私は規格外【陸遜】
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○は暗い森の中を走っていた。
関羽の弔い合戦とばかりに繰り広げられた夷陵の戦い。
○は、呉の大都督となった陸遜の命を受け、斥候として暗い森を走っていた。
本来なら○の役目ではないが、劉備が長細い陣を敷いたことで斥候の数が足りず、経験のある○が駆り出された。
今は報告書を持って本陣に向かって走っていた。
趙雲に打たれた傷は、痛みこそないがやはりどこか違和感がある。
それをおして走り続けた○だが、ふと足に嫌な感触が走った。
「――あっ」
次の瞬間、浮遊感が訪れる。
視界にとらえていた木々が視界から消えた。
見事な高さに張られた足元の縄に引っかかった。
○の体は放り出され、斜面を派手に転げ落ちる。
「ぎゃあああ!」
生い茂る草をなぎ倒し、泥と枯れ葉にまみれてようやく止まる。
顔面を打って鼻先が痛い。
「いったぁ…」
小さくつぶやきながら身体を起こす。
落ちた先は不自然なほど静かだ。
「…○、なのか?」
それは、聞き間違えるはずのない、低く凛とした声。
恐る恐る視線を上げると、そこには槍を握ったまま硬直している趙雲が立っていた。
「……そのような転がり方で現れる敵兵など見たことがない。相変わらず、危なっかしいな……」
驚きで目を見開いていた趙雲の表情が、一瞬だけかつての穏やかな彼に戻ったように見えた。
思わず一歩近づこうとした趙雲から○は身を引く。
(よりによって一番会いたくない人の前に転がり落ちてしまった…)
自分から離れようとする○に、趙雲は顔を引き締める。
「…趙雲様、奇遇ですね。これだけ広い戦場でお会いするなんて」
「それは私の台詞だ。なぜ単騎で蜀の防衛線に突っ込んできた。……相変わらず、陸遜殿に手荒に扱われているのか?」
(……ん? 防衛線……? 蜀軍の……?)
周囲を見渡せば、確かに呉の朱色の旗は見えず、視界の端々には蜀の緑の軍旗がはためいている。
陸遜から「ここを通れば味方の本陣に繋がる」と渡された地図を頼りに走っていたはずなのに。
(反対方向に走ってた…!!)
土だらけの○は、うーん…と眉間に皺をよせる。
真剣な表情で考え込む彼女を見て、趙雲はわずかに構えを解き、戸惑いの表情を浮かべた。
かつて懐柔任務で彼女を観察していた頃、この「致命的なドジ」さえも愛おしいと思っていた自分を思い出す。
「…そういえば陸遜殿も言っていたな。貴方は、いざというときにヘマをすると」
「え?…いえ、ヘマなんて…」
趙雲の○へ向ける視線には、敵兵を捕らえる冷徹さと、かつての恋人を案じる熱が、歪に混ざり合っている。
「……道に迷ったなら、私が案内しよう。……もちろん、劉備殿の御前までだ」
一歩、趙雲が距離を詰めた。
そしてゆっくりと槍を構える。
(どうしよう…足が痛む。痛みが引くまで時間を稼がないと…!でも趙雲様相手にそんなことできるとは思えない…)
○は隠そうとしているが、心なしか足を庇うその姿を趙雲は見抜いていた。
深く、重い溜息が趙雲の唇から零れる。
その視線は○の顔から、その足元へと落とされた。
かつて自分が、逃げる彼女を止めるために容赦なく射抜いた、あの足。
「……その足。まだ、痛むのか。先ほどから庇っているだろう」
声が、戦場の将のものではなく、かつて夜の帳の中で愛を囁いた時のそれに戻った。
それに気づかない様に、○は取り繕って返事をした。
「いえ、足は…特に。お気になさらず」
戦場の喧騒が、そこだけ切り取られたように遠のく。
趙雲は槍を下ろすと、○を真っ直ぐに見つめた。
「……すまなかった」
「え…」
「あの時、貴方の足を射抜いてまで繋ぎ止めようとした……私の独りよがりな執着を許してほしい」
動く気配のない趙雲に、○もその場に立ち止る。
「○を傷つけたあの報告書……あれは、諸葛亮殿への義務として記したものだった。だが、共に過ごした時間に偽りはなかったんだ。……○、信じてほしい。私は、任務として○に近づき、そして……任務を忘れるほどに、愛していた」
