私は規格外【陸遜】
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趙雲と心を通わせてから数ヶ月。
その間の○ときたら、毎日ヘラヘラ笑って本当に幸せそうだった。
趙雲は公務で大忙しの中、たとえ僅かな時間でも「○殿の顔が見たくなりました」と、前触れもなくふらりと会いに来てくれる。
その優しさがとても嬉しかった。
最初は、誰かに嫌がらせを受けないとも言い切れないので、趙雲との事は黙っているつもりだったが、一週間もすればあっという間に城内に知れ渡っていた。
そこらの女性よりも頭一つ分大きく戦働きもこなす○は、直接的な嫌がらせの類を受けることはなかったが、陰口を言われていることは分かっていた。
○に気付いていないのか、はたまた気付いているのにわざとそうしているのか。
「……見た? 趙雲様、またわざわざあんな女のところへ」
「呉への建前で付き合っているフリをしているに決まっているわ。趙雲様ほどの御方が、あんな山賊のような女を本当に選ぶはずがないもの」
「身の程を知らないにも程があるわね」
「あんな男女みたいなのと」
井戸端や廊下の角で囁かれる陰口。
負け惜しみなのは重々承知だが、(ここまで嫌われるかね)と内心疲れる。
(まかり間違って陸遜とどうにかなってても、こんなこと言われたんだろうな)
人気のある人との交際はこんなにも疲れるものだったのかと痛感する。
なにせ人生初めての恋人が、あの趙雲なのだ。
恋愛の勝手も分からなければ、こういったやっかみへの対処法も知らない。
孫尚香は「山賊ですって?言い得て妙ねぇ!まあ、ほっときゃいいのよ。○に直接何かしてくる女の子なんていないんだから」と笑い飛ばしていた。
*****
そんなある夜。
呉からの使者が訪れた。
真夜中に○の部屋の窓にコソッとやってきて密書を渡すと去っていくその異様さ。
心臓が高鳴る。
密書を開くと、嫌な予感が的中した。
「事態は急を要す。劉備の益州入りに伴い、劉備は呉を軽んじ、同盟は崩壊の余地あり。姫様への監視が強まり、実質的な監禁状態に置かれる前に逃げること。猶予はない。本状が届く時、長江の河岸にて待つ。記載の経路にて姫様を連れ出せ。呉の精鋭が待機している」
文字を追う手が震えた。
自分たちには外の近況は一切知らされていない事を思い知る。
知らぬ間に、呉と劉備の間柄は緊張状態になっていたのだ。
こうなると公安の城の人間は自分たちをどう思っているのか、疑心暗鬼に陥った。
(違う。趙雲様は違う。でも)
○は手紙を懐に隠す。
趙雲の部屋で初めて共に朝を迎えた日の記憶が蘇る。
差し込む朝日の眩しさの中で、彼は○の手を優しく包み込み、誓うように言っていた。
ー何があっても私のあなたを想う気持ちだけは、決して変わりませんー
ーあなたと孫尚香様は、私が命に代えても守ってみせますー
ー信じてほしいー
あの時の彼のまっすぐな眼差しに嘘はないと思いたい。
(でも…何も教えてはくださらなかった。劉備様がどこに発つのかさえも)
彼らを信じすぎて、疑う事を忘れていた。
本来ならあそこまでかたくなに行き先を言わない時点で、自分が調べなくてはならなかったのに。
密書によると、作戦は明日。
あまり日を先にすると○や孫尚香の様子でバレてしまうかもしれないという理由から、かなり近い日に設定されたようだ。
○はそっと部屋を抜け出すと孫尚香の元へ向かう。
震える手で差し出した密書を読み終えた孫尚香の顔が、驚愕と悲しみに染まった。
「決行は明日。すでに呉の船が近くまで来てるわ。これを渡した使者が帰還して伝えてるはずだから」
「……そんな。急すぎるわ」
「当然じゃない。そうでもないと逃げられないわ。いい? 明日の夜、東の方角に狼煙が上がったら、それが合図。納屋に馬を準備しておくから、それに乗って先に船へ向かって。侍女たちも連れて逃げなくちゃ駄目だから、私はあなた達がまだ城にいるように振る舞って、限界まで時間を稼ぐ」
○の言葉に、孫尚香は彼女の両肩を強く掴む。
「待って、○! あなたは…あなたはここに残っていいのよ。あなたの家族のことは、私が責任を持って呉で守るから。だから、あなたは自分の幸せを……!」
「…」
○は何も答えず、ただ、孫尚香の手を優しく解き、深々と一礼して部屋を出た。
密書には、まだ続きがあった。
『阿斗を連れ去れ。人質として確保せよ』
その冷酷な指令を、○は親友にすら言えなかった。
そんな泥を被るのは、自分一人でいい。
翌日。
運命が味方したのだろうか。
趙雲は朝から演習と巡回のため、夕方まで城を空けることになっていた。
朝、出発の準備を整えた趙雲が、○の部屋の前に立ち寄る。
「○殿。今日は戻りが遅くなります。夕餉は先に済ませておいてください。夜、また会いに来てもいいでしょうか」
扉越しに聞こえる彼の声は、いつも通り穏やかだ。
○は扉に背中を預け、必死に声を整えた。
