀を馬超の顔面めがけて振りぬく。
そのまま握力のなくなった手からすっぽ抜けた。
「…っ!」
馬超は予期せぬ一撃に槍を引く間もなく、懐刀を避けるために顔を背けた。
鋭く研ぎ澄まされた刃は思わず手から抜けたことで起動がずれ、馬超の頬をかすめ、頬に赤い筋を刻んだ。
馬超の頬から血が伝い落ちる。
その屈辱に、馬超の瞳に狂気じみた怒りが宿った。
○はその隙を見逃さなかった。
床に転がっていた家宝の剣をひったくると、馬超に背を向け、部屋から飛び出す。
「逃がさん! 恨みを持った鼠を逃せば、後々煩わしい!」
馬超は、頬を拭うこともせず、床に落ちた○の懐刀を拾い上げた。
その家宝の懐刀を握りしめ、それでトドメを刺すべく、○の後を追って廊下へと駆け出した。
城の細い通路を○は必死に走った。
馬超に斬られた腹部の傷が痛み、打ち合いで痺れた手足は思うように動かない。
足も所々裂傷がある。
壁につかまりながらも父の剣を抱きかかえ、馬超の手から逃れようと、脱出用に複雑に入り組んだ通路を駆け抜けた。
しかしこれだけの血が落ちていたら、馬超が注意深く床を見れば足取りはつかめてしまうだろう。
(……あそこなら!)
○は、非常時の隠し部屋へと繋がる小部屋へと滑り込んだ。
そこには、○の世話役の女官が座り込んでいた。
彼女は○の兄と祝言を挙げるはずだった、数歳年上の若き女官。
「○様……!? ご無事で……!」
女官は○の姿を見ると、安堵の表情を浮かべた。
しかし、その体は傷つき、すでに立ち上がることもままならない様子。
「良かった。最後にこの命が役に立つなんて……○様。どうか、私の言うことをお聞きください」
女官は○の腕を掴むと、力強い口調で語りかけた。
「私が身代わりになります。幸い、背格好も髪の長さも、似ております。この暗闇であれば欺けましょう。裏口に、誰かが忘れていった馬が繋がれておりました。それを使って、この城から……西涼から逃げてください」
「駄目よ! そんなこと…! 一緒に逃げないと…!背負うからこっちに…」
父に続き、姉の様に慕った彼女をこんな所に残していくことなど、到底できなかった。
女官の袖を引くが振り払われる。
○の羽織っていた外套をひったくると自分に巻き付け、髪を乱した。
自身の血を掌で顔全体に塗り、顔立ちを誤魔化す。
「……私の体は、もう動かぬのです。私を連れて行けば、二人とも捕まります」
そう言うと懐から家宝の懐刀を取り出して○に握らせた。
「これは、貴女の兄様のものです。……あの方は、城門で最後まで戦っておいででした。でも…もう…。せめてこれを持って、生き延びて」
「嫌よ……置いていけない……!」
「静かに!」
「…あっ!」
抗う○を、女官は床に隠された狭い隙間へと突き落とした。
そこは有事に備えて造られた床下の隠し部屋。
頭上で重い板が閉じられ、○の視界は完全な闇に包まれる。
直後。
板一枚隔てた真上で、獣のごとき咆哮が響いた。
馬超だ。
荒々しい足音が床を鳴らし、○の心臓は跳ね上がる。
女官は身代わりと知られぬよう、声を出さずに側にあった刃物を突き出す。
鋭い風を切る音。
続いて肉を貫く鈍い衝撃音と、女官の鋭い絶叫が耳を突いた。
どさりと何かが床に倒れ伏す重い音が響く。
静寂の中で、馬超が「なかなかの切れ味だな」と声を発する。
○が投げつけた懐刀で女官を殺したらしい。
小さくそう言うと部屋の外に出て行った。
床下の暗闇の中、○は全身を震わせ、ただただ涙を流した。
父を殺され、兄を失い、姉とも慕った女官までが、自分の身代わりとなって果てた。
