本編【序章~15話】
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翌日の孫尚香の稽古に備えて、部屋で持ち物を整理していた○。
「……あら? ない」
いつもなら隠し場所に必ず入れている、特殊な痛み止めがない。
普通の薬より強い、盗賊時代からの必需品だ。
軽く体をひねると、まだ脇腹にじんわりした痛みが走る。
「……困ったわね」
色んな人が見に来るであろう鍛錬で、怪我をしていることがバレてはいけない。
○は衝立越しに趙雲を覗いた。
「趙雲。ちょっといい?」
「どうした」
「痛み止めの薬が切れたの。買いに行っていいかしら?」
「医務室で貰ってきなさい」
○は少し言い淀んだが、言わなくては買いに行けない…と悟る。
「…………闇市に。買いに行きたくて」
予想通り、すぐ却下された。
「駄目だ」
「お願い」
「危険だ」
「私は常連だから平気よ」
「その言葉のどこに安全がある」
「そこで買える薬なら、脇腹は痛まないの。明日姫様と鍛錬するんだから、全力で動けるようにしておかないと」
趙雲は黙った。
まだ痛むのか…と考えている。
「あそこに薬師の知り合いがいるのよ。普通の店じゃ手に入らない薬だから、医務室にも置いてないわ」
「……では、私が同行する」
○は目を見開く。
「え? 趙雲が?闇市に?」
「お前一人で城外には出すわけにはいかない」
そう言った趙雲を、○はジッと見つめた。
「でもねぇ……その綺麗なお顔のまま行ったら、目立つから…」
○は趙雲の鎧を脱がせて、黒い外套を着せ、口元も布をかぶせて全身を隠した。
自身もいつも通り、外套をスッポリとかぶる。
「じゃ、行きましょう。闇市に行くんだから、門兵に見つかるのは良くないわ。この時間帯ならちょうど兵がいない門があるから、そこから出ましょう」
いつの間にか調べてある情報に沿って、二人は城を出た。
******
夜の帳が落ちたばかりの闇市は、松明の赤い光と喧噪で満ちていた。
盗品、薬草、怪しい香。
胡散臭い商人が手招きし、行き交う者たちは皆、顔を隠している。
「今日も賑やかねぇ」
「落ち着かぬな」
趙雲は声が硬い。
外套を深々とかぶり、顔をほとんど隠したまま周囲を警戒してキョロキョロしている。
「それやめて。“怪しい人です”って言ってるようなものよ」
「お前は警戒心がなさすぎる」
「言ったでしょ?私、ここじゃ常連なの」
肩を揺らして笑い、○はひょいひょいと人混みをかき分けて進む。
(この場所は…あまりに無秩序だ)
背後からぶつかってくる男。
どこかでうごめく視線。
値段交渉の罵声。
そのすべてが、彼の神経を逆撫でしていた。
あの成都に、このような市が人知れず開かれていることに戸惑う。
その場に不慣れな立ち居振る舞いに、○は趙雲の外套の裾を引っ張る。
「ほら、そんなところで固まってないで。こっち」
「固まってなど…」
「いいからついてきて」
笑いながら進む○の背を、趙雲は少し距離をあけて追う。
人の波が急に流れを変え、○と趙雲の間に数人が割り込んだ。
(はぐれる…)そう思ったが、すぐに気付いた○が戻ってくる。
まるで後ろに目がついているようだ。
「ちょっと。迷子にならないでよ?」
○は趙雲の手首を軽くつかむと、人混みの陰へ引きずり込んだ。
人ごみが薄れた裏路地に入ると、喧噪が少しだけ遠のく。
「…頭が痛くなるな、この人ごみの空気は」
「楽しいじゃない。ここじゃ誰も相手の顔を見ないのよ。私みたいな女には丁度いいわ」
趙雲は静かに○を見つめる。
○はとても楽しそうだ。
「……さて。薬師はこの奥よ。迷子にならないように、ちゃんとついてきてね?」
「迷子にはならん」
「さっきなりかけてたじゃない」
趙雲は言い返せず、ただ黒外套の下で静かに息を整えるのだった。
闇市の喧噪から外れ、湿った土の匂いが立ち込める細道へ入る。
突き当りの小さな小屋に、灯りがひとつ付き、赤い布が垂れている。
「ここよ」
○が戸を開けると、「おぉぉ! ○じゃねぇか!」と酒焼けした声がした。
小屋の中には、黒ずくめのゴワゴワの手をした男がいた。
「いつもの痛み止めが欲しくて来たの」
薬師は笑いながら、○の後ろのガタイのいい男・趙雲を見る。
「ん?…おい○。この旦那、誰だ?連れなんて何年ぶりだ」
「ああ、私の今の雇い主よ」
「はぁ!?お前が雇われる?冗談だろ」
薬師は○をじっと見て、にやりと笑った。
「で、いつもの“煎じ薬”でいいのか?」
「そ」
薬師の視線・話し方・距離感。
