本編【31話~最終話】
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書庫の前に×は立っていた。
鍵が返ってきていない。
夕餉の席にも趙雲の姿はなかった。
○もだ。
任務も何も入っていないはず。
あの二人が揃って姿を見せないというのは、嫌な予感しかしない。
書庫の事を思い出してここまでやってきた。
(……お伝えするのを、忘れていました)
この書庫は建て付けが悪く、扉を閉めてしまったら内側からは開かない。
だから閉じ込め防止の為に扉に何かを噛ませなくてはならなかったのに、それを伝え忘れていた。
×の背に、冷たいものが走る。
慌てて扉を開ける。
鍵は開きっぱなしで、低い音を立てて開いた。
薄暗い書庫の床には意外な光景があった。
趙雲が座ったまま眠っている。
その腕の中に、○を抱き込むようにして。
ピタリと×の思考が止まった。
息を詰め、視線を巡らせる。
争った形跡はない。
書簡は丁寧に積まれ、倒れた棚の木屑も脇に寄せられている。
○は趙雲の胸元に頭を預け、深く眠っているようだ。
×が一歩、書庫の中へ踏み込んだその気配に、趙雲は目を覚ました。
「……?」
瞬きをし、寝ていた事に驚いたように腕の中に視線を落とす。
○はまだ眠っている。
「……すまない。寝てしまったらしい。来てくれて助かった。どうやって開けたんだ」
低くそう言って、ゆっくりと壁から背中を起こす趙雲。
状況をすぐに把握した様子だった。
×は息をつく。
「この書庫、扉を閉めてしまったら内側からは開かないのです。そのことを、お伝えし忘れていました。申し訳ありません」
その言葉に趙雲は肩を落とす。
(壊さなくてよかった)
あの時、力任せに扉を破ることはできた。
しかし書簡を傷つけることも、○の言葉を裏切ることもしたくなかったからこうして待っていたのだ。
「無事で何よりです。○殿は…」
「ああ。怪我はない。脳震盪を起こした様だ」
「すぐに担架を用意します。医務室へ運びましょう」
×はそう言ったが、趙雲は首を横に振る。
「いや。このまま私が運ぶ」
×が何か言いかけたが、趙雲はすでに膝を立てていた。
慎重に、揺らさない様に抱き上げる。
○が小さく身じろぎし、かすれた声を漏らす。
「ん?……あれ……出られたの?」
「ああ。このまま運ぶ」
趙雲が胸の中の○に話しかけるのを、×は黙って見つめていた。
「……では、こちらです」
そう言って×が一歩退くと、趙雲は静かに歩き出した。
○は運ばれる途中でうっすらと目を開けた。
「……医務室は、やだって……寝てれば治るから…」
指先が趙雲の衣を掴む。
すぐ後ろに×がいる。
衝立越しとはいえ同居している趙雲の部屋。
盗品や得体の知れぬ品を並べている○の私室。
どちらも今この状況で入れる場所ではない。
趙雲は目線だけで背後の×を指す。
「今は無理だ。分かるだろう。むしろ医務室しかない」
○はそれを察したのか、不満そうに唇を尖らせてから視線を逸らす。
「○」
名を呼ばれ、視線が戻る。
「今はお前の意地を通す場面じゃない。何もなければすぐに帰ろう。それに私としても医者にかかってほしい。命令とは言わない…頼む」
その言い方に、○は観念したように「分かった」とだけ言った。
医者の所見は○の予想通りだった。
○の瞳孔や反応を一通り確かめ、簡単な問診を済ませると、「吐き気や嘔吐があれば危険です。今は安静に。今夜はここで様子を見てください」と言った。
○は寝台に横になったまま、天井を仰いで小さく息を吐く。
「ほらね。結局、寝てろって言われただけ。どこで寝たって一緒なのに、ここで泊まる事になるのね……あーあ、面倒くさい」
衝立の向こうには×がしっかり控えている。
この状況ではどこへも連れて帰れない。
寝台に寝転んだまま足を組んでブラブラさせる○。
趙雲が何も言えずに隣に立っていると、廊下がにわかに騒がしくなった。
「ここか?」
