私は規格外【陸遜】
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趙雲は喧騒を離れた町外れの河原へと足を進めていた。
主君・劉備が呉に滞在している間、彼の役目は警護だけではない。
有事の際、どの道を通れば主君を安全に逃がせるか…
地形や人通り、袋小路の有無を頭に叩き込むのも仕事のひとつだ。
町はずれの、乾いた石が転がる河原。
ふと視線を落とすと、そこに見慣れた影があった。
○が河原にしゃがみ込み、何やら熱心に地面を弄っている。
「サボりですか?」
背後からかけられた穏やかな声に、○が驚いて振り向く。
「わっ!?……もー、やだなぁ趙雲様まで。陸遜みたいなこと言わないでくださいよ。今日は非番です」
振り返った○は、苦笑いしながら立ち上がる。
その手には小さな麻袋が握られており、中には何かが詰まっていて重そうだ。
「いえ…城で陸遜殿が目を光らせてあなたを探していましたから、つい。……それで、今日は何をしておられるのですか? メンコの次は、石集めですか」
そう聞いた趙雲に、○は袋の中を見せる。
そこには平べったくて滑らかな、手のひらサイズの小石がいくつも収められていた。
「実はメンコ仲間のあの子たちに捕まっちゃって。『前やれなかった水切りのコツを教えろ』ってうるさいんですよ。だから約束の時間まで、跳ねやすい形の石を探していたんです」
○は照れくさそうに笑いながら、拾ったばかりの石の表面を親指で撫でる。
「子供たちに教えるために、わざわざ選別を?」
「やる事も行く所もなくて、どうせ暇でしたしね。あ、趙雲様。これ、内緒ですよ。また陸遜にバレたら、『石を拾う暇があるなら書物を読め』って説教されますから」
そう言いながら石の入った袋の口を結ぶ。
「承知いたしました。……これは、陸遜殿には黙っておきましょう」
趙雲はそう言うと、自分も少し腰を落とし、足元に転がっている石の一つを拾い上げた。
「水切り、でしたね。……このような形が良いのでしょうか?」
「ん?あ、そうですね。流石です、趙雲様。見る目があります」
「……そうですか。では、少しばかりお手伝いしましょう」
図らずも始まった趙雲との石拾いに、○は嬉しさと同時に心臓の音がうるさかった。
河原の少し開けた場所で待っていた子供たちが、趙雲を見て首を傾げた。
自己紹介をした趙雲に、子供たちは興味津々。
子供の扱いが上手な趙雲は、すぐに囲まれてなんだかんだと話しかけられていた。
○は子供たちに投げ方のコツを教えて、拾ってきた石を持たせる。
「で、今回は何を賭けます?○様」と○に聞く子供たちに、「え…」と趙雲が首を傾げた。
「○様はなんでも賭け事にするか「楽しく遊びましょうね!!」
きっと趙雲はこういうのは嫌いだ!と察した○は、言葉を遮った。
「賭けはともかく、何事も競い合うのはいい事です」
趙雲は腕をまくり、穏やかに微笑む。
「私も、幼い頃はよく川で遊んだものです。水切りには少々、自信がありますよ」
そう言って趙雲が軽く手首を利かせ、石を放った。
ピョン、ピョン、ピョン……と、石は規則正しく七回、八回と水面を叩き、対岸の手前で静かに沈む。
「すげーっ! 趙雲様、めちゃくちゃ上手い!」
子供たちが大喜びで拍手する中、○はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「趙雲様。やり直しはしなくて良いですか? 私、勝っちゃいますよ?」
「ほう、それは頼もしい。ぜひ、お手本を拝見したいものです」
趙雲が促すと、○は一番薄く、平らな石を指に挟む。
水面に水平になるくらい腰を落とすと、長い四肢を、まるで引き絞られた弓のようにしなやかにしならせた。
放たれた石は、まるで水の上を滑空するように高速で疾走する。
