本編【16話~30話】
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
翌朝。
鍛錬場に隣接する水場で、趙雲は鎧についた砂を払い落としていた。
砂が落ちる、乾いた微かな音。
その音に紛れて、そっと足音が近づく。
「……趙雲様」
振り向くと、×が立っていた。
手に持った書簡を胸元に抱きしめている。
「×殿。…どうされた」
×は少し言い淀んだ後に、目を合わせずに言う。
「私は…○殿が、苦手です」
趙雲は鎧を拭く手を止める。
表情は変えない。
「……私もだ」
×は、わずかに息を呑む。
予想外だったのだろう。
「……そう、ですか」
それは安堵ではなく、どこか胸を締めつける残念さのようにも聞こえた。
×は言葉を探すように目を伏せて続ける。
「なら…その…あの方を、馬超様の隊に預けるとか…検討されないのですか?馬超様なら仲も良く…今朝も、○殿の無事を喜んで…抱き着いておられましたし」
言葉が喉の奥で止まる。
“卑しい言い方になる”と、自制したのだ。
「……いえ。すみません。私が言うべきことではありませんね」
かすかに震えた声。
趙雲はその横顔を静かに見つめた。
真面目で、誠実で、規律に忠実。
人の悪口を言わない女性が、ここまで言葉を詰まらせている。
「……○については、私の責任だ。気分を悪くさせているなら申し訳ない」
淡々と告げられたが、その声には何か動揺を感じた×。
「趙雲様……思い悩んでおられるのですね。ご自身が登用なさったから」
趙雲は答えない。
「ご負担なら、私から諸葛亮様にお伝えしましょうか…」
「いや。これは私の決めたことだ。私が面倒を見る」
×は言葉を飲み込んで頭を下げた。
「失礼しました。どうか、お身体だけは…」
去っていく×の背中は、どこか痛々しいほど細く見えた。
趙雲は、その後ろ姿を見つめながら静かに息を吐く。
「……私は、どうしたいんだ」
鎧に残った砂が、さらりと地面に落ちていった。
その夜。
趙雲は寝台に座って考え込んでいた。
胸の奥になにかが詰まる。
今日一日、何度も頭の中を巡った×の言葉と表情。
『趙雲様……思い悩んでおられるのですね』
思い返すほど、胸に引っかかる。
(私は何を迷っている?○の扱いか。規律か。それとも…)
その時、衝立の向こうから物音がした。
○が楽しそうに鼻歌を歌いながら、骨董品の手入れをしている音だ。
金属を柔らかな布で磨く音。
とても呑気そうだ。
「……はぁ……」
「なによぉ。ホント趙雲って辛気臭いわよね。部屋変えてよ。こっちまで暗くなっちゃうじゃない」
軽く、呆れたようで、どこか楽しんでいるようでもある。
宝物を磨く手を止め、○は衝立からひょい、と顔だけ出した。
「趙雲」
趙雲は驚いたようにこちらを見る。
灯に照らされたその横顔は、ほんの少しだけ疲れていた。
仕事での疲れではなさそうな事を○は見抜く。
「ははーん…恋の悩みね」
「……違う」
「ほんとに?だって任務は大成功で今日はお休みまで頂けたじゃない。それで年頃の男の悩みって言えば…ねえ?」
「誰もがお前のような考えだと思うな」
○は衝立の外へ出て来て、趙雲の寝台に片手をつく。
「恋の相談なら……乗るわよ?むしろ取り持ってあげましょうか」
趙雲は眉を寄せ、顔を逸らすように小さなため息をつく。
「…お前に相談する内容ではない」
「相談“できない”の間違いじゃなくて?」
挑発的な笑み。
しかし、瞳はわずかに探るようでもある。
「ねぇ、趙雲。ため息をつくと運が逃げるって言うのよ」
「……ならお前が隣にいる限り、逃げ続けるだろうな」
「酷いわねぇ。ま、理由は見当ついてるけど。趙雲も馬超くらい素直でいれたら楽なのにねぇ」
「…」
「馬超ったら可愛いんだから~会うなり『心配したぞ!』って抱き着いてきて」
趙雲は何も言わずにまたため息をつく。
○はそんな趙雲を見て、「そうだ」と手を打つ。
