私は規格外【陸遜】
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趙雲は朝の廊下を歩いていた。
ここは建業の城。
劉備の護衛としてここに来た趙雲の朝は早い。
劉備の泊まる離れの周囲を警備して、万が一の逃走経路の確認。
朝餉時にはその毒見と、やる事が多い。
呉の女官たち数人に話しかけられて挨拶をかわしていると、廊下の向こうからドタドタと足音が反響してきた。
「…何の音です?」
「ああ。○殿でしょうね。もうすぐここを通り抜けられますよ。避けておかれた方がよろしいかと」
趙雲が廊下の曲がり角に入って待っていると、女官の言う通り、その足音は近づいてくる。
靴を引っかけて髪も寝癖が残り、服の釦を止めながら○が疾走していく。
そのまま中庭に向かい、池をひとっ飛びして隣の建物に入っていった。
「…あの方は、いつもああなのですか?」
「いつもではありませんが…陸遜様に早朝呼び出しを受けた日はあの様子です」
女官は困った様に笑う。
「趙雲様、○殿にご興味が…?」
「ああ、いえ。賑やかな方だな、と」
趙雲がそう答えると、女官は少し頬を染めて笑った。
活気ある呉の城下町。
劉備と孫尚香の婚姻という報せに沸く通りを、一行は穏やかな足取りで進んでいた。
先頭を行く孫尚香には練師と陸遜が供として付き、少し後ろを歩く劉備には静かな威圧感を纏った趙雲が寄り添っている。
その時、民家の土塀の向こうから、割れんばかりの子供たちの歓声が響いてきた。
「すげーっ! ○様、またひっくり返した!」
「 よし、これで総取りー!」
聞き覚えのある笑い声。
一行が足を止め、ひょいと塀越しに中を覗き込めば、そこには袖を捲り上げて十二・三頃の子供たちと遊ぶ○の姿があった。
地面に並んだメンコを見事な手捌きでひっくり返した彼女は、戦利品をかき集めて満面の笑みを浮かべている。
「……何をしているんですか、あなたは」
呆れたような、それでいてどこか鋭い声が○の背中に突き刺さる。
振り返った○は、そこに立つ陸遜の姿を見るなり、ビクッと肩を揺らした。
「り、陸遜!? それに、尚香に練師殿まで……」
慌てて膝の土を払おうとした○の視界に、さらに後ろから現れた人影。
穏やかな微笑みを湛えた劉備と、その隣で凛として立つ、意中の人、趙雲。
「あ、趙雲様、まで……」
一気に血の気が引くのを感じ、○は冷や汗を流す。
よりによって、一番見られたくない姿を、一番格好いいと思っている人に見られてしまった。
そんな○の動揺を露知らず、陸遜は一歩踏み出して彼女を問い詰める。
「いい大人が子供相手に本気になって。そのメンコ、まさか本当に奪うつもりではありませんよね? ちゃんと返すんでしょうね、○」
「も、もちろん! 当たり前じゃない、ただの遊びよ!」
○が必死に弁明すると、足元にいた子供たちが不思議そうに陸遜を見上げ、口々に加勢した。
「えー!○様いつも、『平等にやらないと楽しくない』って言って、勝ったら持って帰るだろー」
「凌統様もたまに遊んでくれるけど、二人とも勝つまでなかなか返してくれないんですよ」
子供たちの無邪気な証言に○は固まる。
陸遜はふん、と鼻を鳴らした。
すると孫尚香が一歩前に出た。
「ねえ、私もやっていい?」
陸遜は慌てて孫尚香を止めた。
一国の姫が、それもこれから夫になろうという劉備の前で土にまみれる訳にはいかない。
「だって、この子たちのメンコを取り戻してあげたいじゃない!このガキ大将から」
(ガキ大将…)
孫尚香は明らかに面白がっている。
陸遜にやらせたいがための策略を感じた。
○が苦笑いする中、陸遜がため息をついてメンコを一つ取り上げる。
「…分かりました。では、私が代わりにやります」
腕組みをしていた陸遜が上着の袖をまくり上げる。
その目は冗談を言っているようには見えない。
「えっ、ちょっと陸遜!? 本気なの?」
「当然です。姫様にこんな事をさせる訳にはいきません。やらなくては諦めてくれそうにありませんし」
