本編【31話~最終話】
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○は頭の中の地図を辿る。
その後ろを趙雲がついてきた。
(あの子はきっと、あの地図を唯一読み解いている私が逃がしたんだから、私が追ってくるとは思っていないはず…その気の緩みに追いつく余地があるわ。阿斗がいなければ逃がしてあげたのに)
おそらく逃げ出して一刻と少し…馬なら追い付く。
しばらく走ると、月明かりに白い衣が浮かび上がった。
川沿いの開けた場所。
逃走経路の最後の道のりだ。
孫尚香は、そこにいた。
趙雲は馬を止め近づく。
「孫尚香殿!」
名を呼んだ瞬間、彼女の肩がわずかに震えた。
趙雲は槍を持ち一歩、前へ出る。
「お戻りください。阿斗様もこちらへ」
「待って」
○が割って入る。
槍の切っ先と孫尚香の間に立った。
「○、退け。残念だが、捕縛対象だ」
「分かってるわ。だけど見て」
○は孫尚香の表情を見て趙雲に囁く。
「ああいう度胸の据わった人間はあまり追い詰めない方がいいわ。下手すると”おかしな決断”をされるかもしれない。趙雲じゃ威圧感があるから、私と少し話をさせて」
趙雲はゆっくりと息を吐いくと、真っすぐに○を見た。
「……やってみろ」
「了解。下がってて」
そう言って○はそっと孫尚香に近づいた。
「あなた…なんなの?逃がしておいてこんな」
「まさか阿斗をつれていくなんて思わなかったの。それは駄目でしょ?」
「…」
○が優しく微笑むと、孫尚香は息をのむ。
喉を鳴らして掠れた声で言う。
「母様が危篤なの。そう書いてもあったわ。だからあそこを出なきゃならなかったの」
「だからって…あなた、ここで閉じ込められたのが辛かったのに、そんな小さな子にも同じ思いをさせるの?」
「そんな!兄様はそんな事しないわ!」
「誘拐するのに?お茶会にでも招待するのかしら」
「兄様は人格者よ」
その言葉に○の目元がピクリと動いた。
「それはどうかしら。あなたが見てきたのは、”あなたの肉親である”孫権だけでしょう」
「…」
「こんな命令を妹にする時点で、私からすればお察しだわ」
孫尚香は言葉に詰まって、泣きそうな目を向ける。
言葉とは裏腹に、○は悲しそうな顔をしていた。
「…世間では善良な豪族。皆を率いる英雄。家族や民を大事にする仁君。子供の頃の私は、そういう連中の………玩具だった。表の顔を維持するために、慰み者を欲する男って多いのよ」
「余興と称して散々な事をされたわ。だから私は、肉親から見る”立派な人”に虫唾が走る」
孫尚香の目が、わずかに見開かれる。
○は孫尚香の目の前まで進んで小声で囁いた。
「その子を返さないなら私があなたを殺す。私なら阿斗ごと斬れる。返してくれるなら、あなただけなら帰れるかもしれない。私が船まで送るわ」
しばらく黙って阿斗を抱きしめていた孫尚香。
しかし決意を込めたように、阿斗をそっと○の腕に預けた。
○は阿斗を抱き直すと趙雲に振り返った。
阿斗の無事を確認した趙雲が近づいてくる。
「迎えの船は…?」
「張飛殿が、すでに向かわれている」
趙雲が告げた。
「あの方なら、制圧は時間の問題だろう。もしかすると乗組員は…もう」
「そう…」
「ま、とりあえず」
趙雲の孫尚香を睨む視線を遮るように、○が間に立つ。
「行ってみましょ。今、ここで話し合っていても仕方ないし」
「…分かったわ」
阿斗を抱く○の足取りは速い。
趙雲はその一歩後ろを馬を二頭引き連れて進み、孫尚香は振り返ることなく前を見据えていた。
