本編【16話~30話】
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翌朝。
まだ日が高くなる前。
劉備が柔らかな声で孫尚香に告げる。
「尚香殿。今日の鍛錬だが…相手が見つかったんだ」
「本当?どなた?」
髪を結い上げながら顔を上げる。
彼女は武家の娘、腕には覚えがある。
どんな猛者が来るのかと、その期待が自然と瞳を輝かせていた。
「趙雲が連れてきた副官だ。名は○という」
「えっ──あの、城内で有名な人?」
一瞬、目をぱちぱちと瞬かせる。
「私の相手が務まるのかしら?わたし、そこらの男性にも負ける気がしないのに…」
「ははは。尚香殿の腕は私もよく知っている。だが、○殿もただの者ではない。戦にも出ているしな」
腰に手を当て、むっとした表情をする孫尚香。
「趙雲殿と手合わせできると思ってひそかに楽しみにしていたのに…残念だわ」
口を尖らせたまま、むずむずと落ち着かない。
孫尚香は、鏡越しに自分の姿を確認した。
キュッと帯を締める。
○は奔放で男を手玉に取るような振る舞いをすると聞く。
そんな相手に、“武”で劣ると思われるのは我慢ならない。
(よし…!今日の鍛錬で私がどれだけ強いか教えてあげる。それが評価されれば、兵士との鍛錬に出してもらえるかもしれないわ)
鍛錬場。
澄んだ空気の中で兵たちが準備をしていた。
その中央に趙雲の姿と、その隣に立つ○。
○は軽やかで、いつもと変わらない微笑を浮かべていた。
そこへ孫尚香が凛とした足取りで近づく。
「はじめまして。孫尚香と申します」
「お会いできて光栄ですわ。奥様。○と申します」
口元の笑みは柔らかい。
けれどその瞳は、人を値踏みするようないやらしいものだった。
「あなた、本当に戦えるの?噂では顔の話ばかりで、腕前は聞いていないわ」
○はゆっくり瞬き、微笑を深める。
「心配しなくても大丈夫よ。“男性との交わり”よりは、苦手だけど」
「…○」
制止する趙雲を軽く鼻歌を歌って無視する○。
その言い方はどこまでも軽い。
「ふーん。随分と自信があるのね。私、武家の生まれだから武芸には自信があって…女性相手はちょっと遠慮しちゃうんだけどな」
「うふふ。私も女性と”交わる”趣味はないから緊張するわ」
互いに見下した物言い。
孫尚香の眉がぴくりと跳ねた。
「そこまでにしておけ、○。品がなさすぎる」
「いいえ、いいのよ趙雲殿。私は別に構わないわ。本当に私の相手が務まるのか心配しただけ」
言葉は丁寧だが、目は完全に闘志の色を宿している。
趙雲は2人を見比べながら、静かに息をついた。
(……面倒な組み合わせになったものだ)
鍛錬場の中央。
兵士達は壁際に立ち二人の鍛錬を見学している。
孫尚香は飛圏を構え、まっすぐに○に突っ込んだ。
○は身体をほんの指先ほど傾けるだけで、孫尚香の斬撃を軽々と避けた。
二撃目、三撃目。
○は避けるだけだ。
「逃げてないで戦いなさいよ!」
孫尚香がそう言って間合いを詰める。
目の前に孫尚香が来たその時。
○は鋭い蹴りで右手に持っていた飛圏を弾き飛ばす。
さらに持っていた右手の模擬刀を、孫尚香の左手の飛圏の穴に突っ込んで引きはがして飛ばした。
「きゃ──!」
驚く間もなく、○は孫尚香の真正面に立ち、模擬刀を目に向かって突き出して寸止めした。
息を呑む音が、周囲の兵士から一斉に漏れる。
孫尚香は震える拳を握りしめた。
「あなた…!なによその戦い方!そんな姑息な…」
○は悪戯っぽく笑うと、地面に落ちている飛圏に近づく。
「色んな相手と戦うのが戦場でしょ?最後に立ってた方が勝ち。…はい、二戦目やるでしょ?」
そう言って飛圏を拾って渡す。
ニヤニヤと口角を上げる。
挑発させたら○の右に出る者はそういない。
孫尚香は思い切り砂を蹴って踏み込む。
先ほどよりもかなり早い。
○はその攻撃を受けず、触れるように流す。
衝突も起こさず、綺麗に逸れて腕ごと地面に降ろされた。
○はそれを上から踏みつける。