「いや、それもそうなんだけど…」
○は口元が綻ぶのを我慢する様な憎たらしい顔をする。
「陸遜にできるのかなと思って」
「…できますよ。これでひっくり返すだけですよね」
「威厳を保つためにもやめときなって。私にだけは負けたくないでしょ」
「……いいでしょう。そこまで自信があるのなら、賭けをしませんか?」
不敵に口角を上げた陸遜がメンコを見た。
「もしあなたが負けたら、今後一週間、夜間の巡回はすべてあなたが引き受けていただきます。……異論はありませんね?」
「一週間か…うーん!ま、いいわよ」
○は陸遜を悠然と見下ろす。
「じゃあそうね…もし私が勝ったら、女官たちの間で噂のあのお茶屋で一番高いものを奢ってもらうわ」
その噂の店は一番安いものでも兵士の数日分の食費が飛ぶような店だ。
一瞬たじろぐ陸遜だったが、○の挑戦的な視線に当てられ言い返す。
「承知しました。負ければあなたは、数日間ほとんど寝ずに過ごすのですよ」
「そっちが負けたら今月は節約して過ごすのよ」
「○様、やっちまえー!」
「○様、めちゃくちゃ強いですよ! 凌統様だってたまに負けるんだから!」
子供たちが囃し立てる。
陸遜が放った一枚は、鋭い風を切って○の足元へ。
パァン! と乾いた良い音が響き、○のメンコがわずかに浮き上がった。
「おかしい…力の加わり方であの角度ならひっくり返るはずなのに…」
「甘いわね陸遜。理論だけじゃ勝てないのがこれの面白みなのよ。いい?」
○は落ちているメンコの隙間を指さす。
「この隙間に風を入れるのよ。こんなペラッペラのメンコを陸遜みたいに直接ぶつけて反動でひっくり返すなんて、相当な力がいるわ。だから狙うのは…隙間の隣…!」
しなやかな動作で振り下ろされた○の右腕。
これまでで一番高く、澄んだ音が路地に響き渡る。
そして陸遜のメンコがひっくり返る。
絶句する陸遜を尻目に、○は両手を突き上げた。
「陸遜の負け~!弱い弱い!これは弱すぎる!カッコ悪い!」
「く…っ」
子供達が○に纏わりつき、○は因縁の陸遜に勝って大喜びした…が。
ふと、穏やかに拍手を送る趙雲の姿が飛び込んできた。
(……やってしまった)
勝利の余韻が一瞬で引き、○の顔面はみるみるうちに蒼白した。
今、自分は、憧れの趙雲様の前でサボって遊んで陸遜を煽っている。
慌てて背筋を伸ばして劉備に向き直った。
「あ、あの、これは…その、子供たちの教育の一環と言いますか、勝負の厳しさを教えるという高尚な目的がありまして……っ。この子たちも将来兵士に志願したいと申しておりますので今から訓練を…」
その横で、陸遜が大きくため息をつきながら一瞥する。
「……教育? どの口が言うのですか」
陸遜は服についた砂を払いながら立ちあがった。
(この男女(おとこおんな)は…もう少し淑女らしい態度は取れないものか)
そう思いながらジトッと睨む。
「いやいや、遊びとはいえ、実に見事な身体捌きだった。なあ、趙雲」
劉備は微笑みそう言った。
「はい、お見事でした。その身のこなし…武芸の心得がある者特有の、鋭くも美しい一撃でした」
趙雲の、どこまでも誠実で、少しの揶揄いも含まない真っ直ぐな称賛に、○は石のように固まった。
しかし陸遜が刺々しい声で言う。
「……ところで○。あなたは本来この時間、東門付近の巡回当番だったのではないですか?」
負けた悔しさを紛らわせるように、陸遜は冷徹な顔で問い詰める。
その鋭い指摘に、○の背筋が再び凍りつく。
「……あ。そ、そうでしたねー。あはは、すっかり失念しておりました! では、これにて失礼いたします!」
一刻も早くこの場から消え去りたい○は、脱兎のごとく駆け出そうとする。
しかしそれを許さない小さな手が、彼女の着物の裾をぎゅっと掴んだ。
「えーっ! 待ってよ○様! これ終わったら、川で『水切り』のコツを教えてくれるって約束しただろー!」
無邪気な子供たちの追い打ちに振り向くと、陸遜がこれ以上ないほど冷ややかな視線で○を睨みつけている。