(……馬超。……必ず、貴様を殺してやる)
馬超は城に火を放った。
城が焼けるのを見つめながら、手の中にある一振りの短刀を凝視していた。
(あの鬼気迫る瞳…)
爛々と燃える瞳を思い出す。
自分もあんな目をしているのだろうか。
馬超は、無意識に自らの頬の傷に触れ、その懐刀を腰に差し、燃える城を見つめる。
「刺し違えてでも殺そうとした、あの執念……。ふん、死に際まで見苦しい」
馬超は鼻で笑い、その場を立ち去った。
城は、天を衝くほどの業火に包まれた。
○は床下から這い出ると裏口に出る。
手には、血に濡れた家宝の剣。
懐には死の間際に託された兄の形見——白銀の懐刀がある。
背後で最期まで自分を守り抜いた女官の絶叫が聞こえた気がした。
○は、熱風に煽られる髪を振り乱し、誰かが繋ぎ忘れた一頭の馬に跨がった。
震える手で手綱を繰り、燃え盛る故郷に背を向ける。
馬超。
あの男を討ち倒せるのは、この天下でもはやただ一人…中原を統べる覇王・曹操のみだ。
「魏へ……曹操のもとへ行かなければ…」
そこで力をつけて奴を殺す。
○は、薄れゆく意識の中で北を目指そうとした。
だが、馬超に斬られた脇腹の傷は深く、流れる血が馬の腹を濡らしていく。
激しい運動による失血と、夜の冷たい空気に○の意識は急速に混濁していった。
「父上……あにうえ……」
視界が白く霞む。
馬は乗り手の制御を失い、本能的に寒気を避けて南西へと歩を進めた。
そこは曹操の座す許昌ではなく、劉備が新たなる覇業の地として狙いを定めた、険しき益州の山々へと続く道であった。
やがて○は馬の首に縋り付いたまま、糸が切れたように意識を手放した。
西涼の地は、一人の男の暴走ともとれるそれによって赤く染まろうとしていた。
「西涼の錦」と謳われる馬超の進撃は、烈風の如き速さであった。
その武勇は天下に轟き、彼が駆る軍勢の前には、いかなる堅城も紙のごとく瓦解した。
馬超は一族を曹操に殺された復讐に燃え、涼州で再起をするために必要なものを奪うために槍が振るわれた。
城を落として支配圏を広げる…しかし馬超の暴力性に異を唱えるならば潰されてきた。
○の父が治める城もまた、その渦中にあった。
父は、民を愛し、部下に慕われる仁君であった。
無用な争いを好まず、ただ静かに領民の平穏を守ることを願っていた。
だが、その仁あふれる治世も、馬超の圧倒的な武力の前には無力。
馬超に和平を求めたが最後、城を襲われていた。
「○様! ここは我らが食い止めます! どうか、裏門から脱出を!」
城門が轟音と共に打ち破られ、馬超軍の兵が雪崩れ込んできた。
○の身を案じる将たちが、彼女を城外へ逃れさせようとする。
しかし、○はその制止を振り払った。
彼女の瞳には、幼い日々を過ごした城や町が蹂躙され、次々と兵や民が馬超の槍に倒れていく光景が映っていた。
「先に城の者を、民を一人でも多く逃しなさい! 私が父の元に行きます!」
○はそう叫ぶと、腰の剣を抜き父の執務室へと駆け出した。
○は一族の精鋭として父から直々に武芸を叩き込まれていた。
異国の血が混じっていることもあり体格がよく、その身体から繰り出される剣筋には自信がある。
立ちはだかる馬超軍の兵を斬り伏せていく。
彼女の心にあるのは恐怖ではなく、父を救いたいという一心と、父を脅かす者への激しい怒りだった。
城内は、悲鳴と怒号、そして重厚な鎧が擦れ合う音に支配されていた。
○は肺が焼けそうなほど息をする。
ようやく父の部屋の前に辿り着いた。
しかし、そこで彼女が目にしたのは、あまりにも残酷な光景だった。
