本編【序章~15話】
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翌朝。
部屋に薄明かりが差し込む頃。
趙雲は起き上がると身支度を整えながら、○の寝床のある衝立へ声をかけた。
「起きているか」
返事はない。
まだ寝ているのかとも思ったが…衝立がゆっくりと揺れ、○が顔を出した。
眠たげではない。
その動作は妙に優雅で、むしろ起きて待っていたといった様子だった。
「おはよう、隊長さん」
昨日の挑発めいた空気とは違う、妙にあっさりした声だ。
寝台から降りると、水瓶に布を浸して顔をふく。
趙雲が起きるまで待っていたらしい。
「今日はずいぶん機嫌がいいようだな」
趙雲が淡々と答えると、○は顔を拭きながら微笑んだ。
「機嫌?さぁ…どうかしら。それより、昨日はごめんなさいね。あなたの邪魔をしたくてやったわけじゃないの」
趙雲はまばたき一つせずに答える。
「そうか。ならば今後は慎め。行動を正すことを期待する」
「……面白くないわねえ」
趙雲を見上げて、○は口をとがらせる。
「怒るとか、無視するとか、何かないわけ?」
「昨日の件は、この部屋での行動で公務外だ。任務に支障が出ていない以上、私が怒る要素はない。ただの会話だ」
○は少しだけ黙り、屈託のない明るい笑みを浮かべた。
「ま、いいわ。しばらくは真面目にやる。あなたがどういう人なのか、少し分かったもの」
「私を分析する必要はない」
「あるわよ。これからしばらくお世話になるんだし」
○は軽やかにくるりと背を向けた。
昨日までの挑発的な色気はなく、かといって掴みどころはない。
朝の光が差し込み、○の輪郭を浮かび上がらせる。
「さ、今日は何をするの?」
「今日からは鍛錬に出てもらう。いくらなんでも調錬を怠ると、お前の腕も鈍るだろう」
「やった。身体を動かすのは好きよ?」
午前は、兵士たちの鍛錬が最も活気づく時間帯だ。
趙雲は○を連れて鍛錬場へ来た。
(集団の中での動きを見ておくのも悪くない)
そう思い、親衛隊を集める。
「○の投擲の腕は確かだ。お前たちと混ざって鍛錬させる。ここの道具の使い方などを教えてやってくれ。実力の程も確かめたい」
「よろしくね、みんな」
兵士たちは緊張しながらもうなずいた。
兵士たちが木製の的を並べる。
○は手首を回し、軽い調子で言う。
「これ、何すればいいの?」
「そ、その…あの的を狙ってください」
言われて軽く投げた短刀はほとんど音もなく、ど真ん中に刺さった。
親衛隊だけではなく、他の兵士たちもどよめく。
「投擲までが速いな」
「狙ったのか?」
○は肩をすくめるだけ。
「次は?」
そこから先は簡単だった。
的の上、縁、揺らしてもらった布の中心、距離を伸ばしての狙撃。
全ての試練で正確に射貫いた。
やがて兵士たちが集まって来る。
最初は距離を取っていたが、気づけば誰もが近くに来て質問し始める。
その内、1人の若い兵士が前に出た。
「あ、あの…!その、投げ方を…少し教えていただけませんか……?」
○は振り返り、にっこりと微笑む。
「いいわよ。ちょっと失礼」
そして迷いなく兵士の背後へ回り込み、肩・腕・腰に手を添えて投擲の投げ方を手取り足取り矯正した。
身体を密着させるような、抱きしめるような形。
しかしあくまで“投擲の姿勢指導”という範囲。
兵士は顔を真っ赤にして硬直する。
「ち、近くないですか?」
「何言ってるの?身体の使い方は、実際に触った方が早いでしょ」
○は兵士の手首を取って角度を直し、背に軽く手を当てて体重移動を教える。
