本編【序章~15話】
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朝靄の残る城門前。
偵察用の軽装に着替えた趙雲と○が、馬夫が馬を連れてくるのを待っていた。
「あぁ、眠い…」
「夜中までゴソゴソしているからだ」
小さく話していると。
「──趙雲様」
静かな呼び声。
振り返ると、×が書簡を抱えたまま立っていた。
昨日と変わらず控えめなその様子。
だがその瞳には、昨日の揺らぎの残滓がわずかに宿っている。
「今日の任務…親衛隊は、同行されないのですか?」
「必要ない。今回は偵察が目的だ」
「ですが──」
×の視線は自然と○に向かう。
○は軽く手を振った。
「おはよう、×殿」
×は笑わず、淡々と返す。
「偵察とはいえ、二人だけで行かれるのは危険です。特に──○殿はまだ登用されたばかり。急な判断を迫られたらどうされるのです?」
○が余計なことを言い返さない内に、趙雲は間に入るように言う。
「問題はない。むしろ今回の偵察は多人数で動く方が危険だ。彼女で十分に足りる」
「そうなのですか…?」
「ああ。むしろ道中の守りの事を考えても、人数が少ない方がいい。他の者を連れて行くよりも確実だ」
「……確実、ですか。」
×が一度俯き、そして顔を上げて言う。
「私は軍務を担う者としての立場から申し上げています。○殿を信頼しすぎではありませんか?まだここにきてから三、四日の方ですよ」
○は肩をすくめ、「信頼、ねえ」と呟いて趙雲を見た。
趙雲はその挑発に乗らず、静かに告げる。
「適材適所を言っているだけだ」
「…そう、ですか」
その声には、“納得”と“理解できない”が混ざった濁りがあった。
ちょうどその時。
遠くから馬夫が趙雲を呼ぶ声がする。
「……行こう」
ただそれだけ言って踵を返す趙雲に×は言葉を飲み込んだ。
何か言いたげな視線を○へ向け、しかし何も言わず城に戻っていった。
*****
日暮れ前。
山道の影は濃く、風が細かい砂を巻き上げる。
小高い山を越えると、敵の補給拠点の見張り台が見える地点に来た。
ここまでは先遣隊の情報通りだ。
「二人、見張りがいる。下へ降りて確認したいが…」
「待ってて」
○の姿は視界から消えた。
スッと物陰に隠れながら二人の見張りに近づく。
二人は何も気づかずに夜警の愚痴を言っている。
○は岩陰へ身を滑り込ませると、見張り台の裏から布袋に詰められた補給物資、兵糧の刻印、武具の装飾などを見分けていく。
(この量だと補給線はここが本線ね。人数も…五百はいるかな)
そしてふと何かに気付く。
(あれ…なにこれ。青銅器の形が違う。…ん?これ……)
○はいろんな角度からそれを見て、手に取った。
○が戻ると、趙雲は気配で気づいた。
「どうだった」
「補給路はひとつ。物資は大量。敵の人数は五百前後。陣地の裏側に抜け道があるから、たぶん──」
手早く情報を伝えた。
息一つ切らしていない。
「…見事だ」
「どうも」
「帰るぞ」
二人はまた山を降りて行った。
偵察の帰りがけに、趙雲は○に話しかける。
「あれだけの情報が手に入れば、補給路の切断は確実だ。よく働いた」
「×殿へ汚名返上できるわね」
その言葉に趙雲は○に振り向く。
「だって彼女、私と隊長さんが二人で偵察に行くことを随分渋ってたから」
「…×殿の判断は、彼女の誠実さ故だ」
「誠実さ、ねぇ」
○は意味ありげにそう言うと、ニヤリと趙雲を見る。
(私情にしか見えなかったけど。趙雲は理性の塊だからそこらへん気付いてるのかも分からないわね)
「あなた、自分が周りからどういう感情を持たれてるかとか、あんまり気にしないの?」
「必要がない。我が主である劉備殿に信頼されていればよい」
「あ、そ」
そう言って趙雲の少し前を進んだ○。
その後姿を見ていた趙雲はある事に気付く。
○の背中に、妙に膨らんだ袋が揺れていた。
