本編【序章~15話】
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ある昼下がり。
軍務の合間、趙雲が書簡を整理していると…
「ねぇ、隊長さん。ついてきて欲しいところがあるの」
軽い声音。
だがその目はどこか企みの色を帯びている。
「どこへだ。今は持ち場を空けるわけにはいかない」
○は腰に手を当て、わざとらしく溜息をつく。
「そう言うと思った。行きたいのは、私のアジトだった場所よ。だから城外なの」
「…アジト?」
「そう。私が盗品を置いたり、道具を管理したりしてたところ。しばらく放置してたんだけど、そこにまだ“気になる物”があるの」
趙雲の眉が明確に動いた。
「……ならばなおさら許可できん。お前を野外に出せば、何をするか分からぬ」
「だからついてきて欲しいの。きっと損させないわ。良いモノ見せてあげる」
その“良いもの”が何か、想像したくない。
だが、○の収集癖は軍務に関わる可能性すらある。
「……少しだけだ。長居はしない」
そう言って立ち上がる趙雲に、○は「決まりね」と微笑んだ。
街外れの斜面に掘られた小さな洞窟。
草木に隠され、外からはまず見つからない。
○が先に入り、松明を灯す。
すると、黄金色の光が室内を照らした。
宝飾類。
古びた陶器や青銅器。
巻物。
奇妙な石片。
壺の破片。
どこかの廟から盗んできたと思われる仏具。
「……ここまでとは」
価値の高いもの、珍品、希少品。
素人目に見ても、明らかに選び抜かれたものばかりだと分かる。
○は迷いなく一つの山に近づくと、ひょいと拾い上げる。
「見て。これ、前に言った春秋期の青銅器。ほら、この線の入り方。当時の祭器の特徴がそのまま残ってるのよ」
「…それも盗品か」
「拾ってきたの」
悪びれもしない。
「○。お前が宝物庫に忍び込んだ理由が、単なる金欲だけではないことは分かった。だが、これは──」
室内を見回す。
「完全に盗品だ。これだけの物が行方不明になれば、どれほどの騒ぎになると思っている」
「半分以上は持ち主が価値を分かってなかったから、無くなっても気づかなかったような扱いだったのよ。捨てられるより私が持ってた方がマシでしょ」
「話にならんな」
「まぁまぁ、隊長さん。ついここに来ちゃったから色々見せたくなったけど、あなたにいい知らせがあるのよ」
○は奥の棚から、小さな青銅製の飾り金具を取り出す。
「この紋章、多分“北の豪族”のものなんだけど…この前見つけた青銅片に紋章を彫ったのと同じ職人だと思うの。打ち方が同じだもの」
「…なに」
「つまりあの勢力、水面下で同盟を結んでいるのは一つじゃないわ。ここも繋がってるんじゃないかしら。この豪族は代々お抱えの職人がいて、ゲン担ぎもあって彼がその家の物は一手に担ってるって聞くわ。つまりその職人が三つの紋章を打ってるの」
(これだけ収集しておいて、よく自身が収集していたことを覚えていたな…)
○は宝物の山に腰を下ろし、楽しそうに続ける。
「ね?良いもの見せたでしょ。それ、あげるわ。ここに連れてきてくれたお礼」
○は宝の山の中に座り込み、久しぶりのお宝との対面を楽しんでいる。
趙雲はしばらく黙って見ていたが、やがて静かに問う。
「……○。お前はなぜ、これほどまでに骨董を集める」
本来なら軍規違反を咎めるべき場面だ。
しかし、彼女の指先と目があまりに真剣で、言葉が変わった。
○は手元の盃を松明の明かりにかざす。
「だって…こうしていると当時の情景が浮かぶじゃない」
「情景…?」
○は微笑む。
「その時代に生きてた人たちの息遣い、技を磨いた跡、生き残ろうとして作った文様、祈り、願い、誇り……全部、この中に残ってるの」
盃を指でなぞりながら続ける。
「誰が作って、誰が使って、どうしてここに流れ着いたのか……考えるだけで心が躍らない?」
彼女の声は、盗賊でも暗殺者でもない。
子どもの好奇心に近かった。
「私ね、こういうものを見ると…時間の向こう側に触れられる気がするのよ。人が生きてきた証が美しい形で残ってるって、すごく素敵な事だと思うの」
