本編【16話~30話】
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いつもの時刻に食堂へ向かうと、すでに○の姿があった。
長卓の端。
趙雲の親衛隊に囲まれ、そこに馬超も混じっている。
何かを覗き込みながら笑って話をしている。
以前のように酒や冗談が飛び交うでもなく、声を張り上げる様子もない。
(……相変わらずだな)
特別なことをしているようには見えない。
いつも誰かしらがそばにいる。
酒場でもそうだった。
見た目で人を引き寄せていると言われればそうだが、世の中見た目の良い者はいくらでもいる。
現にこれだけ人との噂が立つ趙雲など、誰も話しかけてこない。
話しかけやすい空気感を作り、そこに繋ぎ止めるのは彼女の手腕なのかもしれない。
最近、趙雲の親衛隊の志願者が増えている。
趙雲について行きたいと願う武芸に熱心な者もいれば、理由をはぐらかす者もいる。
その理由のひとつに○がいそうなことは、否定できなかった。
視線を逸らし、趙雲は別の卓へ向かう。
「趙雲様」
×が、すでに席を取っていた。
そして自身の隣の椅子を引いている。
「こちらへ」
その仕草が、今日はやけにはっきりしていた。
「……失礼する」
腰を下ろすと×は自ら給仕に立ち、湯を注ぐ。
手際よく甲斐甲斐しい。
「今朝の体調はいかがですか」
視線を合わせて、そう尋ねてくる。
「体調は問題ない」と、 短く答えると×は小さく頷いた。
「それなら、よかった」
言葉だけ聞けばいつもと変わらないのに、どこか今日は違う。
距離が近く、声が柔らかい。
趙雲の様子を確かめるように、何度も視線が向けられる。
「最近、お忙しそうでしたから」
そう言って椀を差し出す。
「お身体を気遣うのも、私の務めです」
“私の”。
その言い方に、胸の奥がわずかに揺れた。
「気遣いはありがたい」
それは事実だった。
×と向き合っていると安心する。
秩序があって、無駄もなく、話も早い。
なのに 視界の端で○が馬超と何か話して笑った瞬間、 なぜか意識がそちらへ引かれた。
×はそれに気づいたのかほんの少し唇を結び、それから静かに微笑む。
「今日は、この後の予定はいかがですか」
「任務の整理がある」
「でしたら、終わり次第…お時間が許せば、少しお話しできればと」
特に予定もない。
「……分かった」
そう答えると、×はほっとしたように息をついた。
その様子を見て、胸の奥にまた別の違和感が生まれる。
趙雲は食堂のざわめきの中、二つの距離感が、静かに形を変え始めているのを感じていた。
昼からの仕事をしていた趙雲。
執務室は静かだった。
筆の走る音だけが一定の間隔で響いている。
先日の偵察の報告書を書く。
地形、敵の数、伏兵の位置…記憶を辿りながら慎重に書き進めていた。
「ここ」
不意に、背後から声がする。
振り向く前に、紙の端を細い指が押さえた。
「“林”じゃなくて“雑木”ね。潜める人数が違うから大事な事よ」
「確かにそうだな。助かる」
趙雲は筆を止め、修正を入れる。
○は満足そうに鼻を鳴らした。
すると背中に柔らかな重みがかかり、腕が回された。
背後から抱きつくように○がもたれかかっている。
「ねーえ?」
耳元に、甘く軽い声。
「今日の仕事終わり、お暇?」
「……離れなさい」
言葉は即座に出たが、力は込めていない。
○は特に気にする様子もなく、言う事を聞かないで趙雲の肩に顎に乗せて覗き込む。
「町でお祭りがあるんですって。昨日、城を抜け出した時に聞いてね」
懐から、小さな木札を取り出した。
「ほら。くじ、もらっちゃった」
木札には簡単な図と印がある。
「ついでに、ちょっと驚くものを見せて「行かない」
趙雲は、はっきりと遮った。
「……今日は用がある」
○の動きが止まる。
「へえ?」
からかうような声だが、ほんのわずかに探る色が混じった。
「珍しいじゃない。誰かと約束?」
「私用だ。祭りにはそもそも行かん。お前と行く理由もない」
それ以上は言わない。
背中の重みが、ふっと離れた。
○はあっさりと身を引き、くじを指で弄びながら笑う。
