本編【16話~30話】
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朝の空気は澄んでいた。
鍛錬場へ向かう廊下で、趙雲は足を止める。
向こうから歩いてきたのは○だった。
いつも通りの足取り。
いつも通りの表情。
まるで、昨夜の出来事など最初からなかったかのように、いつか”宝の地図”だと言っていた書簡を見ながら歩いていた。
正面からの視線に気づいたのか顔を上げて趙雲を見つけた。
「おはよう、趙雲。よく眠れた?」
先に声をかけたのは○だった。
その問いに、趙雲の喉が一瞬だけ詰まる。
「……ああ」
短く答える。
(落ち着け。動揺を悟られてはならぬ)
○は趙雲の顔を見る。
探るようでも、試すようでもなく、ただ自然に。
「二日酔いは?」
「問題ない」
嘘ではない。
身体は軽い。
だが左手だけが、微かに熱を思い出す。
○は笑った。
「良かったわねぇ。昨日はあんなにふらふらだったから」
「……馬超殿ほどではない」
「確かに。あの人、途中で歌い出したりで大変だったもの」
軽く笑う。
それだけのはずの会話。
なのに、趙雲は妙に言葉を選んでいる自分に気づく。
○は何も変わっていない。
昨夜の事をすべてなかったことにしている。
それが、きっと大人として正しいはずなのに。
「……昨日は」
趙雲が口を開きかけ、しかし言葉を変えた。
「……助かった。無事に帰れたのは、お前のおかげだ。不甲斐ない」
○はすぐにいつもの笑みを浮かべて、「どういたしまして」と、さらりと返事をした。
「酔っ払い男を二人運ぶの、大変だったわ。初めてよ、あんなの」
そう言いながら、趙雲は○の手を見ないようにしていた。
○は一歩、距離を詰める。
「趙雲、昨日の事、覚えてる?」
心臓が強く鳴った。
(来るか)
○は続ける。
「多分馬超、全然覚えてないわよ。今朝、ちゃんと帰れたか部屋を覗いたけどまだ寝てたし」
「……お前は」
口をついて出そうになった言葉を寸前で飲み込む。
――“覚えているのか”。
だが、問わない。
○は何もなかった顔をしているのだから、自分もそうあるべきだ。
「……今日の予定は?」
話題を変える。
「いつも通りよ。あなたの部屋で待機。じゃ、またあとでね」
そう言って何事もなかったように歩き出す。
すれ違いざま、○の裾がほんの一瞬、趙雲の手に触れた。
ただの偶然だったろうし、裾の先が触れただけ。
それでも趙雲の歩みが一拍、遅れた。
背中を遠ざける○を見ながら、趙雲は平静を装って歩き出す。
何もなかった事にした朝。
だが、確かに何かが残っている朝だった。
×の朝は、いつも通り始まった。
書簡の整理、各隊の報告、物資の確認。
手は迷わず動いているのに、×の意識はどこか落ち着かなかった。
(……おかしい)
理由ははっきりしない。
ただ、今朝の趙雲の様子が微妙に違った。
朝餉の様子に廊下で交わした短い挨拶。
声の調子も、言葉遣いも、何ひとつ乱れてはいない。
それなのに。
(……視線が合わない)
こちらを見たはずの目がすぐに外される。
これまでの趙雲なら、どんな小さなことでも視線を合わせて話をする。
今朝はそれがなかった。
(疲れている……?いえ、そんな感じじゃない)
鎧の着こなしも、いつも通り整っている。
(何かに気を取られている感じ)
その結論に至った時、×は自分の胸の奥が、わずかにざわつくのを感じた。
(何に……?)