「……何だ、その荷は」
「お土産」
さらりと言って袋を地面に置くと、中から鈍い光を放つ青銅器が顔を覗かせた。
「…青銅器?」
「そうっ!倉庫の隅で埃まみれになってたの。かわいそうに、ほとんど放置同然だったわ。見て?この文様。これは春秋時代の型に近いって証なの」
目を輝かせながら、汚れた青銅器を撫でるように持ち上げる○。
趙雲は完全に顔をひきつらせた。
「……まさか、盗ったのか」
「“盗った”だなんて聞こえが悪いわね。保護してあげたのよ。バレないようにしたわ」
「誇らしげに言うことではない!」
「なんでよ~価値の分かる人が持つべきだわ。むしろあなた、この価値が分からないの?」
趙雲はぐっとこめかみを押さえた。
(この女、やはり何かが欠落している)
「○。偵察任務中に勝手な行動を取った上、敵の財物を持ち出すなど言語道断だ。今すぐ返してこい」
「やぁよ」
「“やぁよ”ではない」
「だって、これ見てよ!これはお金に変えられない価値のある物なの。分からない?これが粉々になっちゃったら、どんなにお金を積んだって買えないのよ?あのまま放置されるなんて耐えられないわ。この子が泣いてたのよ?」
「物を“子”と言うな」
「可愛いじゃない」
「可愛くない。本来なら軍法会議ものだぞ」
「そもそも私の登用条件がそれに違反してるでしょ。何よ、今更」
それに関しては何も言い返せない趙雲。
○は薄汚れた青銅器を抱えたまま、くすりと笑う。
「返したくないわ。綺麗にしてあげたいの。あそこの保管庫、最悪の環境だったし」
「……お前は、芸術品の収集癖があるのか」
「癖じゃないわ。これは私の生涯目標なの。骨董の価値が分からない人間から~…移動させるのよ」
"盗む"を"移動"と言い換える○に趙雲は呆れる。
「どちらでもいい。軍務より個人的目標を優先するな。そして言い方を変えようがやっていることは盗みだ。やめなさい」
「それは難しいわね…そもそも、成都の宝物庫に忍び込んだ理由もそれだもの」
「…は、」
「私、金も宝石も好きだけど、芸術品はもっと好きなの。それを見に行くでしょ?そしたら欲しくなっちゃうの」
趙雲の眉間のシワがさらに深くなる。
「それにね、私が愛情をかけて磨くと本当に輝くのよ。隊長さんにも見せてあげる」
「私は芸術品を鑑賞する趣味はない」
「そうかしら…あなた、あると思うわよ」
「ない」
「目を見れば分かるの。あなた、目が綺麗よ。それは美しいものを見分けられる目だわ」
そう言って趙雲の目を物色するように眺める○の表情は、今までにない無邪気なもので、趙雲は自分が骨董品側になったような気分になる。
彼女がどれだけ叱っても響かない人間であることは、この数日で痛感している趙雲。
だが今回で、別の種類の問題が胸に残った。
(……芸術品か。宝物庫に忍び込んだ理由……それが、ただの盗賊の貪欲さではなく、独自の価値観に基づいた行動だとすれば…より理解しにくい存在だ)
そんな物の為に命を懸けるなんて、趙雲には理解できない。
主の為、民の為ではなく、物の為。
「……戯言を言うな。とにかくまずは、それを返「あ、そうだ。じゃあこれはどう?」
まるで叱責をかわすかのように、軽い仕草で袋の奥へ無造作に手を突っ込む。
そして取り出したのは、さきほどとは違う青銅の小片。
「こっちも落ちてたのよ。汚れてたけど、文様が面白くて」
「…まだあるのか。お前は敵地で何をしていた」
「いいから、いいから。面白いものだって言ったでしょ?よぉく見て…」
その言葉は軽いが──
取り出された青銅片そのものは、“面白い”どころの話ではなかった。
二ッと口角をあげた○。
趙雲の視線が鋭く細まる。
青銅片には、二つの勢力の紋章が連なって刻まれていた。
ひとつは敵軍のもの。
もうひとつは、最近、諸葛亮が「動向に注意せよ」と警戒していた別勢力の紋章。