「あ、そ。じゃあ仕方ないわね」
そう言い残して何事もなかったかのように窓辺へ向かうと、そこの長椅子に腰かけて読み物を始めた。
趙雲は筆を持ち直しながら、背中に残った温度を意識から切り離そうとした。
強い言葉で言い過ぎたかもしれないが断った。
それでいい。
自分はそうあるべきだ。
趙雲は自身に言い聞かせた。
その後、書簡を提出するために回廊を歩いていると、×が駆け寄ってきた。
「趙雲様」
「…?」
「今日、城下で小さな祭りがあるそうなのです。女官は一人でその時間、城の外へ出ることができませんが、護衛してくださる方がいるなら祭に行くことは許可されていて…。もし、お仕事終わりにご都合がつくようでしたら……お話ではなく、祭にご一緒いただけないでしょうか」
今朝も予定はないと言ったので断る理由はない。
むしろ立場上も自然な申し出だ。
「ああ。構わない」
×はわずかに目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
×との外出は自身の軍務の一部でもある。
彼女となら余計な波風も立たず、他者に説明もつく。
しかし同時に、○に対して言ったことを思い出す。
祭には行かないと言ってしまった。
結果的に自分が言った事が嘘になる。
それ以外の何かもズク、と音をたてた。
趙雲は嬉しそうな×と、待ち合わせ場所を決めて別れた。
*****
約束の刻より、少し前。
趙雲が待ち合わせ場所へ向かうと、すでに×はそこにいた。
文官らしい、派手さはないがよく整えられた衣。
色味も控えめで、城務めの女性らしい清楚さがある。
祭は貴重な娯楽のひとつで、城じゅうの者がこうして出かける。
趙雲はむしろ自主的に警備に参加してこなかったし、今までに×に誘われたこともなかった。
彼女も自分と同じ気質なのだと思っていたが、今回はそうではなかったようだ。
「待たせたか?」
「いえ。来てくださって、ありがとうございます」
×は丁寧に頭を下げ、並んで歩き出す。
祭の場所へ近づくにつれ、人の数は思いのほか増えていった。
灯り、呼び声、屋台の匂い。
城内とはまるで違う、雑多で熱を帯びた空気。
「人が多いな」
「はい。思った以上ですね。小さいお祭りだと聞いていたのに」
人波に押され、×の歩調がわずかに乱れる。
趙雲は自然に一歩前へ出た。
人の流れを制しながら、×を内側へと導く。
「こちらへ」
声を落として言うと、×は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから趙雲の腕にそっと手をかけた。
人並みに押されながら、そのまま趙雲の腕を頼りに歩く形になる。
距離が近い。
不快ではない。
むしろ、守るべきものが定まった感覚がある。
その時、ふと、空気が変わった。
喧騒の向こうから澄んだ音色が流れてきたのだ。
低く落ち着いた古琴の響き。
それに重なるように細く伸びる笛の音。
「余興の音楽ですか?」
×も足を止め、耳を澄ます。
壇上の方角からだ。
人々が自然とそちらへ引き寄せられている。
趙雲の胸がわずかにざわめいた。
(……笛)
先日のことが脳裏をかすめる。
竹を削る指。
軽やかに音を操る○の姿。
諸葛亮が「周瑜殿の前で吹いて差し上げなさい」と言った声。
(……まさか)
そんなはずはない、と打ち消す。
×は、まだ趙雲の腕に手を添えたまま、穏やかに微笑んでいた。
「綺麗な音ですね」
「ああ……」
返事をしながらも、趙雲の視線は無意識に壇上の方へ向いていた。
壇上には二人の演者がいた。
古琴を弾く男は、いかにも町の住人といった風体だ。
年の頃は三十前後。
飾り気のない衣に慣れた指使い。
祭りの場に相応しい穏やかな存在感。
だがその隣。
竹笛を吹く娘に、趙雲の視線は釘付けになった。
髪は上品に結い上げられ、濃藍の外衣を重ねている。
落ち着いた色合いの素朴な衣装。
笛を吹くたびに袖が小さく揺れる。
(町の人間ではないな)
一目で分かる。
その佇まいは城の女官とも町娘とも違う。
漂う品の良さがある。
高級妓楼にいても不自然ではない見た目をしていた。
そしてその顔。
(……○?)
