私は規格外【陸遜】
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翌朝、○は宣言通り、朝日が昇る前から猛烈な勢いで働き始めた。
昨日、陸遜に突きつけられた「そのままで趙雲殿に好かれるはずがない」という言葉を振り払うように、○は必死に体を動かす。
溜まっていた資料の整理をあっという間に片付けると、次は城内の備品の整理、さらには重い木箱の運搬まで。
そのあまりの働きぶりに、通りかかった周瑜までもが足を止める。
「ほう、今日は随分と精が出るようだな。ならば○、ついでに蔵にある古い書物もあちらの楼閣まで運んでおいてくれ」
「はい! お任せください、周瑜殿!」
一方陸遜は、そんな○を見て言葉を失う。
明らかに昨日の自分の言葉を気にして、無理をしているからだ。
気まずさに耐えかねた陸遜は、書物を抱えてフラフラしている○に近寄る。
「手伝います。半分、かしてください」
「いいわよ、文官の陸遜にこんな事…」
「いいんです。 ……昨日のは、その、あなたの態度があまりに緩んでいたので、少し厳しく言っただけのつもりだったんです。まさかここまで効くとは思わず」
陸遜は○の手から重い箱を奪うように受け取る。
二人は並んで静かな回廊を楼閣へと歩き出した。
しばらくの沈黙の後、○は少し落ち着いたのか、ふと思い出したことを陸遜に尋ねる。
「ねえ、陸遜。……結局、尚香様の婚儀って、どっちでやるの? 呉なの? それともあっちまで行くの?婚姻はすることはするんでしょ?」
陸遜は一瞬、眉をぴくりと動かし、周囲に誰もいないことを確認してから声を潜める。
「…公式にはまだ調整中ということになっています。ですが、あなたは周瑜殿の意図を分かっているはずでしょう」
「前に言ってた、ここで足止めするってやつ?」
「そうです。……どちらでやるか、などという議論さえ、時間を稼ぐための道具に過ぎません。つまり、何も決まっていないし決めないのです」
陸遜の冷徹な言葉を聞きながら、○は昨日の河原での趙雲の穏やかな笑顔を思い出す。
(なんか…趙雲様をだましてるって感じがなぁ…)
「……でも、いつまでも隠し通せるものじゃないわよね。趙雲様、思ってたより滞在が長引いてるって気にしてたわ」
その言葉に陸遜が驚いた顔をする。
「その様な話を…?」
「え、うん。何かの折にね」
「……。○。気をつけなさい。相手はあなたから崩そうとしている可能性があります」
真剣にそう言った陸遜に、○は「はあ?」と声をあげる。
「どこかに風穴をあけようとするなら…私が趙雲殿でもあなたを狙います。くれぐれも気を付けてください。これは姫様も危険にさらす可能性があるのですから」
陸遜は念を押すように○を覗き込む。
○は「分かってるわよ」と力なく答えたが、心に重い楔が打ち込まれたような気分になるのだった。
「でさぁ、納得いかないのが食堂のおばちゃん」
○と陸遜はその後、何気ない会話をしていた。
「また淩統にだけ団子多めにあげてるの。それも周りから見えない様にこそっと。あざといと思わない?」
「……彼は『熟女殺し』ですからね。おば様方の扱いに関してはとんでもないですよ。城内でおかしな噂を流されたくなければ敵に回してはいけません」
「えー軍師見習いがそんなこと言っていいわけ?呉の兵站が凌統の笑顔ひとつで不平等に扱われてるのよ。自覚が足りないんじゃない?」
「団子一本で兵站の崩壊を危惧するなら、あなたのその食欲をまず律するべきでは?」
「私は身体を使う仕事してるから、一杯食べなきゃ駄目なのよ」
いつもの小気味よい言い合いをしながら、二人は中庭の回廊を抜けていく。
その様子を、少し離れた楼閣の影から、劉備と趙雲が静かに眺めていた。
「あの二人は、いつもあのように賑やかなのだな」
劉備が穏やかに目を細めると、その隣で趙雲も、遠ざかる二人の背中を見つめながら頷く。
「ええ。顔を合わせれば喧嘩ばかりしていると聞いておりましたが……こうして見ると、実に自然に、楽しげに言葉を交わしておりますね」
○は陸遜に食ってかかりながらも、その表情には全幅の信頼が滲んでいる。
「普通に話もするものなのだな、と……妙なことに感心してしまったよ」
劉備が愉快そうに笑うと、趙雲も「そうですね」と相槌を打つ。
趙雲は、今朝から一心不乱に働く○の姿を遠くに認めていた。
昨日の河原での、あの柔らかな空気を纏った彼女とは違う、意固地なほどの働きぶり。
(陸遜殿に何か言われたのか…?)
