本編【序章~15話】
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朝、趙雲が目を覚ますと、いつもの気配が無かった。
(もういないのか)
衝立の向こうを覗くと、整えられた寝台だけが残っていた。
今までは趙雲に合わせて行動していただけで、本来の○はかなりの早起きなのだろう。
城内の行動制限を解いた途端に、早速外をうろついているらしい。
食堂に入ると、騒がしく明るい声が耳に届いた。
「副官殿、ここの干し肉、めちゃくちゃ辛いですよ!」
「馬超殿、○殿の皿に入れすぎです」
「いいんだよ。コイツはこう見えて大食いだ」
その騒ぎの中心には○。
馬超と、趙雲の親衛隊たちに囲まれ、賑やかな朝食の輪の真ん中にいた。
○は笑いながら箸を動かしている。
趙雲が近づくと、親衛隊の何人かが慌てて整列した。
「ちょ、趙雲殿!おはようございます!」
そう言って席を勧めた親衛隊に軽く礼を言って趙雲が席に着いた。
○の斜め前の席だ。
「あら、趙雲。おはよう。随分ゆっくりね?」
○と、その隣の馬超が挨拶をした。
すると、スッと静かに、×が盆を手に趙雲の隣へ立った。
「……おはようございます、趙雲様。お隣、よろしいですか?」
「あぁ」
×は小さく微笑んで座る。
○は向かい側からその様子を見て、ゆっくりと口角を上げた。
(あら…なるほど、噂のとおりね)
面白がる○。
しかしその隣の馬超達は落ち着かない。
何気に“○と×が同じ空間にいる”という珍しい構図に戸惑っている。
×は楚々とした表情のまま趙雲の隣にいる。
○は机に肘をつくと、にっこり笑いかけた。
「ねぇ×殿。あの噂…本当のところはどうなの?」
×の肩がわずかに揺れて、周りの親衛隊と馬超が固まった。
「噂…」
「あら、あれだけそこかしこで囁かれてるのに知らないの?あなた達が恋仲なんじゃないかって、皆、噂してるわよ?」
興味津々と言った顔の○を、思わず馬超が横からつつく。
「おい、○…やめとけって」
「どうして?噂の真相を知りたいじゃない」
親衛隊の何人かは、どうしたらいいか分からない顔で固まり、×はじわりと頬が紅くなっている。
その様子はいじらしく、とても可憐だ。
趙雲は黙って食事をしている。
本当に何も感じていない様な顔。
○が誘惑しても跳ね除けていたあの顔だった。
(ちょ、趙雲…何か言えよ…!)
そんな馬超の視線も無視される。
「ねえ、どうなの、趙雲?私としては、噂は真実なんじゃないかと思ってるんだけど」
×が頬を赤くするだけでなにも答えないので、その矛先は趙雲に向く。
平気そうな趙雲ではあるが、馬超はなんとなくその気配が変わったのを感じていた。
「なにも答えてくれない…」
拗ねた様な顔で肘をついて、馬超を見る○。
その向こうで×がいたたまれない位に赤くなっている。
「いいじゃないのねえ?いい大人が恋してたって」
そう言いながら食事を続けた。
○が言った"噂は真実なんじゃないかと思ってる"という言葉が、趙雲の胸に引っかかる。
×が隣に座り、楚々とした表情でこちらを見上げていた時。
その視線を受けることに不自然さはなかった。
むしろ慣れている。
いつもと同じだ。
しかし、○が指摘すると、何故か違う意味を帯びる。
○の笑い方は人を試すようで底が見えない。
知っていても知らなくても、知っている振りをする。
それでいて、刺すべき場所だけを刺すべき時に正確に刺してくる。
×の肩が一瞬震えたことにも気づいただろう。
その震えに気づいた時、○がこちらへ流したあの視線。
まるで、心の隙間を覗かれたような。
胸に残るざわめきは、○の言葉に対する反応なのか。
それとも×の反応に対するものなのか。