衝立の向こうから書簡を持って戻ってきた。
「じゃあ、ちょっと見てよ、これ」
そのまま寝台へ近づいてくる。
趙雲は上体を起こし、眉をわずかに寄せた。
「良いもの見せてあげる」
そしてそのまま何のためらいもなく趙雲の寝台の端で横になる。
肘で身体を支え、うつ伏せで書簡を広げる。
「そこに寝転ぶな」
「いいじゃない。あなた何とも思わないんだから」
悪びれもせず笑って、今度は仰向けに寝転んで書簡を掲げる。
灯の光が、彼女の喉元や腕の曲線をゆるく照らした。
「見て。これ、宝の地図かもしれないのよ。今、この解読に夢中なの。こういうの考えてたら、モヤモヤなんて吹き飛ぶってものよ。違う視点で考えられるかもしれないから、趙雲からの意見も聞きたわ」
楽しげに書簡を振ってみせるので、趙雲はため息をつき、無言で○の腕を取り、立たせた。
「……衝立の向こうへ戻れ」
「なによ!もし宝の地図だったとしても分け前あげないんだからね!」
そう言いながらも素直に戻っていく。
○を衝立の向こうへ押し返したあと、趙雲はようやく寝台に背を預けた。
部屋は暗く、静かで、灯の火だけが揺れている。
(……香りが残っている)
○の髪に使われている香油の匂い。
さっき寝台に横になったとき、ふわりとかすめた甘い香りが消えない。
額に手を当てる。
ふだん、女の香りに惑わされることなどない。
色目を使われても、品定めされても、微動だにしないはずなのに。
なのに、今夜だけは任務中の“あの姿”が浮かぶ。
ほとんど裸同然で歩み寄ってきた○の姿。
○が寝台に残した温もりが、ありありと感じられる。
(…弱っているのか…だからこの程度の事で)
脳裏に散らばった○の言葉を、ひとつずつ必死に振り払おうとする自分自身に趙雲は気づく。
色んな事を考えているとどんどん眠れなくなる趙雲は、そのまま目だけを閉じて眠りが訪れるのを待った。
*****
空がようやく白み始めた。
趙雲は寝台の上で上体を起こす。
ほとんど眠れなかった。
横になっても、ただ目を閉じていただけだ。
胸の奥にわだかまる昨日の会話、そして部屋に残る○の香り。
(……どうかしている)
額を押さえ、深呼吸をひとつ。
衝立の向こうでは、○がぐっすりと眠っている気配がした。
思えばあの後、かなり遅くまでゴソゴソしていたように思う。
寝台から立ち上がり、髪を梳いて結ぶ。
眠りが浅かったせいで身体が重い。
戦場では一日二日寝ずに動けるが、城にいるとどうしても気が緩む。
鎧を整えた頃、衝立の向こうで布のこすれる音。
そして、眠たげな声。
「……あれ、……もう朝……?」
「起きたなら支度をしろ」
「珍しい…趙雲が私より早いなんて」
そう言いながら衝立から出てきた○は、顔を洗う。
「もしかして昨日、眠れなかった?顔に疲れが出てるわよ」
「問題ない」
廊下に出ると、朝の空気が身体の熱を冷ますように心地よい。
それでも全身のどこかに疲れの残りがある。
無視できないほどの異変だった。
今日会う兵士たちに、×に、馬超に、そんな気配を悟られるわけにはいかない。
歩きながらほんの僅かに背筋を伸ばし、顔を引き締めた。
いつもの表情をゆっくりと取り戻していく。
そんな趙雲の後ろを歩きながら、○はニッと笑う。
軽い足取りで隊長の背後に近づいた。
指先が背に触れるほどの距離で。
「趙雲」
囁くような小さな声。
振り向きかけた趙雲にすぐ続ける。
「やっぱり眠れなかったんでしょう?ここ、止め忘れてるわ。じっとして」
鎧の留め具の締め忘れを直しながら言う。
趙雲は顔を背けるように動かし、低い声で返す。
「……任務の疲れだ。気にするな」
「ふーん。ねえ、趙雲。よく眠れる香があるの。今夜、焚いておいてあげる」
息がかかりそうな近距離。
でも声はあくまで軽やかで、冗談めいている。
「必要ない」
「必要あるわよ。陰ができていてとってもキレイだわ…そんな顔、私に見せていいの?ますます欲しくなっちゃう」
