私は規格外【陸遜】
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翌朝、○は久しぶりに庭で凌統と鍛錬をしていた。
凌統が額の汗を拭いながら、不意に真面目な顔で尋ねる。
「で、どうなんだよ。こっちでの生活は」
「……まぁ、そうね。早くも呉での暮らしが懐かしいかな」
○は少し寂しげに、遠く東の空を見つめる。
「でも、年に数回は任務や休暇で帰れる私と違って、尚香はそうもいかないからさ。私が寂しがってもいられないわ」
淩統は「うーん」と腕組みをする。
○なりに色々考えている事に感心しながらも、幼い頃から実の妹の様に○を見守ってきた身としては心配ではある。
そうは言うものの、昨日の宴会で趙雲に言われた「普段の○殿のままがいい」という言葉が脳裏に浮かんではニヤニヤする○に、(まあ大丈夫か)と思い直す。
「……湿っぽいのは似合わねえしさ、ほら、ちょっと茶に付き合え」
凌統は○の首に腕を回してぐいぐいと引き寄せた。
二人が呉にいた頃のようにじゃれ合いながら歩いていると、ふと前方、城の長い廊下を歩いてくる人影が見える。
凛とした佇まいで歩いてくるのは、趙雲。
そしてその隣には、にこにこと淑やかに微笑む女官がいた。
○は淩統に小声で言う。
「見て、あの人。すっごい美人でしょ。しかもあの淑やかさ……ああいうのが、ここにはゴロゴロいるのよ」
「呉の女官は武家の出がおおいせいか、気が強いのが多いから新鮮だな」
昨夜、趙雲に「普段のあなたが好き」と言われたばかりだが、いざ目の前で彼が正統派の美人と並んでいるのを見ると、○の心は急激に縮こまる。
そして彼らに背を向けて歩こうとするが、淩統は力を入れて踏ん張る。
「あんな人たちが毎日趙雲様の周りにいるの。私みたいなデカくてガサツで煩いのが隣に並ぶなんて、やっぱりおこがましいっていうか、なんというか……」
「デカいの以外はお前の努力で何とでもなるだろ」
そう言った淩統は何かに気づいたようにニヤリと笑う。
「な、なによその顔」
「別に?苦労している様だなぁと思ってさ。その様子じゃ仲良くなったって訳じゃなさそうだ」
「う、うるさいわね!そもそも私は尚香の付き人で…いいから行こうって」
しかし淩統は動かない。
「仲良くなるきっかけ作りってな」
「離して!」
「いいからこっち向けっつの」
言うなり○の首を腕で引っ掛けたまま後ろを向かせると、趙雲と女官は思いの外近くにいた。
庭で掴み合いをしている○と凌統を廊下から見て、女官と2人して目を丸くしている。
凌統もこんなに近くに趙雲達がいるとは思わなかったのだろう。
どこか気まずそうだ。
「あー…ははは。なんかすいません。コイツが興奮しちゃって抑えてたら」
「はあ?適当なこ…」
言いかけた○の首を更にしめて黙らせる。
「いえ。…ええと、凌統殿でしたか」
「へえ、覚えててくれたんですね」
「勿論です。○殿にも何度かあなたの話を聞きましたから」
その趙雲に、凌統は「へえ、意外」と返したが、○は目を瞬かせる。
「いやぁそれにしても、綺麗な女官サンですねぇ。趙雲殿とお似合いだ」
凌統が趙雲の隣の女官を褒めると、彼女は嬉しそうに俯く。
本当に美人だ。
「お前も見習えっつの。趙雲殿も、コイツには気をつけてくださいよ?ホント昔から武芸にしか興味を示さない落ち着きのないヤツで、このまんまじゃ嫁の貰い手もないんじゃないかって俺も兄貴分として心配で「凌統!!」
○が凌統の言葉を遮る。
無理矢理腕から抜けると、ササッと髪を整えた。
今にも食ってかかりそうな○の肩に、淩統は腕を回すと、「まぁまぁ」と言って叩く。
「とりあえず邪魔しちゃ悪いし行くぜ。アンタの父君に預かってきてるもんもあるし」
「お気をつけて」
趙雲は女官を伴って去っていった。
凌統と入った、城下の適当な茶屋で○は吼えていた。
「もう!馬鹿凌統!!なんてことしてくれたのよ!!!」