「ほら、腰の向きが違うわ。ここに力を入れて…私の腕に沿って曲げて投げてみて?……ほら、上手に出来た」
兵士は真っ赤になりながら離れた。
近くで見ていた他の兵がざわつく。
「お、おい…何してんだ、アレ…」
「いや、投擲の指導……らしい」
「俺も教えてもらおうかな…」
気づけば、○の周囲には人だかりができていた。
○はまるで講師のように、明るく、軽く、全員を相手にしていた。
(…集まりすぎだな)
趙雲は鍛錬場の端からその様子を見ながら、腕組みをした。
(これは放置できん)
見ている感じ、○に悪意はなさそうだ。
ただ、男と距離を詰めることに抵抗がなく、相手の反応を楽しんでしまう所が問題だ。
兵士を無用に興奮させ、秩序を乱している。
趙雲は静かに歩み寄った。
「○」
兵士たちが振り返り、一斉に姿勢を正す。
「お前を中心に人だかりができている。状況を把握しろ」
○は一瞬だけ黙り、周囲の兵士たちの熱に満ちた視線を見渡す。
「その様に、手取り足取り教える必要はない」
兵士たちは気まずそうに俯く。
「こういう教え方の方が上達が早いわ。…特に若い子は。ねえ?」
「触るな。今後も、指導を望まれても触らずに教える努力をしろ」
鍛錬場全体が、その瞬間ぴたりと静まる。
趙雲は親衛隊以外の兵士を散らせた。
「投擲の腕は分かった。基本武器の素養も見ておく。親衛隊の片手剣訓練に参加しろ」
「いいわよ」
何でもできる、とでも言いたげな表情の○に、軍の片手剣の模擬刀を渡した。
○の相手を務めるのは、親衛隊の中で最も動きの速い青年兵だった。
青年兵が踏み込み斬りかかる。
正確で、迷いのない良い動きだったが。
その剣は空を切った。
○の姿がない。
○は兵士の視界から消え、背後に立っていた。
「はい、一撃」
兵士の背中に、木剣で軽くコン、と触れる。
青年兵は動揺しつつも気を取り直す。
「も、もう一度!」
斬り下ろすが、○は横へ滑るように消える。
動きに力みがない。
音もなく重心移動が異様に軽い。
兵士として習うものではない。
(…まずいな)
趙雲はすぐに察する。
これは見せてはいけない動きだ。
○自身は無意識なのか、この動きしか知らないのか。
今は単純に身体を動かすことを楽しんでいるように見えた。
青年兵は息を呑んで後退する。
親衛隊もざわついた。
趙雲は一歩前へ出ると声をかける。
「──○。訓練は中断だ」
「え?」
兵たちが驚く中、趙雲は明確に言葉を続けた。
「その動きは兵の調練に適さない。模範にはならず、混乱を招く」
本音を言えば…あれ以上見せれば、彼女が何者か悟られる危険があると思った。
○は肩をすくめて言う。
「分かったわ。じゃあ今日はここまでにしましょうか」
「お、お手合わせ…ありがとう、ございました…」
○は青年兵に優雅に手を振った。
*****
午後に再び鍛錬場を訪れると言った趙雲。
数日前から任務で城にいなかった馬超と張飛が、今日の午後からは鍛錬場にいるから挨拶に行くという。
張飛たち二人は武器の点検をしていた。
挨拶の為に○と趙雲が近づくと、馬超が振り返り、にこやかに声を上げる。
「お、これが噂の副官殿か!美人だとは聞いていたが……想像以上だな!」
張飛も腕を組んで頷く。
「お前が連れてきたにしちゃ派手な女だな!」
○はチラリと胸元を見た馬超に目を付けた。
わざと胸の谷間を強調して、それを見せる様な仕草で馬超へ歩み寄る。
「まぁ、褒めてもらえて嬉しいわ。でも──私、それだけじゃありませんのよ?」