「…くだらん」
顔を逸らした趙雲の耳が、わずかに赤い。
○はそれをしっかり見ていた。
夜。
薄暗い部屋に戻った○は、早速、香の用意をした。
眠りを深くする薬草を少し混ぜた、淡い香りのもの。
○は、気が昂って寝付けない夜をいくつも超えてきた。
そんな日に効果的だった香だ。
そこへ、廊下の向こうから足音がする。
疲れた様な歩き方。
ほどなくして扉が開き、趙雲が戻ってきた。
「趙雲、お帰りなさい」
眠れるかと湯あみをして帰ってきたようだが、いつもなら湯上りでも、髪も衣も完璧に整え、凛とした姿で現れる男が、今日は濡れた髪を少し乱したまま衣も整えきらずにいる。
趙雲は自身の寝台の枕もとで香を準備している○を見て、フと息をつく。
「……香はいらぬと言ったろ」
小言のような声。
○は小さく笑って香炉の蓋を閉じた。
趙雲に近づくと彼の乱れた襟首を簡単に直す。
「まぁまぁ。いいから、早く寝台に入って」
「…勝手だな、お前は」
口ではそう言いながらも、趙雲は促されるまま寝台に入る。
「人の厚意は素直に受け取るものよ」
○は隣に腰を下ろし、香炉に火を灯した。
淡く、優しい香りが広がる。
趙雲の方を見ずに、背中を向けたまま○は話す。
「じゃあ……寝る前にお話してあげるわ。この前言ってた、私の骨董品講座」
趙雲は頭が働かないのか、半身を起こしたまま肘をついて、珍しく静かに聞いていた。
○は成都で見つかる骨董品の話をした。
青銅器の模様の読み方、掘り出し物の見分け方、古い工房が使った土の色の違い。
なるべく落ち着いた声で、丁寧に、緩やかに語る。
気づけば話の途中で趙雲の呼吸が深くなり、そのまま静かに目を閉じていた。
○は言葉を止める。
香の煙が揺れ、灯りが寝台に影を落とす中で、趙雲は驚くほど穏やかな寝顔をしていた。
「よほど興味がないのね……ふふっ、おやすみ」
囁くように小さく言い、香炉の火を静かに弱める。
灯りの中、眠りに落ちた趙雲の寝息を、しばらく○は横で聞いていた。
鍛錬場に隣接する水場で、趙雲は鎧についた砂を払い落としていた。
砂が落ちる、乾いた微かな音。
その音に紛れて、そっと足音が近づく。
「……趙雲様」
振り向くと、×が立っていた。
手に持った書簡を胸元に抱きしめている。
「×殿。…どうされた」
×は少し言い淀んだ後に、目を合わせずに言う。
「私は…○殿が、苦手です」
趙雲は鎧を拭く手を止める。
表情は変えない。
「……私もだ」
×は、わずかに息を呑む。
予想外だったのだろう。
「……そう、ですか」
それは安堵ではなく、どこか胸を締めつける残念さのようにも聞こえた。
×は言葉を探すように目を伏せて続ける。
「なら…その…あの方を、馬超様の隊に預けるとか…検討されないのですか?馬超様なら仲も良く…今朝も、○殿の無事を喜んで…抱き着いておられましたし」
言葉が喉の奥で止まる。
“卑しい言い方になる”と、自制したのだ。
「……いえ。すみません。私が言うべきことではありませんね」
かすかに震えた声。
趙雲はその横顔を静かに見つめた。
真面目で、誠実で、規律に忠実。
人の悪口を言わない女性が、ここまで言葉を詰まらせている。
「……○については、私の責任だ。気分を悪くさせているなら申し訳ない」
淡々と告げられたが、その声には何か動揺を感じた×。
「趙雲様……思い悩んでおられるのですね。ご自身が登用なさったから」
趙雲は答えない。
「ご負担なら、私から諸葛亮様にお伝えしましょうか…」
「いや。これは私の決めたことだ。私が面倒を見る」
×は言葉を飲み込んで頭を下げた。
「失礼しました。どうか、お身体だけは…」
去っていく×の背中は、どこか痛々しいほど細く見えた。
趙雲は、その後ろ姿を見つめながら静かに息を吐く。
「……私は、どうしたいんだ」
鎧に残った砂が、さらりと地面に落ちていった。
その夜。