なんてこと、というのは先程の庭でのことだ。
「いいんだよ。あれくらいしておかないと」
言いながら茶を一口飲む。
「あれくらいって何よ」
得意げな表情をする凌統に首をかしげる。
「人の物は良く見えるって原理さ」
「というと?」
「だから、誰かと○が親しげにするだろ?で、そいつが○に気があるんじゃないかと思わせるだろう?例えば今回は俺だ」
「はぁ?うん…私に気があるどうのっていうのと凌統が全く結びつかないけど。それで?」
「話の腰を折るな。…そう思ったら今度相手は、俺が、○のどこを好きになったのかな〜と考え始めるんだよ。そうなりゃあとは、自動で○のいいところ探しが始まるってことさ。現にお前、俺の話を趙雲殿にそんなにしてたのかい?」
「ううん。していなかったわ。なのに、私から凌統の話をよく聞いているだなんて…」
「それがいい証拠さ。張り合ってんだよ」
手をポンと叩いて感心する○だったが、すぐに眉間にしわを寄せる。
「でもなんかあざとい」
「策だっつの!」
「それにさぁ、その作戦如何なものかと思うよ」
「なんでさ」
「趙雲殿の隣にいた女官、めちゃくちゃ美人だったじゃない?その隣で凌統に悪口言われたのよ、私は。せめて一人の時とかさぁ…」
そう言って落ち込む○に乾いた笑いを向ける凌統。
お茶と一緒に頼んだ茶菓子を食べながら、近況報告をした2人。
呉も蜀も特に何も変わりなく、今のところは現状維持となる様だ。
毎日兄弟の様に顔を合わせていたら、数週間会わないだけでもおかしな気がするものだ。
情勢に関して話すことがなくなったので、話題は自然と趙雲の事になった。
「でも、よく考えたら、私が趙雲様とどうの、なんて過ぎた夢だよなぁ」
「は?」
「だって私は、劉備様の奥方の付き人なわけでしょ?そりゃ良くするわよね。それにさっきの女官だって、私よりずっと親しげで。なのに普段ほとんど話さないのに、ちょっと酒の席で話しただけの私が浮かれてさぁ、馬鹿みたい」
「ま、あの女官相当美人だったしな」
「あの人だけじゃないのよ。そりゃもうモテモテなの!私なんて、顔見たら思い出し笑いするって言われたのよ。甘寧が私に対する感情と一緒じゃないのよ!」
机を叩いて喚く。
甘寧も○を女性としては全く見ていない。
身体も大きくしっかりしている○は、気を遣わなくてもいい、何をしてもいい妹分の様な立ち位置だ。
「甘寧と趙雲殿を一緒にしちゃなんだと思うけどねぇ。ま、趙雲殿はあの通り育ちの良い美女に囲まれた生活をしてるお方だから、もしかしたら○みたいなスットコドッコイが新鮮で気になるかもしれないし」
「そんな枠に滑り込むしかないの、私…」
ますます悩む○に、凌統は他人事の様に笑った。
「それにしても、だ。陸遜殿はこれでいいのかねえ。俺の見た所、結構…」
「は?陸遜?」
「俺の見立てじゃ、陸遜殿、結構○の事好きなんじゃないかと…」
「はあああ?何言ってんの?」
心底憎たらしい顔で○が言う。
凌統も、陸遜が大喬の事が好きなのは(○がバラしたので)知っている。
(こういう女なんだよなぁ。可愛げのない)
「いや、好きとまでいかなくとも…うーん。まあいいや」
「なによそれ。中途半端ね。あ、もうこんな時間。そろそろ帰って、夜は城で飲みましょう!呉のお酒、持ってきてくれたんでしょ?」
ウキウキしている○に、凌統は頷いた。
*****
「うわぁ、これこれ!この味!」
夜の帳が下りた城の、孫尚香の離れのそば、月明かりが差し込む庭先で、○と凌統は車座になって酒盛りを始めていた。
二人が景気よく笑い声を上げていた、その時。
「……夜分に何という騒がしさですか。少しはわきまえなさい」
暗がりの廊下から、眉間に深い皺を寄せた陸遜が現れた。
「げっ、陸遜!?」
「何だ。どうしたんだよ」
凌統と○は、同時に驚く。
それもそのはず…呉にいた頃、陸遜は○・凌統・甘寧の三人組の飲み会には、絶対に近づかなかったからだ。