照れでも見栄でもなく語られる美しさ。
その姿に、趙雲の胸の奥がわずかにざわめいた。
盗賊に似つかわしくないほど純粋な目。
悪意ではなく、興味で動く。
その危うさが掴みにくい。
だが同時に、この無邪気さを完全に罪と切り捨てられない自分もいた。
○は続ける。
「だから私は、そのまま壊れてしまうくらいなら手元に置くの。綺麗なものが忘れられるのも嫌。それに、この品物に並々ならぬ思い入れを持つ人がいるのなら、その人の元に返すべきだとも思ってるわ。勿論、手間賃は頂くけど…それは商売って事で」
「……」
「それにほら、宝物たちって静かに語りかけてくるのよ。そうなると放置するのも可哀そうでしょ?」
盃を大事そうに抱える○に、趙雲は目を見張る。
少しでも○を理解しようとした自分に、うっすらと危機感を抱いた。
(…妙な情を抱いては駄目だ)
だが同時に、どうしようもなく理解したいと思う部分もあった。
価値観は違う。
行動も危険。
軍規からは外れている。
それでも。
○が骨董に触れる時、その笑みは澄んでいて無邪気だ。
あまりに無邪気で、不思議な透明感があった。
「……情景、か」
「ええ。隊長さんには似合わない言葉かしら?」
「分からぬ言葉ではない。だが…お前のその趣味が軍務を乱す前に、私がしっかり見張る必要がある」
「まぁ、責任重大ね」
そう言って笑う顔は、今まで見てきたものとは違う。
人を試すような。
値踏みするような。
誘惑するような。
そんな類のものではなかった。
そして趙雲は、警戒と共に、説明し難い感情を胸に抱いた。
(……この女は、本当にただの盗賊なのか?)
アジトを出ると、○は肩に大袋を担ぎ、鼻歌まで歌っていた。
その袋には当然、宝物がぎっしり詰まっている。
「……○。その袋の中身はすべてアジトに残しておけと言ったはずだ」
「言っただけでしょ?いつ私が言う事聞くって?」
袋の口からは青銅器の縁が覗き、鈍い光を放っている。
趙雲は額を押さえた。
「戻したくない理由は何だ」
「綺麗にしてあげたいからよ。あそこ、湿気がひどくて保存に向かないの。可哀想じゃない」
「盗品を持って帰るな」
「じゃあ、使ってない私室ならいいでしょ」
そう言って手をひらひら振る。
「とりあえず大きいものは、私室として用意されてる部屋に置くから迷惑かけないわ。どうせそこでは寝泊まりさせてもらえてないし。一部は隊長さんの部屋に置くことになるけど」
「迷惑だ。やめなさい」
「私の寝台の周りに置くだけよ。…もう、見て?」
○は立ち止まり、袋の中から玉器をひょいと取り出した。
「ほら、これとか×殿に差し上げようかしら。きっと気に入るわ?」
(……なぜ×殿を持ち出す)
ただの挑発か、それとも意図的か。
どちらにせよ厄介だ。
「○。軍の規律は私室の飾りにまで及ぶ。ましてや盗品など…」
「全部が全部盗品じゃないわ。相場より安く買い叩いたものもあるんだから」
「またお前はそうやって…」
「あーもう。分かった。分かったわよ。じゃあこうしましょう」
○は袋を持ち上げ、にっこり笑う。
「隊長さんが嫌がるものは持って帰らない。あなたの判断で取捨選択して?」
「何を勝手に……」
「隊長さんが嫌と言えばやめるってこと。ほら、責任者でしょ?」
“責任者”という言葉に趙雲は一瞬だけ黙った。
この女は奔放に見えて、どこまで受け入れられるのかを探しているようだ。
(……本当に扱いづらいな)
○が袋を地面に置き、趙雲が中を確認しようと身を屈めたその瞬間だった。
すっと隣に寄り、顔を趙雲のすぐ横に並べる。
頬が触れそうな距離。
呼吸がかすかに混ざるほどの近さ。
「ねぇ…何が入ってると思う?」
声は低く甘く、意図的に掠れている。
“誘惑”というより、相手の反応を試しているような楽しげな声。
趙雲は一切の反応を見せない。
顔を動かさず、ただ袋の中を冷静に見ている。
(普通なら、驚いて顔をそらすのに…)
○は面白くなり、さらに距離を詰めた。
瞬間、瞳が合う。
睫毛の動きまで見える。
相手の視線の揺れすら捉えられる近さ。
○は妖しく笑った。
「隊長さんって……近くで見ると、もっと綺麗ね」