趙雲は寝台に座って考え込んでいた。
胸の奥になにかが詰まる。
今日一日、何度も頭の中を巡った×の言葉と表情。
『趙雲様……思い悩んでおられるのですね』
思い返すほど、胸に引っかかる。
(私は何を迷っている?○の扱いか。規律か。それとも…)
その時、衝立の向こうから物音がした。
○が楽しそうに鼻歌を歌いながら、骨董品の手入れをしている音だ。
金属を柔らかな布で磨く音。
とても呑気そうだ。
「……はぁ……」
「なによぉ。ホント趙雲って辛気臭いわよね。部屋変えてよ。こっちまで暗くなっちゃうじゃない」
軽く、呆れたようで、どこか楽しんでいるようでもある。
宝物を磨く手を止め、○は衝立からひょい、と顔だけ出した。
「趙雲」
趙雲は驚いたようにこちらを見る。
灯に照らされたその横顔は、ほんの少しだけ疲れていた。
仕事での疲れではなさそうな事を○は見抜く。
「ははーん…恋の悩みね」
「……違う」
「ほんとに?だって任務は大成功で今日はお休みまで頂けたじゃない。それで年頃の男の悩みって言えば…ねえ?」
「誰もがお前のような考えだと思うな」
○は衝立の外へ出て来て、趙雲の寝台に片手をつく。
「恋の相談なら……乗るわよ?むしろ取り持ってあげましょうか」
趙雲は眉を寄せ、顔を逸らすように小さなため息をつく。
「…お前に相談する内容ではない」
「相談“できない”の間違いじゃなくて?」
挑発的な笑み。
しかし、瞳はわずかに探るようでもある。
「ねぇ、趙雲。ため息をつくと運が逃げるって言うのよ」
「……ならお前が隣にいる限り、逃げ続けるだろうな」
「酷いわねぇ。ま、理由は見当ついてるけど。趙雲も馬超くらい素直でいれたら楽なのにねぇ」
「…」
「馬超ったら可愛いんだから~会うなり『心配したぞ!』って抱き着いてきて」
趙雲は何も言わずにまたため息をつく。
○はそんな趙雲を見て、「そうだ」と手を打つ。
衝立の向こうから書簡を持って戻ってきた。
「じゃあ、ちょっと見てよ、これ」
そのまま寝台へ近づいてくる。
趙雲は上体を起こし、眉をわずかに寄せた。
「良いもの見せてあげる」
そしてそのまま何のためらいもなく趙雲の寝台の端で横になる。
肘で身体を支え、うつ伏せで書簡を広げる。
「そこに寝転ぶな」
「いいじゃない。あなた何とも思わないんだから」
悪びれもせず笑って、今度は仰向けに寝転んで書簡を掲げる。
灯の光が、彼女の喉元や腕の曲線をゆるく照らした。
「見て。これ、宝の地図かもしれないのよ。今、この解読に夢中なの。こういうの考えてたら、モヤモヤなんて吹き飛ぶってものよ。違う視点で考えられるかもしれないから、趙雲からの意見も聞きたわ」
楽しげに書簡を振ってみせるので、趙雲はため息をつき、無言で○の腕を取り、立たせた。
「……衝立の向こうへ戻れ」
「なによ!もし宝の地図だったとしても分け前あげないんだからね!」
そう言いながらも素直に戻っていく。
○を衝立の向こうへ押し返したあと、趙雲はようやく寝台に背を預けた。
部屋は暗く、静かで、灯の火だけが揺れている。
(……香りが残っている)
○の髪に使われている香油の匂い。
さっき寝台に横になったとき、ふわりとかすめた甘い香りが消えない。
額に手を当てる。
ふだん、女の香りに惑わされることなどない。
色目を使われても、品定めされても、微動だにしないはずなのに。
なのに、今夜だけは任務中の“あの姿”が浮かぶ。
ほとんど裸同然で歩み寄ってきた○の姿。
○が寝台に残した温もりが、ありありと感じられる。
(…弱っているのか…だからこの程度の事で)
脳裏に散らばった○の言葉を、ひとつずつ必死に振り払おうとする自分自身に趙雲は気づく。
色んな事を考えているとどんどん眠れなくなる趙雲は、そのまま目だけを閉じて眠りが訪れるのを待った。
*****
空がようやく白み始めた。
趙雲は寝台の上で上体を起こす。
ほとんど眠れなかった。
