本編【16話~30話】
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酒場の扉を押し開けた瞬間、中のざわつきがふっと弱まった。
馬超はいつもより地味な旅装で、ただの屈強な旅の男になっている。
趙雲は黒外套に深い頭巾。
○は髪形も服装も変えて、旅の一座の様にまとめてみた。
三人は空いてる席に並んで座り酒を頼む。
そんな時、視界の端で気になるものが動いた。
店奥の壁際に座った男。
○達に周囲が注目する中、こちらを見ないようにしている不自然な顔の向き。
(変装してる私たちに気づいたわけじゃないみたいだけど…何かを見張ってるのかしら)
○は何気ないしぐさで、密偵同士にだけ分かる“合図”を送った。
密偵で来ているのならこの些細な合図にも気付くはずだ。
すると、男の肩が震えた。
(やっぱりね)
○がニヤリと笑う。
すると背後から腕を掴まれた。
「……○」
低い、押し潰したような声で趙雲が呼ぶ。
「何をした」
「いやちょっと…昔のよしみかと思ってね」
趙雲の目の奥に、わずかな怒りが見えた。
変装しているからこそ余計に、○の行動は危険すぎる。
そして趙雲の知らないところで出された合図というのが特に許せない様だ。
その時、馬超が酔った声で呼んだ。
「おーい、なんか揉めてんのかー?」
「なんでもないわ。飲みましょ」
飲み始めてしばらくすると、横の席から声が飛ぶ。
「姉ちゃん、これ奢るよ!」
振り返ると、粗野だが悪意のない笑顔の男が酒盃を差し出している。
○はぱっと朗らかに笑った。
「まぁ、嬉しい。ありがとう!」
その瞬間、店の空気が変わった。
話しかけるきっかけが出来たとばかりに。
隣の席、その隣と、男性客たちが次々と立ち上がる。
「じゃあ俺も!」「俺も!」と、あっという間に酒がずらりと並んだ。
盗賊時代、裏稼業時代。
○が顔を出せば自然と人が集まって利益が転がり込んだ。
この酒場も同じだ。
馬超が笑った。
「なんだお前、慣れてるな。どこ行ってもこうなのか?」
「えぇ、大体ね。ほら、ただ酒ただ酒」
そう小声で言った○は、隣の趙雲をチラリと見る。
彼の前にも盃がずらりと並んでいた。
(そういえばこの人、普段お酒を飲まないのよね。…酔わせてみようかしら…)
そう考えた○は、本来酒豪で飲み比べで負けたことがないのに、周囲の客に聞こえるように言う。
「こんなの全部飲んだら、酔っちゃうかも…酔ったらすぐに帰るって約束してるのに…皆さんとすぐにお別れになっちゃうわね」
声を少しだけ甘く、熱っぽく出してみる。
すると周囲の客が馬超や趙雲に目をつけて、「飲んでやれ!」と騒ぎ出す。
馬超は豪快に笑って、「おう飲むぞ!任せろ!」と飲み始めた。
ーーーーーー
趙雲は○の隣で、彼女越しに馬超や他の客を見ていた。
○のお礼の笑顔ひとつで、さらに別の席からも酒が飛んでくる。
そしてまた別の席から。
気づけば趙雲の前にも酒盃が山のように積み上がっていた。
(……こうして人が群がる瞬間を見るのは初めてだな)
○はどこにいても騒ぎの中心になる。
自分に注目を集めさせるのが上手い。
天性のものなのか、経験から身につけたものなのか。
結局、客たちは酔いに任せて、我々にも盃を差し出してきた。
○が隣で盃を持ちながら、「こんなの全部飲んだら、酔っちゃうかも…」とした一言で、客たちの視線が一気にこちらへ向かう。
「兄さん、代わりに飲んでやれよ!」
「外套の兄さんもいけるだろ!」
完全に巻き込まれた。
趙雲は盃を一つ取り、口をつける。
酒は飲めなくはないが、好んで飲みたくはない。
数杯飲んだ時、ふと、視界の端で○を見る。
僅かに酒で頬を染め、ほほ笑んでいる。
だがその目の奥は酔っていない。
(……これは計画的にやっているな)
