本編【序章~15話】
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夜の成都は、昼とは別の顔を見せる。
盛況な飲み屋くらいしか灯りはなく、影は深く、闇は濃い。
○は黒い外套をまとい、頭にも外套を深くかぶって口元もしっかり隠す。
鍵縄で城内に入ると宝物庫の裏に回った。
壁をそっと触る。
昼間に確認したむき出しの梁に、簡単に鍵縄をひっかけることが出来た。
そこを登りきると、昼間見た窓がある。
狙い通り、蝶番が緩んでいる。
○は針金のような道具を取り出し、器用に外枠を外した。
(開いた…)
窓をほんの少し押し上げると、ひやりと冷たい空気が内側から流れてくる。
それは宝物庫に眠る“金属と土と古代の匂い”。
○はその匂いだけで、口角を上げた。
(……古い埃のいい匂い)
体を滑り込ませ、完全な無音で梁へ着地する。
薄暗くとても広い宝物庫。
古代蜀の青銅器から金細工、南中から流れた書物まで、価値の分からぬまま無造作に積まれていた。
○の目が輝く。
「やっぱり。ここの人たち、この子達の価値を何も分かってないじゃない。こんな保存状態……せっかくのお宝が台無し」
歴史的遺物が大好きな○は、この保存状態の悪さに肩を落とす。
と、その時。
○はふと動きを止めた。
静かすぎる。
夜の宝物庫は、本来なら見張りの足音が外からかすかに聞こえるはず。
子の時を見計らって侵入しているのに巡回の気配も交代の物音もない。
(…妙ね)
屋根裏の梁に伏せたまま、息を整え気配を殺す。
熟練者にしか分からない“なんとなくの空気の重さ”。
─誰かがいる。
─こちらに気づいてはいないが、動かずにいる様子。
○はほんの一瞬だけ緊張したが、すぐに口元に笑みを戻していた。
(まあいいわ。近づかれたら対処すれば)
細い糸のような影で床へ降りると、まずは物色しながら棚の間を進み、一番奥の棚で立ち止まる。
棚の上段に、金の装飾が施された古代蜀の酒器があった。
古ぼけたいい香りがする。
(これは…なんて素晴らしいの!ああ、早く持って帰ってあげたい)
指先が、器の縁に触れた。
その瞬間だった。
背後で気配が一つ。
石畳の上に落ちる。
○は目だけで振り返った。
闇の中に、一筋の銀色の線が浮かぶ。
刃だ。
その刃を静かに構えた男の気配が、宝物庫全体の空気を締め上げる。
「……そこを動くな」
闇の奥から、低く澄んだ声が落ちた。
○は返事をせず、指先でそっと棚を離し、床を蹴った。
直後、銀光が横一線に走った。
○は潜入する際、頭から足の先まで外套を着る。
失敗したり目撃された時の為に、背格好だけなら男に見えるように工夫していた。
だから姿が見られることに何の抵抗もないが、声を聞かれてはいけない。
(あれがもう一つの鍵を持つ武官ね。殺す気満々じゃない)
昼の偵察で真面目に警備をしていた男だ。
男の槍が、暗闇の中で一瞬だけ月光を受けて閃く。
突き、薙ぎ、払い。
どれも無駄を削ぎ落とした鋭い技。
(なに、こいつ…!こんな狭い所で平然と)
○は声も出さず、持ち前の身軽さでかわしていく。
風を切る音も、着地する音も聞こえない。
つかず離れず、逃げることはない挑発に似た動きに男は反応する。
「早いな」
男は気配を読むように槍を構え直し、宵闇の中の黒い影を追う。
(逃げようかと思ったけど、あの窓、立て付けが悪すぎてすぐに抜けられないのよね…挑発にも乗らないし)
○は内心舌打ちをする。
こんな放置されている蔵にここまでの手練れがいることを想定していなかったので、甘く見ていた。
窓から出るのに手間取ると、その隙に槍で一突きにされてしまうだろう。
攻撃を避けるので精一杯だ。
近距離戦になれば力で劣る自分では、とてもじゃないが倒せない。
隙をついて逃げるしかない。
○は天井梁の上から男の頭上に落下し、瞬時に短刀を抜いて襲いかかる。
金属音が宝物庫の空気を切り裂いた。
しかし狙いは男の命ではない。
○はそのまま着地すると、男の後ろにある、唯一の出口に向かって走る。
しかし男が槍を振り下ろして進行方向を塞いだので、瞬時に身体をひねって右によけ、また壁を登って梁に上がった。