趙雲は、自分の胸に去来したわずかな懸念を振り払う。
二人の賑やかな笑い声が遠ざかった後の回廊に、呉の湿っぽい風が静かに吹き抜けた。
「……さて、我々も参りましょう。そろそろ孫尚香様が来られます」
「ああ、そうだな。趙雲も、ああして誰かと団子の数を競うような、他愛ない時間を過ごせると良いのだが」
「今はそれどころではありません」
趙雲は少しだけ困ったように微笑み、劉備を居室にいざなった。
*****
連日のように繰り返される軍議と、遅々として進まない婚儀の打ち合わせ。
周瑜は連日、劉備を酒宴や豪華な観劇に誘い出し、その一方で「会場の選定や吉日の占いに難航している」と巧みに時間を稼いでいた。
そんなある日、ついに劉備が沈黙を破る。
いつになく真剣な表情で、劉備は周瑜、そして孫権の前に立った。
「呉の皆様の手厚いもてなしには、心から感謝しております。……しかし、私は荊州に置いてきた民や、義弟たちのことが気がかりでなりません。長居が過ぎれば、人心も離れ、留守を預かる者たちに過度な負担をかけることになります」
劉備の瞳には深い決意が宿っていた。
「急ぎ、公安へ帰らせていただきたい。婚儀は、あちらで執り行っても構わぬと考えております」
その言葉に、周瑜の眉が微かに動く。
しかしすぐに優雅な笑みを浮かべた。
「劉備殿、お急ぎになることはありません。婚儀の細部を詰めぬままお帰りになっては、姫様の面目が……」
「その必要はないわ、周瑜」
割って入ったのは、凛とした、けれど弾むような声。
振り返ればいつに間にか孫尚香が立っており、劉備の隣に歩み寄った。
「権兄様、周瑜。私はすでに玄徳様と夫婦の契りを交わす覚悟を決めました」
孫尚香は一度、劉備を優しく見つめ、それから兄である孫権に向き直る。
「女は、嫁げば夫に従うもの。劉備殿が公安へ帰るとおっしゃるのなら、妻になった私も当然ついて行くわ。呉の礼節も大事だけど、夫の側に添うことこそが務めだと思うの」
その言葉は、まさに「弓腰姫」と謳われた彼女らしい、迷いのない一矢。
周瑜の用意していた誘惑も、足止めのための策も、彼女の潔い覚悟の前では効果を持たなくなる。
離れた場所で控えていた○は、その光景を息を呑んで見守っていた。
あの孫尚香が、愛する人のために全てを捨てて旅立とうとしている。
その強さと美しさに胸が熱くなる一方で、これで孫尚香と会うことが出来なくなる心細さがあった。
後ろに控えていた淩統も、「こうなるとはね」と呟く。
劉備と孫尚香が退室した後、周瑜は策を練り直すように一度目を伏せ、それから控えている者に声をかける。
「○、そして凌統。いるか」
呼ばれて二人が出ていくと、陸遜も側に控える。
「姫様は劉備殿と共に公安へ向かう決意を固められた。数人の侍女を連れて行かれることになるが……○、お前もその一行に加われ」
「えっ……私が、公安に?」
○が驚きに目を丸くすると、周瑜は頷きました。
「君は名だたる武将ではないが、十二分に戦える。姫様の側近であり友人であることもあちら側が理解しているから、○がついて行くのが、最も自然で疑われぬ形だ。…そして凌統。君の一族と○の家は家族ぐるみの付き合いだ。折を見て○の様子を見に行く名目で、公安へ出入りしてほしい」
「なるほど。武官としてではなく、あくまで親戚同然の顔で会いに行け、ということですね」
凌統が納得したように腕を組むと、それまで沈黙を守っていた陸遜が一歩踏み出しました。
「○。これは単なる護衛ではありません。公安という異郷の地で、姫様に万が一の有事があった際、即座に呉と連携を取り、動ける者が必要なのです。責任は重大です」
陸遜の言葉は、いつになく重厚だ。
○は、隣に立つ凌統と視線を交わす。
「……承知いたしました。姫様をお守りし、呉との橋渡しを全ういたします」
