本編【序章~15話】
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益州南方の割拠勢力が、蜀の補給路へ襲撃を仕掛けてきた。
今回は通常の偵察ではない、正面戦闘に発展する戦だ。
○にとっては劉備軍に来て初の大戦。
今までは偵察にしか出ていなかったが、今回は趙雲の親衛隊達と共に出陣する。
血の匂い、鉄の匂い、汗の匂い…
戦後の屍から金目の物を盗んではきたが、こんな集団で戦闘に参加するのはほとんど経験がないし、軍として参加するのは初めて。
軍の隊列は規模が違う。
いつも遠くから見ていた光景の中に自分がいる事に不思議な気持ちになる。
馬が並び、旗が揺れ、槍が一斉に構えられる。
趙雲が馬上で振り返った。
「○。決して列を離れるな。お前の戦い方は理解しているが、これは軍団戦だ」
「はいはい」
返事をしながらも内心では笑っていた。
自分の様な人間が列を離れないなんて、むしろ非効率だと思っている。
戦が始まると同時に、敵が伏兵を草むらから飛び出させた。
矢が雨のように降り、先頭の槍兵たちの隊列が崩れる。
馬超と進みながらの進軍で、趙雲と馬超が指示を飛ばしながら進む。
落ちた矢を確認すると、毒が塗られている物も混ざっていた。
飛んでくる矢や投げ槍の対処をしながらなので、かなり進軍は遅い。
(この進み方じゃ、餌食になりかねないわ)
○は辺りを見渡す。
敵の後方、草むらの奥。
ひとりだけ馬に乗らず、全体の動きをわずかに合図している影が見えた。
目立たないように黒装束まで着ている。
ワッと声がして、趙雲の隊が前へ出ていくのが見えた。
すると、その草むらの影がなにかを合図をした。
それに伴って数十の敵兵が一斉に趙雲の側面を狙って動きはじめる。
伏兵が一定の間隔で何度も突撃を繰り返している様だ。
○は馬を降り、草むらへ走る。
この奥に、おそらく指示役がいると踏んだ。
趙雲は側面への殺到に気づき、槍を水平に構えた。
しかし急に敵の動きが急に鈍る。
(……?)
理解できずとも、その数秒の空白で盛り返す。
馬超と二人の突撃で敵は総崩れとなり、そのまま前線は押し返せた。
敵の掃討が終わった頃。
趙雲は○がいないことに気付いた。
辺りを見回すと、草むらから○が出てくるのを見つけた。
右手に持った短刀を布で拭きながら歩いてくる。
その手には血がべっとりついていた。
そのくせ、まるで散歩帰りのような顔。
「……お前がやったのか」
「指令を飛ばしていたのをやっただけよ。あなたに群がってた連中、命令が来なくなって混乱してたでしょ?各個撃破で森の中なら、あんな程度の男に負けないわ」
趙雲は息を呑む。
「助かった」
「判断力と、戦場適応。お前の能力は本物だ」
「あらま。今頃気づいたの?」
「いや。今、確信した。よって、勝手に隊列を抜けたことは咎めない」
「やっぱりちょっと怒ってるのね」
最後の○の言葉は無視された。
戦が終わり、趙雲と○は本陣へ帰る道を進んでいた。
趙雲が、「残党が残っていないかを確認するため、山側を大回りして本陣へ帰る」と言い、親衛隊はその旨を本陣へ伝えるべく別行動を取った。
○は帰りたいとブツブツ言ったが、監視の目的もあると言い伏せられて同行する。
山道は荒れていた。
敵が動きやすいように木を伐採したのかもしれない。
○は足場をなんとなく観察しながら歩いていた。
(この地形……怪しいわね)
土の沈み方が不自然。
石の配置も作為的なものを感じる。
その瞬間──
「あっ、」
警告の声より先に、趙雲の馬が嘶き、地面が崩れた。
地面が崖側に大きく崩れ落ちる。
馬ごと趙雲の身体が崖下に消えた。