「……はい。お待ちしています」
「○殿?」
趙雲が、僅かな違和感を察した。
「どうかされましたか?なにやら声が…」
「いえ。ちょっと喉の調子が良くないのかもしれません」
「そうですか。戻ったら、ゆっくりお話ししましょう。……行ってきます」
遠ざかる足音を聞きながら、○は大きくため息をつく。
「戻ったら、ゆっくり」……そんな未来は、もう存在しない。
趙雲が演習を始めたのを確認すると、○は趙雲の部屋に忍び込んだ。
実はずっと気になっていたことがある。
何度か彼の部屋には入ったが、不自然な場所に敷物があったのだ。
一度通り過ぎざまに足を引っかけたことがあったが、敷物はピクリとも動かなかった。
まるでなにかで床に貼り付けてあるように。
その時は床の汚れを隠しているものだと思っていたが、ここを出る前に確認しておきたかった。
なんだか嫌な予感がしたから。
敷物は何かで簡単に貼られていた。
それを剥がして触ると、床の石が少し動くところを見つけた。
石を外すと書簡が沢山詰められている。
諸葛亮の署名が目に入ってそれを開いた。
署名は諸葛亮。
指示書のようだ。
『○を懐柔せよ』
とあり、○の身体的特徴や性格、簡単な家族構成や、呉での立ち位置が書かれている。
赤壁の際の出陣場所まで明記してある。
そして書きかけの書簡には、○との夜の回数、○の吐いた愚痴、趙雲との会話内容等が、戦果として淡々と記録されていた。
最下部には、諸葛亮の確認の署名が並んでいる。
○は夢中になって書簡を漁った。
すると底の方に、あらかじめ用意された届出書を見つける。
○の名前と、彼女を辺境の地に置くための異動届だった。
いつでの趙雲の一筆で使えるようにしてある。
恐らく、呉に帰る事も出来なくなった○が不要になった際、遠くに置いて飼い殺す為のものだ。
「…そっか」
○は小さく零した。
昨日まで自分を包んでいたあの腕は、愛を囁いていたあの唇は、すべてこの「報告書」を完成させるための道具に過ぎなかった。
女官たちのやっかみが全て真実だったのだ。
「おかしいと思った」
陸遜の言葉が、今になって呪いのように突き刺さる。
彼は言っていた。
趙雲への自分の気持ちが利用される可能性を。
趙雲が話した言葉は、すべては自分を監視し、手懐けるための甘い毒薬に過ぎなかった。
○は足早に自室に戻る。
部屋には趙雲に貰ったお菓子やら陶器が飾ってあったが、それらを全て床に投げつけた。
飾ってあったものがなくなってすっきりした机に、急いで書いた一通の手紙を置く。
『船を出すまで阿斗様をお預かりします。お一人で来られてください。出航に追い付けばお返しします』
荷物を小さく纏めると動きやすい服に着替えた。
(私は馬鹿だ…本当に。ここ一番って時にいつも間違える)
なにがやっかみだ。
なにが負け惜しみだ。
あの趙雲に見初められたと浮かれ、彼に守られていると信じ込んでいた自分。
その実、自分は諸葛亮の掌の上で転がされ、夜の営みまで「報告事項」として処理される、ただの滑稽な獲物に過ぎなかったのに。
情けなくて恥ずかしくて惨めだった。
彼らは敵だったのに幸せで忘れていた。
それどころか、孫尚香を危険に晒すところだった。
もう日が沈む。
そろそろ趙雲も帰ってくる。
自室の敷物が動いていることに気付くかもしれない。
○は部屋を飛び出すと、庭の木々に飛び込んで身を隠す。
身体を低くして向かうのは、阿斗のいる離れだ。
離れには、常々○達の陰口を叩いていた侍女が、槍を持って立っていた。
只ならぬ○の様相に顔色を変えて後ずさる。
「ど、どうなさいまし…っ」
言い終わる前に侍女の腹を蹴り上げた。
侍女はダラリと床に転がる。
死んではいないだろうが、それすらどっちでもよかった。
転がった侍女を跨いで中に押し入ると、数人の女官がいる。
声を出されては厄介なので急いで全員をのしたが、大泣きした阿斗のお陰で騒ぎが伝わり始めた。
「ここから逃げられたら帰してあげるから、ちょっと我慢してね」
そう言って阿斗を布に包むと窓から飛び出し、納屋に繋いであった馬に跨ると城外に駆けた。
城下を抜けた辺りで、背後から笛の音が聞こえた。
○を探しているようだ。
(思ったよりも早い)
敵兵の気配を感じながら、城下の外に広がる田園地帯を走りぬけ、その先にある森に入った。
この道のりなら、船の位置を気取られるまでの時間稼ぎができるだろう。
陸遜の練った策だ。
指令書にあった通りに走ると程なくして森を抜ける事が出来た。
そこは少し開けていて、呉の船がひっそりと一艘停まっており、船上から孫尚香がこちらに手を振っている。
孫尚香が船内に呼びかけると、船に近づく○を乗せる為の舷梯を下ろす為、兵が出てくるのが見えた。
ここは浅瀬が広がっているらしく、舷梯も相当な長さが必要なようだ。
舷梯に着くと○は小さく息を吐いて森を振り返る。
(早く来ないと、阿斗が呉に連れていかれてしまう…何してんのよ、趙雲!)