息を引っ掛けるような言い方。
わざと視線を上目遣いに絡める。
しかし。
「……○。無用な接近は慎め」
微動だにせず、顔すら動かさず、冷静にそう返された。
「冷たいわねぇ、ほんとに」
「もう一度言う。距離を取れ」
○はふざけた声で囁いた。
「このまま口付けするわよ?」
普通なら、驚いて避けるかなにかしらの反応を示すはずだ。
だが趙雲は顔を動かさない。
ただ、視線だけが凍るように鋭くなった。
「冗談にも限度がある。次は本気で叱る」
その声は低く静かで、怒気を含まないのに一切の甘さがなかった。
○は一瞬だけ息を呑む。
その冷静さは、“色仕掛けが通じない”という域を越えている。
「…隊長さんのそういうところ、好きよ」
「そんな事は聞いていない」
「どうして?私の愛の告白なのに」
「聞く価値がない」
「あら、ひどい」
やり取りは軽いが、その裏で○は確信した。
(この人、本当に動じないのね)
一方、趙雲は静かに思った。
(……この女はなんなんだ。すぐにこちらの平衡を乱そうとする)
二人は袋を挟んで向き合う。
しかし心の距離はまるで違う。
そして山道を下り始めながら、趙雲は内心の警戒だけを強めていた。
アジトから戻った夜。
衝立の向こうで趙雲が着替える音を聞きながら、○は小さく笑った。
袋の中を覗き込む時、顔を真横まで寄せた。
息が触れる距離。
髪がかすめる距離。
普通の男なら必ず反応する。
緊張して頬が赤くなるか、視線を逸らすか、距離を取るか。
だけど。
(あの人、顔ひとつ動かさなかった)
睫毛の震えすらない。
呼吸も乱れない。
動かずにただ冷静に袋を覗き込むだけ。
(あそこまで無反応だと……逆に刺激的ね)
○は寝台に寝転んで、持ち帰った宝物を撫でる。
琥珀色の灯火が反射して揺れた。
これまでの人生、男を動かすための手段として何度も利用してきた色仕掛け。
騙すつもりだったり…利用するつもりだったり…急場をしのぐためだったり…
いずれも成功率は高かった。
自分の顔にも身体にも自信があるし、良く見せる方法も知っている。
(でも、趙雲には通じない…と)
まるで石壁。
誘惑という行為そのものが、まったく意味を成さない相手。
(……綺麗なものを見ると、欲しくなるのよね)
美しいもの。
価値のあるもの。
歴史を運んだもの。
でも欲しいのは、宝物だけではない。
“理解し難いほど綺麗な男”にも自然と目が向いてしまう。
(あの人……綺麗だったわ)
色気で揺さぶろうと近づいたのに、一切動じず、平然とした顔のまま叱りつけてきた。
静かで、近くで見れば見るほど整っている顔。
その整い方が、妙に印象に残る。
(男なんて手に入れても、どうしようもないけどね。世話も面倒だし)
小さくため息をついて目を閉じた。
その日の夜。
諸葛亮の書院には、趙雲が持ち帰った小さな木箱が置かれていた。
報告はこうだ。
「野外で不審な盗賊アジトを発見。潜入した○が、その中から“気になる一品”を回収した。」
“気になる一品”。
本来なら大量の盗品があるはずだが、提出されたのは たったひとつ。
だが、趙雲の言葉に偽りはない。
ならば、これが選び抜かれた価値を持つのだろう。
中にあったのは、人の掌に乗るほどの小さな青銅片だった。
趙雲の報告によると、これは水面下で三つの勢力が同盟を結んでいる根拠になるという。
そしてその根拠は、諸葛亮も納得できる所だった。
しかし諸葛亮が気になるのはそこだけではない。
盗賊のアジトなら、普通はもっと雑多な品があるはずだ。
なのに、中身はたった一つ。
軍事上の価値に直結する物だけ。
そしてこんな選別が、申し訳ないが趙雲にできるとは思えない。
とすれば。
(○殿ですね…厄介で得難い才を持っている。正しく使えば、私たちは"目"を百里広げられるでしょう)
しかし○はあまりにも胡散臭い。
諸葛亮は一つの疑問を深く飲み込む。
(なぜ趙雲殿は、これほど得体の知れぬ人物を登用したのか)
趙雲の誠実さと慎重さを考えれば、通常では考えられない判断だ。
しかし彼が判断したからこそ、彼女を信じられる。
