本編【16話~30話】
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翌朝は、いつもと同じ朝だった。
○は趙雲よりも先に部屋を出ていて、すでに食堂にいた。
いつもの様に馬超達と談笑している。
「趙雲様。こちらへ」
そこに声をかけてきたのは×だった。
いつの間にか隣に立っており、静かに趙雲の袖を引いている。
こうしてどこかに触れてきたことはないので、少し驚く。
「席を取ってあります」
示された卓は、人があまりいない落ち着いた雰囲気の場所だ。
「……ありがとう」
そこに腰を下ろすと、×は自然な所作で湯を注ぐ。
その動きには、昨日よりも迷いがない。
どうやら祭に行ったのをきっかけに、彼女の中の趙雲に対する距離感が変わったらしいことが伺える。
「昨夜は、あの後よくお休みになれましたか」
「……ああ」
”あの後”という言葉に少し詰まる。
「それなら良かったです。……私はとても楽しかったので、気持ちが高ぶったのかなかなか眠れなくて…」
×は小さく微笑んだ。
離れた卓でこちらに背を向けて座っている○は、隣の馬超に何か囁いて、それを親衛隊が覗き込んで「お~」っと声を出す。
趙雲の胸の奥がわずかにざわめいた。
○が食事をしている席の近く。
少し離れた卓から、ひそひそと抑えた声が流れてきた。
「…見て、今日も一緒にいらっしゃるわよ」
「最初はお似合いだと思ってたけど、最近の彼女は…ねえ」
「ちょっと図々しくなって」
「お仕事も身が入っていないことが多いみたいですよ?」
○は、ふっと息を吐く。
(あらまぁ)
唇の端が、わずかに上がった。
ここに来た頃、×は「趙雲様と並んで絵になる」という声が多かった。
なのにちょっとああしていい感じになったら悪口に変わっていく。
妬み嫉みとはそういうものだ。
特にこの、女社会というものは。
「○?」
馬超が気づいたように声をかける。
軽く返事をし、また親衛隊の会話に戻った。
(あの子は、何も悪くないのに)
むしろ誠実で真面目で、趙雲の隣に立つにふさわしいはずなのに。
午前中の執務室は静かだった。
趙雲は文机に向かい、報告書を書いていた。
○は趙雲に言われて書簡の整理をしている。
筆の音と、書簡をたたむ音だけが室内を満たしている。
整理を追えたらしい○は、パンパンと埃を払うのに手を叩いた。
「ねえ」
趙雲が顔を上げると、○が距離を詰めてくる。
「お願いがあるんだけど」
趙雲は筆を止め、視線だけを向ける。
趙雲の腕に軽く体重を預けながら○は話を続ける。
「お前は、何か言うたびに体を寄せねば話せないのか」
「あなたにだけよ?こんなふうにするの」
「……離れろ」
「やだ。…ね、書庫に行きたいの。この城で、一番古い書物があるところ」
趙雲の眉がわずかに動く。
「古文書庫の事か。…あそこは、鍵がかかっている」
「だから、あなたにお願いしたいの」
「なぜ私に?」
問い返すと、○は少しだけ声を落とした。
「×殿が鍵を管理してるって聞いたから。私が直接お願いしたら……何か勘ぐられそうでしょ?でもあなたなら…」
言いながら趙雲の肩に頬を寄せる。
「何を調べるつもりだ」
「宝の地図に関係ありそうなの」
趙雲は、しばらく黙っていた。
「私も同行する」
「もちろん!助手が必要だし」
「……鍵の件は、私から話す」
そう言うと、○は満足そうに目を細めた。
*****
昼休憩時。
食堂の喧騒から少し離れた卓で、趙雲は何時もの様に×と座っていた。
×は趙雲の隣に腰掛けている。
湯を注ぎ、器を整え、静かに食事をする。
「……×殿」
「はい」
「古文書庫の鍵を借りたい」
×の手がほんの一瞬止まった。
「古文書庫、ですか」
「そうだ。古い書簡を確認したい。私が管理する案件だ」
「趙雲様が?」
×は趙雲の横顔をじっと見つめる。
珍しい事もあるものだ、と首をかしげる。