答えはすぐそこにあった。
中庭の向こう。
兵士たちに囲まれ、何事もなかったように笑っている○。
(……何かがあったのかしら)
確信に近い感覚があった。
それでも、問いただす理由も、立場もない。
○は正式な趙雲の副官だ。
趙雲が許可している以上、問題行動にはならない。
×は手にした書簡を、無意識に握りしめていた。
(趙雲様は、そういう方ではない)
何年も彼といて分かっている。
軽率な行動もしない。
感情に流されることもない。
なのにそんな彼が変わってしまうかもしれない事が怖い。
(……趙雲様が、遠くなる様な)
その予感だけがあったが、×は深く息を吸い書簡を整え直す。
(考えすぎよ)
そう言い聞かせても、違和感は消えなかった。
執務室には、筆を走らせる音だけがあった。
趙雲は机に向かい、○はそのすぐ隣の長椅子に座って例の”宝の地図”を見ている。
互いに言葉を交わすことはない。
いつもの空気でいつもの距離だ。
しかし、趙雲は(……近い)と感じた。
そう思った時、趙雲は自分の意識が書簡から逸れていることに気づく。
いつもなら隣に誰がいようと集中できたはずだ。
だが今日は、文字が妙に頭に入らない。
そんな趙雲の気も知らず○は不意に書簡をたたみ、口を開いた。
「ねえ、趙雲。ちょっと気になることがあるの。調べものしてきてもいい?」
「構わない。夕餉までには戻りなさい」
「了解」
○は立ち上がり、書簡を脇に抱えて軽く手を振る。
「夕餉と言わず、すぐ戻ると思うけど、面白いもの見つけたら報告するわね」
そう言って、いつもの足取りで扉へ向かう。
扉が閉まると静かになった。
執務室が本来の形に戻ったような感覚がある。
書簡に視線を戻すと、今度は文字がきちんと頭に入ってくる。
(……今日は○といると調子が狂う。出て行ってくれて助かった)
執務室を出た○は、廊下を歩いていた。
すると正面から馬超がやって来る。
「おい、○!」
「まさか、いま起きたの?朝、覗きに行った時もまだ寝てたし」
「ははは!そうなんだ、おはよう」
「おそよう。もう昼餉前よ」
「いやぁ、昨日は助かった!正直、あんまり覚えてないが…城まで運んでもらったことだけは覚えてる」
○は笑う。
二人が談笑している所に数人の兵士が通りかかる。
「ふふ。ほんと重かったわ。私にもたれて寝ようとするし」
「悪かったな!それにしても、何故、起こしてくれなかったんだ。部屋を出る時に声をかけてくれればよかったろうに」
「あれだけ幸せそうに寝てたら起こせないわよ。ま、何事もなくてよかったわね」
『寝てた?』
『起こしてくれなかった?』
『部屋を出る時?』
兵士たちの耳が、ぴくりと動く。
その場にいた兵士たちが囁く。
『まさか、馬超殿と○殿が……?』
『もともと仲いいもんな』
『何もなかった、って…逆に意味深じゃないか?』
*****
昼餉時。
食堂では、なぜかやけにひそひそ声が多かった。
ー聞いたか?ー
ー馬超殿と○殿の話だろ?ー
ー朝まで一緒に寝てたって…ー
ーでも何もなかったんだろ?ー
ーありえるか?そんな事ー
ーめちゃくちゃ酔ってたらしいー
噂には真実に尾びれ背びれがついて語られていた。
誰かの想像と期待が混ざり込み、当人不在のまま話だけが膨らんでいく。
食堂はいつもよりざわついていた。
趙雲は席に着き黙々と箸を進めていたが、耳に入ってくる声を無視しきれずにいた。
「聞いたか、馬超殿の……」
「○殿と朝まで一緒に寝てたって話だろ?」
「酔っ払いすぎて何もなかった、って……」
箸が止まる。
趙雲は表情を変えないまま視線を落とした。
(隣で寝ていたのは……私だ)
これが事実だ。
しかしそれを正す必要も理由もない。
自分が同じ寝台で眠ったことを、わざわざ公にする意味などない。
それは理解している。
理解しているが胸の奥が妙にざわつく。
(…馬超殿か)
噂の中心に据えられた名を思い、ほんのわずかに眉間に力が入った。
その時。
「趙雲!」
やや大きな声と共に、食堂の入口から馬超が現れた。
いつもの豪快さは影を潜め、顔には焦りがはっきりと浮かんでいる。