落ちる寸前、○の指先はとっさに彼の鎧の端に触れたが届かなかった。
崖が崩れ落ちて、辺りがシンと静まる。
○は崖の淵に近づいて下を覗き込んだ。
趙雲が倒れているのが見える。
落下の衝撃で折れた木々。
散らばった馬具。
そして、倒れたまま動かない趙雲の影。
(…これはいい機会ね)
○はその辺りの木に鍵縄を引っかけると、スルスルと下に降りていく。
城壁を降りられる程度の長さの縄だが、それが足りないくらいの高さの崖だった。
結構な高さを落ちているが、木が緩衝材になったらしく趙雲は生きていた。
○は趙雲の鎧の下に手を入れる。
(あったあった)
肌着の下に、晒で身体に密着するように巻かれたあの小刀を見つけた。
それを引き抜いて中を確認する。
そして次に倒れている趙雲を見た。
馬も失い、起きてもすぐには追ってこれない。
最悪、動けない可能性もある。
(よし。逃げるなら、今ね)
胸が軽くなる。
久しぶりの解放感。
自由、お金、好きな宝石を好きなだけまた集められる。
あんな窮屈な人間関係に縛られなくて済む。
(じゃあね、隊長さん)
○は森に駆け出した。
趙雲は、ぼやける視界の中で息を整えようとしていた。
身体中が痛む。
馬は落下の衝撃で死んだだろう。
額から血が流れ、意識が何度も暗転する。
(……これは……まずいな)
意識を手放す直前に、誰かが隣に立つ気配がした。
それは趙雲の身体に手を入れて、懐から何かを抜き取ると、足音が遠ざかった。
(○は…逃げてしまうかもしれないな)
そんな考えが頭をよぎる。
責める気持ちはなかった。
むしろ当然だと思った。
彼女はずっと逃げたがっていた。
本来ならこの機会を見逃す理由がない。
それもこれも、自分がここで死ぬのならどうにもならない。
意識が戻った時、趙雲は温かさに驚いた。
足元に焚き火の光が揺れている。
その側で、○が座って何かしていた。
「……○……?」
「あ、起きた」
趙雲が声をかけると振り返り、明るく笑った。
「頭を強く打ったみたいだから、急に起きない方がいいわ。出血してたから止血だけしておいたけど」
趙雲の視界が安定する。
土の匂いと火の温もり。
そして、○が自分の手ぬぐいを趙雲の頭に巻いていた為、○の香りもする。
「なぜ逃げなかった」
○は膝を抱え、肩をすくめながら笑った。
「逃げようと思えば逃げられたわ」
その言葉に、そっと懐を触る趙雲。
懐には○の小刀がまだある。
やはり、あれは幻覚だったのかと趙雲は思い出す。
「でもね…もうしばらく逃げない事にしたの。小刀もまだ返してもらってないし」
さらりと言う声は、甘くもなく、情もなく。
ただ彼女の本音だった。
(”逃げない事にした”のではなく、”私をそのままにして逃げられなかった”という事か…)
趙雲はなんとなくそう解釈した。
きっと本人は認めないだろうが。
「それに、近くでオオカミの糞を見つけたの。きっと近くにいるんだと思う。火でも焚いておかないと、馬の死体もあるから危険だわ」
「…それは、何をしているんだ」
「その落ちてたオオカミの糞をくべてるのよ。煙が沢山出るから狼煙になるの。隊長さんが戻らないとなればすぐ来てくれるでしょ」
○は火を触りながら、茶飲み話でもするかのように話す。
「はぁ…ただねぇ…城にいると、男遊びができないのよねぇ」
「……」
「あの部屋に連れ込めないし。それだけが悩みだわ」
ふっと笑う。
焚き火に照らされて、彼女の微笑みが妖しく光る。
「ま、逃げるのはまたそのうちね」
そのまましばらく無言だった。
遠くの方から馬の蹄の音がする。
「…もう来たみたいね」
○は立ち上がって移動の準備を始める。
ふいに趙雲の口が動いた。
「……○」
「なに?痛む?」