「お一人で、ですか?」
「無論だ」
×は視線を落とし、頷いた。
「分かりました」
懐から小さな鍵束を取り出すと、その中から一本を選んで差し出す。
「趙雲様が入室されることは管理表に記載しておきます」
「助かる」
鍵を受け取ると、趙雲は立ち上がった。
書庫へ向かう回廊は、人の気配がほとんどなかった。
昼の城内とは思えぬほど静かで、足音がやけに響く。
古文書庫にある書簡は古い字を使ったものが多いのもあり、手に取る人が少ないのもある。
人影がないのを確認してから、趙雲が鍵を差し込んだ。
重い音を立てて扉が開く。
二人が中へ入ると、趙雲はすぐに扉を閉めた。
外界の音が遮断され、古紙と古い木の匂いが一気に鼻を満たす。
「わぁ……壮観…」
○は思わず息を漏らした。
天井近くまで積み上げられた棚。
年代ごと、用途ごとに分けられた巻物と冊子。
城の歴史そのものが、静かに眠っている。
「ここが、一番古い書簡の保管場所だ。触れる際は慎重にしろ。破れば取り返しがつかん」
「誰に言ってるのよ。誰よりもこういうものを大事にしてるのに」
そう答えながらも、○の視線はすでに棚を忙しなく追っている。
「あ、これ」
指先が、一本の古書に止まる。
「わぁ…紙質が違う。成都のものじゃないわね…それもこの印、複数の勢力を経てる。こんなの見たことないわ…」
大切なものを扱うように、そっと取り出し触る。
あからさまに目が輝く。
「……お前は、本当にこういう時だけは静かだな」
趙雲が呟くと、○は振り返らずに笑った。
「私を黙らせたかったらこういう物を持って来ることね」
「時間は限られている。早く調べろ」
渋々と言った様子で○は棚の間に腰を落とし、持ってきたあの書簡を広げる。
「昔の地名の書き方を照らし合わせたいの。ええっと…」
書簡と古書を並べ、指で文字をなぞりながら比べていく。
「ほら、これ。同じ形でしょ」
趙雲も近づき、○の肩越しに覗き込む。
「……確かに」
距離が近い。
だが今の○は真剣だ。
ただ、貴重な蔵書を前にした純粋な好奇心だけで動いている。
「ねえ、趙雲。これ、やっぱり宝の地図じゃないわ。私の推測が正しければ、もっと面倒で、厄介なものかもしれない」
「もう推測できているのか?」
「まあね。でも推測の域を出ないから、答え合わせがしたいの」
○は趙雲を置いて棚の間を動いた。
古い背表紙を一瞥し、さっさと必要なものを抜き取っていく。
手際よく積まれていく古書の山。
「…そんな文字まで読めるのか」
趙雲からすれば古い字で読めないものがズラリと並ぶ。
「独学だから全てじゃないけどね。崩し字も、異国の混じり書きもなんとなく。……さ、手伝って」
指で書簡の一節を示す。
「これと同じ記号が出てくる記述があるか。あと、同盟とか、物資の移動に触れてる部分。それと、“使者”に関する記述があれば教えて」
「随分、細かいな」
趙雲は、短く息を吐く。
(……頭を使う仕事は、正直、得意ではないからな)
「分かった。やってみる」
「ふふっ、あんまり得意じゃないって顔ね」
「…」
「ま、私もやるから頑張って!隊長っ」
ポンポンッと趙雲の背中を叩く○は上機嫌だ。
書庫に、紙を捲る音が重なる。
趙雲は言われた箇所を慎重に追った。
慣れない文字に眉を寄せ、行を何度も読み返す。
ふと疲れて顔を上げると、机を挟んで向かいに座る○は、真剣そのものだった。
普段の軽口もない。
眉を寄せ、指先で文字をなぞりながら真っすぐに書簡に目を落とす。
こうして見ると案外、理知的な顔をしている。
――楽しそうだ。
それも、心の底から。
(……こんな顔もするのか)
思わず見入ってしまうが、○が目を上げたので慌てて視線を書物へ戻す。
「なにか…決定打が足りないのよね」
トントンと机を突きながら天井を見上げて言う。
書庫の奥。
天井近くまで伸びる本棚を見上げ、目を細める。