「……理由を聞いてみる必要がありそうですね。」
灯りが揺れ、青銅片の影が壁に長く伸びた。
軍務の合間、趙雲が書簡を整理していると…
「ねぇ、隊長さん。ついてきて欲しいところがあるの」
軽い声音。
だがその目はどこか企みの色を帯びている。
「どこへだ。今は持ち場を空けるわけにはいかない」
○は腰に手を当て、わざとらしく溜息をつく。
「そう言うと思った。行きたいのは、私のアジトだった場所よ。だから城外なの」
「…アジト?」
「そう。私が盗品を置いたり、道具を管理したりしてたところ。しばらく放置してたんだけど、そこにまだ“気になる物”があるの」
趙雲の眉が明確に動いた。
「……ならばなおさら許可できん。お前を野外に出せば、何をするか分からぬ」
「だからついてきて欲しいの。きっと損させないわ。良いモノ見せてあげる」
その“良いもの”が何か、想像したくない。
だが、○の収集癖は軍務に関わる可能性すらある。
「……少しだけだ。長居はしない」
そう言って立ち上がる趙雲に、○は「決まりね」と微笑んだ。
街外れの斜面に掘られた小さな洞窟。
草木に隠され、外からはまず見つからない。
○が先に入り、松明を灯す。
すると、黄金色の光が室内を照らした。
宝飾類。
古びた陶器や青銅器。
巻物。
奇妙な石片。
壺の破片。
どこかの廟から盗んできたと思われる仏具。
「……ここまでとは」
価値の高いもの、珍品、希少品。
素人目に見ても、明らかに選び抜かれたものばかりだと分かる。
○は迷いなく一つの山に近づくと、ひょいと拾い上げる。
「見て。これ、前に言った春秋期の青銅器。ほら、この線の入り方。当時の祭器の特徴がそのまま残ってるのよ」
「…それも盗品か」
「拾ってきたの」
悪びれもしない。
「○。お前が宝物庫に忍び込んだ理由が、単なる金欲だけではないことは分かった。だが、これは──」
室内を見回す。
「完全に盗品だ。これだけの物が行方不明になれば、どれほどの騒ぎになると思っている」
「半分以上は持ち主が価値を分かってなかったから、無くなっても気づかなかったような扱いだったのよ。捨てられるより私が持ってた方がマシでしょ」
「話にならんな」
「まぁまぁ、隊長さん。ついここに来ちゃったから色々見せたくなったけど、あなたにいい知らせがあるのよ」
○は奥の棚から、小さな青銅製の飾り金具を取り出す。
「この紋章、多分“北の豪族”のものなんだけど…この前見つけた青銅片に紋章を彫ったのと同じ職人だと思うの。打ち方が同じだもの」
「…なに」
「つまりあの勢力、水面下で同盟を結んでいるのは一つじゃないわ。ここも繋がってるんじゃないかしら。この豪族は代々お抱えの職人がいて、ゲン担ぎもあって彼がその家の物は一手に担ってるって聞くわ。つまりその職人が三つの紋章を打ってるの」
(これだけ収集しておいて、よく自身が収集していたことを覚えていたな…)
○は宝物の山に腰を下ろし、楽しそうに続ける。
「ね?良いもの見せたでしょ。それ、あげるわ。ここに連れてきてくれたお礼」
○は宝の山の中に座り込み、久しぶりのお宝との対面を楽しんでいる。
趙雲はしばらく黙って見ていたが、やがて静かに問う。
「……○。お前はなぜ、これほどまでに骨董を集める」
本来なら軍規違反を咎めるべき場面だ。
しかし、彼女の指先と目があまりに真剣で、言葉が変わった。
○は手元の盃を松明の明かりにかざす。
「だって…こうしていると当時の情景が浮かぶじゃない」
「情景…?」
○は微笑む。
「その時代に生きてた人たちの息遣い、技を磨いた跡、生き残ろうとして作った文様、祈り、願い、誇り……全部、この中に残ってるの」
盃を指でなぞりながら続ける。
「誰が作って、誰が使って、どうしてここに流れ着いたのか……考えるだけで心が躍らない?」
彼女の声は、盗賊でも暗殺者でもない。
子どもの好奇心に近かった。
「私ね、こういうものを見ると…時間の向こう側に触れられる気がするのよ。人が生きてきた証が美しい形で残ってるって、すごく素敵な事だと思うの」
照れでも見栄でもなく語られる美しさ。
その姿に、趙雲の胸の奥がわずかにざわめいた。
