本編【16話~30話】
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朝の光が、障子越しに柔らかく差し込んでくる。
趙雲は目を開いた瞬間、自分でも驚いた。
(…随分と深く眠っていたようだ)
いつ以来だろうか。
あのように意識がストンと落ち、気配すら感じず、朝まで眠りが途切れなかった夜など。
そして今朝はかなり頭がスッキリしている。
戦に出れば神経を研ぎ澄まし、戻れば戻るで軍務の段取りに頭を使う。
眠りは常に浅く、物音ひとつで目を覚ますのが常だった。
しかし昨夜は、闇に沈むように眠れた。
理由を探せば、最初に思い浮かんだのは○の香の匂い。
○が焚いた、淡い香り。
薬草の気配が少し混じった、穏やかな香。
(…あの香の影響か)
だがそれだけではない気がする。
思考が夜に戻る。
部屋に戻った時、○が香炉の前で準備をしていた姿。
隣で楽しそうに骨董の話をしていた声。
そこに妙な安堵があった。
(まさか…落ち着いたのか。あの女の声が)
自分で思った瞬間、否定したくなる。
気を許したつもりはない。
だが昨夜の眠りの深さだけは、嘘のつけない事実として残っている。
そしてもう一つ、気づいてしまっていた。
(あの女の気配が……悪くなかった…?)
しかしすぐに打ち消すように頭を振る。
×ならいざ知らず、○にそんな事を思うはずがない。
「……疲れていただけだ」
それを確認すると自分に言い聞かせるように呟き、立ち上がって鎧に手を伸ばした。
朝の食堂はいつも通り賑やかだった。
兵士たちの笑い声、箸の触れ合う音、湯気の立つ汁物の匂い。
そんな中、×は席に着き、書簡を読みながら静かに朝餉をとっていた。
ふと、入り口のざわめきが変わったのを感じて顔を上げる。
趙雲が入ってきた。
その少しあとに、○も。
いつもの光景、いつもの二人のはずだった。
しかし×は違和感を覚えた。
空気が昨日までと違っている様に見える。
距離はある。
言葉も交わしていないのに。
趙雲はいつも通り静かに食事を取り、どこにも視線を向けない。
○は馬超達のところへ行って、馬超の肩に触れたり軽口を叩いたりしている。
表面上はいつもと変わらない。
けれど、目に見えない繋がりだけが変化していた。
×は、武人でも策士でもない。
しかし、人の感情の動きには妙に敏感だ。
彼女は箸を止めた。
(……趙雲様の緊張が薄い。あの方は○殿を近くに置くとき、いつも警戒されているのに)
今日はその気配がほとんどない。
むしろ落ち着いてしまっている。
×は胸の奥が、じわ、と熱を帯びるのを感じた。
(どうして…どうして私ではなく…あの方と)
そんなはずはない、と思い直す。
根拠があるわけでもない。
二人が並んでいるわけでもない。
×は湯を一口飲み静かに視線を下げる。
その表情を誰にも見られないように。
(……胸が苦しい)
もう自分自身が”趙雲を慕っている”という気持ちは誤魔化せなくなっていた。
×は盆を持って席を立った。
=====
食堂の喧騒の中。
隣には、気づけば×が控えるように座っていた。
いつも通りの穏やかな笑み。
控えめで、だが芯のある声で問いかけてくる。
「昨夜は…よく眠れましたか?」
その声には、気遣いと慣れた距離感が込められている。
本来ならその在り方は、心地よいはずだった。
昨日まで、彼女のそうした柔らかさに助けられていたのだから。
しかし。
(……何だろう。今日は、落ち着かない)
言葉に表しにくいが、とにかく噛み合わない感覚。
×はいつも通りだ。
私への過剰な干渉もなく、節度を守りつつ自然に隣にいてくれるのに。
(なぜ、こうも胸がざわつく)
視線を遠くに向けると、馬超の輪に混じって賑やかに笑い合う○の姿が見えた。
「昨夜は…よく眠れた。心配には及ばぬ」
「それは良かったです。昨日は眠れていないご様子でしたから」
その柔らかな笑みに、私は何故か目をそらした。
×が悪いわけではない。
むしろ彼女は誠実で、信頼できる。
自分の気質にも近く、共にいれば安心するはずだ。
それなのに。
静かなはずの彼女の気遣いが今日は妙に重く胸に刺さる。
(…なぜだ)
そんな思考が過った時、×が小さく問いかけた。
「趙雲様?お顔が…どこかご不調では?」
「いや……何でもない」
