本編【31話~最終話】
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その日、成都の空気は張り詰めていた。
朝の鐘が鳴るより早く、城内を駆ける足音が増え、伝令の声が廊下を切り裂くように響く。
以前、○と趙雲が偵察したあの大規模な拠点。
潜伏しているだけの集団ではないと睨んでいた場所が、ついに兵を動かし始めたという報せだった。
城の中庭にはすでに武将たちが集められている。
張飛の怒声、諸葛亮の静かな指示が、空気を引き締めていく。
諸葛亮の命が下り、趙雲が先鋒隊として駆り出される事になった。
「はぁ。最悪~」
身支度を整えながら○は吐き捨てた。
軍装に着替え革の腰ひもをきつく締める。
小刀を数本使い慣れた位置に忍び込ませ、背中には援護用の小弓を背負った。
(こうなる前に逃げようと思ってたのに)
彼女にとって、戦場は命を削り合うだけの不毛な場所だ。
美学もなければ、逃げ場もない。
力では到底勝てない自分の技術は一対一、あるいは少数を相手に逃げ切るためのものであって、数千の兵がぶつかり合う混沌の中で振り回すものではない。
だが趙雲の副官として任命された以上、逃げる選択肢はなかった。
今の彼女は趙雲の腹に巻かれた小刀という鎖で趙雲に繋がれている。
城門前。
銀の鎧を纏い、愛馬に跨る趙雲の姿があった。
「……○。支度はいいか」
趙雲の視線が、不機嫌を隠そうともしない○に向けられる。
「ええ、いいわよ。先に行って偵察してきましょうか?」
「……勝手な判断はするな。今回は規模が違う」
○は自分の馬に飛び乗ると、面倒くさそうに手綱を握った。
趙雲は彼女の冷めた態度を咎めることもなく、ただ一言、「隊から離れるな」とだけ命じた。
太鼓の音が強くなる。
軍列が動き出す。
蹄の音が大地を揺らし、士気が高まっていく兵士たちの咆哮が耳を突く。
その喧騒の中で、○だけが冷めきった瞳で戦場となる地平線を見つめていた。
(こういう連中から逃げる為に努力して来た技術を、こういう連中の為に使う日が来るなんてね)
彼女にとって、この戦いには愛国心も忠誠心もない。
○は仕方なく戦場という名の泥沼へ足を踏み入れた。
先鋒の旗が掲げられた。
趙雲は自身の親衛隊を前に集め、その中央に立つ。
いつもの顔ぶれだ。
無駄な言葉はいらない。
「先鋒は我らが担う」
低く告げると、隊士たちは一斉に背筋を正した。
その輪の少し後ろ、馬上につまらなそうな顔をした○がいる。
「○、お前は後方支援に徹しろ。勝手に列を離れるな」
「はいはい」
そう言って外套を深くかぶって座り直す。
最初にぶつかるのは、拠点周辺に張られた迎撃部隊だ。
とにかく突っ込んで穴を開け、敵の背後の山に入り拠点を潰す。
同じ様な動きをする隊が他にもあって、彼らとその後、城からの合図を待って突撃の計画だ。
進軍の合図が鳴る。
先鋒隊が動き出した。
山間の空気は、麓から吹き上がる硝煙と血の匂いで重く澱んでいた。
○が偵察に出ては、当初の予定通り山の中に作られた簡易補給拠点を潰していく。
しかし一向に伝令も来ないし城からの合図もない。
「……状況は良くないわね。麓の本隊は完全に包囲されてるわよ。山側から攻められてるから、敵の動きが分かりにくいのが良くないわ。敵は数で押して玉砕する気かもね。伝令がいないから状況も分からないし…」
茂みから音もなく現れた○は、息一つ乱さず趙雲に報告した。
その体には返り血が点々と付着しているが彼女自身の傷ではない。
彼女の偵察能力を初めて目の当たりにした親衛隊の面々は、言葉を失っていた。
敵の包囲網の隙間を縫って情報を持って戻ってくる。
普段、城で見る彼女とは全くの別人だ。
ふと○が山の中に目を移す。
山の斜面を必死に駆け上がってくる伝令兵の姿を捉えた。
彼女は趙雲の指示を待たず斜面を駆け下りると、力尽きかけた伝令を受け止め、そのまま趙雲の前まで引きずり上げた。
「山側の隊は……一刻後、城からの狼煙を合図に敵本陣の背後へ突撃とのこと!」
伝令の言葉に、親衛隊の間に戦慄が走った。
今の位置から敵の背後へ突撃するには、道なき崖を下り、数倍の敵が待ち構える真っ只中へ飛び込まねばならない。