「素晴らしい反応だな…まさかあれを避けるとは」
そう言った男は、暗闇をまた走り出した影を見つめた。
そして位置と軌道だけを読み、近くにあった木箱を投げつける。
力いっぱいに投げられた木箱は、○の進行方向の梁を砕く。
○は空中へ投げ出された。
体勢を崩さず、膝から転がるように着地する。
外套の中から新たな小刀を抜いた時。
男が背後へ回り込んでいた。
背後から槍の柄で首を締めあげられ、男と槍の柄に挟まれ動けない。
男の声は冷ややかで、揺るぎなかった。
「これ以上抗えば、このまま首を折る」
仕方なく、○は短刀を落とし、両手をゆっくり上げる。
男は正面に回ると槍の切っ先を○に向ける。
数秒の静寂のあと、男が低い声で命じた。
「…頭の布を外せ」
○は大きくため息をつくと口元の布を下ろしてから、頭にかぶった外套も取る。
やがて長い髪が、静かに肩へ落ちた。
灯火に照らされ、布の奥に隠れていた素顔が現れる。
男の瞳が揺れた。
「…………女……?」
○は一言もしゃべらないまま、まっすぐ彼を見た。
男は槍を下げず、しかし明らかに声の調子が変わる。
○はその様子を、布を外した指先でゆっくり髪を払いつつ見上げた。
その仕草ひとつすら、計算されている。
「ねぇ。なんでもしてあげるから──見逃がしてくれない?」
まるで密やかな秘密を囁くように、甘く、柔らかく。
美しい顔が美しく微笑む。
○は両手をあげたまま一歩、男のほうへ近づき、影に揺れる髪の隙間から上目遣いに彼を見た。
「ね?お互い、面倒な報告はしたくないでしょ?ちょっとした出来心なの…お金が必要で」
囁くような息。
微笑む唇。
首を傾げる仕草。
どれも○の十八番だ。
だが男は微動だにしなかった。
槍先はぶれず、まるで岩壁のように動かない。
その瞳に浮かんだのは、動揺ではなく拒絶だった。
「……戯れが過ぎる」
低く、硬い声。
彼は槍の柄を少しだけ押し進め、○の喉元ギリギリまで切っ先を近づけた。
「近づくな。そのような言葉で、私が心を乱すと思うな」
「やだぁ、残念。すっごいわよ、私」
この状況でも面白がるような言い方をする○に、男は言葉を返さず、ただ静かに、しかし明確な拒否の気迫で睨んだ。
「女であれ盗賊であれ、逃がす理由にはならぬ。武器を下ろせ。抵抗すれば斬る」
「なら斬ればいいわ。女は捕縛なんてされたら死ぬより辛い目にあうもの」
言うなり○は、槍の死角となる側面に身体を滑り込ませ、袖に隠していた暗器を放つ。
光を帯びた細い針が飛んだ。
狙いは男の足。
しかし槍で針を叩き落とされる。
○の目が大きく開く。
驚きの色が、ほんの一瞬走った。
その一瞬を男は逃さない。
気付いた時には石床へ仰向けで押し倒されていた。
まとめて抑えられた両手首。
膝で固定された足。
そして喉元には、槍先が静かに向けられている。
抵抗する余裕すらない。
「まだ戦う気か。その技量…本物だ。だが──私を相手にするには、足りぬ」
槍先が、皮膚すれすれまで下りてくる。
○が無言で体を捩ろうとしても、押さえる力は微動だにしない。
しかし槍先に身を寄せれば僅かに避けるあたり、まだ殺すつもりではない様だ。
「…大人しくしていろ」
男の声がわずかに低くなる。
「傷つけたくはない」
その一言で、ようやく○の肩から力が抜けた。
「はあ…降参」
観念して身体の力を抜く○。
「……この場で所持品を確認する。武器をすべて出せ」
「私は何もしないわ。あなたの好きにして」
妖しくそう言う○に、男は眉一つ動かさず手を伸ばした。
「まず…靴だ」
彼は膝で○の片足を固定し、素早く靴の内側へ手を入れる。
靴裏に仕込まれた薄型の小刀が二本、床に放られた。
男が行為に及ぼうと覆いかぶさってきた隙に仕留める為のものだ。
続いてもう片方の脚。
太腿の紐巻きに短い針が数本。
次に○の上半身を起こし、腰に手を伸ばした。
ここにも、細い帯に沿って隠し刃が数本。
「……これもか」
腰後ろの布を探り、さらに数本抜く。
○はむすっとした目で見つめるだけ。
男は袖口を掴み、縫い目に沿って探る。
針。
小型の仕込み矢。
糸に巻かれた曲刃。
予備の暗器が次々と床に落ちていく。