自分で答えながら、自分の言葉が嘘のように感じた。
その日の鍛錬を終えて鍛錬場から出てきた趙雲に、×が駆け寄ってきた。
「途中までご一緒していいですか」と言われて了承する。
二言三言会話をするが、今朝からなんだか嚙み合わない気がしている趙雲。
趙雲が返答を探していると、×がふいに立ち止まった。
「……趙雲様は、○殿をどう思っておられるのですか?」
「どう、とは…」
「すべてを許してしまう理由です。今日も……鍛錬において馬超様や兵士たちに囲まれ、不適切な距離を取る行動があったのに。当初はされていた注意を、近頃はされていない様に感じて」
「私は……○を許しているわけではない。彼女の能力が必要だから、それを発揮してもらうべく大目に見ている場面が多いだけだ」
それが本当のはずだった。
なのに口にすると、どこか嘘に聞こえる。
×はふっと細い息を吐いた。
「……失礼しました。ただ、趙雲様のことを心配しているのです」
その言葉を受け取りながら、胸の奥に生まれる違和感の正体を探す趙雲だが、その思索は中断された。
回廊の先、人だかりができていたからだ。
「騒がしいな……何事だ」
行ってみると、輪の中心にいるのは、当然のように○だった。
兵士たちは心配そうに声をかけている。
「昨日は休まれていたので、お怪我をされたのかと…」
「平気よ。お手柄だったからお休みが貰えただけ」
そう言って兵士達と会話をしている所に、趙雲は進み出る。
「○。鍛錬の片づけはどうした」
声が届いた途端、兵士たちが道を開けた。
「勿論、終わらせたわよ。この子達、ちょっと仕事を休んだら心配してくれて…理由を話してただけ」
「…通路に人だかりを作るな。邪魔だ」
趙雲は無言で○の腕を取り、輪から外へ引き出した。
○は驚いたように目を瞬かせたが、抵抗はしなかった。
ただ背後で兵士たちがざわつく。
○を外へ連れ出す途中、視界の端に×の姿がかすめた。
胸の前で書簡を抱えたまま立ち尽くしてこちらを見ていた。
その表情を言葉にするのは難しい。
驚き、戸惑い、そして傷ついた顔。
思わず足が止まりそうになる。
(…また、余計な誤解を生ませてしまったか)
趙雲は思わず視線を逸らし、○の手を離した。
○はおかしそうに笑う。
「わざわざ手を引くなんて、どうかしたの?趙雲」
「……早く騒ぎを鎮めたかっただけだ」
平静を保つ言葉が、自分の口から出ているとは思えないほどぎこちなく感じる。
○はそのぎこちなさを、まるで宝石を観察するようにじっくり眺めてきた。
その視線に耐えられず趙雲は背を向けた。
その日の夜。
寝台の横で聞こえる静かな呼吸を確認し、○は静かに立ち上がる。
衝立の奥でぐっすりと眠り込んだ趙雲。
昨日と同じ。
(やっぱり、私の香でよく眠れるのね。私が歩き回っても起きないなんて)
ふ、と微笑む。
趙雲の眠りを妨げないよう裸足で床を歩く。
戸を開けるときも息を殺し、闇に紛れるように部屋を抜け出した。
外には夜風。
城壁の灯火だけがぼんやり揺れている。
ヒタヒタと廊下を歩く。
ただ夜の散歩がしたくて抜け出した。
いつもは部屋を出ようとすると趙雲が気付いてしまうので、誰にも気づかれないで歩くのは久しぶりだ。
そうして鍛錬場の前まで来たとき、すっと灯火の影が動いた。
「……○か?」
低い声。
月明かりに浮かび上がった輪郭は馬超だった。
「あら、びっくり。こんな時間にどうしたの?」
「こっちの台詞だ。城内とはいえ夜は危険だ」
「そう?ところで馬超は何してるの?」
馬超は手に酒壺を持っていた。
「……寝れなくてな。月も綺麗だし、気分転換に酒でも飲もうかと思ったんだ」
彼は酒壺を掲げた。
「飲むか?」
○は笑って近づいた。
「えぇ。月見酒なんて素敵じゃない」
馬超の隣に腰を下ろし酒壺を受け取る。
夜の鍛錬場は、昼とまったく違う顔をしていた。
しん…と静かで、人気もなく、ただ草の匂いと風だけ。
馬超は明るくて裏もない。
趙雲のように監視もしない。
×のように比べない。
諸葛亮のように見透かそうともしない。
ただ目の前の気持ちを並べる。
だから気楽だった。
気づけば、酒がほんのり身体を温める。
「馬超って、素敵な人ね。あなたの身の上を思うと色々あったんでしょうけど、それでもそんなに真っ直ぐでいられて」
私はそういられなかったけど。
○は心の中で呟いた。