「ちょっといいか!」
周囲の視線が一斉に集まる。
趙雲はため息をつく代わりに静かに箸を置いた。
「何か?」
「噂だ!変な噂が広がってるだろ!」
「……ああ」
短く答える。
それが余計に、馬超の焦りを煽った。
「違うんだ!俺はただ運んでもらっただけで、隣で寝たとか、そういう意味じゃなくてだな…!○はお前の副官だからちゃんと説明を…!」
必死な弁明。
だが、その声の大きさが逆効果だった。
「何かはあったんだろうな」
「顔が真っ赤だぞ」
周囲の兵士が面白がるように囁き合う。
「違う!何もなかった!本当に、何もだ!俺は酔った拍子に手など出さん!」
「馬超殿。噂など、放っておけばいい。真実でなければ、いずれ消えるのだから」
色恋の噂を立てられやすい趙雲は慣れたものだ。
そんな意見に馬超は口を開きかけ、やがて渋々閉じる。
納得していない顔をしている。
食堂を出た後も、馬超は腕を組んだまま廊下を行ったり来たりしていた。
「……どうしたもんかな……」
独り言のように呟き頭を掻く。
言い訳を重ねるほど、自分でも収拾がつかなくなっているのが分かる。
馬超は自分がこのような噂を立てられることに慣れていないせいで、陰でヒソヒソ言われるのがどうにも気に障る。
一方、趙雲は数歩離れた場所で立ち止まり、壁際に視線を落としていた。
(……静まらぬな)
胸の奥に残るざわつきが消えない。
この噂が耳に入る度に昨晩の事を思い出してしまって集中できないでいた。
その時、静かな足音が近づく。
「趙雲様」
振り向くと、×が心配そうな表情で立っていた。
「噂話で騒がしかったようですね」
視線は自然と落ち着かない様子の馬超にも向けられる。
「馬超様。はっきり否定できないほど…酩酊されるほど飲まれたのですか?……まさか、趙雲様まで?」
馬超は目を逸らし、趙雲は短く息を吐いた。
「……否定はできない」
その答えに×は小さく目を見開く。
「そうでしたか」
馬超が肩を落とす。
「○だけが全く酔ってなかったからな」
ぼそりと漏れたその言葉に、趙雲が即座に反応した。
「○はどこだ」
顔を上げ、周囲を見渡す。
「彼女にも釘を刺しておかなくてはならない。この状況を面白がって余計な事をしかねん」
「うわ、やりそうだな」
馬超もうなずいた。
×は何も言わず、ただ二人の様子を静かに見つめる。
(……趙雲様が、あそこまで気にかける必要があるのでしょうか)
そう思ったが言えなかった。
鍛錬場へ向かう廊下で、趙雲は足を止める。
向こうから歩いてきたのは○だった。
いつも通りの足取り。
いつも通りの表情。
まるで、昨夜の出来事など最初からなかったかのように、いつか”宝の地図”だと言っていた書簡を見ながら歩いていた。
正面からの視線に気づいたのか顔を上げて趙雲を見つけた。
「おはよう、趙雲。よく眠れた?」
先に声をかけたのは○だった。
その問いに、趙雲の喉が一瞬だけ詰まる。
「……ああ」
短く答える。
(落ち着け。動揺を悟られてはならぬ)
○は趙雲の顔を見る。
探るようでも、試すようでもなく、ただ自然に。
「二日酔いは?」
「問題ない」
嘘ではない。
身体は軽い。
だが左手だけが、微かに熱を思い出す。
○は笑った。
「良かったわねぇ。昨日はあんなにふらふらだったから」
「……馬超殿ほどではない」
「確かに。あの人、途中で歌い出したりで大変だったもの」
軽く笑う。
それだけのはずの会話。
なのに、趙雲は妙に言葉を選んでいる自分に気づく。
○は何も変わっていない。
昨夜の事をすべてなかったことにしている。
それが、きっと大人として正しいはずなのに。
「……昨日は」
趙雲が口を開きかけ、しかし言葉を変えた。
「……助かった。無事に帰れたのは、お前のおかげだ。不甲斐ない」
○はすぐにいつもの笑みを浮かべて、「どういたしまして」と、さらりと返事をした。
「酔っ払い男を二人運ぶの、大変だったわ。初めてよ、あんなの」
そう言いながら、趙雲は○の手を見ないようにしていた。
○は一歩、距離を詰める。
「趙雲、昨日の事、覚えてる?」
心臓が強く鳴った。