後ろを歩く趙雲を軽く振り返った孫尚香は、小声で○に話しかける。
「ねえ、さっきの」
「ん?」
「あの…あなたの過去なんだけど」
「…ああ、あれ」
「あなたってもしかして、両家の娘だったんじゃない?」
その質問に○はチラリと孫尚香を見る。
「どうしてそう思うの?」
「あなたみたいな見た目の人、その辺にいないでしょ。それにちょっとした所作がちゃんと教育されている人のものだし。でも、だとしたら…」
「…そうね。これで最後だろうし、教えてあげる。…生家はそれなりの家だったわ。昔の私は外の世界に出たことなんてなくて、私の世界は庭と廊下と、決められた人間関係だけ。ずっと外の世界に憧れてた」
「…」
「ある日ね、見張りにお願いしたら外に出してもらえたの。でも…」
唇の端が、ほんの少し歪む。
「外にいる間に家族が殺されたわ。そのまま元から決まっていたらしく他所の家に連れていかれて。…それからも私がいる家は襲われて、次の家に連れていかれての繰り返し。だから、一つの場所に留まるのが怖いの」
「成都からも逃げるの?」
「いつかね」
「趙雲殿、怒るでしょうね」
「そうでもないと思うわ。あの人には一応、恋仲一歩手前の人がいて、私がその人に嫌われてるから」
「…ふふふ」
孫尚香は意味ありげに笑った。
船着場には呉の船が一艘、波に揺られて繋がれていた。
しかし人の気配はない。
甲板には乱れた足跡と戦いの痕がある。
「迎えの連中は片付けたぞ!」
船から出てきたのは張飛。
孫尚香を見て自分の失言に気付いた様に口をつぐむ。
しかしすぐに視線を○の手元にうつすと、「阿斗!」と駆け寄る。
阿斗はすっかり○の胸を掴んで遊んでいた。
「呑気なもんだな」
「ロクな大人にならないわよ」
「…○」
「ウソウソ。子孫繁栄に期待できる、立派な男ね」
諫める趙雲に笑うと、張飛は○から阿斗を受け取る。
「それで…諸葛亮殿から何か指示はありましたか?孫尚香殿を帰してもいいのかどうか」
趙雲が張飛に尋ねると、阿斗をあやしながら張飛が言う。
「何も言われてねえ。でもこうなったら、帰るしかねえのかもな」
「阿斗様を誘拐してしまったものね」
張飛と○が顔を見合わせる。
劉備は政略結婚ではあったが孫尚香を大事に想っていた様に見える。
だからここで彼女を斬るのも憚られた。
「でもよぉ。乗組員はその…全部…」
「一人で帰れるわ」
張飛が目を見開く。
「一人でか!?」
「ええ。呉の船なら自分で動かせるわ。母様の最期に間に合いたいし」
孫尚香は○を見つめる。
「ありがとう。あなたのお陰で、阿斗を連れ去らずに済んだわ」
夜風が吹き、衣が揺れる。
月光に照らされ、孫尚香の横顔が白く浮かんだ。
「ねえ、○。あなたも来ない?あなたの好きな骨董品もあげちゃうわよ?」
「うそっ!どうしようかしら…」
「…○」
後ろからしかめっ面で言う趙雲に、○は「うそうそ」と笑う。
「まっ、あなたが呉以外の場所で生きるのならついて行ってもいいけど」
「…最後まで意地悪ね」
「そお?その場合は一生一緒にいてあげるのに?女二人で楽しくやりましょうよ」
二人の視線が静かに交わる。
孫尚香は踵を返し、船へと歩き出した。
「じゃあね、○」
「気を付けてね」
船が軋む音を立て帆が風を受ける。
夜の水面を裂くように、船はゆっくりと離れていった。
三人はその場に立ち尽くし、去っていく船を最後まで見送る。
誰も何も言わない。
ただ同じ方向を見ていた。
夜風はまだ冷たく、だが、その空気はどこか澄んでいた。
船影が闇に溶け、水音だけが残った。
しばらく誰も動かなかったが、張飛が阿斗を抱き直して言う。