その言葉は、かつて蜀の静かな夜に囁かれたものと同じだった。
「今さら許されるとは思っていない。だが、君を失ってから、私の心はあの日の長江に置き去りにされたままなのだ。……本当に、君を愛している。……私の心には君しかいないのだ。今からでも共に来てほしい」
切実すぎる告白。
泥だらけの顔でそれを受け止める○の脳裏には、蜀での甘い記憶と裏切りがよぎる。
「それは困ります。私の事は忘れてください」
言葉ではもう、彼女の心を取り戻せない。
その残酷な事実を突きつけられた瞬間、趙雲は突き立てていた槍を放り出し、身体を軽くして○へと駆け寄る。
「……行かせない!」
逃げようと身を翻した○だが、縄に引っかかった足の疼きが踏み出しを遅らせた。
その刹那、逞しい腕が○の手首を掴んだ。
咄嗟に踏ん張る。
「……っ、趙雲様、放して……!」
「放さない……! 二度と、私の前から消えさせはしない」
趙雲の体温が、掴まれた手首から痛いほどに伝わってくる。
かつては安らぎだったその温もりが今は恐ろしい。
力強く○を引き寄せた趙雲は、その肩に額を預けるようにして縋りつく。
「離して…!もうっ、趙雲様!」
○が必死に身を捩り、自由な方の手で彼の胸板を叩いても、その腕はびくともしない。
首周りをしっかり掴まれていて距離も取れず、力が入りにくい。
○は必死の抵抗で装甲の隙間の趙雲の二の腕にかみついた。
しかし趙雲は顔色ひとつ変えない。
「懐かしい…男を知らなかった○には最初、噛まれたり引っ掻かれたりで大変だったな…」
「怖いんですけど!」
○は背筋に冷たいものが走る。
かつての清廉潔白な”趙子龍”の面影はどこへやら…今の彼は過去の情愛の記憶に縋っている。
「噛みたければ、もっと噛むがいい。その間に連れて行く」
男性にここまで執着された事のない○。
どうしたらいいのか分からない。
それでもこんなに自分に縋る趙雲を放っておくこともできない。
一度は生涯一緒にいたいと思うほどに愛していた男性だ。
○は暴れるのをやめ、静かに、そして深く息を吐き、趙雲の背中に触れた。
「……趙雲様。私ね、あなたのことが、本当に大好きでした。……でも、もう、駄目ですよ」
その小さな、けれど迷いのない声に、趙雲の体が強張る。
「呉との関係も、戦の行方も、何も教えてもらえなかった。……あの報告書の事だって、もし趙雲様が少しでも私を信じてくれていたなら……もっと、他にやり方があったはずなんです」
「…それは」
趙雲は何かを言いかけて言葉を詰まらせる。
「それだけ、劉備様が大事だったんですよね」
「…」
「ねえ、趙雲様。呉に来れますか? もし来てくれるなら、私が責任を持って貴方の身柄を守りますし、一生一緒にいると誓います」
「…」
趙雲は終始何も答えない。
答えられるはずもない。
彼という男を形作るすべてを捨ててまで、ひとりの女を取ることはできない。
それが彼の”高潔さ”で、○を深く傷つけた”冷酷さ”でもある。
「ね?同じように、私も蜀に行くことはできません…どれかは捨てなくちゃ、手に入らないんですよ」
○はそっと手を伸ばし、趙雲の頬を両手で包んだ。
その温もりに、趙雲の瞳が揺れる。
その時、森の奥から地響きのような音が届く。
蜀の部隊が救援要請をしている音だ。
趙雲の意識がわずかに外れた、その刹那。
○は趙雲の手を、今度こそ強く振り払う。
「あ……っ、待て、○!」
泥濘を蹴り、○は一気に距離を取る。
けれど森の闇に消える直前、一度だけ立ち止まって趙雲に振り返る。
「趙雲様……っ」
一瞬の逡巡。
けれど○の胸には、呉で待つ「あの口の悪い軍師」の顔が浮かんだ。
「…っ、…またね」
それだけ言って森に駆けだす。
背後で趙雲が自分の名を叫ぶ声が聞こえたが、○はもう止まらなかった。
○が呉の本陣に帰る頃にはヘトヘトだった。
「……ようやくお戻りですか。あなたに託した伝令が、いつまで経っても届いていないと報告がありました。一体、何処で油を売っていたのですか?」
