本編【16話~30話】
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昼餉を取ろうと食堂に向かった趙雲は、入り口に到着する前から異様なざわめきを耳にした。
(……嫌な予感しかしない)
食堂に入ると騒動の中心が一目で分かった。
○が座る席を兵士たちが取り囲んでいる。
その隣で馬超が、真っ赤になりながらも席についている。
「ほら、馬超。口を開けて?あ~ん」
「子供みたいに扱うな!」
「と言いながら食べるんですね」
そんなやり取りに趙雲は盛大にため息をついた。
外から見る趙雲の顔はいつも通りの冷静な将。
だが胸の奥では、鋼のような冷たいものと言葉にできないざらつきが混じっていた。
「……あ、趙雲」
馬超の声に、○の横顔がふっとこちらに向く。
悪戯が見つかった子どものような無邪気な笑み。
彼女にとってこの程度の事は悪戯にしか過ぎないのか。
「あら、趙雲。遅かったわね」
趙雲は無言のままゆっくりと○の卓の横に立った。
「……○。隊士を振り回すなと言ったはずだ」
「“振り回してる”なんて人聞きが悪いわ。馬超がね、食べさせて欲しいって言うから」
「いや、お前が曲解して…」
「なぁに?」
にっこり笑う○に、馬超が黙り込み、兵士がふきだす。
そしてそれに比例して趙雲の眉間のしわが深くなった。
「……午後の鍛錬に支障が出る。全員食事に集中しろ。○は話があるからこっちに来い」
「はいはい」
○は赤らんだ馬超に向かって唇だけで「またね」と送り、立ち上がる。
騒がしい食堂の一角から離れ、趙雲は○を比較的静かな隅の席に座らせた。
○は椅子に腰をかけ、優雅に食事をしながら脚を組む。
「で?わざわざ別席なんて。私と二人きりで食事がしたかったの?」
「……なぜああいうことをする」
「何のことかしら?」
「とぼけるな。男に不用意に触れるなと言っただろう。あの距離で迫る必要はないはずだ」
「必要があるかどうかなんて、私が決めることよ?私には”不用意”じゃなかったの」
「お前のそういう振る舞いは、我が隊の秩序を乱す」
「秩序?ちょっと楽しんだだけじゃない。鍛錬中じゃないし」
「どうすれば伝わるのか…」
声が沈む趙雲に、○は楽しそうだ。
箸で鶏肉をつまみ上げながら言う。
「そんな事より…馬超って、素直で可愛いわよね。すぐ赤くなっちゃって」
「お前が何を考えているのか、本当に理解しづらい」
「そりゃ違う人間なんだから仕方ないわよ。生まれも暮らし方も違ったんだもの」
その言葉に趙雲は黙り込む。
「あ。だけど、馬超はちょっと理解してくれてるのかもね。話が合うのよ」
突然、声の温度が変わった。
「彼、骨董品の知識も豊富だし…なにより馬家があった涼州っていうのは、遊牧系や異国の文化が混ざってるの。だから鉄器の意匠が独特なのよ。鍛冶の痕も、交易で入ってくる物の流れも違うし」
話は止まらない。
「彼が持ってる装飾具が素敵なんだけど、前漢後期の工房の技法に近いの。涼州の鉄は、乾燥地帯だから錆び方が違うし、馬家は代々その手の物を大事にしてきたみたいで——」
まるで嬉々として宝物を語る子どものようだ。
趙雲はきょとんとして黙って見ていた。
「涼州って、街道を通って珍しいものがたくさん来るのよ。彼の実家も色んな物を持っていたみたいで、聞いてると本当に面白いのよ」
「……そうか」
「あ…趙雲は馬超の故郷の話、興味なかった?」
「別に……興味がないわけではない」
「じゃあ今度、彼と三人で話しましょう?私が解説してあげるわ」
「……必要ない」