自分を酔わせようとしているのが分かった。
ーーーーー
○は久しぶりに楽しんでいた。
本当に今日は、計算も駆け引きも、色仕掛けもなしで、ただ楽しく飲みたかった。
理由なんてなく、久しぶりに「ただの私」で過ごしたい気分。
だから趙雲を酔わせたかった。
あの堅物が酔ったら、肩の力が抜けて○も気楽に飲める気がした。
人が集まり、酒が積まれ、○は久しぶりに笑った。
本当に心から。
そんな時だった。
馬超の顔が、目の前に突然近づく。
「おい○…っはは、なんだよお前、今日はやけに機嫌いいじゃないか!」
完全に酔っている。
目がとろんとして、頬が赤い。
「ちょっと、近いわよ馬超」
軽く押そうとしたが、彼は逆にぐっと距離を詰めてきた。
「いいだろ別に〜、楽しいんだよ今日は。お前が好きなんだよ~、俺」
「それは知ってるわ」
「○、ちょっとこっちに…こう、もっと」
馬超は大きな身体でぐっと寄ってきて、○の腰に腕を回し自分にくっつけようと力を入れた。
ちょうどその時。
馬超の手首が止められた。
ーーーーーーーー
一人黙々と飲んでいた趙雲。
酒が少し回ってきて、盃を置くと、視界がふっと薄く揺れた。
その時、馬超が○に迫るのが見えた。
寄りかかり、腕が回る。
「馬超殿」
趙雲が馬超の手首を掴む。
「酔いすぎだ」
「な、なんだよ趙雲…!別にいいだろ!俺と○の仲だぞ!普段だって…」
「限度を超えている」
馬超がむっと眉を寄せて、○が割って入った。
「大丈夫よ、趙雲。ほら、馬超は無邪気なだけ。いつもの事じゃない」
今の○は、本当に楽しそうに笑っていた。
意地悪く口角を上げた顔ではなく、年相応の楽しそうな表情。
そんな笑顔、初めて見たかもしれない。
だからこそ余計に胸がざわついた。
馬超は酔っていて○は無防備。
店は騒がしい。
全員、理性が緩んでいる。
ぎゅ、と無意識に掴んでいた指に力がこもり、馬超が手を引いた。
○が目を丸くして趙雲を見た。
「……いいから。間をあけろ」
馬超は不満げだが従い、○は逆に少しだけ頬を赤らめて笑った。
「ふふ…趙雲って、酔うとちょっと怖いのね」
その言葉が胸に刺さる。
すると別の席の男たちが馬超に声をかける。
「兄ちゃん、こっちで飲もう!」
「連れの姉ちゃん、美人だな!」
快活な馬超はすぐに他の客に受け入れられ、趙雲に怒られたこともあり、酔った勢いでプリプリ怒ってそのまま別席に移ってしまう。
馬超が席を移るのを見て○は笑った。
「あら、拗ねちゃった。もう、趙雲が怒るから」
少年のような拗ね方が少し可愛くて、○は盃を置き立ち上がった。
「ちょっと行ってくるわ」
馬超の座る別席の方へ歩きかけた、その時。
すっと腕を掴まれた。
強くではないが、振り払えない力だった。
ーーーーー
○が立ち上がった瞬間、胸がざわついた。
行ってもいい。
ただの酒席なのだから。
なのに。
手が勝手に動いた。
「待て」
○の腕を掴んだ自分に、自分がいちばん驚いた。
○が振り返り、目を丸くして私を見る。
「どうしたの、趙雲?」
どうしたのか自分でもわからない。
ただ、言葉が勝手にこぼれた。
「…あの状態の馬超殿に、お前を任せられん」
○はふっと笑った。
いつもの挑発的な笑みではない。
どこか、やわらかい。
「彼は酔っている」
「酔ってるのは趙雲のほうじゃない?」
図星だった。
酔っている。
判断が甘くなっている。
指先に力が入る。
○が少し驚いた顔をした。
だが、腕を引き剥がすことはしない。
周りでは笑い声が響き、馬超の大声が聞こえる。
なのに、この小さな一角だけひどく静かだった。
「……あっちに行きたいんだけど」
○が微笑む。
私は酔っているせいか、素直に言ってしまった。
「駄目だ」
言葉にした瞬間、胸の奥を何か鋭いものが突き抜けた。
(今……私は、何と言った?)