本陣で腕組みをした陸遜が睨む。
「いやいや、地図が調子悪くて逆走しちゃったみたいで」
泥だらけの顔で、精一杯の愛想笑いを浮かべて誤魔化す○。
陸遜は深いため息をつくと、彼女の汚れきった姿と、心なしか引きずっている足元を一瞥し、それ以上は追求しなかった。
「……こちらが圧倒的に優勢です。あなたの遅参が致命傷にならなかったことだけは、幸いでしたね。……今は、よしとしましょう」
陸遜は視線を森の方へと向ける。
目の前には自身の策によって引き起こされた、天を焦がさんばかりの火の海が広がっていた。
その猛火を見つめる○の胸に、先ほど別れたばかりの趙雲の姿がよぎる。
「愛している」と縋り付いてきた、あの切実な…蜀への忠義を捨てられなかった、不器用で真っ直ぐな将軍。
(……死なないでよ、趙雲様)
裏切られ、傷つけられた記憶は消えない。
呉からすれば蜀軍の五虎将軍と称えられる彼が死ぬのは、むしろ喜ばし事。
それでもかつて心から慕った人が、この策に呑まれて灰になることだけは望めなかった。
隣に立つ陸遜は、そんな○の沈黙の理由をすべて見抜いているかのような横顔。
けれど彼は何も言わず、ただ静かに、彼女の隣で炎を見つめ続けていた。
呉の陣営には勝利の余韻と、負傷兵の低い呻きが混じり合う。
陸遜が「……足、痛むのでしょう。小さな怪我もしているようですし、こちらで休んでいなさい」と、○に声をかけた。
本陣の喧騒から少し離れた陸遜の幕舎。
外の騒がしさとは対照的に、中は静寂に包まれている。
灯をともした陸遜は○を寝台に座らせて、その足元に膝をつき慣れた手つきで泥を払い、傷の様子を見る。
「いいってば、この位の怪我…いつものことだし」
「この間、それを信じていたら化膿して高熱が出て死にかけましたよね」
「なかなか完治とまではいきませんね。ここを庇うから反対の足の傷が絶えないのでしょう。それにしてもどこをどう走ればこんな怪我をするんですか。ちゃんと前を見て走っているのか疑問です」
そうブツブツ文句を言いながら包帯を巻いたりせわしない。
「…陸遜」
「……なんですか。説教なら、まだ半分も終わって――」
言いかけた陸遜の言葉は、○がゆっくりと目を閉じ、彼の方へと顔を寄せたことで遮られた。
陸遜はわざとらしい、大きなため息をつく。
「……本当に……あなたは、どこででも…」
呆れたような、けれど蕩けるように甘い声。
陸遜は膝をついたまま○の頬を両手で包み込むと、一瞬、幕舎の傍に人の気配がない事を探ってから静かに、深く、唇を重ねた。
唇を離した陸遜は、すぐにいつもの理知的で冷徹な大都督の顔に戻ろうとする。
しかしすぐに目の前の○が陸遜の首に腕を回して引き寄せる。
「陸遜、続き」
「……っ!? な、何を……離しなさい! あなたという人は、本当に……!」
そういうと○の手を振りほどく。
「いいですか、○。……恋仲とはいえ、私の立場も考えてください。勝利していてもここは戦場のど真ん中で、すぐ外には兵たちが控えているのですよ。大都督が本陣の幕舎で部下と睦み合っているなどと知れたら、軍の規律に関わります」
「その”大都督”の幕舎に誰が入ってくるっていうのよー、陸遜のケチ」
不満げに口を尖らせる○。
「……『ケチ』ではありません。時と場合がある、と言っているのです。このあとは戦後処理が山積みでしょうから、それまで貴方はここで休んでいてください。手当の続きは自分でやる様に」
そう言った陸遜は幕舎から出ようと立ち上がる。
「呉に戻り、すべての後始末を終えたら……その時は、嫌というほど時間を取って差し上げます。二人でゆっくりしましょう」
*****
数日後、夷陵の森を焼き尽くした業火が鎮まった。
呉軍の勝利が確定し、戦後処理に追われる幕舎に、斥候からの最終報告が届いた。
「――劉備軍は、蜀の将、趙子龍が殿(しんがり)を務め、数騎の供と共に戦場を脱した模様。現在は白帝城方面へ退却中とのことです」