「…行っちまったな」
「そうですね」
趙雲の返事は短い。
○はふっと息を吐く。
「これで一区切りね。よかった、阿斗が無事で」
その声には、安堵とも疲労ともつかない響きがあった。
「さあ!俺は一足先に城へ戻るぞ!阿斗の無事をしらせてやらねえと!」
張飛はそう言って馬に跨り去っていった。
「さて、私達も帰りましょうか」
趙雲が率いてきた馬に○が跨ると、趙雲が声をかける。
「……先ほど、孫尚香殿にしていた話だが」
○は軽く笑う。
「ああ、あの話?信じちゃダメよ。奥方を黙らせる為の嘘なんだから」
「嘘ではないのだろう。お前の身体の傷のことを…医者に聞いた」
「…」
「それにいい加減、お前の顔で嘘かどうかは分かる」
斜め後ろから見る○の顔は、夜気にさらされ頬は白く、いつもの軽薄さをまとった表情の奥に何かが隠れていた。
身体の傷の事を言われては観念したのか、馬を進めながら話す。
「八歳の子供だったから何も分かってなかったの。自分が…売られたって。だから最初は戸惑ったわ。こんな綺麗な服を着せてくれるのに何故?って。……美しいって、損よね。そこからは何年もたらい回し。女は報酬として与えられるモノだから」
自嘲するように告げる。
「だから、実はこの顔も身体も、あんまり好きじゃないの」
夜風に髪が揺れ、その隙間から横顔が覗く。
「コレのお陰で楽しいことも確かにあったわよ。………でもその分、性格は大分歪んだわ。心よりも先に身体が大人になってチグハグで。いつも自分を俯瞰して見てる感じ」
軽く息を吐く。
「……贅沢でしょ?こんなモノ嫌うなんて」
「何故それを、私に聞こえるようにあの場で言った」
「ふふ…分かった?趙雲、最近、私への評価を改めた気がしたから。…私は生き残る為なら誰にでも身体を開くし、忠義なんてない。だから、あなたに見せる姿だって偽物。小刀を取り上げられているから従っているだけ。それをちゃんと分からせてやろうと思ったの。私みたいな汚い女は、嫌悪するべきだわ。特にこの国の人間は」
そう言って少し前を進む○の背中に、趙雲は言う。
「汚れてなどいない。命の繋ぎ方に、綺麗も汚いもない。それを言い出したら私など、何百人と斬り伏せてきた」
「…」
「お前が見せる姿が、噓か真かは私が決める」
「…」
「○が、…手段を選ばず生き残り、今ここにいてくれて、本当に良かったと思う」
小さく声を出して笑う○。
「…変わったわね、あなた」
「そうだな。だがそれは、お前もだろう」
「どうかなぁ…言っておくけど、色事が好きなのは事実よ?趙雲の身体に興味があったのも本当」
趙雲はただ、そう言って笑う○の背中を見つめる。
「今はもう、興味がないのか」
「…ふふっ。なにそれ」
今回の騒動…孫尚香を手引きした者がいる。
○が出してきた書簡の通りの道を辿って逃げいていた孫尚香。
取りつけたばかりの彼女の部屋の格子が緩んでいたのも不自然だ。
○を問いただすことは出来る。
その理由もある。
しかし。
「…今回の件、これ以上の追及はしない」
「え?」
「だからお前も、何も言うな」
「…甘くなったものね。いいの、それ」
責めなかったのは見逃したからではない。
彼女がどちら側なのか、この目で見ていたからだ。
「言っとくけど私、これからも善人になる気はないからね」
「それでいい。私はそのままのお前を受け入れると心に決めたからな」
「ははは…なにそれ。告白?」
趙雲は答えない。
でも否定もしなかった。
「いつか逃げ出してやるわ、こんな所。ほんと鬱陶しいしがらみだらけで大っ嫌い」
「その時は、どこまでも探して連れて帰る」