石は対岸の泥に突き刺さるまで、一度も勢いを失うことなく跳ね続け、二十回を超えたあたりで子供たちが歓声をあげた。
得意げに微笑む○に、趙雲は心底感心したように、ゆっくりと拍手を送る。
「素晴らしい…。ただの力任せではない、身体全体のしなりを活かした見事な一撃でした。……何より、投じる瞬間のあなたの姿は、とても美しかったです」
「……えっ」
あまりにも真っ直ぐな、そして「美しい」という予期せぬ言葉に、○の顔は一瞬で耳まで真っ赤になる。
「いっ、嫌ですよ~こんな水切りごときでそんなそんな!からかわないでください」
「からかってなどいませんよ。実に見事な身のこなしでした」
趙雲の濁りのない瞳に見つめられ、○は視線を泳がせてオドオドとするばかりだった。
子供たちが競うように石を投げ始め、パシャパシャと賑やかな音が河原に響く。
○は趙雲と少し離れた大きな岩に腰を下ろすが、いざ二人で話すという状況になると、途端に何を話していいか分からなくなる。
○が膝を抱えて黙り込んでいると、趙雲が川面を見つめたまま、独り言のように呟いた。
「……こんなに清々しい心持ちで過ごせたのは、久しぶりです」
「え?」
趙雲の伏せられた睫毛が夕陽に透け、その横顔の美しさに○は息を呑んだ。
「もうかれこれ、ひと月以上になりますか。……正直に言えば、ひと月もせぬ内に戻ることになると思っておりました。意外に長引くものですね、婚儀というものは」
趙雲の言葉に、○の胸がちくりと痛む。
周瑜から、「劉備を呉に繋ぎ止め、あわよくば骨抜きにするために、できる限り長く滞在させる」という内密な策略を聞かされていたからだ。
本来なら趙雲の言うように、ひと月もせず国に帰れたかもしれない。
「……そうですね。こちらでもいつ婚儀を執り行うのか、まだはっきりと知らされていませんし。……確かに、少し長い滞在になっていますね」
○は濁すようにそう答えた。
嘘をついているような罪悪感から逃げるように、彼女はふと思いついた「一番気になっていたこと」を、冗談めかして口にする。
「これだけ長いと、寂しがっている方がいるんじゃないですか? ……例えば、その、国でお帰りをお待ちの奥方様とか……」
さりげなさを装って横目で探る○。
心臓が口から飛び出しそうなほどドキドキしている。
趙雲は一瞬、意外そうに目を見開いたものの、すぐにくすりと声を立てて笑う。
「奥方、ですか。……残念ながら、私の帰りを待っているのは、主君への忠義と、戦場を共にする馬くらいのものですよ。身を固める暇も、そのような相手もおりません」
「えっ、本当ですか!?」
「ええ。……どうしました、そんなに身を乗り出して」
思わず岩から落ちんばかりに食いついてしまった○を見て、趙雲は不思議そうに小首を傾げる。
「あ、いや! その~! 趙雲様ほどの方なら、国中の女性が放っておかないだろうなと思いまして! ほら、呉の女官たちだって、みんな趙雲様の噂でもちきりですし…!だから、そういうお相手がいないのが意外で驚いたというか…」
勢いよくまくし立てた後、○は「しまった」と言わんばかりに自分の口を押さえる。
あまりの食いつきぶりに、下心が丸見えだったのではないかと冷や汗が流れた。
対する趙雲は、困ったような、それでいてどこか照れくさそうな表情を浮かべる。
「……女官たちの間で噂に? それは困りましたね。私はただの武骨な将兵に過ぎないのですが」
そう言って、趙雲は手近な石を一つ手に取り、掌で転がす。
「誰かを待たせているということはありません。……ですが、そうですね。こうして穏やかな夕暮れを共に過ごし、他愛もない話ができる。そういう時間を分かち合える相手がいたなら……それは確かに、幸せなことかもしれません」
趙雲の視線が、ふいに○の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