ぶっきらぼうにそう言うと、趙雲は食事をする。
「なによぉ。面白いのよ、私の骨董講義。歴史学者ならお金を払ってでも聞くと思うわ」
そう言いながら○は趙雲の皿から鶏肉を一つとる。
「人の分まで食べるな」
「講義代よ」
すると。
静かな足音が近づいてきた。
盆を両手に抱えた×が、戸惑いの色を浮かべながら立っていた。
「……あの。こちらの席、空いていますか?」
その声音は控えめで礼儀正しい。
○の視線が、すっと×へ向く。
「あ、どうぞどうぞ。…お邪魔みたいだし、行くわ」
優雅に立ち上がる。
「待て、○。まだ…」
趙雲が止めようと手を伸ばすが、○はその手をかわすように軽く笑った。
○が食堂を去っていく背中。
「また勝手なことを…」
小さくつぶやいた趙雲の正面に座った×も、○の後ろ姿を見送った。
趙雲が眉間に皺を寄せて黙っていると、×がそっと箸を置き、穏やかな声で言った。
「……お疲れ様です、趙雲様。あの方は…とても、自由な方ですね」
苦笑に近い微笑を浮かべる。
「大変なお立場ですね。でも、あの方の能力は蜀に必要なものですもの……趙雲様なら、きっと上手に使いこなせると信じられているのでしょう」
×の声は、いつもの理知的で凛とした調子だ。
その静かな優しさが、趙雲の胸の奥にじんわりと染みる。
(……この方は、本当に……誠実だ)
盆の上で揺れる汁椀の湯気が、不思議と落ち着いた空気を生んでいた。
さっきまでの喧騒が嘘かの様に静かで落ち着いた。
○と違って、×は誰かの心を試したり、揺さぶろうとしたりしない。
包み込むように静かだ。
「……ありがとう。×殿の言葉はとても安らぐ」
「お役に立てて、光栄です」
軽く言葉を交わしただけで、二人の間の空気が少しだけ近づいた。
昼餉が終わり、文官たちが控える廊下を諸葛亮が歩いていると、軽い噂が耳に入った。
ー……また○殿が食堂で騒ぎを……ー
ー馬超殿まで巻き込んだとか……ー
ーそれを見た趙雲殿が……ー
(これは、×のいう事も一理あるのかもしれませんね)
実は×より、○の配置を変えてみてはどうだろうかという話が上がった。
趙雲よりも年配の、関羽や張飛につけることで落ち着くのでは?というものだ。
実際にこういった騒ぎが噂になる程だ。
諸葛亮は趙雲に聞いてみることにした。
諸葛亮は○と趙雲を執務室に呼ぶ。
○はいつものように軽い笑み、趙雲は静かな緊張を纏っている。
「お二人に、今後の人事について話があります」
○は面倒くさそうに髪を払った。
「別に、私は誰の下でもいいですよ。現場ではどうせ一人で潜入するんですから」
「なるほど。では、関羽殿か張飛殿などいかがでしょう」
「私は全然!どちらでも結構です」
「…………」
趙雲は黙り込む。
「趙雲殿。あなたのお考えも聞きたい」
○は横目で趙雲を見ながらにやりと笑う。
「趙雲。私、どこに行っても大丈夫よ?あなたが楽になるならその方がいいでしょうし。関羽様の隊なんて、ちょっと楽しみですらあるわ」
ルンルンと嬉しそうな○。
趙雲は息をのみ、ゆっくりと視線を前に向けた。
「諸葛亮殿。確かに○は問題が多い。扱いづらさもあります。しかし、この者の能力は、私が最も把握しています。任務に出向く際の事も考えれば、蜀の幹部である関羽殿や張飛殿がそれだけの為に城を開ける訳にもいきますまい。私が統率したほうが確実です」
○が、「へぇ…」と言いたげな顔をした。
諸葛亮は少し考えると静かに頷いた。
「分かりました。貴方がそこまでおっしゃるのならば、当面はお任せしましょう。ただし、秩序に支障をきたす行動は厳に慎むこと。特に…昼餉のような騒ぎは控えるように」
