本編【序章~15話】
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揺れる灯火の下、深夜の医務室は静まり返っていた。
趙雲は寝台に横たわり、額の包帯越しに鈍い痛みを感じていた。
扉がそっと開き×が入ってくる。
「少し……様子を見に来ました」
「もう遅い時間だ。休んで良いのだぞ、×殿」
×は首を振り、寝台の脇へ膝をついた。
布を直しながら、そっと彼の額に手をかざす。
「熱は……少し引きましたね。よかった」
声には安堵が滲んでいた。
趙雲はその健気な姿を見て、眉をかすかに緩める。
「心配をかけてしまった。あんなにも…泣かせるつもりはなかったのだが」
×は慌てて俯いた。
「そ、そんな……!私は…勝手に心配しただけで……取り乱してしまい、お恥ずかしい…!」
耳の先まで紅い。
趙雲は軽く息を吐き、視線を天井へ向ける。
「お前の声が聞こえた時、少しだけ…ほっとした」
「……っ」
胸の奥がきゅっと縮まり、×は思わず布を握った。
「……そんな言葉を……簡単に仰らないでください」
「簡単ではない。事実を言っただけだ」
穏やかで、けれど外では滅多に見せない柔らかい声音。
×の睫毛が震える。
「ご無事で…本当によかった……」
趙雲は片手を伸ばした。
いつもの毅然としたものではなく、そっと優しく。
「泣くな、×殿。私は無事だったのだから」
指先が、×の涙を拭った。
触れたのは一瞬。
それでも×にとっては胸が焼けるほどの温かさだった。
呼吸を整えながら、×は彼の横で小さく座り直す。
「私が起きておりますから…ゆっくりお休みください」
「……恩に着る」
灯火が揺れ、沈黙がやわらかく二人を包み込む。
夜の医務室は静かでどこか温かかった。
夜明け。
医務室の隙間から、淡い朝日が差し込んだ。
趙雲が目を開けると、すぐそばに × が座っていた。
「ずっといたのか…」
「ええ。お加減が気になって…」
瞼の下には薄い隈。
眠っていないのは一目で分かる。
趙雲はゆっくりと上体を起こした。
「夜通しか。そこまで気を遣わせるつもりはなかったのに」
「気を遣ったわけではありません。私が安心したかったのです」
その声音はやわらかく、昨夜の涙の名残を含んでいた。
「……そうか」
短い返事。
しかし心の奥には、はっきりとした別の感情があった。
廊下に出れば、すでに兵士たちの視線とざわめきがあった。
ー×殿……夜通し付き添っていたらしいぞー
ーやっぱり二人は……噂、本当なんじゃ……?ー
ー駆け寄った×殿への趙雲殿の声も、とても優しかったって…ー
そのざわめきは、趙雲の耳にもすぐに入ってきた。
趙雲は噂に眉をひそめることはなかったが、ただ…
(……居心地が悪い)
そう感じた。
理由は分からない。
×に対して、嫌悪も拒絶もない。
昨夜の涙も誠実な声も、大切に思ってはいる。
なのに何かが噛み合わない感覚が胸の奥に残っていた。
自分でも扱いづらい不純物のような感情。
医務室の寝台に戻ると、×が待っていた。
「趙雲様。お食事を運んでもらっています。医師も、しばらく安静にと言っていました」
「ああ……すまない」
その優しさには嘘はない。
全てが真っ直ぐだ。
(私が迷う理由などないはずだ)
そう思う一方で、胸の奥で小さく何かがざわつく。
ふと、枕もとに畳まれた布が目に入る。
「あ…、これは、運ばれた時に頭に巻かれていた手ぬぐいです。医師が返しておいてほしいと」
それは○が趙雲に巻いたものだ。
それを見ていると、あの時のことを思い出す。
名で呼ばれた時の、妙な静けさ。
焚き火の明かりで見た○の笑み。
崖下での、あの奔放な声。
手際の良い一連の所作。
そして、帰ってきて○の姿を見ていないと気づく。
昨夜駆け寄ってきた×の、その後ろ。
輪から離れてどこかに消えていく後ろ姿を思い出す。
「少し、顔色が優れませんね。まだお休みになりますか?」
「いや……大丈夫だ」
×の声で考えるのをやめる。
「では、そばにおりますので、なにかありましたら何でもおっしゃってください」
その穏やかな献身が、今朝の趙雲にはなぜか──
(……重い)
そう思ってしまった。
一方○は、朝の城下町を歩いていた。
目的はただただ、趙雲を避けるため。
(…ここなら、見つからないわね)
包帯の隙間から滲む血を袖で雑に拭う。
医務室に行く気も、馬超に身を預ける気もない。
市場に露店が並び始める。
掛け声や包丁の音、薪を割る音が小さく響き、町はこれから起き始めようとしていた。
町を歩きながら考える。
朝、城の広場に出ると、女官たちが噂しているのが聞こえた。
「×様、昨日は一晩中つきっきりだったらしいわよ」
趙雲の誠実さは#B#のような女の心を簡単にとらえる。
だがその誠実さは、いつか彼自身を疲弊させると思った。
そういう男も山ほど見てきた。
(…ま、しばらく様子見ね。あの二人がどうなるのか、興味はあるわ)
○は町の茶屋でお茶を飲みながら時間をつぶすことにした。
******
昼食のあと、趙雲は城内を歩いていた。
まず向かったのは、○を半ば強引に寝泊まりさせている自室。
部屋の温度がひやりとしていた。
衝立の向こうの布団は畳まれたまま。
人の気配はない。
「……いないか」
昨夜、焚き火の前で彼女が言った言葉が蘇る。
”今は逃げない”と彼女は言った。
あの言葉に嘘は感じなかった。
(逃げてはいない……と思う。だが、どこに行った?)