通常この二つが並ぶことはあり得ないはずだ。
しかし、並んでいる。
「……これは……」
「ねぇ、隊長さん。これ、多分だけど…二つの勢力が水面下で同盟を結んでいる証拠じゃない?おかしいわよね、この二つの紋章が並ぶなんて」
あっけらかんと、まるで天気の話でもするように言う。
「おそらく物資のやり取りか、密約の際に使った封器の欠片ね。この文様の配置…昔、見たことがあるのよ」
「○」
趙雲の声の色が変わった。
ゆっくり、しかし鋭い刃のように。
「この情報は…勢力図を一つ塗り替える決定的証拠になるかもしれない」
「"かも"じゃないから持ってきたの。価値あるものは全部持ってこないと損でしょ?」
「価値の問題ではない」
「情報としての価値よ」
「…」
「私があなたの部下でなくこれを拾ったなら、どこかに売りつけたでしょうね。これを高く買ってくれるところは~…」
○は空を見上げながらそこまで口にしたが、趙雲を見てそれ以上は言わなかった。
考えても売りに行けないなら無駄な事だ。
「ま、これはあなたに預けるわ。ちなみにね、こういうの集めてるとふと気づくの。“あ、これ、前のあれと関連してるな”って」
「収集癖がそこまでに及ぶのか」
「癖じゃないってば。生涯目標」
「……」
青銅片を手にしたまま、趙雲は深く息を吸った。
「ねぇ隊長さん。これ、諸葛亮殿に持っていったら喜ぶかしら」
「……喜ぶどころか、軍中が騒然とする。諸葛亮殿がずっと気にされていた線だ」
「あら、そんなに?よかったわねぇ」
重要なものだと理解して持ってきた癖に、あっけらかんとして気にしない風にする。
これの重要性が分かっていたくせに、何も知らないふりをする。
(扱いにくい者を使っているのだろうな、私は)
趙雲はただ黙って帰路についた。
城に着く頃には、もう夜になっていた。
軍議室には地図が広げられ、諸葛亮・劉備・関羽ら幹部が集まっていた。
偵察から戻った趙雲と○が姿を見せると、皆がそちらを見る。
「趙雲殿。○殿。ご苦労でした。まずは偵察結果を伺いましょう」
趙雲は簡潔に報告し、補給線の位置、敵勢の規模、地形の弱点を示す。
そして最後に、趙雲が隣の○へ視線を向けた。
「さらに、彼女が“気になる物”を見つけました」
「気になる物ですか?」
○は軽い調子で青銅器の欠片を差し出す。
劉備達はただそれを眺めるだけだったが、諸葛亮は少し反応が違った。
目を細め、青銅片を慎重に手に取る。
「……驚きました。この文様は、二つの勢力の紋を併記しているのですね」
「そんなものが存在するとは…密約の証左なのでは?」
関羽が尋ねると、諸葛亮は頷いた。
「はい。我が軍が注視していた“隣接勢力”が、敵軍と同盟の準備をしている可能性が高い。この刻印は、その裏付けとなります。ただ、その同盟が今も有効なのかどうかまでは判断が出来ませんね。一体いつの物なのか…」
「あら、分かりますよ?」
軍議室の空気が揺らぐ。
「この青銅器、ここ1年くらいで出回り始めた新しい物なの。この青銅器の彫刻、今、売り出し中の職人の作品だわ。骨董品屋で鑑定してもらえればすぐに分かるはずです。新しい物を骨董品として買い取るわけにはいきませんもの」
そう言って紋章の周りの彫刻を撫でる。
諸葛亮はまだ何か引っかかるようだ。
○は"話の通じる人間が現れた"と言わんばかりに諸葛亮に前のめりになった。
「いいですか、こっちの紋章は青銅器の彫られた時に一緒に彫られているんですよ。ところが、もう片方の紋章は後で彫り直してあって、しかもまだ新しいんです」
「刻印の年代差まで分かるのですか?」
「勿論ですわ。文様の掘り方と、線の深さと、摩耗の方向が左右で違っていて…ほら、この角度で見て。不自然にここだけ段が低いでしょう?」
趙雲は自分も聞いていなかった○からの説明に、思わずその横顔を見る。
やたらと饒舌な○は、諸葛亮に物怖じせずに見解を伝える。