夕陽を反射した彼の瞳は、琥珀色に優しく澄んでいて、そこには先ほど彼女を「美しい」と評した時と同じ温かさが宿っている。
「あ……ええ。そう…そうですね。ほんとにそう」
胸が締め付けられるように高鳴って、とにかく頭に浮かんだ意味を持たない相槌が口をつく。
(……それって、私じゃ駄目かな)
喉元まで出かかったその言葉を、○は必死に飲み込む。
自分は彼らを呉に繋ぎ止めるための計略を知っている側。
そして彼は、いつか必ず国へ帰る人。
「趙雲様なら、きっと見つかりますよ。いつか、趙雲様が戦いから帰るのを、心から喜んで迎えてくれるような……素敵な人が」
○が精一杯の笑顔でそう言うと、趙雲は少しだけ意外そうに眉を上げ、それから深々と頷く。
「だと良いのですが。……さて、そろそろ日が落ちます。あの子たちを帰して、我々も城へ戻りましょうか。あまり遅くなると、また陸遜殿が心配……いえ、お怒りになるかもしれませんから」
二人は立ち上がり、泥だらけになって遊んでいた子供たちに声をかける。
並んで歩く道すがら、二人の影は長く伸びて重なり合う。
○は趙雲の少し後ろを歩きながら、自分の影が趙雲の影に少しだけ寄り添っているのを見てニヤニヤが止まらなかった。
城門に辿り着く頃には、空は深い群青色に染まっていた。
○は趙雲と別れた後も、まだ夢見心地で廊下を歩いてる。
(「誰かと過ごす幸せ」かぁ。いいなぁ、趙雲様にそんなこと言われちゃったら、もう……)
顔が緩むのを抑えきれず、○はふふっと鼻歌を漏らす。
「……○。ようやく戻りましたか」
背後から響いたのは、楽しかった余韻を切り裂くような尖った声。
待ち構えていた陸遜が、腕を組み、○の足元から頭のてっぺんまでを検分するように見つめた。
「また髪にゴミがついていますね。一体どこで何をしていたんですか。あなたの当番だった資料整理が、机の上で山をなしていましたよ」
「え。今日は非番だったんだけど」
「昨日、『明日非番返上でやるから』と言って途中で帰ったでしょう」
「あ、あれ…そうだったっけ?まあ、明日やるわよ、明日。ねえそれより陸遜、今日の夕焼け見た? すっごく綺麗だったのよー」
話を逸らす○に、陸遜の眉間の皺がみるみる深くなる。
「……何が夕焼けですか。浮ついているにも程がある。あなたは自分が呉の将として、劉備軍の賓客をお迎えしている立場だという自覚があるのですか? そんな締まりのない顔で城内を歩き回って——」
「明日早いからもう寝るわね。おやすみ、陸遜!」
○は陸遜の肩をポンと叩くと、軽やかな足取りで横を通り過ぎようとする。
そのあまりにも浮ついた様子の背中に、陸遜が強く声をかけた。
「待ちなさい!」
鋭い声が廊下に響き、○は足を止めまた。
「……あなたは勘違いをしているようですが。趙雲殿のような清廉潔白で、規律を重んじる御方が……あなたのように、やるべきことも放り出して遊び歩く、不真面目なサボり魔に好感を抱くとでも思っているのですか?」
その言葉は、○の脳内に広がっていたお花畑を一瞬で凍りつかせた。
○はハッとして、弾かれたように陸遜を振り返る。
「…………え」
「趙雲殿があなたに優しく接してくださるのは、単に彼が人格者であり、呉との同盟を重んじているからに過ぎません。その厚意に甘えて自分を律することもできない者を、彼が好ましく思うとでも?」
陸遜の正論は○の胸に正論が深く鋭く突き刺さる。
先ほどまでの高揚感が、まるで泥水をかけられたように引いていきました。
(確かにそれはそう…。私、趙雲様が優しいからって、調子に乗って……)
自分はサボり魔で、ガサツで、陸遜にいつも怒られてばかりの出来損ない。
そんな自分があんな人に選ばれるわけがない。
○は顔を青ざめさせ、唇を噛み締めた。
そんな彼女の反応を見て、陸遜は「言い過ぎた」と一瞬後悔の念を抱くも、彼女の素行の悪さを治したい気持ちも強い。
「……くっ……明日、早起きして全部終わらせる…じゃあね」