そう言ってふざけ半分に誘惑するように微笑む。
張飛が豪快に笑う。
馬超も楽しげだ。
この感覚が趙雲には理解できない。
「そうだ!趙雲が直々に連れてきたんだ、腕も確かなんだろ?ちょっと見せてくれないか?」
馬超が期待するような目で言う。
「私はいいんだけど──」
と、趙雲を見る○。
趙雲が少し前に出る。
「──断る」
馬超と張飛が同時に言葉を止めるが、趙雲は淡々と続けた。
「○は任務のために登用した。見世物ではない」
「見世物とは…ただの手合わせではないか」
馬超は少し驚き、張飛は目を丸くする。
「相変わらず堅いなぁ、お前は」
拗ねたようにそう言う馬超に、○は楽しげに言う。
「落ち着いたら手合わせお願いしますわ」
「そうだな!いつか機会があれば頼む!」
するとふと、馬超が唐突に。
「しかし趙雲。こんな美人を引っ張ってきたら…×殿が気にしないか?」
張飛が「おお、それは言えてる」と豪快に笑って趙雲を見た。
○はおもしろそうに趙雲へ視線を向ける。
しかし返って来たのはいつもの冷静な声。
「気にするというのは何のことです?」
心底意味が分からない、と言った顔の趙雲に、張飛も不思議そうだ。
「なに?×殿って」
ツツツ、と馬超の傍によって○が聞く。
「いやな、趙雲と噂になっている女官なんだ。あの堅物の趙雲が噂になるくらいなんだぞ」
張飛が横から乱暴に趙雲の肩を叩く。
「そうだぜ!軍中じゃ“お似合いの二人”って噂になってるくらいだ!」
しかし趙雲は表情ひとつ動かさない。
「噂に興味はありません。×楼殿は優秀な文官で、軍務をよく支えてくれる人です」
その淡々とした返答に、馬超も張飛も「まあ、お前らしいな」と笑って引き下がる。
一方○はその横顔を見て、(へぇ…いい事聞いちゃった)と小さく笑った。
鍛錬場を出て本館に戻る途中。
角を曲がったところで静かな足音とともに×が現れた。
素朴で控えめな雰囲気だが、芯のありそうな雰囲気の女性だ。
×は小さくお辞儀をして書簡を渡す。
「趙雲様。先ほどの会議資料をお持ちしたのですが、執務室にいらっしゃらず探しておりました」
「×殿、助かります。いつもあなたには助けられてばかりだ」
普段より、他の女官に対するより、僅かに穏やかな声になった趙雲。
○はそれを聞き逃さなかった。
(……なるほど。こういう優しさを向ける相手なのね。噂になるわけだわ)
趙雲が×と会話をしている間、○は考える。
(いきなり同室に私を泊めるものだから、恋人はいないと思っていたけど…想い人がいる可能性はあるわね)
しばらく考えていると、×がふとこちらを見ている事に気づいた。
「副官殿…その装いですが…鍛錬をするにしては、少々華美ではありませんか?」
「あら、そうかしら?私って飛んだり跳ねたりするからこういう装束でないと駄目なの。それに似合ってるでしょ?」
○はにっこり笑って、身体の曲線が分かるような恰好をしてみせる。
「軍の規則に、"似合っているかどうか"は不要です」
「でも…隊長さんは何も言わなかったし、言われたことも無いわ。そんな規則自体はじめて聞いたもの」
○に対し、×は姿勢を正した。
「今朝の鍛錬の話も、兵たちの噂になっていました。兵士に触れながら指導する行為。軍規では推奨されません」
「それに関してはもう注意されたわ。でも、必要ならやっちゃうかもね。うふっ」
(…軽い。あまりにも軽い)
×は趙雲を見る。
「趙雲様。副官殿の立ち居振る舞いには改善が必要かと」
趙雲は少しだけ考え、しかし淡々と返す。