腕ごと地面に押し付けられて、指を地面と飛圏に挟まれ、思わず孫尚香が獲物から手を離した。
○は飛圏を踏みつけたまま自身の背後に向かって蹴り飛ばした。
飛圏が砂の上を転がり、鍛錬場の隅まで転がっていく。
「なんてことを──!」
「そういえば…」
そこで○が軽く首をかしげる。
「これは鍛錬だったわね。決闘でも、試合でもない」
孫尚香が息を呑む。
「なら、”アナタよりも強者の立場として”教えてあげるわ」
○は軽い足取りで飛圏を拾い上げると、ヒョイヒョイと飛圏を手で弄びながら孫尚香の手首を軽く取った。
「あなたの癖はね。武器を振り切る前に、右足に体重を乗せすぎること。だから私みたいに流す敵が相手だと、それを見極められたら全部空振りするの。直せないなら前垂れのある衣装をオススメするわ」
○はいつもの挑発的な笑みも浮かべず、おどける気配もない。
ただ淡々と的確に伝える。
「あとは…そうねぇ、もう一度構えて。で、腰はこの高さかしら?どれだけ鍛えてても女性は筋力が知れてるから、てこの原理を利用するのよ」
その通りに飛圏を振るった孫尚香は、明らかに変わった斬撃に驚く。
孫尚香は目を輝かせた。
「もう一度、お願いしてもいい!?」
「勿論。今日は奥様の鍛錬相手ですから」
その様子を見ていた兵士達が小声で言う。
「あの人が普通に教えるなんて事あるんだな」
「むしろ丁寧だ」
「○殿って、教えるのうまかったんだな」
孫尚香と○の二回戦が終わり、張り詰めていた鍛錬場の空気がほどけていく。
○は孫尚香の打ち込みを受け止め、手足を取りながら丁寧に構えを直していく。
孫尚香は真剣に頷き、その動きを何度も繰り返す。
周囲から漏れる声には驚きと安堵が混じっていた。
趙雲はその様子を静かに見守っていたが、胸の内は複雑だった。
(○が教えている?それも、意外と丁寧に…)
信じがたい光景だった。
最初はどうなる事かと思ったが持ち直した。
孫尚香の踏み込みの癖を見抜き、何度も動きを合わせて教え、決して侮らず丁寧に技術を与えている。
気まぐれなのか、あるいは本来の気質なのか。
それは判断がつかなかった。
だが教える姿の中には、確かに優しさがあった。
(……分からぬ。この女の本性はどこにある)
○の本性はまだ掴めない。
むしろ掴ませまいとしているようにも見える。
孫尚香の指導を終えた○がふとこちらを見ると、ほんの一瞬、他の誰にも見えない微笑を浮かべた。
稽古を終えた孫尚香は、頬を紅潮させながら○へ駆け寄る。
「○!ありがとう!まるで兄さま達に鍛錬してもらってるみたいだったわ!」
「私も楽しかったです」
○は軽く笑ったが、その笑みには距離感がある。
孫尚香はそれに気づかず、さらに一歩近づく。
「ねえ、また手合わせをお願いしたいの!あと、もしよければ、鍛錬の後に…」
「……奥様。やめておいた方がいいわ。私と関わるとおかしな噂が立つから」
「噂…?」
「奥様の耳にも入ってた噂、ロクなものじゃなかったでしょ?その上、女官たちが私のこと、なんて言ってるか知ってる?淫婦だとか、色で情報を集めてるとか。あとは…『趙雲様を取らないで〜!』ってね」
最後のひと言だけ、○がわざと肩をすくめておどけてみせる。
その滑稽さに孫尚香は小さく吹き出しそうになった。
「……まあ。そんなことを」
「いいのよ、言わせておけば。美人の義務だわ。全部が嘘じゃないし。だけど、そんな私と一緒にいない方がいいって事は分かるでしょ」
○は取り付く島もない様子で、手をヒラヒラさせた。
「そもそも私、趙雲にアナタに近寄るなって言われてたし。諦めてくださいな」
孫尚香は言葉を失った。
孫尚香の戸惑いと空気の変化に気づき、趙雲が素早く歩み寄ってくる。
「孫尚香殿。申し訳ない、○が失礼な言い方を…」
「言い方ぁ?こういうのはハッキリ言わなきゃダメじゃない」
いつもの声色に戻っている。
趙雲は小さくため息を吐いた。
孫尚香は純粋だ。
気に入った相手には距離を縮める。
だが、それが○の秘密に触れることになれば最悪の結果になる。