確信した途端、胸の奥が強く鳴った。
笛を吹く横顔。
少し伏せられた睫毛。
いつもと違う化粧。
普段の姿と違いすぎるし、人ごみの中で背の低い×からは遠くてよく見えておらず、気づいていない様だ。
(なぜ、ここに)
「大道芸でも稼いでた」という話をしていたが、これがそれなのだろうか。
「綺麗ですね」
隣で×が静かに言った。
その声に、はっとする。
「ええ……」
返事はしたが、視線はどうしても壇上から離れなかった。
○はこちらを見ていない。
客席に目をやるでもなく、ただ笛に集中している。
その姿は城で見る彼女よりもどこか遠い。
(……知らない顔だ)
いや。
知らないのではない。
これが、彼女が生きてきた世界の一部なのだ。
(私は、彼女の何を見ていたのだろう)
何を見て○を信頼しないと決め、忌み嫌ったのか。
○を見た目で決めつけていたのは誰よりも自分だったのでは。
目に見える態度だけを○の全てだと思って。
笛の音が最後の余韻を残して消える。
一拍の沈黙のあと、割れるような拍手が上がった。
人々が歓声を上げ演者に向けて声を投げる。
○は微笑み一礼した。
その仕草はあまりにも自然で楽しそうだった。
普段、血生臭い事をして金勘定をしているようには見えない。
○が「ちょっと驚くものを」と言いかけた、あの言葉。
(これを、見せたかったのか…)
あの時、何も聞かずに断った自分を思い出す。
話を最後まで聞いていたら、どうしたのだろうか。
「趙雲様?」
×が不思議そうに見上げてくる。
その視線に慌てて意識を戻す。
「……ああ、すまない」
言葉を選びながら、もう一度壇上を見る。
○はもう壇上から降り、民衆に囲まれ始めていた。
その中心で変わらぬ笑みを浮かべて。
笛と古琴の余韻が収まると、壇上の空気が切り替わった。
「次はくじ引きでーす」
張りのある声が響き、人々がざわめきながら手にした札を掲げる。
「城で配っていたんです。一人一本まで、と言われまして…」
×のその手にも、一本だけ細い札。
何度か番号が読み上げられ、当選者が壇上に上がっては歓声と笑いが起こる。
そして次の番号を読み上げられると、小さなどよめきが走った。
人垣の向こうで濃藍の衣がすっと動く。
○だった。
軽く手を挙げ、壇上へ向かう。
隣に少女を連れており、その子も手を挙げていた。
町の子だ。
○は少し腰をかがめて、その子の背中を支えながら壇上に登った。
どうやら少女の代わりに手を上げて、一緒に壇上に上がったようだ。
「君が当たったんだね~!」
司会が少女に景品を渡す。
少女は景品を受け取ると、○に軽く身を寄せてそれを見せている。
○もしゃがみこんでそれを見ていた。
今まで見たどれとも違う。
ひどく優し気な瞳で少女といる○は、壇上から降りてまた人波に紛れてしまった。
くじ引きが終わると、観客はそれぞれまた出店へと散っていった。
灯りが揺れ、笑い声がほどけていく。
趙雲は×を気遣って、出店の傍の石に座らせた。
「飲み物を買ってくる」と言って出店に向かう。
×は嬉しそうに頷いた。
飲み物を買うべく歩いていると、壇上の脇から○が歩いてくるのが見えた。
隣にはあの少女。
二人は並んで楽しげに話している。
趙雲は慌てて草むらに隠れる。
祭には来ていない事になっているのもあるし、顔を合わせられなかった。
二人の会話が聞こえる。
「クジさぁ。恋人と引きに来てって言ったのに。一人で来るんだもん。姉ちゃんの恋人、見たかったなぁ」
その言葉に、趙雲は思わず息を止める。
「やだ!ませてるわねぇ。恋人だけが全てじゃないのよ?」