船上からは孫尚香がヤキモキしているようで、早く乗れと叫んでいた。
裏切られた憎しみは消えない。
それでも、最後にこの子を彼に返さなければ、自分は一生笑えなくなる。
○はギリギリまで彼を待とうとした。
その時。
ドン、と身体に衝撃を受けた。
思わず身体のバランスを崩して、背中に背負っている阿斗が泣き出さないようにその場に伏せた。
太ももが痛い。
見ると弩弓の矢が深く突き刺っていた。
○が痛みに耐えながら顔を上げると、木立の向こうからゆっくりと趙雲が姿を現した。
彼が弩弓で撃ったようだ。
いつもと変わらない顔でこちらにやってくる。
呉の兵や孫尚香が叫ぶが、○は逃げない。
すると孫尚香を掻き分けて陸遜が看板に出てきた。
「早く乗りなさい!!」
そう言った陸遜に、○は目を丸くした。
○が実行している策に、陸遜が割り込んでくる事など今まで一度もなかったからだ。
だからここにも来ていないと思っていた。
すぐに趙雲の声が○の意識を引き戻す。
○の間合いギリギリまで近づいた趙雲は、一通の手紙を握りしめていた。
「これはどういう事だ」
城を出る時、自身の机に置いた手紙に、この場所を記しておいたのだ。
彼が本当に一人で来たのなら、誰よりもここに早くたどり着くように。
趙雲の声を聞いた背中の阿斗が声を出す。
それに反応して趙雲の顔色が変わった。
「そんなに目の色を変えないでください。阿斗を連れ去る気はありません。手紙にも書いたでしょ」
○がそう言うと、孫尚香は驚いて陸遜を睨みつけた。
「まさかそんな事を命じていたの!?陸遜!!」
陸遜は目を反らす。
食ってかかりそうな孫尚香は、周囲の兵に宥められた。
「この子は、ここに来る途中で何かあった時の為の保険です。だからその手紙を。きっと、趙雲様がいち早く見つけてくれるだろうと思いましたので」
「……それを信じろと?」
趙雲はこちらを睨みつける。
「そう信じてくれたから、趙雲様はお一人でこちらに来られたのでしょう?阿斗の誘拐はここから逃げるまでの間だけ。だから、ここでお待ちしておりました」
言いながら阿斗を自分の正面で抱き、少し趙雲に近づいた。
船上からは「近づくな」と声がしたが無視する。
一歩近づくと、趙雲が声を振り絞ったように言う。
「何故だ。私のことを愛していなかったのか?すべては嘘だったのか?」
その言葉に、○は凍りつく。
「……それを貴方が言うのですか」
初めて聞いた○の冷たい声に、趙雲は驚いた顔をする。
「何を……私は本気で、あなたを……」
「本当は言いたくありませんでした。このままおとなしく阿斗を連れて行ってくれるなら、貴方に騙されたまま帰るつもりだったのに」
「何を言っている」
○は諦めたように書簡を差し出す。
○を懐柔しろという指示書と、夜の頻度まで書かれたあの報告書。
趙雲が固まった。
「私の心を弄んで、さぞいい気分だった事でしょう。如何でしたか?己の身分もわきまえず、ご自身の言葉一つ一つに浮かれる滑稽な女の様を見るのは?日々の酒の肴にでもなっていたのならいいのですが」
趙雲は弩弓を下ろす。
「それは……。○殿、あれは……」
「私は…あなたが大好きだったのに…」
○の声は掠れる。
下唇を噛みしめた。
「聞いてほしい……確かに、最初は任務だった。軍師殿から『呉の動向を探るため、○殿を繋ぎ止めておけ』と命じられた。あなたが…私に好感を持っていた事は明らかだったからだ……それは認めよう」
「それも全て劉備殿の為ならばと思っていたが、人の気持ちを弄ぶような真似もしたくなかった。しかし、あなたと過ごしている内にあなたを好きになり、最後は私から願い出たのだ」
「…うそばっかり」
「嘘ではない!報告を続けていたのは、あなたが孫尚香様の従者だからだ! 諸葛亮殿の指示に従っている振りをしていれば、あなたと自由に会うための名目が立つ……。あの異動届も、貴方が人質にされる様な事態になった時、軍師殿の手が届かぬ場所へあなたを逃がすための私なりの策だったのだ」
趙雲はいつもの優しい顔で手を差し伸べる。
「私は○を愛している。今なら孫尚香殿を守りたい一心で起こした事と説得しよう。戻って来なさい。足の手当てもしなくては」
「嘘だわ…本当に愛してくれていたならどうしてこんな矢を放てるの?私は逃げなかったし、引き止める方法なんていくらでもあったのに」
