私は規格外【陸遜】
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二週間の船旅を終え、一行はようやく公安の地へと降り立った。
呉の穏やかな景色とは異なり、どこか荒々しくも活気に満ちた江陵の街並み。
孫尚香にあてがわれたのは、本城から少し離れた、静かな竹林に囲まれた立派な「離れ」。
「長旅で疲れたでしょう。今日はこのまま、ゆっくりと休むと良い。明日は改めて、義弟たちを紹介させてもらう」
そう言って劉備が去っていくと、○を含め連れてきた侍女たちが一斉に動き出す。
重い長持を軽々と運び込み、埃を払い、寝支度を整えていく○の働きぶりは目を見張るものがあった。
床板を一枚ずつ踏みしめて音を確認し、窓の立て付けや鍵の構造を調べ、さらには天井裏や庭の茂みの死角まで、音もなく、かつ迅速に確認する。
孫尚香が椅子に腰掛けながら笑った。
「ふふっ…一応、元斥候だっただけあるわね。普段のガサツな振る舞いに、すっかり忘れていたわ」
その言葉に、○は笑って頭を掻きながら、いつもの緩んだ表情に戻る。
「『元』、だけどね。 結局、大ポカしてやめさせられたから」
「ああ…敵の拠点探るのに隠れてたら、蛇踏んづけて飛び出しちゃったってアレ?」
「そうそう。それで運よくそこの拠点潰せたもんだから今の仕事に異動させられたの」
○はそう言って、尚香の茶を淹れ直す。
「とにかく!ここではあっちでの自堕落な生活は封印するから安心して!」
その頼もしい笑顔に、尚香は「頼りにしてるわよ」と優しく頷く。
慣れない異郷の地、不穏な空気も漂う公安での生活が始まった。
翌朝、劉備の案内で、公安の主だった面々が集まる広間へと向かった○と孫尚香。
そこには、まるで門神がそのまま具現化したような威圧感を放つ、二人の巨漢が待ち構えていた。
見上げるような巨躯と長髯を蓄えた関羽と、虎のような眼光でこちらを睨む張飛。
さらには文官たちも並び、呉から来た「姫君一行」を品定めするかのような、独特の緊張感が漂っている。
○はこの時、いつものサボり魔の顔を完全に封印していた。
(ここでは尚香の顔をたてなくちゃ。下手すれば尚香に危険が及ぶかもしれないもの)
長身をこれ以上ないほど真っ直ぐに正し、顎を引き、視線を一点に定めて微動だにせず孫尚香の一歩後ろに立つ。
劉備の紹介に対しても、一分の隙もない完璧な一礼を返した。
全ての挨拶を終え、ようやく自分たちの離れへと戻った時。
扉が閉まった瞬間、○は「しんどい!」と、溜めていた息を一気に吐き出し、肩の力を抜いた。
「お疲れ様、○。すごかったわよ。やれるじゃない!」
尚香がくすくすと笑いながら、○の背中をポンと叩いた。
○は肩を回しながらため息をつく。
「こんな事言ったら怒るかもしれないけれど、私、貴方が来てくれてとても良かったと思ってるの。とっても気持ちが楽になるわ。本当に来てくれてありがとう」
尚香のその言葉に、○は照れくさそうに頭を掻く。
今夜は歓迎の宴が開かれると先ほど聞いた。
また気を張らなくてはならないから、と、出入り口の警備はほかの侍女に任せて○は昼寝をすることに。
その姿を、孫尚香は穏やかな顔でみていた。
婚儀の日程が決まり、公安は慌ただしい空気に包まれる。
呉から陸遜をはじめとする参列者が到着するのを前に、○は蜀の女官たちと共同で、離れの装飾や宴の準備をすることになった。
○は「呉の姫君の側近」という立場もあって、女官たちは必要以上に恭しく、どこか余所余所しい態度で接してくる。
(気を遣われている…とても気を遣われている…)
若干の気まずさを抱えながらも力仕事を手伝っていると、ふと嫌な声色が耳に入った。
「あら、また間違えたの? 呉の方々に恥をかかせるつもり?」