盗賊に似つかわしくないほど純粋な目。
悪意ではなく、興味で動く。
その危うさが掴みにくい。
だが同時に、この無邪気さを完全に罪と切り捨てられない自分もいた。
○は続ける。
「だから私は、そのまま壊れてしまうくらいなら手元に置くの。綺麗なものが忘れられるのも嫌。それに、この品物に並々ならぬ思い入れを持つ人がいるのなら、その人の元に返すべきだとも思ってるわ。勿論、手間賃は頂くけど…それは商売って事で」
「……」
「それにほら、宝物たちって静かに語りかけてくるのよ。そうなると放置するのも可哀そうでしょ?」
盃を大事そうに抱える○に、趙雲は目を見張る。
少しでも○を理解しようとした自分に、うっすらと危機感を抱いた。
(…妙な情を抱いては駄目だ)
だが同時に、どうしようもなく理解したいと思う部分もあった。
価値観は違う。
行動も危険。
軍規からは外れている。
それでも。
○が骨董に触れる時、その笑みは澄んでいて無邪気だ。
あまりに無邪気で、不思議な透明感があった。
「……情景、か」
「ええ。隊長さんには似合わない言葉かしら?」
「分からぬ言葉ではない。だが…お前のその趣味が軍務を乱す前に、私がしっかり見張る必要がある」
「まぁ、責任重大ね」
そう言って笑う顔は、今まで見てきたものとは違う。
人を試すような。
値踏みするような。
誘惑するような。
そんな類のものではなかった。
そして趙雲は、警戒と共に、説明し難い感情を胸に抱いた。
(……この女は、本当にただの盗賊なのか?)
アジトを出ると、○は肩に大袋を担ぎ、鼻歌まで歌っていた。
その袋には当然、宝物がぎっしり詰まっている。
「……○。その袋の中身はすべてアジトに残しておけと言ったはずだ」
「言っただけでしょ?いつ私が言う事聞くって?」
袋の口からは青銅器の縁が覗き、鈍い光を放っている。
趙雲は額を押さえた。
「戻したくない理由は何だ」
「綺麗にしてあげたいからよ。あそこ、湿気がひどくて保存に向かないの。可哀想じゃない」
「盗品を持って帰るな」
「じゃあ、使ってない私室ならいいでしょ」
そう言って手をひらひら振る。
「とりあえず大きいものは、私室として用意されてる部屋に置くから迷惑かけないわ。どうせそこでは寝泊まりさせてもらえてないし。一部は隊長さんの部屋に置くことになるけど」
「迷惑だ。やめなさい」
「私の寝台の周りに置くだけよ。…もう、見て?」
○は立ち止まり、袋の中から玉器をひょいと取り出した。
「ほら、これとか×殿に差し上げようかしら。きっと気に入るわ?」
(……なぜ×殿を持ち出す)
ただの挑発か、それとも意図的か。
どちらにせよ厄介だ。
「○。軍の規律は私室の飾りにまで及ぶ。ましてや盗品など…」
「全部が全部盗品じゃないわ。相場より安く買い叩いたものもあるんだから」
「またお前はそうやって…」
「あーもう。分かった。分かったわよ。じゃあこうしましょう」
○は袋を持ち上げ、にっこり笑う。
「隊長さんが嫌がるものは持って帰らない。あなたの判断で取捨選択して?」
「何を勝手に……」
「隊長さんが嫌と言えばやめるってこと。ほら、責任者でしょ?」
“責任者”という言葉に趙雲は一瞬だけ黙った。
この女は奔放に見えて、どこまで受け入れられるのかを探しているようだ。
(……本当に扱いづらいな)
○が袋を地面に置き、趙雲が中を確認しようと身を屈めたその瞬間だった。
すっと隣に寄り、顔を趙雲のすぐ横に並べる。
頬が触れそうな距離。
呼吸がかすかに混ざるほどの近さ。
「ねぇ…何が入ってると思う?」
声は低く甘く、意図的に掠れている。
“誘惑”というより、相手の反応を試しているような楽しげな声。
趙雲は一切の反応を見せない。
顔を動かさず、ただ袋の中を冷静に見ている。
(普通なら、驚いて顔をそらすのに…)
○は面白くなり、さらに距離を詰めた。
瞬間、瞳が合う。
睫毛の動きまで見える。
相手の視線の揺れすら捉えられる近さ。
○は妖しく笑った。
「隊長さんって……近くで見ると、もっと綺麗ね」
息を引っ掛けるような言い方。
わざと視線を上目遣いに絡める。