短く強い声に、○はまた笑った。
遠く東の空はほんのりと明るくなり始めていた。
その後ろを趙雲がついてきた。
(あの子はきっと、あの地図を唯一読み解いている私が逃がしたんだから、私が追ってくるとは思っていないはず…その気の緩みに追いつく余地があるわ。阿斗がいなければ逃がしてあげたのに)
おそらく逃げ出して一刻と少し…馬なら追い付く。
しばらく走ると、月明かりに白い衣が浮かび上がった。
川沿いの開けた場所。
逃走経路の最後の道のりだ。
孫尚香は、そこにいた。
趙雲は馬を止め近づく。
「孫尚香殿!」
名を呼んだ瞬間、彼女の肩がわずかに震えた。
趙雲は槍を持ち一歩、前へ出る。
「お戻りください。阿斗様もこちらへ」
「待って」
○が割って入る。
槍の切っ先と孫尚香の間に立った。
「○、退け。残念だが、捕縛対象だ」
「分かってるわ。だけど見て」
○は孫尚香の表情を見て趙雲に囁く。
「ああいう度胸の据わった人間はあまり追い詰めない方がいいわ。下手すると”おかしな決断”をされるかもしれない。趙雲じゃ威圧感があるから、私と少し話をさせて」
趙雲はゆっくりと息を吐いくと、真っすぐに○を見た。
「……やってみろ」
「了解。下がってて」
そう言って○はそっと孫尚香に近づいた。
「あなた…なんなの?逃がしておいてこんな」
「まさか阿斗をつれていくなんて思わなかったの。それは駄目でしょ?」
「…」
○が優しく微笑むと、孫尚香は息をのむ。
喉を鳴らして掠れた声で言う。
「母様が危篤なの。そう書いてもあったわ。だからあそこを出なきゃならなかったの」
「だからって…あなた、ここで閉じ込められたのが辛かったのに、そんな小さな子にも同じ思いをさせるの?」
「そんな!兄様はそんな事しないわ!」
「誘拐するのに?お茶会にでも招待するのかしら」
「兄様は人格者よ」
その言葉に○の目元がピクリと動いた。
「それはどうかしら。あなたが見てきたのは、”あなたの肉親である”孫権だけでしょう」
「…」
「こんな命令を妹にする時点で、私からすればお察しだわ」
孫尚香は言葉に詰まって、泣きそうな目を向ける。
言葉とは裏腹に、○は悲しそうな顔をしていた。
「…世間では善良な豪族。皆を率いる英雄。家族や民を大事にする仁君。子供の頃の私は、そういう連中の………玩具だった。表の顔を維持するために、慰み者を欲する男って多いのよ」
「余興と称して散々な事をされたわ。だから私は、肉親から見る”立派な人”に虫唾が走る」
孫尚香の目が、わずかに見開かれる。
○は孫尚香の目の前まで進んで小声で囁いた。
「その子を返さないなら私があなたを殺す。私なら阿斗ごと斬れる。返してくれるなら、あなただけなら帰れるかもしれない。私が船まで送るわ」
しばらく黙って阿斗を抱きしめていた孫尚香。
しかし決意を込めたように、阿斗をそっと○の腕に預けた。
○は阿斗を抱き直すと趙雲に振り返った。
阿斗の無事を確認した趙雲が近づいてくる。
「迎えの船は…?」
「張飛殿が、すでに向かわれている」
趙雲が告げた。
「あの方なら、制圧は時間の問題だろう。もしかすると乗組員は…もう」
「そう…」
「ま、とりあえず」
趙雲の孫尚香を睨む視線を遮るように、○が間に立つ。
「行ってみましょ。今、ここで話し合っていても仕方ないし」
「…分かったわ」
阿斗を抱く○の足取りは速い。
趙雲はその一歩後ろを馬を二頭引き連れて進み、孫尚香は振り返ることなく前を見据えていた。
後ろを歩く趙雲を軽く振り返った孫尚香は、小声で○に話しかける。
「ねえ、さっきの」
「ん?」