「これ、全部運んでおいて。あなたは体力だけはあるでしょう?」
見え透いた嫌味と、あからさまな仕事の押し付けをしているらしい。
(どこにでもいるよなぁ、ああいうの)
そして昼下がり。
中庭を横切っていた○の耳に、「ガシャン!」という耳を突く音が響いた。
見れば、あの女官が青ざめた顔で立ち尽くし、足元には粉々になった高価な皿が散らばっている。
「……っ、申し訳ございません! すぐに片付けます!」
必死に破片を拾おうとする彼女の背中に、周囲の女官たちの冷ややかな笑い声が浴びせられる。
「まあ、不器用ねぇ」
「呉の賓客にお出しする予定だったのに。どう責任を取るのかしら」
○は思わず一歩踏み出しそうになるも、ここで自分が割って入れば、かえって彼女の立場が悪くなると思い踏みとどまった。
休憩時間を見計らってさっきの女官を探す。
案の定一人で輪を抜け出し、縁側の隅っこで配られた弁当を広げる彼女の隣に○は立った。
「隣、いい?」
「あ、○様! す、すみません、すぐに立ちますっ!」
慌てて取り繕おうとする彼女を、○は「いいの、いいの」と、わざとおどけたように笑う。
「私さぁ、呉から来た客将ってことで、みんなから腫れ物に触るみたいに気を遣われてて。話し相手もいなくて居場所がないのよね。いいところに一人、話しやすそうな人がいるなぁって」
「…私といると、○様も悪口を…」
「言われない、言われない!だいじょーぶ!」
○も配られた弁当を広げた。
「なんかあからさまに嫌味言われてるよなぁって、気になってさ。大丈夫?」
「…はい。私、本当にドジで…これを直す為にも両親に城に入れられたのですが…やっぱり大変で」
「分かるわ。私もドジで間抜けだから。そのせいで仕事も変えられたことがあるし」
「間抜けとまでは……」
「あ…そういうことじゃなくてね?私がって意味で…!!」
女官はクスクス笑って「分かっています」と言う。
見るからに大人しそうな女官。
○は陸遜からの言葉を思い出す。
―向こうの女官と親しくしておくことを勧めます。女性は重要な情報源です―
彼女が気になったのもあったが、陸遜の言うように知り合いの女官を作るにはいい機会だとも思った○。
下心はあるが、自分が彼女と親しくすることで虐めも和らぐなら一石二鳥だと考えた。
「そーだ。これから何か無理な仕事を押し付けられたらさ、遠慮なく私に頼んでよ」
「え…」
「さっきも言ったけど、私、みんなに気を遣われすぎててやる事なくて暇なの。こんなに力有り余ってるのに。それに私なら誰も文句は言わないでしょ。ね?」
女官は小さく「ありがとうございます」と呟いて弁当を食べた。
午後。
やはり彼女は、先輩の女官から「これ、今日中に裏の蔵へ運んでおいて」と、到底一人では無理な量の重い木箱を押し付けられた。
女官はおずおずと暇そうに小さい箱の片づけをしている○に近づく。
「○様……あの、お、お手伝いいただけますか…」
○は二つ返事で木箱を二つ三つと軽々と重ねて担ぎ上げた。
これには押し付けた側の女官も「あ、いえ、客将の○様にそんな……」と口ごもったが、○は「いいのよ、普段持ってる武器と比べたら軽い軽い」と笑い飛ばして、そのまま運んでいく。
「いやぁ、しかしこの量!女官の細腕じゃ一人でやれそうにないのにねぇ!どんな作業分担なんだか気になるわぁ!」
押し付けた女官に聞こえるように大声でそう言った○に、彼女たちは眉をひそめた。
その翌日。
廊下を通りかかった趙雲は、女官たちが何やら憤慨して話し合っているのを耳にした。
「あの○って女、本当に横暴だわ」
「新入りを甘やかして、私たちの仕事の邪魔ばかりして……」
そんな事を言いながら通り過ぎる。
(○殿が、そのようなことをするだろうか?)