鍛錬場に足を運ぶと馬超が素振りをしていた。
普段と変わらぬ動き。
だが、何故かそれが余計に胸騒ぎを掻き立てた。
彼は昨夜、趙雲が×に泣きつかれている端で○に無事かどうか尋ねていた。
あの後のことを知らないだろうか。
近づき、声をかける。
「馬超殿」
「おう、趙雲。体はもう大丈夫なのか?」
「ええ。まあ……ところで○を見なかったか。朝から姿が見えなくてな」
馬超の手がぴたりと止まった。
「○?ああ……。知らんな。だが──」
そこから言葉を濁すように眉を寄せた。
「朝、町の方へ歩いていくのは見たぞ。“出かける”とか言って」
「出かける?どこへだ」
「いや、本当に詳しくは知らんのだ。ただ、“ちょっと歩きたい”と…それだけだった」
馬超の声音に嘘はなさそうだ。
しかし、肝心な部分が抜けている気がする。
趙雲は息を整えながら思った。
(……○は逃げてはいない。だが、無断で出歩く理由は何だ)
あの女は自分の身の安全を何より重んじる。
無計画に姿を消すはずがない。
目の前の馬超は素振りを再開しようとしたが、その動きにはどこか引っかかりがあった。
何かを動きで誤魔化すような。
「馬超殿」
「なんだよ」
「○のことで……何か知っていれば、私に言ってほしい」
馬超は一瞬、苦い顔をした。
「……分かったよ。お前が心配するかは知らんが…。あいつ、実は怪我しててな。自分で治療したんだよ。医者にはかかりたくないって言ってな。で、それを人に知られたくないって言ってたから、見られないために城にいないんじゃないかと」
その言い方に趙雲の胸が再びざわつく。
心配ではない。
これは職務。
○を登用した責任だと言い聞かせた。
「……城下を見てくる」
「おい、お前、まだ万全じゃないんだろ」
「問題ない。副官がどこにいるのかも分からぬなど、笑い話にもならぬ」
そう言って歩き出すと馬超がぽつりと呟いた。
「理由ばかりつけて。堅物だな」
その言葉は届いていたが、返す気にはならなかった。
趙雲は人混みを避けながら静かに城下を歩く。
(○。どこへ行った)
穏やかな顔を保って歩いてはいるが、胸の奥には不穏なざわめきが沈み続けている。
そんな時、小さい声が背に届いた。
「──趙雲様?」
振り向くと、薄桃色の衣をまとった#B#が立っていた。
市場へ買い出しに来たのか手に小さな籠を持っている。
だが、表情は固い。
趙雲がもう城下をうろついている事を心配しているようだ。
「どうされたのですか?お怪我をされているのに、城下へなど…」
「○の姿が見えぬ。城下に来ているかと思い、探していた」
#B#の眉がわずかに寄った。
「○殿を……お探しに?」
「副官の動きが把握できぬのは問題だ。昨夜から姿がない」
その言葉に、#B#はほんの一瞬だけ視線を横へ逸らした。
「逃げてしまわれた…という可能性はありませんか?在野に戻りたいと仰っていましたし」
「○は逃げない。その確信はある」
「確信……?どうしてそんなことが言えるのですか」
趙雲は答えない。
あの“逃げない”という声音の真実味。
聞いた者にしか分からないと思う。
その印象が、今も胸に残っていた。
だが、それを言葉にする理由はない。
「……昨日、崖下で二人きりだった事が関係するのでしょうか。」
その問いは声こそ静かだが、刃のように鋭かった。
「そういった情は介在しない。ただ、職務として言っている」
#B#はゆっくりと頷いた。
しかし瞳の奥では明らかな感情が揺れている。
趙雲は寝台に横たわり、額の包帯越しに鈍い痛みを感じていた。
扉がそっと開き×が入ってくる。
「少し……様子を見に来ました」
「もう遅い時間だ。休んで良いのだぞ、×殿」
×は首を振り、寝台の脇へ膝をついた。
布を直しながら、そっと彼の額に手をかざす。
「熱は……少し引きましたね。よかった」
声には安堵が滲んでいた。
趙雲はその健気な姿を見て、眉をかすかに緩める。
「心配をかけてしまった。あんなにも…泣かせるつもりはなかったのだが」
×は慌てて俯いた。
「そ、そんな……!私は…勝手に心配しただけで……取り乱してしまい、お恥ずかしい…!」
耳の先まで紅い。
趙雲は軽く息を吐き、視線を天井へ向ける。
「お前の声が聞こえた時、少しだけ…ほっとした」
「……っ」
胸の奥がきゅっと縮まり、×は思わず布を握った。
「……そんな言葉を……簡単に仰らないでください」