ちょうど○自身も孫尚香を遠ざけようとしているのだから、これに乗ることにした。
「孫尚香殿。○は……その…あまり人と深く関わるのに向いていないのです。この様に失礼ばかりですし」
○が横目でジットリと趙雲を見る。
「まぁた適当な言い訳して」
「少し黙っててくれ」
趙雲が○を睨む。
「○はまだ、城内でも馴染み切れておらず…その立場で先に孫尚香殿と親交をもっては周囲からの心証が悪くなってしまう可能性があります。ですから、今しばらくお待ちいただければと」
孫尚香は残念そうに眉を寄せる。
「そう…なら仕方ないわね。でも、今日の鍛錬はとても楽しかった。本当にありがとう、○」
「どういたしまして。そこら辺で会ったら声をかけてくださいね」
微笑んで手を振り去っていく孫尚香の背中を見ながら、趙雲は胸をなでおろした。
鍛錬の後、残された孫尚香と趙雲の元に劉備が歩み寄った。
鍛錬場の出入り口から聞こえる声に三人は目を向ける。
「○!今の鍛錬、見事だったぞ!」
明るい声とともに馬超と親衛隊が駆け寄ってきた。
「お前、あんなに教え方がうまかったのか。驚いたぞ!」
○はくすっと笑った。
「いやぁね。親衛隊の子にも、同じように教えてあげたのよ?こうやって」
○は馬超へ近づくと、身体をピッタリくっつけて手を這わせる。
馬超の胸に、○の胸が押し付けられた。
「でも、男性にはこうやって教えちゃダメなんですって」
馬超は耳まで真っ赤になった。
周囲の兵士たちは慣れて来たのか、「また始まった…」という顔で笑う。
孫尚香は目を丸くしている。
劉備は苦笑。
趙雲に至っては見ていられないと言う様に眉間を抑える。
動かない馬超に、グイグイ身体を寄せる○。
兵士達が「耐えてますね~」とか「顔が真っ赤ですよ」と茶化す中、「こんなもの、どうと言う事はない!」と説得力のない顔で反論する馬超。
「じゃあ“鍛錬”を続けましょうか。馬超、剣はね……こうやって握るのよ?」
そう言うと、自分の指を馬超の指にからめる。
まるで男性のソレに触れるかのように上下にさする。
妙な熱狂を見せるそれに、孫尚香は驚きのあまり口をぽかんと開けていた。
「な、なんなの……あの人…」
「はは……○殿は、実に自由な方だな」
さすがに騒がしすぎると判断した劉備が、朗らかな笑みを浮かべて一歩前へ出た。
「その辺でよかろう、○殿。これ以上は馬超が訓練どころでなくなってしまう」
「劉備殿っ!?い、いや、私は…!」
「馬超、顔が真っ赤だ。その状態で何を言っても説得力がないぞ」
兵士たちが笑う。
○は軽く肩をすくめ、馬超から離れた。
「残念ねぇ、いいところだったのに」
「……ま、また今度続きだ」
「ふふ。楽しみにしてるわ。ね、続きはどこでやる?あなたの部屋?」
馬超は余計に真っ赤になって目をそらした。
劉備は苦笑しながら、場をおさめるように手を上げる。
「皆、持ち場に戻れ。○殿も、今日はよく働いてくれたな。ゆっくり昼餉をとってくれ」
ざわつきと笑いが少しずつ引き、○や馬超は鍛錬場を出ていく。
彼らが出て行くと、鍛錬場は急に静かになった。
「さっきは私に“噂になるから近づくな”なんて言っておいて、馬超殿にはあんな距離で…どこにどういう配慮してるのか分からないわ」
劉備は苦笑しつつ、優しい視線を向ける。
「あれは○殿の性分だろう。誰にでもあの調子のようだ…しかし。○殿の戦いぶり、見事であったな。あのような者が誰にも仕えずに在野にいたのか?」
劉備の視線が、ゆっくりと趙雲に向けられた。
「どこにも仕えた事はないと聞いていますが、詳しくは話さないもので……。ただ、才は認めます。動き、判断力、技、どれも軍で育てた者では到底及ばない叩き上げです」
だが趙雲の視線は険しい。
「しかし…人の心に意図して入り込む術を心得ている所が、危ういと考えています」
「○殿の様な才を持つ者は軍にとって“異物”だ。だが、異物だからこそ良い刺激になることもある。それに、趙雲が選んだのなら信じられるというものだ」