その話を興味深そうに聞く諸葛亮。
○は楽し気に説明するが、他の者はついてこられない。
ほどなくして、両国での同盟はここ最近交わされたものだという結末に至る。
「…○殿。あなたは極めて優れた審美眼と、構造を見抜く洞察力をお持ちだ。」
「光栄ですわ」
劉備も頷く。
「趙雲、良い兵を登用したな」
「……過分なお言葉です。彼女の力が、ここまでとは」
「これは非常に大きな情報です。すぐに勢力図を書き換えましょう。これで敵の背後が読める。今夜、方針を修正します。今すぐにではありませんが、機を見て、あなたには偵察に出て頂くことになるかもしれません」
○は小さく頭を下げて微笑んだ。
報告が終わり、趙雲は自室で今日の報告を書いている。
油灯の揺れる薄明かりの中、机に向かう。
衝立の向こうでは○が鼻歌を歌っている。
結局持って帰ってきてしまったあの青銅器を磨いているらしい。
趙雲は衝立の方になんとなく目をやる。
刻印の年代差。
摩耗の方向。
文様の構成。
それらを即座に判断し、“本来並び得ない紋章の組み合わせ”だと気づいて持ち帰った。
(……あれほどの審美眼。骨董品の話になった途端にあの情報量…なんなんだ、お前は)
金・宝石・芸術品──
それらを好むこと自体は理解できる。
しかし ○は、敵地であろうと任務の最中であろうと軍法に反しようと、自身にとって価値ある物を見つければ優先順位が即座に変わるらしい。
現にいつでもここから逃げられるのに、あの小刀一本でここにいる。
放置すれば軍規を乱す。
だが上手く使えば、誰にも真似できぬ働きをする。
そしてその情報をこちらに渡すかは彼女の裁量で決まる。
剣にも毒にもなる。
それが“○”という女だった。
そこまで考えて、趙雲はひとつ息を吐く。
自分自身が、この数日で何度も○の行動に反応していることに気づいていた。
ただただ、理解できないものへの警戒だ。
(理解できない…苦手な人種だ)
○はまさにその典型だ。
趙雲の衝立の反対側で、○は鼻歌交じりに青銅器を磨く。
衝立越しに物音を立てない趙雲に、彼がなにやら考え込んでいることは見て取れる。
今回の発見は偶然だった。
でもこれで空気が変わった。
軍の偉い人たちの目が、ほんの少しだけ私を見る角度を変えた。
評価が上がると、扱いが変わる。
扱いが変わると、自由度が増す。
ただあまりやりすぎると、趙雲の警戒度が上がる。
(あの人は私が調子に乗ると釘をさしてくるもの)
まさにそう思った時、衝立越しに趙雲が話しかけてきた。
「○」
「なぁに、隊長さん」
「あの欠片の紋章…お前、意図的に私への報告の量を減らし、あの場で持っていた情報を付け加えたな」
○は指を止め、わざとらしく首を傾げた。
「余計?大事な事だと思ったから話しただけよ。隊長さんに話した時にはそこまで聞かれなかったから言い忘れただけ」
「今は、あまり目立つことはするな。ああいった情報は一度、私を通すようにしなさい。機を見て小出しにする」
「ふうん?」
○は磨いている青銅器をいろんな角度で見ながら、衝立の向こうの気配を伺う。
衝立の向こうで、趙雲は一瞬だけ言葉を選んだ。
「私は、お前を守るために釘を刺しているのではない。急に評価が上がった者は利用され、疑われ、監視されることが問題だ」
○は、ふっと息を吐いた。
「勝手に期待して成果を上げなければ落胆されるって?別に私はそんな事どうでも良いけど。その時はすんなり手放してくれそうだし」
「働くほどに、粗が出てくることを危惧している」
「あー。なんか色々めんどくさい…だから嫌なのよね」
「…。とにかく、いいか、○。今後、任務以外で価値を誇示する行為は控えろ」
「はーい」
反省よりも、楽しげな響きが混じった声で応える。
「返事が軽い」
「もう、いちいち堅いんだから。寝るわ、隊長さんがうるさいから」
「○。まだ話は終わっていない」