○は公安に来てからというもの、別人の様にすまし顔で暮らしている様子しか趙雲は見ていない。
余所行きの彼女がそんな事をするようには思えないが、ただあの呉での感じを全開に出したのなら”横暴”だと捉えられることもなくはない。
趙雲は警護の合間に○の様子を観察してみることにした。
見ているとなるほど。
先ほどの女官たちが誰かに意地の悪い事をしようとすると、わざと近くの水をひっくり返したり、空気が読めないふりをして間に身体を入れたり。
あの態度が横暴に見えている様だ。
女性だらけの職場ではああいったことが多々起きることは知っているし、そこに男性が入ればまた揉め事の種になる。
だから趙雲は見ないようにしていた世界ではあったが、あの様子の○がいるのなら少しは平和になるのかもしれない。
趙雲はふと微笑むと、これ以上見ていてはいけないと思い、背を向けた。
*****
それから数日。
ついに、呉からの婚儀参列者の一団が公安の城に到着した。
先頭に立つのは陸遜。
まだ正式な軍師ではない彼が、偵察の目的もあってやってきた。
到着早々、蜀の女官たちの陰口が聞こえてくる。
「もう、ほんと○って人、どうにかならないかしら」
「○が勝手な行動をして現場を混乱させているのよ」
「特定の女官を贔屓して、規律を乱しているわ。この機会に呉に帰ってほしいわ」
陸遜は眉間にしわを寄せる。
(まさか…ここでもあの調子でやっているのですか?あの馬鹿は)
その足で○を探すべく、公安の城に入った。
孫尚香の離れに戻る為に廊下を歩いていると、背後から聞き馴染みのある声に呼び止められた。
「ん?…げっ、陸遜! もう着いたの?あれー?早いね」
「あれー?ではなくて…我々の到着日の目安は聞いていたと思いますが」
そういえば聞いたような聞かなかったような…
○は首をかしげる。
ここにきてから時間の感覚がおかしくて、そこら辺の勘が鈍っているようだ。
「到着して数時間も経たないうちに、あなたの悪評が耳に届きました。こちらの女官達に余計な事をしていませんか?愚痴を吐かれていましたよ」
余計な事と言われればそうだし、そうじゃないと言えばそうじゃない。
ただ、「意地悪されてる子を助けてた」というのも何か違う。
色々説明するのが面倒になって、「なんだろう」と呟くにとどめた。
「とにかく…あなたはここの客将なのですから。地のやり方に口を挟まず、静かに警護に徹しなさいと出発前にあれほど……」
陸遜のいつもの小言が始まり、○は「あー、始まった始まった」と耳を塞ぐ仕草をする。
その様子に陸遜がさらに声を荒らげようとした時、横から静かな声が割って入った。
「陸遜殿。そのあたりで…」
現れたのは趙雲。
彼は穏やかな足取りで二人に近づいた。
「趙雲殿……。お見苦しいところを。この者がまた、皆様にご迷惑をおかけしたようで」
陸遜が一礼すると、趙雲はゆっくりと首を振る。
「迷惑、ですか。……私の目には、そうは映りませんでした」
「……え?」
「実は私も、女官らの話が耳に入っておりまして。ここ数日、○殿の振る舞いを見ておりました。彼女は邪魔をしていたわけではなく……一人の弱き者を虐げようとする、陰湿な悪意を防いでいただけです」
趙雲の言葉に、陸遜は虚を突かれたように目を見開く。
隣で○も、(趙雲様が見ていた…)と顔を赤くして俯いた。
「彼女は、言葉で相手を糾弾するのではなく、自らが壁となって争いを未然に防いでいました。誰も傷つけずに自分が泥をかぶる、見事なものでしたよ」
趙雲の真っ直ぐな称賛に、陸遜は言葉を失った。
自分が「ガサツで間抜けだ」と決めつけていた彼女の行動が、蜀の最高の武将によって、これ以上ないほど肯定されたからだ。