「これほどの量の刃物を仕込んで、よくあれだけしなやかに動けたものだ」
そして最後に、男の視線が○の胸元に向けられた。
○の視線が、挑発の色を帯びる。
長い睫毛の陰から、意図的に艶っぽい眼差しを向ける。
「やだ…そんなところ、触らないで?」
普通の男なら手を引くか、運が良ければ調べない。
引っかかってくれたらこちらのもの。
だが男はまったく反応しなかった。
「色で惑わせる気なら、やめておけ」
顔色ひとつ変えず、冷静に胸元を軽く開いて縫い目へ手を伸ばし、谷間に仕込まれた薄い金属板と薬を抜き取った。
「隠し刃か。拘束を断つためだな。こちらは毒か?」
「自分を終わらせるためのね」
男は○をそこらの柱につないで、暗器をすべて床に並べ終えると、呆れたように正面から見る。
「これほど武器を仕込むとは。しかも見たこともない形状が多い」
「闇市では割と簡単に手に入るのよ。ご存じない?」
「…闇市だと?」
○は拘束されながらも笑う。
「お前の狙いは何だ。ここには価値も怪しい骨董品の類しかない。主は誰だ」
冷たい刃のような問い。
男の声は揺れず、職務のための調査そのものだ。
○は唇の端をふっと上げた。
「ここに来た目的は…その”価値も怪しい”骨董品よ。宝石がないのは知ってたわ。あれば盗んでたけど。ちなみに主はいない」
趙雲の眉が、わずかに動く。
「……骨董品?」
「そう。あなたたちが宝物庫に放っておいてるこの骨董品。保存状態がひどすぎるけど、私にとっては価値のあるモノばかりだわ」
○の声は軽やかだった。
盗賊の告白とは思えぬほど、落ち着いていて挑発的。
「だから私が保護してあげようと思って」
男は一瞬、言葉を失った。
宝物庫に盗みに入った者の言葉とは思えない。
そもそも“保存状態”など気にする盗賊を、彼は知らない。
「盗みに入っておいて…保護のつもりだった、とでも言うのか」
○は肩をすくめた。
「そうよ。この価値が分からない?古代蜀の遺物がたくさんあるって情報を手に入れたからここに来たの。そしたら情報通り。ここは素晴らしい所だわ…」
その価値観のズレは、男にとって理解不能だった。
しかしそれと同じくらい気になる事もある。
「情報だと?」
「ええ。私、暗殺と情報収集で生計を立ててるの。裏ではそれなりに有名な自負があるわ」
確かに彼女の間合いの取り方は異様に洗練されていた。
あのような短時間で武器を何種類も使い、それに応じて動いていた。
あれは素人ではない。
そして城の人間ですらよく分からずに警備させられていたこの宝物庫の情報を仕入れ、音もなく侵入してきた。
(……この女は、盗賊としても人としても歪んでいる。だが、技量は確かだ。才もある)
男は、毛先を弄ぶ○を睨む。
(処罰すべきだ……だがこの技、捨てるのは惜しい)
今の蜀は、勢力を伸ばすべく兵士や将を多数登用している。
ただ数年前と比べてかなり雑多になっており、"とりあえず登用"している節もある。
だから実力不足なままに職に就いている者も多い。
そこに来て彼女は即戦力。
その上、索敵能力に長けた人材は今の劉備軍には貴重だ。
葛藤が男の胸の奥で波を立てる。
そんな彼の心の揺れを、○は静かに、しかし正確に読み取っていた。
「なぁに?私を登用するか悩んでるの?」
クス、と微笑む。
「そうよね、今の蜀って雑多な人材だらけで、有能な兵が欲しいもの。だから私は成都にいたんだから。抜け目だらけで私みたいなのが仕事をしやすい、良い国だわ」
こちらの状況も仕入れてあるらしい。
「あなた、戦ってる最中もずっと見てたでしょ?私の動き方」
「…」
「それを見た上で、こうして話してみると意外と会話も成立するから、『使える』と思って悩んでるのね」
男の胸が、わずかに上下した。
「分かるの。私を登用したがる連中はみんな同じ顔で見てくるから」
そう言って鼻で笑う。
「でも残念ね。私、軍って嫌いなの。早く牢にでも連れて行ってくれない?ここでこうして繋がれてても仕方がないわ」
柱に繋がれているのに、その所作は優雅だ。
男は槍を握りながら、これ以上ないほど迷いを抱えた目をしていた。
自分が何を言おうとしているのか、本人にも信じられないのかもしれない。