「子供の遊びの『特訓』には余念がないようですね。職務を放り出して水遊びですか?あなたは呉の将兵としての自覚が足りなさすぎます」
「ち、違うってば!それは休憩時間の話で……!」
「見張り当番は賭けのツケをなしにするって事で代わってもらったって「こら!誤解を招くこと言うんじゃありません!いやですねえ、この子達ったら。人の話、何にも聞いてないんだから」
○は子供たちの頭をぽんぽんと適当に撫で回し、強引に手を振り切ると走って行ってしまった。
残されたのは、騒ぐ子供たちと、呆気にとられる一行。
劉備と孫尚香は微笑んでいて、陸遜は落胆。
趙雲は何とも言えない無表情で立っていた。
「全く…呉の将兵としての自覚が足りないんじゃないか?」
「陸遜にまったく同じこと言われた」
呆れ顔で隣を歩くのは軽装に身を包んだ凌統。
彼は肩をすくめ、○の愚痴を右から左へ受け流す。
「もー、最悪よ! 陸遜のやつ、周瑜殿にまでチクってて……さっき『規律を乱すな』ってお叱りを受けたところなのよ。一週間の夜間巡回、賭けに関係なくやらされそう」
「自業自得だっての。お前がガキ相手にまで賭博まがいな事してるからだろ。俺もたまに混ざるが、そこまで派手にはやらねえよ」
「凌統だって結構本気じゃない!あーあ、しかも趙雲様にまであんなところ見られちゃってさぁ。やってらんねぇわ」
○が深いため息をつき、項垂れながら城の回廊を曲がった、その時。
「○殿」
涼やかな、けれど芯の通った声が響く。
顔を上げると、そこには夕映えの光を背負って立つ趙雲の姿があった。
「あ……っ、趙雲様!」
○は反射的に直立不動になる。
隣にいた凌統も、劉備軍の名将を前に軽く会釈をして足を止めた。
「先ほどは失礼いたしました。お見苦しいところを…」
消え入りそうな声で謝る○に、趙雲はふっと目元を和らげる。
彼は懐から、丁寧に布で包まれた「何か」を取り出した。
「……こちらを。あなたが路地に落としていかれたようです。大事な勝負道具なのでしょう?」
差し出されたのは、先ほど陸遜を打ち負かしたメンコだった。
「え!わざわざ届けてくださるなんて……!申し訳ありません、お忙しいのに、本当にすみませんッ!すみませんッ!」
○は何度も、腰が折れんばかりに頭を下げる。
憧れの人が自分の泥だらけの遊び道具を拾い、あまつさえ彼の私物の布に包んで届けてくれた。
その事実だけで、心臓が爆発しそうなほど高鳴る。
「お気になさらず。……次は、得意の『水切り』とやらも、拝見できればと思っております」
趙雲はそう言い残すと、爽やかな風のような足取りで去っていった。
「…………はあ…生きててよかった」
真っ赤な顔で放心する○。
そんな彼女を隣で見ていた凌統が冷ややかな目で見つめている。
「おい、顔が緩みすぎだっての。同盟相手の腹心だぞ。足元見られたらどうすんだって」
「誰にも理解してもらえなくてもいいの。私、あの眼差しでご飯五杯いけそう…胸がいっっっぱい」
何を言っても通じない○に、淩統は心の底からため息をついた。
■■■■■■
翌朝、呉の兵舎の食堂。
「……で、昨日のコイツの顔。 趙雲殿にメンコ返された瞬間に、茹でダコみたいになってんの。傑作だったよ」
「うるさいなぁ」
凌統と甘寧の悪友仲間に挟まれ○が粥を啜っていると、背後から妙に張り詰めた気配が近づいてきた。
「○。…この後、職務までの間、少々、お時間はありますか」
振り返れば、そこには陸遜。
「陸遜? 改まってどうしたの」
「メンコで、勝負しませんか」
「は?」
甘寧が吹き出して、「おいおい陸遜、まだ負けた事にこだわってんのかよ」と笑う。
しかし陸遜は至って真面目な顔で一枚のメンコを出した。
紙を幾重にも重ね、糊で固め、重石を置いて一晩かけて乾燥させたと思われる、異常なまでに角が鋭利で重厚な”特製メンコ”。
「昨日、夜遅くまでかかって作ったのです。これであなたに、一週間の夜間巡回を追加させてやります」
「はぁ~!一晩で作ったの? うっわ。普通に人殺せるわよ、これ」