「……そうですか。……そういうことなら、話は別ですね」
陸遜はバツが悪そうに視線を逸らし、咳払いを一つ。
「……あなたの、そのデカいだけの体が少しは役に立っていたようで、安心しましたよ」
陸遜は、納得のいかない様子で、けれど趙雲の手前、これ以上追求するわけにもいかず、吐き捨てるようにそう言った。
それを聞いた○は、ニヤニヤといやらしい笑顔で陸遜の肩に肘を乗せて、顔を覗き込む。
「あらぁ? 陸遜、何か忘れてない? 勘違いしてたなら、まずは頭を下げなきゃねえ」
「調子に乗らないでください。日頃の行いが悪いせいです」
陸遜はこれ以上ないほど深いため息をついて、手を振り払う。
その視線は○を庇った趙雲へと向けられるが、趙雲の「真実を話しました!」と言わんばかりの清々しい眼差しに、結局は言葉を飲み込むしかない。
「……とにかく!婚儀の礼儀作法等、教えなくてはならない事が山ほどありますから、こちらに来なさい。趙雲殿、失礼します。……ほら、○! 行きますよ!」
「もう、勝手なんだから……趙雲様、失礼しますっ」
○は趙雲にお辞儀をすると陸遜を追いかけた。
二人の背中が遠ざかっていくのを、趙雲は静かに見送っていた。
趙雲の瞳には、陸遜に文句を言いながらもどこか嬉しそうに足取りを合わせる○の姿が映っている。
公安に来てからの○は、公の場では常に感情を消していた。
孫尚香の後ろに立って、彼女と話すときだけ笑い、それ以外は孫尚香を尊重して会話に入らない。
けれど今、陸遜という「彼女を誰よりも理解している男」の隣で、遠慮なく感情を出している○を見て、趙雲はわずかに胸の奥が騒ぐのを感じていた。
(彼女が帰ってきたようだ……)
それは微笑ましい光景であるはずなのに、どこか遠い。
自分に向けられる敬愛の眼差しとは違う、もっと密接な、二人の間に流れる歳月。
趙雲は色々考えていた事を振り払うように、いつもの冷静な表情に戻った。
呉の穏やかな景色とは異なり、どこか荒々しくも活気に満ちた江陵の街並み。
孫尚香にあてがわれたのは、本城から少し離れた、静かな竹林に囲まれた立派な「離れ」。
「長旅で疲れたでしょう。今日はこのまま、ゆっくりと休むと良い。明日は改めて、義弟たちを紹介させてもらう」
そう言って劉備が去っていくと、○を含め連れてきた侍女たちが一斉に動き出す。
重い長持を軽々と運び込み、埃を払い、寝支度を整えていく○の働きぶりは目を見張るものがあった。
床板を一枚ずつ踏みしめて音を確認し、窓の立て付けや鍵の構造を調べ、さらには天井裏や庭の茂みの死角まで、音もなく、かつ迅速に確認する。
孫尚香が椅子に腰掛けながら笑った。
「ふふっ…一応、元斥候だっただけあるわね。普段のガサツな振る舞いに、すっかり忘れていたわ」
その言葉に、○は笑って頭を掻きながら、いつもの緩んだ表情に戻る。
「『元』、だけどね。 結局、大ポカしてやめさせられたから」
「ああ…敵の拠点探るのに隠れてたら、蛇踏んづけて飛び出しちゃったってアレ?」
「そうそう。それで運よくそこの拠点潰せたもんだから今の仕事に異動させられたの」
○はそう言って、尚香の茶を淹れ直す。
「とにかく!ここではあっちでの自堕落な生活は封印するから安心して!」
その頼もしい笑顔に、尚香は「頼りにしてるわよ」と優しく頷く。
慣れない異郷の地、不穏な空気も漂う公安での生活が始まった。
翌朝、劉備の案内で、公安の主だった面々が集まる広間へと向かった○と孫尚香。
そこには、まるで門神がそのまま具現化したような威圧感を放つ、二人の巨漢が待ち構えていた。
見上げるような巨躯と長髯を蓄えた関羽と、虎のような眼光でこちらを睨む張飛。