それは戦局をひっくり返す可能性がある一方で、退路を捨てることも意味していた。
きっと無事ではすまない。
「……承知した。軍師殿の策だ、勝機があるのだろう」
趙雲は静かに立ち上がり、槍を握り直す。
その瞳には、すでに死を覚悟した武人の静謐な炎が宿っている。
そして○を呼びつけた。
自身の服に手を突っ込む。
「○。お役御免だ。お前の脚なら、今からでもここを抜けられる」
親衛隊が息を呑む気配がしたが、構わない。
「……これを持っていけ」
趙雲が差し出したのは、彼女を縛るための人質として預かっていた、あの小刀だった。
不意に手元に戻ってきた重みに、○は一瞬だけ瞬きをした。
「あら。私がいなくても平気なの?」
いつものように、試すような、揶揄うような笑み。
けれど趙雲は笑い返さなかった。
彼はしばらく沈黙し、吹き抜ける夜風が彼女の髪を揺らすのを、目に焼き付けるように見つめた。
「……お前に、生きていて欲しい」
その声は、将としての命令ではなく、一人の男としての吐露だった。
「お前は兵ではない。軍規に縛られる必要も、私と命を懸ける必要もないのだ。お前は自由だ」
自由であるために死ぬほど努力してきた彼女の過去を知っているからこその、彼なりの決別だった。
最後の最後で彼女を自由にするべきだと思った。
○は返された小刀を大切そうに撫でて懐に収めると、呆れたように小さく溜息をつく。
「はいはい、分かりました。相変わらずお節介で、独りよがりな堅物様ね。こっちの話なんて聞かないんだから。あの酒器が置きっぱなしな事は気になるけど…まぁいいわ」
彼女は趙雲の瞳を真っ直ぐに見返すこともせず、暗闇が広がる森の奥へと視線を向けた。
「じゃ、元気でね」
そう言って背を向けると、止める間もない速さで闇へと溶けていった。
足音はすぐに消える。
趙雲はその場から動けなかった。
(……これでいい)
そう、何度も自分に言い聞かせる。
この日が来ることはずっと考えていた。
決して今ではなかったが。
彼女は自由だ。
誰にも縛られない。
この戦場に殉じる必要はない。
それでも、胸の奥に大きく残った空白。
趙雲は何も言えずに立っている親衛隊を向く。
「合図を待て」
号令をかけながら、二度と振り返らないと決めた。
朝の鐘が鳴るより早く、城内を駆ける足音が増え、伝令の声が廊下を切り裂くように響く。
以前、○と趙雲が偵察したあの大規模な拠点。
潜伏しているだけの集団ではないと睨んでいた場所が、ついに兵を動かし始めたという報せだった。
城の中庭にはすでに武将たちが集められている。
張飛の怒声、諸葛亮の静かな指示が、空気を引き締めていく。
諸葛亮の命が下り、趙雲が先鋒隊として駆り出される事になった。
「はぁ。最悪~」
身支度を整えながら○は吐き捨てた。
軍装に着替え革の腰ひもをきつく締める。
小刀を数本使い慣れた位置に忍び込ませ、背中には援護用の小弓を背負った。
(こうなる前に逃げようと思ってたのに)
彼女にとって、戦場は命を削り合うだけの不毛な場所だ。
美学もなければ、逃げ場もない。
力では到底勝てない自分の技術は一対一、あるいは少数を相手に逃げ切るためのものであって、数千の兵がぶつかり合う混沌の中で振り回すものではない。
だが趙雲の副官として任命された以上、逃げる選択肢はなかった。
今の彼女は趙雲の腹に巻かれた小刀という鎖で趙雲に繋がれている。
城門前。
銀の鎧を纏い、愛馬に跨る趙雲の姿があった。
「……○。支度はいいか」
趙雲の視線が、不機嫌を隠そうともしない○に向けられる。
「ええ、いいわよ。先に行って偵察してきましょうか?」
「……勝手な判断はするな。今回は規模が違う」
○は自分の馬に飛び乗ると、面倒くさそうに手綱を握った。
趙雲は彼女の冷めた態度を咎めることもなく、ただ一言、「隊から離れるな」とだけ命じた。
太鼓の音が強くなる。
軍列が動き出す。
蹄の音が大地を揺らし、士気が高まっていく兵士たちの咆哮が耳を突く。
その喧騒の中で、○だけが冷めきった瞳で戦場となる地平線を見つめていた。
(こういう連中から逃げる為に努力して来た技術を、こういう連中の為に使う日が来るなんてね)
彼女にとって、この戦いには愛国心も忠誠心もない。
○は仕方なく戦場という名の泥沼へ足を踏み入れた。