○が呆気にとられて特製メンコを手に取ると、それはもはや凶器に近い重量感と角の鋭利さ。
自分の額に少し当てて「いてっ」と目をしかめる。
「おもしれぇじゃねえか。陸遜がそこまで熱くなってんなら、俺たちも混ぜろよ。なぁ、凌統?」
甘寧がニヤリと笑って立ち上がると、凌統も「執務までの暇つぶしにはなるか」と腰を上げた。
中庭には朝の清々しい空気とは裏腹に、殺伐とした熱気が漂う。
「さあ、行きますよ。昨日あなたに教わった通り、この角度で叩きつければ風圧であなたのメンコはひっくり返ります」
「自信があるから攻略法を教えてあげたのよ。しかも基本の『基』それだけで負ける訳ないでしょ」
陸遜の特製メンコは流石の威力で、地面を叩くたびに砂埃が舞う。
しかし○も長年の経験で培った一撃で一歩も退かない。
甘寧は力任せの投擲でひっくり返し、淩統はその隙を縫って上手に場から出て行かない様に叩く。
将たちが泥を蹴り上げてメンコを投げ合っていた。
「ちょっと、何の騒ぎよ…」
そこへ通りかかったのは、朝の散策をしていた劉備と趙雲、そして孫尚香。
目の前には、眉間にシワを寄せて地面を睨みつける若き軍師と、やたらデカい男女3人。
「……陸遜、あなたまで朝から何をやっているの?」
孫尚香の呆れ声に、陸遜はハッと顔を上げる。
「姫様……! い、いえ、これは……彼女に規律と、物理法則の正しさを教育しているところでして……!」
膝に跳ねた泥をつけ、手には自作のメンコを握りしめた陸遜の説得力は皆無。
孫尚香は「ふうん…」と信じていない。
○もまた、趙雲の姿を見るなり「あ」と短い声を漏らし、昨日と同じように、握っていたメンコをソッと背後に隠して直立不動になる。
その隣で淩統と甘寧は勝負続行中だ。
「じゃ、そろそろ締めてやるよ!」
虎視眈々と機を伺っていた凌統がメンコを叩きつける。
彼が放ったメンコは心地よい破裂音とともに、重なり合っていたメンコがまるで花が咲くように一斉に宙を舞い、鮮やかに裏返った。
「よし、総取り。……お疲れさん」
凌統が涼しい顔で地面の戦利品をかき集めると、その場に静寂が訪れる。
一晩かけて「最強の理論」を構築した陸遜は、口を半開きにしたまま固まっていた。
「さすが凌統ね!」
○は気まずさを吹き飛ばすように、手を叩いて、背後で見守る趙雲たちの方を振り返る。
「ご覧になりましたか? 今の凌統の一投。この稽古で、凌統は『極めて冷静な技巧派』であるということが、改めて証明されたわけです。非常に有意義な演習でした」
もっともらしい顔で解説を始める○。
そのあまりに苦しい「軍事演習」へのこじつけに、隣にいた甘寧が顔を歪めて吐き捨てる。
「おい、お前……バカじゃねえのか? どう見たってただの遊びだろ。理論だの技巧派だの、聞いてて恥ずかしくなってくるぜ」
「甘寧。空気を読みなさい…劉備様の前でしょ」
○が顔を赤くして甘寧を小突いていると、それまで静かに見守っていた趙雲が、こらえきれないといった様子で吹き出した。
その場にいた面々が趙雲を見る。
「失礼。あまりに皆様の仲が良く、そして○殿の解説が独創的だったもので……」
趙雲はいつもの凛とした表情を崩し、心から楽しそうに声を上げて笑っている。
その屈託のない笑顔を間近で見た○は、心臓を撃ち抜かれたような衝撃を受け、言葉を失って立ち尽くす。
(笑った…。趙雲様が、私の変な言い訳を聞いて、あんなに笑ってくれた…!ああ、生きてるって感じ…)
幸せの絶頂で真っ白になる○。
一方で陸遜は、泥だらけになった自作のメンコを握りしめ、得体の知れない敗北感と焦燥感に苛まれる。
「……○、執務の時間です。行きますよ」
陸遜は低く冷ややかな声で告げ歩きだす。
無理やり連行される○の後ろ姿を見送りながら、劉備は孫尚香に微笑みかける。
「呉の若き才能たちは、実に賑やかで熱い方々ですね」
「そう言っていただけると助かります…特に○は昔からちょっと変わった子で…ごめんなさい。悪い子じゃないんですけど」