「おやすみ」
そう言って布団をかぶった○に、趙雲がため息をつくのが聞こえた。
偵察用の軽装に着替えた趙雲と○が、馬夫が馬を連れてくるのを待っていた。
「あぁ、眠い…」
「夜中までゴソゴソしているからだ」
小さく話していると。
「──趙雲様」
静かな呼び声。
振り返ると、×が書簡を抱えたまま立っていた。
昨日と変わらず控えめなその様子。
だがその瞳には、昨日の揺らぎの残滓がわずかに宿っている。
「今日の任務…親衛隊は、同行されないのですか?」
「必要ない。今回は偵察が目的だ」
「ですが──」
×の視線は自然と○に向かう。
○は軽く手を振った。
「おはよう、×殿」
×は笑わず、淡々と返す。
「偵察とはいえ、二人だけで行かれるのは危険です。特に──○殿はまだ登用されたばかり。急な判断を迫られたらどうされるのです?」
○が余計なことを言い返さない内に、趙雲は間に入るように言う。
「問題はない。むしろ今回の偵察は多人数で動く方が危険だ。彼女で十分に足りる」
「そうなのですか…?」
「ああ。むしろ道中の守りの事を考えても、人数が少ない方がいい。他の者を連れて行くよりも確実だ」
「……確実、ですか。」
×が一度俯き、そして顔を上げて言う。
「私は軍務を担う者としての立場から申し上げています。○殿を信頼しすぎではありませんか?まだここにきてから三、四日の方ですよ」
○は肩をすくめ、「信頼、ねえ」と呟いて趙雲を見た。
趙雲はその挑発に乗らず、静かに告げる。
「適材適所を言っているだけだ」
「…そう、ですか」
その声には、“納得”と“理解できない”が混ざった濁りがあった。
ちょうどその時。
遠くから馬夫が趙雲を呼ぶ声がする。
「……行こう」
ただそれだけ言って踵を返す趙雲に×は言葉を飲み込んだ。
何か言いたげな視線を○へ向け、しかし何も言わず城に戻っていった。
*****
日暮れ前。
山道の影は濃く、風が細かい砂を巻き上げる。
小高い山を越えると、敵の補給拠点の見張り台が見える地点に来た。
ここまでは先遣隊の情報通りだ。
「二人、見張りがいる。下へ降りて確認したいが…」
「待ってて」
○の姿は視界から消えた。
スッと物陰に隠れながら二人の見張りに近づく。
二人は何も気づかずに夜警の愚痴を言っている。
○は岩陰へ身を滑り込ませると、見張り台の裏から布袋に詰められた補給物資、兵糧の刻印、武具の装飾などを見分けていく。
(この量だと補給線はここが本線ね。人数も…五百はいるかな)
そしてふと何かに気付く。
(あれ…なにこれ。青銅器の形が違う。…ん?これ……)
○はいろんな角度からそれを見て、手に取った。
○が戻ると、趙雲は気配で気づいた。
「どうだった」
「補給路はひとつ。物資は大量。敵の人数は五百前後。陣地の裏側に抜け道があるから、たぶん──」
手早く情報を伝えた。
息一つ切らしていない。
「…見事だ」
「どうも」
「帰るぞ」
二人はまた山を降りて行った。
偵察の帰りがけに、趙雲は○に話しかける。
「あれだけの情報が手に入れば、補給路の切断は確実だ。よく働いた」
「×殿へ汚名返上できるわね」
その言葉に趙雲は○に振り向く。
「だって彼女、私と隊長さんが二人で偵察に行くことを随分渋ってたから」
「…×殿の判断は、彼女の誠実さ故だ」
「誠実さ、ねぇ」
○は意味ありげにそう言うと、ニヤリと趙雲を見る。
(私情にしか見えなかったけど。趙雲は理性の塊だからそこらへん気付いてるのかも分からないわね)
「あなた、自分が周りからどういう感情を持たれてるかとか、あんまり気にしないの?」
「必要がない。我が主である劉備殿に信頼されていればよい」
「あ、そ」
そう言って趙雲の少し前を進んだ○。
その後姿を見ていた趙雲はある事に気付く。
○の背中に、妙に膨らんだ袋が揺れていた。
「……何だ、その荷は」
「お土産」