「そうなの?」
「そうよ。恋人じゃなくても、一緒に笑えたり泣けたり出来る人がいれば十分だったり。名前のない関係だってあるわ」
「ふうん。でも母さんが、”いい年した女の子はお祭りに恋人と来るんだよ”って」
「ふふふっ、じゃ、あなたが恋人ねぇ」
○はそのまま人波の中へ溶けていく。
その時だった。
壇上の方から数人の男たちが駆けてくる。
祭りの関係者らしい。
「笛の人にこれを!せめて酒だ!」
「謝礼はいらないって言われても渡せよ!みんなに渡してんだから!」
息を切らしながら手に酒壺や包みを抱えている。
「笛の人!」と呼ばれて○が足を止めた。
「え。いいって言ったじゃない」
軽く手を振って断るが男たちは引かない。
「そういうわけにいかない!」
「急な欠員に入って貰ったのに、ただで吹いてもらうなんて気が引ける!」
押し付けるように差し出された酒を、○は一瞬困った顔で見下ろす。
(……無償だと?あの○が…?)
趙雲は、思わず眉を寄せた。
○は少し考えてから、酒壺を一つだけ受け取る。
「じゃあ、これからみんなで飲まない?あっちの屋台で誘われてるの。それならありがたくいただくわ」
男たちは顔を見合わせ、それから大きく笑った。
○も「飲もう飲もう」と受け止める。
趙雲の胸に、また言葉にできない違和感が重なった。
長卓の端。
趙雲の親衛隊に囲まれ、そこに馬超も混じっている。
何かを覗き込みながら笑って話をしている。
以前のように酒や冗談が飛び交うでもなく、声を張り上げる様子もない。
(……相変わらずだな)
特別なことをしているようには見えない。
いつも誰かしらがそばにいる。
酒場でもそうだった。
見た目で人を引き寄せていると言われればそうだが、世の中見た目の良い者はいくらでもいる。
現にこれだけ人との噂が立つ趙雲など、誰も話しかけてこない。
話しかけやすい空気感を作り、そこに繋ぎ止めるのは彼女の手腕なのかもしれない。
最近、趙雲の親衛隊の志願者が増えている。
趙雲について行きたいと願う武芸に熱心な者もいれば、理由をはぐらかす者もいる。
その理由のひとつに○がいそうなことは、否定できなかった。
視線を逸らし、趙雲は別の卓へ向かう。
「趙雲様」
×が、すでに席を取っていた。
そして自身の隣の椅子を引いている。
「こちらへ」
その仕草が、今日はやけにはっきりしていた。
「……失礼する」
腰を下ろすと×は自ら給仕に立ち、湯を注ぐ。
手際よく甲斐甲斐しい。
「今朝の体調はいかがですか」
視線を合わせて、そう尋ねてくる。
「体調は問題ない」と、 短く答えると×は小さく頷いた。
「それなら、よかった」
言葉だけ聞けばいつもと変わらないのに、どこか今日は違う。
距離が近く、声が柔らかい。
趙雲の様子を確かめるように、何度も視線が向けられる。
「最近、お忙しそうでしたから」
そう言って椀を差し出す。
「お身体を気遣うのも、私の務めです」
“私の”。
その言い方に、胸の奥がわずかに揺れた。
「気遣いはありがたい」
それは事実だった。
×と向き合っていると安心する。
秩序があって、無駄もなく、話も早い。
なのに 視界の端で○が馬超と何か話して笑った瞬間、 なぜか意識がそちらへ引かれた。
×はそれに気づいたのかほんの少し唇を結び、それから静かに微笑む。
「今日は、この後の予定はいかがですか」
「任務の整理がある」
「でしたら、終わり次第…お時間が許せば、少しお話しできればと」
特に予定もない。
「……分かった」
そう答えると、×はほっとしたように息をついた。