「あら。もしかしてそれを聞いてこの人事の提案を?」
「それも一押しになりましたね。気をつけてください」
×は鍛錬場に向かっていた。
文官の同僚が、「趙雲殿と○殿が呼び出されていた」と言っていたので、諸葛亮が趙雲に、○の人事異動の話をしたのだと踏んだからだ。
見るとちょうど訓練を終えたばかりの趙雲が戻ってくるところだった。
「趙雲様……!」
「……×殿。どうかしたか?」
胸のざわつきのまま、言葉が口をついて出る×。
「○殿の件……。配置転換の提案がされたと聞きました。これで…肩の荷が下りますね」
言ってから、その言葉が少し刺々しく聞こえたことに自分で驚く。
趙雲は少しの沈黙の後、静かに言った。
「その話は断った」
「…………え?」
耳に入った瞬間、心臓が跳ねた。
「……断った、のですか?なぜ……?」
「○の能力は私が最も把握している。任務上、私が統率した方が確実だ」
変わらず淡々としているはずなのに、どこか言いにくそうにしている様にも聞こえた。
「……本当に、それだけですか?」
趙雲は×を見る。
「○殿は…隊の秩序を乱し、趙雲様を困らせ続けているはずです。あのような方を自ら引き止める理由が、任務の都合だけだとは……思えません。どうしてそこまで…○殿を」
趙雲はなにも答えない。
沈黙が痛くて、×はわずかに笑みを作った。
「……いえ。申し訳ございません。越権でしたね。仕事に戻ります」
そう言って走り去っていった。
=====
ー馬超の心配ー
鍛錬場の端で、○が壁にもたれながら脇腹を押さえる仕草を見た馬超は眉をひそめた。
(……やっぱり、まだ痛むんじゃないか)
本人は“治った”と笑っていたが、どう見ても痛みを隠している。
あんな傷と滅茶苦茶な治療ですぐに治る事はないと思う。
気づいたら足が自然に向かっていた。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫よ。ほら、見て。元気そうでしょ?」
軽く笑ってみせるが、その目の奥にわずかな苦しさがあるのを馬超は見逃さなかった。
「嘘だな。痛むんだろ?痛み止めとか貰ってきたらどうだ?」
「もう飲んでるわ。軟膏も持ってるし」
「それでまだ痛いのか?ちょっと傷、見せてみろ。薬をちゃんと塗ってやる」
馬超は○の服を捲ろうと手を伸ばす。
「え、やめてよ。誤解されるでしょ」
「お前なあ。あんだけくっついたりしておいて、これは駄目なのか?自分ではちゃんと傷口見れないだろ」
結局、○は根負けし、鍛錬場の端の石台に腰を下ろした。
馬超はしゃがみ込み、○から受け取った軟膏を持って痛む場所を確かめる。
「お前、ちゃんと消毒してるか?痛そうだぞ」
そう言うとそっと軟膏を塗る。
「いたたたっ」
「やっぱり無理してるじゃないか。痛いのに鍛錬場に来るなよ」
「だって怪我してない設定だもの」
「お前が鍛錬休んだって、サボりだな~くらいで済むだろ」
「失礼ね」
軟膏を塗り終えた馬超は、本気で心配しているのが見て分かる。
その真っすぐさに、○の目が少しだけ細くなる。
「馬超って、ほんとお節介ね」
「優しいって言え。とりあえず今日は鍛錬なんてするな。部屋に戻って休め。背負っていってやるよ」
「そんな事しなくていいってば。嬉しいけど恥ずかしいわ」
「ならとりあえず今日は休憩しとけ」
そう言って鍛錬に戻った馬超を、○は「はいはい」と見送った。
=======
ー趙雲の内省ー
人事の変更を提案されたあと、私は鍛錬場に向かった。