さらには文官たちも並び、呉から来た「姫君一行」を品定めするかのような、独特の緊張感が漂っている。
○はこの時、いつものサボり魔の顔を完全に封印していた。
(ここでは尚香の顔をたてなくちゃ。下手すれば尚香に危険が及ぶかもしれないもの)
長身をこれ以上ないほど真っ直ぐに正し、顎を引き、視線を一点に定めて微動だにせず孫尚香の一歩後ろに立つ。
劉備の紹介に対しても、一分の隙もない完璧な一礼を返した。
全ての挨拶を終え、ようやく自分たちの離れへと戻った時。
扉が閉まった瞬間、○は「しんどい!」と、溜めていた息を一気に吐き出し、肩の力を抜いた。
「お疲れ様、○。すごかったわよ。やれるじゃない!」
尚香がくすくすと笑いながら、○の背中をポンと叩いた。
○は肩を回しながらため息をつく。
「こんな事言ったら怒るかもしれないけれど、私、貴方が来てくれてとても良かったと思ってるの。とっても気持ちが楽になるわ。本当に来てくれてありがとう」
尚香のその言葉に、○は照れくさそうに頭を掻く。
今夜は歓迎の宴が開かれると先ほど聞いた。
また気を張らなくてはならないから、と、出入り口の警備はほかの侍女に任せて○は昼寝をすることに。
その姿を、孫尚香は穏やかな顔でみていた。
婚儀の日程が決まり、公安は慌ただしい空気に包まれる。
呉から陸遜をはじめとする参列者が到着するのを前に、○は蜀の女官たちと共同で、離れの装飾や宴の準備をすることになった。
○は「呉の姫君の側近」という立場もあって、女官たちは必要以上に恭しく、どこか余所余所しい態度で接してくる。
(気を遣われている…とても気を遣われている…)
若干の気まずさを抱えながらも力仕事を手伝っていると、ふと嫌な声色が耳に入った。
「あら、また間違えたの? 呉の方々に恥をかかせるつもり?」
「これ、全部運んでおいて。あなたは体力だけはあるでしょう?」
見え透いた嫌味と、あからさまな仕事の押し付けをしているらしい。
(どこにでもいるよなぁ、ああいうの)
そして昼下がり。
中庭を横切っていた○の耳に、「ガシャン!」という耳を突く音が響いた。
見れば、あの女官が青ざめた顔で立ち尽くし、足元には粉々になった高価な皿が散らばっている。
「……っ、申し訳ございません! すぐに片付けます!」
必死に破片を拾おうとする彼女の背中に、周囲の女官たちの冷ややかな笑い声が浴びせられる。
「まあ、不器用ねぇ」
「呉の賓客にお出しする予定だったのに。どう責任を取るのかしら」
○は思わず一歩踏み出しそうになるも、ここで自分が割って入れば、かえって彼女の立場が悪くなると思い踏みとどまった。
休憩時間を見計らってさっきの女官を探す。
案の定一人で輪を抜け出し、縁側の隅っこで配られた弁当を広げる彼女の隣に○は立った。
「隣、いい?」
「あ、○様! す、すみません、すぐに立ちますっ!」
慌てて取り繕おうとする彼女を、○は「いいの、いいの」と、わざとおどけたように笑う。
「私さぁ、呉から来た客将ってことで、みんなから腫れ物に触るみたいに気を遣われてて。話し相手もいなくて居場所がないのよね。いいところに一人、話しやすそうな人がいるなぁって」
「…私といると、○様も悪口を…」
「言われない、言われない!だいじょーぶ!」
○も配られた弁当を広げた。
「なんかあからさまに嫌味言われてるよなぁって、気になってさ。大丈夫?」
「…はい。私、本当にドジで…これを直す為にも両親に城に入れられたのですが…やっぱり大変で」
「分かるわ。私もドジで間抜けだから。そのせいで仕事も変えられたことがあるし」
「間抜けとまでは……」
「あ…そういうことじゃなくてね?私がって意味で…!!」
女官はクスクス笑って「分かっています」と言う。
見るからに大人しそうな女官。