その様子を見て、胸の奥にまた別の違和感が生まれる。
趙雲は食堂のざわめきの中、二つの距離感が、静かに形を変え始めているのを感じていた。
昼からの仕事をしていた趙雲。
執務室は静かだった。
筆の走る音だけが一定の間隔で響いている。
先日の偵察の報告書を書く。
地形、敵の数、伏兵の位置…記憶を辿りながら慎重に書き進めていた。
「ここ」
不意に、背後から声がする。
振り向く前に、紙の端を細い指が押さえた。
「“林”じゃなくて“雑木”ね。潜める人数が違うから大事な事よ」
「確かにそうだな。助かる」
趙雲は筆を止め、修正を入れる。
○は満足そうに鼻を鳴らした。
すると背中に柔らかな重みがかかり、腕が回された。
背後から抱きつくように○がもたれかかっている。
「ねーえ?」
耳元に、甘く軽い声。
「今日の仕事終わり、お暇?」
「……離れなさい」
言葉は即座に出たが、力は込めていない。
○は特に気にする様子もなく、言う事を聞かないで趙雲の肩に顎に乗せて覗き込む。
「町でお祭りがあるんですって。昨日、城を抜け出した時に聞いてね」
懐から、小さな木札を取り出した。
「ほら。くじ、もらっちゃった」
木札には簡単な図と印がある。
「ついでに、ちょっと驚くものを見せて「行かない」
趙雲は、はっきりと遮った。
「……今日は用がある」
○の動きが止まる。
「へえ?」
からかうような声だが、ほんのわずかに探る色が混じった。
「珍しいじゃない。誰かと約束?」
「私用だ。祭りにはそもそも行かん。お前と行く理由もない」
それ以上は言わない。
背中の重みが、ふっと離れた。
○はあっさりと身を引き、くじを指で弄びながら笑う。
「あ、そ。じゃあ仕方ないわね」
そう言い残して何事もなかったかのように窓辺へ向かうと、そこの長椅子に腰かけて読み物を始めた。
趙雲は筆を持ち直しながら、背中に残った温度を意識から切り離そうとした。
強い言葉で言い過ぎたかもしれないが断った。
それでいい。
自分はそうあるべきだ。
趙雲は自身に言い聞かせた。
その後、書簡を提出するために回廊を歩いていると、×が駆け寄ってきた。
「趙雲様」
「…?」
「今日、城下で小さな祭りがあるそうなのです。女官は一人でその時間、城の外へ出ることができませんが、護衛してくださる方がいるなら祭に行くことは許可されていて…。もし、お仕事終わりにご都合がつくようでしたら……お話ではなく、祭にご一緒いただけないでしょうか」
今朝も予定はないと言ったので断る理由はない。
むしろ立場上も自然な申し出だ。
「ああ。構わない」
×はわずかに目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
×との外出は自身の軍務の一部でもある。
彼女となら余計な波風も立たず、他者に説明もつく。
しかし同時に、○に対して言ったことを思い出す。
祭には行かないと言ってしまった。
結果的に自分が言った事が嘘になる。
それ以外の何かもズク、と音をたてた。
趙雲は嬉しそうな×と、待ち合わせ場所を決めて別れた。
*****
約束の刻より、少し前。
趙雲が待ち合わせ場所へ向かうと、すでに×はそこにいた。
文官らしい、派手さはないがよく整えられた衣。
色味も控えめで、城務めの女性らしい清楚さがある。
祭は貴重な娯楽のひとつで、城じゅうの者がこうして出かける。
趙雲はむしろ自主的に警備に参加してこなかったし、今までに×に誘われたこともなかった。
彼女も自分と同じ気質なのだと思っていたが、今回はそうではなかったようだ。
「待たせたか?」