○が背筋を伸ばして答えると、周瑜はわずかに口角を上げた。
「よし。出立は近い。準備を整えておいてくれ」
話が終わり、廊下に出ると、凌統がふぅと息を吐く。
「大丈夫かい?向こうでくらいはしっかりやってくれよ?」
「分かってるわよ。尚香の為だもの」
すると後ろからついてきた陸遜が、どこか落ち着かない様子で○を呼び止めた。
「○。……公安へ行っても、あなたはあなたのまま、規律を忘れぬように。……それと、あまりあちらの空気に染まりすぎてはいけませんよ」
「…陸遜?」
「……何でもありません。荷造りを確認してください」
いつもの小言を言い捨てて早足に去っていく陸遜。
その背中を見送りながら、○はこれから始まる波乱の荊州生活に思いを馳せるのだった。
周瑜たちの足止めの策を、孫尚香は「夫となる劉備殿の望むままに」という一言で鮮やかに退けた。
結局、正式な婚儀は公安へ到着してから執り行われることに決まり、○たち一行は慌ただしく旅立ちの準備に追われることになる。
そんな折、城の回廊で荷物を運んでいた○を、陸遜が呼び止めた。
「○。……婚儀の件ですが、呉からは私を含め、複数名が参列のために後日公安に向かう事になりました」
「ええ、聞いてるわよ。助かる~!私、作法とか分からないし今から勉強する暇もないから。来てくれるならまたその時教えてよ」
○が何のこともない様に言うと、陸遜は何か言いよどむように視線を伏せ、それから絞り出すように呟く。
「……あなたには、不安はないのですか?」
「え?」
「あなたはあちらに残り、文字通り呉の『目』となるのですよ。もしかしたら……一生、呉の土を二度と踏むこともないかもしれない。それだけの覚悟が、あなたにあるのですか」
いつになく真剣で、どこか悲痛ささえ混じった陸遜の問いかけ。
○は一瞬きょとんとしたが、すぐにカラッとした笑顔を見せた。
「おーげさ、おーげさ。それにそれは、尚香だって一緒でしょ?決まった事はそれ以上考えないタチだしね、私。上の決定ならどうせ覆らないし」
「…」
「それにさ、私なら正月には休みをもらって帰ってくるわよ~」
「……あなたは、相変わらず楽天家ですね」
「ここでメソメソされても困るでしょ。行かなくてよくなるわけでもなし……あ、そうそう」
○は声を抑えて含み笑いをしながら陸遜を見る。
『私が次に帰ってきた頃には、陸遜は念願の大喬様と夫婦になってたりして?』
「またその様な…。私とあの方はそんな簡単には…」
「まあ…関係性はあまりにも絶妙だけど。でもさ、孫策様は孫策様で、大喬様は大喬様でしょ」
「…ですから。その名を出すなと何度言えば…本当に礼儀知らずの大馬鹿者なのですから」
「もー、最後くらい優しく送り出してよ!」
陸遜は背を向け、逃げるように立ち去る。
その胸のうちは、○が冗談で言った「大喬様との結婚」などではなく、二度と会えないかもしれない距離へ行ってしまう、目の前の「出来損ないの腐れ縁」へ寂しさだった。
○と別れて執務室に戻った陸遜は大きくため息をついた。
あの「楽天的な性格」の裏にある、○の危うさを誰よりも知っているからだ。
本来であれば、孫尚香の最も近くに仕える練師こそが、公安へ同行する第一候補だった。
彼女も腕が立つし、なにより礼儀作法もしっかりできている。
しかし、彼女は孫権様の深い寵愛を一身に受けており、今回の候補から外された。
いわば○は、その身代わりとして選ばれた側面がある。
それを彼女自身は分かっているのだろうか。
(練師殿が行けないから○が。そんな理屈で、これほど危険な所に放り込まれるなど…)
周瑜の冷徹な判断、そして孫権の意向。
それらを覆す力も理由も自分にはない。
あと数年遅く事が起きていれば、○を公安に行かせずに済んだかもしれないのに。
(また…私は孫家にいいようにされるのか…)