「簡単ではない。事実を言っただけだ」
穏やかで、けれど外では滅多に見せない柔らかい声音。
×の睫毛が震える。
「ご無事で…本当によかった……」
趙雲は片手を伸ばした。
いつもの毅然としたものではなく、そっと優しく。
「泣くな、×殿。私は無事だったのだから」
指先が、×の涙を拭った。
触れたのは一瞬。
それでも×にとっては胸が焼けるほどの温かさだった。
呼吸を整えながら、×は彼の横で小さく座り直す。
「私が起きておりますから…ゆっくりお休みください」
「……恩に着る」
灯火が揺れ、沈黙がやわらかく二人を包み込む。
夜の医務室は静かでどこか温かかった。
夜明け。
医務室の隙間から、淡い朝日が差し込んだ。
趙雲が目を開けると、すぐそばに × が座っていた。
「ずっといたのか…」
「ええ。お加減が気になって…」
瞼の下には薄い隈。
眠っていないのは一目で分かる。
趙雲はゆっくりと上体を起こした。
「夜通しか。そこまで気を遣わせるつもりはなかったのに」
「気を遣ったわけではありません。私が安心したかったのです」
その声音はやわらかく、昨夜の涙の名残を含んでいた。
「……そうか」
短い返事。
しかし心の奥には、はっきりとした別の感情があった。
廊下に出れば、すでに兵士たちの視線とざわめきがあった。
ー×殿……夜通し付き添っていたらしいぞー
ーやっぱり二人は……噂、本当なんじゃ……?ー
ー駆け寄った×殿への趙雲殿の声も、とても優しかったって…ー
そのざわめきは、趙雲の耳にもすぐに入ってきた。
趙雲は噂に眉をひそめることはなかったが、ただ…
(……居心地が悪い)
そう感じた。
理由は分からない。
×に対して、嫌悪も拒絶もない。
昨夜の涙も誠実な声も、大切に思ってはいる。
なのに何かが噛み合わない感覚が胸の奥に残っていた。
自分でも扱いづらい不純物のような感情。
医務室の寝台に戻ると、×が待っていた。
「趙雲様。お食事を運んでもらっています。医師も、しばらく安静にと言っていました」
「ああ……すまない」
その優しさには嘘はない。
全てが真っ直ぐだ。
(私が迷う理由などないはずだ)
そう思う一方で、胸の奥で小さく何かがざわつく。
ふと、枕もとに畳まれた布が目に入る。
「あ…、これは、運ばれた時に頭に巻かれていた手ぬぐいです。医師が返しておいてほしいと」
それは○が趙雲に巻いたものだ。
それを見ていると、あの時のことを思い出す。
名で呼ばれた時の、妙な静けさ。
焚き火の明かりで見た○の笑み。
崖下での、あの奔放な声。
手際の良い一連の所作。
そして、帰ってきて○の姿を見ていないと気づく。
昨夜駆け寄ってきた×の、その後ろ。
輪から離れてどこかに消えていく後ろ姿を思い出す。
「少し、顔色が優れませんね。まだお休みになりますか?」
「いや……大丈夫だ」
×の声で考えるのをやめる。
「では、そばにおりますので、なにかありましたら何でもおっしゃってください」
その穏やかな献身が、今朝の趙雲にはなぜか──
(……重い)
そう思ってしまった。
一方○は、朝の城下町を歩いていた。
目的はただただ、趙雲を避けるため。
(…ここなら、見つからないわね)
包帯の隙間から滲む血を袖で雑に拭う。
医務室に行く気も、馬超に身を預ける気もない。
市場に露店が並び始める。
掛け声や包丁の音、薪を割る音が小さく響き、町はこれから起き始めようとしていた。
町を歩きながら考える。
朝、城の広場に出ると、女官たちが噂しているのが聞こえた。
「×様、昨日は一晩中つきっきりだったらしいわよ」
趙雲の誠実さは#B#のような女の心を簡単にとらえる。
だがその誠実さは、いつか彼自身を疲弊させると思った。
そういう男も山ほど見てきた。
(…ま、しばらく様子見ね。あの二人がどうなるのか、興味はあるわ)
○は町の茶屋でお茶を飲みながら時間をつぶすことにした。
******
昼食のあと、趙雲は城内を歩いていた。
まず向かったのは、○を半ば強引に寝泊まりさせている自室。
部屋の温度がひやりとしていた。
衝立の向こうの布団は畳まれたまま。
人の気配はない。
「……いないか」
昨夜、焚き火の前で彼女が言った言葉が蘇る。
”今は逃げない”と彼女は言った。
あの言葉に嘘は感じなかった。
(逃げてはいない……と思う。だが、どこに行った?)