「いや。そうではない」
焚き火がぱち、と弾ける。
少しの間を置いて、彼は静かに言った。
「趙雲だ」
「…は?」
「私の名だ。趙雲子竜」
「知ってるけど。頭打ってどうかしちゃったの?」
趙雲は焚き火の光に照らされながら、眉をわずかに緩めた。
「……お前は、“隊長さん”と呼ぶだろう」
「だって隊長だもの」
「……私は、その呼ばれ方に慣れていない」
焚き火の火が大きく揺れる。
彼の影も揺れ、静かに続ける。
「仲間から趙雲と呼ばれ…あるいは字(あざな)で呼ばれてきた。お前に隊長と呼ばれると、どうにも、落ち着かない」
「じゃあ、なに?“趙雲”って呼べってこと?」
「……ああ。その方が、自然だ」
「私を部下として扱うなら、逆じゃないの?線引きしないと」
「部下として扱っている。だが……名で呼ばれる方が、お前の声に合っていると思った」
「なぁに、それ。隊長さんって呼んでほしくないの?」
「……“趙雲”でいい」
「じゃあ……趙雲、」
名前を呼ばれた趙雲は、微かに目を細めた。
嬉しそうでもなく照れているわけでもなく。
ただ、しっくりきたような静かな顔。
「ふふ……案外、かわいいところあるじゃない」
「かわいいと言うな」
「はいはい、分かりました、趙雲」
その呼び方は、静かに趙雲の心を満たした。
救援の声が近づいて来るのが聞こえる。
*******
本陣に戻ると同時に、医務官たちが駆けつけた。
趙雲が帰ってこずに狼煙が上がっているという事で、動けない怪我をしているのではと待ち構えていた様だ。
○が医務官にどの様な手当てをしたか伝えていると。
「──趙雲様!」
悲鳴に近い声が響いた。
城内から駆け出してきたのは × だった。
髪も乱れ、裾も汚れ、それでも必死に走ってくる。
趙雲が帰ってこず、伝令で”崖から落ちた”と聞いて、いても立ってもいられなかったのだろう。
×は駆け寄ると、抑えきれない涙を流していた。
「本当に…本当にご無事で……!」
「……心配をかけたな、×殿」
その声は、いつもよりずっと柔らかい。
○は横で見ながら、そっと微笑んだ。
他の者が×を宥めるのに集まる中、○は脇腹を抑えた。
布の下がじんわり濡れている。
崖下で倒れていた趙雲の傍に、オオカミの糞があった。
そしてそこにはオオカミがいた。
オオカミを追い払った際に、一匹の爪が脇腹を引き裂いたのだ。
趙雲が目を覚ます直前。
矢じりを火で炙って止血しておいた。
縫っておかなくてはならない。
趙雲を取り囲む輪から離れる○に馬超が駆け寄った。
「○、お前も一緒に落ちたらしいな。診せなくて大丈夫か?」
「ええ。私は大丈夫。喉が乾いたから食堂に行ってくるわ」
軽く笑ってみせてから、その場から離れた。
○は騒ぐ兵士の間を抜け、ひと気のない幕舎の影へ足を向ける。
月が陰り、誰の目も届かない場所。
(……ここならいいわね)
服を捲り布を剥がすと、裂けて焦げた肉が覗いた。
焼灼止血である程度の血は止まっているが、趙雲が起きてしまったので途中でやめてしまい完全ではない。
深いが、大きな傷ではない。
普通の兵なら震えるような傷だが、○は眉一つ動かさない。
何度か負ってきた傷だ。
懐から細い針と糸、酒の小瓶を取り出すと、布を口に突っ込み、大きく息を吐いて噛みしめた。
自室が趙雲と同室なので、部屋に血痕を残すわけにはいかず、ここでやるしかない。
酒を傷口に注いだ瞬間、焼けるような痛みが走る。
足が震える。
それでも、針を迷いなく刺した。
外にいれば闇医者に駆け込んだだろうが、ここではそれも難しい。
しかし城の医務官にかかればおそらく全身を調べられてしまう。
それは嫌だった。
自分の身体には見られたくないものが多い。