父の部屋の扉は無惨に破壊され、その中心には、一人の男が立っていた。
白銀の鎧を纏い、獅子の如き生気を放つ男…馬超だ。
その足元には、降伏の意を示し膝を突いた姿のまま、父が倒れていた。
馬超の槍先から、父の血が床に滴り落ちていく。
「父上…!」
○の声は、震えていた。
父は城の者や民を救うために、無抵抗で馬超に降ると言っていた。
それなのに、馬超はその父を、無慈悲に斬り捨てた。
○の瞳から光が消え、代わりに底知れぬ殺気が立ち昇った。
○は父を手にかけた男――馬超を、ただ一点に見据える。
馬超はその気配に気づき、ゆっくりと振り返った。
父を斬ったばかりの槍先を○に向け、微かな興味の色を浮かべる。
「まだ逃げ出さぬ、骨のある者が残っていたか」
馬超は、○の鬼気迫る様子に、油断なく槍を構えた。
「女だからといって手加減はせんぞ。殺してやる」
○がいきなり動いた。
手にある剣はすでに刃こぼれし、返り血で粘ついていた。
○はその無用の長物と化した剣を、力任せに馬超へと投げつける。
馬超が首をわずかに捻ってそれを回避した隙に、○は壁に掲げられた一族の家宝の名剣を取る。
鯉口を切り、一息に抜き放つ。
馬超は即座に槍の柄でそれを受け止めた。
○はその衝撃を物ともせず、何度も斬りかかる。
馬超の攻撃を防衛することはできないと判断したからだ。
やられる前にやるしかない。
「女の腕にしては、重いな」
しかし西涼随一と謳われる馬超の剛力は、○の細い腕力を削っていく。
彼女の力では馬超の持つ圧倒的な武の力の前には、決定打を欠いていた。
五合目で馬超の突きを強引に受け流そうとし、○の手に痺れが走る。
握力を失った指先から家宝の剣が転げ落ちた。
その隙を逃さず馬超が斬りつけた。
脇腹が裂ける。
膝を突き、肩で息をする○。
今の馬超は一族を曹操に皆殺しにされた怒りにより、正義も慈悲も届かない。
その槍は牙を剥く者であれば女子供であっても斬り伏せてきたと聞く。
「俺を前に立ち向かうとは、その気迫、見事。……俺と戦い、ここまで生き残った女は初めてだ。…だが、残念だったな」
馬超はそう言うと、○に最後の一撃を見舞おうとした。
「…くそ!」
○は最期の力を振り絞り、懐に隠し持っていた家宝の懐刀を抜き放った。
白銀の鞘に収められたその短刀は、一族のみが持つことを許された品。
○はその懐刀を馬超の顔面めがけて振りぬく。
そのまま握力のなくなった手からすっぽ抜けた。
「…っ!」
馬超は予期せぬ一撃に槍を引く間もなく、懐刀を避けるために顔を背けた。
鋭く研ぎ澄まされた刃は思わず手から抜けたことで起動がずれ、馬超の頬をかすめ、頬に赤い筋を刻んだ。
馬超の頬から血が伝い落ちる。
その屈辱に、馬超の瞳に狂気じみた怒りが宿った。
○はその隙を見逃さなかった。
床に転がっていた家宝の剣をひったくると、馬超に背を向け、部屋から飛び出す。
「逃がさん! 恨みを持った鼠を逃せば、後々煩わしい!」
馬超は、頬を拭うこともせず、床に落ちた○の懐刀を拾い上げた。
その家宝の懐刀を握りしめ、それでトドメを刺すべく、○の後を追って廊下へと駆け出した。
城の細い通路を○は必死に走った。
馬超に斬られた腹部の傷が痛み、打ち合いで痺れた手足は思うように動かない。
足も所々裂傷がある。
壁につかまりながらも父の剣を抱きかかえ、馬超の手から逃れようと、脱出用に複雑に入り組んだ通路を駆け抜けた。
しかしこれだけの血が落ちていたら、馬超が注意深く床を見れば足取りはつかめてしまうだろう。
(……あそこなら!)