「…私の下で働け。お前を登用する」
はっきりとした声だった。
決して軽いものではない。
武将としての誇りと義を抱えたまま、それでも捨てきれなかった判断。
○は少しだけ目を見開いた。
驚きというより“そう来ると思った”という顔だ。
「いやぁよ。面倒だもの。牢の方がいいわ」
「牢も抜けられるのだろう。その口ぶりでは」
「…それが分かってて、あなたの下でおとなしく働くと思えるの?牢から逃げるより簡単よ」
「そうだな…」
男は床にきれいに並べた刃物の中から1つの小刀を取る。
柄に美しい印章の様なものが丁寧に彫られている。
「これを預かっておく」
「…」
「お前は、これを取られた時に僅かに動揺した。大事なものなのだろう。これを置いては逃げられないし、お前では私を殺せない。私が肌身離さず持っておく」
そう言って懐に入れる。
「…ふうん。あなた、私を揺すろうって言うの?義信溢れる人だと思ってたけど、随分とずるい事をするのね」
軽く笑うと○は笑う。
「いいわ。命がかかればなんでも切り捨てられるけど……まだその時じゃないみたいだし」
「……。ただし私の独断だ。上には在野から登用したと報告するから合わせなさい」
「へぇ…?あなた、思ったより大胆なのね」
男は顔を背けるように視線を落とし、しかし声だけは揺らがせなかった。
「このまま斬るか投獄すべきだと分かっている。賊など、許されぬ存在だ。だが…」
「お前の才を捨てるのは惜しく、劉備殿の役に立つ。それだけだ」
○は少しだけ身体を乗り出し、今度は挑発ではなく、柔らかく微笑む。
「いいわ。じゃ、あなたの下で働いてあげる。その小刀を取り返したらさっさと逃げてやるからね」
「お前を信用したわけではない事は忘れるな」
「当然じゃない。だから担保を取って脅すんでしょ」
男は目を細めた。
「……そうだ。だが一歩でも逸脱すれば斬る」
「はいはい。肝に銘じておきますわ」
男は槍を下げ、拘束を解くために手を伸ばしながら言った。
「名を名乗れ。私の隊に入る以上、偽名は許さん」
○はその手を見つめ、少しだけ意地悪く微笑んだ。
「○よ。…趙雲殿」
名乗る前に名を呼ばれ、男…趙雲は目を見張る。
「驚くこと?そこら辺の野盗でも知ってるわよ」
拘束を解いて○を立たせると、床に散らばった刃物を布袋に入れた。
「来なさい」
そう言って歩き出す趙雲は、この女をどう扱うべきか真剣に模索し始めていた。
そのまま趙雲の部屋の一角には新しく衝立が立てられていた。
戸口に入ってすぐに自身の寝台。
その反対側、戸口から一番遠く窓もない壁際の角にもう一台寝台を置き、そのすぐ横に衝立。
そこが○に与えられた寝床だ。
必要最低限の隙間だけを残し、物を隠したりは出来ない様に荷物は戸口側に置かせる。
もちろん“与えた”というのは建前で、実際は監視下に置くための処置にすぎない。
趙雲は衝立を指し示し、簡潔に告げた。
「そこが寝床だ。勝手に歩くな。逃げようとすれば、直ちに拘束し小刀も壊す」
○は肩をすくめ、わざとらしく明るい声を返す。
「はいはい。監視付きのお宿ってわけね?」
「その通りだ。荷物は全てこのつづらに入れなさい。ここなら私の目に入る」
淡々と答える。
どんな挑発も誘惑も、趙雲には響かない。
理由は簡単だ。
彼女が何者であれ、危険人物であるという事実は変わらない。
下手をすれば劉備達に危害が及ぶ可能性もあるからだ。
「別々に寝るの?てっきり並んで寝るのかと思ったわ」
「余計な事ばかり話すな。敢えて言うが、お前の色香など私には通じぬ。どれだけ誘っても無駄だ」
「分かってるわよ。宝物庫で押さえつけられた時も、ずっと誘ってたのに、あなたちっとも見ないんだもの」
「失礼しちゃうわ」と減らず口をたたいた○は、衝立の向こうに消える。
趙雲は机に向かって報告書を書き始めた。
「あーあ。くだらない事になっちゃったわ」
「……休め。明日はお前の登用の許可を貰ったら挨拶周りだ。それなりに忙しい」
「はぁい。おやすみ」
布の音がかすかに聞こえて、○は寝床に横たわったのだろう事が伺える。
しかし、その寝息はしばらく聞こえなかった。
趙雲もまた、筆を取るふりをしながら進まずにいた。