その報告が耳に入った瞬間、地図を広げていた○の手が、わずかに止まる。
胸の奥で、張り詰めていた糸がふっと切れるような感覚。
(よかった)
裏切られた憎しみも、足を射抜かれた痛みも消えたわけではない。
それでも趙雲がどこかで生きている。
その事実に、○は誰にも気づかれぬよう、小さく、深く、安堵の息を漏らした。
そんな○を陸遜は見つめた。
陸遜は理解している。
○が趙雲を許したわけではなく、ただそれでも「生きていてほしい」と願う慈しみを持っていることを。
そしてその気持ちこそが、自分の愛する○であることを。
しかしそれとは別に、一人の男としての独占欲が胸をチクリと刺す。
「……随分と晴れやかな顔ですね。誰かさんの名前があったからですか」
「あ…?いやいや。そんな。ただ、これで、しばらくは蜀も大人しくなるかなって」
慌てて取り繕う○に、陸遜はゆっくりとその距離を詰めた。
その不機嫌そうな顔に○は笑いかけると、自分よりもわずかに背の低い陸遜の肩に、当然のような顔をして肘を乗せる。
そしてその整った顔を至近距離でのぞき込んだ。
「もーそんな難しい顔しちゃって。……帰ったら、寝かせないんだからね?体力温存しといてよ」
その瞬間、周囲で片付けをしていた兵士たちがギクリと一斉に動きを止め、持っていた槍や木箱を落としそうな勢いでギョッとしてこちらを見た。
ザワッ……と広がる戦慄と好奇の視線。
「……あなたという人は……公衆の面前で、一体何を……。軍の規律を、私の威厳を、一体なんだと思っているのですか……」
あまりに自由すぎる自分の部下であり恋人。
彼女を繋ぎ止めようと必死に策を練り、趙雲への嫉妬に胸を焼いていた自分が、急に馬鹿らしくなってくる。
「……はぁ。やはり、あなたを隣に置きたいと願った私が、根本から間違っていたのかもしれませんね。趙雲殿に差し上げればよかった」
「今更遅い!考える時間はたっぷりあったんだから」
わっはっは!と笑う○に陸遜は肘を乗せられたまま、逃げることもせず、ただ呆れたように視線を逸らした。
関羽の弔い合戦とばかりに繰り広げられた夷陵の戦い。
○は、呉の大都督となった陸遜の命を受け、斥候として暗い森を走っていた。
本来なら○の役目ではないが、劉備が長細い陣を敷いたことで斥候の数が足りず、経験のある○が駆り出された。
今は報告書を持って本陣に向かって走っていた。
趙雲に打たれた傷は、痛みこそないがやはりどこか違和感がある。
それをおして走り続けた○だが、ふと足に嫌な感触が走った。
「――あっ」
次の瞬間、浮遊感が訪れる。
視界にとらえていた木々が視界から消えた。
見事な高さに張られた足元の縄に引っかかった。
○の体は放り出され、斜面を派手に転げ落ちる。
「ぎゃあああ!」
生い茂る草をなぎ倒し、泥と枯れ葉にまみれてようやく止まる。
顔面を打って鼻先が痛い。
「いったぁ…」
小さくつぶやきながら身体を起こす。
落ちた先は不自然なほど静かだ。
「…○、なのか?」
それは、聞き間違えるはずのない、低く凛とした声。
恐る恐る視線を上げると、そこには槍を握ったまま硬直している趙雲が立っていた。
「……そのような転がり方で現れる敵兵など見たことがない。相変わらず、危なっかしいな……」
驚きで目を見開いていた趙雲の表情が、一瞬だけかつての穏やかな彼に戻ったように見えた。
思わず一歩近づこうとした趙雲から○は身を引く。
(よりによって一番会いたくない人の前に転がり落ちてしまった…)
自分から離れようとする○に、趙雲は顔を引き締める。
「…趙雲様、奇遇ですね。これだけ広い戦場でお会いするなんて」
「それは私の台詞だ。なぜ単騎で蜀の防衛線に突っ込んできた。……相変わらず、陸遜殿に手荒に扱われているのか?」
(……ん? 防衛線……? 蜀軍の……?)
周囲を見渡せば、確かに呉の朱色の旗は見えず、視界の端々には蜀の緑の軍旗がはためいている。
陸遜から「ここを通れば味方の本陣に繋がる」と渡された地図を頼りに走っていたはずなのに。
(反対方向に走ってた…!!)