「そういえばあそこ、簡単に届かないから見てないわ」
一番高い本棚の一番上。
埃を被った背表紙が三冊見える。
足場になりそうな物がなく、後回しにしていた。
場所としてはかなり”臭い”。
○は棚に近づいた。
「おい、待て」
「大丈夫、ちょっと確認するだけだから」
趙雲が制止するより早く、○は棚に手を掛けた。
次に足をかける。
そのまま数段よじ登る。
書物に手が届いたその時、メシャ…と湿った音がした。
腐食していた板が、あっけなく割れて崩れた。
反射的に身を引こうとしたが、今度は踏み替えた床の端が抜ける。
○は体勢を整えようとした。
一人なら、そのまま着地できた。
そう判断できるだけの余裕はあったが、すぐ下に趙雲がいる。
趙雲の上に落ちないように咄嗟に棚を蹴って、棚から離れる。
そのまま床に背中から落ちた。
鈍い音と埃が舞う。
視界が揺れ、息が詰まる。
一瞬、時間が止まったように感じられた。
「○…っ」
趙雲が慌てて駆け寄るが、○は返事をしない。
慌てて○の上半身を起こした。
力が抜けきった身体は、ぐったりと趙雲に預けられていた。
頬に触れると熱はない。
出血もしていない。
「○、聞こえるか」
もう一度、少し強めに呼ぶと、眉間にしわを寄せてからゆっくりと瞼が持ち上がった。
焦点が合うまで、少し時間がかかる。
「…ああ、びっくりした…」
まるで他人事のように、○はそう言った。
「頭は?痛みはあるか?」
「ちょっと、くらっとしただけ」
そう言いながらも、起き上がろうとして失敗し、再び趙雲の胸に倒れる。
趙雲は無言で腕に力を入れた。
「医務室へ行く」
「やめて。これで医務室に行ったら…この書庫、次に入れるのはいつになるかわからないでしょ」
「そんな理由で…」
「もうすぐ掴めそうなの。この機会を逃せないわ」
趙雲は言葉を失う。
言えば言うほど趙雲に身体を預けずに、無理に起き上がろうとする。
「なにがあっても全て私の責任。意識もはっきりしてるし大丈夫よ」
「……信用できる状態ではない」
「信用してもらうしかないわ。あなたの大事な劉備殿にも関わることかもしれないの」
はっきりと言う。
そして、少し困ったように笑った。
「あなたがそばにいるんだから、大丈夫でしょ」
その一言に、胸の奥がわずかに揺れる。
趙雲はため息を一つついた。
「今以上に異変があれば、即刻医務室だぞ」
「それでいいわ」
趙雲は○の上体を起こすと壁にもたれかけさせる。
○は古書を持ち上げた。
まだ目眩が残っているのか、片手で額を押さえ、眉を寄せている。
三冊のうち、一冊を残す。
(紙質とこの綴じ方…ちょっと他のと違う)
時折訪れる眩暈で、頭がクラクラした。
ゆっくりと表紙を開く。
○の表情が変わった。
「やっぱりこれ、ただの地図じゃない。経路…?」
小さくそう言うと、一人でブツブツ言いながら考え込む。
何度か書簡と古書を見比べている。
その様子を趙雲は少し離れた所で見ていた。
「そうか…だからここに載ってないのに…」
独り言のように呟き、考え込むようにゆっくりと目を閉じると、急にその身体が微動だにしなくなった。
「○?」
返事がない。
趙雲はすぐに近づいて膝をつき、肩に手を置いた。
呼吸はある。
(……意識が落ちている。もう限界だな)
趙雲は○を抱き上げた。
本人がどう言おうと関係ない。
医務室へ運ぶべきだ。
趙雲は扉へ手をかけた。
しかし扉は動かない。
もう一度、力を込める。
鈍い音がして扉枠が軋むだけだった。
どうやら扉が歪んでいる。
古い建具が耐えきれなかったのか、閉めた時に歪んだのか。
扉は完全に噛み込み、びくともしなかった。
「……閉じ込められたか」
書庫は厚い壁に囲まれ、外の気配はない。
大声を出してみたが、ここは呼び声も届きにくい位置で、誰かに届いた気配もない。
すると腕の中の○が、かすかに身じろぎした。