力なくそう言って去っていく○の背中を見送りながら、陸遜はため息をついた。
主君・劉備が呉に滞在している間、彼の役目は警護だけではない。
有事の際、どの道を通れば主君を安全に逃がせるか…
地形や人通り、袋小路の有無を頭に叩き込むのも仕事のひとつだ。
町はずれの、乾いた石が転がる河原。
ふと視線を落とすと、そこに見慣れた影があった。
○が河原にしゃがみ込み、何やら熱心に地面を弄っている。
「サボりですか?」
背後からかけられた穏やかな声に、○が驚いて振り向く。
「わっ!?……もー、やだなぁ趙雲様まで。陸遜みたいなこと言わないでくださいよ。今日は非番です」
振り返った○は、苦笑いしながら立ち上がる。
その手には小さな麻袋が握られており、中には何かが詰まっていて重そうだ。
「いえ…城で陸遜殿が目を光らせてあなたを探していましたから、つい。……それで、今日は何をしておられるのですか? メンコの次は、石集めですか」
そう聞いた趙雲に、○は袋の中を見せる。
そこには平べったくて滑らかな、手のひらサイズの小石がいくつも収められていた。
「実はメンコ仲間のあの子たちに捕まっちゃって。『前やれなかった水切りのコツを教えろ』ってうるさいんですよ。だから約束の時間まで、跳ねやすい形の石を探していたんです」
○は照れくさそうに笑いながら、拾ったばかりの石の表面を親指で撫でる。
「子供たちに教えるために、わざわざ選別を?」
「やる事も行く所もなくて、どうせ暇でしたしね。あ、趙雲様。これ、内緒ですよ。また陸遜にバレたら、『石を拾う暇があるなら書物を読め』って説教されますから」
そう言いながら石の入った袋の口を結ぶ。
「承知いたしました。……これは、陸遜殿には黙っておきましょう」
趙雲はそう言うと、自分も少し腰を落とし、足元に転がっている石の一つを拾い上げた。
「水切り、でしたね。……このような形が良いのでしょうか?」
「ん?あ、そうですね。流石です、趙雲様。見る目があります」
「……そうですか。では、少しばかりお手伝いしましょう」
図らずも始まった趙雲との石拾いに、○は嬉しさと同時に心臓の音がうるさかった。
河原の少し開けた場所で待っていた子供たちが、趙雲を見て首を傾げた。
自己紹介をした趙雲に、子供たちは興味津々。
子供の扱いが上手な趙雲は、すぐに囲まれてなんだかんだと話しかけられていた。
○は子供たちに投げ方のコツを教えて、拾ってきた石を持たせる。
「で、今回は何を賭けます?○様」と○に聞く子供たちに、「え…」と趙雲が首を傾げた。
「○様はなんでも賭け事にするか「楽しく遊びましょうね!!」
きっと趙雲はこういうのは嫌いだ!と察した○は、言葉を遮った。
「賭けはともかく、何事も競い合うのはいい事です」
趙雲は腕をまくり、穏やかに微笑む。
「私も、幼い頃はよく川で遊んだものです。水切りには少々、自信がありますよ」
そう言って趙雲が軽く手首を利かせ、石を放った。
ピョン、ピョン、ピョン……と、石は規則正しく七回、八回と水面を叩き、対岸の手前で静かに沈む。
「すげーっ! 趙雲様、めちゃくちゃ上手い!」
子供たちが大喜びで拍手する中、○はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「趙雲様。やり直しはしなくて良いですか? 私、勝っちゃいますよ?」
「ほう、それは頼もしい。ぜひ、お手本を拝見したいものです」
趙雲が促すと、○は一番薄く、平らな石を指に挟む。
水面に水平になるくらい腰を落とすと、長い四肢を、まるで引き絞られた弓のようにしなやかにしならせた。
放たれた石は、まるで水の上を滑空するように高速で疾走する。
石は対岸の泥に突き刺さるまで、一度も勢いを失うことなく跳ね続け、二十回を超えたあたりで子供たちが歓声をあげた。