爽やかな朝の光の中、恋と嫉妬と友情が入り混じったメンコ大会は、こうして幕を閉じた。
ここは建業の城。
劉備の護衛としてここに来た趙雲の朝は早い。
劉備の泊まる離れの周囲を警備して、万が一の逃走経路の確認。
朝餉時にはその毒見と、やる事が多い。
呉の女官たち数人に話しかけられて挨拶をかわしていると、廊下の向こうからドタドタと足音が反響してきた。
「…何の音です?」
「ああ。○殿でしょうね。もうすぐここを通り抜けられますよ。避けておかれた方がよろしいかと」
趙雲が廊下の曲がり角に入って待っていると、女官の言う通り、その足音は近づいてくる。
靴を引っかけて髪も寝癖が残り、服の釦を止めながら○が疾走していく。
そのまま中庭に向かい、池をひとっ飛びして隣の建物に入っていった。
「…あの方は、いつもああなのですか?」
「いつもではありませんが…陸遜様に早朝呼び出しを受けた日はあの様子です」
女官は困った様に笑う。
「趙雲様、○殿にご興味が…?」
「ああ、いえ。賑やかな方だな、と」
趙雲がそう答えると、女官は少し頬を染めて笑った。
活気ある呉の城下町。
劉備と孫尚香の婚姻という報せに沸く通りを、一行は穏やかな足取りで進んでいた。
先頭を行く孫尚香には練師と陸遜が供として付き、少し後ろを歩く劉備には静かな威圧感を纏った趙雲が寄り添っている。
その時、民家の土塀の向こうから、割れんばかりの子供たちの歓声が響いてきた。
「すげーっ! ○様、またひっくり返した!」
「 よし、これで総取りー!」
聞き覚えのある笑い声。
一行が足を止め、ひょいと塀越しに中を覗き込めば、そこには袖を捲り上げて十二・三頃の子供たちと遊ぶ○の姿があった。
地面に並んだメンコを見事な手捌きでひっくり返した彼女は、戦利品をかき集めて満面の笑みを浮かべている。
「……何をしているんですか、あなたは」
呆れたような、それでいてどこか鋭い声が○の背中に突き刺さる。
振り返った○は、そこに立つ陸遜の姿を見るなり、ビクッと肩を揺らした。
「り、陸遜!? それに、尚香に練師殿まで……」
慌てて膝の土を払おうとした○の視界に、さらに後ろから現れた人影。
穏やかな微笑みを湛えた劉備と、その隣で凛として立つ、意中の人、趙雲。
「あ、趙雲様、まで……」
一気に血の気が引くのを感じ、○は冷や汗を流す。
よりによって、一番見られたくない姿を、一番格好いいと思っている人に見られてしまった。
そんな○の動揺を露知らず、陸遜は一歩踏み出して彼女を問い詰める。
「いい大人が子供相手に本気になって。そのメンコ、まさか本当に奪うつもりではありませんよね? ちゃんと返すんでしょうね、○」
「も、もちろん! 当たり前じゃない、ただの遊びよ!」
○が必死に弁明すると、足元にいた子供たちが不思議そうに陸遜を見上げ、口々に加勢した。
「えー!○様いつも、『平等にやらないと楽しくない』って言って、勝ったら持って帰るだろー」
「凌統様もたまに遊んでくれるけど、二人とも勝つまでなかなか返してくれないんですよ」
子供たちの無邪気な証言に○は固まる。
陸遜はふん、と鼻を鳴らした。
すると孫尚香が一歩前に出た。
「ねえ、私もやっていい?」
陸遜は慌てて孫尚香を止めた。
一国の姫が、それもこれから夫になろうという劉備の前で土にまみれる訳にはいかない。
「だって、この子たちのメンコを取り戻してあげたいじゃない!このガキ大将から」
(ガキ大将…)
孫尚香は明らかに面白がっている。
陸遜にやらせたいがための策略を感じた。
○が苦笑いする中、陸遜がため息をついてメンコを一つ取り上げる。
「…分かりました。では、私が代わりにやります」
腕組みをしていた陸遜が上着の袖をまくり上げる。
その目は冗談を言っているようには見えない。
「えっ、ちょっと陸遜!? 本気なの?」
「当然です。姫様にこんな事をさせる訳にはいきません。やらなくては諦めてくれそうにありませんし」
「いや、それもそうなんだけど…」