足に深々と刺さる矢からは血が流れ続けていた。
「それは……」
「さよなら」
○は阿斗を高く空に投げた。
趙雲がそれを捕まえに行く間に、舷梯を登る。
しかし○が舷梯の中間に差し掛かった時、すでに阿斗を抱いた趙雲が獲物を振り回して舷梯を叩いて揺らした。
太ももを撃たれている○は何時もの様に走れない。
舷梯を揺らされるとその衝撃に矢が食い込んで立っていられなくなる。
流石に助けに来ようとした呉の兵を○が近づかない様にと一喝した。
侍女たちの大勢いるこんな船、趙雲がその気になれば一人で制圧できるかもしれない。
刺激してほしくなかった。
舷梯と陸地の境目まで来た趙雲はもう一度手を差し出すと、いつものように微笑む。
「さあ、おいで」
「……」
彼は本気で恋をした人。
このまま彼に騙された事にして、劉備軍に戻り殺されるのも自分の人生なのかもしれない。
自分の幸せを願うばかりに、こうして今は呉の皆を危険に晒している。
これは罰なのだ。
そう思った時、船の乗り口に陸遜が立った。
呆れた様に○を睨んでいる。
「○、情にほだされるのもいい加減にしなさい」
「…陸遜」
「一体どれだけ迷惑をかければ気が済むのですか。だから貴方は脳味噌筋肉だと言っているんです。身長ばかりビヨビヨ伸びて、それを生かす事も出来ずに何の進歩もない」
黙って俯く○の顔には、どこか諦めの表情が見て取れる。
「陸遜殿。悪いが、私と○の問題なので、口を挟まないでいただきたい」
趙雲が睨みつけるが陸遜は平然としている。
「何を言うのですか。そちらがずっと私と○の問題に口を挟んでいるというのに。彼女をここまで育て、その使い勝手の悪さに長年頭を抱えてきたのは私ですよ。あなた方が数ヶ月『管理』した程度でなにが分かるというのです」
「陸遜殿の○に対する言動は酷すぎる。彼女が大事ならもっと大切にすべきです。私ならこの後、国に戻っても○を守ることができる。私と共にいるべきです」
しかし口喧嘩にこの陸遜が負けるわけがない。
挑発するように大袈裟なため息をつくと肩をすくめた。
「優しく慈しみ守る事だけが”大切にする”ということですか?第一、これがそんなタマだとお思いだとは。教えておきますが、○にそういった思い違いをしていると後で痛い目をみますよ。いざという時にヘマをするのですから、この馬鹿は」
コテンパンの○はうつ向いて顔を上げない。
「……ですが、ハッキリと分かりました。趙雲殿に○は荷が重いようです。そんな事ではいつか○が邪魔になります」
陸遜は○に手を伸ばす。
「早く船に乗れと言っているんです! 聞こえないのですか!? 馬鹿者!!」
おずおずと伸ばした○の手をひったくると、無理矢理船に引き寄せる。
陸遜が思っていた以上に○の身体は軽かった。
力任せに引っ張ったのでそのまま後ろに尻餅をつくが、同時に舷梯を蹴とばして海に落とした。
船がゆっくりと沖に進んでいく。
「○!!!」
趙雲が大きく自分の名を呼ぶ。
○は身体を起こして乗り口に近づいた。
他の兵が、○が海に降りるのではないかと近づこうとしたが、陸遜が片手で制した。
浜に立ち尽くす趙雲が小さくなるまで、○は見つめた。
趙雲の後ろからは、やっと追いついた他の劉備軍の兵が走ってくるのが見えた。
趙雲が涙を流していたことは、○には見えていない。
その間の○ときたら、毎日ヘラヘラ笑って本当に幸せそうだった。
趙雲は公務で大忙しの中、たとえ僅かな時間でも「○殿の顔が見たくなりました」と、前触れもなくふらりと会いに来てくれる。
その優しさがとても嬉しかった。
最初は、誰かに嫌がらせを受けないとも言い切れないので、趙雲との事は黙っているつもりだったが、一週間もすればあっという間に城内に知れ渡っていた。
そこらの女性よりも頭一つ分大きく戦働きもこなす○は、直接的な嫌がらせの類を受けることはなかったが、陰口を言われていることは分かっていた。
○に気付いていないのか、はたまた気付いているのにわざとそうしているのか。
「……見た? 趙雲様、またわざわざあんな女のところへ」
「呉への建前で付き合っているフリをしているに決まっているわ。趙雲様ほどの御方が、あんな山賊のような女を本当に選ぶはずがないもの」
「身の程を知らないにも程があるわね」
「あんな男女みたいなのと」
井戸端や廊下の角で囁かれる陰口。