先鋒の旗が掲げられた。
趙雲は自身の親衛隊を前に集め、その中央に立つ。
いつもの顔ぶれだ。
無駄な言葉はいらない。
「先鋒は我らが担う」
低く告げると、隊士たちは一斉に背筋を正した。
その輪の少し後ろ、馬上につまらなそうな顔をした○がいる。
「○、お前は後方支援に徹しろ。勝手に列を離れるな」
「はいはい」
そう言って外套を深くかぶって座り直す。
最初にぶつかるのは、拠点周辺に張られた迎撃部隊だ。
とにかく突っ込んで穴を開け、敵の背後の山に入り拠点を潰す。
同じ様な動きをする隊が他にもあって、彼らとその後、城からの合図を待って突撃の計画だ。
進軍の合図が鳴る。
先鋒隊が動き出した。
山間の空気は、麓から吹き上がる硝煙と血の匂いで重く澱んでいた。
○が偵察に出ては、当初の予定通り山の中に作られた簡易補給拠点を潰していく。
しかし一向に伝令も来ないし城からの合図もない。
「……状況は良くないわね。麓の本隊は完全に包囲されてるわよ。山側から攻められてるから、敵の動きが分かりにくいのが良くないわ。敵は数で押して玉砕する気かもね。伝令がいないから状況も分からないし…」
茂みから音もなく現れた○は、息一つ乱さず趙雲に報告した。
その体には返り血が点々と付着しているが彼女自身の傷ではない。
彼女の偵察能力を初めて目の当たりにした親衛隊の面々は、言葉を失っていた。
敵の包囲網の隙間を縫って情報を持って戻ってくる。
普段、城で見る彼女とは全くの別人だ。
ふと○が山の中に目を移す。
山の斜面を必死に駆け上がってくる伝令兵の姿を捉えた。
彼女は趙雲の指示を待たず斜面を駆け下りると、力尽きかけた伝令を受け止め、そのまま趙雲の前まで引きずり上げた。
「山側の隊は……一刻後、城からの狼煙を合図に敵本陣の背後へ突撃とのこと!」
伝令の言葉に、親衛隊の間に戦慄が走った。
今の位置から敵の背後へ突撃するには、道なき崖を下り、数倍の敵が待ち構える真っ只中へ飛び込まねばならない。
それは戦局をひっくり返す可能性がある一方で、退路を捨てることも意味していた。
きっと無事ではすまない。
「……承知した。軍師殿の策だ、勝機があるのだろう」
趙雲は静かに立ち上がり、槍を握り直す。
その瞳には、すでに死を覚悟した武人の静謐な炎が宿っている。
そして○を呼びつけた。
自身の服に手を突っ込む。
「○。お役御免だ。お前の脚なら、今からでもここを抜けられる」
親衛隊が息を呑む気配がしたが、構わない。
「……これを持っていけ」
趙雲が差し出したのは、彼女を縛るための人質として預かっていた、あの小刀だった。
不意に手元に戻ってきた重みに、○は一瞬だけ瞬きをした。
「あら。私がいなくても平気なの?」
いつものように、試すような、揶揄うような笑み。
けれど趙雲は笑い返さなかった。
彼はしばらく沈黙し、吹き抜ける夜風が彼女の髪を揺らすのを、目に焼き付けるように見つめた。
「……お前に、生きていて欲しい」
その声は、将としての命令ではなく、一人の男としての吐露だった。
「お前は兵ではない。軍規に縛られる必要も、私と命を懸ける必要もないのだ。お前は自由だ」
自由であるために死ぬほど努力してきた彼女の過去を知っているからこその、彼なりの決別だった。
最後の最後で彼女を自由にするべきだと思った。
○は返された小刀を大切そうに撫でて懐に収めると、呆れたように小さく溜息をつく。
「はいはい、分かりました。相変わらずお節介で、独りよがりな堅物様ね。こっちの話なんて聞かないんだから。あの酒器が置きっぱなしな事は気になるけど…まぁいいわ」
彼女は趙雲の瞳を真っ直ぐに見返すこともせず、暗闇が広がる森の奥へと視線を向けた。
「じゃ、元気でね」
そう言って背を向けると、止める間もない速さで闇へと溶けていった。
足音はすぐに消える。
趙雲はその場から動けなかった。
(……これでいい)
そう、何度も自分に言い聞かせる。
この日が来ることはずっと考えていた。
決して今ではなかったが。
彼女は自由だ。
誰にも縛られない。
この戦場に殉じる必要はない。
それでも、胸の奥に大きく残った空白。
趙雲は何も言えずに立っている親衛隊を向く。
「合図を待て」
号令をかけながら、二度と振り返らないと決めた。