「ありがとうございます」
趙雲は一礼すると自身も食堂に足を向けた。
まだ日が高くなる前。
劉備が柔らかな声で孫尚香に告げる。
「尚香殿。今日の鍛錬だが…相手が見つかったんだ」
「本当?どなた?」
髪を結い上げながら顔を上げる。
彼女は武家の娘、腕には覚えがある。
どんな猛者が来るのかと、その期待が自然と瞳を輝かせていた。
「趙雲が連れてきた副官だ。名は○という」
「えっ──あの、城内で有名な人?」
一瞬、目をぱちぱちと瞬かせる。
「私の相手が務まるのかしら?わたし、そこらの男性にも負ける気がしないのに…」
「ははは。尚香殿の腕は私もよく知っている。だが、○殿もただの者ではない。戦にも出ているしな」
腰に手を当て、むっとした表情をする孫尚香。
「趙雲殿と手合わせできると思ってひそかに楽しみにしていたのに…残念だわ」
口を尖らせたまま、むずむずと落ち着かない。
孫尚香は、鏡越しに自分の姿を確認した。
キュッと帯を締める。
○は奔放で男を手玉に取るような振る舞いをすると聞く。
そんな相手に、“武”で劣ると思われるのは我慢ならない。
(よし…!今日の鍛錬で私がどれだけ強いか教えてあげる。それが評価されれば、兵士との鍛錬に出してもらえるかもしれないわ)
鍛錬場。
澄んだ空気の中で兵たちが準備をしていた。
その中央に趙雲の姿と、その隣に立つ○。
○は軽やかで、いつもと変わらない微笑を浮かべていた。
そこへ孫尚香が凛とした足取りで近づく。
「はじめまして。孫尚香と申します」
「お会いできて光栄ですわ。奥様。○と申します」
口元の笑みは柔らかい。
けれどその瞳は、人を値踏みするようないやらしいものだった。
「あなた、本当に戦えるの?噂では顔の話ばかりで、腕前は聞いていないわ」
○はゆっくり瞬き、微笑を深める。
「心配しなくても大丈夫よ。“男性との交わり”よりは、苦手だけど」
「…○」
制止する趙雲を軽く鼻歌を歌って無視する○。
その言い方はどこまでも軽い。
「ふーん。随分と自信があるのね。私、武家の生まれだから武芸には自信があって…女性相手はちょっと遠慮しちゃうんだけどな」
「うふふ。私も女性と”交わる”趣味はないから緊張するわ」
互いに見下した物言い。
孫尚香の眉がぴくりと跳ねた。
「そこまでにしておけ、○。品がなさすぎる」
「いいえ、いいのよ趙雲殿。私は別に構わないわ。本当に私の相手が務まるのか心配しただけ」
言葉は丁寧だが、目は完全に闘志の色を宿している。
趙雲は2人を見比べながら、静かに息をついた。
(……面倒な組み合わせになったものだ)
鍛錬場の中央。
兵士達は壁際に立ち二人の鍛錬を見学している。
孫尚香は飛圏を構え、まっすぐに○に突っ込んだ。
○は身体をほんの指先ほど傾けるだけで、孫尚香の斬撃を軽々と避けた。
二撃目、三撃目。
○は避けるだけだ。
「逃げてないで戦いなさいよ!」
孫尚香がそう言って間合いを詰める。
目の前に孫尚香が来たその時。
○は鋭い蹴りで右手に持っていた飛圏を弾き飛ばす。
さらに持っていた右手の模擬刀を、孫尚香の左手の飛圏の穴に突っ込んで引きはがして飛ばした。
「きゃ──!」
驚く間もなく、○は孫尚香の真正面に立ち、模擬刀を目に向かって突き出して寸止めした。
息を呑む音が、周囲の兵士から一斉に漏れる。
孫尚香は震える拳を握りしめた。
「あなた…!なによその戦い方!そんな姑息な…」
○は悪戯っぽく笑うと、地面に落ちている飛圏に近づく。
「色んな相手と戦うのが戦場でしょ?最後に立ってた方が勝ち。…はい、二戦目やるでしょ?」
そう言って飛圏を拾って渡す。
ニヤニヤと口角を上げる。
挑発させたら○の右に出る者はそういない。
孫尚香は思い切り砂を蹴って踏み込む。
先ほどよりもかなり早い。
○はその攻撃を受けず、触れるように流す。
衝突も起こさず、綺麗に逸れて腕ごと地面に降ろされた。
○はそれを上から踏みつける。
腕ごと地面に押し付けられて、指を地面と飛圏に挟まれ、思わず孫尚香が獲物から手を離した。