唸り声を噛み殺しながら、皮膚を一縫いずつ引き寄せる。
血と酒の匂いが漂う中、針は淡々と動き続けた。
「はぁっ、……よし……これで……」
縫い終えると、急に力が抜けた。
脂汗が凄くて気持ちが悪い。
壁にもたれかかる。
(さすがに疲れた…)
目を閉じた。
ほんのひと息。
そのつもりだった。
「──○!」
遠くで誰かが呼んでいる気配があったが、意識が朦朧として答えられなかった。
そしてふと、誰かの影が正面に立つ気配。
「おい……っ!おい○、どうした!?」
大きな手が肩を揺さぶる。
「あ?…あぁ、馬超……?」
目を開けた時、馬超の表情は見たことのないほど深刻だった。
「お前何してるんだ?なんだ、この血だらけの布…」
そう言って○の全身を確認し、脇腹の服がめくれているのに気づく。
その縫われたばかりの傷を見て、馬超の声が震えた。
「お前これ、自分でやったのか!?なんで誰にも言わない……!」
「言ったら騒がれるもの。それに慣れてるわよ、こんなの。初めてじゃない」
「慣れてるとかそういう問題じゃないだろう!」
馬超はためらいなく○の肩に手を回し、支え起こす。
「立てるか?医者のところへ行くぞ」
「いいから。大丈夫」
「何が大丈夫なんだ!」
「こんなの医者に見せなくても治るわ。何度か経験してるから大丈夫」
馬超は悲痛そうな顔をしている。
「お願い。この事、誰にも言わないで」
「誰にもって…趙雲には言った方が良くないか?上官だろう」
「…言わないで」
その○の表情に、馬超は固唾をのんだ。
「分かった…誰にも言わん。約束だ」
「ありがとう」
「その代わり、俺がお前を助ける。それが精一杯の譲歩だ」
「ここにいる事を黙っててくれればいいわ」
「こんな所にいたら、どうせ見つかって余計に騒ぎになるぞ」
馬超は○を抱きかかえて、暗い廊下を進んだ。
今回は通常の偵察ではない、正面戦闘に発展する戦だ。
○にとっては劉備軍に来て初の大戦。
今までは偵察にしか出ていなかったが、今回は趙雲の親衛隊達と共に出陣する。
血の匂い、鉄の匂い、汗の匂い…
戦後の屍から金目の物を盗んではきたが、こんな集団で戦闘に参加するのはほとんど経験がないし、軍として参加するのは初めて。
軍の隊列は規模が違う。
いつも遠くから見ていた光景の中に自分がいる事に不思議な気持ちになる。
馬が並び、旗が揺れ、槍が一斉に構えられる。
趙雲が馬上で振り返った。
「○。決して列を離れるな。お前の戦い方は理解しているが、これは軍団戦だ」
「はいはい」
返事をしながらも内心では笑っていた。
自分の様な人間が列を離れないなんて、むしろ非効率だと思っている。
戦が始まると同時に、敵が伏兵を草むらから飛び出させた。
矢が雨のように降り、先頭の槍兵たちの隊列が崩れる。
馬超と進みながらの進軍で、趙雲と馬超が指示を飛ばしながら進む。
落ちた矢を確認すると、毒が塗られている物も混ざっていた。
飛んでくる矢や投げ槍の対処をしながらなので、かなり進軍は遅い。
(この進み方じゃ、餌食になりかねないわ)
○は辺りを見渡す。
敵の後方、草むらの奥。
ひとりだけ馬に乗らず、全体の動きをわずかに合図している影が見えた。
目立たないように黒装束まで着ている。
ワッと声がして、趙雲の隊が前へ出ていくのが見えた。
すると、その草むらの影がなにかを合図をした。
それに伴って数十の敵兵が一斉に趙雲の側面を狙って動きはじめる。
伏兵が一定の間隔で何度も突撃を繰り返している様だ。
○は馬を降り、草むらへ走る。
この奥に、おそらく指示役がいると踏んだ。
趙雲は側面への殺到に気づき、槍を水平に構えた。
しかし急に敵の動きが急に鈍る。
(……?)