訓練をしている兵たちを見る振りをしながら、私は半ば無意識に鍛錬場の隅へと目を向けた。
そこには○がいた。
大勢の兵士と距離を置き、壁に寄りかかりながら、わずかに脇腹を押さえている。
(……まだ痛むのか)
本人が言うには戦に出られる程度には回復しているはずだ。
「ほぼ完治」と相変わらずの尊大な態度で笑っていた。
しかし闇市で手に入れた痛み止めを、今朝もまだ服用していた。
あの傷は本来、放っておいて治るようなものではないと馬超が言っていたのも気になる。
(あの崖で…逃げることもできただろうに)
○は逃げなかった。
助けを呼ぶために焚き火を焚き、私が意識を取り戻すまで傍にいた。
あの時、懐の小刀はそのままあった。
しかしあれは一度、○が抜き取ったのではないかと思っている。
あの怪我は、おそらく崖を降りてから負ったものだ。
崖から落ちる前の彼女は間違いなく無傷だったから。
それから怪我をするような場面はなかった。
近くにオオカミがいたと言っていたから、私を危険から守るために負ったものかもしれない。
怪我をした理由も言わない。
傷も見せない。
気まぐれの幅が広すぎて戸惑うばかりだ。
言わなくていい事しか言わない。
兵士に話しかけられ、○が笑った。
脇腹をさすりながら、痛みをごまかすように笑っている。
その一瞬、胸の奥が小さく痛んだ。
(……馬鹿者。無理をするなと言ったのに)
奥方との鍛錬も平気な顔で付き合っていたが、あれだってどこまでの痛みを我慢していたのか分からない。
自分の親衛隊を指導していた趙雲の視線が、いつのまにか○と彼女に話しかける馬超の方へ向いていた。
馬超は○にあしらわれても何度も話しかけ、鍛錬場の端の石台に連れて行くと服を捲った。
傷の具合を確かめているようだ。
その光景に、胸の奥に言葉にならない違和感が生まれる。
(…あれほど痛むのなら、なぜ無理をする…?)
馬超と話すときの○は、心なしかいつもと違う気がした。
(……嫌な予感しかしない)
食堂に入ると騒動の中心が一目で分かった。
○が座る席を兵士たちが取り囲んでいる。
その隣で馬超が、真っ赤になりながらも席についている。
「ほら、馬超。口を開けて?あ~ん」
「子供みたいに扱うな!」
「と言いながら食べるんですね」
そんなやり取りに趙雲は盛大にため息をついた。
外から見る趙雲の顔はいつも通りの冷静な将。
だが胸の奥では、鋼のような冷たいものと言葉にできないざらつきが混じっていた。
「……あ、趙雲」
馬超の声に、○の横顔がふっとこちらに向く。
悪戯が見つかった子どものような無邪気な笑み。
彼女にとってこの程度の事は悪戯にしか過ぎないのか。
「あら、趙雲。遅かったわね」
趙雲は無言のままゆっくりと○の卓の横に立った。
「……○。隊士を振り回すなと言ったはずだ」
「“振り回してる”なんて人聞きが悪いわ。馬超がね、食べさせて欲しいって言うから」
「いや、お前が曲解して…」
「なぁに?」
にっこり笑う○に、馬超が黙り込み、兵士がふきだす。
そしてそれに比例して趙雲の眉間のしわが深くなった。
「……午後の鍛錬に支障が出る。全員食事に集中しろ。○は話があるからこっちに来い」
「はいはい」
○は赤らんだ馬超に向かって唇だけで「またね」と送り、立ち上がる。
騒がしい食堂の一角から離れ、趙雲は○を比較的静かな隅の席に座らせた。
○は椅子に腰をかけ、優雅に食事をしながら脚を組む。
「で?わざわざ別席なんて。私と二人きりで食事がしたかったの?」
「……なぜああいうことをする」
「何のことかしら?」
「とぼけるな。男に不用意に触れるなと言っただろう。あの距離で迫る必要はないはずだ」