ただただ悔しさが、どろりと胸に落ちた。
*****
二日後。
風を孕んだ帆が大きく膨らみ、劉備一行と呉の随行団を乗せた船が、ゆっくりと岸を離れた。
船の甲板。
○は孫尚香と、遠ざかる建業の景色を眺める。
(……陸遜のやつ、最後まで『荷物の隙間がどうの』って言ってたなぁ)
川風にあおられ、船が大きく揺れたその時。
「おっと。危ないよ」
よろめきかけた孫尚香の肩を、しっかりと優しく抱きとめた。
孫尚香は○の腕に身を預けたまま、小さく溜息をつく。
その瞳には、故郷を去る寂しさと覚悟が混ざり合っている。
「○……ごめんね。私のわがままに付き合わせてしまって。本来なら、あなたは国に残ったはずなのに」
練師の代わりとして公安へ向かう○の境遇を孫尚香は察しており、自分のことのように心を痛めていた。
「なに言ってるんだか」
○はあえて快活な声を出し、孫尚香を安心させるように笑い飛ばす。
「私は自分が嫌だったら、何をしてでも行かないってば。尚香と離れ離れになるのが嫌だったから、ちょーどいいのよ」
「だけど、陸遜と喧嘩できなくなって、寂しくなるんじゃない?」
孫尚香様が、悪戯っぽく肩を寄せて覗き込んでくる。
その言葉に、○は待ってましたとばかりに首を大きく横に振った。
「とーんでもない! もう、清々しますよっ。これからは早朝会議を急に言い渡されることもないし」
ハハハ! と豪快に笑い飛ばす○。
しかし孫尚香様は納得いかないという風に、少し目を細めた。
「そうかしら? 陸遜、船が出る時あんなに寂しそうにあなたを見ていたのに」
「えー、あいつがー?」
○はそう言って、チラリと周囲に誰もいないことを確認すると、尚香様の耳元にそっと顔を寄せる。
「……ここだけの話よ?しばらく建業に帰らないから言っちゃうけど、陸遜のやつ、実は大喬様がお好きなの」
「ええっ!? 大喬義姉様を!?」
孫尚香様が驚きで声を上げそうになるのを、○は「しーっ!」と慌てて制した。
「そう。私がいると、ついあいつ、私に干渉してきちゃうでしょ? だから大喬様と一緒にいられる時間が減っちゃって可哀想だったのよ。私が公安に行けば、あいつもようやく腰を据えてあの方を追いかけられるだろうし、ちょうどいいの」
「……まあ! 陸遜ったら、そんな熱い想いを秘めていたのね……」
孫尚香はもう興味津々。
「陸遜たら理屈っぽいから、やっぱり恋も理詰めなのかしら」
「大喬義姉様は天然なところがあるから、翻弄される陸遜も見てみたいわね」
と、すっかり恋話に花が咲き始めた。
「よし、公安に着いたら大喬姉様に手紙を書きましょう! 『陸遜が寂しがっていますよ』って!」
「ダメダメ!内緒って言ったじゃない!」
孫尚香の口元に、ようやくいつものような悪戯っぽい微笑みが戻った。
○はそれを見届けると、小さく息をつく。
「それに公安には美味しい山の幸が沢山って噂よ!加えて趙……じゃなくて、尚香の側にいられるんだから、私にとっては万々歳!」
「今、趙雲殿って言いかけなかった?」
「言ってない、言ってない。わはは」
建業の土を踏むのは、しばらく先になるかもしれない。
けれど、愛する主と、そして秘かに想いを寄せる武人がいる新天地は、○にとってそこまで悲観的になる場所ではない。
「よし!公安に着いたら山の幸で鍋をするわよ!」
○は拳を握り、大海原ならぬ大河の先を凛々しく見据えた。
昨日、陸遜に突きつけられた「そのままで趙雲殿に好かれるはずがない」という言葉を振り払うように、○は必死に体を動かす。
溜まっていた資料の整理をあっという間に片付けると、次は城内の備品の整理、さらには重い木箱の運搬まで。
そのあまりの働きぶりに、通りかかった周瑜までもが足を止める。
「ほう、今日は随分と精が出るようだな。ならば○、ついでに蔵にある古い書物もあちらの楼閣まで運んでおいてくれ」