(来るか)
○は続ける。
「多分馬超、全然覚えてないわよ。今朝、ちゃんと帰れたか部屋を覗いたけどまだ寝てたし」
「……お前は」
口をついて出そうになった言葉を寸前で飲み込む。
――“覚えているのか”。
だが、問わない。
○は何もなかった顔をしているのだから、自分もそうあるべきだ。
「……今日の予定は?」
話題を変える。
「いつも通りよ。あなたの部屋で待機。じゃ、またあとでね」
そう言って何事もなかったように歩き出す。
すれ違いざま、○の裾がほんの一瞬、趙雲の手に触れた。
ただの偶然だったろうし、裾の先が触れただけ。
それでも趙雲の歩みが一拍、遅れた。
背中を遠ざける○を見ながら、趙雲は平静を装って歩き出す。
何もなかった事にした朝。
だが、確かに何かが残っている朝だった。
×の朝は、いつも通り始まった。
書簡の整理、各隊の報告、物資の確認。
手は迷わず動いているのに、×の意識はどこか落ち着かなかった。
(……おかしい)
理由ははっきりしない。
ただ、今朝の趙雲の様子が微妙に違った。
朝餉の様子に廊下で交わした短い挨拶。
声の調子も、言葉遣いも、何ひとつ乱れてはいない。
それなのに。
(……視線が合わない)
こちらを見たはずの目がすぐに外される。
これまでの趙雲なら、どんな小さなことでも視線を合わせて話をする。
今朝はそれがなかった。
(疲れている……?いえ、そんな感じじゃない)
鎧の着こなしも、いつも通り整っている。
(何かに気を取られている感じ)
その結論に至った時、×は自分の胸の奥が、わずかにざわつくのを感じた。
(何に……?)
答えはすぐそこにあった。
中庭の向こう。
兵士たちに囲まれ、何事もなかったように笑っている○。
(……何かがあったのかしら)
確信に近い感覚があった。
それでも、問いただす理由も、立場もない。
○は正式な趙雲の副官だ。
趙雲が許可している以上、問題行動にはならない。
×は手にした書簡を、無意識に握りしめていた。
(趙雲様は、そういう方ではない)
何年も彼といて分かっている。
軽率な行動もしない。
感情に流されることもない。
なのにそんな彼が変わってしまうかもしれない事が怖い。
(……趙雲様が、遠くなる様な)
その予感だけがあったが、×は深く息を吸い書簡を整え直す。
(考えすぎよ)
そう言い聞かせても、違和感は消えなかった。
執務室には、筆を走らせる音だけがあった。
趙雲は机に向かい、○はそのすぐ隣の長椅子に座って例の”宝の地図”を見ている。
互いに言葉を交わすことはない。
いつもの空気でいつもの距離だ。
しかし、趙雲は(……近い)と感じた。
そう思った時、趙雲は自分の意識が書簡から逸れていることに気づく。
いつもなら隣に誰がいようと集中できたはずだ。
だが今日は、文字が妙に頭に入らない。
そんな趙雲の気も知らず○は不意に書簡をたたみ、口を開いた。
「ねえ、趙雲。ちょっと気になることがあるの。調べものしてきてもいい?」
「構わない。夕餉までには戻りなさい」
「了解」
○は立ち上がり、書簡を脇に抱えて軽く手を振る。
「夕餉と言わず、すぐ戻ると思うけど、面白いもの見つけたら報告するわね」
そう言って、いつもの足取りで扉へ向かう。
扉が閉まると静かになった。
執務室が本来の形に戻ったような感覚がある。
書簡に視線を戻すと、今度は文字がきちんと頭に入ってくる。
(……今日は○といると調子が狂う。出て行ってくれて助かった)
執務室を出た○は、廊下を歩いていた。
すると正面から馬超がやって来る。
「おい、○!」
「まさか、いま起きたの?朝、覗きに行った時もまだ寝てたし」
「ははは!そうなんだ、おはよう」
「おそよう。もう昼餉前よ」
「いやぁ、昨日は助かった!正直、あんまり覚えてないが…城まで運んでもらったことだけは覚えてる」
○は笑う。
二人が談笑している所に数人の兵士が通りかかる。
「ふふ。ほんと重かったわ。私にもたれて寝ようとするし」
「悪かったな!それにしても、何故、起こしてくれなかったんだ。部屋を出る時に声をかけてくれればよかったろうに」