○が目を丸くして「駄目なの?」と小さく繰り返した。
私は思わず視線をそらす。
(言い方が強すぎた。まるで…私が○を…)
言葉にするだけで頭が痛くなる。
誤解だ。
誤解もいいところだ。
×の顔が脳裏に浮かぶ。
馬超に対して心配しているだけ。
彼が酔っていたから──そうだ、酔っていたからだ。
「…あれだ。あの状況の馬超殿の所にお前が行けば、余計に騒ぎが増す。収拾がつかなくなる」
○はじっとこちらを見る。
その目が酔いのせいか少し潤んで見えた。
普段の私なら、こんなに露骨に感情を出すことはない。
○はその動揺にすぐ気づいたようで、ふっと微笑んだ。
「いいわ、分かった」
そう言って○は椅子に座り直す。
私は咳払いし、無理やり声を整えた。
「私はただ、今のお前の行動が危険だと言っているだけだ」
「はいはい。言えば言うほどってやつよ?」
○は机に肘をついて、顔を寄せてきた。
「趙雲、酔ってるでしょ」
「酔っていない」
「嘘。目がいつもより優しいわ」
趙雲の胸が、再び跳ねた。
(落ち着け……普段のように対処すれば良い…)
しかし声が思うように出ない。
いつも通りにしようと内心戦っている趙雲だが、その葛藤の中、隣の卓で飲んでいた男が空の盃を床に落とした。
カシャァン、と乾いた音。
盃を落とした男の視線が、○の方へ向く。
「おい…さっきから愛想よく飲んでやがるが…俺の酒には礼もねぇのか?」
○からすればよくある絡みだ。
珍しくもない。
○は艶やかに微笑み、「お礼なら、さっき言ったじゃない」と軽やかに返した。
だが男は気分を害したらしい。
「聞こえなかったんだよ。もう一回、もっと可愛く言ってみろよ。身体を触らせてくれてもいいんだぞ」
周囲の空気が、一瞬変わった。
男が立ち上がって○の方に近づこうとした時、気づけば趙雲も立ち上がって前に出ていた。
自然に○と男の間に割って入る。
「……やめておけ」
その声には、いつもの冷静とは違う、どこか荒い息遣いが混じっていた。
「なんだ、兄ちゃん……コイツの護衛か?」
「護衛ではない…だが、手は出させない」
○が、ぽかんと息をのむ。
馬超も驚いて目を丸くする。
男は舌打ちしながら、趙雲の後ろにいる○へと下品な視線を向けた。
「お前みたいな女はそうやって顔と身体だけで男を盾にしやがるから腹が立つんだ!いいよなぁ!生意気してても、笑って股開いてりゃ男が勝手に守ってくれ──」
ドンッ!!