「趙雲殿が○殿を連れて医務室に入ったって…」
顔を出したのは、趙雲の親衛隊数名と、馬超だった。
どうやら○を抱えて医務室へ向かう趙雲の姿は、しっかり目撃されていたらしい。
聞きつけて様子を見に来た。
「おい、大丈夫か!」
「頭打ったって聞いたぞ!」
戸を開けるなり矢継ぎ早に声をかけられ、○はゆっくりと上半身を起こす。
「ちょっと脳震盪を起こしただけよ。大げさなんだから。このくらい、どうってこと…」
言い終わる前に言葉が途切れた。
一瞬、目元が震えるのを趙雲は見逃さなかった。
親衛隊と馬超の方を向き、「全員、外へ出ろ」と声を強める。
「今は静養が必要だ。見舞いは不要と皆に伝えろ」
彼らが出て行き医務室に再び静けさが戻ると、○は寝台に身を沈めてポツリと言う。
「怒らなくてもよかったのに」
「お前は彼らがいると、元気に振る舞う」
○は少しだけ趙雲を見ると、口だけで笑った。
「やる事もないし、寝るわ。趙雲は帰ってて」
「分かった」
そうは答えたが、趙雲は帰るつもりはなかった。
疲れていたのだろう、すぐに眠った○を見つめながら、趙雲は医者の話を思い出していた。
『怪我が多かったので、ついでに他も診させてもらいました。かなり嫌がられましたが…』
○は身体中、傷だらけだという。
古いものも、新しいものも、区別がつかないほど。
それらは一様に、見えにくくなる薬が塗られていたらしい。
肌に溶け込むように、痕跡を曖昧にされていたという。
『中には、生死に関わった可能性のある傷もあります。深さから見て…運が良かった、と言うべきのものでしょう』
『鎧を着ないから、というのもあるのでしょうが…そこらの武将より、よほど傷だらけです』
『信じたくありませんが、見えない所には焼き印や拷問の跡の様なものまで』
『外から見えない所にばかり集中している辺り、意図的なものを感じます』
今でこそ、当然の様に無傷で偵察から戻ってくる○。
しかし彼女も最初からこうだったわけではないはずだ。
武を磨くものとして失念していた。
名も残さず、誰にも見られぬ場所で刃を受け、そのまま死んでいたかもしれない。
兵士ですら、刃を交えたら、その恐怖に二度と戦えなくなる兵士も多い。
○はその恐怖を一人で克服してきたのだ。
自分とは作りの違う、こんな身体で。
なんの後ろ盾もなく。
(私は…生きるためにこうならざるを得なかった可能性を顧みず、ただその性根を叱った)
趙雲は掛け布の端をそっと整える。
自分は、守るべきものを選び、切り捨てる覚悟を持たなくてはならない立場だ。
情に流されてはならない。
それでもこの傷だらけの身体を見過ごすことは、もうできなかった。
*****
朝の光が、医務室に柔らかく差し込んでいた。
○はゆっくりと目を開ける。
頭の重さも眩暈もない。
身体は嘘のように軽かった。
(……あら?)
視界の端。
寝台の脇、椅子に腰掛けたまま趙雲がうたた寝をしている。
背筋は半ば伸びたままで腕を組み、首だけがわずかに前に傾いている。
甲冑は外しているが、きちんとした姿勢のまま眠っているのが、いかにも彼らしい。
(もしかして……一晩中そこにいたの?×殿に連行されなかったのかしら…)
意外そうに、そして少しだけ愉快そうに○は口角を上げる。
音を立てぬよう寝台から降り、そっと歩み寄る。
眠っている今なら…と顔を頬に近づける。
身をかがめた、その時。
趙雲の目が開いた。
思わず足を止めた○を見上げ、彼は眉をひそめる。
「なにか、邪悪な気配がした」
「失礼ね!ちょっと頬に口づけしようとしただけじゃない」
「…やはり邪悪な気配だったな。起きて良かった」
○は腕を組み口を尖らせる。
「それにしても…ずっとここに?」
「…」
「×殿に連れて帰られなかったの?」
その言葉に、趙雲はハッとして衝立の向こうを覗く。
昨日、○を運んだあと彼女はここにいたはずだが、気が回らなかった。
思えば×がいる事も忘れて○と会話していた。