負け惜しみなのは重々承知だが、(ここまで嫌われるかね)と内心疲れる。
(まかり間違って陸遜とどうにかなってても、こんなこと言われたんだろうな)
人気のある人との交際はこんなにも疲れるものだったのかと痛感する。
なにせ人生初めての恋人が、あの趙雲なのだ。
恋愛の勝手も分からなければ、こういったやっかみへの対処法も知らない。
孫尚香は「山賊ですって?言い得て妙ねぇ!まあ、ほっときゃいいのよ。○に直接何かしてくる女の子なんていないんだから」と笑い飛ばしていた。
*****
そんなある夜。
呉からの使者が訪れた。
真夜中に○の部屋の窓にコソッとやってきて密書を渡すと去っていくその異様さ。
心臓が高鳴る。
密書を開くと、嫌な予感が的中した。
「事態は急を要す。劉備の益州入りに伴い、劉備は呉を軽んじ、同盟は崩壊の余地あり。姫様への監視が強まり、実質的な監禁状態に置かれる前に逃げること。猶予はない。本状が届く時、長江の河岸にて待つ。記載の経路にて姫様を連れ出せ。呉の精鋭が待機している」
文字を追う手が震えた。
自分たちには外の近況は一切知らされていない事を思い知る。
知らぬ間に、呉と劉備の間柄は緊張状態になっていたのだ。
こうなると公安の城の人間は自分たちをどう思っているのか、疑心暗鬼に陥った。
(違う。趙雲様は違う。でも)
○は手紙を懐に隠す。
趙雲の部屋で初めて共に朝を迎えた日の記憶が蘇る。
差し込む朝日の眩しさの中で、彼は○の手を優しく包み込み、誓うように言っていた。
ー何があっても私のあなたを想う気持ちだけは、決して変わりませんー
ーあなたと孫尚香様は、私が命に代えても守ってみせますー
ー信じてほしいー
あの時の彼のまっすぐな眼差しに嘘はないと思いたい。
(でも…何も教えてはくださらなかった。劉備様がどこに発つのかさえも)
彼らを信じすぎて、疑う事を忘れていた。
本来ならあそこまでかたくなに行き先を言わない時点で、自分が調べなくてはならなかったのに。
密書によると、作戦は明日。
あまり日を先にすると○や孫尚香の様子でバレてしまうかもしれないという理由から、かなり近い日に設定されたようだ。
○はそっと部屋を抜け出すと孫尚香の元へ向かう。
震える手で差し出した密書を読み終えた孫尚香の顔が、驚愕と悲しみに染まった。
「決行は明日。すでに呉の船が近くまで来てるわ。これを渡した使者が帰還して伝えてるはずだから」
「……そんな。急すぎるわ」
「当然じゃない。そうでもないと逃げられないわ。いい? 明日の夜、東の方角に狼煙が上がったら、それが合図。納屋に馬を準備しておくから、それに乗って先に船へ向かって。侍女たちも連れて逃げなくちゃ駄目だから、私はあなた達がまだ城にいるように振る舞って、限界まで時間を稼ぐ」
○の言葉に、孫尚香は彼女の両肩を強く掴む。
「待って、○! あなたは…あなたはここに残っていいのよ。あなたの家族のことは、私が責任を持って呉で守るから。だから、あなたは自分の幸せを……!」
「…」
○は何も答えず、ただ、孫尚香の手を優しく解き、深々と一礼して部屋を出た。
密書には、まだ続きがあった。
『阿斗を連れ去れ。人質として確保せよ』
その冷酷な指令を、○は親友にすら言えなかった。
そんな泥を被るのは、自分一人でいい。
翌日。
運命が味方したのだろうか。
趙雲は朝から演習と巡回のため、夕方まで城を空けることになっていた。
朝、出発の準備を整えた趙雲が、○の部屋の前に立ち寄る。
「○殿。今日は戻りが遅くなります。夕餉は先に済ませておいてください。夜、また会いに来てもいいでしょうか」
扉越しに聞こえる彼の声は、いつも通り穏やかだ。
○は扉に背中を預け、必死に声を整えた。
「……はい。お待ちしています」
「○殿?」
趙雲が、僅かな違和感を察した。
「どうかされましたか?なにやら声が…」
「いえ。ちょっと喉の調子が良くないのかもしれません」
「そうですか。戻ったら、ゆっくりお話ししましょう。……行ってきます」
遠ざかる足音を聞きながら、○は大きくため息をつく。
「戻ったら、ゆっくり」……そんな未来は、もう存在しない。
趙雲が演習を始めたのを確認すると、○は趙雲の部屋に忍び込んだ。
実はずっと気になっていたことがある。
何度か彼の部屋には入ったが、不自然な場所に敷物があったのだ。
