私は規格外【陸遜】
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今日は待ちに待った趙雲とのお出かけの日。
○は孫尚香にも後押しされながら、趙雲と待ち合わせて城を出た。
盆地である公安はどこを見渡しても山で、開けた水辺がないのが新鮮だ。
二人は林の中を抜けて、開けた小さな川の傍にたどり着く。
近くに馬を止めて休憩することにした。
「久しぶりに馬で外を駆け回ったから、気持ちいい」
そういうと○はゴロンと草の上に寝転ぶ。
寝転ぶとこちらを見る趙雲が目に入る。
手に布を持っているあたり、それを座る場所に敷いてくれようとしていたみたいだ。
慌てて起き上がる。
「す、すみません!はしたない事を…!」
しかし趙雲は笑う。
「いいのです。この布は、私が座るところに敷こうとと思って持ってきたものですから」
「それはそれで酷いです!」
真っ赤な顔で、趙雲の敷いてくれた布の上に座った。
公安に来てからというもの、まともに城から外に出た事がなかった○は、大きく息を吸いこむ。
「姫様も、いつかお連れしたいな」
「孫尚香様に?そういえば今朝、今日は一日、思い切り羽を伸ばさせてやってくれと言いに来られたな」
「もう。そんなことわざわざ趙雲様に…普段は劉備様の話ばかりなんですよ?」
「前々から気にはなっていたが」
趙雲が○を見る。
「○殿は、孫尚香様に随分と寛容ですね。お二人は主従関係ではなく友人なのでしょう?彼女は一国の姫君ですから当然なのかもしれないが、何が貴方にそこまでさせるのです?」
「うーん…そう言われると答えに困るんですけど。でも姫様も元々は共に戦場を駆け回っていたお方。今は私の様に、陸遜や凌統と会うこともできないでしょう?だからせめて、私といるとき位は気ままにさせてあげたいというか」
「貴方はどうなのですか?」
「私?」
趙雲がこちらに身を乗り出す。
距離が急に近くなって、ギョッとした○。
「貴方も、気の許せる方と会えるのは数えるほど。それに加えて孫尚香様の身の回りのお世話もして。私は知っている」
「し、知ってるって何を…」
「孫尚香様が周囲のやっかみや、我が軍の将達からの懐疑の視線に囚われないよう動いていることも。彼女が故郷への想いを紛らわせることができるよう、色々な趣味事を女官に聞き回っていることも」
そう言って微笑む趙雲は、「そろそろ日が沈みますね」といった。
「そろそろ帰りますか?」と尋ねる○を、趙雲は「待ってください」と引きとめた。
不思議に思いながらもそこで時間を潰しているうちに、木々の向こうに夕日が沈んでいき、林の中が暗くなる頃。
○が見たのは、息を呑むような光景だった。
闇の中に数えきれないほどの蛍の光が舞い、星のように瞬いている。
「綺麗…」
「これをお見せしたくて、ここを選びました。劉備殿が以前見つけられたそうです。あなたを連れて来てみたかったのですがなかなか時間が合わず、遅くなってしまいました」
「私をここに…?」
「ええ。水源地の多い国に住んでいたあなたに、水を感じていただきたくて」
そう言って笑う趙雲から、○は恥ずかしくて目を逸らす。
川に月明りが反射してキラキラ輝いていた。
○は非常の際には、孫尚香を守る為に死ぬ覚悟でここに来た。
趙雲はきっと、自分が孫尚香の付き人だという事や、その為なら当然の働きを美化しているだけに違いない。
孫尚香は、「趙雲とくっついてくれたら嬉しい」と言ってくれたが、ここでの自分にはそんなこと、許されるはずもない。
もし今後、孫劉同盟の間で何かあり孫尚香が危機に陥った時、自分はここで何をしてでも孫尚香を守るだろう。
自分と仲良くなることでその際に趙雲が悪く言われたり、彼の評価が落ちてしまうのも辛いし、自分に対する憎しみも倍増してしまう。
でも、そこまで分かっていても。
彼が自分を求めてくれるなら。
「○殿、手を出して」
そう言われて出した手に小さな箱を置いた。
視線で促されて箱を開けると、綺麗な装飾の施された櫛が入っていた。
それは以前城下で○が「キレイだ」と言った、公安の付近で取れる鉱物のはめ込まれた櫛だった。
しかも自分が買ったものよりも高そうだ。
「え。……これ」
「差し上げます。貴方に似合うかと思いましたので」