「いえ。来てくださって、ありがとうございます」
×は丁寧に頭を下げ、並んで歩き出す。
祭の場所へ近づくにつれ、人の数は思いのほか増えていった。
灯り、呼び声、屋台の匂い。
城内とはまるで違う、雑多で熱を帯びた空気。
「人が多いな」
「はい。思った以上ですね。小さいお祭りだと聞いていたのに」
人波に押され、×の歩調がわずかに乱れる。
趙雲は自然に一歩前へ出た。
人の流れを制しながら、×を内側へと導く。
「こちらへ」
声を落として言うと、×は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから趙雲の腕にそっと手をかけた。
人並みに押されながら、そのまま趙雲の腕を頼りに歩く形になる。
距離が近い。
不快ではない。
むしろ、守るべきものが定まった感覚がある。
その時、ふと、空気が変わった。
喧騒の向こうから澄んだ音色が流れてきたのだ。
低く落ち着いた古琴の響き。
それに重なるように細く伸びる笛の音。
「余興の音楽ですか?」
×も足を止め、耳を澄ます。
壇上の方角からだ。
人々が自然とそちらへ引き寄せられている。
趙雲の胸がわずかにざわめいた。
(……笛)
先日のことが脳裏をかすめる。
竹を削る指。
軽やかに音を操る○の姿。
諸葛亮が「周瑜殿の前で吹いて差し上げなさい」と言った声。
(……まさか)
そんなはずはない、と打ち消す。
×は、まだ趙雲の腕に手を添えたまま、穏やかに微笑んでいた。
「綺麗な音ですね」
「ああ……」
返事をしながらも、趙雲の視線は無意識に壇上の方へ向いていた。
壇上には二人の演者がいた。
古琴を弾く男は、いかにも町の住人といった風体だ。
年の頃は三十前後。
飾り気のない衣に慣れた指使い。
祭りの場に相応しい穏やかな存在感。
だがその隣。
竹笛を吹く娘に、趙雲の視線は釘付けになった。
髪は上品に結い上げられ、濃藍の外衣を重ねている。
落ち着いた色合いの素朴な衣装。
笛を吹くたびに袖が小さく揺れる。
(町の人間ではないな)
一目で分かる。
その佇まいは城の女官とも町娘とも違う。
漂う品の良さがある。
高級妓楼にいても不自然ではない見た目をしていた。
そしてその顔。
(……○?)
確信した途端、胸の奥が強く鳴った。
笛を吹く横顔。
少し伏せられた睫毛。
いつもと違う化粧。
普段の姿と違いすぎるし、人ごみの中で背の低い×からは遠くてよく見えておらず、気づいていない様だ。
(なぜ、ここに)
「大道芸でも稼いでた」という話をしていたが、これがそれなのだろうか。
「綺麗ですね」
隣で×が静かに言った。
その声に、はっとする。
「ええ……」
返事はしたが、視線はどうしても壇上から離れなかった。
○はこちらを見ていない。
客席に目をやるでもなく、ただ笛に集中している。
その姿は城で見る彼女よりもどこか遠い。
(……知らない顔だ)
いや。
知らないのではない。
これが、彼女が生きてきた世界の一部なのだ。
(私は、彼女の何を見ていたのだろう)
何を見て○を信頼しないと決め、忌み嫌ったのか。
○を見た目で決めつけていたのは誰よりも自分だったのでは。
目に見える態度だけを○の全てだと思って。
笛の音が最後の余韻を残して消える。
一拍の沈黙のあと、割れるような拍手が上がった。
人々が歓声を上げ演者に向けて声を投げる。
○は微笑み一礼した。
その仕草はあまりにも自然で楽しそうだった。
普段、血生臭い事をして金勘定をしているようには見えない。
○が「ちょっと驚くものを」と言いかけた、あの言葉。