“影働き”として拾った女。
どこまで信じ、どこまで疑うべきか。
盛況な飲み屋くらいしか灯りはなく、影は深く、闇は濃い。
○は黒い外套をまとい、頭にも外套を深くかぶって口元もしっかり隠す。
鍵縄で城内に入ると宝物庫の裏に回った。
壁をそっと触る。
昼間に確認したむき出しの梁に、簡単に鍵縄をひっかけることが出来た。
そこを登りきると、昼間見た窓がある。
狙い通り、蝶番が緩んでいる。
○は針金のような道具を取り出し、器用に外枠を外した。
(開いた…)
窓をほんの少し押し上げると、ひやりと冷たい空気が内側から流れてくる。
それは宝物庫に眠る“金属と土と古代の匂い”。
○はその匂いだけで、口角を上げた。
(……古い埃のいい匂い)
体を滑り込ませ、完全な無音で梁へ着地する。
薄暗くとても広い宝物庫。
古代蜀の青銅器から金細工、南中から流れた書物まで、価値の分からぬまま無造作に積まれていた。
○の目が輝く。
「やっぱり。ここの人たち、この子達の価値を何も分かってないじゃない。こんな保存状態……せっかくのお宝が台無し」
歴史的遺物が大好きな○は、この保存状態の悪さに肩を落とす。
と、その時。
○はふと動きを止めた。
静かすぎる。
夜の宝物庫は、本来なら見張りの足音が外からかすかに聞こえるはず。
子の時を見計らって侵入しているのに巡回の気配も交代の物音もない。
(…妙ね)
屋根裏の梁に伏せたまま、息を整え気配を殺す。
熟練者にしか分からない“なんとなくの空気の重さ”。
─誰かがいる。
─こちらに気づいてはいないが、動かずにいる様子。
○はほんの一瞬だけ緊張したが、すぐに口元に笑みを戻していた。
(まあいいわ。近づかれたら対処すれば)
細い糸のような影で床へ降りると、まずは物色しながら棚の間を進み、一番奥の棚で立ち止まる。
棚の上段に、金の装飾が施された古代蜀の酒器があった。
古ぼけたいい香りがする。
(これは…なんて素晴らしいの!ああ、早く持って帰ってあげたい)
指先が、器の縁に触れた。
その瞬間だった。
背後で気配が一つ。
石畳の上に落ちる。
○は目だけで振り返った。
闇の中に、一筋の銀色の線が浮かぶ。
刃だ。
その刃を静かに構えた男の気配が、宝物庫全体の空気を締め上げる。
「……そこを動くな」
闇の奥から、低く澄んだ声が落ちた。
○は返事をせず、指先でそっと棚を離し、床を蹴った。
直後、銀光が横一線に走った。
○は潜入する際、頭から足の先まで外套を着る。
失敗したり目撃された時の為に、背格好だけなら男に見えるように工夫していた。
だから姿が見られることに何の抵抗もないが、声を聞かれてはいけない。
(あれがもう一つの鍵を持つ武官ね。殺す気満々じゃない)
昼の偵察で真面目に警備をしていた男だ。
男の槍が、暗闇の中で一瞬だけ月光を受けて閃く。
突き、薙ぎ、払い。
どれも無駄を削ぎ落とした鋭い技。
(なに、こいつ…!こんな狭い所で平然と)
○は声も出さず、持ち前の身軽さでかわしていく。
風を切る音も、着地する音も聞こえない。
つかず離れず、逃げることはない挑発に似た動きに男は反応する。
「早いな」
男は気配を読むように槍を構え直し、宵闇の中の黒い影を追う。
(逃げようかと思ったけど、あの窓、立て付けが悪すぎてすぐに抜けられないのよね…挑発にも乗らないし)
○は内心舌打ちをする。
こんな放置されている蔵にここまでの手練れがいることを想定していなかったので、甘く見ていた。
窓から出るのに手間取ると、その隙に槍で一突きにされてしまうだろう。
攻撃を避けるので精一杯だ。
近距離戦になれば力で劣る自分では、とてもじゃないが倒せない。
隙をついて逃げるしかない。
○は天井梁の上から男の頭上に落下し、瞬時に短刀を抜いて襲いかかる。
金属音が宝物庫の空気を切り裂いた。
しかし狙いは男の命ではない。
○はそのまま着地すると、男の後ろにある、唯一の出口に向かって走る。
しかし男が槍を振り下ろして進行方向を塞いだので、瞬時に身体をひねって右によけ、また壁を登って梁に上がった。
「素晴らしい反応だな…まさかあれを避けるとは」
