本編【16話~30話】
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高い塀の向こうは海岸で、闇市の喧騒も、城下の雑音も消える。
広い水平線。
鏡のように月を映す海面。
遮るものは何もない。
夜風と波音だけだ。
「綺麗でしょ。私のお気に入りの場所のひとつ」
○の横顔は、海と月の光に白く縁取られていた。
○が先ほど買った紙袋を開ける。
「はい。ここで食べると、この店の団子はもっと美味しいの」
丸い白団子をひとつ取り、趙雲に手渡す。
「どうぞ」
趙雲はためらいなく受け取って口にする。
「……確かに、うまい」
そこで○が、わざとらしく囁いた。
「ちなみに………媚薬が入ってまぁす。これであなたは私の虜ねっ」
月明かりの中で、唇の端が悪戯に上がる。
だが、趙雲は眉一つ動かさなかった。
「嘘だな」
「えぇっ、なんで分かるの?」
○は肩を揺らし、笑みを深めた。
「ほんっと、動じない男ね。そういうところ、好きよ」
「お前は人をからかいすぎる」
海風が二人を撫でる。
○は団子をひとつ自分でも口にしながら、視線だけで趙雲を見る。
「ねぇ。趙雲」
「なんだ」
「あなたとこんな風にここに座ってるなんて、私、少し前まで想像もしなかったわ」
淡い声だった。
いつものメリハリのある声ではない。
「想像してたより……悪くないかなって」
海と月の音だけが、その言葉の余韻を拾っていった。
○の横顔は月光を受けて淡く輝きながら、海の向こうを眺めていた。
その姿は、城内でいつも軽口を叩き、人を翻弄し、男たちを振り回して笑っている女とはまるで別の生き物のように思えた。
盗みを働いて生き、好きなものだけを追求し、誰にも縛られず、自分の足で、誰に仕えることもなく、気ままに夜の街を歩いて生きてきた。
危うく、しかし妙に軽やかで美しい。
彼女が嘘をついている時。
彼女が軽口を叩いている時。
彼女が人を試している時。
そして今のように静かにしている時。
それらがひとりの生き様として浮かび上がる。
(……警戒すべき相手であるはずだ。だが、どこか……安堵すら覚える)
奇妙な感覚だった。
「何故、私をここに連れてきた」
月光に照らされた○は、細めた瞳で海を見つめたまま言う。
「気まぐれよ。劉備殿に今日聞いたんだけど、趙雲って、若いころから城仕えなんでしょう?だからこんな風に月を見たことがないんじゃないかなと思って」
(そんな話をしていたのか)
あの時、劉備達と談笑していた内容を知る。
確かにこんな風に月を見たことはない。
城の中や戦場で見上げるだけだった月は、こうして見るとまるで自分たちだけの物の様だ。
「ねぇ、こうして月を見るの、嫌?」
「嫌ではない」
「ははっ…よかった」
何気ない言葉。
月と海だけの静寂の中で○の髪が風に揺れた。
その光景から目を離すのが惜しい気がした。
軍規違反。
軽口。
下卑た噂話も気にせず、男に触れ、翻弄し、自分勝手に振舞って生きている。
そんな、自分が一番好きではない種類の女。
だが今、月の下にいる彼女を、ただ美しいと思った。
趙雲の胸の奥がわずかに軋む。
それを押し殺すように、趙雲はあえて口を開いた。
「……ひとつ、聞かせろ」
「なに?」
風が二人の間を渡る。
「なぜお前は、いつも男を誘惑しようとする。先ほどの媚薬の話も……戯れにしては度が過ぎる」
○は片膝を抱え、ゆっくりと趙雲に顔を向けた。
その瞳は、冗談とも真剣ともつかず…しかし底の読めない光を宿している。