一度巻き込まれたら最後、朝まで不毛な愚痴と喧嘩と武勇伝を聞かされる地獄を知っている彼は、いつも遠くから軽蔑の眼差しを向けるだけだったのに。
「太陽が西から昇るんじゃねえか? あんたが俺らの酒席に自分から来るなんて」
凌統の揶揄いも無視して、陸遜は○の持つ杯を奪い取る。
「○に小言を言いに来たんですよ。そうしたらこんな所で酒盛りなど…ここは姫様の寝所のそばです。他国の城で醜態を晒すのは、呉の面汚しだと何度言えばわかるんですか。さあ、早く片付けて部屋に戻りなさい」
「えー、いいじゃない。どうせ尚香は、今頃劉備様と『寝所入り』してて、ここには帰ってこないんだから」
○が酒の勢いで、ガハハと笑いながら事も無げにそう言うと、陸遜の顔色がみるみるうちに険しくなる。
「あなたという人は!少しは淑女としての慎みというものを持ちなさい!そんな事、口に出すものではありません!」
「えっ、何よ、事実じゃない。駄目なの?おめでたいことなんだから……」
「事実であれば何を言ってもいいというわけではありません! 全く、あなたはこれだから……!」
陸遜はなおも憤慨した様子で、奪った杯を机に叩きつける。
しかし、○はそんな彼の剣幕にも慣れたもので、へらりと笑いながら空の杯を差し出す。
「まぁまぁ、ほら、陸遜も。ここは城から離れた離れなんだし、声だって届かないわよ。尚香のことは他の侍女たちがしっかり見張ってるんだから、今夜くらいはいいじゃない」
○はそう言うと、少しだけ表情を緩めて、月を見上げた。
「それにさ……みんな明日には帰っちゃうでしょ?ね、お願い」
その言葉に、凌統も「そうだぜ。堅苦しいこと言ってないで、たまには付き合えよ」と、自分の横の席をポンポンと叩く。
陸遜は、毒気を抜かれたようにふっと視線を逸らす。
いつもなら「私は忙しいので」と一蹴するところだが、呉を遠く離れたこの異郷の地で幼馴染とも言える二人の顔を見ると、意地を張り続けるのも馬鹿らしくなった。
「……一杯だけですよ」
「そう言って一杯で済んだ人を、私は知らないけどねぇ」
「俺も」
その予言通り、一杯では済まなかった。
陸遜には珍しく何杯も酒を飲み、朝には○と陸遜は酔いつぶれて寝ている淩統の膝で眠っていた。
周囲には割れた酒瓶が散乱し、○も陸遜も泣いた跡があるが記憶がない。
なんとなく淩統に聞いた話では、泣き上戸になった陸遜につられて○も泣いて、収拾がつかなくなっていた…気がすると言われた。
部屋に戻ってきた孫尚香が驚いて起こすまでぐっすり眠って、陸遜はしっかり二日酔いになっていた。
翌朝、荊州の空は恨めしいほどに晴れ渡っていた。
昨夜の酒が残り顔色の悪い陸遜の背中を、○は「ほら、シャキッとしなさいよ!」と遠慮なく叩く。
「う……。やめなさい、脳に響く……」
「情けないわねぇ、あの程度で。ほら、貸して」
○は甲斐甲斐しく陸遜の荷造りを手伝いながら、ポツポツと話をする。
「全く…気まぐれにあなた達の飲み会になど、参加するんじゃなかった」
「なんで~?楽しかったでしょ」
「決意を新たにしました。絶対にあなた達とは酒を飲みません。大体あなたは…」
と、小言を並べようとした陸遜を○が遮る。
「……あのさ、陸遜」
「なんですか。まだ言い訳があるなら……」
「もう私たち、前みたいにいつでも会えるわけじゃないんだからさ。次、会えるまで生きていられるかも分からないんだし。……会える間だけでも、もうちょっと仲良くしようよ」
○は寂しげに眉を下げて、少しだけ弱々しく微笑む。
陸遜よりも背の高い○が小さく見える。
陸遜は次の小言を吐き出そうとしていた口を、そのまま固く結んだ。
○の寂しそうな顔を、彼は正面から受け止めることができない。
(分かっています。そんなこと、私が一番、分かっているのに……)
「……仲良く、ですか」
陸遜は視線を落とし、衣を畳んでいた手を止める。