突如、卓が震える音。
○が拳で机を叩いて立ち上がっていた。
その一撃は、店中のざわめきを一瞬で止めるほど鋭い。
薄暗い灯りの中で、彼女の瞳だけが妖しく光る。
「誰が誰に守られてるって?……気に入らないわね。勝負よ」
男が目を剥く。
「は……?」
「先に床に押し付けられたら負け。私が負けたらアンタの好きにしていいわ」
まさかの宣言に、近くにいた数人が「お、おい……」と声を潜める。
「○!」
趙雲が止めようとするが○が手で制した。
しかし相手は○よりもかなりガタイのある男だ。
「じゃ、今から開始ね」
「いいぞ!」
男はスケベそうな顔で頷いた。
男が怒りに任せて腕を伸ばしたその瞬間。
○はその腕を軽々と避けて足払いをした。
重心を奪って背が低くなった肩を足で押し込む。
ドンッ!という音と共に、男は床に叩き伏せられた。
○が背中に踵を押し付けて、男を背後から覗き込む。
悲鳴に近い唸り声が床板に吸われる。
彼女は愉しそうに高笑いをして、片手で髪をかき上げた。
「うふふ…ばーーーーか。ここ、全部アンタの奢りね?」
悪戯っぽく、普段では言わないような声量でそう言った○。
男は声にならない声で呻く。
すると酒場にいた客たちから一斉に拍手が湧き上がった。
「お、おお……!」
「すげぇ……!」
「強ぇ!!」
○は片手を上げて喝采を受け、豪快に笑った。
(なんと滅茶苦茶な…)
その後ろで立ち尽くす趙雲は静かに息を飲んだ。
しかしその胸の奥には、別の感情もかすかに芽を出し始めていた。
男を叩き伏せて喝采を浴びた後も、○はけろっとした顔で席に戻り、何事もなかったかのように杯を口に運んでいた。
さっき絡んできた男から巻き上げた酒も追加されている。
一方趙雲は完全に酒が回ってしまい、机に片腕を突き伏せてしまった。
「……まだ飲むのか、お前……」
かすれた声で顔を上げ、驚愕に近い表情を向ける。
○は軽く杯を揺らしながら笑う。
「まだまだいけるわよ」
「限度、というものが……ある……」
言いながら、また額が机につく。
ほんの少し頬が赤い。
普段なら絶対見せない隙だ。
○はそんな趙雲をじっと眺め、ふっと、優しく微笑んだ。
「酔ってるわね」
「……否定は……できん……」
「馬超は酔うと騒ぐタチだけど、趙雲は寝ちゃうのね」
「眠いが…まだ…いける」
それすらも素直。
不思議と、○はその様子が気に入っていた。
しばらく○が酒を飲み、趙雲がうつ伏せで呼吸を整える沈黙が続いた。
馬超は相変わらず違う席で大盛り上がりしている。
その沈黙を破ったのは趙雲だった。
「……月……」
「ん?」
「……あの夜……お前と、月……見た」
酔いのせいか、言葉がどこか柔らかい。
○は杯を下ろし、横目で趙雲を見る。
「思い出してたの?」
「……ああ……月が……まっすぐ……海に落ちていて……美しかった。たまに…思い出す」
「あなたの口から“美しい”なんて言葉、なんだか珍しいわね」
趙雲は顔を伏せたまま答える。
「月を見た時──お前も……綺麗だと、思った」
○は瞬きをするが、茶化すでもなくニヤリと笑う。
「ふふん…今更気づいたの?気付くのが遅すぎるのよ」
軽く首を傾け、酔いの残る趙雲の横顔を覗き込む。
冗談めかしたその言い方なのに、ほんのわずか、声が柔らかい。
「お前といると…疲れる……」
「でも、刺激的でしょう?」
「……刺激が強すぎる」
趙雲は目を閉じたまま、少し息を吐いた。
「また楽しいところに連れてってあげるわよ。あなたの知らない所はたくさんあるわ」
そして○は、何気ない風を装いながら、机の下へと手を伸ばした。
指先がそっと、趙雲の手の甲に触れる。
ほんの一瞬だけ、彼の肩が微かに揺れた。
だが拒絶はなかった。
そのまま、○は趙雲の手をゆっくりと自分の手のひらに包み込んだ。
“握る”のでもなく、“求める”のでもなく。
ただ、触れ合うだけ。
誰にも見られないように、机の下で。
趙雲は目を閉じたまま、手を引きもしなかった。
だが握り返すわけでもない。