「あの…あなたの過去なんだけど」
「…ああ、あれ」
「あなたってもしかして、両家の娘だったんじゃない?」
その質問に○はチラリと孫尚香を見る。
「どうしてそう思うの?」
「あなたみたいな見た目の人、その辺にいないでしょ。それにちょっとした所作がちゃんと教育されている人のものだし。でも、だとしたら…」
「…そうね。これで最後だろうし、教えてあげる。…生家はそれなりの家だったわ。昔の私は外の世界に出たことなんてなくて、私の世界は庭と廊下と、決められた人間関係だけ。ずっと外の世界に憧れてた」
「…」
「ある日ね、見張りにお願いしたら外に出してもらえたの。でも…」
唇の端が、ほんの少し歪む。
「外にいる間に家族が殺されたわ。そのまま元から決まっていたらしく他所の家に連れていかれて。…それからも私がいる家は襲われて、次の家に連れていかれての繰り返し。だから、一つの場所に留まるのが怖いの」
「成都からも逃げるの?」
「いつかね」
「趙雲殿、怒るでしょうね」
「そうでもないと思うわ。あの人には一応、恋仲一歩手前の人がいて、私がその人に嫌われてるから」
「…ふふふ」
孫尚香は意味ありげに笑った。
船着場には呉の船が一艘、波に揺られて繋がれていた。
しかし人の気配はない。
甲板には乱れた足跡と戦いの痕がある。
「迎えの連中は片付けたぞ!」
船から出てきたのは張飛。
孫尚香を見て自分の失言に気付いた様に口をつぐむ。
しかしすぐに視線を○の手元にうつすと、「阿斗!」と駆け寄る。
阿斗はすっかり○の胸を掴んで遊んでいた。
「呑気なもんだな」
「ロクな大人にならないわよ」
「…○」
「ウソウソ。子孫繁栄に期待できる、立派な男ね」
諫める趙雲に笑うと、張飛は○から阿斗を受け取る。
「それで…諸葛亮殿から何か指示はありましたか?孫尚香殿を帰してもいいのかどうか」
趙雲が張飛に尋ねると、阿斗をあやしながら張飛が言う。
「何も言われてねえ。でもこうなったら、帰るしかねえのかもな」
「阿斗様を誘拐してしまったものね」
張飛と○が顔を見合わせる。
劉備は政略結婚ではあったが孫尚香を大事に想っていた様に見える。
だからここで彼女を斬るのも憚られた。
「でもよぉ。乗組員はその…全部…」
「一人で帰れるわ」
張飛が目を見開く。
「一人でか!?」
「ええ。呉の船なら自分で動かせるわ。母様の最期に間に合いたいし」
孫尚香は○を見つめる。
「ありがとう。あなたのお陰で、阿斗を連れ去らずに済んだわ」
夜風が吹き、衣が揺れる。
月光に照らされ、孫尚香の横顔が白く浮かんだ。
「ねえ、○。あなたも来ない?あなたの好きな骨董品もあげちゃうわよ?」
「うそっ!どうしようかしら…」
「…○」
後ろからしかめっ面で言う趙雲に、○は「うそうそ」と笑う。
「まっ、あなたが呉以外の場所で生きるのならついて行ってもいいけど」
「…最後まで意地悪ね」
「そお?その場合は一生一緒にいてあげるのに?女二人で楽しくやりましょうよ」
二人の視線が静かに交わる。
孫尚香は踵を返し、船へと歩き出した。
「じゃあね、○」
「気を付けてね」
船が軋む音を立て帆が風を受ける。
夜の水面を裂くように、船はゆっくりと離れていった。
三人はその場に立ち尽くし、去っていく船を最後まで見送る。
誰も何も言わない。
ただ同じ方向を見ていた。
夜風はまだ冷たく、だが、その空気はどこか澄んでいた。
船影が闇に溶け、水音だけが残った。
しばらく誰も動かなかったが、張飛が阿斗を抱き直して言う。
「…行っちまったな」
「そうですね」
趙雲の返事は短い。
○はふっと息を吐く。