「はい! お任せください、周瑜殿!」
一方陸遜は、そんな○を見て言葉を失う。
明らかに昨日の自分の言葉を気にして、無理をしているからだ。
気まずさに耐えかねた陸遜は、書物を抱えてフラフラしている○に近寄る。
「手伝います。半分、かしてください」
「いいわよ、文官の陸遜にこんな事…」
「いいんです。 ……昨日のは、その、あなたの態度があまりに緩んでいたので、少し厳しく言っただけのつもりだったんです。まさかここまで効くとは思わず」
陸遜は○の手から重い箱を奪うように受け取る。
二人は並んで静かな回廊を楼閣へと歩き出した。
しばらくの沈黙の後、○は少し落ち着いたのか、ふと思い出したことを陸遜に尋ねる。
「ねえ、陸遜。……結局、尚香様の婚儀って、どっちでやるの? 呉なの? それともあっちまで行くの?婚姻はすることはするんでしょ?」
陸遜は一瞬、眉をぴくりと動かし、周囲に誰もいないことを確認してから声を潜める。
「…公式にはまだ調整中ということになっています。ですが、あなたは周瑜殿の意図を分かっているはずでしょう」
「前に言ってた、ここで足止めするってやつ?」
「そうです。……どちらでやるか、などという議論さえ、時間を稼ぐための道具に過ぎません。つまり、何も決まっていないし決めないのです」
陸遜の冷徹な言葉を聞きながら、○は昨日の河原での趙雲の穏やかな笑顔を思い出す。
(なんか…趙雲様をだましてるって感じがなぁ…)
「……でも、いつまでも隠し通せるものじゃないわよね。趙雲様、思ってたより滞在が長引いてるって気にしてたわ」
その言葉に陸遜が驚いた顔をする。
「その様な話を…?」
「え、うん。何かの折にね」
「……。○。気をつけなさい。相手はあなたから崩そうとしている可能性があります」
真剣にそう言った陸遜に、○は「はあ?」と声をあげる。
「どこかに風穴をあけようとするなら…私が趙雲殿でもあなたを狙います。くれぐれも気を付けてください。これは姫様も危険にさらす可能性があるのですから」
陸遜は念を押すように○を覗き込む。
○は「分かってるわよ」と力なく答えたが、心に重い楔が打ち込まれたような気分になるのだった。
「でさぁ、納得いかないのが食堂のおばちゃん」
○と陸遜はその後、何気ない会話をしていた。
「また淩統にだけ団子多めにあげてるの。それも周りから見えない様にこそっと。あざといと思わない?」
「……彼は『熟女殺し』ですからね。おば様方の扱いに関してはとんでもないですよ。城内でおかしな噂を流されたくなければ敵に回してはいけません」
「えー軍師見習いがそんなこと言っていいわけ?呉の兵站が凌統の笑顔ひとつで不平等に扱われてるのよ。自覚が足りないんじゃない?」
「団子一本で兵站の崩壊を危惧するなら、あなたのその食欲をまず律するべきでは?」
「私は身体を使う仕事してるから、一杯食べなきゃ駄目なのよ」
いつもの小気味よい言い合いをしながら、二人は中庭の回廊を抜けていく。
その様子を、少し離れた楼閣の影から、劉備と趙雲が静かに眺めていた。
「あの二人は、いつもあのように賑やかなのだな」
劉備が穏やかに目を細めると、その隣で趙雲も、遠ざかる二人の背中を見つめながら頷く。
「ええ。顔を合わせれば喧嘩ばかりしていると聞いておりましたが……こうして見ると、実に自然に、楽しげに言葉を交わしておりますね」
○は陸遜に食ってかかりながらも、その表情には全幅の信頼が滲んでいる。
「普通に話もするものなのだな、と……妙なことに感心してしまったよ」
劉備が愉快そうに笑うと、趙雲も「そうですね」と相槌を打つ。
趙雲は、今朝から一心不乱に働く○の姿を遠くに認めていた。
昨日の河原での、あの柔らかな空気を纏った彼女とは違う、意固地なほどの働きぶり。
(陸遜殿に何か言われたのか…?)