彼の中で何か葛藤があるのか。
その曖昧な沈黙に○は余計に楽しげになる。
側から見ればただ隣り合って静かに座っているだけなのに、机の下では互いの体温が触れ合っている。
酒場のざわめきの中で、2人だけの小さな秘密。
○は微笑みながら、そっと指をからめようとしたが。
趙雲がかすかに声を落とした。
「……○。…それ以上は…やめろ」
○は指を絡めるのをやめる。
「じゃ、これはどうする?離す?」
「…」
そう言いながら手の甲をトン、と指先でつつく。
趙雲は返事をしなかった。
ただ握られた手はそのままにしている。
○は、今日の所はそれだけで満足した。
馬超はいつもより地味な旅装で、ただの屈強な旅の男になっている。
趙雲は黒外套に深い頭巾。
○は髪形も服装も変えて、旅の一座の様にまとめてみた。
三人は空いてる席に並んで座り酒を頼む。
そんな時、視界の端で気になるものが動いた。
店奥の壁際に座った男。
○達に周囲が注目する中、こちらを見ないようにしている不自然な顔の向き。
(変装してる私たちに気づいたわけじゃないみたいだけど…何かを見張ってるのかしら)
○は何気ないしぐさで、密偵同士にだけ分かる“合図”を送った。
密偵で来ているのならこの些細な合図にも気付くはずだ。
すると、男の肩が震えた。
(やっぱりね)
○がニヤリと笑う。
すると背後から腕を掴まれた。
「……○」
低い、押し潰したような声で趙雲が呼ぶ。
「何をした」
「いやちょっと…昔のよしみかと思ってね」
趙雲の目の奥に、わずかな怒りが見えた。
変装しているからこそ余計に、○の行動は危険すぎる。
そして趙雲の知らないところで出された合図というのが特に許せない様だ。
その時、馬超が酔った声で呼んだ。
「おーい、なんか揉めてんのかー?」
「なんでもないわ。飲みましょ」
飲み始めてしばらくすると、横の席から声が飛ぶ。
「姉ちゃん、これ奢るよ!」
振り返ると、粗野だが悪意のない笑顔の男が酒盃を差し出している。
○はぱっと朗らかに笑った。
「まぁ、嬉しい。ありがとう!」
その瞬間、店の空気が変わった。
話しかけるきっかけが出来たとばかりに。
隣の席、その隣と、男性客たちが次々と立ち上がる。
「じゃあ俺も!」「俺も!」と、あっという間に酒がずらりと並んだ。
盗賊時代、裏稼業時代。
○が顔を出せば自然と人が集まって利益が転がり込んだ。
この酒場も同じだ。
馬超が笑った。
「なんだお前、慣れてるな。どこ行ってもこうなのか?」
「えぇ、大体ね。ほら、ただ酒ただ酒」
そう小声で言った○は、隣の趙雲をチラリと見る。
彼の前にも盃がずらりと並んでいた。
(そういえばこの人、普段お酒を飲まないのよね。…酔わせてみようかしら…)
そう考えた○は、本来酒豪で飲み比べで負けたことがないのに、周囲の客に聞こえるように言う。
「こんなの全部飲んだら、酔っちゃうかも…酔ったらすぐに帰るって約束してるのに…皆さんとすぐにお別れになっちゃうわね」
声を少しだけ甘く、熱っぽく出してみる。
すると周囲の客が馬超や趙雲に目をつけて、「飲んでやれ!」と騒ぎ出す。
馬超は豪快に笑って、「おう飲むぞ!任せろ!」と飲み始めた。
ーーーーーー
趙雲は○の隣で、彼女越しに馬超や他の客を見ていた。
○のお礼の笑顔ひとつで、さらに別の席からも酒が飛んでくる。
そしてまた別の席から。
気づけば趙雲の前にも酒盃が山のように積み上がっていた。
(……こうして人が群がる瞬間を見るのは初めてだな)
○はどこにいても騒ぎの中心になる。
自分に注目を集めさせるのが上手い。
天性のものなのか、経験から身につけたものなのか。
結局、客たちは酔いに任せて、我々にも盃を差し出してきた。
○が隣で盃を持ちながら、「こんなの全部飲んだら、酔っちゃうかも…」とした一言で、客たちの視線が一気にこちらへ向かう。
「兄さん、代わりに飲んでやれよ!」
「外套の兄さんもいけるだろ!」
完全に巻き込まれた。
趙雲は盃を一つ取り、口をつける。
酒は飲めなくはないが、好んで飲みたくはない。