○は口元が綻ぶのを我慢する様な憎たらしい顔をする。
「陸遜にできるのかなと思って」
「…できますよ。これでひっくり返すだけですよね」
「威厳を保つためにもやめときなって。私にだけは負けたくないでしょ」
「……いいでしょう。そこまで自信があるのなら、賭けをしませんか?」
不敵に口角を上げた陸遜がメンコを見た。
「もしあなたが負けたら、今後一週間、夜間の巡回はすべてあなたが引き受けていただきます。……異論はありませんね?」
「一週間か…うーん!ま、いいわよ」
○は陸遜を悠然と見下ろす。
「じゃあそうね…もし私が勝ったら、女官たちの間で噂のあのお茶屋で一番高いものを奢ってもらうわ」
その噂の店は一番安いものでも兵士の数日分の食費が飛ぶような店だ。
一瞬たじろぐ陸遜だったが、○の挑戦的な視線に当てられ言い返す。
「承知しました。負ければあなたは、数日間ほとんど寝ずに過ごすのですよ」
「そっちが負けたら今月は節約して過ごすのよ」
「○様、やっちまえー!」
「○様、めちゃくちゃ強いですよ! 凌統様だってたまに負けるんだから!」
子供たちが囃し立てる。
陸遜が放った一枚は、鋭い風を切って○の足元へ。
パァン! と乾いた良い音が響き、○のメンコがわずかに浮き上がった。
「おかしい…力の加わり方であの角度ならひっくり返るはずなのに…」
「甘いわね陸遜。理論だけじゃ勝てないのがこれの面白みなのよ。いい?」
○は落ちているメンコの隙間を指さす。
「この隙間に風を入れるのよ。こんなペラッペラのメンコを陸遜みたいに直接ぶつけて反動でひっくり返すなんて、相当な力がいるわ。だから狙うのは…隙間の隣…!」
しなやかな動作で振り下ろされた○の右腕。
これまでで一番高く、澄んだ音が路地に響き渡る。
そして陸遜のメンコがひっくり返る。
絶句する陸遜を尻目に、○は両手を突き上げた。
「陸遜の負け~!弱い弱い!これは弱すぎる!カッコ悪い!」
「く…っ」
子供達が○に纏わりつき、○は因縁の陸遜に勝って大喜びした…が。
ふと、穏やかに拍手を送る趙雲の姿が飛び込んできた。
(……やってしまった)
勝利の余韻が一瞬で引き、○の顔面はみるみるうちに蒼白した。
今、自分は、憧れの趙雲様の前でサボって遊んで陸遜を煽っている。
慌てて背筋を伸ばして劉備に向き直った。
「あ、あの、これは…その、子供たちの教育の一環と言いますか、勝負の厳しさを教えるという高尚な目的がありまして……っ。この子たちも将来兵士に志願したいと申しておりますので今から訓練を…」
その横で、陸遜が大きくため息をつきながら一瞥する。
「……教育? どの口が言うのですか」
陸遜は服についた砂を払いながら立ちあがった。
(この男女(おとこおんな)は…もう少し淑女らしい態度は取れないものか)
そう思いながらジトッと睨む。
「いやいや、遊びとはいえ、実に見事な身体捌きだった。なあ、趙雲」
劉備は微笑みそう言った。
「はい、お見事でした。その身のこなし…武芸の心得がある者特有の、鋭くも美しい一撃でした」
趙雲の、どこまでも誠実で、少しの揶揄いも含まない真っ直ぐな称賛に、○は石のように固まった。
しかし陸遜が刺々しい声で言う。
「……ところで○。あなたは本来この時間、東門付近の巡回当番だったのではないですか?」
負けた悔しさを紛らわせるように、陸遜は冷徹な顔で問い詰める。
その鋭い指摘に、○の背筋が再び凍りつく。
「……あ。そ、そうでしたねー。あはは、すっかり失念しておりました! では、これにて失礼いたします!」
一刻も早くこの場から消え去りたい○は、脱兎のごとく駆け出そうとする。
しかしそれを許さない小さな手が、彼女の着物の裾をぎゅっと掴んだ。
「えーっ! 待ってよ○様! これ終わったら、川で『水切り』のコツを教えてくれるって約束しただろー!」
無邪気な子供たちの追い打ちに振り向くと、陸遜がこれ以上ないほど冷ややかな視線で○を睨みつけている。
「子供の遊びの『特訓』には余念がないようですね。職務を放り出して水遊びですか?あなたは呉の将兵としての自覚が足りなさすぎます」