「○は任務のために登用した。今は適応の最中だ。それに、今のままで十分な成果を上げている。些細な点は目をつぶる」
×が明らかに戸惑った。
「……些細、ですか?」
「問題があれば私が正す。×殿は気にする必要はない」
その優しい拒絶に、×の胸に小さな痛みが走る。
「…私の指摘は、間違っていないはずです」
声は穏やかだが、微かに震えていた。
「そうだな。ただ、○に与えているのは偵察任務だ。単身敵の拠点に入っている都合上、彼女は自身が動きやすい服装でいるべきであると考えている。理解してほしい」
×は沈黙し、静かに頷くも、また○を見る。
「趙雲様はお優しい方です。だからこそ、甘えるべきではありません。あなたも肝に銘じるべきです」
「やさしい?!」
○はわざとらしくに笑った。
「もう。ならいっそ、私を在野に戻すように隊長さんを説得してくださらない?」
「在野に?」
「そ。ちなみに在野でなくちゃ嫌よ?でないと私、」
牢に…と言いかけた所に趙雲がかぶせる。
「その必要はない」
×が息を呑む。
(趙雲様が…おそらく最も苦手とする種類の人を…庇った?どうして…)
○は意図した通りに会話が進んで、ふふ、と笑う。
「ね?隊長さんが必要としてくれてるなら、それでいいじゃない?」
趙雲は表情を崩さず、しかしはっきりと告げる。
「○は私が責任を持って登用した者だ。在野に戻す必要はない。軍の枠内で扱う」
そのためらいのなさは×の胸を刺した。
誠実で、真っ直ぐで、嘘と不正を最も嫌うはずの男。
その彼が…○の軽率な言動を見逃す。
そこに理屈では説明できない何かを見てしまう。
×は唇を結び、「承知しました」と静かに頭を下げる。
(……お優しい方だからこそ、こういう女性には、もっと厳しくあってほしいのに)
趙雲は気づかない。
○は毒気のない顔でニコニコするだけ。
×だけが、胸に刺さった棘を手で取れずにいた。
部屋に薄明かりが差し込む頃。
趙雲は起き上がると身支度を整えながら、○の寝床のある衝立へ声をかけた。
「起きているか」
返事はない。
まだ寝ているのかとも思ったが…衝立がゆっくりと揺れ、○が顔を出した。
眠たげではない。
その動作は妙に優雅で、むしろ起きて待っていたといった様子だった。
「おはよう、隊長さん」
昨日の挑発めいた空気とは違う、妙にあっさりした声だ。
寝台から降りると、水瓶に布を浸して顔をふく。
趙雲が起きるまで待っていたらしい。
「今日はずいぶん機嫌がいいようだな」
趙雲が淡々と答えると、○は顔を拭きながら微笑んだ。
「機嫌?さぁ…どうかしら。それより、昨日はごめんなさいね。あなたの邪魔をしたくてやったわけじゃないの」
趙雲はまばたき一つせずに答える。
「そうか。ならば今後は慎め。行動を正すことを期待する」
「……面白くないわねえ」
趙雲を見上げて、○は口をとがらせる。
「怒るとか、無視するとか、何かないわけ?」
「昨日の件は、この部屋での行動で公務外だ。任務に支障が出ていない以上、私が怒る要素はない。ただの会話だ」
○は少しだけ黙り、屈託のない明るい笑みを浮かべた。
「ま、いいわ。しばらくは真面目にやる。あなたがどういう人なのか、少し分かったもの」
「私を分析する必要はない」
「あるわよ。これからしばらくお世話になるんだし」
○は軽やかにくるりと背を向けた。
昨日までの挑発的な色気はなく、かといって掴みどころはない。
朝の光が差し込み、○の輪郭を浮かび上がらせる。
「さ、今日は何をするの?」
「今日からは鍛錬に出てもらう。いくらなんでも調錬を怠ると、お前の腕も鈍るだろう」