(これを、見せたかったのか…)
あの時、何も聞かずに断った自分を思い出す。
話を最後まで聞いていたら、どうしたのだろうか。
「趙雲様?」
×が不思議そうに見上げてくる。
その視線に慌てて意識を戻す。
「……ああ、すまない」
言葉を選びながら、もう一度壇上を見る。
○はもう壇上から降り、民衆に囲まれ始めていた。
その中心で変わらぬ笑みを浮かべて。
笛と古琴の余韻が収まると、壇上の空気が切り替わった。
「次はくじ引きでーす」
張りのある声が響き、人々がざわめきながら手にした札を掲げる。
「城で配っていたんです。一人一本まで、と言われまして…」
×のその手にも、一本だけ細い札。
何度か番号が読み上げられ、当選者が壇上に上がっては歓声と笑いが起こる。
そして次の番号を読み上げられると、小さなどよめきが走った。
人垣の向こうで濃藍の衣がすっと動く。
○だった。
軽く手を挙げ、壇上へ向かう。
隣に少女を連れており、その子も手を挙げていた。
町の子だ。
○は少し腰をかがめて、その子の背中を支えながら壇上に登った。
どうやら少女の代わりに手を上げて、一緒に壇上に上がったようだ。
「君が当たったんだね~!」
司会が少女に景品を渡す。
少女は景品を受け取ると、○に軽く身を寄せてそれを見せている。
○もしゃがみこんでそれを見ていた。
今まで見たどれとも違う。
ひどく優し気な瞳で少女といる○は、壇上から降りてまた人波に紛れてしまった。
くじ引きが終わると、観客はそれぞれまた出店へと散っていった。
灯りが揺れ、笑い声がほどけていく。
趙雲は×を気遣って、出店の傍の石に座らせた。
「飲み物を買ってくる」と言って出店に向かう。
×は嬉しそうに頷いた。
飲み物を買うべく歩いていると、壇上の脇から○が歩いてくるのが見えた。
隣にはあの少女。
二人は並んで楽しげに話している。
趙雲は慌てて草むらに隠れる。
祭には来ていない事になっているのもあるし、顔を合わせられなかった。
二人の会話が聞こえる。
「クジさぁ。恋人と引きに来てって言ったのに。一人で来るんだもん。姉ちゃんの恋人、見たかったなぁ」
その言葉に、趙雲は思わず息を止める。
「やだ!ませてるわねぇ。恋人だけが全てじゃないのよ?」
「そうなの?」
「そうよ。恋人じゃなくても、一緒に笑えたり泣けたり出来る人がいれば十分だったり。名前のない関係だってあるわ」
「ふうん。でも母さんが、”いい年した女の子はお祭りに恋人と来るんだよ”って」
「ふふふっ、じゃ、あなたが恋人ねぇ」
○はそのまま人波の中へ溶けていく。
その時だった。
壇上の方から数人の男たちが駆けてくる。
祭りの関係者らしい。
「笛の人にこれを!せめて酒だ!」
「謝礼はいらないって言われても渡せよ!みんなに渡してんだから!」
息を切らしながら手に酒壺や包みを抱えている。
「笛の人!」と呼ばれて○が足を止めた。
「え。いいって言ったじゃない」
軽く手を振って断るが男たちは引かない。
「そういうわけにいかない!」
「急な欠員に入って貰ったのに、ただで吹いてもらうなんて気が引ける!」
押し付けるように差し出された酒を、○は一瞬困った顔で見下ろす。
(……無償だと?あの○が…?)
趙雲は、思わず眉を寄せた。
○は少し考えてから、酒壺を一つだけ受け取る。
「じゃあ、これからみんなで飲まない?あっちの屋台で誘われてるの。それならありがたくいただくわ」
男たちは顔を見合わせ、それから大きく笑った。
○も「飲もう飲もう」と受け止める。
趙雲の胸に、また言葉にできない違和感が重なった。