そう言った男は、暗闇をまた走り出した影を見つめた。
そして位置と軌道だけを読み、近くにあった木箱を投げつける。
力いっぱいに投げられた木箱は、○の進行方向の梁を砕く。
○は空中へ投げ出された。
体勢を崩さず、膝から転がるように着地する。
外套の中から新たな小刀を抜いた時。
男が背後へ回り込んでいた。
背後から槍の柄で首を締めあげられ、男と槍の柄に挟まれ動けない。
男の声は冷ややかで、揺るぎなかった。
「これ以上抗えば、このまま首を折る」
仕方なく、○は短刀を落とし、両手をゆっくり上げる。
男は正面に回ると槍の切っ先を○に向ける。
数秒の静寂のあと、男が低い声で命じた。
「…頭の布を外せ」
○は大きくため息をつくと口元の布を下ろしてから、頭にかぶった外套も取る。
やがて長い髪が、静かに肩へ落ちた。
灯火に照らされ、布の奥に隠れていた素顔が現れる。
男の瞳が揺れた。
「…………女……?」
○は一言もしゃべらないまま、まっすぐ彼を見た。
男は槍を下げず、しかし明らかに声の調子が変わる。
○はその様子を、布を外した指先でゆっくり髪を払いつつ見上げた。
その仕草ひとつすら、計算されている。
「ねぇ。なんでもしてあげるから──見逃がしてくれない?」
まるで密やかな秘密を囁くように、甘く、柔らかく。
美しい顔が美しく微笑む。
○は両手をあげたまま一歩、男のほうへ近づき、影に揺れる髪の隙間から上目遣いに彼を見た。
「ね?お互い、面倒な報告はしたくないでしょ?ちょっとした出来心なの…お金が必要で」
囁くような息。
微笑む唇。
首を傾げる仕草。
どれも○の十八番だ。
だが男は微動だにしなかった。
槍先はぶれず、まるで岩壁のように動かない。
その瞳に浮かんだのは、動揺ではなく拒絶だった。
「……戯れが過ぎる」
低く、硬い声。
彼は槍の柄を少しだけ押し進め、○の喉元ギリギリまで切っ先を近づけた。
「近づくな。そのような言葉で、私が心を乱すと思うな」
「やだぁ、残念。すっごいわよ、私」
この状況でも面白がるような言い方をする○に、男は言葉を返さず、ただ静かに、しかし明確な拒否の気迫で睨んだ。
「女であれ盗賊であれ、逃がす理由にはならぬ。武器を下ろせ。抵抗すれば斬る」
「なら斬ればいいわ。女は捕縛なんてされたら死ぬより辛い目にあうもの」
言うなり○は、槍の死角となる側面に身体を滑り込ませ、袖に隠していた暗器を放つ。
光を帯びた細い針が飛んだ。
狙いは男の足。
しかし槍で針を叩き落とされる。
○の目が大きく開く。
驚きの色が、ほんの一瞬走った。
その一瞬を男は逃さない。
気付いた時には石床へ仰向けで押し倒されていた。
まとめて抑えられた両手首。
膝で固定された足。
そして喉元には、槍先が静かに向けられている。
抵抗する余裕すらない。
「まだ戦う気か。その技量…本物だ。だが──私を相手にするには、足りぬ」
槍先が、皮膚すれすれまで下りてくる。
○が無言で体を捩ろうとしても、押さえる力は微動だにしない。
しかし槍先に身を寄せれば僅かに避けるあたり、まだ殺すつもりではない様だ。
「…大人しくしていろ」
男の声がわずかに低くなる。
「傷つけたくはない」
その一言で、ようやく○の肩から力が抜けた。
「はあ…降参」
観念して身体の力を抜く○。
「……この場で所持品を確認する。武器をすべて出せ」
「私は何もしないわ。あなたの好きにして」
妖しくそう言う○に、男は眉一つ動かさず手を伸ばした。
「まず…靴だ」
彼は膝で○の片足を固定し、素早く靴の内側へ手を入れる。
靴裏に仕込まれた薄型の小刀が二本、床に放られた。
男が行為に及ぼうと覆いかぶさってきた隙に仕留める為のものだ。
続いてもう片方の脚。
太腿の紐巻きに短い針が数本。
次に○の上半身を起こし、腰に手を伸ばした。
ここにも、細い帯に沿って隠し刃が数本。
「……これもか」
腰後ろの布を探り、さらに数本抜く。
○はむすっとした目で見つめるだけ。
男は袖口を掴み、縫い目に沿って探る。
針。
小型の仕込み矢。
糸に巻かれた曲刃。
予備の暗器が次々と床に落ちていく。
「これほどの量の刃物を仕込んで、よくあれだけしなやかに動けたものだ」