理解できずとも、その数秒の空白で盛り返す。
馬超と二人の突撃で敵は総崩れとなり、そのまま前線は押し返せた。
敵の掃討が終わった頃。
趙雲は○がいないことに気付いた。
辺りを見回すと、草むらから○が出てくるのを見つけた。
右手に持った短刀を布で拭きながら歩いてくる。
その手には血がべっとりついていた。
そのくせ、まるで散歩帰りのような顔。
「……お前がやったのか」
「指令を飛ばしていたのをやっただけよ。あなたに群がってた連中、命令が来なくなって混乱してたでしょ?各個撃破で森の中なら、あんな程度の男に負けないわ」
趙雲は息を呑む。
「助かった」
「判断力と、戦場適応。お前の能力は本物だ」
「あらま。今頃気づいたの?」
「いや。今、確信した。よって、勝手に隊列を抜けたことは咎めない」
「やっぱりちょっと怒ってるのね」
最後の○の言葉は無視された。
戦が終わり、趙雲と○は本陣へ帰る道を進んでいた。
趙雲が、「残党が残っていないかを確認するため、山側を大回りして本陣へ帰る」と言い、親衛隊はその旨を本陣へ伝えるべく別行動を取った。
○は帰りたいとブツブツ言ったが、監視の目的もあると言い伏せられて同行する。
山道は荒れていた。
敵が動きやすいように木を伐採したのかもしれない。
○は足場をなんとなく観察しながら歩いていた。
(この地形……怪しいわね)
土の沈み方が不自然。
石の配置も作為的なものを感じる。
その瞬間──
「あっ、」
警告の声より先に、趙雲の馬が嘶き、地面が崩れた。
地面が崖側に大きく崩れ落ちる。
馬ごと趙雲の身体が崖下に消えた。
落ちる寸前、○の指先はとっさに彼の鎧の端に触れたが届かなかった。
崖が崩れ落ちて、辺りがシンと静まる。
○は崖の淵に近づいて下を覗き込んだ。
趙雲が倒れているのが見える。
落下の衝撃で折れた木々。
散らばった馬具。
そして、倒れたまま動かない趙雲の影。
(…これはいい機会ね)
○はその辺りの木に鍵縄を引っかけると、スルスルと下に降りていく。
城壁を降りられる程度の長さの縄だが、それが足りないくらいの高さの崖だった。
結構な高さを落ちているが、木が緩衝材になったらしく趙雲は生きていた。
○は趙雲の鎧の下に手を入れる。
(あったあった)
肌着の下に、晒で身体に密着するように巻かれたあの小刀を見つけた。
それを引き抜いて中を確認する。
そして次に倒れている趙雲を見た。
馬も失い、起きてもすぐには追ってこれない。
最悪、動けない可能性もある。
(よし。逃げるなら、今ね)
胸が軽くなる。
久しぶりの解放感。
自由、お金、好きな宝石を好きなだけまた集められる。
あんな窮屈な人間関係に縛られなくて済む。
(じゃあね、隊長さん)
○は森に駆け出した。
趙雲は、ぼやける視界の中で息を整えようとしていた。
身体中が痛む。
馬は落下の衝撃で死んだだろう。
額から血が流れ、意識が何度も暗転する。
(……これは……まずいな)
意識を手放す直前に、誰かが隣に立つ気配がした。
それは趙雲の身体に手を入れて、懐から何かを抜き取ると、足音が遠ざかった。
(○は…逃げてしまうかもしれないな)
そんな考えが頭をよぎる。
責める気持ちはなかった。
むしろ当然だと思った。
彼女はずっと逃げたがっていた。
本来ならこの機会を見逃す理由がない。
それもこれも、自分がここで死ぬのならどうにもならない。
意識が戻った時、趙雲は温かさに驚いた。
足元に焚き火の光が揺れている。
その側で、○が座って何かしていた。
「……○……?」
「あ、起きた」
趙雲が声をかけると振り返り、明るく笑った。