さらりと言って袋を地面に置くと、中から鈍い光を放つ青銅器が顔を覗かせた。
「…青銅器?」
「そうっ!倉庫の隅で埃まみれになってたの。かわいそうに、ほとんど放置同然だったわ。見て?この文様。これは春秋時代の型に近いって証なの」
目を輝かせながら、汚れた青銅器を撫でるように持ち上げる○。
趙雲は完全に顔をひきつらせた。
「……まさか、盗ったのか」
「“盗った”だなんて聞こえが悪いわね。保護してあげたのよ。バレないようにしたわ」
「誇らしげに言うことではない!」
「なんでよ~価値の分かる人が持つべきだわ。むしろあなた、この価値が分からないの?」
趙雲はぐっとこめかみを押さえた。
(この女、やはり何かが欠落している)
「○。偵察任務中に勝手な行動を取った上、敵の財物を持ち出すなど言語道断だ。今すぐ返してこい」
「やぁよ」
「“やぁよ”ではない」
「だって、これ見てよ!これはお金に変えられない価値のある物なの。分からない?これが粉々になっちゃったら、どんなにお金を積んだって買えないのよ?あのまま放置されるなんて耐えられないわ。この子が泣いてたのよ?」
「物を“子”と言うな」
「可愛いじゃない」
「可愛くない。本来なら軍法会議ものだぞ」
「そもそも私の登用条件がそれに違反してるでしょ。何よ、今更」
それに関しては何も言い返せない趙雲。
○は薄汚れた青銅器を抱えたまま、くすりと笑う。
「返したくないわ。綺麗にしてあげたいの。あそこの保管庫、最悪の環境だったし」
「……お前は、芸術品の収集癖があるのか」
「癖じゃないわ。これは私の生涯目標なの。骨董の価値が分からない人間から~…移動させるのよ」
"盗む"を"移動"と言い換える○に趙雲は呆れる。
「どちらでもいい。軍務より個人的目標を優先するな。そして言い方を変えようがやっていることは盗みだ。やめなさい」
「それは難しいわね…そもそも、成都の宝物庫に忍び込んだ理由もそれだもの」
「…は、」
「私、金も宝石も好きだけど、芸術品はもっと好きなの。それを見に行くでしょ?そしたら欲しくなっちゃうの」
趙雲の眉間のシワがさらに深くなる。
「それにね、私が愛情をかけて磨くと本当に輝くのよ。隊長さんにも見せてあげる」
「私は芸術品を鑑賞する趣味はない」
「そうかしら…あなた、あると思うわよ」
「ない」
「目を見れば分かるの。あなた、目が綺麗よ。それは美しいものを見分けられる目だわ」
そう言って趙雲の目を物色するように眺める○の表情は、今までにない無邪気なもので、趙雲は自分が骨董品側になったような気分になる。
彼女がどれだけ叱っても響かない人間であることは、この数日で痛感している趙雲。
だが今回で、別の種類の問題が胸に残った。
(……芸術品か。宝物庫に忍び込んだ理由……それが、ただの盗賊の貪欲さではなく、独自の価値観に基づいた行動だとすれば…より理解しにくい存在だ)
そんな物の為に命を懸けるなんて、趙雲には理解できない。
主の為、民の為ではなく、物の為。
「……戯言を言うな。とにかくまずは、それを返「あ、そうだ。じゃあこれはどう?」
まるで叱責をかわすかのように、軽い仕草で袋の奥へ無造作に手を突っ込む。
そして取り出したのは、さきほどとは違う青銅の小片。
「こっちも落ちてたのよ。汚れてたけど、文様が面白くて」
「…まだあるのか。お前は敵地で何をしていた」
「いいから、いいから。面白いものだって言ったでしょ?よぉく見て…」
その言葉は軽いが──
取り出された青銅片そのものは、“面白い”どころの話ではなかった。
二ッと口角をあげた○。
趙雲の視線が鋭く細まる。
青銅片には、二つの勢力の紋章が連なって刻まれていた。
ひとつは敵軍のもの。
もうひとつは、最近、諸葛亮が「動向に注意せよ」と警戒していた別勢力の紋章。
通常この二つが並ぶことはあり得ないはずだ。
しかし、並んでいる。
「……これは……」