「も、貰えません!こんな高そうなものっ!駄目ですよ!」
「貴方の為に買ったのです。いらなければ後で捨ててください。…ですが今だけは、つけて頂いてもよろしいですか?」
そう言うと趙雲が箱からそれを取り出す。
○は小さくうなずいた。
すでに○の髪にささっている櫛をそっと外すと、趙雲が新しい櫛を付けてくれる。
○の髪についていた櫛を、趙雲がくれた櫛の入っていた箱に入れた。
ふと、これを購入した時のことを思い出す。
■■■■■■■
「久しぶりに買おうかなぁ」
数年前。
陸遜の執務の買い物に付き合って城下町を歩いていた。
途中、櫛の屋台で目移りしてしまう。
しばらく傍でその様子を眺めていた陸遜。
「早くしてください」と文句を言いながら、おもむろに一つを取り上げる。
「○にはこれ位の物がいいでしょう」
「??どういうこと?」
「これ位の物しか買えないでしょう」
「うっ!…図星だわ」
渋々ながら陸遜が持っている櫛を見ると、値段で見た割には趣味のいい装飾だった。
結局それを購入したのだが、その時にもお金が足りなくて陸遜に借りたのだ。
あれから何度か陸遜と会ったが、一度も料金を請求されたことがない。
(買ってくれるならそうと言えば良かったのに)と、何度も思った。
その翌日、櫛を着けて軍議に参加し、「見て」と陸遜に見せると、「ほら、あなたが選んだものよりも、そちらの方が良かったでしょう」と自慢げだった。
■■■■■■■
そんな思い出を心の隅で反芻しながらぼんやりと櫛を見ていると、趙雲の手が頬に触れる。
「○殿。私は、あなたが好きだ」
「えっ」
突然の言葉に顔が真っ赤になる。
暗いので、きっと趙雲にはバレていないだろう。
趙雲はゆっくりと○の肩を引き寄せた。
「私のことが嫌いですか?なら、何もしません」
「そんな事は…」
チラッと櫛を見たが。
「私も……す、好きです」
○が言い終わらない内に、趙雲の唇が触れた。
*****
翌日、○は早速孫尚香に趙雲との事を報告した。
孫尚香は自分のことのように飛び跳ねて喜んでくれて、呉にいた時のような明るい会話に花が咲いた。
しかしそんな浮き足立った空気は、一通の知らせで急変する。
劉備が遠くの戦場に赴くことが決まったのだ。
軍を率いて遠くへ発たねばならない夫と、それを見送らねばならない妻。
どこまで行くのかは教えてもらえず、ただ、「しばらく帰れなくなる」としか分からない。
しかし、あの趙雲を連れて行かないという事は、そんなに危険な場所ではないのだろう。
少し前まで一緒に笑っていた孫尚香の顔から、すっと色が消え、寂しげに伏せられた睫毛が震えているのを見て、○はハッと我に返った。
自分は趙雲と心が通じ合い、毎日顔を合わせることができる幸せの絶頂にいる。
けれど守らなければならない孫尚香は、これから愛する人と離れ離れになり、異郷の地で孤独な夜を過ごさねばならないのだ。
○は陸遜に渡された『小言書簡』を思い出す。
そこには確か、『主君の心に寄り添い、己の感情を律すること』とあった。
(……陸遜の言う通りね。私の幸せな話で尚香を余計に寂しくさせちゃいけない)
○はそう心に誓い、キリッと表情を引き締めた。
一方、呉の軍議室には、張り詰めた空気が漂っていた。
「劉備が益州へ動くと報告が入った。そのまま益州まで制圧されると、我々との同盟も危うくなる」
「今の内に、人質にされかねぬ姫様を呉へ連れ戻さねばならん。そのための手引きは、潜入させている○に任せるしかない」
その決定に、凌統は珍しく陸遜に対して険しい表情で詰め寄った。
「……おい、陸遜。分かってんだろうな。やり方によっちゃ、アイツは死ぬかもしれないんだぞ」
陸遜は視線を落とし、「……それが彼女の役目です」とだけ答えた。
それを分かっていて○はあちらに行った。
孫権の愛する女と引き換えに。
そんな陸遜を見て、淩統は大きく舌打ちをして軍議室を出て行った。
軍議の後。
一人、回廊を歩く陸遜の背中に、穏やかな声がかけられた。
振り返ると、そこには優雅に佇む大喬がいる。
「陸遜殿……お疲れのようですね」
最近は大喬と縁側に腰を据えて、ゆっくり話をする機会も増えた。
城内ではあるが、お茶もした事、数回。
いつも穏やかな彼女が、今日はとても心配そうな顔をしている。