「頭を強く打ったみたいだから、急に起きない方がいいわ。出血してたから止血だけしておいたけど」
趙雲の視界が安定する。
土の匂いと火の温もり。
そして、○が自分の手ぬぐいを趙雲の頭に巻いていた為、○の香りもする。
「なぜ逃げなかった」
○は膝を抱え、肩をすくめながら笑った。
「逃げようと思えば逃げられたわ」
その言葉に、そっと懐を触る趙雲。
懐には○の小刀がまだある。
やはり、あれは幻覚だったのかと趙雲は思い出す。
「でもね…もうしばらく逃げない事にしたの。小刀もまだ返してもらってないし」
さらりと言う声は、甘くもなく、情もなく。
ただ彼女の本音だった。
(”逃げない事にした”のではなく、”私をそのままにして逃げられなかった”という事か…)
趙雲はなんとなくそう解釈した。
きっと本人は認めないだろうが。
「それに、近くでオオカミの糞を見つけたの。きっと近くにいるんだと思う。火でも焚いておかないと、馬の死体もあるから危険だわ」
「…それは、何をしているんだ」
「その落ちてたオオカミの糞をくべてるのよ。煙が沢山出るから狼煙になるの。隊長さんが戻らないとなればすぐ来てくれるでしょ」
○は火を触りながら、茶飲み話でもするかのように話す。
「はぁ…ただねぇ…城にいると、男遊びができないのよねぇ」
「……」
「あの部屋に連れ込めないし。それだけが悩みだわ」
ふっと笑う。
焚き火に照らされて、彼女の微笑みが妖しく光る。
「ま、逃げるのはまたそのうちね」
そのまましばらく無言だった。
遠くの方から馬の蹄の音がする。
「…もう来たみたいね」
○は立ち上がって移動の準備を始める。
ふいに趙雲の口が動いた。
「……○」
「なに?痛む?」
「いや。そうではない」
焚き火がぱち、と弾ける。
少しの間を置いて、彼は静かに言った。
「趙雲だ」
「…は?」
「私の名だ。趙雲子竜」
「知ってるけど。頭打ってどうかしちゃったの?」
趙雲は焚き火の光に照らされながら、眉をわずかに緩めた。
「……お前は、“隊長さん”と呼ぶだろう」
「だって隊長だもの」
「……私は、その呼ばれ方に慣れていない」
焚き火の火が大きく揺れる。
彼の影も揺れ、静かに続ける。
「仲間から趙雲と呼ばれ…あるいは字(あざな)で呼ばれてきた。お前に隊長と呼ばれると、どうにも、落ち着かない」
「じゃあ、なに?“趙雲”って呼べってこと?」
「……ああ。その方が、自然だ」
「私を部下として扱うなら、逆じゃないの?線引きしないと」
「部下として扱っている。だが……名で呼ばれる方が、お前の声に合っていると思った」
「なぁに、それ。隊長さんって呼んでほしくないの?」
「……“趙雲”でいい」
「じゃあ……趙雲、」
名前を呼ばれた趙雲は、微かに目を細めた。
嬉しそうでもなく照れているわけでもなく。
ただ、しっくりきたような静かな顔。
「ふふ……案外、かわいいところあるじゃない」
「かわいいと言うな」
「はいはい、分かりました、趙雲」
その呼び方は、静かに趙雲の心を満たした。
救援の声が近づいて来るのが聞こえる。
*******
本陣に戻ると同時に、医務官たちが駆けつけた。
趙雲が帰ってこずに狼煙が上がっているという事で、動けない怪我をしているのではと待ち構えていた様だ。
○が医務官にどの様な手当てをしたか伝えていると。
「──趙雲様!」
悲鳴に近い声が響いた。
城内から駆け出してきたのは × だった。
髪も乱れ、裾も汚れ、それでも必死に走ってくる。
趙雲が帰ってこず、伝令で”崖から落ちた”と聞いて、いても立ってもいられなかったのだろう。
×は駆け寄ると、抑えきれない涙を流していた。