「ち、違うってば!それは休憩時間の話で……!」
「見張り当番は賭けのツケをなしにするって事で代わってもらったって「こら!誤解を招くこと言うんじゃありません!いやですねえ、この子達ったら。人の話、何にも聞いてないんだから」
○は子供たちの頭をぽんぽんと適当に撫で回し、強引に手を振り切ると走って行ってしまった。
残されたのは、騒ぐ子供たちと、呆気にとられる一行。
劉備と孫尚香は微笑んでいて、陸遜は落胆。
趙雲は何とも言えない無表情で立っていた。
「全く…呉の将兵としての自覚が足りないんじゃないか?」
「陸遜にまったく同じこと言われた」
呆れ顔で隣を歩くのは軽装に身を包んだ凌統。
彼は肩をすくめ、○の愚痴を右から左へ受け流す。
「もー、最悪よ! 陸遜のやつ、周瑜殿にまでチクってて……さっき『規律を乱すな』ってお叱りを受けたところなのよ。一週間の夜間巡回、賭けに関係なくやらされそう」
「自業自得だっての。お前がガキ相手にまで賭博まがいな事してるからだろ。俺もたまに混ざるが、そこまで派手にはやらねえよ」
「凌統だって結構本気じゃない!あーあ、しかも趙雲様にまであんなところ見られちゃってさぁ。やってらんねぇわ」
○が深いため息をつき、項垂れながら城の回廊を曲がった、その時。
「○殿」
涼やかな、けれど芯の通った声が響く。
顔を上げると、そこには夕映えの光を背負って立つ趙雲の姿があった。
「あ……っ、趙雲様!」
○は反射的に直立不動になる。
隣にいた凌統も、劉備軍の名将を前に軽く会釈をして足を止めた。
「先ほどは失礼いたしました。お見苦しいところを…」
消え入りそうな声で謝る○に、趙雲はふっと目元を和らげる。
彼は懐から、丁寧に布で包まれた「何か」を取り出した。
「……こちらを。あなたが路地に落としていかれたようです。大事な勝負道具なのでしょう?」
差し出されたのは、先ほど陸遜を打ち負かしたメンコだった。
「え!わざわざ届けてくださるなんて……!申し訳ありません、お忙しいのに、本当にすみませんッ!すみませんッ!」
○は何度も、腰が折れんばかりに頭を下げる。
憧れの人が自分の泥だらけの遊び道具を拾い、あまつさえ彼の私物の布に包んで届けてくれた。
その事実だけで、心臓が爆発しそうなほど高鳴る。
「お気になさらず。……次は、得意の『水切り』とやらも、拝見できればと思っております」
趙雲はそう言い残すと、爽やかな風のような足取りで去っていった。
「…………はあ…生きててよかった」
真っ赤な顔で放心する○。
そんな彼女を隣で見ていた凌統が冷ややかな目で見つめている。
「おい、顔が緩みすぎだっての。同盟相手の腹心だぞ。足元見られたらどうすんだって」
「誰にも理解してもらえなくてもいいの。私、あの眼差しでご飯五杯いけそう…胸がいっっっぱい」
何を言っても通じない○に、淩統は心の底からため息をついた。
■■■■■■
翌朝、呉の兵舎の食堂。
「……で、昨日のコイツの顔。 趙雲殿にメンコ返された瞬間に、茹でダコみたいになってんの。傑作だったよ」
「うるさいなぁ」
凌統と甘寧の悪友仲間に挟まれ○が粥を啜っていると、背後から妙に張り詰めた気配が近づいてきた。
「○。…この後、職務までの間、少々、お時間はありますか」
振り返れば、そこには陸遜。
「陸遜? 改まってどうしたの」
「メンコで、勝負しませんか」
「は?」
甘寧が吹き出して、「おいおい陸遜、まだ負けた事にこだわってんのかよ」と笑う。
しかし陸遜は至って真面目な顔で一枚のメンコを出した。
紙を幾重にも重ね、糊で固め、重石を置いて一晩かけて乾燥させたと思われる、異常なまでに角が鋭利で重厚な”特製メンコ”。
「昨日、夜遅くまでかかって作ったのです。これであなたに、一週間の夜間巡回を追加させてやります」
「はぁ~!一晩で作ったの? うっわ。普通に人殺せるわよ、これ」
○が呆気にとられて特製メンコを手に取ると、それはもはや凶器に近い重量感と角の鋭利さ。