「やった。身体を動かすのは好きよ?」
午前は、兵士たちの鍛錬が最も活気づく時間帯だ。
趙雲は○を連れて鍛錬場へ来た。
(集団の中での動きを見ておくのも悪くない)
そう思い、親衛隊を集める。
「○の投擲の腕は確かだ。お前たちと混ざって鍛錬させる。ここの道具の使い方などを教えてやってくれ。実力の程も確かめたい」
「よろしくね、みんな」
兵士たちは緊張しながらもうなずいた。
兵士たちが木製の的を並べる。
○は手首を回し、軽い調子で言う。
「これ、何すればいいの?」
「そ、その…あの的を狙ってください」
言われて軽く投げた短刀はほとんど音もなく、ど真ん中に刺さった。
親衛隊だけではなく、他の兵士たちもどよめく。
「投擲までが速いな」
「狙ったのか?」
○は肩をすくめるだけ。
「次は?」
そこから先は簡単だった。
的の上、縁、揺らしてもらった布の中心、距離を伸ばしての狙撃。
全ての試練で正確に射貫いた。
やがて兵士たちが集まって来る。
最初は距離を取っていたが、気づけば誰もが近くに来て質問し始める。
その内、1人の若い兵士が前に出た。
「あ、あの…!その、投げ方を…少し教えていただけませんか……?」
○は振り返り、にっこりと微笑む。
「いいわよ。ちょっと失礼」
そして迷いなく兵士の背後へ回り込み、肩・腕・腰に手を添えて投擲の投げ方を手取り足取り矯正した。
身体を密着させるような、抱きしめるような形。
しかしあくまで“投擲の姿勢指導”という範囲。
兵士は顔を真っ赤にして硬直する。
「ち、近くないですか?」
「何言ってるの?身体の使い方は、実際に触った方が早いでしょ」
○は兵士の手首を取って角度を直し、背に軽く手を当てて体重移動を教える。
「ほら、腰の向きが違うわ。ここに力を入れて…私の腕に沿って曲げて投げてみて?……ほら、上手に出来た」
兵士は真っ赤になりながら離れた。
近くで見ていた他の兵がざわつく。
「お、おい…何してんだ、アレ…」
「いや、投擲の指導……らしい」
「俺も教えてもらおうかな…」
気づけば、○の周囲には人だかりができていた。
○はまるで講師のように、明るく、軽く、全員を相手にしていた。
(…集まりすぎだな)
趙雲は鍛錬場の端からその様子を見ながら、腕組みをした。
(これは放置できん)
見ている感じ、○に悪意はなさそうだ。
ただ、男と距離を詰めることに抵抗がなく、相手の反応を楽しんでしまう所が問題だ。
兵士を無用に興奮させ、秩序を乱している。
趙雲は静かに歩み寄った。
「○」
兵士たちが振り返り、一斉に姿勢を正す。
「お前を中心に人だかりができている。状況を把握しろ」
○は一瞬だけ黙り、周囲の兵士たちの熱に満ちた視線を見渡す。
「その様に、手取り足取り教える必要はない」
兵士たちは気まずそうに俯く。
「こういう教え方の方が上達が早いわ。…特に若い子は。ねえ?」
「触るな。今後も、指導を望まれても触らずに教える努力をしろ」
鍛錬場全体が、その瞬間ぴたりと静まる。
趙雲は親衛隊以外の兵士を散らせた。
「投擲の腕は分かった。基本武器の素養も見ておく。親衛隊の片手剣訓練に参加しろ」
「いいわよ」
何でもできる、とでも言いたげな表情の○に、軍の片手剣の模擬刀を渡した。
○の相手を務めるのは、親衛隊の中で最も動きの速い青年兵だった。
青年兵が踏み込み斬りかかる。
正確で、迷いのない良い動きだったが。
その剣は空を切った。
○の姿がない。
○は兵士の視界から消え、背後に立っていた。
「はい、一撃」
兵士の背中に、木剣で軽くコン、と触れる。