「……うるさい……」
焦点の合わない目が、一瞬だけ開く。
「……本当に、大丈夫だから……」
掠れた声で○は眉を寄せ、ゆっくりと言葉を繋ぐ。
「こんなの……何回もやってるの。ただの脳震盪。じっとしてればそのうち治るわ。医者に行ったって……どうせ寝かされるだけだし……」
小さく辛そうにため息をつく。
「それより……貴方みたいな大柄な人が……無理に扉を壊して……書簡に、傷がつく方が……嫌……怒られるでしょ。諸葛亮に」
その一言で、趙雲の動きが止まった。
扉は趙雲なら壊そうと思えば壊せるような作りだ。
だが腕の中の○は、必死に平静を装っていた。
自分の身より、古書を優先しようとしている。
その頑なな様子に、趙雲は一度、深く息を吐いた。
「お前のその感覚は理解に苦しむな……分かった。信じよう。×殿が鍵の返却がない事で、こちらに来るかもしれない。とりあえず限界までそれを待とう」
そう言うと、○はほっとしたように目を閉じる。
趙雲は床に腰を下ろし、腕に抱いたままの○を静かに見下ろす。
普段なら○に近づかれるたびに視線を外す。
叱るためでも、距離を保つためでもなく、ただ、見ないようにしていただけだ。
だが今は、逃げ場がない。
彼女の容態が変わったらすぐに分かる様に触れておきたかった。
伏せられた睫毛。
少しだけ乾いた唇。
気を張っている時には決して見せない、力の抜けた表情。
(……こんな顔をしていたんだな)
腕。
足首。
衣の隙間から覗く肌には、細かな傷跡が無数にあった。
古いものも、新しいものも混じっている。
(比べるものではないが…×殿とは、違う生き方をしてきたんだな)
どちらが正しいでも、楽でも、尊いでもない。
それでも近頃の○を見ていると、「軽い女」だの、「勝手な女」だのと、安易な言葉で片づけてきた自分の認識が、音を立てて崩れていく。
趙雲はそっと腕の力を調整した。
(知る努力をすべきだったのかもしれないな)
書庫の静寂の中、趙雲はただ黙って、○の呼吸が安定しているかどうかを確かめていた。
○は趙雲よりも先に部屋を出ていて、すでに食堂にいた。
いつもの様に馬超達と談笑している。
「趙雲様。こちらへ」
そこに声をかけてきたのは×だった。
いつの間にか隣に立っており、静かに趙雲の袖を引いている。
こうしてどこかに触れてきたことはないので、少し驚く。
「席を取ってあります」
示された卓は、人があまりいない落ち着いた雰囲気の場所だ。
「……ありがとう」
そこに腰を下ろすと、×は自然な所作で湯を注ぐ。
その動きには、昨日よりも迷いがない。
どうやら祭に行ったのをきっかけに、彼女の中の趙雲に対する距離感が変わったらしいことが伺える。
「昨夜は、あの後よくお休みになれましたか」
「……ああ」
”あの後”という言葉に少し詰まる。
「それなら良かったです。……私はとても楽しかったので、気持ちが高ぶったのかなかなか眠れなくて…」
×は小さく微笑んだ。
離れた卓でこちらに背を向けて座っている○は、隣の馬超に何か囁いて、それを親衛隊が覗き込んで「お~」っと声を出す。
趙雲の胸の奥がわずかにざわめいた。
○が食事をしている席の近く。
少し離れた卓から、ひそひそと抑えた声が流れてきた。
「…見て、今日も一緒にいらっしゃるわよ」
「最初はお似合いだと思ってたけど、最近の彼女は…ねえ」
「ちょっと図々しくなって」
「お仕事も身が入っていないことが多いみたいですよ?」
○は、ふっと息を吐く。
(あらまぁ)
唇の端が、わずかに上がった。
ここに来た頃、×は「趙雲様と並んで絵になる」という声が多かった。
なのにちょっとああしていい感じになったら悪口に変わっていく。
妬み嫉みとはそういうものだ。
特にこの、女社会というものは。
「○?」
馬超が気づいたように声をかける。
軽く返事をし、また親衛隊の会話に戻った。
(あの子は、何も悪くないのに)