「……私は、あなたと喧嘩をしているつもりはありません。ただ……あなたがこの地で、一人で戦っているかと思うと、つい……これでも心配しているのです」
陸遜はそこまで言って言葉を濁し向き直る。
「せいぜい、自重しなさい。何かあればすぐに文を送ること。いいですね」
「……うん!」
○はいつもの明るい笑顔に戻り、陸遜の肩を再び強く叩いて舌打ちをされた。
ついに、呉の面々が発つ。
城門の前には馬や馬車が並び、別れを惜しむ声が響いている。
「流石に、寂しくなるな」
凌統がそう言ってポンポンと力強く背中を叩く。
○もその腕を叩き返し、鼻の奥がツンとするのを堪えた。
「凌統もね。……父上によろしく。甘寧にも、よろしく言っておいて」
「ああ。○の親父さん、寂しがってたからな。たまには手紙出してやれよ」
凌統は快活に笑って馬に飛び乗る。
孫尚香も、大喬や侍女たちと涙を浮かべて手を取り合っている。
そんな中、陸遜だけは少し離れた場所で、なんとも言えない顔をして佇んでいた。
○は彼のもとへ歩み寄る。
「ほら陸遜。お別れの挨拶は?」
「……」
「昨日の夜、私があんな寂しいこと言ったから、気を遣わせちゃったかな。じゃあ…お小言をどうぞ。全部聞くわよ」
○がわざと明るく振る舞ってそう言うと、陸遜は懐から一通の、ずっしりと重みのある書簡を取り出した。
「言い出したらキリがなかったので。……これを」
「え、なにこれ。でっか」
○が不思議に思ってそれを受け取り、封を開くと顔を引きらせた。
そこには、小さな文字で「小言」がビッチリと書き連ねられていたのだ。
「こ…、アンタ…」
と、声にならない声を上げて震える。
「今朝、頑張って仕上げました。口で言っても忘れてしまうし、文句を言われますからね」
「あの短時間でここまで書くって…こわ~」
陸遜は満足げに、そしていつもの不遜で自信たっぷりな笑みを浮かべる。
その表情を見て、○は少しだけ安心した。
これこそが、自分の知っている「嫌味な陸遜」だったから。
「……読み終わる頃には、また会えるかもしれませんね。では……○、達者で」
陸遜は最後に、ほんの一瞬だけ真剣な眼差しを○に向けると、ポンと腕を叩いて優雅な所作で馬に乗った。
○は呆れながらも、その重たい書簡を大切そうに胸に抱く。
走り去る呉の軍勢を見送る○の隣に、いつの間にか見送りの列に加わっていた趙雲が歩み寄る。
「……賑やかな方々でしたね。寂しくはありませんか?」
「あ、趙雲様。……寂しくないと言ったら嘘になりますけど…これだけ小言を貰っちゃいましたから、当分は退屈しそうにありません」
○は手元の書簡を趙雲に見せて、カラリと笑ったが、いつまでの一行が去った方向を見つめている。
趙雲はその背中を少し離れた場所から見守った。
○の堂々たる体躯は、戦場では誰よりも頼もしく映るはずなのに、今の彼女の背中は、枯れそうな草の様にどこか心許なく見える。
○は左右に人がいないのを横目に確認すると、そっと手のひらで頬を拭う。
「○殿」
趙雲が穏やかに声をかけると、○は急いで振り向いた。
振り向いた○の顔はいつも通りだった。
「あ、趙雲様!すみません、ぼーっとしてしまって。昨日飲みすぎてしまったかもしれません」
いつものように快活に笑うと、城に向かって歩く。
その歩幅に合わせて趙雲もついて行った。
「賑やかな友人が去るというのは、心に穴が開いたような心地になるものですからね」
「そうですね…本当に。でも、時間が解決することも分かっているので、大丈夫です。慣れですよ、慣れ」
○は自分に言い聞かせるようにそう言った。
趙雲はそんな彼女の横顔を、慈しむような、けれどどこか熱を持った眼差しで見つめる。
「○殿。先ほどの書簡、陸遜殿から『小言』を頂いたと仰っていましたね」
「ええ。もう、見てくださいよこれ。どんだけあるんだって話で…見るだけで吐きそう…」