○は、非常時の隠し部屋へと繋がる小部屋へと滑り込んだ。
そこには、○の世話役の女官が座り込んでいた。
彼女は○の兄と祝言を挙げるはずだった、数歳年上の若き女官。
「○様……!? ご無事で……!」
女官は○の姿を見ると、安堵の表情を浮かべた。
しかし、その体は傷つき、すでに立ち上がることもままならない様子。
「良かった。最後にこの命が役に立つなんて……○様。どうか、私の言うことをお聞きください」
女官は○の腕を掴むと、力強い口調で語りかけた。
「私が身代わりになります。幸い、背格好も髪の長さも、似ております。この暗闇であれば欺けましょう。裏口に、誰かが忘れていった馬が繋がれておりました。それを使って、この城から……西涼から逃げてください」
「駄目よ! そんなこと…! 一緒に逃げないと…!背負うからこっちに…」
父に続き、姉の様に慕った彼女をこんな所に残していくことなど、到底できなかった。
女官の袖を引くが振り払われる。
○の羽織っていた外套をひったくると自分に巻き付け、髪を乱した。
自身の血を掌で顔全体に塗り、顔立ちを誤魔化す。
「……私の体は、もう動かぬのです。私を連れて行けば、二人とも捕まります」
そう言うと懐から家宝の懐刀を取り出して○に握らせた。
「これは、貴女の兄様のものです。……あの方は、城門で最後まで戦っておいででした。でも…もう…。せめてこれを持って、生き延びて」
「嫌よ……置いていけない……!」
「静かに!」
「…あっ!」
抗う○を、女官は床に隠された狭い隙間へと突き落とした。
そこは有事に備えて造られた床下の隠し部屋。
頭上で重い板が閉じられ、○の視界は完全な闇に包まれる。
直後。
板一枚隔てた真上で、獣のごとき咆哮が響いた。
馬超だ。
荒々しい足音が床を鳴らし、○の心臓は跳ね上がる。
女官は身代わりと知られぬよう、声を出さずに側にあった刃物を突き出す。
鋭い風を切る音。
続いて肉を貫く鈍い衝撃音と、女官の鋭い絶叫が耳を突いた。
どさりと何かが床に倒れ伏す重い音が響く。
静寂の中で、馬超が「なかなかの切れ味だな」と声を発する。
○が投げつけた懐刀で女官を殺したらしい。
小さくそう言うと部屋の外に出て行った。
床下の暗闇の中、○は全身を震わせ、ただただ涙を流した。
父を殺され、兄を失い、姉とも慕った女官までが、自分の身代わりとなって果てた。
(……馬超。……必ず、貴様を殺してやる)
馬超は城に火を放った。
城が焼けるのを見つめながら、手の中にある一振りの短刀を凝視していた。
(あの鬼気迫る瞳…)
爛々と燃える瞳を思い出す。
自分もあんな目をしているのだろうか。
馬超は、無意識に自らの頬の傷に触れ、その懐刀を腰に差し、燃える城を見つめる。
「刺し違えてでも殺そうとした、あの執念……。ふん、死に際まで見苦しい」
馬超は鼻で笑い、その場を立ち去った。
城は、天を衝くほどの業火に包まれた。
○は床下から這い出ると裏口に出る。
手には、血に濡れた家宝の剣。
懐には死の間際に託された兄の形見——白銀の懐刀がある。
背後で最期まで自分を守り抜いた女官の絶叫が聞こえた気がした。
○は、熱風に煽られる髪を振り乱し、誰かが繋ぎ忘れた一頭の馬に跨がった。
震える手で手綱を繰り、燃え盛る故郷に背を向ける。
馬超。
あの男を討ち倒せるのは、この天下でもはやただ一人…中原を統べる覇王・曹操のみだ。
「魏へ……曹操のもとへ行かなければ…」
そこで力をつけて奴を殺す。
○は、薄れゆく意識の中で北を目指そうとした。
だが、馬超に斬られた脇腹の傷は深く、流れる血が馬の腹を濡らしていく。
激しい運動による失血と、夜の冷たい空気に○の意識は急速に混濁していった。
「父上……あにうえ……」
視界が白く霞む。
馬は乗り手の制御を失い、本能的に寒気を避けて南西へと歩を進めた。
そこは曹操の座す許昌ではなく、劉備が新たなる覇業の地として狙いを定めた、険しき益州の山々へと続く道であった。
やがて○は馬の首に縋り付いたまま、糸が切れたように意識を手放した。
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