どれも、○に対して上客の扱いをしている。
その常連感に趙雲は驚く。
一体どれだけ闇市に通ってきたのだろう。
「痛み止めの他に、傷を隠す膏薬も付けとくぜ。いるだろ?」
「ありがと」
「お前さんが無茶してくたばられると困るからな」
その言葉にも、趙雲の胸に小さなひっかかりが残る。
ここに来るまでも見ていたが、闇市における彼女は、馴染みであり、名の知れた女で、誰もが気を遣い距離を測る存在だった。
薬師は薬包みを○に渡しながら、趙雲を一瞥した。
「旦那。○を使い続けたいならしっかり繋いでおけよ。離したら最後。二度と戻ってこねぇからな」
○は笑い飛ばす。
「この人の言うことなんて気にしないでね」
「…………」
その言葉を、趙雲はなぜか素直に否定できなかった。
闇市の喧噪を背に、二人は路地を歩いていた。
黒外套はまだ頭に被ったままだ。
(……あれが、○の裏での顔か)
薬師の態度。
商人たちの視線。
あの場所での立ち居振る舞い。
どれも軍中で見る○とは違った。
○は妙齢の女性でありながらずっとこんな世界にいたのだろうか。
自分が劉備の為に奔走していた裏でどうやって生きてきたのだろう。
そんな事を考える趙雲の前を、○は闇市の道を迷いなく歩いている。
影と光の境界を縫うように。
その自由さが、危険で──そしてどこか眩しい。
ふと○が振り返る。
「ついてきてる?」
「ああ」
それだけ返した趙雲はまた、自分の心が静かに揺れるのを感じた。
途中、湿布薬を買った〇は、ついでに何かの紙袋も買っていた。
「こっち」
そう言われてついて行くと、闇市の雑踏を抜け、潮風を含んだ冷たい空気が肌を撫でた。
○は顔だけを向けて微笑む。
「で? 裏稼業体験はどうだった?刺激的だったでしょう?」
「……私には向かぬな」
「ふふっ、でしょうね」
楽しそうに肩を揺らす○。
妙に優しい声音だった。
「帰る前に、寄り道しましょ」
「寄り道…?」
○は路地の奥、人がほとんど通らない古い建物の裏へ歩いていく。
「ここ、上るの。見てて」
○はほとんど助走なしに、ひょいと建物の塀に跳び乗った。
上った○は、片手を差し伸べる。
「趙雲も。ほら、手、貸して」
一瞬迷ったが、趙雲はその手を取った。
予想以上に軽い力で引き上げられ、すんなり壁の上へ座る形になる。
そこには──
海と月だけがある世界 が広がっていた。
「……あら? ない」
いつもなら隠し場所に必ず入れている、特殊な痛み止めがない。
普通の薬より強い、盗賊時代からの必需品だ。
軽く体をひねると、まだ脇腹にじんわりした痛みが走る。
「……困ったわね」
色んな人が見に来るであろう鍛錬で、怪我をしていることがバレてはいけない。
○は衝立越しに趙雲を覗いた。
「趙雲。ちょっといい?」
「どうした」
「痛み止めの薬が切れたの。買いに行っていいかしら?」
「医務室で貰ってきなさい」
○は少し言い淀んだが、言わなくては買いに行けない…と悟る。
「…………闇市に。買いに行きたくて」
予想通り、すぐ却下された。
「駄目だ」
「お願い」
「危険だ」
「私は常連だから平気よ」
「その言葉のどこに安全がある」
「そこで買える薬なら、脇腹は痛まないの。明日姫様と鍛錬するんだから、全力で動けるようにしておかないと」
趙雲は黙った。
まだ痛むのか…と考えている。
「あそこに薬師の知り合いがいるのよ。普通の店じゃ手に入らない薬だから、医務室にも置いてないわ」
「……では、私が同行する」
○は目を見開く。
「え? 趙雲が?闇市に?」
「お前一人で城外には出すわけにはいかない」
そう言った趙雲を、○はジッと見つめた。
「でもねぇ……その綺麗なお顔のまま行ったら、目立つから…」
○は趙雲の鎧を脱がせて、黒い外套を着せ、口元も布をかぶせて全身を隠した。
自身もいつも通り、外套をスッポリとかぶる。
「じゃ、行きましょう。闇市に行くんだから、門兵に見つかるのは良くないわ。この時間帯ならちょうど兵がいない門があるから、そこから出ましょう」
いつの間にか調べてある情報に沿って、二人は城を出た。
******
夜の帳が落ちたばかりの闇市は、松明の赤い光と喧噪で満ちていた。
盗品、薬草、怪しい香。
胡散臭い商人が手招きし、行き交う者たちは皆、顔を隠している。
「今日も賑やかねぇ」
「落ち着かぬな」
趙雲は声が硬い。
外套を深々とかぶり、顔をほとんど隠したまま周囲を警戒してキョロキョロしている。
「それやめて。“怪しい人です”って言ってるようなものよ」