数杯飲んだ時、ふと、視界の端で○を見る。
僅かに酒で頬を染め、ほほ笑んでいる。
だがその目の奥は酔っていない。
(……これは計画的にやっているな)
自分を酔わせようとしているのが分かった。
ーーーーー
○は久しぶりに楽しんでいた。
本当に今日は、計算も駆け引きも、色仕掛けもなしで、ただ楽しく飲みたかった。
理由なんてなく、久しぶりに「ただの私」で過ごしたい気分。
だから趙雲を酔わせたかった。
あの堅物が酔ったら、肩の力が抜けて○も気楽に飲める気がした。
人が集まり、酒が積まれ、○は久しぶりに笑った。
本当に心から。
そんな時だった。
馬超の顔が、目の前に突然近づく。
「おい○…っはは、なんだよお前、今日はやけに機嫌いいじゃないか!」
完全に酔っている。
目がとろんとして、頬が赤い。
「ちょっと、近いわよ馬超」
軽く押そうとしたが、彼は逆にぐっと距離を詰めてきた。
「いいだろ別に〜、楽しいんだよ今日は。お前が好きなんだよ~、俺」
「それは知ってるわ」
「○、ちょっとこっちに…こう、もっと」
馬超は大きな身体でぐっと寄ってきて、○の腰に腕を回し自分にくっつけようと力を入れた。
ちょうどその時。
馬超の手首が止められた。
ーーーーーーーー
一人黙々と飲んでいた趙雲。
酒が少し回ってきて、盃を置くと、視界がふっと薄く揺れた。
その時、馬超が○に迫るのが見えた。
寄りかかり、腕が回る。
「馬超殿」
趙雲が馬超の手首を掴む。
「酔いすぎだ」
「な、なんだよ趙雲…!別にいいだろ!俺と○の仲だぞ!普段だって…」
「限度を超えている」
馬超がむっと眉を寄せて、○が割って入った。
「大丈夫よ、趙雲。ほら、馬超は無邪気なだけ。いつもの事じゃない」
今の○は、本当に楽しそうに笑っていた。
意地悪く口角を上げた顔ではなく、年相応の楽しそうな表情。
そんな笑顔、初めて見たかもしれない。
だからこそ余計に胸がざわついた。
馬超は酔っていて○は無防備。
店は騒がしい。
全員、理性が緩んでいる。
ぎゅ、と無意識に掴んでいた指に力がこもり、馬超が手を引いた。
○が目を丸くして趙雲を見た。
「……いいから。間をあけろ」
馬超は不満げだが従い、○は逆に少しだけ頬を赤らめて笑った。
「ふふ…趙雲って、酔うとちょっと怖いのね」
その言葉が胸に刺さる。
すると別の席の男たちが馬超に声をかける。
「兄ちゃん、こっちで飲もう!」
「連れの姉ちゃん、美人だな!」
快活な馬超はすぐに他の客に受け入れられ、趙雲に怒られたこともあり、酔った勢いでプリプリ怒ってそのまま別席に移ってしまう。
馬超が席を移るのを見て○は笑った。
「あら、拗ねちゃった。もう、趙雲が怒るから」
少年のような拗ね方が少し可愛くて、○は盃を置き立ち上がった。
「ちょっと行ってくるわ」
馬超の座る別席の方へ歩きかけた、その時。
すっと腕を掴まれた。
強くではないが、振り払えない力だった。
ーーーーー
○が立ち上がった瞬間、胸がざわついた。
行ってもいい。
ただの酒席なのだから。
なのに。
手が勝手に動いた。
「待て」
○の腕を掴んだ自分に、自分がいちばん驚いた。
○が振り返り、目を丸くして私を見る。
「どうしたの、趙雲?」
どうしたのか自分でもわからない。
ただ、言葉が勝手にこぼれた。
「…あの状態の馬超殿に、お前を任せられん」
○はふっと笑った。
いつもの挑発的な笑みではない。
どこか、やわらかい。
「彼は酔っている」
「酔ってるのは趙雲のほうじゃない?」
図星だった。
酔っている。
判断が甘くなっている。
指先に力が入る。
○が少し驚いた顔をした。
だが、腕を引き剥がすことはしない。
周りでは笑い声が響き、馬超の大声が聞こえる。
なのに、この小さな一角だけひどく静かだった。
「……あっちに行きたいんだけど」
○が微笑む。
私は酔っているせいか、素直に言ってしまった。
「駄目だ」
言葉にした瞬間、胸の奥を何か鋭いものが突き抜けた。
(今……私は、何と言った?)