「なんだよ急に」
「あなたといると、いろんなものが軽くなるわ」
馬超は少しだけ、真剣な顔で○を見た。
「俺は、お前が笑うと嬉しくなる」
「ふふ。そうね。私の周りに来る男はみんなそう」
「…そうではなく」
「まぁまぁ、もっと飲みましょう。こんな夜に早く寝るのはもったいないわ」
二人で並んで空を見上げた。
夜半をとうに過ぎた頃だった。
今日も深く眠れていた趙雲。
胸の内のざわつきも、最近の疲労もすべて霧のように薄れていた。
だが、ふと。
何かが欠けた様な感覚で目が覚めた。
気配のない室内。
趙雲は寝返りを打ち、反射的に声をかけた。
「○…」
返事はない。
のっそりと立ち上がり、衝立の向こうを覗き込む。
「…いない」
触れると布団は冷えていた。
しばらく前に出ていったようだ。
胸がわずかにざわつく。
逃げたとは思わない。
ただ。
「……どこへ行った」
城内とはいえ、夜は危険だ。
武装した兵が巡回し、闇には盗賊まがいの者も紛れ込む。
趙雲は乱れた服を整えて羽織をまとい、部屋を出た。
廊下の灯火の揺れの中を、足音をできる限り抑えて歩く。
外へ出れば、冷えた夜気が肌を刺した。
○の気配を探す。
あれほど自己主張の強い女なのに、気配を消したときの静けさは異常なほど深い。
鍛錬場の方角へふと視線を向ける。
風に混ざって、人の声がわずかに聞こえた。
(……笑い声?)
趙雲は足を止めて、もう一度、耳を澄ます。
(間違いない。○の声だ)
そしてもう一人。
これは……
(馬超殿、か)
胸に、説明できない感情が落ちた。
急ぎ足で鍛錬場へ向かう。
月光に照らされた広場の端、縁側に並んで座る二つの影。
酒壺を手にした馬超。
その隣で、肩を揺らしながら大口を開けて笑う○。
○は誰にでも色仕掛けをするが、誰にでも本当の顔を見せるわけではない。
そんな彼女が、馬超の前ではいつもより柔らかい。
そのことが、ひどく引っかかった。
(……戻ろう)
声をかける理由も、止める理由も、正当な言葉にできなかった。
ただ視線をそらし、踵を返そうとしたその時。
○がこちらを振り向いた。
背後からの気配に気づいた○は、そちらに目をやる。
(あら…気配を消したつもり?そんなの、私には通用しないわよ)
盗賊として長年生きてきた中で培った、夜目と気配感知。
とっくに、そこに誰かが来ていることに気づいていた○は立ち上がる。
酒壺を手にしながら、わざと快活な声を上げた。
「あっ!いたいた!」
その声に馬超が目を丸くする。
「あ?誰が?」
「趙雲よ。ほら、そこ」
指を差すと、言われて仕方なく月影の中から現れた趙雲は、どこか気まずそうだった。
○は小走りで駆け寄り、満面の笑みで腕をつかむ。
「これから馬超と城下に飲みに行こうって話してたの。趙雲も一緒に行きましょうよ」
「……断る」
「えぇ?…じゃあ、馬超と2人で行ってくるわね」
にっこり笑って趙雲から手を放し、馬超の腕に寄りかかる。
趙雲の眉が、ほんの少しだけ動いた。
馬超は馬超で、「よし!では行こう。○と飲むのは楽しいからな!」と無邪気に笑う。
沈黙が一拍。
「……やはり私も行く。お前を見張らなくては」
そう言った趙雲に、○は満足げに微笑んだ。
趙雲は目を開いた瞬間、自分でも驚いた。
(…随分と深く眠っていたようだ)
いつ以来だろうか。
あのように意識がストンと落ち、気配すら感じず、朝まで眠りが途切れなかった夜など。
そして今朝はかなり頭がスッキリしている。
戦に出れば神経を研ぎ澄まし、戻れば戻るで軍務の段取りに頭を使う。
眠りは常に浅く、物音ひとつで目を覚ますのが常だった。
しかし昨夜は、闇に沈むように眠れた。
理由を探せば、最初に思い浮かんだのは○の香の匂い。
○が焚いた、淡い香り。
薬草の気配が少し混じった、穏やかな香。
(…あの香の影響か)
だがそれだけではない気がする。
思考が夜に戻る。
部屋に戻った時、○が香炉の前で準備をしていた姿。
隣で楽しそうに骨董の話をしていた声。
そこに妙な安堵があった。
(まさか…落ち着いたのか。あの女の声が)
自分で思った瞬間、否定したくなる。
気を許したつもりはない。
だが昨夜の眠りの深さだけは、嘘のつけない事実として残っている。
そしてもう一つ、気づいてしまっていた。
(あの女の気配が……悪くなかった…?)