一度通り過ぎざまに足を引っかけたことがあったが、敷物はピクリとも動かなかった。
まるでなにかで床に貼り付けてあるように。
その時は床の汚れを隠しているものだと思っていたが、ここを出る前に確認しておきたかった。
なんだか嫌な予感がしたから。
敷物は何かで簡単に貼られていた。
それを剥がして触ると、床の石が少し動くところを見つけた。
石を外すと書簡が沢山詰められている。
諸葛亮の署名が目に入ってそれを開いた。
署名は諸葛亮。
指示書のようだ。
『○を懐柔せよ』
とあり、○の身体的特徴や性格、簡単な家族構成や、呉での立ち位置が書かれている。
赤壁の際の出陣場所まで明記してある。
そして書きかけの書簡には、○との夜の回数、○の吐いた愚痴、趙雲との会話内容等が、戦果として淡々と記録されていた。
最下部には、諸葛亮の確認の署名が並んでいる。
○は夢中になって書簡を漁った。
すると底の方に、あらかじめ用意された届出書を見つける。
○の名前と、彼女を辺境の地に置くための異動届だった。
いつでの趙雲の一筆で使えるようにしてある。
恐らく、呉に帰る事も出来なくなった○が不要になった際、遠くに置いて飼い殺す為のものだ。
「…そっか」
○は小さく零した。
昨日まで自分を包んでいたあの腕は、愛を囁いていたあの唇は、すべてこの「報告書」を完成させるための道具に過ぎなかった。
女官たちのやっかみが全て真実だったのだ。
「おかしいと思った」
陸遜の言葉が、今になって呪いのように突き刺さる。
彼は言っていた。
趙雲への自分の気持ちが利用される可能性を。
趙雲が話した言葉は、すべては自分を監視し、手懐けるための甘い毒薬に過ぎなかった。
○は足早に自室に戻る。
部屋には趙雲に貰ったお菓子やら陶器が飾ってあったが、それらを全て床に投げつけた。
飾ってあったものがなくなってすっきりした机に、急いで書いた一通の手紙を置く。
『船を出すまで阿斗様をお預かりします。お一人で来られてください。出航に追い付けばお返しします』
荷物を小さく纏めると動きやすい服に着替えた。
(私は馬鹿だ…本当に。ここ一番って時にいつも間違える)
なにがやっかみだ。
なにが負け惜しみだ。
あの趙雲に見初められたと浮かれ、彼に守られていると信じ込んでいた自分。
その実、自分は諸葛亮の掌の上で転がされ、夜の営みまで「報告事項」として処理される、ただの滑稽な獲物に過ぎなかったのに。
情けなくて恥ずかしくて惨めだった。
彼らは敵だったのに幸せで忘れていた。
それどころか、孫尚香を危険に晒すところだった。
もう日が沈む。
そろそろ趙雲も帰ってくる。
自室の敷物が動いていることに気付くかもしれない。
○は部屋を飛び出すと、庭の木々に飛び込んで身を隠す。
身体を低くして向かうのは、阿斗のいる離れだ。
離れには、常々○達の陰口を叩いていた侍女が、槍を持って立っていた。
只ならぬ○の様相に顔色を変えて後ずさる。
「ど、どうなさいまし…っ」
言い終わる前に侍女の腹を蹴り上げた。
侍女はダラリと床に転がる。
死んではいないだろうが、それすらどっちでもよかった。
転がった侍女を跨いで中に押し入ると、数人の女官がいる。
声を出されては厄介なので急いで全員をのしたが、大泣きした阿斗のお陰で騒ぎが伝わり始めた。
「ここから逃げられたら帰してあげるから、ちょっと我慢してね」
そう言って阿斗を布に包むと窓から飛び出し、納屋に繋いであった馬に跨ると城外に駆けた。
城下を抜けた辺りで、背後から笛の音が聞こえた。
○を探しているようだ。
(思ったよりも早い)
敵兵の気配を感じながら、城下の外に広がる田園地帯を走りぬけ、その先にある森に入った。
この道のりなら、船の位置を気取られるまでの時間稼ぎができるだろう。
陸遜の練った策だ。
指令書にあった通りに走ると程なくして森を抜ける事が出来た。
そこは少し開けていて、呉の船がひっそりと一艘停まっており、船上から孫尚香がこちらに手を振っている。
孫尚香が船内に呼びかけると、船に近づく○を乗せる為の舷梯を下ろす為、兵が出てくるのが見えた。
ここは浅瀬が広がっているらしく、舷梯も相当な長さが必要なようだ。
舷梯に着くと○は小さく息を吐いて森を振り返る。
(早く来ないと、阿斗が呉に連れていかれてしまう…何してんのよ、趙雲!)