○が目を丸くして「駄目なの?」と小さく繰り返した。
私は思わず視線をそらす。
(言い方が強すぎた。まるで…私が○を…)
言葉にするだけで頭が痛くなる。
誤解だ。
誤解もいいところだ。
×の顔が脳裏に浮かぶ。
馬超に対して心配しているだけ。
彼が酔っていたから──そうだ、酔っていたからだ。
「…あれだ。あの状況の馬超殿の所にお前が行けば、余計に騒ぎが増す。収拾がつかなくなる」
○はじっとこちらを見る。
その目が酔いのせいか少し潤んで見えた。
普段の私なら、こんなに露骨に感情を出すことはない。
○はその動揺にすぐ気づいたようで、ふっと微笑んだ。
「いいわ、分かった」
そう言って○は椅子に座り直す。
私は咳払いし、無理やり声を整えた。
「私はただ、今のお前の行動が危険だと言っているだけだ」
「はいはい。言えば言うほどってやつよ?」
○は机に肘をついて、顔を寄せてきた。
「趙雲、酔ってるでしょ」
「酔っていない」
「嘘。目がいつもより優しいわ」
趙雲の胸が、再び跳ねた。
(落ち着け……普段のように対処すれば良い…)
しかし声が思うように出ない。
いつも通りにしようと内心戦っている趙雲だが、その葛藤の中、隣の卓で飲んでいた男が空の盃を床に落とした。
カシャァン、と乾いた音。
盃を落とした男の視線が、○の方へ向く。
「おい…さっきから愛想よく飲んでやがるが…俺の酒には礼もねぇのか?」
○からすればよくある絡みだ。
珍しくもない。
○は艶やかに微笑み、「お礼なら、さっき言ったじゃない」と軽やかに返した。
だが男は気分を害したらしい。
「聞こえなかったんだよ。もう一回、もっと可愛く言ってみろよ。身体を触らせてくれてもいいんだぞ」
周囲の空気が、一瞬変わった。
男が立ち上がって○の方に近づこうとした時、気づけば趙雲も立ち上がって前に出ていた。
自然に○と男の間に割って入る。
「……やめておけ」
その声には、いつもの冷静とは違う、どこか荒い息遣いが混じっていた。
「なんだ、兄ちゃん……コイツの護衛か?」
「護衛ではない…だが、手は出させない」
○が、ぽかんと息をのむ。
馬超も驚いて目を丸くする。
男は舌打ちしながら、趙雲の後ろにいる○へと下品な視線を向けた。
「お前みたいな女はそうやって顔と身体だけで男を盾にしやがるから腹が立つんだ!いいよなぁ!生意気してても、笑って股開いてりゃ男が勝手に守ってくれ──」
ドンッ!!