自分でも判断がつかない。
(これ以上、彼女の言葉に惑わされては駄目だ)
そう思うほど心の底では別の声がして、そういう顔をするほど○が突いて来る。
自分の中の説明できない変化に、趙雲は静かに戸惑いを覚えていた。
そんな食堂の重たい空気を断ち切るように、廊下から諸葛亮の静かな声が届いた。
「○殿はいますか…少し話があります。来ていただけますか。…ああ、趙雲殿は結構です」
○と共に立ち上がろうとした趙雲に諸葛亮が言う。
「はぁ…またお説教かしら」
○は文句を言いながらも立ち上がり、諸葛亮に近づく。
その際、諸葛亮が静かに付け加える。
「趙雲殿も、時間をおいてあとで来てください。お二人に聞いてほしい件があります」
趙雲は軽く頭を下げる。
○は振り返って手を振り食堂を去っていった。
趙雲が食堂を出ると、×もついて来る。
廊下の空気は澄んでいるのに胸の奥だけが妙に重たい。
趙雲の歩幅はいつもと同じだ。
×は横に並びながら、うつむき加減で歩いていた。
しばらく無言のまま二人の足音だけが響く。
「……趙雲様」
少しだけ震えた声の×。
「どうした」
×は一度深く息を吸って、胸元を押さえた。
「あの……先ほどの……○殿の言葉で……胸が、痛んで」
趙雲は足を止めた。
×は慌てるように続ける。
「自分でも……驚いています。私は今まで…誰かにこんな感情を抱いたことがなくて」
「趙雲様と私が…その…“そう見られる”ことに、恥ずかしさや戸惑いもありましたが…○殿の、趙雲様との距離を見ていると…」
「……そうか」
×は思わず顔を伏せた。
「申し訳ございません…軍務中に…」
「×殿がそのように言うのは初めてだな」
静かだが優しい声音だった。
「素直に話してくれた気持ちは、無下にはしない」
その一言で×の肩が震えた。
自分の感情を認めてしまった震えだった。
「……これは……“嫉妬”というものなのでしょうか」
自分で口にした瞬間、胸の痛みの正体が分かる。
「こんな……子供じみたものだとは…思いませんでした」
趙雲は目を伏せた。
「趙雲様。私は……どうしたらよいのでしょう」
胸の痛みの正体を“嫉妬”と認めた×。
その震える声を前にして、趙雲はすぐに返事をしなかった。
軽率な言葉で傷つけることだけは避けたい。
静かな廊下に沈黙が落ちる。
「×殿は……私が長く共に働いてきた仲間だ。その働きも、人柄も、私は深く信頼している」
“信頼”。
それは趙雲にとって、軽く扱えない、重い言葉だ。
×はうつむいたまま手を胸元に寄せる。
「……そのように……言っていただけるとは……」
否定されていないと分かり、涙が溢れそうになる。
慌てて目元を指で押さえた。
「すみません。情けない姿を…」
「情けなくはない。…誰であれその気持ちに戸惑う事はある。それは……私も同じだ」
その一言に、×は目を大きく見開いた。
「……趙雲様も?」
思わず口に出た疑問に、趙雲は少しだけ目を逸らし、苦いような、言いにくいような表情をした。
×は少しだけ胸が温かくなる。
少しだけ伝えることが出来た”恋する”気持ちを否定されなかったから。
「ありがとうございます。少しだけ楽になりました」
前向きに微笑む×に、趙雲は優しく話しかける。
「私はこれから諸葛亮殿の所に行く。×殿は少し休んでいくといい」
×は小さくうなずいた。
諸葛亮の待つ軍議室に入ると、諸葛亮、劉備、○がいた。
なにやら談笑していたらしく、趙雲が到着すると会話をやめてそちらを見る。
「……何事でしょう」
「いやなに。任務の話の前に、一度、○殿と個別で話をしてみたくてな。なんとも話し上手な面白い人物だ」
「趙雲殿も到着されましたし、本題に入りましょう」