「ねぇ、隊長さん。これ、多分だけど…二つの勢力が水面下で同盟を結んでいる証拠じゃない?おかしいわよね、この二つの紋章が並ぶなんて」
あっけらかんと、まるで天気の話でもするように言う。
「おそらく物資のやり取りか、密約の際に使った封器の欠片ね。この文様の配置…昔、見たことがあるのよ」
「○」
趙雲の声の色が変わった。
ゆっくり、しかし鋭い刃のように。
「この情報は…勢力図を一つ塗り替える決定的証拠になるかもしれない」
「"かも"じゃないから持ってきたの。価値あるものは全部持ってこないと損でしょ?」
「価値の問題ではない」
「情報としての価値よ」
「…」
「私があなたの部下でなくこれを拾ったなら、どこかに売りつけたでしょうね。これを高く買ってくれるところは~…」
○は空を見上げながらそこまで口にしたが、趙雲を見てそれ以上は言わなかった。
考えても売りに行けないなら無駄な事だ。
「ま、これはあなたに預けるわ。ちなみにね、こういうの集めてるとふと気づくの。“あ、これ、前のあれと関連してるな”って」
「収集癖がそこまでに及ぶのか」
「癖じゃないってば。生涯目標」
「……」
青銅片を手にしたまま、趙雲は深く息を吸った。
「ねぇ隊長さん。これ、諸葛亮殿に持っていったら喜ぶかしら」
「……喜ぶどころか、軍中が騒然とする。諸葛亮殿がずっと気にされていた線だ」
「あら、そんなに?よかったわねぇ」
重要なものだと理解して持ってきた癖に、あっけらかんとして気にしない風にする。
これの重要性が分かっていたくせに、何も知らないふりをする。
(扱いにくい者を使っているのだろうな、私は)
趙雲はただ黙って帰路についた。
城に着く頃には、もう夜になっていた。
軍議室には地図が広げられ、諸葛亮・劉備・関羽ら幹部が集まっていた。
偵察から戻った趙雲と○が姿を見せると、皆がそちらを見る。
「趙雲殿。○殿。ご苦労でした。まずは偵察結果を伺いましょう」
趙雲は簡潔に報告し、補給線の位置、敵勢の規模、地形の弱点を示す。
そして最後に、趙雲が隣の○へ視線を向けた。
「さらに、彼女が“気になる物”を見つけました」
「気になる物ですか?」
○は軽い調子で青銅器の欠片を差し出す。
劉備達はただそれを眺めるだけだったが、諸葛亮は少し反応が違った。
目を細め、青銅片を慎重に手に取る。
「……驚きました。この文様は、二つの勢力の紋を併記しているのですね」
「そんなものが存在するとは…密約の証左なのでは?」
関羽が尋ねると、諸葛亮は頷いた。
「はい。我が軍が注視していた“隣接勢力”が、敵軍と同盟の準備をしている可能性が高い。この刻印は、その裏付けとなります。ただ、その同盟が今も有効なのかどうかまでは判断が出来ませんね。一体いつの物なのか…」
「あら、分かりますよ?」
軍議室の空気が揺らぐ。
「この青銅器、ここ1年くらいで出回り始めた新しい物なの。この青銅器の彫刻、今、売り出し中の職人の作品だわ。骨董品屋で鑑定してもらえればすぐに分かるはずです。新しい物を骨董品として買い取るわけにはいきませんもの」
そう言って紋章の周りの彫刻を撫でる。
諸葛亮はまだ何か引っかかるようだ。
○は"話の通じる人間が現れた"と言わんばかりに諸葛亮に前のめりになった。
「いいですか、こっちの紋章は青銅器の彫られた時に一緒に彫られているんですよ。ところが、もう片方の紋章は後で彫り直してあって、しかもまだ新しいんです」
「刻印の年代差まで分かるのですか?」
「勿論ですわ。文様の掘り方と、線の深さと、摩耗の方向が左右で違っていて…ほら、この角度で見て。不自然にここだけ段が低いでしょう?」
趙雲は自分も聞いていなかった○からの説明に、思わずその横顔を見る。
やたらと饒舌な○は、諸葛亮に物怖じせずに見解を伝える。
その話を興味深そうに聞く諸葛亮。
○は楽し気に説明するが、他の者はついてこられない。