しかしすぐに打ち消すように頭を振る。
×ならいざ知らず、○にそんな事を思うはずがない。
「……疲れていただけだ」
それを確認すると自分に言い聞かせるように呟き、立ち上がって鎧に手を伸ばした。
朝の食堂はいつも通り賑やかだった。
兵士たちの笑い声、箸の触れ合う音、湯気の立つ汁物の匂い。
そんな中、×は席に着き、書簡を読みながら静かに朝餉をとっていた。
ふと、入り口のざわめきが変わったのを感じて顔を上げる。
趙雲が入ってきた。
その少しあとに、○も。
いつもの光景、いつもの二人のはずだった。
しかし×は違和感を覚えた。
空気が昨日までと違っている様に見える。
距離はある。
言葉も交わしていないのに。
趙雲はいつも通り静かに食事を取り、どこにも視線を向けない。
○は馬超達のところへ行って、馬超の肩に触れたり軽口を叩いたりしている。
表面上はいつもと変わらない。
けれど、目に見えない繋がりだけが変化していた。
×は、武人でも策士でもない。
しかし、人の感情の動きには妙に敏感だ。
彼女は箸を止めた。
(……趙雲様の緊張が薄い。あの方は○殿を近くに置くとき、いつも警戒されているのに)
今日はその気配がほとんどない。
むしろ落ち着いてしまっている。
×は胸の奥が、じわ、と熱を帯びるのを感じた。
(どうして…どうして私ではなく…あの方と)
そんなはずはない、と思い直す。
根拠があるわけでもない。
二人が並んでいるわけでもない。
×は湯を一口飲み静かに視線を下げる。
その表情を誰にも見られないように。
(……胸が苦しい)
もう自分自身が”趙雲を慕っている”という気持ちは誤魔化せなくなっていた。
×は盆を持って席を立った。
=====
食堂の喧騒の中。
隣には、気づけば×が控えるように座っていた。
いつも通りの穏やかな笑み。
控えめで、だが芯のある声で問いかけてくる。
「昨夜は…よく眠れましたか?」
その声には、気遣いと慣れた距離感が込められている。
本来ならその在り方は、心地よいはずだった。
昨日まで、彼女のそうした柔らかさに助けられていたのだから。
しかし。
(……何だろう。今日は、落ち着かない)
言葉に表しにくいが、とにかく噛み合わない感覚。
×はいつも通りだ。
私への過剰な干渉もなく、節度を守りつつ自然に隣にいてくれるのに。
(なぜ、こうも胸がざわつく)
視線を遠くに向けると、馬超の輪に混じって賑やかに笑い合う○の姿が見えた。
「昨夜は…よく眠れた。心配には及ばぬ」
「それは良かったです。昨日は眠れていないご様子でしたから」
その柔らかな笑みに、私は何故か目をそらした。
×が悪いわけではない。
むしろ彼女は誠実で、信頼できる。
自分の気質にも近く、共にいれば安心するはずだ。
それなのに。
静かなはずの彼女の気遣いが今日は妙に重く胸に刺さる。
(…なぜだ)
そんな思考が過った時、×が小さく問いかけた。
「趙雲様?お顔が…どこかご不調では?」
「いや……何でもない」
自分で答えながら、自分の言葉が嘘のように感じた。
その日の鍛錬を終えて鍛錬場から出てきた趙雲に、×が駆け寄ってきた。
「途中までご一緒していいですか」と言われて了承する。
二言三言会話をするが、今朝からなんだか嚙み合わない気がしている趙雲。
趙雲が返答を探していると、×がふいに立ち止まった。
「……趙雲様は、○殿をどう思っておられるのですか?」
「どう、とは…」