「お前は警戒心がなさすぎる」
「言ったでしょ?私、ここじゃ常連なの」
肩を揺らして笑い、○はひょいひょいと人混みをかき分けて進む。
(この場所は…あまりに無秩序だ)
背後からぶつかってくる男。
どこかでうごめく視線。
値段交渉の罵声。
そのすべてが、彼の神経を逆撫でしていた。
あの成都に、このような市が人知れず開かれていることに戸惑う。
その場に不慣れな立ち居振る舞いに、○は趙雲の外套の裾を引っ張る。
「ほら、そんなところで固まってないで。こっち」
「固まってなど…」
「いいからついてきて」
笑いながら進む○の背を、趙雲は少し距離をあけて追う。
人の波が急に流れを変え、○と趙雲の間に数人が割り込んだ。
(はぐれる…)そう思ったが、すぐに気付いた○が戻ってくる。
まるで後ろに目がついているようだ。
「ちょっと。迷子にならないでよ?」
○は趙雲の手首を軽くつかむと、人混みの陰へ引きずり込んだ。
人ごみが薄れた裏路地に入ると、喧噪が少しだけ遠のく。
「…頭が痛くなるな、この人ごみの空気は」
「楽しいじゃない。ここじゃ誰も相手の顔を見ないのよ。私みたいな女には丁度いいわ」
趙雲は静かに○を見つめる。
○はとても楽しそうだ。
「……さて。薬師はこの奥よ。迷子にならないように、ちゃんとついてきてね?」
「迷子にはならん」
「さっきなりかけてたじゃない」
趙雲は言い返せず、ただ黒外套の下で静かに息を整えるのだった。
闇市の喧噪から外れ、湿った土の匂いが立ち込める細道へ入る。
突き当りの小さな小屋に、灯りがひとつ付き、赤い布が垂れている。
「ここよ」
○が戸を開けると、「おぉぉ! ○じゃねぇか!」と酒焼けした声がした。
小屋の中には、黒ずくめのゴワゴワの手をした男がいた。
「いつもの痛み止めが欲しくて来たの」
薬師は笑いながら、○の後ろのガタイのいい男・趙雲を見る。
「ん?…おい○。この旦那、誰だ?連れなんて何年ぶりだ」
「ああ、私の今の雇い主よ」
「はぁ!?お前が雇われる?冗談だろ」
薬師は○をじっと見て、にやりと笑った。
「で、いつもの“煎じ薬”でいいのか?」
「そ」
薬師の視線・話し方・距離感。
どれも、○に対して上客の扱いをしている。
その常連感に趙雲は驚く。
一体どれだけ闇市に通ってきたのだろう。
「痛み止めの他に、傷を隠す膏薬も付けとくぜ。いるだろ?」
「ありがと」
「お前さんが無茶してくたばられると困るからな」
その言葉にも、趙雲の胸に小さなひっかかりが残る。
ここに来るまでも見ていたが、闇市における彼女は、馴染みであり、名の知れた女で、誰もが気を遣い距離を測る存在だった。
薬師は薬包みを○に渡しながら、趙雲を一瞥した。
「旦那。○を使い続けたいならしっかり繋いでおけよ。離したら最後。二度と戻ってこねぇからな」
○は笑い飛ばす。
「この人の言うことなんて気にしないでね」
「…………」
その言葉を、趙雲はなぜか素直に否定できなかった。
闇市の喧噪を背に、二人は路地を歩いていた。
黒外套はまだ頭に被ったままだ。
(……あれが、○の裏での顔か)
薬師の態度。
商人たちの視線。
あの場所での立ち居振る舞い。
どれも軍中で見る○とは違った。
○は妙齢の女性でありながらずっとこんな世界にいたのだろうか。
自分が劉備の為に奔走していた裏でどうやって生きてきたのだろう。
そんな事を考える趙雲の前を、○は闇市の道を迷いなく歩いている。
影と光の境界を縫うように。
その自由さが、危険で──そしてどこか眩しい。
ふと○が振り返る。
「ついてきてる?」
「ああ」
それだけ返した趙雲はまた、自分の心が静かに揺れるのを感じた。
途中、湿布薬を買った〇は、ついでに何かの紙袋も買っていた。
「こっち」
そう言われてついて行くと、闇市の雑踏を抜け、潮風を含んだ冷たい空気が肌を撫でた。
○は顔だけを向けて微笑む。
「で? 裏稼業体験はどうだった?刺激的だったでしょう?」
「……私には向かぬな」
「ふふっ、でしょうね」
楽しそうに肩を揺らす○。
妙に優しい声音だった。
「帰る前に、寄り道しましょ」
「寄り道…?」
○は路地の奥、人がほとんど通らない古い建物の裏へ歩いていく。
「ここ、上るの。見てて」
○はほとんど助走なしに、ひょいと建物の塀に跳び乗った。
上った○は、片手を差し伸べる。
「趙雲も。ほら、手、貸して」
一瞬迷ったが、趙雲はその手を取った。
予想以上に軽い力で引き上げられ、すんなり壁の上へ座る形になる。
そこには──
海と月だけがある世界 が広がっていた。