○は飛圏を踏みつけたまま自身の背後に向かって蹴り飛ばした。
飛圏が砂の上を転がり、鍛錬場の隅まで転がっていく。
「なんてことを──!」
「そういえば…」
そこで○が軽く首をかしげる。
「これは鍛錬だったわね。決闘でも、試合でもない」
孫尚香が息を呑む。
「なら、”アナタよりも強者の立場として”教えてあげるわ」
○は軽い足取りで飛圏を拾い上げると、ヒョイヒョイと飛圏を手で弄びながら孫尚香の手首を軽く取った。
「あなたの癖はね。武器を振り切る前に、右足に体重を乗せすぎること。だから私みたいに流す敵が相手だと、それを見極められたら全部空振りするの。直せないなら前垂れのある衣装をオススメするわ」
○はいつもの挑発的な笑みも浮かべず、おどける気配もない。
ただ淡々と的確に伝える。
「あとは…そうねぇ、もう一度構えて。で、腰はこの高さかしら?どれだけ鍛えてても女性は筋力が知れてるから、てこの原理を利用するのよ」
その通りに飛圏を振るった孫尚香は、明らかに変わった斬撃に驚く。
孫尚香は目を輝かせた。
「もう一度、お願いしてもいい!?」
「勿論。今日は奥様の鍛錬相手ですから」
その様子を見ていた兵士達が小声で言う。
「あの人が普通に教えるなんて事あるんだな」
「むしろ丁寧だ」
「○殿って、教えるのうまかったんだな」
孫尚香と○の二回戦が終わり、張り詰めていた鍛錬場の空気がほどけていく。
○は孫尚香の打ち込みを受け止め、手足を取りながら丁寧に構えを直していく。
孫尚香は真剣に頷き、その動きを何度も繰り返す。
周囲から漏れる声には驚きと安堵が混じっていた。
趙雲はその様子を静かに見守っていたが、胸の内は複雑だった。
(○が教えている?それも、意外と丁寧に…)
信じがたい光景だった。
最初はどうなる事かと思ったが持ち直した。
孫尚香の踏み込みの癖を見抜き、何度も動きを合わせて教え、決して侮らず丁寧に技術を与えている。
気まぐれなのか、あるいは本来の気質なのか。
それは判断がつかなかった。
だが教える姿の中には、確かに優しさがあった。
(……分からぬ。この女の本性はどこにある)
○の本性はまだ掴めない。
むしろ掴ませまいとしているようにも見える。
孫尚香の指導を終えた○がふとこちらを見ると、ほんの一瞬、他の誰にも見えない微笑を浮かべた。
稽古を終えた孫尚香は、頬を紅潮させながら○へ駆け寄る。
「○!ありがとう!まるで兄さま達に鍛錬してもらってるみたいだったわ!」
「私も楽しかったです」
○は軽く笑ったが、その笑みには距離感がある。
孫尚香はそれに気づかず、さらに一歩近づく。
「ねえ、また手合わせをお願いしたいの!あと、もしよければ、鍛錬の後に…」
「……奥様。やめておいた方がいいわ。私と関わるとおかしな噂が立つから」
「噂…?」
「奥様の耳にも入ってた噂、ロクなものじゃなかったでしょ?その上、女官たちが私のこと、なんて言ってるか知ってる?淫婦だとか、色で情報を集めてるとか。あとは…『趙雲様を取らないで〜!』ってね」
最後のひと言だけ、○がわざと肩をすくめておどけてみせる。
その滑稽さに孫尚香は小さく吹き出しそうになった。
「……まあ。そんなことを」
「いいのよ、言わせておけば。美人の義務だわ。全部が嘘じゃないし。だけど、そんな私と一緒にいない方がいいって事は分かるでしょ」
○は取り付く島もない様子で、手をヒラヒラさせた。
「そもそも私、趙雲にアナタに近寄るなって言われてたし。諦めてくださいな」
孫尚香は言葉を失った。
孫尚香の戸惑いと空気の変化に気づき、趙雲が素早く歩み寄ってくる。
「孫尚香殿。申し訳ない、○が失礼な言い方を…」
「言い方ぁ?こういうのはハッキリ言わなきゃダメじゃない」
いつもの声色に戻っている。
趙雲は小さくため息を吐いた。
孫尚香は純粋だ。
気に入った相手には距離を縮める。
だが、それが○の秘密に触れることになれば最悪の結果になる。
ちょうど○自身も孫尚香を遠ざけようとしているのだから、これに乗ることにした。