船上からは孫尚香がヤキモキしているようで、早く乗れと叫んでいた。
裏切られた憎しみは消えない。
それでも、最後にこの子を彼に返さなければ、自分は一生笑えなくなる。
○はギリギリまで彼を待とうとした。
その時。
ドン、と身体に衝撃を受けた。
思わず身体のバランスを崩して、背中に背負っている阿斗が泣き出さないようにその場に伏せた。
太ももが痛い。
見ると弩弓の矢が深く突き刺っていた。
○が痛みに耐えながら顔を上げると、木立の向こうからゆっくりと趙雲が姿を現した。
彼が弩弓で撃ったようだ。
いつもと変わらない顔でこちらにやってくる。
呉の兵や孫尚香が叫ぶが、○は逃げない。
すると孫尚香を掻き分けて陸遜が看板に出てきた。
「早く乗りなさい!!」
そう言った陸遜に、○は目を丸くした。
○が実行している策に、陸遜が割り込んでくる事など今まで一度もなかったからだ。
だからここにも来ていないと思っていた。
すぐに趙雲の声が○の意識を引き戻す。
○の間合いギリギリまで近づいた趙雲は、一通の手紙を握りしめていた。
「これはどういう事だ」
城を出る時、自身の机に置いた手紙に、この場所を記しておいたのだ。
彼が本当に一人で来たのなら、誰よりもここに早くたどり着くように。
趙雲の声を聞いた背中の阿斗が声を出す。
それに反応して趙雲の顔色が変わった。
「そんなに目の色を変えないでください。阿斗を連れ去る気はありません。手紙にも書いたでしょ」
○がそう言うと、孫尚香は驚いて陸遜を睨みつけた。
「まさかそんな事を命じていたの!?陸遜!!」
陸遜は目を反らす。
食ってかかりそうな孫尚香は、周囲の兵に宥められた。
「この子は、ここに来る途中で何かあった時の為の保険です。だからその手紙を。きっと、趙雲様がいち早く見つけてくれるだろうと思いましたので」
「……それを信じろと?」
趙雲はこちらを睨みつける。
「そう信じてくれたから、趙雲様はお一人でこちらに来られたのでしょう?阿斗の誘拐はここから逃げるまでの間だけ。だから、ここでお待ちしておりました」
言いながら阿斗を自分の正面で抱き、少し趙雲に近づいた。
船上からは「近づくな」と声がしたが無視する。
一歩近づくと、趙雲が声を振り絞ったように言う。
「何故だ。私のことを愛していなかったのか?すべては嘘だったのか?」
その言葉に、○は凍りつく。
「……それを貴方が言うのですか」
初めて聞いた○の冷たい声に、趙雲は驚いた顔をする。
「何を……私は本気で、あなたを……」
「本当は言いたくありませんでした。このままおとなしく阿斗を連れて行ってくれるなら、貴方に騙されたまま帰るつもりだったのに」
「何を言っている」
○は諦めたように書簡を差し出す。
○を懐柔しろという指示書と、夜の頻度まで書かれたあの報告書。
趙雲が固まった。
「私の心を弄んで、さぞいい気分だった事でしょう。如何でしたか?己の身分もわきまえず、ご自身の言葉一つ一つに浮かれる滑稽な女の様を見るのは?日々の酒の肴にでもなっていたのならいいのですが」
趙雲は弩弓を下ろす。
「それは……。○殿、あれは……」
「私は…あなたが大好きだったのに…」
○の声は掠れる。
下唇を噛みしめた。
「聞いてほしい……確かに、最初は任務だった。軍師殿から『呉の動向を探るため、○殿を繋ぎ止めておけ』と命じられた。あなたが…私に好感を持っていた事は明らかだったからだ……それは認めよう」
「それも全て劉備殿の為ならばと思っていたが、人の気持ちを弄ぶような真似もしたくなかった。しかし、あなたと過ごしている内にあなたを好きになり、最後は私から願い出たのだ」
「…うそばっかり」