「あれだけ幸せそうに寝てたら起こせないわよ。ま、何事もなくてよかったわね」
『寝てた?』
『起こしてくれなかった?』
『部屋を出る時?』
兵士たちの耳が、ぴくりと動く。
その場にいた兵士たちが囁く。
『まさか、馬超殿と○殿が……?』
『もともと仲いいもんな』
『何もなかった、って…逆に意味深じゃないか?』
*****
昼餉時。
食堂では、なぜかやけにひそひそ声が多かった。
ー聞いたか?ー
ー馬超殿と○殿の話だろ?ー
ー朝まで一緒に寝てたって…ー
ーでも何もなかったんだろ?ー
ーありえるか?そんな事ー
ーめちゃくちゃ酔ってたらしいー
噂には真実に尾びれ背びれがついて語られていた。
誰かの想像と期待が混ざり込み、当人不在のまま話だけが膨らんでいく。
食堂はいつもよりざわついていた。
趙雲は席に着き黙々と箸を進めていたが、耳に入ってくる声を無視しきれずにいた。
「聞いたか、馬超殿の……」
「○殿と朝まで一緒に寝てたって話だろ?」
「酔っ払いすぎて何もなかった、って……」
箸が止まる。
趙雲は表情を変えないまま視線を落とした。
(隣で寝ていたのは……私だ)
これが事実だ。
しかしそれを正す必要も理由もない。
自分が同じ寝台で眠ったことを、わざわざ公にする意味などない。
それは理解している。
理解しているが胸の奥が妙にざわつく。
(…馬超殿か)
噂の中心に据えられた名を思い、ほんのわずかに眉間に力が入った。
その時。
「趙雲!」
やや大きな声と共に、食堂の入口から馬超が現れた。
いつもの豪快さは影を潜め、顔には焦りがはっきりと浮かんでいる。
「ちょっといいか!」
周囲の視線が一斉に集まる。
趙雲はため息をつく代わりに静かに箸を置いた。
「何か?」
「噂だ!変な噂が広がってるだろ!」
「……ああ」
短く答える。
それが余計に、馬超の焦りを煽った。
「違うんだ!俺はただ運んでもらっただけで、隣で寝たとか、そういう意味じゃなくてだな…!○はお前の副官だからちゃんと説明を…!」
必死な弁明。
だが、その声の大きさが逆効果だった。
「何かはあったんだろうな」
「顔が真っ赤だぞ」
周囲の兵士が面白がるように囁き合う。
「違う!何もなかった!本当に、何もだ!俺は酔った拍子に手など出さん!」
「馬超殿。噂など、放っておけばいい。真実でなければ、いずれ消えるのだから」
色恋の噂を立てられやすい趙雲は慣れたものだ。
そんな意見に馬超は口を開きかけ、やがて渋々閉じる。
納得していない顔をしている。
食堂を出た後も、馬超は腕を組んだまま廊下を行ったり来たりしていた。
「……どうしたもんかな……」
独り言のように呟き頭を掻く。
言い訳を重ねるほど、自分でも収拾がつかなくなっているのが分かる。
馬超は自分がこのような噂を立てられることに慣れていないせいで、陰でヒソヒソ言われるのがどうにも気に障る。
一方、趙雲は数歩離れた場所で立ち止まり、壁際に視線を落としていた。
(……静まらぬな)
胸の奥に残るざわつきが消えない。
この噂が耳に入る度に昨晩の事を思い出してしまって集中できないでいた。
その時、静かな足音が近づく。
「趙雲様」
振り向くと、×が心配そうな表情で立っていた。
「噂話で騒がしかったようですね」
視線は自然と落ち着かない様子の馬超にも向けられる。
「馬超様。はっきり否定できないほど…酩酊されるほど飲まれたのですか?……まさか、趙雲様まで?」
馬超は目を逸らし、趙雲は短く息を吐いた。
「……否定はできない」
その答えに×は小さく目を見開く。
「そうでしたか」
馬超が肩を落とす。
「○だけが全く酔ってなかったからな」
ぼそりと漏れたその言葉に、趙雲が即座に反応した。
「○はどこだ」
顔を上げ、周囲を見渡す。
「彼女にも釘を刺しておかなくてはならない。この状況を面白がって余計な事をしかねん」
「うわ、やりそうだな」
馬超もうなずいた。
×は何も言わず、ただ二人の様子を静かに見つめる。
(……趙雲様が、あそこまで気にかける必要があるのでしょうか)
そう思ったが言えなかった。