趙雲は、自分の胸に去来したわずかな懸念を振り払う。
二人の賑やかな笑い声が遠ざかった後の回廊に、呉の湿っぽい風が静かに吹き抜けた。
「……さて、我々も参りましょう。そろそろ孫尚香様が来られます」
「ああ、そうだな。趙雲も、ああして誰かと団子の数を競うような、他愛ない時間を過ごせると良いのだが」
「今はそれどころではありません」
趙雲は少しだけ困ったように微笑み、劉備を居室にいざなった。
*****
連日のように繰り返される軍議と、遅々として進まない婚儀の打ち合わせ。
周瑜は連日、劉備を酒宴や豪華な観劇に誘い出し、その一方で「会場の選定や吉日の占いに難航している」と巧みに時間を稼いでいた。
そんなある日、ついに劉備が沈黙を破る。
いつになく真剣な表情で、劉備は周瑜、そして孫権の前に立った。
「呉の皆様の手厚いもてなしには、心から感謝しております。……しかし、私は荊州に置いてきた民や、義弟たちのことが気がかりでなりません。長居が過ぎれば、人心も離れ、留守を預かる者たちに過度な負担をかけることになります」
劉備の瞳には深い決意が宿っていた。
「急ぎ、公安へ帰らせていただきたい。婚儀は、あちらで執り行っても構わぬと考えております」
その言葉に、周瑜の眉が微かに動く。
しかしすぐに優雅な笑みを浮かべた。
「劉備殿、お急ぎになることはありません。婚儀の細部を詰めぬままお帰りになっては、姫様の面目が……」
「その必要はないわ、周瑜」
割って入ったのは、凛とした、けれど弾むような声。
振り返ればいつに間にか孫尚香が立っており、劉備の隣に歩み寄った。
「権兄様、周瑜。私はすでに玄徳様と夫婦の契りを交わす覚悟を決めました」
孫尚香は一度、劉備を優しく見つめ、それから兄である孫権に向き直る。
「女は、嫁げば夫に従うもの。劉備殿が公安へ帰るとおっしゃるのなら、妻になった私も当然ついて行くわ。呉の礼節も大事だけど、夫の側に添うことこそが務めだと思うの」
その言葉は、まさに「弓腰姫」と謳われた彼女らしい、迷いのない一矢。
周瑜の用意していた誘惑も、足止めのための策も、彼女の潔い覚悟の前では効果を持たなくなる。
離れた場所で控えていた○は、その光景を息を呑んで見守っていた。
あの孫尚香が、愛する人のために全てを捨てて旅立とうとしている。
その強さと美しさに胸が熱くなる一方で、これで孫尚香と会うことが出来なくなる心細さがあった。
後ろに控えていた淩統も、「こうなるとはね」と呟く。
劉備と孫尚香が退室した後、周瑜は策を練り直すように一度目を伏せ、それから控えている者に声をかける。
「○、そして凌統。いるか」
呼ばれて二人が出ていくと、陸遜も側に控える。
「姫様は劉備殿と共に公安へ向かう決意を固められた。数人の侍女を連れて行かれることになるが……○、お前もその一行に加われ」
「えっ……私が、公安に?」
○が驚きに目を丸くすると、周瑜は頷きました。
「君は名だたる武将ではないが、十二分に戦える。姫様の側近であり友人であることもあちら側が理解しているから、○がついて行くのが、最も自然で疑われぬ形だ。…そして凌統。君の一族と○の家は家族ぐるみの付き合いだ。折を見て○の様子を見に行く名目で、公安へ出入りしてほしい」
「なるほど。武官としてではなく、あくまで親戚同然の顔で会いに行け、ということですね」
凌統が納得したように腕を組むと、それまで沈黙を守っていた陸遜が一歩踏み出しました。
「○。これは単なる護衛ではありません。公安という異郷の地で、姫様に万が一の有事があった際、即座に呉と連携を取り、動ける者が必要なのです。責任は重大です」
陸遜の言葉は、いつになく重厚だ。