「その中に……『趙雲と話をするな』という項目はありましたか?」
「いやぁ、流石にそこまで細かい事は書いてないでしょうけど…項目がありすぎて…」
「書いていないのなら、お茶に付き合ってください。今日これからでも、私は構いません」
そう言って手を差し出した趙雲に、○は固まる。
そして少し目を泳がせてから頭を下げる。
「あ、あの…すみません!呉の皆が、その……散らかしていった物がたくさん残っていて。片付けをしなくちゃダメで…せっかく誘ってくださったのに、本当に申し訳ありません! また、今度……また必ず誘ってください!」
○はそう一気に捲し立てると、逃げるように、けれど深々と一礼して、その場を走り去ってしまった。
一人残された趙雲は、空中に取り残された自分の手を見つめ、少しだけ驚いたように目を瞬かせる。
彼が誰かに…それも明らかに自分を慕ってくれているはずの女性に誘いを断られたのは、記憶にないほどの珍事だ。
趙雲は遠ざかる○の背中を見送りながら、彼女が抱えた寂しさと、それを隠そうとする意地に、静かに息をついた。
その日の午後。
○は宣言通り、呉の面々が宿泊していた離れの部屋を必死に掃除した。
宴の残骸を片付け、拭き掃除をし、孫尚香の部屋も整える。
そうやって体を動かしている間だけは、胸に空いた穴を忘れられる気がした。
掃除が一段落した頃、○は窓辺に腰を下ろす。
夕暮れ時の淡い光が、誰もいなくなった静かな部屋に差し込んで綺麗だった。
○は懐から、あの分厚い陸遜の書簡を取り出す。
『一、ガニ股で歩かないこと』
『一、大食いをしないこと』
『一、子供相手に賭博をしないこと』
(本当にやめた方が良い事ばっかりだわ…)
○はそう呟きながら、陸遜の几帳面すぎる文字を指でなぞった。
ビッチリと書かれた小言の数々を、あの朝の短時間で書き上げた事に脱帽する。
窓の外を見れば、遠く西の空が赤く染まっていた
その先にある呉の国へ、今頃陸遜や凌統が馬を走らせているはず。
「よし…頑張らなきゃ。私は大丈夫」
○は書簡をぎゅっと抱きしめ、独り言を漏らした。
陸遜の言葉通り、自分は「呉の将」としてここにいる。
趙雲に甘えて、その優しさに寄りかかってばかりではいられない。
けれど、静まり返った部屋に広がる「寂しさ」は、陸遜の小言をもってしても、すぐには埋まりそうになかった。
凌統が額の汗を拭いながら、不意に真面目な顔で尋ねる。
「で、どうなんだよ。こっちでの生活は」
「……まぁ、そうね。早くも呉での暮らしが懐かしいかな」
○は少し寂しげに、遠く東の空を見つめる。
「でも、年に数回は任務や休暇で帰れる私と違って、尚香はそうもいかないからさ。私が寂しがってもいられないわ」
淩統は「うーん」と腕組みをする。
○なりに色々考えている事に感心しながらも、幼い頃から実の妹の様に○を見守ってきた身としては心配ではある。
そうは言うものの、昨日の宴会で趙雲に言われた「普段の○殿のままがいい」という言葉が脳裏に浮かんではニヤニヤする○に、(まあ大丈夫か)と思い直す。
「……湿っぽいのは似合わねえしさ、ほら、ちょっと茶に付き合え」
凌統は○の首に腕を回してぐいぐいと引き寄せた。
二人が呉にいた頃のようにじゃれ合いながら歩いていると、ふと前方、城の長い廊下を歩いてくる人影が見える。
凛とした佇まいで歩いてくるのは、趙雲。
そしてその隣には、にこにこと淑やかに微笑む女官がいた。
○は淩統に小声で言う。
「見て、あの人。すっごい美人でしょ。しかもあの淑やかさ……ああいうのが、ここにはゴロゴロいるのよ」
「呉の女官は武家の出がおおいせいか、気が強いのが多いから新鮮だな」
昨夜、趙雲に「普段のあなたが好き」と言われたばかりだが、いざ目の前で彼が正統派の美人と並んでいるのを見ると、○の心は急激に縮こまる。
そして彼らに背を向けて歩こうとするが、淩統は力を入れて踏ん張る。