青年兵は動揺しつつも気を取り直す。
「も、もう一度!」
斬り下ろすが、○は横へ滑るように消える。
動きに力みがない。
音もなく重心移動が異様に軽い。
兵士として習うものではない。
(…まずいな)
趙雲はすぐに察する。
これは見せてはいけない動きだ。
○自身は無意識なのか、この動きしか知らないのか。
今は単純に身体を動かすことを楽しんでいるように見えた。
青年兵は息を呑んで後退する。
親衛隊もざわついた。
趙雲は一歩前へ出ると声をかける。
「──○。訓練は中断だ」
「え?」
兵たちが驚く中、趙雲は明確に言葉を続けた。
「その動きは兵の調練に適さない。模範にはならず、混乱を招く」
本音を言えば…あれ以上見せれば、彼女が何者か悟られる危険があると思った。
○は肩をすくめて言う。
「分かったわ。じゃあ今日はここまでにしましょうか」
「お、お手合わせ…ありがとう、ございました…」
○は青年兵に優雅に手を振った。
*****
午後に再び鍛錬場を訪れると言った趙雲。
数日前から任務で城にいなかった馬超と張飛が、今日の午後からは鍛錬場にいるから挨拶に行くという。
張飛たち二人は武器の点検をしていた。
挨拶の為に○と趙雲が近づくと、馬超が振り返り、にこやかに声を上げる。
「お、これが噂の副官殿か!美人だとは聞いていたが……想像以上だな!」
張飛も腕を組んで頷く。
「お前が連れてきたにしちゃ派手な女だな!」
○はチラリと胸元を見た馬超に目を付けた。
わざと胸の谷間を強調して、それを見せる様な仕草で馬超へ歩み寄る。
「まぁ、褒めてもらえて嬉しいわ。でも──私、それだけじゃありませんのよ?」
そう言ってふざけ半分に誘惑するように微笑む。
張飛が豪快に笑う。
馬超も楽しげだ。
この感覚が趙雲には理解できない。
「そうだ!趙雲が直々に連れてきたんだ、腕も確かなんだろ?ちょっと見せてくれないか?」
馬超が期待するような目で言う。
「私はいいんだけど──」
と、趙雲を見る○。
趙雲が少し前に出る。
「──断る」
馬超と張飛が同時に言葉を止めるが、趙雲は淡々と続けた。
「○は任務のために登用した。見世物ではない」
「見世物とは…ただの手合わせではないか」
馬超は少し驚き、張飛は目を丸くする。
「相変わらず堅いなぁ、お前は」
拗ねたようにそう言う馬超に、○は楽しげに言う。
「落ち着いたら手合わせお願いしますわ」
「そうだな!いつか機会があれば頼む!」
するとふと、馬超が唐突に。
「しかし趙雲。こんな美人を引っ張ってきたら…×殿が気にしないか?」
張飛が「おお、それは言えてる」と豪快に笑って趙雲を見た。
○はおもしろそうに趙雲へ視線を向ける。
しかし返って来たのはいつもの冷静な声。
「気にするというのは何のことです?」
心底意味が分からない、と言った顔の趙雲に、張飛も不思議そうだ。
「なに?×殿って」
ツツツ、と馬超の傍によって○が聞く。
「いやな、趙雲と噂になっている女官なんだ。あの堅物の趙雲が噂になるくらいなんだぞ」
張飛が横から乱暴に趙雲の肩を叩く。
「そうだぜ!軍中じゃ“お似合いの二人”って噂になってるくらいだ!」
しかし趙雲は表情ひとつ動かさない。
「噂に興味はありません。×楼殿は優秀な文官で、軍務をよく支えてくれる人です」
その淡々とした返答に、馬超も張飛も「まあ、お前らしいな」と笑って引き下がる。
一方○はその横顔を見て、(へぇ…いい事聞いちゃった)と小さく笑った。
鍛錬場を出て本館に戻る途中。
角を曲がったところで静かな足音とともに×が現れた。