「理由なんて単純よ。まぐわいが好きだから。雰囲気でその先でそうなったら楽しいなって思って。シた後の男の人ってかわいいのよ?……でも、今は狙ってる獲物があるから我慢してるの」
「獲物?」
月光に浮かぶ唇は、挑発にも見えるし、無邪気にも見える。
「今は──趙雲を狙ってるから。他は我慢我慢」
迷いも、照れもない。
にっこり微笑んであっさりとそう言った。
「嘘をつけ」
静かにそう言った。
○は目を細める。
「ふふ……そう思う?」
そうやって曖昧に笑う。
その一言に、本心が透けて見えない。
人混みと雑踏から離れ、灯りの少ない裏道へ入る。
○は道端で立ち止まり外套の紐をほどく。
頭の布を外すと、いつもの彼女に戻った。
「ふぅ。やっぱり人ごみで顔を覆うと苦しいわね」
髪をかきあげ、首元の生地を緩く整える。
その仕草を見て、趙雲はふと胸をつかれたような感覚を覚えた。
(まるで夢の中の光景だった。あの海も、月も…)
城へ戻る道。
石畳が月に白く光る。
○は呑気に歩きながら言う。
「さぁ! 明日は奥方様をコテンパンにしちゃうんだからっ」
「……無礼が過ぎる。相手は劉備殿の御内室だ。軽口は控えろ」
「はいはい、ほどほどにね」
返事は軽い。
本気で控える気があるのかは全く伝わってこない。
趙雲は再びため息を飲み込んだ。
ふと、○が横へ身を寄せる。
「ねぇ、趙雲」
「なんだ」
「今日、楽しかった?」
一拍の沈黙。
「……私は、お前を監督していただけだ」
「ふふ、そういう事にしておく?…でも、」
○は趙雲を見上げる。
「私は楽しかった」
趙雲は足が止まりそうになる。
しかしそれを悟られぬよう、歩調を崩さなかった。
「そうそう。性格上、色々言っちゃうけど、×殿との事を邪魔するつもりはないから安心して」
「またお前はそういう…」
「さて、城まであと少しね。また裏口から入らなきゃ」
闇市の夜は終わり、また日常の城門が目の前に迫る。
だが趙雲の胸の痛みだけは、まだ消えていなかった。
広い水平線。
鏡のように月を映す海面。
遮るものは何もない。
夜風と波音だけだ。
「綺麗でしょ。私のお気に入りの場所のひとつ」
○の横顔は、海と月の光に白く縁取られていた。
○が先ほど買った紙袋を開ける。
「はい。ここで食べると、この店の団子はもっと美味しいの」
丸い白団子をひとつ取り、趙雲に手渡す。
「どうぞ」
趙雲はためらいなく受け取って口にする。
「……確かに、うまい」
そこで○が、わざとらしく囁いた。
「ちなみに………媚薬が入ってまぁす。これであなたは私の虜ねっ」
月明かりの中で、唇の端が悪戯に上がる。
だが、趙雲は眉一つ動かさなかった。
「嘘だな」
「えぇっ、なんで分かるの?」
○は肩を揺らし、笑みを深めた。
「ほんっと、動じない男ね。そういうところ、好きよ」
「お前は人をからかいすぎる」
海風が二人を撫でる。
○は団子をひとつ自分でも口にしながら、視線だけで趙雲を見る。
「ねぇ。趙雲」
「なんだ」
「あなたとこんな風にここに座ってるなんて、私、少し前まで想像もしなかったわ」
淡い声だった。
いつものメリハリのある声ではない。
「想像してたより……悪くないかなって」
海と月の音だけが、その言葉の余韻を拾っていった。
○の横顔は月光を受けて淡く輝きながら、海の向こうを眺めていた。
その姿は、城内でいつも軽口を叩き、人を翻弄し、男たちを振り回して笑っている女とはまるで別の生き物のように思えた。
盗みを働いて生き、好きなものだけを追求し、誰にも縛られず、自分の足で、誰に仕えることもなく、気ままに夜の街を歩いて生きてきた。
危うく、しかし妙に軽やかで美しい。
彼女が嘘をついている時。