むしろ誠実で真面目で、趙雲の隣に立つにふさわしいはずなのに。
午前中の執務室は静かだった。
趙雲は文机に向かい、報告書を書いていた。
○は趙雲に言われて書簡の整理をしている。
筆の音と、書簡をたたむ音だけが室内を満たしている。
整理を追えたらしい○は、パンパンと埃を払うのに手を叩いた。
「ねえ」
趙雲が顔を上げると、○が距離を詰めてくる。
「お願いがあるんだけど」
趙雲は筆を止め、視線だけを向ける。
趙雲の腕に軽く体重を預けながら○は話を続ける。
「お前は、何か言うたびに体を寄せねば話せないのか」
「あなたにだけよ?こんなふうにするの」
「……離れろ」
「やだ。…ね、書庫に行きたいの。この城で、一番古い書物があるところ」
趙雲の眉がわずかに動く。
「古文書庫の事か。…あそこは、鍵がかかっている」
「だから、あなたにお願いしたいの」
「なぜ私に?」
問い返すと、○は少しだけ声を落とした。
「×殿が鍵を管理してるって聞いたから。私が直接お願いしたら……何か勘ぐられそうでしょ?でもあなたなら…」
言いながら趙雲の肩に頬を寄せる。
「何を調べるつもりだ」
「宝の地図に関係ありそうなの」
趙雲は、しばらく黙っていた。
「私も同行する」
「もちろん!助手が必要だし」
「……鍵の件は、私から話す」
そう言うと、○は満足そうに目を細めた。
*****
昼休憩時。
食堂の喧騒から少し離れた卓で、趙雲は何時もの様に×と座っていた。
×は趙雲の隣に腰掛けている。
湯を注ぎ、器を整え、静かに食事をする。
「……×殿」
「はい」
「古文書庫の鍵を借りたい」
×の手がほんの一瞬止まった。
「古文書庫、ですか」
「そうだ。古い書簡を確認したい。私が管理する案件だ」
「趙雲様が?」
×は趙雲の横顔をじっと見つめる。
珍しい事もあるものだ、と首をかしげる。
「お一人で、ですか?」
「無論だ」
×は視線を落とし、頷いた。
「分かりました」
懐から小さな鍵束を取り出すと、その中から一本を選んで差し出す。
「趙雲様が入室されることは管理表に記載しておきます」
「助かる」
鍵を受け取ると、趙雲は立ち上がった。
書庫へ向かう回廊は、人の気配がほとんどなかった。
昼の城内とは思えぬほど静かで、足音がやけに響く。
古文書庫にある書簡は古い字を使ったものが多いのもあり、手に取る人が少ないのもある。
人影がないのを確認してから、趙雲が鍵を差し込んだ。
重い音を立てて扉が開く。
二人が中へ入ると、趙雲はすぐに扉を閉めた。
外界の音が遮断され、古紙と古い木の匂いが一気に鼻を満たす。
「わぁ……壮観…」
○は思わず息を漏らした。
天井近くまで積み上げられた棚。
年代ごと、用途ごとに分けられた巻物と冊子。
城の歴史そのものが、静かに眠っている。
「ここが、一番古い書簡の保管場所だ。触れる際は慎重にしろ。破れば取り返しがつかん」
「誰に言ってるのよ。誰よりもこういうものを大事にしてるのに」
そう答えながらも、○の視線はすでに棚を忙しなく追っている。
「あ、これ」
指先が、一本の古書に止まる。
「わぁ…紙質が違う。成都のものじゃないわね…それもこの印、複数の勢力を経てる。こんなの見たことないわ…」
大切なものを扱うように、そっと取り出し触る。
あからさまに目が輝く。
「……お前は、本当にこういう時だけは静かだな」
趙雲が呟くと、○は振り返らずに笑った。
「私を黙らせたかったらこういう物を持って来ることね」
「時間は限られている。早く調べろ」
渋々と言った様子で○は棚の間に腰を落とし、持ってきたあの書簡を広げる。
「昔の地名の書き方を照らし合わせたいの。ええっと…」
書簡と古書を並べ、指で文字をなぞりながら比べていく。
「ほら、これ。同じ形でしょ」
趙雲も近づき、○の肩越しに覗き込む。
「……確かに」
距離が近い。
だが今の○は真剣だ。