○は陸遜からの言葉を思い出す。
―向こうの女官と親しくしておくことを勧めます。女性は重要な情報源です―
彼女が気になったのもあったが、陸遜の言うように知り合いの女官を作るにはいい機会だとも思った○。
下心はあるが、自分が彼女と親しくすることで虐めも和らぐなら一石二鳥だと考えた。
「そーだ。これから何か無理な仕事を押し付けられたらさ、遠慮なく私に頼んでよ」
「え…」
「さっきも言ったけど、私、みんなに気を遣われすぎててやる事なくて暇なの。こんなに力有り余ってるのに。それに私なら誰も文句は言わないでしょ。ね?」
女官は小さく「ありがとうございます」と呟いて弁当を食べた。
午後。
やはり彼女は、先輩の女官から「これ、今日中に裏の蔵へ運んでおいて」と、到底一人では無理な量の重い木箱を押し付けられた。
女官はおずおずと暇そうに小さい箱の片づけをしている○に近づく。
「○様……あの、お、お手伝いいただけますか…」
○は二つ返事で木箱を二つ三つと軽々と重ねて担ぎ上げた。
これには押し付けた側の女官も「あ、いえ、客将の○様にそんな……」と口ごもったが、○は「いいのよ、普段持ってる武器と比べたら軽い軽い」と笑い飛ばして、そのまま運んでいく。
「いやぁ、しかしこの量!女官の細腕じゃ一人でやれそうにないのにねぇ!どんな作業分担なんだか気になるわぁ!」
押し付けた女官に聞こえるように大声でそう言った○に、彼女たちは眉をひそめた。
その翌日。
廊下を通りかかった趙雲は、女官たちが何やら憤慨して話し合っているのを耳にした。
「あの○って女、本当に横暴だわ」
「新入りを甘やかして、私たちの仕事の邪魔ばかりして……」
そんな事を言いながら通り過ぎる。
(○殿が、そのようなことをするだろうか?)
○は公安に来てからというもの、別人の様にすまし顔で暮らしている様子しか趙雲は見ていない。
余所行きの彼女がそんな事をするようには思えないが、ただあの呉での感じを全開に出したのなら”横暴”だと捉えられることもなくはない。
趙雲は警護の合間に○の様子を観察してみることにした。
見ているとなるほど。
先ほどの女官たちが誰かに意地の悪い事をしようとすると、わざと近くの水をひっくり返したり、空気が読めないふりをして間に身体を入れたり。
あの態度が横暴に見えている様だ。
女性だらけの職場ではああいったことが多々起きることは知っているし、そこに男性が入ればまた揉め事の種になる。
だから趙雲は見ないようにしていた世界ではあったが、あの様子の○がいるのなら少しは平和になるのかもしれない。
趙雲はふと微笑むと、これ以上見ていてはいけないと思い、背を向けた。
*****
それから数日。
ついに、呉からの婚儀参列者の一団が公安の城に到着した。
先頭に立つのは陸遜。
まだ正式な軍師ではない彼が、偵察の目的もあってやってきた。
到着早々、蜀の女官たちの陰口が聞こえてくる。
「もう、ほんと○って人、どうにかならないかしら」
「○が勝手な行動をして現場を混乱させているのよ」
「特定の女官を贔屓して、規律を乱しているわ。この機会に呉に帰ってほしいわ」
陸遜は眉間にしわを寄せる。
(まさか…ここでもあの調子でやっているのですか?あの馬鹿は)
その足で○を探すべく、公安の城に入った。
孫尚香の離れに戻る為に廊下を歩いていると、背後から聞き馴染みのある声に呼び止められた。
「ん?…げっ、陸遜! もう着いたの?あれー?早いね」
「あれー?ではなくて…我々の到着日の目安は聞いていたと思いますが」
そういえば聞いたような聞かなかったような…
○は首をかしげる。
ここにきてから時間の感覚がおかしくて、そこら辺の勘が鈍っているようだ。