土だらけの○は、うーん…と眉間に皺をよせる。
真剣な表情で考え込む彼女を見て、趙雲はわずかに構えを解き、戸惑いの表情を浮かべた。
かつて懐柔任務で彼女を観察していた頃、この「致命的なドジ」さえも愛おしいと思っていた自分を思い出す。
「…そういえば陸遜殿も言っていたな。貴方は、いざというときにヘマをすると」
「え?…いえ、ヘマなんて…」
趙雲の○へ向ける視線には、敵兵を捕らえる冷徹さと、かつての恋人を案じる熱が、歪に混ざり合っている。
「……道に迷ったなら、私が案内しよう。……もちろん、劉備殿の御前までだ」
一歩、趙雲が距離を詰めた。
そしてゆっくりと槍を構える。
(どうしよう…足が痛む。痛みが引くまで時間を稼がないと…!でも趙雲様相手にそんなことできるとは思えない…)
○は隠そうとしているが、心なしか足を庇うその姿を趙雲は見抜いていた。
深く、重い溜息が趙雲の唇から零れる。
その視線は○の顔から、その足元へと落とされた。
かつて自分が、逃げる彼女を止めるために容赦なく射抜いた、あの足。
「……その足。まだ、痛むのか。先ほどから庇っているだろう」
声が、戦場の将のものではなく、かつて夜の帳の中で愛を囁いた時のそれに戻った。
それに気づかない様に、○は取り繕って返事をした。
「いえ、足は…特に。お気になさらず」
戦場の喧騒が、そこだけ切り取られたように遠のく。
趙雲は槍を下ろすと、○を真っ直ぐに見つめた。
「……すまなかった」
「え…」
「あの時、貴方の足を射抜いてまで繋ぎ止めようとした……私の独りよがりな執着を許してほしい」
動く気配のない趙雲に、○もその場に立ち止る。
「○を傷つけたあの報告書……あれは、諸葛亮殿への義務として記したものだった。だが、共に過ごした時間に偽りはなかったんだ。……○、信じてほしい。私は、任務として○に近づき、そして……任務を忘れるほどに、愛していた」
その言葉は、かつて蜀の静かな夜に囁かれたものと同じだった。
「今さら許されるとは思っていない。だが、君を失ってから、私の心はあの日の長江に置き去りにされたままなのだ。……本当に、君を愛している。……私の心には君しかいないのだ。今からでも共に来てほしい」
切実すぎる告白。
泥だらけの顔でそれを受け止める○の脳裏には、蜀での甘い記憶と裏切りがよぎる。
「それは困ります。私の事は忘れてください」
言葉ではもう、彼女の心を取り戻せない。
その残酷な事実を突きつけられた瞬間、趙雲は突き立てていた槍を放り出し、身体を軽くして○へと駆け寄る。
「……行かせない!」
逃げようと身を翻した○だが、縄に引っかかった足の疼きが踏み出しを遅らせた。
その刹那、逞しい腕が○の手首を掴んだ。
咄嗟に踏ん張る。
「……っ、趙雲様、放して……!」
「放さない……! 二度と、私の前から消えさせはしない」
趙雲の体温が、掴まれた手首から痛いほどに伝わってくる。
かつては安らぎだったその温もりが今は恐ろしい。
力強く○を引き寄せた趙雲は、その肩に額を預けるようにして縋りつく。
「離して…!もうっ、趙雲様!」
○が必死に身を捩り、自由な方の手で彼の胸板を叩いても、その腕はびくともしない。
首周りをしっかり掴まれていて距離も取れず、力が入りにくい。
○は必死の抵抗で装甲の隙間の趙雲の二の腕にかみついた。
しかし趙雲は顔色ひとつ変えない。
「懐かしい…男を知らなかった○には最初、噛まれたり引っ掻かれたりで大変だったな…」
「怖いんですけど!」
○は背筋に冷たいものが走る。
かつての清廉潔白な”趙子龍”の面影はどこへやら…今の彼は過去の情愛の記憶に縋っている。
「噛みたければ、もっと噛むがいい。その間に連れて行く」
男性にここまで執着された事のない○。
どうしたらいいのか分からない。
それでもこんなに自分に縋る趙雲を放っておくこともできない。
一度は生涯一緒にいたいと思うほどに愛していた男性だ。
○は暴れるのをやめ、静かに、そして深く息を吐き、趙雲の背中に触れた。