○は、隣に立つ凌統と視線を交わす。
「……承知いたしました。姫様をお守りし、呉との橋渡しを全ういたします」
○が背筋を伸ばして答えると、周瑜はわずかに口角を上げた。
「よし。出立は近い。準備を整えておいてくれ」
話が終わり、廊下に出ると、凌統がふぅと息を吐く。
「大丈夫かい?向こうでくらいはしっかりやってくれよ?」
「分かってるわよ。尚香の為だもの」
すると後ろからついてきた陸遜が、どこか落ち着かない様子で○を呼び止めた。
「○。……公安へ行っても、あなたはあなたのまま、規律を忘れぬように。……それと、あまりあちらの空気に染まりすぎてはいけませんよ」
「…陸遜?」
「……何でもありません。荷造りを確認してください」
いつもの小言を言い捨てて早足に去っていく陸遜。
その背中を見送りながら、○はこれから始まる波乱の荊州生活に思いを馳せるのだった。
周瑜たちの足止めの策を、孫尚香は「夫となる劉備殿の望むままに」という一言で鮮やかに退けた。
結局、正式な婚儀は公安へ到着してから執り行われることに決まり、○たち一行は慌ただしく旅立ちの準備に追われることになる。
そんな折、城の回廊で荷物を運んでいた○を、陸遜が呼び止めた。
「○。……婚儀の件ですが、呉からは私を含め、複数名が参列のために後日公安に向かう事になりました」
「ええ、聞いてるわよ。助かる~!私、作法とか分からないし今から勉強する暇もないから。来てくれるならまたその時教えてよ」
○が何のこともない様に言うと、陸遜は何か言いよどむように視線を伏せ、それから絞り出すように呟く。
「……あなたには、不安はないのですか?」
「え?」
「あなたはあちらに残り、文字通り呉の『目』となるのですよ。もしかしたら……一生、呉の土を二度と踏むこともないかもしれない。それだけの覚悟が、あなたにあるのですか」
いつになく真剣で、どこか悲痛ささえ混じった陸遜の問いかけ。
○は一瞬きょとんとしたが、すぐにカラッとした笑顔を見せた。
「おーげさ、おーげさ。それにそれは、尚香だって一緒でしょ?決まった事はそれ以上考えないタチだしね、私。上の決定ならどうせ覆らないし」
「…」
「それにさ、私なら正月には休みをもらって帰ってくるわよ~」
「……あなたは、相変わらず楽天家ですね」
「ここでメソメソされても困るでしょ。行かなくてよくなるわけでもなし……あ、そうそう」
○は声を抑えて含み笑いをしながら陸遜を見る。
『私が次に帰ってきた頃には、陸遜は念願の大喬様と夫婦になってたりして?』
「またその様な…。私とあの方はそんな簡単には…」
「まあ…関係性はあまりにも絶妙だけど。でもさ、孫策様は孫策様で、大喬様は大喬様でしょ」
「…ですから。その名を出すなと何度言えば…本当に礼儀知らずの大馬鹿者なのですから」
「もー、最後くらい優しく送り出してよ!」
陸遜は背を向け、逃げるように立ち去る。
その胸のうちは、○が冗談で言った「大喬様との結婚」などではなく、二度と会えないかもしれない距離へ行ってしまう、目の前の「出来損ないの腐れ縁」へ寂しさだった。
○と別れて執務室に戻った陸遜は大きくため息をついた。
あの「楽天的な性格」の裏にある、○の危うさを誰よりも知っているからだ。
本来であれば、孫尚香の最も近くに仕える練師こそが、公安へ同行する第一候補だった。
彼女も腕が立つし、なにより礼儀作法もしっかりできている。
しかし、彼女は孫権様の深い寵愛を一身に受けており、今回の候補から外された。
いわば○は、その身代わりとして選ばれた側面がある。
それを彼女自身は分かっているのだろうか。