「すべてを許してしまう理由です。今日も……鍛錬において馬超様や兵士たちに囲まれ、不適切な距離を取る行動があったのに。当初はされていた注意を、近頃はされていない様に感じて」
「私は……○を許しているわけではない。彼女の能力が必要だから、それを発揮してもらうべく大目に見ている場面が多いだけだ」
それが本当のはずだった。
なのに口にすると、どこか嘘に聞こえる。
×はふっと細い息を吐いた。
「……失礼しました。ただ、趙雲様のことを心配しているのです」
その言葉を受け取りながら、胸の奥に生まれる違和感の正体を探す趙雲だが、その思索は中断された。
回廊の先、人だかりができていたからだ。
「騒がしいな……何事だ」
行ってみると、輪の中心にいるのは、当然のように○だった。
兵士たちは心配そうに声をかけている。
「昨日は休まれていたので、お怪我をされたのかと…」
「平気よ。お手柄だったからお休みが貰えただけ」
そう言って兵士達と会話をしている所に、趙雲は進み出る。
「○。鍛錬の片づけはどうした」
声が届いた途端、兵士たちが道を開けた。
「勿論、終わらせたわよ。この子達、ちょっと仕事を休んだら心配してくれて…理由を話してただけ」
「…通路に人だかりを作るな。邪魔だ」
趙雲は無言で○の腕を取り、輪から外へ引き出した。
○は驚いたように目を瞬かせたが、抵抗はしなかった。
ただ背後で兵士たちがざわつく。
○を外へ連れ出す途中、視界の端に×の姿がかすめた。
胸の前で書簡を抱えたまま立ち尽くしてこちらを見ていた。
その表情を言葉にするのは難しい。
驚き、戸惑い、そして傷ついた顔。
思わず足が止まりそうになる。
(…また、余計な誤解を生ませてしまったか)
趙雲は思わず視線を逸らし、○の手を離した。
○はおかしそうに笑う。
「わざわざ手を引くなんて、どうかしたの?趙雲」
「……早く騒ぎを鎮めたかっただけだ」
平静を保つ言葉が、自分の口から出ているとは思えないほどぎこちなく感じる。
○はそのぎこちなさを、まるで宝石を観察するようにじっくり眺めてきた。
その視線に耐えられず趙雲は背を向けた。
その日の夜。
寝台の横で聞こえる静かな呼吸を確認し、○は静かに立ち上がる。
衝立の奥でぐっすりと眠り込んだ趙雲。
昨日と同じ。
(やっぱり、私の香でよく眠れるのね。私が歩き回っても起きないなんて)
ふ、と微笑む。
趙雲の眠りを妨げないよう裸足で床を歩く。
戸を開けるときも息を殺し、闇に紛れるように部屋を抜け出した。
外には夜風。
城壁の灯火だけがぼんやり揺れている。
ヒタヒタと廊下を歩く。
ただ夜の散歩がしたくて抜け出した。
いつもは部屋を出ようとすると趙雲が気付いてしまうので、誰にも気づかれないで歩くのは久しぶりだ。
そうして鍛錬場の前まで来たとき、すっと灯火の影が動いた。
「……○か?」
低い声。
月明かりに浮かび上がった輪郭は馬超だった。
「あら、びっくり。こんな時間にどうしたの?」
「こっちの台詞だ。城内とはいえ夜は危険だ」
「そう?ところで馬超は何してるの?」
馬超は手に酒壺を持っていた。
「……寝れなくてな。月も綺麗だし、気分転換に酒でも飲もうかと思ったんだ」
彼は酒壺を掲げた。
「飲むか?」
○は笑って近づいた。
「えぇ。月見酒なんて素敵じゃない」
馬超の隣に腰を下ろし酒壺を受け取る。
夜の鍛錬場は、昼とまったく違う顔をしていた。
しん…と静かで、人気もなく、ただ草の匂いと風だけ。
馬超は明るくて裏もない。
趙雲のように監視もしない。
×のように比べない。
諸葛亮のように見透かそうともしない。