そして最後に、男の視線が○の胸元に向けられた。
○の視線が、挑発の色を帯びる。
長い睫毛の陰から、意図的に艶っぽい眼差しを向ける。
「やだ…そんなところ、触らないで?」
普通の男なら手を引くか、運が良ければ調べない。
引っかかってくれたらこちらのもの。
だが男はまったく反応しなかった。
「色で惑わせる気なら、やめておけ」
顔色ひとつ変えず、冷静に胸元を軽く開いて縫い目へ手を伸ばし、谷間に仕込まれた薄い金属板と薬を抜き取った。
「隠し刃か。拘束を断つためだな。こちらは毒か?」
「自分を終わらせるためのね」
男は○をそこらの柱につないで、暗器をすべて床に並べ終えると、呆れたように正面から見る。
「これほど武器を仕込むとは。しかも見たこともない形状が多い」
「闇市では割と簡単に手に入るのよ。ご存じない?」
「…闇市だと?」
○は拘束されながらも笑う。
「お前の狙いは何だ。ここには価値も怪しい骨董品の類しかない。主は誰だ」
冷たい刃のような問い。
男の声は揺れず、職務のための調査そのものだ。
○は唇の端をふっと上げた。
「ここに来た目的は…その”価値も怪しい”骨董品よ。宝石がないのは知ってたわ。あれば盗んでたけど。ちなみに主はいない」
趙雲の眉が、わずかに動く。
「……骨董品?」
「そう。あなたたちが宝物庫に放っておいてるこの骨董品。保存状態がひどすぎるけど、私にとっては価値のあるモノばかりだわ」
○の声は軽やかだった。
盗賊の告白とは思えぬほど、落ち着いていて挑発的。
「だから私が保護してあげようと思って」
男は一瞬、言葉を失った。
宝物庫に盗みに入った者の言葉とは思えない。
そもそも“保存状態”など気にする盗賊を、彼は知らない。
「盗みに入っておいて…保護のつもりだった、とでも言うのか」
○は肩をすくめた。
「そうよ。この価値が分からない?古代蜀の遺物がたくさんあるって情報を手に入れたからここに来たの。そしたら情報通り。ここは素晴らしい所だわ…」
その価値観のズレは、男にとって理解不能だった。
しかしそれと同じくらい気になる事もある。
「情報だと?」
「ええ。私、暗殺と情報収集で生計を立ててるの。裏ではそれなりに有名な自負があるわ」
確かに彼女の間合いの取り方は異様に洗練されていた。
あのような短時間で武器を何種類も使い、それに応じて動いていた。
あれは素人ではない。
そして城の人間ですらよく分からずに警備させられていたこの宝物庫の情報を仕入れ、音もなく侵入してきた。
(……この女は、盗賊としても人としても歪んでいる。だが、技量は確かだ。才もある)
男は、毛先を弄ぶ○を睨む。
(処罰すべきだ……だがこの技、捨てるのは惜しい)
今の蜀は、勢力を伸ばすべく兵士や将を多数登用している。
ただ数年前と比べてかなり雑多になっており、"とりあえず登用"している節もある。
だから実力不足なままに職に就いている者も多い。
そこに来て彼女は即戦力。
その上、索敵能力に長けた人材は今の劉備軍には貴重だ。
葛藤が男の胸の奥で波を立てる。
そんな彼の心の揺れを、○は静かに、しかし正確に読み取っていた。
「なぁに?私を登用するか悩んでるの?」
クス、と微笑む。
「そうよね、今の蜀って雑多な人材だらけで、有能な兵が欲しいもの。だから私は成都にいたんだから。抜け目だらけで私みたいなのが仕事をしやすい、良い国だわ」
こちらの状況も仕入れてあるらしい。
「あなた、戦ってる最中もずっと見てたでしょ?私の動き方」
「…」
「それを見た上で、こうして話してみると意外と会話も成立するから、『使える』と思って悩んでるのね」
男の胸が、わずかに上下した。
「分かるの。私を登用したがる連中はみんな同じ顔で見てくるから」
そう言って鼻で笑う。
「でも残念ね。私、軍って嫌いなの。早く牢にでも連れて行ってくれない?ここでこうして繋がれてても仕方がないわ」
柱に繋がれているのに、その所作は優雅だ。
男は槍を握りながら、これ以上ないほど迷いを抱えた目をしていた。
自分が何を言おうとしているのか、本人にも信じられないのかもしれない。
「…私の下で働け。お前を登用する」
はっきりとした声だった。