「必要があるかどうかなんて、私が決めることよ?私には”不用意”じゃなかったの」
「お前のそういう振る舞いは、我が隊の秩序を乱す」
「秩序?ちょっと楽しんだだけじゃない。鍛錬中じゃないし」
「どうすれば伝わるのか…」
声が沈む趙雲に、○は楽しそうだ。
箸で鶏肉をつまみ上げながら言う。
「そんな事より…馬超って、素直で可愛いわよね。すぐ赤くなっちゃって」
「お前が何を考えているのか、本当に理解しづらい」
「そりゃ違う人間なんだから仕方ないわよ。生まれも暮らし方も違ったんだもの」
その言葉に趙雲は黙り込む。
「あ。だけど、馬超はちょっと理解してくれてるのかもね。話が合うのよ」
突然、声の温度が変わった。
「彼、骨董品の知識も豊富だし…なにより馬家があった涼州っていうのは、遊牧系や異国の文化が混ざってるの。だから鉄器の意匠が独特なのよ。鍛冶の痕も、交易で入ってくる物の流れも違うし」
話は止まらない。
「彼が持ってる装飾具が素敵なんだけど、前漢後期の工房の技法に近いの。涼州の鉄は、乾燥地帯だから錆び方が違うし、馬家は代々その手の物を大事にしてきたみたいで——」
まるで嬉々として宝物を語る子どものようだ。
趙雲はきょとんとして黙って見ていた。
「涼州って、街道を通って珍しいものがたくさん来るのよ。彼の実家も色んな物を持っていたみたいで、聞いてると本当に面白いのよ」
「……そうか」
「あ…趙雲は馬超の故郷の話、興味なかった?」
「別に……興味がないわけではない」
「じゃあ今度、彼と三人で話しましょう?私が解説してあげるわ」
「……必要ない」
ぶっきらぼうにそう言うと、趙雲は食事をする。
「なによぉ。面白いのよ、私の骨董講義。歴史学者ならお金を払ってでも聞くと思うわ」
そう言いながら○は趙雲の皿から鶏肉を一つとる。
「人の分まで食べるな」
「講義代よ」
すると。
静かな足音が近づいてきた。
盆を両手に抱えた×が、戸惑いの色を浮かべながら立っていた。
「……あの。こちらの席、空いていますか?」
その声音は控えめで礼儀正しい。
○の視線が、すっと×へ向く。
「あ、どうぞどうぞ。…お邪魔みたいだし、行くわ」
優雅に立ち上がる。
「待て、○。まだ…」
趙雲が止めようと手を伸ばすが、○はその手をかわすように軽く笑った。
○が食堂を去っていく背中。
「また勝手なことを…」
小さくつぶやいた趙雲の正面に座った×も、○の後ろ姿を見送った。
趙雲が眉間に皺を寄せて黙っていると、×がそっと箸を置き、穏やかな声で言った。
「……お疲れ様です、趙雲様。あの方は…とても、自由な方ですね」
苦笑に近い微笑を浮かべる。
「大変なお立場ですね。でも、あの方の能力は蜀に必要なものですもの……趙雲様なら、きっと上手に使いこなせると信じられているのでしょう」
×の声は、いつもの理知的で凛とした調子だ。
その静かな優しさが、趙雲の胸の奥にじんわりと染みる。
(……この方は、本当に……誠実だ)
盆の上で揺れる汁椀の湯気が、不思議と落ち着いた空気を生んでいた。
さっきまでの喧騒が嘘かの様に静かで落ち着いた。
○と違って、×は誰かの心を試したり、揺さぶろうとしたりしない。
包み込むように静かだ。
「……ありがとう。×殿の言葉はとても安らぐ」
「お役に立てて、光栄です」
軽く言葉を交わしただけで、二人の間の空気が少しだけ近づいた。
昼餉が終わり、文官たちが控える廊下を諸葛亮が歩いていると、軽い噂が耳に入った。
ー……また○殿が食堂で騒ぎを……ー
ー馬超殿まで巻き込んだとか……ー