(練師殿が行けないから○が。そんな理屈で、これほど危険な所に放り込まれるなど…)
周瑜の冷徹な判断、そして孫権の意向。
それらを覆す力も理由も自分にはない。
あと数年遅く事が起きていれば、○を公安に行かせずに済んだかもしれないのに。
(また…私は孫家にいいようにされるのか…)
ただただ悔しさが、どろりと胸に落ちた。
*****
二日後。
風を孕んだ帆が大きく膨らみ、劉備一行と呉の随行団を乗せた船が、ゆっくりと岸を離れた。
船の甲板。
○は孫尚香と、遠ざかる建業の景色を眺める。
(……陸遜のやつ、最後まで『荷物の隙間がどうの』って言ってたなぁ)
川風にあおられ、船が大きく揺れたその時。
「おっと。危ないよ」
よろめきかけた孫尚香の肩を、しっかりと優しく抱きとめた。
孫尚香は○の腕に身を預けたまま、小さく溜息をつく。
その瞳には、故郷を去る寂しさと覚悟が混ざり合っている。
「○……ごめんね。私のわがままに付き合わせてしまって。本来なら、あなたは国に残ったはずなのに」
練師の代わりとして公安へ向かう○の境遇を孫尚香は察しており、自分のことのように心を痛めていた。
「なに言ってるんだか」
○はあえて快活な声を出し、孫尚香を安心させるように笑い飛ばす。
「私は自分が嫌だったら、何をしてでも行かないってば。尚香と離れ離れになるのが嫌だったから、ちょーどいいのよ」
「だけど、陸遜と喧嘩できなくなって、寂しくなるんじゃない?」
孫尚香様が、悪戯っぽく肩を寄せて覗き込んでくる。
その言葉に、○は待ってましたとばかりに首を大きく横に振った。
「とーんでもない! もう、清々しますよっ。これからは早朝会議を急に言い渡されることもないし」
ハハハ! と豪快に笑い飛ばす○。
しかし孫尚香様は納得いかないという風に、少し目を細めた。
「そうかしら? 陸遜、船が出る時あんなに寂しそうにあなたを見ていたのに」
「えー、あいつがー?」
○はそう言って、チラリと周囲に誰もいないことを確認すると、尚香様の耳元にそっと顔を寄せる。
「……ここだけの話よ?しばらく建業に帰らないから言っちゃうけど、陸遜のやつ、実は大喬様がお好きなの」
「ええっ!? 大喬義姉様を!?」
孫尚香様が驚きで声を上げそうになるのを、○は「しーっ!」と慌てて制した。
「そう。私がいると、ついあいつ、私に干渉してきちゃうでしょ? だから大喬様と一緒にいられる時間が減っちゃって可哀想だったのよ。私が公安に行けば、あいつもようやく腰を据えてあの方を追いかけられるだろうし、ちょうどいいの」
「……まあ! 陸遜ったら、そんな熱い想いを秘めていたのね……」
孫尚香はもう興味津々。
「陸遜たら理屈っぽいから、やっぱり恋も理詰めなのかしら」
「大喬義姉様は天然なところがあるから、翻弄される陸遜も見てみたいわね」
と、すっかり恋話に花が咲き始めた。
「よし、公安に着いたら大喬姉様に手紙を書きましょう! 『陸遜が寂しがっていますよ』って!」
「ダメダメ!内緒って言ったじゃない!」
孫尚香の口元に、ようやくいつものような悪戯っぽい微笑みが戻った。
○はそれを見届けると、小さく息をつく。
「それに公安には美味しい山の幸が沢山って噂よ!加えて趙……じゃなくて、尚香の側にいられるんだから、私にとっては万々歳!」
「今、趙雲殿って言いかけなかった?」
「言ってない、言ってない。わはは」
建業の土を踏むのは、しばらく先になるかもしれない。
けれど、愛する主と、そして秘かに想いを寄せる武人がいる新天地は、○にとってそこまで悲観的になる場所ではない。
「よし!公安に着いたら山の幸で鍋をするわよ!」
○は拳を握り、大海原ならぬ大河の先を凛々しく見据えた。