「あんな人たちが毎日趙雲様の周りにいるの。私みたいなデカくてガサツで煩いのが隣に並ぶなんて、やっぱりおこがましいっていうか、なんというか……」
「デカいの以外はお前の努力で何とでもなるだろ」
そう言った淩統は何かに気づいたようにニヤリと笑う。
「な、なによその顔」
「別に?苦労している様だなぁと思ってさ。その様子じゃ仲良くなったって訳じゃなさそうだ」
「う、うるさいわね!そもそも私は尚香の付き人で…いいから行こうって」
しかし淩統は動かない。
「仲良くなるきっかけ作りってな」
「離して!」
「いいからこっち向けっつの」
言うなり○の首を腕で引っ掛けたまま後ろを向かせると、趙雲と女官は思いの外近くにいた。
庭で掴み合いをしている○と凌統を廊下から見て、女官と2人して目を丸くしている。
凌統もこんなに近くに趙雲達がいるとは思わなかったのだろう。
どこか気まずそうだ。
「あー…ははは。なんかすいません。コイツが興奮しちゃって抑えてたら」
「はあ?適当なこ…」
言いかけた○の首を更にしめて黙らせる。
「いえ。…ええと、凌統殿でしたか」
「へえ、覚えててくれたんですね」
「勿論です。○殿にも何度かあなたの話を聞きましたから」
その趙雲に、凌統は「へえ、意外」と返したが、○は目を瞬かせる。
「いやぁそれにしても、綺麗な女官サンですねぇ。趙雲殿とお似合いだ」
凌統が趙雲の隣の女官を褒めると、彼女は嬉しそうに俯く。
本当に美人だ。
「お前も見習えっつの。趙雲殿も、コイツには気をつけてくださいよ?ホント昔から武芸にしか興味を示さない落ち着きのないヤツで、このまんまじゃ嫁の貰い手もないんじゃないかって俺も兄貴分として心配で「凌統!!」
○が凌統の言葉を遮る。
無理矢理腕から抜けると、ササッと髪を整えた。
今にも食ってかかりそうな○の肩に、淩統は腕を回すと、「まぁまぁ」と言って叩く。
「とりあえず邪魔しちゃ悪いし行くぜ。アンタの父君に預かってきてるもんもあるし」
「お気をつけて」
趙雲は女官を伴って去っていった。
凌統と入った、城下の適当な茶屋で○は吼えていた。
「もう!馬鹿凌統!!なんてことしてくれたのよ!!!」
なんてこと、というのは先程の庭でのことだ。
「いいんだよ。あれくらいしておかないと」
言いながら茶を一口飲む。
「あれくらいって何よ」
得意げな表情をする凌統に首をかしげる。
「人の物は良く見えるって原理さ」
「というと?」
「だから、誰かと○が親しげにするだろ?で、そいつが○に気があるんじゃないかと思わせるだろう?例えば今回は俺だ」
「はぁ?うん…私に気があるどうのっていうのと凌統が全く結びつかないけど。それで?」
「話の腰を折るな。…そう思ったら今度相手は、俺が、○のどこを好きになったのかな〜と考え始めるんだよ。そうなりゃあとは、自動で○のいいところ探しが始まるってことさ。現にお前、俺の話を趙雲殿にそんなにしてたのかい?」
「ううん。していなかったわ。なのに、私から凌統の話をよく聞いているだなんて…」
「それがいい証拠さ。張り合ってんだよ」
手をポンと叩いて感心する○だったが、すぐに眉間にしわを寄せる。
「でもなんかあざとい」
「策だっつの!」
「それにさぁ、その作戦如何なものかと思うよ」
「なんでさ」
「趙雲殿の隣にいた女官、めちゃくちゃ美人だったじゃない?その隣で凌統に悪口言われたのよ、私は。せめて一人の時とかさぁ…」
そう言って落ち込む○に乾いた笑いを向ける凌統。
お茶と一緒に頼んだ茶菓子を食べながら、近況報告をした2人。
呉も蜀も特に何も変わりなく、今のところは現状維持となる様だ。
毎日兄弟の様に顔を合わせていたら、数週間会わないだけでもおかしな気がするものだ。
情勢に関して話すことがなくなったので、話題は自然と趙雲の事になった。
「でも、よく考えたら、私が趙雲様とどうの、なんて過ぎた夢だよなぁ」
「は?」