余計な事を言わなかったかどうか気になる。
衝立の向こうには×はおらず、趙雲が寝た後に帰ったようだ。
鍵が返ってきていない。
夕餉の席にも趙雲の姿はなかった。
○もだ。
任務も何も入っていないはず。
あの二人が揃って姿を見せないというのは、嫌な予感しかしない。
書庫の事を思い出してここまでやってきた。
(……お伝えするのを、忘れていました)
この書庫は建て付けが悪く、扉を閉めてしまったら内側からは開かない。
だから閉じ込め防止の為に扉に何かを噛ませなくてはならなかったのに、それを伝え忘れていた。
×の背に、冷たいものが走る。
慌てて扉を開ける。
鍵は開きっぱなしで、低い音を立てて開いた。
薄暗い書庫の床には意外な光景があった。
趙雲が座ったまま眠っている。
その腕の中に、○を抱き込むようにして。
ピタリと×の思考が止まった。
息を詰め、視線を巡らせる。
争った形跡はない。
書簡は丁寧に積まれ、倒れた棚の木屑も脇に寄せられている。
○は趙雲の胸元に頭を預け、深く眠っているようだ。
×が一歩、書庫の中へ踏み込んだその気配に、趙雲は目を覚ました。
「……?」
瞬きをし、寝ていた事に驚いたように腕の中に視線を落とす。
○はまだ眠っている。
「……すまない。寝てしまったらしい。来てくれて助かった。どうやって開けたんだ」
低くそう言って、ゆっくりと壁から背中を起こす趙雲。
状況をすぐに把握した様子だった。
×は息をつく。
「この書庫、扉を閉めてしまったら内側からは開かないのです。そのことを、お伝えし忘れていました。申し訳ありません」
その言葉に趙雲は肩を落とす。
(壊さなくてよかった)
あの時、力任せに扉を破ることはできた。
しかし書簡を傷つけることも、○の言葉を裏切ることもしたくなかったからこうして待っていたのだ。
「無事で何よりです。○殿は…」
「ああ。怪我はない。脳震盪を起こした様だ」
「すぐに担架を用意します。医務室へ運びましょう」
×はそう言ったが、趙雲は首を横に振る。
「いや。このまま私が運ぶ」
×が何か言いかけたが、趙雲はすでに膝を立てていた。
慎重に、揺らさない様に抱き上げる。
○が小さく身じろぎし、かすれた声を漏らす。
「ん?……あれ……出られたの?」
「ああ。このまま運ぶ」
趙雲が胸の中の○に話しかけるのを、×は黙って見つめていた。
「……では、こちらです」
そう言って×が一歩退くと、趙雲は静かに歩き出した。
○は運ばれる途中でうっすらと目を開けた。
「……医務室は、やだって……寝てれば治るから…」
指先が趙雲の衣を掴む。
すぐ後ろに×がいる。
衝立越しとはいえ同居している趙雲の部屋。
盗品や得体の知れぬ品を並べている○の私室。
どちらも今この状況で入れる場所ではない。
趙雲は目線だけで背後の×を指す。
「今は無理だ。分かるだろう。むしろ医務室しかない」
○はそれを察したのか、不満そうに唇を尖らせてから視線を逸らす。
「○」
名を呼ばれ、視線が戻る。
「今はお前の意地を通す場面じゃない。何もなければすぐに帰ろう。それに私としても医者にかかってほしい。命令とは言わない…頼む」
その言い方に、○は観念したように「分かった」とだけ言った。
医者の所見は○の予想通りだった。
○の瞳孔や反応を一通り確かめ、簡単な問診を済ませると、「吐き気や嘔吐があれば危険です。今は安静に。今夜はここで様子を見てください」と言った。
○は寝台に横になったまま、天井を仰いで小さく息を吐く。
「ほらね。結局、寝てろって言われただけ。どこで寝たって一緒なのに、ここで泊まる事になるのね……あーあ、面倒くさい」
衝立の向こうには×がしっかり控えている。
この状況ではどこへも連れて帰れない。
寝台に寝転んだまま足を組んでブラブラさせる○。
趙雲が何も言えずに隣に立っていると、廊下がにわかに騒がしくなった。
「ここか?」
「趙雲殿が○殿を連れて医務室に入ったって…」
顔を出したのは、趙雲の親衛隊数名と、馬超だった。