ただ、貴重な蔵書を前にした純粋な好奇心だけで動いている。
「ねえ、趙雲。これ、やっぱり宝の地図じゃないわ。私の推測が正しければ、もっと面倒で、厄介なものかもしれない」
「もう推測できているのか?」
「まあね。でも推測の域を出ないから、答え合わせがしたいの」
○は趙雲を置いて棚の間を動いた。
古い背表紙を一瞥し、さっさと必要なものを抜き取っていく。
手際よく積まれていく古書の山。
「…そんな文字まで読めるのか」
趙雲からすれば古い字で読めないものがズラリと並ぶ。
「独学だから全てじゃないけどね。崩し字も、異国の混じり書きもなんとなく。……さ、手伝って」
指で書簡の一節を示す。
「これと同じ記号が出てくる記述があるか。あと、同盟とか、物資の移動に触れてる部分。それと、“使者”に関する記述があれば教えて」
「随分、細かいな」
趙雲は、短く息を吐く。
(……頭を使う仕事は、正直、得意ではないからな)
「分かった。やってみる」
「ふふっ、あんまり得意じゃないって顔ね」
「…」
「ま、私もやるから頑張って!隊長っ」
ポンポンッと趙雲の背中を叩く○は上機嫌だ。
書庫に、紙を捲る音が重なる。
趙雲は言われた箇所を慎重に追った。
慣れない文字に眉を寄せ、行を何度も読み返す。
ふと疲れて顔を上げると、机を挟んで向かいに座る○は、真剣そのものだった。
普段の軽口もない。
眉を寄せ、指先で文字をなぞりながら真っすぐに書簡に目を落とす。
こうして見ると案外、理知的な顔をしている。
――楽しそうだ。
それも、心の底から。
(……こんな顔もするのか)
思わず見入ってしまうが、○が目を上げたので慌てて視線を書物へ戻す。
「なにか…決定打が足りないのよね」
トントンと机を突きながら天井を見上げて言う。
書庫の奥。
天井近くまで伸びる本棚を見上げ、目を細める。
「そういえばあそこ、簡単に届かないから見てないわ」
一番高い本棚の一番上。
埃を被った背表紙が三冊見える。
足場になりそうな物がなく、後回しにしていた。
場所としてはかなり”臭い”。
○は棚に近づいた。
「おい、待て」
「大丈夫、ちょっと確認するだけだから」
趙雲が制止するより早く、○は棚に手を掛けた。
次に足をかける。
そのまま数段よじ登る。
書物に手が届いたその時、メシャ…と湿った音がした。
腐食していた板が、あっけなく割れて崩れた。
反射的に身を引こうとしたが、今度は踏み替えた床の端が抜ける。
○は体勢を整えようとした。
一人なら、そのまま着地できた。
そう判断できるだけの余裕はあったが、すぐ下に趙雲がいる。
趙雲の上に落ちないように咄嗟に棚を蹴って、棚から離れる。
そのまま床に背中から落ちた。
鈍い音と埃が舞う。
視界が揺れ、息が詰まる。
一瞬、時間が止まったように感じられた。
「○…っ」
趙雲が慌てて駆け寄るが、○は返事をしない。
慌てて○の上半身を起こした。
力が抜けきった身体は、ぐったりと趙雲に預けられていた。
頬に触れると熱はない。
出血もしていない。
「○、聞こえるか」
もう一度、少し強めに呼ぶと、眉間にしわを寄せてからゆっくりと瞼が持ち上がった。
焦点が合うまで、少し時間がかかる。
「…ああ、びっくりした…」
まるで他人事のように、○はそう言った。
「頭は?痛みはあるか?」
「ちょっと、くらっとしただけ」
そう言いながらも、起き上がろうとして失敗し、再び趙雲の胸に倒れる。
趙雲は無言で腕に力を入れた。
「医務室へ行く」
「やめて。これで医務室に行ったら…この書庫、次に入れるのはいつになるかわからないでしょ」
「そんな理由で…」
「もうすぐ掴めそうなの。この機会を逃せないわ」
趙雲は言葉を失う。
言えば言うほど趙雲に身体を預けずに、無理に起き上がろうとする。
「なにがあっても全て私の責任。意識もはっきりしてるし大丈夫よ」
「……信用できる状態ではない」