「孫尚香殿。○は……その…あまり人と深く関わるのに向いていないのです。この様に失礼ばかりですし」
○が横目でジットリと趙雲を見る。
「まぁた適当な言い訳して」
「少し黙っててくれ」
趙雲が○を睨む。
「○はまだ、城内でも馴染み切れておらず…その立場で先に孫尚香殿と親交をもっては周囲からの心証が悪くなってしまう可能性があります。ですから、今しばらくお待ちいただければと」
孫尚香は残念そうに眉を寄せる。
「そう…なら仕方ないわね。でも、今日の鍛錬はとても楽しかった。本当にありがとう、○」
「どういたしまして。そこら辺で会ったら声をかけてくださいね」
微笑んで手を振り去っていく孫尚香の背中を見ながら、趙雲は胸をなでおろした。
鍛錬の後、残された孫尚香と趙雲の元に劉備が歩み寄った。
鍛錬場の出入り口から聞こえる声に三人は目を向ける。
「○!今の鍛錬、見事だったぞ!」
明るい声とともに馬超と親衛隊が駆け寄ってきた。
「お前、あんなに教え方がうまかったのか。驚いたぞ!」
○はくすっと笑った。
「いやぁね。親衛隊の子にも、同じように教えてあげたのよ?こうやって」
○は馬超へ近づくと、身体をピッタリくっつけて手を這わせる。
馬超の胸に、○の胸が押し付けられた。
「でも、男性にはこうやって教えちゃダメなんですって」
馬超は耳まで真っ赤になった。
周囲の兵士たちは慣れて来たのか、「また始まった…」という顔で笑う。
孫尚香は目を丸くしている。
劉備は苦笑。
趙雲に至っては見ていられないと言う様に眉間を抑える。
動かない馬超に、グイグイ身体を寄せる○。
兵士達が「耐えてますね~」とか「顔が真っ赤ですよ」と茶化す中、「こんなもの、どうと言う事はない!」と説得力のない顔で反論する馬超。
「じゃあ“鍛錬”を続けましょうか。馬超、剣はね……こうやって握るのよ?」
そう言うと、自分の指を馬超の指にからめる。
まるで男性のソレに触れるかのように上下にさする。
妙な熱狂を見せるそれに、孫尚香は驚きのあまり口をぽかんと開けていた。
「な、なんなの……あの人…」
「はは……○殿は、実に自由な方だな」
さすがに騒がしすぎると判断した劉備が、朗らかな笑みを浮かべて一歩前へ出た。
「その辺でよかろう、○殿。これ以上は馬超が訓練どころでなくなってしまう」
「劉備殿っ!?い、いや、私は…!」
「馬超、顔が真っ赤だ。その状態で何を言っても説得力がないぞ」
兵士たちが笑う。
○は軽く肩をすくめ、馬超から離れた。
「残念ねぇ、いいところだったのに」
「……ま、また今度続きだ」
「ふふ。楽しみにしてるわ。ね、続きはどこでやる?あなたの部屋?」
馬超は余計に真っ赤になって目をそらした。
劉備は苦笑しながら、場をおさめるように手を上げる。
「皆、持ち場に戻れ。○殿も、今日はよく働いてくれたな。ゆっくり昼餉をとってくれ」
ざわつきと笑いが少しずつ引き、○や馬超は鍛錬場を出ていく。
彼らが出て行くと、鍛錬場は急に静かになった。
「さっきは私に“噂になるから近づくな”なんて言っておいて、馬超殿にはあんな距離で…どこにどういう配慮してるのか分からないわ」
劉備は苦笑しつつ、優しい視線を向ける。
「あれは○殿の性分だろう。誰にでもあの調子のようだ…しかし。○殿の戦いぶり、見事であったな。あのような者が誰にも仕えずに在野にいたのか?」
劉備の視線が、ゆっくりと趙雲に向けられた。
「どこにも仕えた事はないと聞いていますが、詳しくは話さないもので……。ただ、才は認めます。動き、判断力、技、どれも軍で育てた者では到底及ばない叩き上げです」
だが趙雲の視線は険しい。
「しかし…人の心に意図して入り込む術を心得ている所が、危ういと考えています」
「○殿の様な才を持つ者は軍にとって“異物”だ。だが、異物だからこそ良い刺激になることもある。それに、趙雲が選んだのなら信じられるというものだ」
「ありがとうございます」
趙雲は一礼すると自身も食堂に足を向けた。