「……趙雲様。私ね、あなたのことが、本当に大好きでした。……でも、もう、駄目ですよ」
その小さな、けれど迷いのない声に、趙雲の体が強張る。
「呉との関係も、戦の行方も、何も教えてもらえなかった。……あの報告書の事だって、もし趙雲様が少しでも私を信じてくれていたなら……もっと、他にやり方があったはずなんです」
「…それは」
趙雲は何かを言いかけて言葉を詰まらせる。
「それだけ、劉備様が大事だったんですよね」
「…」
「ねえ、趙雲様。呉に来れますか? もし来てくれるなら、私が責任を持って貴方の身柄を守りますし、一生一緒にいると誓います」
「…」
趙雲は終始何も答えない。
答えられるはずもない。
彼という男を形作るすべてを捨ててまで、ひとりの女を取ることはできない。
それが彼の”高潔さ”で、○を深く傷つけた”冷酷さ”でもある。
「ね?同じように、私も蜀に行くことはできません…どれかは捨てなくちゃ、手に入らないんですよ」
○はそっと手を伸ばし、趙雲の頬を両手で包んだ。
その温もりに、趙雲の瞳が揺れる。
その時、森の奥から地響きのような音が届く。
蜀の部隊が救援要請をしている音だ。
趙雲の意識がわずかに外れた、その刹那。
○は趙雲の手を、今度こそ強く振り払う。
「あ……っ、待て、○!」
泥濘を蹴り、○は一気に距離を取る。
けれど森の闇に消える直前、一度だけ立ち止まって趙雲に振り返る。
「趙雲様……っ」
一瞬の逡巡。
けれど○の胸には、呉で待つ「あの口の悪い軍師」の顔が浮かんだ。
「…っ、…またね」
それだけ言って森に駆けだす。
背後で趙雲が自分の名を叫ぶ声が聞こえたが、○はもう止まらなかった。
○が呉の本陣に帰る頃にはヘトヘトだった。
「……ようやくお戻りですか。あなたに託した伝令が、いつまで経っても届いていないと報告がありました。一体、何処で油を売っていたのですか?」
本陣で腕組みをした陸遜が睨む。
「いやいや、地図が調子悪くて逆走しちゃったみたいで」
泥だらけの顔で、精一杯の愛想笑いを浮かべて誤魔化す○。
陸遜は深いため息をつくと、彼女の汚れきった姿と、心なしか引きずっている足元を一瞥し、それ以上は追求しなかった。
「……こちらが圧倒的に優勢です。あなたの遅参が致命傷にならなかったことだけは、幸いでしたね。……今は、よしとしましょう」
陸遜は視線を森の方へと向ける。
目の前には自身の策によって引き起こされた、天を焦がさんばかりの火の海が広がっていた。
その猛火を見つめる○の胸に、先ほど別れたばかりの趙雲の姿がよぎる。
「愛している」と縋り付いてきた、あの切実な…蜀への忠義を捨てられなかった、不器用で真っ直ぐな将軍。
(……死なないでよ、趙雲様)
裏切られ、傷つけられた記憶は消えない。
呉からすれば蜀軍の五虎将軍と称えられる彼が死ぬのは、むしろ喜ばし事。
それでもかつて心から慕った人が、この策に呑まれて灰になることだけは望めなかった。
隣に立つ陸遜は、そんな○の沈黙の理由をすべて見抜いているかのような横顔。
けれど彼は何も言わず、ただ静かに、彼女の隣で炎を見つめ続けていた。
呉の陣営には勝利の余韻と、負傷兵の低い呻きが混じり合う。
陸遜が「……足、痛むのでしょう。小さな怪我もしているようですし、こちらで休んでいなさい」と、○に声をかけた。
本陣の喧騒から少し離れた陸遜の幕舎。
外の騒がしさとは対照的に、中は静寂に包まれている。
灯をともした陸遜は○を寝台に座らせて、その足元に膝をつき慣れた手つきで泥を払い、傷の様子を見る。
「いいってば、この位の怪我…いつものことだし」
「この間、それを信じていたら化膿して高熱が出て死にかけましたよね」
「なかなか完治とまではいきませんね。ここを庇うから反対の足の傷が絶えないのでしょう。それにしてもどこをどう走ればこんな怪我をするんですか。ちゃんと前を見て走っているのか疑問です」
そうブツブツ文句を言いながら包帯を巻いたりせわしない。
「…陸遜」