「聞きましたよ、凌統殿に。姫様を連れ戻す予定なのでしょう?淩統殿は、随分と怒っていらっしゃいましたね」
陸遜を気遣うように大喬が微笑む。
「凌統殿は、○殿のご家族のようなものですから、心配は倍増なのでしょう」
「そうですね…」
「でも、陸遜殿は○殿の能力を高く評価されているからこそ、この様な役目を持たされたのですよね」
「…………正直、それもよく分かりません。そうだったかもしれないし、なんだかそれだけじゃなかった様な気もします」
大喬は少し笑った。
「陸遜殿は、○殿の事が大事なのですね」
「は??」
「きっとヤキモチをやいてしまったのでしょう。○殿が趙雲様のことを好いていらっしゃるから、意地悪をなさったのです」
そう言われて、開いた口が塞がらなかった。
大喬の慈愛に満ちた、けれどすべてを見透かすような言葉に、陸遜は開いた口が塞がらない。
「……は? 意地悪、ですか? 私が……?そんな子供じみた理由で、こんな危険な事まで…」
「恋をすると我を失って子供じみたことをしてしまうのは、大人も子供も一緒ですよ、陸遜殿」
「…」
「お茶をしていても、○殿の文句を言っている時のあなたが、一番生き生きしていました……ご自身の気持ちに気づいていないのは、貴方本人と○殿だけのようですね」
あと姫様もかな、と付け加えて大喬は美しく笑った。
「……っ、そ、そんな、理由で私は……!」
陸遜は激しく狼狽した。
自分が抱いていたあのイライラと焦燥感。
趙雲の名を聞くたびに込み上げた不快感。
呉に帰る直前、ビッチリと書き連ねたあの「小言」の数々。
それらがすべて、嫉妬から来るものだったというのか。
「いや、まさか」
まだ認めない陸遜に、大喬は美しく笑う。
「何事もなく○殿が戻ってこられる事を祈っています」
大喬と別れた後、陸遜は自室で使者に渡す書簡を書いていた。
しかし事あるごとに筆が止まる。
すぐに大喬の言っていた事が頭をよぎるからだ。
大きくため息をついて筆を置く。
(この私が、あんなデカイだけの熊みたいな女に、こ、こ、恋してるだなんて!大喬様も、私を振るならもっとマシな理由をつけてくださればいいものを)
そう思うと、腹ただしい様な、なんだか心のどこかがスッとした様な妙な気持ちになった。
○は孫尚香にも後押しされながら、趙雲と待ち合わせて城を出た。
盆地である公安はどこを見渡しても山で、開けた水辺がないのが新鮮だ。
二人は林の中を抜けて、開けた小さな川の傍にたどり着く。
近くに馬を止めて休憩することにした。
「久しぶりに馬で外を駆け回ったから、気持ちいい」
そういうと○はゴロンと草の上に寝転ぶ。
寝転ぶとこちらを見る趙雲が目に入る。
手に布を持っているあたり、それを座る場所に敷いてくれようとしていたみたいだ。
慌てて起き上がる。
「す、すみません!はしたない事を…!」
しかし趙雲は笑う。
「いいのです。この布は、私が座るところに敷こうとと思って持ってきたものですから」
「それはそれで酷いです!」
真っ赤な顔で、趙雲の敷いてくれた布の上に座った。
公安に来てからというもの、まともに城から外に出た事がなかった○は、大きく息を吸いこむ。
「姫様も、いつかお連れしたいな」
「孫尚香様に?そういえば今朝、今日は一日、思い切り羽を伸ばさせてやってくれと言いに来られたな」
「もう。そんなことわざわざ趙雲様に…普段は劉備様の話ばかりなんですよ?」
「前々から気にはなっていたが」
趙雲が○を見る。
「○殿は、孫尚香様に随分と寛容ですね。お二人は主従関係ではなく友人なのでしょう?彼女は一国の姫君ですから当然なのかもしれないが、何が貴方にそこまでさせるのです?」
「うーん…そう言われると答えに困るんですけど。でも姫様も元々は共に戦場を駆け回っていたお方。今は私の様に、陸遜や凌統と会うこともできないでしょう?だからせめて、私といるとき位は気ままにさせてあげたいというか」
「貴方はどうなのですか?」
「私?」
趙雲がこちらに身を乗り出す。
距離が急に近くなって、ギョッとした○。
「貴方も、気の許せる方と会えるのは数えるほど。それに加えて孫尚香様の身の回りのお世話もして。私は知っている」
「し、知ってるって何を…」