なにやら和やかな雰囲気に趙雲は○を見るが、彼女はいつも通りだった。
「趙雲殿。単刀直入に申し上げます。孫尚香殿の件です」
劉備は困ったような、しかし嬉しげでもある表情になった。
「尚香殿がな……鍛錬をしたいと言っているのだ」
孫尚香は武勇の家・孫家の娘。
もともと弓馬・武術の心得はあるが、嫁いで以来、軍の鍛錬に混ざることは控えていた。
「ただ相手を選ばねばなりません。劉備殿の奥方が軍の男たちの中に混じるわけにも参りませんから。そこで──○殿にお願いできればと」
「しかし快諾してもらえなくてな」
そう言われて○は手をあげて言った。
「だって。そもそも私、“奥方様に近づくな”って言われてますのよ?」
「誰にだ?」
劉備が尋ねると、○はクイッと顎で趙雲を指す。
「誰って……趙雲に決まってるじゃないですか。『お前は良くない影響を与えかねないから奥方様に近づくな。劉備殿の顔に泥を塗る』ってね。だから面識もなにもありません」
「その様な事を?」
「…言いました」
劉備が吹き出し、諸葛亮は羽扇で顔を隠した。
咳払いをした劉備が言う。
「尚香殿は気も強い。だが……嫁いできて以来、遠慮も多くてな。○なら女性だが遠慮なく打ち込めて、尚香殿の性質にも合わせられる、と思ったのだ」
そして劉備に続いて諸葛亮が言葉を添える。
「それに…○殿に何か頼むときは、趙雲殿の許可が必要と聞いておりますので」
「は、……いつ、誰がそんなことを?」
諸葛亮は微笑した。
「軍中での“通説”です。○殿に個別で頼みごとをすると、必ずあなたの一声が入る。皆そう認識しております」
「俺のところにもその話は届いている」
○は笑う。
まるで“飼い主と猛獣”のように言われ、返す言葉を失う趙雲。
諸葛亮も面白がっている。
「頼む。お前ならうまく合わせてやれるだろう」
「私はいいですよ?…どーする?」
○は腰に手を当てて趙雲を見やる。
趙雲は静かに息を吸い、答えを返した。
「勿論、異存はありません」
○がフン、と笑う。
「では、決まりですね。明日、よろしくお願いします」
軍議室を出ると、○は大きく伸びをしながらわざとらしく嘆いた。
「はぁ…くだらない事になったわ。お姫様のお相手なんて面倒この上なし」
歩きながら腰に手を当て、ため息を一つ。
「しかも……隣には、恋のウワサを引き連れた綺麗な男ときた。気が逸れて仕方ないわ。あ~ん、集中できない~」
横目で見上げるように、にやりと笑う。
「○」
「ん?なぁに?」
「……さきほどの、食堂でのことだ」
「どれのこと?」
「…なぜあのような言い方をした」
声は静かだったが、詰問の響きを含んでいる。
「怒ってるの?」
「怒ってはいない。……だが、理由を聞きたい」
「人間関係の観察がしたかっただけよ」
「観察……?」
「そ」
ゆっくりと趙雲に近づき、彼の胸元に指先をトンと当てた。
「誰が誰を見て、誰を見てないか。今回は誰が趙雲を見てるのか、ね。そして周りのあなたたちへの配慮がどの程度のものか。色んなものが見えたわ。それを見てるのが楽しいの」
「……ふざけているな?」
「別にいいじゃない。趣味のひとつよ」
すり抜けるように歩き出し、背中越しに言葉を続けた。
「興味があったんだもの。あなたがどんな顔をするのか。ちなみに…あれで何かは進展したでしょ?あなたは隣にいたから気付いていないかもしれないけど、彼女はなにかを決意した顔をしてたわ」
「…………」
○の言葉は軽口のようでいて、その実、核心に指を置いていた。
「それに……頑張って顔に出さない様に戸惑ってる時の趙雲って、とってもキレイなの。それも見たかったかな」
指先で趙雲の顎の近くをほんの一瞬なぞる。
趙雲は微動だにしない。