横になっても、ただ目を閉じていただけだ。
胸の奥にわだかまる昨日の会話、そして部屋に残る○の香り。
(……どうかしている)
額を押さえ、深呼吸をひとつ。
衝立の向こうでは、○がぐっすりと眠っている気配がした。
思えばあの後、かなり遅くまでゴソゴソしていたように思う。
寝台から立ち上がり、髪を梳いて結ぶ。
眠りが浅かったせいで身体が重い。
戦場では一日二日寝ずに動けるが、城にいるとどうしても気が緩む。
鎧を整えた頃、衝立の向こうで布のこすれる音。
そして、眠たげな声。
「……あれ、……もう朝……?」
「起きたなら支度をしろ」
「珍しい…趙雲が私より早いなんて」
そう言いながら衝立から出てきた○は、顔を洗う。
「もしかして昨日、眠れなかった?顔に疲れが出てるわよ」
「問題ない」
廊下に出ると、朝の空気が身体の熱を冷ますように心地よい。
それでも全身のどこかに疲れの残りがある。
無視できないほどの異変だった。
今日会う兵士たちに、×に、馬超に、そんな気配を悟られるわけにはいかない。
歩きながらほんの僅かに背筋を伸ばし、顔を引き締めた。
いつもの表情をゆっくりと取り戻していく。
そんな趙雲の後ろを歩きながら、○はニッと笑う。
軽い足取りで隊長の背後に近づいた。
指先が背に触れるほどの距離で。
「趙雲」
囁くような小さな声。
振り向きかけた趙雲にすぐ続ける。
「やっぱり眠れなかったんでしょう?ここ、止め忘れてるわ。じっとして」
鎧の留め具の締め忘れを直しながら言う。
趙雲は顔を背けるように動かし、低い声で返す。
「……任務の疲れだ。気にするな」
「ふーん。ねえ、趙雲。よく眠れる香があるの。今夜、焚いておいてあげる」
息がかかりそうな近距離。
でも声はあくまで軽やかで、冗談めいている。
「必要ない」
「必要あるわよ。陰ができていてとってもキレイだわ…そんな顔、私に見せていいの?ますます欲しくなっちゃう」
「…くだらん」
顔を逸らした趙雲の耳が、わずかに赤い。
○はそれをしっかり見ていた。
夜。
薄暗い部屋に戻った○は、早速、香の用意をした。
眠りを深くする薬草を少し混ぜた、淡い香りのもの。
○は、気が昂って寝付けない夜をいくつも超えてきた。
そんな日に効果的だった香だ。
そこへ、廊下の向こうから足音がする。
疲れた様な歩き方。
ほどなくして扉が開き、趙雲が戻ってきた。
「趙雲、お帰りなさい」
眠れるかと湯あみをして帰ってきたようだが、いつもなら湯上りでも、髪も衣も完璧に整え、凛とした姿で現れる男が、今日は濡れた髪を少し乱したまま衣も整えきらずにいる。
趙雲は自身の寝台の枕もとで香を準備している○を見て、フと息をつく。
「……香はいらぬと言ったろ」
小言のような声。
○は小さく笑って香炉の蓋を閉じた。
趙雲に近づくと彼の乱れた襟首を簡単に直す。
「まぁまぁ。いいから、早く寝台に入って」
「…勝手だな、お前は」
口ではそう言いながらも、趙雲は促されるまま寝台に入る。
「人の厚意は素直に受け取るものよ」
○は隣に腰を下ろし、香炉に火を灯した。
淡く、優しい香りが広がる。
趙雲の方を見ずに、背中を向けたまま○は話す。
「じゃあ……寝る前にお話してあげるわ。この前言ってた、私の骨董品講座」
趙雲は頭が働かないのか、半身を起こしたまま肘をついて、珍しく静かに聞いていた。
○は成都で見つかる骨董品の話をした。
青銅器の模様の読み方、掘り出し物の見分け方、古い工房が使った土の色の違い。
なるべく落ち着いた声で、丁寧に、緩やかに語る。
気づけば話の途中で趙雲の呼吸が深くなり、そのまま静かに目を閉じていた。
○は言葉を止める。
香の煙が揺れ、灯りが寝台に影を落とす中で、趙雲は驚くほど穏やかな寝顔をしていた。
「よほど興味がないのね……ふふっ、おやすみ」
囁くように小さく言い、香炉の火を静かに弱める。
灯りの中、眠りに落ちた趙雲の寝息を、しばらく○は横で聞いていた。