「嘘ではない!報告を続けていたのは、あなたが孫尚香様の従者だからだ! 諸葛亮殿の指示に従っている振りをしていれば、あなたと自由に会うための名目が立つ……。あの異動届も、貴方が人質にされる様な事態になった時、軍師殿の手が届かぬ場所へあなたを逃がすための私なりの策だったのだ」
趙雲はいつもの優しい顔で手を差し伸べる。
「私は○を愛している。今なら孫尚香殿を守りたい一心で起こした事と説得しよう。戻って来なさい。足の手当てもしなくては」
「嘘だわ…本当に愛してくれていたならどうしてこんな矢を放てるの?私は逃げなかったし、引き止める方法なんていくらでもあったのに」
足に深々と刺さる矢からは血が流れ続けていた。
「それは……」
「さよなら」
○は阿斗を高く空に投げた。
趙雲がそれを捕まえに行く間に、舷梯を登る。
しかし○が舷梯の中間に差し掛かった時、すでに阿斗を抱いた趙雲が獲物を振り回して舷梯を叩いて揺らした。
太ももを撃たれている○は何時もの様に走れない。
舷梯を揺らされるとその衝撃に矢が食い込んで立っていられなくなる。
流石に助けに来ようとした呉の兵を○が近づかない様にと一喝した。
侍女たちの大勢いるこんな船、趙雲がその気になれば一人で制圧できるかもしれない。
刺激してほしくなかった。
舷梯と陸地の境目まで来た趙雲はもう一度手を差し出すと、いつものように微笑む。
「さあ、おいで」
「……」
彼は本気で恋をした人。
このまま彼に騙された事にして、劉備軍に戻り殺されるのも自分の人生なのかもしれない。
自分の幸せを願うばかりに、こうして今は呉の皆を危険に晒している。
これは罰なのだ。
そう思った時、船の乗り口に陸遜が立った。
呆れた様に○を睨んでいる。
「○、情にほだされるのもいい加減にしなさい」
「…陸遜」
「一体どれだけ迷惑をかければ気が済むのですか。だから貴方は脳味噌筋肉だと言っているんです。身長ばかりビヨビヨ伸びて、それを生かす事も出来ずに何の進歩もない」
黙って俯く○の顔には、どこか諦めの表情が見て取れる。
「陸遜殿。悪いが、私と○の問題なので、口を挟まないでいただきたい」
趙雲が睨みつけるが陸遜は平然としている。
「何を言うのですか。そちらがずっと私と○の問題に口を挟んでいるというのに。彼女をここまで育て、その使い勝手の悪さに長年頭を抱えてきたのは私ですよ。あなた方が数ヶ月『管理』した程度でなにが分かるというのです」
「陸遜殿の○に対する言動は酷すぎる。彼女が大事ならもっと大切にすべきです。私ならこの後、国に戻っても○を守ることができる。私と共にいるべきです」
しかし口喧嘩にこの陸遜が負けるわけがない。
挑発するように大袈裟なため息をつくと肩をすくめた。
「優しく慈しみ守る事だけが”大切にする”ということですか?第一、これがそんなタマだとお思いだとは。教えておきますが、○にそういった思い違いをしていると後で痛い目をみますよ。いざという時にヘマをするのですから、この馬鹿は」
コテンパンの○はうつ向いて顔を上げない。
「……ですが、ハッキリと分かりました。趙雲殿に○は荷が重いようです。そんな事ではいつか○が邪魔になります」
陸遜は○に手を伸ばす。
「早く船に乗れと言っているんです! 聞こえないのですか!? 馬鹿者!!」
おずおずと伸ばした○の手をひったくると、無理矢理船に引き寄せる。
陸遜が思っていた以上に○の身体は軽かった。
力任せに引っ張ったのでそのまま後ろに尻餅をつくが、同時に舷梯を蹴とばして海に落とした。
船がゆっくりと沖に進んでいく。
「○!!!」
趙雲が大きく自分の名を呼ぶ。
○は身体を起こして乗り口に近づいた。
他の兵が、○が海に降りるのではないかと近づこうとしたが、陸遜が片手で制した。
浜に立ち尽くす趙雲が小さくなるまで、○は見つめた。
趙雲の後ろからは、やっと追いついた他の劉備軍の兵が走ってくるのが見えた。
趙雲が涙を流していたことは、○には見えていない。