「さ、お姫様のお相手の準備でもしましょうか」
○は軽い足取りで去っていく。
趙雲だけがその場に取り残された。
(もういないのか)
衝立の向こうを覗くと、整えられた寝台だけが残っていた。
今までは趙雲に合わせて行動していただけで、本来の○はかなりの早起きなのだろう。
城内の行動制限を解いた途端に、早速外をうろついているらしい。
食堂に入ると、騒がしく明るい声が耳に届いた。
「副官殿、ここの干し肉、めちゃくちゃ辛いですよ!」
「馬超殿、○殿の皿に入れすぎです」
「いいんだよ。コイツはこう見えて大食いだ」
その騒ぎの中心には○。
馬超と、趙雲の親衛隊たちに囲まれ、賑やかな朝食の輪の真ん中にいた。
○は笑いながら箸を動かしている。
趙雲が近づくと、親衛隊の何人かが慌てて整列した。
「ちょ、趙雲殿!おはようございます!」
そう言って席を勧めた親衛隊に軽く礼を言って趙雲が席に着いた。
○の斜め前の席だ。
「あら、趙雲。おはよう。随分ゆっくりね?」
○と、その隣の馬超が挨拶をした。
すると、スッと静かに、×が盆を手に趙雲の隣へ立った。
「……おはようございます、趙雲様。お隣、よろしいですか?」
「あぁ」
×は小さく微笑んで座る。
○は向かい側からその様子を見て、ゆっくりと口角を上げた。
(あら…なるほど、噂のとおりね)
面白がる○。
しかしその隣の馬超達は落ち着かない。
何気に“○と×が同じ空間にいる”という珍しい構図に戸惑っている。
×は楚々とした表情のまま趙雲の隣にいる。
○は机に肘をつくと、にっこり笑いかけた。
「ねぇ×殿。あの噂…本当のところはどうなの?」
×の肩がわずかに揺れて、周りの親衛隊と馬超が固まった。
「噂…」
「あら、あれだけそこかしこで囁かれてるのに知らないの?あなた達が恋仲なんじゃないかって、皆、噂してるわよ?」
興味津々と言った顔の○を、思わず馬超が横からつつく。
「おい、○…やめとけって」
「どうして?噂の真相を知りたいじゃない」
親衛隊の何人かは、どうしたらいいか分からない顔で固まり、×はじわりと頬が紅くなっている。
その様子はいじらしく、とても可憐だ。
趙雲は黙って食事をしている。
本当に何も感じていない様な顔。
○が誘惑しても跳ね除けていたあの顔だった。
(ちょ、趙雲…何か言えよ…!)
そんな馬超の視線も無視される。
「ねえ、どうなの、趙雲?私としては、噂は真実なんじゃないかと思ってるんだけど」
×が頬を赤くするだけでなにも答えないので、その矛先は趙雲に向く。
平気そうな趙雲ではあるが、馬超はなんとなくその気配が変わったのを感じていた。
「なにも答えてくれない…」
拗ねた様な顔で肘をついて、馬超を見る○。
その向こうで×がいたたまれない位に赤くなっている。
「いいじゃないのねえ?いい大人が恋してたって」
そう言いながら食事を続けた。
○が言った"噂は真実なんじゃないかと思ってる"という言葉が、趙雲の胸に引っかかる。
×が隣に座り、楚々とした表情でこちらを見上げていた時。
その視線を受けることに不自然さはなかった。
むしろ慣れている。
いつもと同じだ。
しかし、○が指摘すると、何故か違う意味を帯びる。
○の笑い方は人を試すようで底が見えない。
知っていても知らなくても、知っている振りをする。
それでいて、刺すべき場所だけを刺すべき時に正確に刺してくる。
×の肩が一瞬震えたことにも気づいただろう。
その震えに気づいた時、○がこちらへ流したあの視線。
まるで、心の隙間を覗かれたような。
胸に残るざわめきは、○の言葉に対する反応なのか。
それとも×の反応に対するものなのか。
自分でも判断がつかない。
(これ以上、彼女の言葉に惑わされては駄目だ)