鍛錬場に足を運ぶと馬超が素振りをしていた。
普段と変わらぬ動き。
だが、何故かそれが余計に胸騒ぎを掻き立てた。
彼は昨夜、趙雲が×に泣きつかれている端で○に無事かどうか尋ねていた。
あの後のことを知らないだろうか。
近づき、声をかける。
「馬超殿」
「おう、趙雲。体はもう大丈夫なのか?」
「ええ。まあ……ところで○を見なかったか。朝から姿が見えなくてな」
馬超の手がぴたりと止まった。
「○?ああ……。知らんな。だが──」
そこから言葉を濁すように眉を寄せた。
「朝、町の方へ歩いていくのは見たぞ。“出かける”とか言って」
「出かける?どこへだ」
「いや、本当に詳しくは知らんのだ。ただ、“ちょっと歩きたい”と…それだけだった」
馬超の声音に嘘はなさそうだ。
しかし、肝心な部分が抜けている気がする。
趙雲は息を整えながら思った。
(……○は逃げてはいない。だが、無断で出歩く理由は何だ)
あの女は自分の身の安全を何より重んじる。
無計画に姿を消すはずがない。
目の前の馬超は素振りを再開しようとしたが、その動きにはどこか引っかかりがあった。
何かを動きで誤魔化すような。
「馬超殿」
「なんだよ」
「○のことで……何か知っていれば、私に言ってほしい」
馬超は一瞬、苦い顔をした。
「……分かったよ。お前が心配するかは知らんが…。あいつ、実は怪我しててな。自分で治療したんだよ。医者にはかかりたくないって言ってな。で、それを人に知られたくないって言ってたから、見られないために城にいないんじゃないかと」
その言い方に趙雲の胸が再びざわつく。
心配ではない。
これは職務。
○を登用した責任だと言い聞かせた。
「……城下を見てくる」
「おい、お前、まだ万全じゃないんだろ」
「問題ない。副官がどこにいるのかも分からぬなど、笑い話にもならぬ」
そう言って歩き出すと馬超がぽつりと呟いた。
「理由ばかりつけて。堅物だな」
その言葉は届いていたが、返す気にはならなかった。
趙雲は人混みを避けながら静かに城下を歩く。
(○。どこへ行った)
穏やかな顔を保って歩いてはいるが、胸の奥には不穏なざわめきが沈み続けている。
そんな時、小さい声が背に届いた。
「──趙雲様?」
振り向くと、薄桃色の衣をまとった#B#が立っていた。
市場へ買い出しに来たのか手に小さな籠を持っている。
だが、表情は固い。
趙雲がもう城下をうろついている事を心配しているようだ。
「どうされたのですか?お怪我をされているのに、城下へなど…」
「○の姿が見えぬ。城下に来ているかと思い、探していた」
#B#の眉がわずかに寄った。
「○殿を……お探しに?」
「副官の動きが把握できぬのは問題だ。昨夜から姿がない」
その言葉に、#B#はほんの一瞬だけ視線を横へ逸らした。
「逃げてしまわれた…という可能性はありませんか?在野に戻りたいと仰っていましたし」
「○は逃げない。その確信はある」
「確信……?どうしてそんなことが言えるのですか」
趙雲は答えない。
あの“逃げない”という声音の真実味。
聞いた者にしか分からないと思う。
その印象が、今も胸に残っていた。
だが、それを言葉にする理由はない。
「……昨日、崖下で二人きりだった事が関係するのでしょうか。」
その問いは声こそ静かだが、刃のように鋭かった。
「そういった情は介在しない。ただ、職務として言っている」
#B#はゆっくりと頷いた。
しかし瞳の奥では明らかな感情が揺れている。