「本当に…本当にご無事で……!」
「……心配をかけたな、×殿」
その声は、いつもよりずっと柔らかい。
○は横で見ながら、そっと微笑んだ。
他の者が×を宥めるのに集まる中、○は脇腹を抑えた。
布の下がじんわり濡れている。
崖下で倒れていた趙雲の傍に、オオカミの糞があった。
そしてそこにはオオカミがいた。
オオカミを追い払った際に、一匹の爪が脇腹を引き裂いたのだ。
趙雲が目を覚ます直前。
矢じりを火で炙って止血しておいた。
縫っておかなくてはならない。
趙雲を取り囲む輪から離れる○に馬超が駆け寄った。
「○、お前も一緒に落ちたらしいな。診せなくて大丈夫か?」
「ええ。私は大丈夫。喉が乾いたから食堂に行ってくるわ」
軽く笑ってみせてから、その場から離れた。
○は騒ぐ兵士の間を抜け、ひと気のない幕舎の影へ足を向ける。
月が陰り、誰の目も届かない場所。
(……ここならいいわね)
服を捲り布を剥がすと、裂けて焦げた肉が覗いた。
焼灼止血である程度の血は止まっているが、趙雲が起きてしまったので途中でやめてしまい完全ではない。
深いが、大きな傷ではない。
普通の兵なら震えるような傷だが、○は眉一つ動かさない。
何度か負ってきた傷だ。
懐から細い針と糸、酒の小瓶を取り出すと、布を口に突っ込み、大きく息を吐いて噛みしめた。
自室が趙雲と同室なので、部屋に血痕を残すわけにはいかず、ここでやるしかない。
酒を傷口に注いだ瞬間、焼けるような痛みが走る。
足が震える。
それでも、針を迷いなく刺した。
外にいれば闇医者に駆け込んだだろうが、ここではそれも難しい。
しかし城の医務官にかかればおそらく全身を調べられてしまう。
それは嫌だった。
自分の身体には見られたくないものが多い。
唸り声を噛み殺しながら、皮膚を一縫いずつ引き寄せる。
血と酒の匂いが漂う中、針は淡々と動き続けた。
「はぁっ、……よし……これで……」
縫い終えると、急に力が抜けた。
脂汗が凄くて気持ちが悪い。
壁にもたれかかる。
(さすがに疲れた…)
目を閉じた。
ほんのひと息。
そのつもりだった。
「──○!」
遠くで誰かが呼んでいる気配があったが、意識が朦朧として答えられなかった。
そしてふと、誰かの影が正面に立つ気配。
「おい……っ!おい○、どうした!?」
大きな手が肩を揺さぶる。
「あ?…あぁ、馬超……?」
目を開けた時、馬超の表情は見たことのないほど深刻だった。
「お前何してるんだ?なんだ、この血だらけの布…」
そう言って○の全身を確認し、脇腹の服がめくれているのに気づく。
その縫われたばかりの傷を見て、馬超の声が震えた。
「お前これ、自分でやったのか!?なんで誰にも言わない……!」
「言ったら騒がれるもの。それに慣れてるわよ、こんなの。初めてじゃない」
「慣れてるとかそういう問題じゃないだろう!」
馬超はためらいなく○の肩に手を回し、支え起こす。
「立てるか?医者のところへ行くぞ」
「いいから。大丈夫」
「何が大丈夫なんだ!」
「こんなの医者に見せなくても治るわ。何度か経験してるから大丈夫」
馬超は悲痛そうな顔をしている。
「お願い。この事、誰にも言わないで」
「誰にもって…趙雲には言った方が良くないか?上官だろう」
「…言わないで」
その○の表情に、馬超は固唾をのんだ。
「分かった…誰にも言わん。約束だ」
「ありがとう」
「その代わり、俺がお前を助ける。それが精一杯の譲歩だ」
「ここにいる事を黙っててくれればいいわ」
「こんな所にいたら、どうせ見つかって余計に騒ぎになるぞ」
馬超は○を抱きかかえて、暗い廊下を進んだ。