そう思うほど心の底では別の声がして、そういう顔をするほど○が突いて来る。
自分の中の説明できない変化に、趙雲は静かに戸惑いを覚えていた。
そんな食堂の重たい空気を断ち切るように、廊下から諸葛亮の静かな声が届いた。
「○殿はいますか…少し話があります。来ていただけますか。…ああ、趙雲殿は結構です」
○と共に立ち上がろうとした趙雲に諸葛亮が言う。
「はぁ…またお説教かしら」
○は文句を言いながらも立ち上がり、諸葛亮に近づく。
その際、諸葛亮が静かに付け加える。
「趙雲殿も、時間をおいてあとで来てください。お二人に聞いてほしい件があります」
趙雲は軽く頭を下げる。
○は振り返って手を振り食堂を去っていった。
趙雲が食堂を出ると、×もついて来る。
廊下の空気は澄んでいるのに胸の奥だけが妙に重たい。
趙雲の歩幅はいつもと同じだ。
×は横に並びながら、うつむき加減で歩いていた。
しばらく無言のまま二人の足音だけが響く。
「……趙雲様」
少しだけ震えた声の×。
「どうした」
×は一度深く息を吸って、胸元を押さえた。
「あの……先ほどの……○殿の言葉で……胸が、痛んで」
趙雲は足を止めた。
×は慌てるように続ける。
「自分でも……驚いています。私は今まで…誰かにこんな感情を抱いたことがなくて」
「趙雲様と私が…その…“そう見られる”ことに、恥ずかしさや戸惑いもありましたが…○殿の、趙雲様との距離を見ていると…」
「……そうか」
×は思わず顔を伏せた。
「申し訳ございません…軍務中に…」
「×殿がそのように言うのは初めてだな」
静かだが優しい声音だった。
「素直に話してくれた気持ちは、無下にはしない」
その一言で×の肩が震えた。
自分の感情を認めてしまった震えだった。
「……これは……“嫉妬”というものなのでしょうか」
自分で口にした瞬間、胸の痛みの正体が分かる。
「こんな……子供じみたものだとは…思いませんでした」
趙雲は目を伏せた。
「趙雲様。私は……どうしたらよいのでしょう」
胸の痛みの正体を“嫉妬”と認めた×。
その震える声を前にして、趙雲はすぐに返事をしなかった。
軽率な言葉で傷つけることだけは避けたい。
静かな廊下に沈黙が落ちる。
「×殿は……私が長く共に働いてきた仲間だ。その働きも、人柄も、私は深く信頼している」
“信頼”。
それは趙雲にとって、軽く扱えない、重い言葉だ。
×はうつむいたまま手を胸元に寄せる。
「……そのように……言っていただけるとは……」
否定されていないと分かり、涙が溢れそうになる。
慌てて目元を指で押さえた。
「すみません。情けない姿を…」
「情けなくはない。…誰であれその気持ちに戸惑う事はある。それは……私も同じだ」
その一言に、×は目を大きく見開いた。
「……趙雲様も?」
思わず口に出た疑問に、趙雲は少しだけ目を逸らし、苦いような、言いにくいような表情をした。
×は少しだけ胸が温かくなる。
少しだけ伝えることが出来た”恋する”気持ちを否定されなかったから。
「ありがとうございます。少しだけ楽になりました」
前向きに微笑む×に、趙雲は優しく話しかける。
「私はこれから諸葛亮殿の所に行く。×殿は少し休んでいくといい」
×は小さくうなずいた。
諸葛亮の待つ軍議室に入ると、諸葛亮、劉備、○がいた。
なにやら談笑していたらしく、趙雲が到着すると会話をやめてそちらを見る。
「……何事でしょう」
「いやなに。任務の話の前に、一度、○殿と個別で話をしてみたくてな。なんとも話し上手な面白い人物だ」
「趙雲殿も到着されましたし、本題に入りましょう」
なにやら和やかな雰囲気に趙雲は○を見るが、彼女はいつも通りだった。
「趙雲殿。単刀直入に申し上げます。孫尚香殿の件です」