ただ目の前の気持ちを並べる。
だから気楽だった。
気づけば、酒がほんのり身体を温める。
「馬超って、素敵な人ね。あなたの身の上を思うと色々あったんでしょうけど、それでもそんなに真っ直ぐでいられて」
私はそういられなかったけど。
○は心の中で呟いた。
「なんだよ急に」
「あなたといると、いろんなものが軽くなるわ」
馬超は少しだけ、真剣な顔で○を見た。
「俺は、お前が笑うと嬉しくなる」
「ふふ。そうね。私の周りに来る男はみんなそう」
「…そうではなく」
「まぁまぁ、もっと飲みましょう。こんな夜に早く寝るのはもったいないわ」
二人で並んで空を見上げた。
夜半をとうに過ぎた頃だった。
今日も深く眠れていた趙雲。
胸の内のざわつきも、最近の疲労もすべて霧のように薄れていた。
だが、ふと。
何かが欠けた様な感覚で目が覚めた。
気配のない室内。
趙雲は寝返りを打ち、反射的に声をかけた。
「○…」
返事はない。
のっそりと立ち上がり、衝立の向こうを覗き込む。
「…いない」
触れると布団は冷えていた。
しばらく前に出ていったようだ。
胸がわずかにざわつく。
逃げたとは思わない。
ただ。
「……どこへ行った」
城内とはいえ、夜は危険だ。
武装した兵が巡回し、闇には盗賊まがいの者も紛れ込む。
趙雲は乱れた服を整えて羽織をまとい、部屋を出た。
廊下の灯火の揺れの中を、足音をできる限り抑えて歩く。
外へ出れば、冷えた夜気が肌を刺した。
○の気配を探す。
あれほど自己主張の強い女なのに、気配を消したときの静けさは異常なほど深い。
鍛錬場の方角へふと視線を向ける。
風に混ざって、人の声がわずかに聞こえた。
(……笑い声?)
趙雲は足を止めて、もう一度、耳を澄ます。
(間違いない。○の声だ)
そしてもう一人。
これは……
(馬超殿、か)
胸に、説明できない感情が落ちた。
急ぎ足で鍛錬場へ向かう。
月光に照らされた広場の端、縁側に並んで座る二つの影。
酒壺を手にした馬超。
その隣で、肩を揺らしながら大口を開けて笑う○。
○は誰にでも色仕掛けをするが、誰にでも本当の顔を見せるわけではない。
そんな彼女が、馬超の前ではいつもより柔らかい。
そのことが、ひどく引っかかった。
(……戻ろう)
声をかける理由も、止める理由も、正当な言葉にできなかった。
ただ視線をそらし、踵を返そうとしたその時。
○がこちらを振り向いた。
背後からの気配に気づいた○は、そちらに目をやる。
(あら…気配を消したつもり?そんなの、私には通用しないわよ)
盗賊として長年生きてきた中で培った、夜目と気配感知。
とっくに、そこに誰かが来ていることに気づいていた○は立ち上がる。
酒壺を手にしながら、わざと快活な声を上げた。
「あっ!いたいた!」
その声に馬超が目を丸くする。
「あ?誰が?」
「趙雲よ。ほら、そこ」
指を差すと、言われて仕方なく月影の中から現れた趙雲は、どこか気まずそうだった。
○は小走りで駆け寄り、満面の笑みで腕をつかむ。
「これから馬超と城下に飲みに行こうって話してたの。趙雲も一緒に行きましょうよ」
「……断る」
「えぇ?…じゃあ、馬超と2人で行ってくるわね」
にっこり笑って趙雲から手を放し、馬超の腕に寄りかかる。
趙雲の眉が、ほんの少しだけ動いた。
馬超は馬超で、「よし!では行こう。○と飲むのは楽しいからな!」と無邪気に笑う。
沈黙が一拍。
「……やはり私も行く。お前を見張らなくては」
そう言った趙雲に、○は満足げに微笑んだ。