ーそれを見た趙雲殿が……ー
(これは、×のいう事も一理あるのかもしれませんね)
実は×より、○の配置を変えてみてはどうだろうかという話が上がった。
趙雲よりも年配の、関羽や張飛につけることで落ち着くのでは?というものだ。
実際にこういった騒ぎが噂になる程だ。
諸葛亮は趙雲に聞いてみることにした。
諸葛亮は○と趙雲を執務室に呼ぶ。
○はいつものように軽い笑み、趙雲は静かな緊張を纏っている。
「お二人に、今後の人事について話があります」
○は面倒くさそうに髪を払った。
「別に、私は誰の下でもいいですよ。現場ではどうせ一人で潜入するんですから」
「なるほど。では、関羽殿か張飛殿などいかがでしょう」
「私は全然!どちらでも結構です」
「…………」
趙雲は黙り込む。
「趙雲殿。あなたのお考えも聞きたい」
○は横目で趙雲を見ながらにやりと笑う。
「趙雲。私、どこに行っても大丈夫よ?あなたが楽になるならその方がいいでしょうし。関羽様の隊なんて、ちょっと楽しみですらあるわ」
ルンルンと嬉しそうな○。
趙雲は息をのみ、ゆっくりと視線を前に向けた。
「諸葛亮殿。確かに○は問題が多い。扱いづらさもあります。しかし、この者の能力は、私が最も把握しています。任務に出向く際の事も考えれば、蜀の幹部である関羽殿や張飛殿がそれだけの為に城を開ける訳にもいきますまい。私が統率したほうが確実です」
○が、「へぇ…」と言いたげな顔をした。
諸葛亮は少し考えると静かに頷いた。
「分かりました。貴方がそこまでおっしゃるのならば、当面はお任せしましょう。ただし、秩序に支障をきたす行動は厳に慎むこと。特に…昼餉のような騒ぎは控えるように」
「あら。もしかしてそれを聞いてこの人事の提案を?」
「それも一押しになりましたね。気をつけてください」
×は鍛錬場に向かっていた。
文官の同僚が、「趙雲殿と○殿が呼び出されていた」と言っていたので、諸葛亮が趙雲に、○の人事異動の話をしたのだと踏んだからだ。
見るとちょうど訓練を終えたばかりの趙雲が戻ってくるところだった。
「趙雲様……!」
「……×殿。どうかしたか?」
胸のざわつきのまま、言葉が口をついて出る×。
「○殿の件……。配置転換の提案がされたと聞きました。これで…肩の荷が下りますね」
言ってから、その言葉が少し刺々しく聞こえたことに自分で驚く。
趙雲は少しの沈黙の後、静かに言った。
「その話は断った」
「…………え?」
耳に入った瞬間、心臓が跳ねた。
「……断った、のですか?なぜ……?」
「○の能力は私が最も把握している。任務上、私が統率した方が確実だ」
変わらず淡々としているはずなのに、どこか言いにくそうにしている様にも聞こえた。
「……本当に、それだけですか?」
趙雲は×を見る。
「○殿は…隊の秩序を乱し、趙雲様を困らせ続けているはずです。あのような方を自ら引き止める理由が、任務の都合だけだとは……思えません。どうしてそこまで…○殿を」
趙雲はなにも答えない。
沈黙が痛くて、×はわずかに笑みを作った。
「……いえ。申し訳ございません。越権でしたね。仕事に戻ります」
そう言って走り去っていった。
=====
ー馬超の心配ー
鍛錬場の端で、○が壁にもたれながら脇腹を押さえる仕草を見た馬超は眉をひそめた。
(……やっぱり、まだ痛むんじゃないか)
本人は“治った”と笑っていたが、どう見ても痛みを隠している。
あんな傷と滅茶苦茶な治療ですぐに治る事はないと思う。