得意げに微笑む○に、趙雲は心底感心したように、ゆっくりと拍手を送る。
「素晴らしい…。ただの力任せではない、身体全体のしなりを活かした見事な一撃でした。……何より、投じる瞬間のあなたの姿は、とても美しかったです」
「……えっ」
あまりにも真っ直ぐな、そして「美しい」という予期せぬ言葉に、○の顔は一瞬で耳まで真っ赤になる。
「いっ、嫌ですよ~こんな水切りごときでそんなそんな!からかわないでください」
「からかってなどいませんよ。実に見事な身のこなしでした」
趙雲の濁りのない瞳に見つめられ、○は視線を泳がせてオドオドとするばかりだった。
子供たちが競うように石を投げ始め、パシャパシャと賑やかな音が河原に響く。
○は趙雲と少し離れた大きな岩に腰を下ろすが、いざ二人で話すという状況になると、途端に何を話していいか分からなくなる。
○が膝を抱えて黙り込んでいると、趙雲が川面を見つめたまま、独り言のように呟いた。
「……こんなに清々しい心持ちで過ごせたのは、久しぶりです」
「え?」
趙雲の伏せられた睫毛が夕陽に透け、その横顔の美しさに○は息を呑んだ。
「もうかれこれ、ひと月以上になりますか。……正直に言えば、ひと月もせぬ内に戻ることになると思っておりました。意外に長引くものですね、婚儀というものは」
趙雲の言葉に、○の胸がちくりと痛む。
周瑜から、「劉備を呉に繋ぎ止め、あわよくば骨抜きにするために、できる限り長く滞在させる」という内密な策略を聞かされていたからだ。
本来なら趙雲の言うように、ひと月もせず国に帰れたかもしれない。
「……そうですね。こちらでもいつ婚儀を執り行うのか、まだはっきりと知らされていませんし。……確かに、少し長い滞在になっていますね」
○は濁すようにそう答えた。
嘘をついているような罪悪感から逃げるように、彼女はふと思いついた「一番気になっていたこと」を、冗談めかして口にする。
「これだけ長いと、寂しがっている方がいるんじゃないですか? ……例えば、その、国でお帰りをお待ちの奥方様とか……」
さりげなさを装って横目で探る○。
心臓が口から飛び出しそうなほどドキドキしている。
趙雲は一瞬、意外そうに目を見開いたものの、すぐにくすりと声を立てて笑う。
「奥方、ですか。……残念ながら、私の帰りを待っているのは、主君への忠義と、戦場を共にする馬くらいのものですよ。身を固める暇も、そのような相手もおりません」
「えっ、本当ですか!?」
「ええ。……どうしました、そんなに身を乗り出して」
思わず岩から落ちんばかりに食いついてしまった○を見て、趙雲は不思議そうに小首を傾げる。
「あ、いや! その~! 趙雲様ほどの方なら、国中の女性が放っておかないだろうなと思いまして! ほら、呉の女官たちだって、みんな趙雲様の噂でもちきりですし…!だから、そういうお相手がいないのが意外で驚いたというか…」
勢いよくまくし立てた後、○は「しまった」と言わんばかりに自分の口を押さえる。
あまりの食いつきぶりに、下心が丸見えだったのではないかと冷や汗が流れた。
対する趙雲は、困ったような、それでいてどこか照れくさそうな表情を浮かべる。
「……女官たちの間で噂に? それは困りましたね。私はただの武骨な将兵に過ぎないのですが」
そう言って、趙雲は手近な石を一つ手に取り、掌で転がす。
「誰かを待たせているということはありません。……ですが、そうですね。こうして穏やかな夕暮れを共に過ごし、他愛もない話ができる。そういう時間を分かち合える相手がいたなら……それは確かに、幸せなことかもしれません」
趙雲の視線が、ふいに○の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
夕陽を反射した彼の瞳は、琥珀色に優しく澄んでいて、そこには先ほど彼女を「美しい」と評した時と同じ温かさが宿っている。