突如、卓が震える音。
○が拳で机を叩いて立ち上がっていた。
その一撃は、店中のざわめきを一瞬で止めるほど鋭い。
薄暗い灯りの中で、彼女の瞳だけが妖しく光る。
「誰が誰に守られてるって?……気に入らないわね。勝負よ」
男が目を剥く。
「は……?」
「先に床に押し付けられたら負け。私が負けたらアンタの好きにしていいわ」
まさかの宣言に、近くにいた数人が「お、おい……」と声を潜める。
「○!」
趙雲が止めようとするが○が手で制した。
しかし相手は○よりもかなりガタイのある男だ。
「じゃ、今から開始ね」
「いいぞ!」
男はスケベそうな顔で頷いた。
男が怒りに任せて腕を伸ばしたその瞬間。
○はその腕を軽々と避けて足払いをした。
重心を奪って背が低くなった肩を足で押し込む。
ドンッ!という音と共に、男は床に叩き伏せられた。
○が背中に踵を押し付けて、男を背後から覗き込む。
悲鳴に近い唸り声が床板に吸われる。
彼女は愉しそうに高笑いをして、片手で髪をかき上げた。
「うふふ…ばーーーーか。ここ、全部アンタの奢りね?」
悪戯っぽく、普段では言わないような声量でそう言った○。
男は声にならない声で呻く。
すると酒場にいた客たちから一斉に拍手が湧き上がった。
「お、おお……!」
「すげぇ……!」
「強ぇ!!」
○は片手を上げて喝采を受け、豪快に笑った。
(なんと滅茶苦茶な…)
その後ろで立ち尽くす趙雲は静かに息を飲んだ。
しかしその胸の奥には、別の感情もかすかに芽を出し始めていた。
男を叩き伏せて喝采を浴びた後も、○はけろっとした顔で席に戻り、何事もなかったかのように杯を口に運んでいた。
さっき絡んできた男から巻き上げた酒も追加されている。
一方趙雲は完全に酒が回ってしまい、机に片腕を突き伏せてしまった。
「……まだ飲むのか、お前……」
かすれた声で顔を上げ、驚愕に近い表情を向ける。
○は軽く杯を揺らしながら笑う。
「まだまだいけるわよ」
「限度、というものが……ある……」
言いながら、また額が机につく。
ほんの少し頬が赤い。
普段なら絶対見せない隙だ。
○はそんな趙雲をじっと眺め、ふっと、優しく微笑んだ。
「酔ってるわね」
「……否定は……できん……」
「馬超は酔うと騒ぐタチだけど、趙雲は寝ちゃうのね」
「眠いが…まだ…いける」
それすらも素直。
不思議と、○はその様子が気に入っていた。
しばらく○が酒を飲み、趙雲がうつ伏せで呼吸を整える沈黙が続いた。
馬超は相変わらず違う席で大盛り上がりしている。
その沈黙を破ったのは趙雲だった。
「……月……」
「ん?」
「……あの夜……お前と、月……見た」
酔いのせいか、言葉がどこか柔らかい。
○は杯を下ろし、横目で趙雲を見る。
「思い出してたの?」
「……ああ……月が……まっすぐ……海に落ちていて……美しかった。たまに…思い出す」
「あなたの口から“美しい”なんて言葉、なんだか珍しいわね」
趙雲は顔を伏せたまま答える。
「月を見た時──お前も……綺麗だと、思った」
○は瞬きをするが、茶化すでもなくニヤリと笑う。
「ふふん…今更気づいたの?気付くのが遅すぎるのよ」
軽く首を傾け、酔いの残る趙雲の横顔を覗き込む。
冗談めかしたその言い方なのに、ほんのわずか、声が柔らかい。
「お前といると…疲れる……」
「でも、刺激的でしょう?」
「……刺激が強すぎる」
趙雲は目を閉じたまま、少し息を吐いた。
「また楽しいところに連れてってあげるわよ。あなたの知らない所はたくさんあるわ」
そして○は、何気ない風を装いながら、机の下へと手を伸ばした。
指先がそっと、趙雲の手の甲に触れる。
ほんの一瞬だけ、彼の肩が微かに揺れた。
だが拒絶はなかった。
そのまま、○は趙雲の手をゆっくりと自分の手のひらに包み込んだ。
“握る”のでもなく、“求める”のでもなく。
ただ、触れ合うだけ。
誰にも見られないように、机の下で。
趙雲は目を閉じたまま、手を引きもしなかった。
だが握り返すわけでもない。
彼の中で何か葛藤があるのか。
その曖昧な沈黙に○は余計に楽しげになる。
側から見ればただ隣り合って静かに座っているだけなのに、机の下では互いの体温が触れ合っている。
酒場のざわめきの中で、2人だけの小さな秘密。
○は微笑みながら、そっと指をからめようとしたが。
趙雲がかすかに声を落とした。
「……○。…それ以上は…やめろ」
○は指を絡めるのをやめる。
「じゃ、これはどうする?離す?」
「…」
そう言いながら手の甲をトン、と指先でつつく。
趙雲は返事をしなかった。
ただ握られた手はそのままにしている。
○は、今日の所はそれだけで満足した。