「これで一区切りね。よかった、阿斗が無事で」
その声には、安堵とも疲労ともつかない響きがあった。
「さあ!俺は一足先に城へ戻るぞ!阿斗の無事をしらせてやらねえと!」
張飛はそう言って馬に跨り去っていった。
「さて、私達も帰りましょうか」
趙雲が率いてきた馬に○が跨ると、趙雲が声をかける。
「……先ほど、孫尚香殿にしていた話だが」
○は軽く笑う。
「ああ、あの話?信じちゃダメよ。奥方を黙らせる為の嘘なんだから」
「嘘ではないのだろう。お前の身体の傷のことを…医者に聞いた」
「…」
「それにいい加減、お前の顔で嘘かどうかは分かる」
斜め後ろから見る○の顔は、夜気にさらされ頬は白く、いつもの軽薄さをまとった表情の奥に何かが隠れていた。
身体の傷の事を言われては観念したのか、馬を進めながら話す。
「八歳の子供だったから何も分かってなかったの。自分が…売られたって。だから最初は戸惑ったわ。こんな綺麗な服を着せてくれるのに何故?って。……美しいって、損よね。そこからは何年もたらい回し。女は報酬として与えられるモノだから」
自嘲するように告げる。
「だから、実はこの顔も身体も、あんまり好きじゃないの」
夜風に髪が揺れ、その隙間から横顔が覗く。
「コレのお陰で楽しいことも確かにあったわよ。………でもその分、性格は大分歪んだわ。心よりも先に身体が大人になってチグハグで。いつも自分を俯瞰して見てる感じ」
軽く息を吐く。
「……贅沢でしょ?こんなモノ嫌うなんて」
「何故それを、私に聞こえるようにあの場で言った」
「ふふ…分かった?趙雲、最近、私への評価を改めた気がしたから。…私は生き残る為なら誰にでも身体を開くし、忠義なんてない。だから、あなたに見せる姿だって偽物。小刀を取り上げられているから従っているだけ。それをちゃんと分からせてやろうと思ったの。私みたいな汚い女は、嫌悪するべきだわ。特にこの国の人間は」
そう言って少し前を進む○の背中に、趙雲は言う。
「汚れてなどいない。命の繋ぎ方に、綺麗も汚いもない。それを言い出したら私など、何百人と斬り伏せてきた」
「…」
「お前が見せる姿が、噓か真かは私が決める」
「…」
「○が、…手段を選ばず生き残り、今ここにいてくれて、本当に良かったと思う」
小さく声を出して笑う○。
「…変わったわね、あなた」
「そうだな。だがそれは、お前もだろう」
「どうかなぁ…言っておくけど、色事が好きなのは事実よ?趙雲の身体に興味があったのも本当」
趙雲はただ、そう言って笑う○の背中を見つめる。
「今はもう、興味がないのか」
「…ふふっ。なにそれ」
今回の騒動…孫尚香を手引きした者がいる。
○が出してきた書簡の通りの道を辿って逃げいていた孫尚香。
取りつけたばかりの彼女の部屋の格子が緩んでいたのも不自然だ。
○を問いただすことは出来る。
その理由もある。
しかし。
「…今回の件、これ以上の追及はしない」
「え?」
「だからお前も、何も言うな」
「…甘くなったものね。いいの、それ」
責めなかったのは見逃したからではない。
彼女がどちら側なのか、この目で見ていたからだ。
「言っとくけど私、これからも善人になる気はないからね」
「それでいい。私はそのままのお前を受け入れると心に決めたからな」
「ははは…なにそれ。告白?」
趙雲は答えない。
でも否定もしなかった。
「いつか逃げ出してやるわ、こんな所。ほんと鬱陶しいしがらみだらけで大っ嫌い」
「その時は、どこまでも探して連れて帰る」
短く強い声に、○はまた笑った。
遠く東の空はほんのりと明るくなり始めていた。