気づいたら足が自然に向かっていた。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫よ。ほら、見て。元気そうでしょ?」
軽く笑ってみせるが、その目の奥にわずかな苦しさがあるのを馬超は見逃さなかった。
「嘘だな。痛むんだろ?痛み止めとか貰ってきたらどうだ?」
「もう飲んでるわ。軟膏も持ってるし」
「それでまだ痛いのか?ちょっと傷、見せてみろ。薬をちゃんと塗ってやる」
馬超は○の服を捲ろうと手を伸ばす。
「え、やめてよ。誤解されるでしょ」
「お前なあ。あんだけくっついたりしておいて、これは駄目なのか?自分ではちゃんと傷口見れないだろ」
結局、○は根負けし、鍛錬場の端の石台に腰を下ろした。
馬超はしゃがみ込み、○から受け取った軟膏を持って痛む場所を確かめる。
「お前、ちゃんと消毒してるか?痛そうだぞ」
そう言うとそっと軟膏を塗る。
「いたたたっ」
「やっぱり無理してるじゃないか。痛いのに鍛錬場に来るなよ」
「だって怪我してない設定だもの」
「お前が鍛錬休んだって、サボりだな~くらいで済むだろ」
「失礼ね」
軟膏を塗り終えた馬超は、本気で心配しているのが見て分かる。
その真っすぐさに、○の目が少しだけ細くなる。
「馬超って、ほんとお節介ね」
「優しいって言え。とりあえず今日は鍛錬なんてするな。部屋に戻って休め。背負っていってやるよ」
「そんな事しなくていいってば。嬉しいけど恥ずかしいわ」
「ならとりあえず今日は休憩しとけ」
そう言って鍛錬に戻った馬超を、○は「はいはい」と見送った。
=======
ー趙雲の内省ー
人事の変更を提案されたあと、私は鍛錬場に向かった。
訓練をしている兵たちを見る振りをしながら、私は半ば無意識に鍛錬場の隅へと目を向けた。
そこには○がいた。
大勢の兵士と距離を置き、壁に寄りかかりながら、わずかに脇腹を押さえている。
(……まだ痛むのか)
本人が言うには戦に出られる程度には回復しているはずだ。
「ほぼ完治」と相変わらずの尊大な態度で笑っていた。
しかし闇市で手に入れた痛み止めを、今朝もまだ服用していた。
あの傷は本来、放っておいて治るようなものではないと馬超が言っていたのも気になる。
(あの崖で…逃げることもできただろうに)
○は逃げなかった。
助けを呼ぶために焚き火を焚き、私が意識を取り戻すまで傍にいた。
あの時、懐の小刀はそのままあった。
しかしあれは一度、○が抜き取ったのではないかと思っている。
あの怪我は、おそらく崖を降りてから負ったものだ。
崖から落ちる前の彼女は間違いなく無傷だったから。
それから怪我をするような場面はなかった。
近くにオオカミがいたと言っていたから、私を危険から守るために負ったものかもしれない。
怪我をした理由も言わない。
傷も見せない。
気まぐれの幅が広すぎて戸惑うばかりだ。
言わなくていい事しか言わない。
兵士に話しかけられ、○が笑った。
脇腹をさすりながら、痛みをごまかすように笑っている。
その一瞬、胸の奥が小さく痛んだ。
(……馬鹿者。無理をするなと言ったのに)
奥方との鍛錬も平気な顔で付き合っていたが、あれだってどこまでの痛みを我慢していたのか分からない。
自分の親衛隊を指導していた趙雲の視線が、いつのまにか○と彼女に話しかける馬超の方へ向いていた。
馬超は○にあしらわれても何度も話しかけ、鍛錬場の端の石台に連れて行くと服を捲った。
傷の具合を確かめているようだ。
その光景に、胸の奥に言葉にならない違和感が生まれる。
(…あれほど痛むのなら、なぜ無理をする…?)
馬超と話すときの○は、心なしかいつもと違う気がした。