自分の額に少し当てて「いてっ」と目をしかめる。
「おもしれぇじゃねえか。陸遜がそこまで熱くなってんなら、俺たちも混ぜろよ。なぁ、凌統?」
甘寧がニヤリと笑って立ち上がると、凌統も「執務までの暇つぶしにはなるか」と腰を上げた。
中庭には朝の清々しい空気とは裏腹に、殺伐とした熱気が漂う。
「さあ、行きますよ。昨日あなたに教わった通り、この角度で叩きつければ風圧であなたのメンコはひっくり返ります」
「自信があるから攻略法を教えてあげたのよ。しかも基本の『基』それだけで負ける訳ないでしょ」
陸遜の特製メンコは流石の威力で、地面を叩くたびに砂埃が舞う。
しかし○も長年の経験で培った一撃で一歩も退かない。
甘寧は力任せの投擲でひっくり返し、淩統はその隙を縫って上手に場から出て行かない様に叩く。
将たちが泥を蹴り上げてメンコを投げ合っていた。
「ちょっと、何の騒ぎよ…」
そこへ通りかかったのは、朝の散策をしていた劉備と趙雲、そして孫尚香。
目の前には、眉間にシワを寄せて地面を睨みつける若き軍師と、やたらデカい男女3人。
「……陸遜、あなたまで朝から何をやっているの?」
孫尚香の呆れ声に、陸遜はハッと顔を上げる。
「姫様……! い、いえ、これは……彼女に規律と、物理法則の正しさを教育しているところでして……!」
膝に跳ねた泥をつけ、手には自作のメンコを握りしめた陸遜の説得力は皆無。
孫尚香は「ふうん…」と信じていない。
○もまた、趙雲の姿を見るなり「あ」と短い声を漏らし、昨日と同じように、握っていたメンコをソッと背後に隠して直立不動になる。
その隣で淩統と甘寧は勝負続行中だ。
「じゃ、そろそろ締めてやるよ!」
虎視眈々と機を伺っていた凌統がメンコを叩きつける。
彼が放ったメンコは心地よい破裂音とともに、重なり合っていたメンコがまるで花が咲くように一斉に宙を舞い、鮮やかに裏返った。
「よし、総取り。……お疲れさん」
凌統が涼しい顔で地面の戦利品をかき集めると、その場に静寂が訪れる。
一晩かけて「最強の理論」を構築した陸遜は、口を半開きにしたまま固まっていた。
「さすが凌統ね!」
○は気まずさを吹き飛ばすように、手を叩いて、背後で見守る趙雲たちの方を振り返る。
「ご覧になりましたか? 今の凌統の一投。この稽古で、凌統は『極めて冷静な技巧派』であるということが、改めて証明されたわけです。非常に有意義な演習でした」
もっともらしい顔で解説を始める○。
そのあまりに苦しい「軍事演習」へのこじつけに、隣にいた甘寧が顔を歪めて吐き捨てる。
「おい、お前……バカじゃねえのか? どう見たってただの遊びだろ。理論だの技巧派だの、聞いてて恥ずかしくなってくるぜ」
「甘寧。空気を読みなさい…劉備様の前でしょ」
○が顔を赤くして甘寧を小突いていると、それまで静かに見守っていた趙雲が、こらえきれないといった様子で吹き出した。
その場にいた面々が趙雲を見る。
「失礼。あまりに皆様の仲が良く、そして○殿の解説が独創的だったもので……」
趙雲はいつもの凛とした表情を崩し、心から楽しそうに声を上げて笑っている。
その屈託のない笑顔を間近で見た○は、心臓を撃ち抜かれたような衝撃を受け、言葉を失って立ち尽くす。
(笑った…。趙雲様が、私の変な言い訳を聞いて、あんなに笑ってくれた…!ああ、生きてるって感じ…)
幸せの絶頂で真っ白になる○。
一方で陸遜は、泥だらけになった自作のメンコを握りしめ、得体の知れない敗北感と焦燥感に苛まれる。
「……○、執務の時間です。行きますよ」
陸遜は低く冷ややかな声で告げ歩きだす。
無理やり連行される○の後ろ姿を見送りながら、劉備は孫尚香に微笑みかける。
「呉の若き才能たちは、実に賑やかで熱い方々ですね」
「そう言っていただけると助かります…特に○は昔からちょっと変わった子で…ごめんなさい。悪い子じゃないんですけど」
爽やかな朝の光の中、恋と嫉妬と友情が入り混じったメンコ大会は、こうして幕を閉じた。