しかし。
「……○。無用な接近は慎め」
微動だにせず、顔すら動かさず、冷静にそう返された。
「冷たいわねぇ、ほんとに」
「もう一度言う。距離を取れ」
○はふざけた声で囁いた。
「このまま口付けするわよ?」
普通なら、驚いて避けるかなにかしらの反応を示すはずだ。
だが趙雲は顔を動かさない。
ただ、視線だけが凍るように鋭くなった。
「冗談にも限度がある。次は本気で叱る」
その声は低く静かで、怒気を含まないのに一切の甘さがなかった。
○は一瞬だけ息を呑む。
その冷静さは、“色仕掛けが通じない”という域を越えている。
「…隊長さんのそういうところ、好きよ」
「そんな事は聞いていない」
「どうして?私の愛の告白なのに」
「聞く価値がない」
「あら、ひどい」
やり取りは軽いが、その裏で○は確信した。
(この人、本当に動じないのね)
一方、趙雲は静かに思った。
(……この女はなんなんだ。すぐにこちらの平衡を乱そうとする)
二人は袋を挟んで向き合う。
しかし心の距離はまるで違う。
そして山道を下り始めながら、趙雲は内心の警戒だけを強めていた。
アジトから戻った夜。
衝立の向こうで趙雲が着替える音を聞きながら、○は小さく笑った。
袋の中を覗き込む時、顔を真横まで寄せた。
息が触れる距離。
髪がかすめる距離。
普通の男なら必ず反応する。
緊張して頬が赤くなるか、視線を逸らすか、距離を取るか。
だけど。
(あの人、顔ひとつ動かさなかった)
睫毛の震えすらない。
呼吸も乱れない。
動かずにただ冷静に袋を覗き込むだけ。
(あそこまで無反応だと……逆に刺激的ね)
○は寝台に寝転んで、持ち帰った宝物を撫でる。
琥珀色の灯火が反射して揺れた。
これまでの人生、男を動かすための手段として何度も利用してきた色仕掛け。
騙すつもりだったり…利用するつもりだったり…急場をしのぐためだったり…
いずれも成功率は高かった。
自分の顔にも身体にも自信があるし、良く見せる方法も知っている。
(でも、趙雲には通じない…と)
まるで石壁。
誘惑という行為そのものが、まったく意味を成さない相手。
(……綺麗なものを見ると、欲しくなるのよね)
美しいもの。
価値のあるもの。
歴史を運んだもの。
でも欲しいのは、宝物だけではない。
“理解し難いほど綺麗な男”にも自然と目が向いてしまう。
(あの人……綺麗だったわ)
色気で揺さぶろうと近づいたのに、一切動じず、平然とした顔のまま叱りつけてきた。
静かで、近くで見れば見るほど整っている顔。
その整い方が、妙に印象に残る。
(男なんて手に入れても、どうしようもないけどね。世話も面倒だし)
小さくため息をついて目を閉じた。
その日の夜。
諸葛亮の書院には、趙雲が持ち帰った小さな木箱が置かれていた。
報告はこうだ。
「野外で不審な盗賊アジトを発見。潜入した○が、その中から“気になる一品”を回収した。」
“気になる一品”。
本来なら大量の盗品があるはずだが、提出されたのは たったひとつ。
だが、趙雲の言葉に偽りはない。
ならば、これが選び抜かれた価値を持つのだろう。
中にあったのは、人の掌に乗るほどの小さな青銅片だった。
趙雲の報告によると、これは水面下で三つの勢力が同盟を結んでいる根拠になるという。
そしてその根拠は、諸葛亮も納得できる所だった。
しかし諸葛亮が気になるのはそこだけではない。
盗賊のアジトなら、普通はもっと雑多な品があるはずだ。
なのに、中身はたった一つ。
軍事上の価値に直結する物だけ。
そしてこんな選別が、申し訳ないが趙雲にできるとは思えない。
とすれば。
(○殿ですね…厄介で得難い才を持っている。正しく使えば、私たちは"目"を百里広げられるでしょう)
しかし○はあまりにも胡散臭い。
諸葛亮は一つの疑問を深く飲み込む。
(なぜ趙雲殿は、これほど得体の知れぬ人物を登用したのか)
趙雲の誠実さと慎重さを考えれば、通常では考えられない判断だ。
しかし彼が判断したからこそ、彼女を信じられる。
「……理由を聞いてみる必要がありそうですね。」
灯りが揺れ、青銅片の影が壁に長く伸びた。