ほどなくして、両国での同盟はここ最近交わされたものだという結末に至る。
「…○殿。あなたは極めて優れた審美眼と、構造を見抜く洞察力をお持ちだ。」
「光栄ですわ」
劉備も頷く。
「趙雲、良い兵を登用したな」
「……過分なお言葉です。彼女の力が、ここまでとは」
「これは非常に大きな情報です。すぐに勢力図を書き換えましょう。これで敵の背後が読める。今夜、方針を修正します。今すぐにではありませんが、機を見て、あなたには偵察に出て頂くことになるかもしれません」
○は小さく頭を下げて微笑んだ。
報告が終わり、趙雲は自室で今日の報告を書いている。
油灯の揺れる薄明かりの中、机に向かう。
衝立の向こうでは○が鼻歌を歌っている。
結局持って帰ってきてしまったあの青銅器を磨いているらしい。
趙雲は衝立の方になんとなく目をやる。
刻印の年代差。
摩耗の方向。
文様の構成。
それらを即座に判断し、“本来並び得ない紋章の組み合わせ”だと気づいて持ち帰った。
(……あれほどの審美眼。骨董品の話になった途端にあの情報量…なんなんだ、お前は)
金・宝石・芸術品──
それらを好むこと自体は理解できる。
しかし ○は、敵地であろうと任務の最中であろうと軍法に反しようと、自身にとって価値ある物を見つければ優先順位が即座に変わるらしい。
現にいつでもここから逃げられるのに、あの小刀一本でここにいる。
放置すれば軍規を乱す。
だが上手く使えば、誰にも真似できぬ働きをする。
そしてその情報をこちらに渡すかは彼女の裁量で決まる。
剣にも毒にもなる。
それが“○”という女だった。
そこまで考えて、趙雲はひとつ息を吐く。
自分自身が、この数日で何度も○の行動に反応していることに気づいていた。
ただただ、理解できないものへの警戒だ。
(理解できない…苦手な人種だ)
○はまさにその典型だ。
趙雲の衝立の反対側で、○は鼻歌交じりに青銅器を磨く。
衝立越しに物音を立てない趙雲に、彼がなにやら考え込んでいることは見て取れる。
今回の発見は偶然だった。
でもこれで空気が変わった。
軍の偉い人たちの目が、ほんの少しだけ私を見る角度を変えた。
評価が上がると、扱いが変わる。
扱いが変わると、自由度が増す。
ただあまりやりすぎると、趙雲の警戒度が上がる。
(あの人は私が調子に乗ると釘をさしてくるもの)
まさにそう思った時、衝立越しに趙雲が話しかけてきた。
「○」
「なぁに、隊長さん」
「あの欠片の紋章…お前、意図的に私への報告の量を減らし、あの場で持っていた情報を付け加えたな」
○は指を止め、わざとらしく首を傾げた。
「余計?大事な事だと思ったから話しただけよ。隊長さんに話した時にはそこまで聞かれなかったから言い忘れただけ」
「今は、あまり目立つことはするな。ああいった情報は一度、私を通すようにしなさい。機を見て小出しにする」
「ふうん?」
○は磨いている青銅器をいろんな角度で見ながら、衝立の向こうの気配を伺う。
衝立の向こうで、趙雲は一瞬だけ言葉を選んだ。
「私は、お前を守るために釘を刺しているのではない。急に評価が上がった者は利用され、疑われ、監視されることが問題だ」
○は、ふっと息を吐いた。
「勝手に期待して成果を上げなければ落胆されるって?別に私はそんな事どうでも良いけど。その時はすんなり手放してくれそうだし」
「働くほどに、粗が出てくることを危惧している」
「あー。なんか色々めんどくさい…だから嫌なのよね」
「…。とにかく、いいか、○。今後、任務以外で価値を誇示する行為は控えろ」
「はーい」
反省よりも、楽しげな響きが混じった声で応える。
「返事が軽い」
「もう、いちいち堅いんだから。寝るわ、隊長さんがうるさいから」
「○。まだ話は終わっていない」
「おやすみ」
そう言って布団をかぶった○に、趙雲がため息をつくのが聞こえた。