「……なんですか。説教なら、まだ半分も終わって――」
言いかけた陸遜の言葉は、○がゆっくりと目を閉じ、彼の方へと顔を寄せたことで遮られた。
陸遜はわざとらしい、大きなため息をつく。
「……本当に……あなたは、どこででも…」
呆れたような、けれど蕩けるように甘い声。
陸遜は膝をついたまま○の頬を両手で包み込むと、一瞬、幕舎の傍に人の気配がない事を探ってから静かに、深く、唇を重ねた。
唇を離した陸遜は、すぐにいつもの理知的で冷徹な大都督の顔に戻ろうとする。
しかしすぐに目の前の○が陸遜の首に腕を回して引き寄せる。
「陸遜、続き」
「……っ!? な、何を……離しなさい! あなたという人は、本当に……!」
そういうと○の手を振りほどく。
「いいですか、○。……恋仲とはいえ、私の立場も考えてください。勝利していてもここは戦場のど真ん中で、すぐ外には兵たちが控えているのですよ。大都督が本陣の幕舎で部下と睦み合っているなどと知れたら、軍の規律に関わります」
「その”大都督”の幕舎に誰が入ってくるっていうのよー、陸遜のケチ」
不満げに口を尖らせる○。
「……『ケチ』ではありません。時と場合がある、と言っているのです。このあとは戦後処理が山積みでしょうから、それまで貴方はここで休んでいてください。手当の続きは自分でやる様に」
そう言った陸遜は幕舎から出ようと立ち上がる。
「呉に戻り、すべての後始末を終えたら……その時は、嫌というほど時間を取って差し上げます。二人でゆっくりしましょう」
*****
数日後、夷陵の森を焼き尽くした業火が鎮まった。
呉軍の勝利が確定し、戦後処理に追われる幕舎に、斥候からの最終報告が届いた。
「――劉備軍は、蜀の将、趙子龍が殿(しんがり)を務め、数騎の供と共に戦場を脱した模様。現在は白帝城方面へ退却中とのことです」
その報告が耳に入った瞬間、地図を広げていた○の手が、わずかに止まる。
胸の奥で、張り詰めていた糸がふっと切れるような感覚。
(よかった)
裏切られた憎しみも、足を射抜かれた痛みも消えたわけではない。
それでも趙雲がどこかで生きている。
その事実に、○は誰にも気づかれぬよう、小さく、深く、安堵の息を漏らした。
そんな○を陸遜は見つめた。
陸遜は理解している。
○が趙雲を許したわけではなく、ただそれでも「生きていてほしい」と願う慈しみを持っていることを。
そしてその気持ちこそが、自分の愛する○であることを。
しかしそれとは別に、一人の男としての独占欲が胸をチクリと刺す。
「……随分と晴れやかな顔ですね。誰かさんの名前があったからですか」
「あ…?いやいや。そんな。ただ、これで、しばらくは蜀も大人しくなるかなって」
慌てて取り繕う○に、陸遜はゆっくりとその距離を詰めた。
その不機嫌そうな顔に○は笑いかけると、自分よりもわずかに背の低い陸遜の肩に、当然のような顔をして肘を乗せる。
そしてその整った顔を至近距離でのぞき込んだ。
「もーそんな難しい顔しちゃって。……帰ったら、寝かせないんだからね?体力温存しといてよ」
その瞬間、周囲で片付けをしていた兵士たちがギクリと一斉に動きを止め、持っていた槍や木箱を落としそうな勢いでギョッとしてこちらを見た。
ザワッ……と広がる戦慄と好奇の視線。
「……あなたという人は……公衆の面前で、一体何を……。軍の規律を、私の威厳を、一体なんだと思っているのですか……」
あまりに自由すぎる自分の部下であり恋人。
彼女を繋ぎ止めようと必死に策を練り、趙雲への嫉妬に胸を焼いていた自分が、急に馬鹿らしくなってくる。
「……はぁ。やはり、あなたを隣に置きたいと願った私が、根本から間違っていたのかもしれませんね。趙雲殿に差し上げればよかった」
「今更遅い!考える時間はたっぷりあったんだから」
わっはっは!と笑う○に陸遜は肘を乗せられたまま、逃げることもせず、ただ呆れたように視線を逸らした。
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