「あ……ええ。そう…そうですね。ほんとにそう」
胸が締め付けられるように高鳴って、とにかく頭に浮かんだ意味を持たない相槌が口をつく。
(……それって、私じゃ駄目かな)
喉元まで出かかったその言葉を、○は必死に飲み込む。
自分は彼らを呉に繋ぎ止めるための計略を知っている側。
そして彼は、いつか必ず国へ帰る人。
「趙雲様なら、きっと見つかりますよ。いつか、趙雲様が戦いから帰るのを、心から喜んで迎えてくれるような……素敵な人が」
○が精一杯の笑顔でそう言うと、趙雲は少しだけ意外そうに眉を上げ、それから深々と頷く。
「だと良いのですが。……さて、そろそろ日が落ちます。あの子たちを帰して、我々も城へ戻りましょうか。あまり遅くなると、また陸遜殿が心配……いえ、お怒りになるかもしれませんから」
二人は立ち上がり、泥だらけになって遊んでいた子供たちに声をかける。
並んで歩く道すがら、二人の影は長く伸びて重なり合う。
○は趙雲の少し後ろを歩きながら、自分の影が趙雲の影に少しだけ寄り添っているのを見てニヤニヤが止まらなかった。
城門に辿り着く頃には、空は深い群青色に染まっていた。
○は趙雲と別れた後も、まだ夢見心地で廊下を歩いてる。
(「誰かと過ごす幸せ」かぁ。いいなぁ、趙雲様にそんなこと言われちゃったら、もう……)
顔が緩むのを抑えきれず、○はふふっと鼻歌を漏らす。
「……○。ようやく戻りましたか」
背後から響いたのは、楽しかった余韻を切り裂くような尖った声。
待ち構えていた陸遜が、腕を組み、○の足元から頭のてっぺんまでを検分するように見つめた。
「また髪にゴミがついていますね。一体どこで何をしていたんですか。あなたの当番だった資料整理が、机の上で山をなしていましたよ」
「え。今日は非番だったんだけど」
「昨日、『明日非番返上でやるから』と言って途中で帰ったでしょう」
「あ、あれ…そうだったっけ?まあ、明日やるわよ、明日。ねえそれより陸遜、今日の夕焼け見た? すっごく綺麗だったのよー」
話を逸らす○に、陸遜の眉間の皺がみるみる深くなる。
「……何が夕焼けですか。浮ついているにも程がある。あなたは自分が呉の将として、劉備軍の賓客をお迎えしている立場だという自覚があるのですか? そんな締まりのない顔で城内を歩き回って——」
「明日早いからもう寝るわね。おやすみ、陸遜!」
○は陸遜の肩をポンと叩くと、軽やかな足取りで横を通り過ぎようとする。
そのあまりにも浮ついた様子の背中に、陸遜が強く声をかけた。
「待ちなさい!」
鋭い声が廊下に響き、○は足を止めまた。
「……あなたは勘違いをしているようですが。趙雲殿のような清廉潔白で、規律を重んじる御方が……あなたのように、やるべきことも放り出して遊び歩く、不真面目なサボり魔に好感を抱くとでも思っているのですか?」
その言葉は、○の脳内に広がっていたお花畑を一瞬で凍りつかせた。
○はハッとして、弾かれたように陸遜を振り返る。
「…………え」
「趙雲殿があなたに優しく接してくださるのは、単に彼が人格者であり、呉との同盟を重んじているからに過ぎません。その厚意に甘えて自分を律することもできない者を、彼が好ましく思うとでも?」
陸遜の正論は○の胸に正論が深く鋭く突き刺さる。
先ほどまでの高揚感が、まるで泥水をかけられたように引いていきました。
(確かにそれはそう…。私、趙雲様が優しいからって、調子に乗って……)
自分はサボり魔で、ガサツで、陸遜にいつも怒られてばかりの出来損ない。
そんな自分があんな人に選ばれるわけがない。
○は顔を青ざめさせ、唇を噛み締めた。
そんな彼女の反応を見て、陸遜は「言い過ぎた」と一瞬後悔の念を抱くも、彼女の素行の悪さを治したい気持ちも強い。
「……くっ……明日、早起きして全部終わらせる…じゃあね」
力なくそう言って去っていく○の背中を見送りながら、陸遜はため息をついた。