決して軽いものではない。
武将としての誇りと義を抱えたまま、それでも捨てきれなかった判断。
○は少しだけ目を見開いた。
驚きというより“そう来ると思った”という顔だ。
「いやぁよ。面倒だもの。牢の方がいいわ」
「牢も抜けられるのだろう。その口ぶりでは」
「…それが分かってて、あなたの下でおとなしく働くと思えるの?牢から逃げるより簡単よ」
「そうだな…」
男は床にきれいに並べた刃物の中から1つの小刀を取る。
柄に美しい印章の様なものが丁寧に彫られている。
「これを預かっておく」
「…」
「お前は、これを取られた時に僅かに動揺した。大事なものなのだろう。これを置いては逃げられないし、お前では私を殺せない。私が肌身離さず持っておく」
そう言って懐に入れる。
「…ふうん。あなた、私を揺すろうって言うの?義信溢れる人だと思ってたけど、随分とずるい事をするのね」
軽く笑うと○は笑う。
「いいわ。命がかかればなんでも切り捨てられるけど……まだその時じゃないみたいだし」
「……。ただし私の独断だ。上には在野から登用したと報告するから合わせなさい」
「へぇ…?あなた、思ったより大胆なのね」
男は顔を背けるように視線を落とし、しかし声だけは揺らがせなかった。
「このまま斬るか投獄すべきだと分かっている。賊など、許されぬ存在だ。だが…」
「お前の才を捨てるのは惜しく、劉備殿の役に立つ。それだけだ」
○は少しだけ身体を乗り出し、今度は挑発ではなく、柔らかく微笑む。
「いいわ。じゃ、あなたの下で働いてあげる。その小刀を取り返したらさっさと逃げてやるからね」
「お前を信用したわけではない事は忘れるな」
「当然じゃない。だから担保を取って脅すんでしょ」
男は目を細めた。
「……そうだ。だが一歩でも逸脱すれば斬る」
「はいはい。肝に銘じておきますわ」
男は槍を下げ、拘束を解くために手を伸ばしながら言った。
「名を名乗れ。私の隊に入る以上、偽名は許さん」
○はその手を見つめ、少しだけ意地悪く微笑んだ。
「○よ。…趙雲殿」
名乗る前に名を呼ばれ、男…趙雲は目を見張る。
「驚くこと?そこら辺の野盗でも知ってるわよ」
拘束を解いて○を立たせると、床に散らばった刃物を布袋に入れた。
「来なさい」
そう言って歩き出す趙雲は、この女をどう扱うべきか真剣に模索し始めていた。
そのまま趙雲の部屋の一角には新しく衝立が立てられていた。
戸口に入ってすぐに自身の寝台。
その反対側、戸口から一番遠く窓もない壁際の角にもう一台寝台を置き、そのすぐ横に衝立。
そこが○に与えられた寝床だ。
必要最低限の隙間だけを残し、物を隠したりは出来ない様に荷物は戸口側に置かせる。
もちろん“与えた”というのは建前で、実際は監視下に置くための処置にすぎない。
趙雲は衝立を指し示し、簡潔に告げた。
「そこが寝床だ。勝手に歩くな。逃げようとすれば、直ちに拘束し小刀も壊す」
○は肩をすくめ、わざとらしく明るい声を返す。
「はいはい。監視付きのお宿ってわけね?」
「その通りだ。荷物は全てこのつづらに入れなさい。ここなら私の目に入る」
淡々と答える。
どんな挑発も誘惑も、趙雲には響かない。
理由は簡単だ。
彼女が何者であれ、危険人物であるという事実は変わらない。
下手をすれば劉備達に危害が及ぶ可能性もあるからだ。
「別々に寝るの?てっきり並んで寝るのかと思ったわ」
「余計な事ばかり話すな。敢えて言うが、お前の色香など私には通じぬ。どれだけ誘っても無駄だ」
「分かってるわよ。宝物庫で押さえつけられた時も、ずっと誘ってたのに、あなたちっとも見ないんだもの」
「失礼しちゃうわ」と減らず口をたたいた○は、衝立の向こうに消える。
趙雲は机に向かって報告書を書き始めた。
「あーあ。くだらない事になっちゃったわ」
「……休め。明日はお前の登用の許可を貰ったら挨拶周りだ。それなりに忙しい」
「はぁい。おやすみ」
布の音がかすかに聞こえて、○は寝床に横たわったのだろう事が伺える。
しかし、その寝息はしばらく聞こえなかった。
趙雲もまた、筆を取るふりをしながら進まずにいた。
“影働き”として拾った女。
どこまで信じ、どこまで疑うべきか。