「孫尚香様が周囲のやっかみや、我が軍の将達からの懐疑の視線に囚われないよう動いていることも。彼女が故郷への想いを紛らわせることができるよう、色々な趣味事を女官に聞き回っていることも」
そう言って微笑む趙雲は、「そろそろ日が沈みますね」といった。
「そろそろ帰りますか?」と尋ねる○を、趙雲は「待ってください」と引きとめた。
不思議に思いながらもそこで時間を潰しているうちに、木々の向こうに夕日が沈んでいき、林の中が暗くなる頃。
○が見たのは、息を呑むような光景だった。
闇の中に数えきれないほどの蛍の光が舞い、星のように瞬いている。
「綺麗…」
「これをお見せしたくて、ここを選びました。劉備殿が以前見つけられたそうです。あなたを連れて来てみたかったのですがなかなか時間が合わず、遅くなってしまいました」
「私をここに…?」
「ええ。水源地の多い国に住んでいたあなたに、水を感じていただきたくて」
そう言って笑う趙雲から、○は恥ずかしくて目を逸らす。
川に月明りが反射してキラキラ輝いていた。
○は非常の際には、孫尚香を守る為に死ぬ覚悟でここに来た。
趙雲はきっと、自分が孫尚香の付き人だという事や、その為なら当然の働きを美化しているだけに違いない。
孫尚香は、「趙雲とくっついてくれたら嬉しい」と言ってくれたが、ここでの自分にはそんなこと、許されるはずもない。
もし今後、孫劉同盟の間で何かあり孫尚香が危機に陥った時、自分はここで何をしてでも孫尚香を守るだろう。
自分と仲良くなることでその際に趙雲が悪く言われたり、彼の評価が落ちてしまうのも辛いし、自分に対する憎しみも倍増してしまう。
でも、そこまで分かっていても。
彼が自分を求めてくれるなら。
「○殿、手を出して」
そう言われて出した手に小さな箱を置いた。
視線で促されて箱を開けると、綺麗な装飾の施された櫛が入っていた。
それは以前城下で○が「キレイだ」と言った、公安の付近で取れる鉱物のはめ込まれた櫛だった。
しかも自分が買ったものよりも高そうだ。
「え。……これ」
「差し上げます。貴方に似合うかと思いましたので」
「も、貰えません!こんな高そうなものっ!駄目ですよ!」
「貴方の為に買ったのです。いらなければ後で捨ててください。…ですが今だけは、つけて頂いてもよろしいですか?」
そう言うと趙雲が箱からそれを取り出す。
○は小さくうなずいた。
すでに○の髪にささっている櫛をそっと外すと、趙雲が新しい櫛を付けてくれる。
○の髪についていた櫛を、趙雲がくれた櫛の入っていた箱に入れた。
ふと、これを購入した時のことを思い出す。
■■■■■■■
「久しぶりに買おうかなぁ」
数年前。
陸遜の執務の買い物に付き合って城下町を歩いていた。
途中、櫛の屋台で目移りしてしまう。
しばらく傍でその様子を眺めていた陸遜。
「早くしてください」と文句を言いながら、おもむろに一つを取り上げる。
「○にはこれ位の物がいいでしょう」
「??どういうこと?」
「これ位の物しか買えないでしょう」
「うっ!…図星だわ」
渋々ながら陸遜が持っている櫛を見ると、値段で見た割には趣味のいい装飾だった。
結局それを購入したのだが、その時にもお金が足りなくて陸遜に借りたのだ。
あれから何度か陸遜と会ったが、一度も料金を請求されたことがない。
(買ってくれるならそうと言えば良かったのに)と、何度も思った。
その翌日、櫛を着けて軍議に参加し、「見て」と陸遜に見せると、「ほら、あなたが選んだものよりも、そちらの方が良かったでしょう」と自慢げだった。
■■■■■■■
そんな思い出を心の隅で反芻しながらぼんやりと櫛を見ていると、趙雲の手が頬に触れる。
「○殿。私は、あなたが好きだ」
「えっ」
突然の言葉に顔が真っ赤になる。
暗いので、きっと趙雲にはバレていないだろう。
趙雲はゆっくりと○の肩を引き寄せた。
「私のことが嫌いですか?なら、何もしません」
「そんな事は…」
チラッと櫛を見たが。
「私も……す、好きです」
○が言い終わらない内に、趙雲の唇が触れた。
*****
翌日、○は早速孫尚香に趙雲との事を報告した。
孫尚香は自分のことのように飛び跳ねて喜んでくれて、呉にいた時のような明るい会話に花が咲いた。
しかしそんな浮き足立った空気は、一通の知らせで急変する。
劉備が遠くの戦場に赴くことが決まったのだ。