「到着して数時間も経たないうちに、あなたの悪評が耳に届きました。こちらの女官達に余計な事をしていませんか?愚痴を吐かれていましたよ」
余計な事と言われればそうだし、そうじゃないと言えばそうじゃない。
ただ、「意地悪されてる子を助けてた」というのも何か違う。
色々説明するのが面倒になって、「なんだろう」と呟くにとどめた。
「とにかく…あなたはここの客将なのですから。地のやり方に口を挟まず、静かに警護に徹しなさいと出発前にあれほど……」
陸遜のいつもの小言が始まり、○は「あー、始まった始まった」と耳を塞ぐ仕草をする。
その様子に陸遜がさらに声を荒らげようとした時、横から静かな声が割って入った。
「陸遜殿。そのあたりで…」
現れたのは趙雲。
彼は穏やかな足取りで二人に近づいた。
「趙雲殿……。お見苦しいところを。この者がまた、皆様にご迷惑をおかけしたようで」
陸遜が一礼すると、趙雲はゆっくりと首を振る。
「迷惑、ですか。……私の目には、そうは映りませんでした」
「……え?」
「実は私も、女官らの話が耳に入っておりまして。ここ数日、○殿の振る舞いを見ておりました。彼女は邪魔をしていたわけではなく……一人の弱き者を虐げようとする、陰湿な悪意を防いでいただけです」
趙雲の言葉に、陸遜は虚を突かれたように目を見開く。
隣で○も、(趙雲様が見ていた…)と顔を赤くして俯いた。
「彼女は、言葉で相手を糾弾するのではなく、自らが壁となって争いを未然に防いでいました。誰も傷つけずに自分が泥をかぶる、見事なものでしたよ」
趙雲の真っ直ぐな称賛に、陸遜は言葉を失った。
自分が「ガサツで間抜けだ」と決めつけていた彼女の行動が、蜀の最高の武将によって、これ以上ないほど肯定されたからだ。
「……そうですか。……そういうことなら、話は別ですね」
陸遜はバツが悪そうに視線を逸らし、咳払いを一つ。
「……あなたの、そのデカいだけの体が少しは役に立っていたようで、安心しましたよ」
陸遜は、納得のいかない様子で、けれど趙雲の手前、これ以上追求するわけにもいかず、吐き捨てるようにそう言った。
それを聞いた○は、ニヤニヤといやらしい笑顔で陸遜の肩に肘を乗せて、顔を覗き込む。
「あらぁ? 陸遜、何か忘れてない? 勘違いしてたなら、まずは頭を下げなきゃねえ」
「調子に乗らないでください。日頃の行いが悪いせいです」
陸遜はこれ以上ないほど深いため息をついて、手を振り払う。
その視線は○を庇った趙雲へと向けられるが、趙雲の「真実を話しました!」と言わんばかりの清々しい眼差しに、結局は言葉を飲み込むしかない。
「……とにかく!婚儀の礼儀作法等、教えなくてはならない事が山ほどありますから、こちらに来なさい。趙雲殿、失礼します。……ほら、○! 行きますよ!」
「もう、勝手なんだから……趙雲様、失礼しますっ」
○は趙雲にお辞儀をすると陸遜を追いかけた。
二人の背中が遠ざかっていくのを、趙雲は静かに見送っていた。
趙雲の瞳には、陸遜に文句を言いながらもどこか嬉しそうに足取りを合わせる○の姿が映っている。
公安に来てからの○は、公の場では常に感情を消していた。
孫尚香の後ろに立って、彼女と話すときだけ笑い、それ以外は孫尚香を尊重して会話に入らない。
けれど今、陸遜という「彼女を誰よりも理解している男」の隣で、遠慮なく感情を出している○を見て、趙雲はわずかに胸の奥が騒ぐのを感じていた。
(彼女が帰ってきたようだ……)
それは微笑ましい光景であるはずなのに、どこか遠い。
自分に向けられる敬愛の眼差しとは違う、もっと密接な、二人の間に流れる歳月。
趙雲は色々考えていた事を振り払うように、いつもの冷静な表情に戻った。