彼女が軽口を叩いている時。
彼女が人を試している時。
そして今のように静かにしている時。
それらがひとりの生き様として浮かび上がる。
(……警戒すべき相手であるはずだ。だが、どこか……安堵すら覚える)
奇妙な感覚だった。
「何故、私をここに連れてきた」
月光に照らされた○は、細めた瞳で海を見つめたまま言う。
「気まぐれよ。劉備殿に今日聞いたんだけど、趙雲って、若いころから城仕えなんでしょう?だからこんな風に月を見たことがないんじゃないかなと思って」
(そんな話をしていたのか)
あの時、劉備達と談笑していた内容を知る。
確かにこんな風に月を見たことはない。
城の中や戦場で見上げるだけだった月は、こうして見るとまるで自分たちだけの物の様だ。
「ねぇ、こうして月を見るの、嫌?」
「嫌ではない」
「ははっ…よかった」
何気ない言葉。
月と海だけの静寂の中で○の髪が風に揺れた。
その光景から目を離すのが惜しい気がした。
軍規違反。
軽口。
下卑た噂話も気にせず、男に触れ、翻弄し、自分勝手に振舞って生きている。
そんな、自分が一番好きではない種類の女。
だが今、月の下にいる彼女を、ただ美しいと思った。
趙雲の胸の奥がわずかに軋む。
それを押し殺すように、趙雲はあえて口を開いた。
「……ひとつ、聞かせろ」
「なに?」
風が二人の間を渡る。
「なぜお前は、いつも男を誘惑しようとする。先ほどの媚薬の話も……戯れにしては度が過ぎる」
○は片膝を抱え、ゆっくりと趙雲に顔を向けた。
その瞳は、冗談とも真剣ともつかず…しかし底の読めない光を宿している。
「理由なんて単純よ。まぐわいが好きだから。雰囲気でその先でそうなったら楽しいなって思って。シた後の男の人ってかわいいのよ?……でも、今は狙ってる獲物があるから我慢してるの」
「獲物?」
月光に浮かぶ唇は、挑発にも見えるし、無邪気にも見える。
「今は──趙雲を狙ってるから。他は我慢我慢」
迷いも、照れもない。
にっこり微笑んであっさりとそう言った。
「嘘をつけ」
静かにそう言った。
○は目を細める。
「ふふ……そう思う?」
そうやって曖昧に笑う。
その一言に、本心が透けて見えない。
人混みと雑踏から離れ、灯りの少ない裏道へ入る。
○は道端で立ち止まり外套の紐をほどく。
頭の布を外すと、いつもの彼女に戻った。
「ふぅ。やっぱり人ごみで顔を覆うと苦しいわね」
髪をかきあげ、首元の生地を緩く整える。
その仕草を見て、趙雲はふと胸をつかれたような感覚を覚えた。
(まるで夢の中の光景だった。あの海も、月も…)
城へ戻る道。
石畳が月に白く光る。
○は呑気に歩きながら言う。
「さぁ! 明日は奥方様をコテンパンにしちゃうんだからっ」
「……無礼が過ぎる。相手は劉備殿の御内室だ。軽口は控えろ」
「はいはい、ほどほどにね」
返事は軽い。
本気で控える気があるのかは全く伝わってこない。
趙雲は再びため息を飲み込んだ。
ふと、○が横へ身を寄せる。
「ねぇ、趙雲」
「なんだ」
「今日、楽しかった?」
一拍の沈黙。
「……私は、お前を監督していただけだ」
「ふふ、そういう事にしておく?…でも、」
○は趙雲を見上げる。
「私は楽しかった」
趙雲は足が止まりそうになる。
しかしそれを悟られぬよう、歩調を崩さなかった。
「そうそう。性格上、色々言っちゃうけど、×殿との事を邪魔するつもりはないから安心して」
「またお前はそういう…」
「さて、城まであと少しね。また裏口から入らなきゃ」
闇市の夜は終わり、また日常の城門が目の前に迫る。
だが趙雲の胸の痛みだけは、まだ消えていなかった。