軍を率いて遠くへ発たねばならない夫と、それを見送らねばならない妻。
どこまで行くのかは教えてもらえず、ただ、「しばらく帰れなくなる」としか分からない。
しかし、あの趙雲を連れて行かないという事は、そんなに危険な場所ではないのだろう。
少し前まで一緒に笑っていた孫尚香の顔から、すっと色が消え、寂しげに伏せられた睫毛が震えているのを見て、○はハッと我に返った。
自分は趙雲と心が通じ合い、毎日顔を合わせることができる幸せの絶頂にいる。
けれど守らなければならない孫尚香は、これから愛する人と離れ離れになり、異郷の地で孤独な夜を過ごさねばならないのだ。
○は陸遜に渡された『小言書簡』を思い出す。
そこには確か、『主君の心に寄り添い、己の感情を律すること』とあった。
(……陸遜の言う通りね。私の幸せな話で尚香を余計に寂しくさせちゃいけない)
○はそう心に誓い、キリッと表情を引き締めた。
一方、呉の軍議室には、張り詰めた空気が漂っていた。
「劉備が益州へ動くと報告が入った。そのまま益州まで制圧されると、我々との同盟も危うくなる」
「今の内に、人質にされかねぬ姫様を呉へ連れ戻さねばならん。そのための手引きは、潜入させている○に任せるしかない」
その決定に、凌統は珍しく陸遜に対して険しい表情で詰め寄った。
「……おい、陸遜。分かってんだろうな。やり方によっちゃ、アイツは死ぬかもしれないんだぞ」
陸遜は視線を落とし、「……それが彼女の役目です」とだけ答えた。
それを分かっていて○はあちらに行った。
孫権の愛する女と引き換えに。
そんな陸遜を見て、淩統は大きく舌打ちをして軍議室を出て行った。
軍議の後。
一人、回廊を歩く陸遜の背中に、穏やかな声がかけられた。
振り返ると、そこには優雅に佇む大喬がいる。
「陸遜殿……お疲れのようですね」
最近は大喬と縁側に腰を据えて、ゆっくり話をする機会も増えた。
城内ではあるが、お茶もした事、数回。
いつも穏やかな彼女が、今日はとても心配そうな顔をしている。
「聞きましたよ、凌統殿に。姫様を連れ戻す予定なのでしょう?淩統殿は、随分と怒っていらっしゃいましたね」
陸遜を気遣うように大喬が微笑む。
「凌統殿は、○殿のご家族のようなものですから、心配は倍増なのでしょう」
「そうですね…」
「でも、陸遜殿は○殿の能力を高く評価されているからこそ、この様な役目を持たされたのですよね」
「…………正直、それもよく分かりません。そうだったかもしれないし、なんだかそれだけじゃなかった様な気もします」
大喬は少し笑った。
「陸遜殿は、○殿の事が大事なのですね」
「は??」
「きっとヤキモチをやいてしまったのでしょう。○殿が趙雲様のことを好いていらっしゃるから、意地悪をなさったのです」
そう言われて、開いた口が塞がらなかった。
大喬の慈愛に満ちた、けれどすべてを見透かすような言葉に、陸遜は開いた口が塞がらない。
「……は? 意地悪、ですか? 私が……?そんな子供じみた理由で、こんな危険な事まで…」
「恋をすると我を失って子供じみたことをしてしまうのは、大人も子供も一緒ですよ、陸遜殿」
「…」
「お茶をしていても、○殿の文句を言っている時のあなたが、一番生き生きしていました……ご自身の気持ちに気づいていないのは、貴方本人と○殿だけのようですね」
あと姫様もかな、と付け加えて大喬は美しく笑った。
「……っ、そ、そんな、理由で私は……!」
陸遜は激しく狼狽した。
自分が抱いていたあのイライラと焦燥感。
趙雲の名を聞くたびに込み上げた不快感。
呉に帰る直前、ビッチリと書き連ねたあの「小言」の数々。
それらがすべて、嫉妬から来るものだったというのか。
「いや、まさか」
まだ認めない陸遜に、大喬は美しく笑う。
「何事もなく○殿が戻ってこられる事を祈っています」
大喬と別れた後、陸遜は自室で使者に渡す書簡を書いていた。
しかし事あるごとに筆が止まる。
すぐに大喬の言っていた事が頭をよぎるからだ。
大きくため息をついて筆を置く。
(この私が、あんなデカイだけの熊みたいな女に、こ、こ、恋してるだなんて!大喬様も、私を振るならもっとマシな理由をつけてくださればいいものを)
そう思うと、腹ただしい様な、なんだか心のどこかがスッとした様な妙な気持ちになった。