劉備は困ったような、しかし嬉しげでもある表情になった。
「尚香殿がな……鍛錬をしたいと言っているのだ」
孫尚香は武勇の家・孫家の娘。
もともと弓馬・武術の心得はあるが、嫁いで以来、軍の鍛錬に混ざることは控えていた。
「ただ相手を選ばねばなりません。劉備殿の奥方が軍の男たちの中に混じるわけにも参りませんから。そこで──○殿にお願いできればと」
「しかし快諾してもらえなくてな」
そう言われて○は手をあげて言った。
「だって。そもそも私、“奥方様に近づくな”って言われてますのよ?」
「誰にだ?」
劉備が尋ねると、○はクイッと顎で趙雲を指す。
「誰って……趙雲に決まってるじゃないですか。『お前は良くない影響を与えかねないから奥方様に近づくな。劉備殿の顔に泥を塗る』ってね。だから面識もなにもありません」
「その様な事を?」
「…言いました」
劉備が吹き出し、諸葛亮は羽扇で顔を隠した。
咳払いをした劉備が言う。
「尚香殿は気も強い。だが……嫁いできて以来、遠慮も多くてな。○なら女性だが遠慮なく打ち込めて、尚香殿の性質にも合わせられる、と思ったのだ」
そして劉備に続いて諸葛亮が言葉を添える。
「それに…○殿に何か頼むときは、趙雲殿の許可が必要と聞いておりますので」
「は、……いつ、誰がそんなことを?」
諸葛亮は微笑した。
「軍中での“通説”です。○殿に個別で頼みごとをすると、必ずあなたの一声が入る。皆そう認識しております」
「俺のところにもその話は届いている」
○は笑う。
まるで“飼い主と猛獣”のように言われ、返す言葉を失う趙雲。
諸葛亮も面白がっている。
「頼む。お前ならうまく合わせてやれるだろう」
「私はいいですよ?…どーする?」
○は腰に手を当てて趙雲を見やる。
趙雲は静かに息を吸い、答えを返した。
「勿論、異存はありません」
○がフン、と笑う。
「では、決まりですね。明日、よろしくお願いします」
軍議室を出ると、○は大きく伸びをしながらわざとらしく嘆いた。
「はぁ…くだらない事になったわ。お姫様のお相手なんて面倒この上なし」
歩きながら腰に手を当て、ため息を一つ。
「しかも……隣には、恋のウワサを引き連れた綺麗な男ときた。気が逸れて仕方ないわ。あ~ん、集中できない~」
横目で見上げるように、にやりと笑う。
「○」
「ん?なぁに?」
「……さきほどの、食堂でのことだ」
「どれのこと?」
「…なぜあのような言い方をした」
声は静かだったが、詰問の響きを含んでいる。
「怒ってるの?」
「怒ってはいない。……だが、理由を聞きたい」
「人間関係の観察がしたかっただけよ」
「観察……?」
「そ」
ゆっくりと趙雲に近づき、彼の胸元に指先をトンと当てた。
「誰が誰を見て、誰を見てないか。今回は誰が趙雲を見てるのか、ね。そして周りのあなたたちへの配慮がどの程度のものか。色んなものが見えたわ。それを見てるのが楽しいの」
「……ふざけているな?」
「別にいいじゃない。趣味のひとつよ」
すり抜けるように歩き出し、背中越しに言葉を続けた。
「興味があったんだもの。あなたがどんな顔をするのか。ちなみに…あれで何かは進展したでしょ?あなたは隣にいたから気付いていないかもしれないけど、彼女はなにかを決意した顔をしてたわ」
「…………」
○の言葉は軽口のようでいて、その実、核心に指を置いていた。
「それに……頑張って顔に出さない様に戸惑ってる時の趙雲って、とってもキレイなの。それも見たかったかな」
指先で趙雲の顎の近くをほんの一瞬なぞる。
趙雲は微動だにしない。
「さ、お姫様のお相手の準備でもしましょうか」
○は軽い足取りで去っていく。
趙雲だけがその場に取り残された。