「信用してもらうしかないわ。あなたの大事な劉備殿にも関わることかもしれないの」
はっきりと言う。
そして、少し困ったように笑った。
「あなたがそばにいるんだから、大丈夫でしょ」
その一言に、胸の奥がわずかに揺れる。
趙雲はため息を一つついた。
「今以上に異変があれば、即刻医務室だぞ」
「それでいいわ」
趙雲は○の上体を起こすと壁にもたれかけさせる。
○は古書を持ち上げた。
まだ目眩が残っているのか、片手で額を押さえ、眉を寄せている。
三冊のうち、一冊を残す。
(紙質とこの綴じ方…ちょっと他のと違う)
時折訪れる眩暈で、頭がクラクラした。
ゆっくりと表紙を開く。
○の表情が変わった。
「やっぱりこれ、ただの地図じゃない。経路…?」
小さくそう言うと、一人でブツブツ言いながら考え込む。
何度か書簡と古書を見比べている。
その様子を趙雲は少し離れた所で見ていた。
「そうか…だからここに載ってないのに…」
独り言のように呟き、考え込むようにゆっくりと目を閉じると、急にその身体が微動だにしなくなった。
「○?」
返事がない。
趙雲はすぐに近づいて膝をつき、肩に手を置いた。
呼吸はある。
(……意識が落ちている。もう限界だな)
趙雲は○を抱き上げた。
本人がどう言おうと関係ない。
医務室へ運ぶべきだ。
趙雲は扉へ手をかけた。
しかし扉は動かない。
もう一度、力を込める。
鈍い音がして扉枠が軋むだけだった。
どうやら扉が歪んでいる。
古い建具が耐えきれなかったのか、閉めた時に歪んだのか。
扉は完全に噛み込み、びくともしなかった。
「……閉じ込められたか」
書庫は厚い壁に囲まれ、外の気配はない。
大声を出してみたが、ここは呼び声も届きにくい位置で、誰かに届いた気配もない。
すると腕の中の○が、かすかに身じろぎした。
「……うるさい……」
焦点の合わない目が、一瞬だけ開く。
「……本当に、大丈夫だから……」
掠れた声で○は眉を寄せ、ゆっくりと言葉を繋ぐ。
「こんなの……何回もやってるの。ただの脳震盪。じっとしてればそのうち治るわ。医者に行ったって……どうせ寝かされるだけだし……」
小さく辛そうにため息をつく。
「それより……貴方みたいな大柄な人が……無理に扉を壊して……書簡に、傷がつく方が……嫌……怒られるでしょ。諸葛亮に」
その一言で、趙雲の動きが止まった。
扉は趙雲なら壊そうと思えば壊せるような作りだ。
だが腕の中の○は、必死に平静を装っていた。
自分の身より、古書を優先しようとしている。
その頑なな様子に、趙雲は一度、深く息を吐いた。
「お前のその感覚は理解に苦しむな……分かった。信じよう。×殿が鍵の返却がない事で、こちらに来るかもしれない。とりあえず限界までそれを待とう」
そう言うと、○はほっとしたように目を閉じる。
趙雲は床に腰を下ろし、腕に抱いたままの○を静かに見下ろす。
普段なら○に近づかれるたびに視線を外す。
叱るためでも、距離を保つためでもなく、ただ、見ないようにしていただけだ。
だが今は、逃げ場がない。
彼女の容態が変わったらすぐに分かる様に触れておきたかった。
伏せられた睫毛。
少しだけ乾いた唇。
気を張っている時には決して見せない、力の抜けた表情。
(……こんな顔をしていたんだな)
腕。
足首。
衣の隙間から覗く肌には、細かな傷跡が無数にあった。
古いものも、新しいものも混じっている。
(比べるものではないが…×殿とは、違う生き方をしてきたんだな)
どちらが正しいでも、楽でも、尊いでもない。
それでも近頃の○を見ていると、「軽い女」だの、「勝手な女」だのと、安易な言葉で片づけてきた自分の認識が、音を立てて崩れていく。
趙雲はそっと腕の力を調整した。
(知る努力をすべきだったのかもしれないな)
書庫の静寂の中、趙雲はただ黙って、○の呼吸が安定しているかどうかを確かめていた。