どうやら○を抱えて医務室へ向かう趙雲の姿は、しっかり目撃されていたらしい。
聞きつけて様子を見に来た。
「おい、大丈夫か!」
「頭打ったって聞いたぞ!」
戸を開けるなり矢継ぎ早に声をかけられ、○はゆっくりと上半身を起こす。
「ちょっと脳震盪を起こしただけよ。大げさなんだから。このくらい、どうってこと…」
言い終わる前に言葉が途切れた。
一瞬、目元が震えるのを趙雲は見逃さなかった。
親衛隊と馬超の方を向き、「全員、外へ出ろ」と声を強める。
「今は静養が必要だ。見舞いは不要と皆に伝えろ」
彼らが出て行き医務室に再び静けさが戻ると、○は寝台に身を沈めてポツリと言う。
「怒らなくてもよかったのに」
「お前は彼らがいると、元気に振る舞う」
○は少しだけ趙雲を見ると、口だけで笑った。
「やる事もないし、寝るわ。趙雲は帰ってて」
「分かった」
そうは答えたが、趙雲は帰るつもりはなかった。
疲れていたのだろう、すぐに眠った○を見つめながら、趙雲は医者の話を思い出していた。
『怪我が多かったので、ついでに他も診させてもらいました。かなり嫌がられましたが…』
○は身体中、傷だらけだという。
古いものも、新しいものも、区別がつかないほど。
それらは一様に、見えにくくなる薬が塗られていたらしい。
肌に溶け込むように、痕跡を曖昧にされていたという。
『中には、生死に関わった可能性のある傷もあります。深さから見て…運が良かった、と言うべきのものでしょう』
『鎧を着ないから、というのもあるのでしょうが…そこらの武将より、よほど傷だらけです』
『信じたくありませんが、見えない所には焼き印や拷問の跡の様なものまで』
『外から見えない所にばかり集中している辺り、意図的なものを感じます』
今でこそ、当然の様に無傷で偵察から戻ってくる○。
しかし彼女も最初からこうだったわけではないはずだ。
武を磨くものとして失念していた。
名も残さず、誰にも見られぬ場所で刃を受け、そのまま死んでいたかもしれない。
兵士ですら、刃を交えたら、その恐怖に二度と戦えなくなる兵士も多い。
○はその恐怖を一人で克服してきたのだ。
自分とは作りの違う、こんな身体で。
なんの後ろ盾もなく。
(私は…生きるためにこうならざるを得なかった可能性を顧みず、ただその性根を叱った)
趙雲は掛け布の端をそっと整える。
自分は、守るべきものを選び、切り捨てる覚悟を持たなくてはならない立場だ。
情に流されてはならない。
それでもこの傷だらけの身体を見過ごすことは、もうできなかった。
*****
朝の光が、医務室に柔らかく差し込んでいた。
○はゆっくりと目を開ける。
頭の重さも眩暈もない。
身体は嘘のように軽かった。
(……あら?)
視界の端。
寝台の脇、椅子に腰掛けたまま趙雲がうたた寝をしている。
背筋は半ば伸びたままで腕を組み、首だけがわずかに前に傾いている。
甲冑は外しているが、きちんとした姿勢のまま眠っているのが、いかにも彼らしい。
(もしかして……一晩中そこにいたの?×殿に連行されなかったのかしら…)
意外そうに、そして少しだけ愉快そうに○は口角を上げる。
音を立てぬよう寝台から降り、そっと歩み寄る。
眠っている今なら…と顔を頬に近づける。
身をかがめた、その時。
趙雲の目が開いた。
思わず足を止めた○を見上げ、彼は眉をひそめる。
「なにか、邪悪な気配がした」
「失礼ね!ちょっと頬に口づけしようとしただけじゃない」
「…やはり邪悪な気配だったな。起きて良かった」
○は腕を組み口を尖らせる。
「それにしても…ずっとここに?」
「…」
「×殿に連れて帰られなかったの?」
その言葉に、趙雲はハッとして衝立の向こうを覗く。
昨日、○を運んだあと彼女はここにいたはずだが、気が回らなかった。
思えば×がいる事も忘れて○と会話していた。
余計な事を言わなかったかどうか気になる。
衝立の向こうには×はおらず、趙雲が寝た後に帰ったようだ。