素朴で控えめな雰囲気だが、芯のありそうな雰囲気の女性だ。
×は小さくお辞儀をして書簡を渡す。
「趙雲様。先ほどの会議資料をお持ちしたのですが、執務室にいらっしゃらず探しておりました」
「×殿、助かります。いつもあなたには助けられてばかりだ」
普段より、他の女官に対するより、僅かに穏やかな声になった趙雲。
○はそれを聞き逃さなかった。
(……なるほど。こういう優しさを向ける相手なのね。噂になるわけだわ)
趙雲が×と会話をしている間、○は考える。
(いきなり同室に私を泊めるものだから、恋人はいないと思っていたけど…想い人がいる可能性はあるわね)
しばらく考えていると、×がふとこちらを見ている事に気づいた。
「副官殿…その装いですが…鍛錬をするにしては、少々華美ではありませんか?」
「あら、そうかしら?私って飛んだり跳ねたりするからこういう装束でないと駄目なの。それに似合ってるでしょ?」
○はにっこり笑って、身体の曲線が分かるような恰好をしてみせる。
「軍の規則に、"似合っているかどうか"は不要です」
「でも…隊長さんは何も言わなかったし、言われたことも無いわ。そんな規則自体はじめて聞いたもの」
○に対し、×は姿勢を正した。
「今朝の鍛錬の話も、兵たちの噂になっていました。兵士に触れながら指導する行為。軍規では推奨されません」
「それに関してはもう注意されたわ。でも、必要ならやっちゃうかもね。うふっ」
(…軽い。あまりにも軽い)
×は趙雲を見る。
「趙雲様。副官殿の立ち居振る舞いには改善が必要かと」
趙雲は少しだけ考え、しかし淡々と返す。
「○は任務のために登用した。今は適応の最中だ。それに、今のままで十分な成果を上げている。些細な点は目をつぶる」
×が明らかに戸惑った。
「……些細、ですか?」
「問題があれば私が正す。×殿は気にする必要はない」
その優しい拒絶に、×の胸に小さな痛みが走る。
「…私の指摘は、間違っていないはずです」
声は穏やかだが、微かに震えていた。
「そうだな。ただ、○に与えているのは偵察任務だ。単身敵の拠点に入っている都合上、彼女は自身が動きやすい服装でいるべきであると考えている。理解してほしい」
×は沈黙し、静かに頷くも、また○を見る。
「趙雲様はお優しい方です。だからこそ、甘えるべきではありません。あなたも肝に銘じるべきです」
「やさしい?!」
○はわざとらしくに笑った。
「もう。ならいっそ、私を在野に戻すように隊長さんを説得してくださらない?」
「在野に?」
「そ。ちなみに在野でなくちゃ嫌よ?でないと私、」
牢に…と言いかけた所に趙雲がかぶせる。
「その必要はない」
×が息を呑む。
(趙雲様が…おそらく最も苦手とする種類の人を…庇った?どうして…)
○は意図した通りに会話が進んで、ふふ、と笑う。
「ね?隊長さんが必要としてくれてるなら、それでいいじゃない?」
趙雲は表情を崩さず、しかしはっきりと告げる。
「○は私が責任を持って登用した者だ。在野に戻す必要はない。軍の枠内で扱う」
そのためらいのなさは×の胸を刺した。
誠実で、真っ直ぐで、嘘と不正を最も嫌うはずの男。
その彼が…○の軽率な言動を見逃す。
そこに理屈では説明できない何かを見てしまう。
×は唇を結び、「承知しました」と静かに頭を下げる。
(……お優しい方だからこそ、こういう女性には、もっと厳しくあってほしいのに)
趙雲は気づかない。
○は毒気のない顔でニコニコするだけ。
×だけが、胸に刺さった棘を手で取れずにいた。