「だって私は、劉備様の奥方の付き人なわけでしょ?そりゃ良くするわよね。それにさっきの女官だって、私よりずっと親しげで。なのに普段ほとんど話さないのに、ちょっと酒の席で話しただけの私が浮かれてさぁ、馬鹿みたい」
「ま、あの女官相当美人だったしな」
「あの人だけじゃないのよ。そりゃもうモテモテなの!私なんて、顔見たら思い出し笑いするって言われたのよ。甘寧が私に対する感情と一緒じゃないのよ!」
机を叩いて喚く。
甘寧も○を女性としては全く見ていない。
身体も大きくしっかりしている○は、気を遣わなくてもいい、何をしてもいい妹分の様な立ち位置だ。
「甘寧と趙雲殿を一緒にしちゃなんだと思うけどねぇ。ま、趙雲殿はあの通り育ちの良い美女に囲まれた生活をしてるお方だから、もしかしたら○みたいなスットコドッコイが新鮮で気になるかもしれないし」
「そんな枠に滑り込むしかないの、私…」
ますます悩む○に、凌統は他人事の様に笑った。
「それにしても、だ。陸遜殿はこれでいいのかねえ。俺の見た所、結構…」
「は?陸遜?」
「俺の見立てじゃ、陸遜殿、結構○の事好きなんじゃないかと…」
「はあああ?何言ってんの?」
心底憎たらしい顔で○が言う。
凌統も、陸遜が大喬の事が好きなのは(○がバラしたので)知っている。
(こういう女なんだよなぁ。可愛げのない)
「いや、好きとまでいかなくとも…うーん。まあいいや」
「なによそれ。中途半端ね。あ、もうこんな時間。そろそろ帰って、夜は城で飲みましょう!呉のお酒、持ってきてくれたんでしょ?」
ウキウキしている○に、凌統は頷いた。
*****
「うわぁ、これこれ!この味!」
夜の帳が下りた城の、孫尚香の離れのそば、月明かりが差し込む庭先で、○と凌統は車座になって酒盛りを始めていた。
二人が景気よく笑い声を上げていた、その時。
「……夜分に何という騒がしさですか。少しはわきまえなさい」
暗がりの廊下から、眉間に深い皺を寄せた陸遜が現れた。
「げっ、陸遜!?」
「何だ。どうしたんだよ」
凌統と○は、同時に驚く。
それもそのはず…呉にいた頃、陸遜は○・凌統・甘寧の三人組の飲み会には、絶対に近づかなかったからだ。
一度巻き込まれたら最後、朝まで不毛な愚痴と喧嘩と武勇伝を聞かされる地獄を知っている彼は、いつも遠くから軽蔑の眼差しを向けるだけだったのに。
「太陽が西から昇るんじゃねえか? あんたが俺らの酒席に自分から来るなんて」
凌統の揶揄いも無視して、陸遜は○の持つ杯を奪い取る。
「○に小言を言いに来たんですよ。そうしたらこんな所で酒盛りなど…ここは姫様の寝所のそばです。他国の城で醜態を晒すのは、呉の面汚しだと何度言えばわかるんですか。さあ、早く片付けて部屋に戻りなさい」
「えー、いいじゃない。どうせ尚香は、今頃劉備様と『寝所入り』してて、ここには帰ってこないんだから」
○が酒の勢いで、ガハハと笑いながら事も無げにそう言うと、陸遜の顔色がみるみるうちに険しくなる。
「あなたという人は!少しは淑女としての慎みというものを持ちなさい!そんな事、口に出すものではありません!」
「えっ、何よ、事実じゃない。駄目なの?おめでたいことなんだから……」
「事実であれば何を言ってもいいというわけではありません! 全く、あなたはこれだから……!」
陸遜はなおも憤慨した様子で、奪った杯を机に叩きつける。
しかし、○はそんな彼の剣幕にも慣れたもので、へらりと笑いながら空の杯を差し出す。
「まぁまぁ、ほら、陸遜も。ここは城から離れた離れなんだし、声だって届かないわよ。尚香のことは他の侍女たちがしっかり見張ってるんだから、今夜くらいはいいじゃない」
○はそう言うと、少しだけ表情を緩めて、月を見上げた。
「それにさ……みんな明日には帰っちゃうでしょ?ね、お願い」
その言葉に、凌統も「そうだぜ。堅苦しいこと言ってないで、たまには付き合えよ」と、自分の横の席をポンポンと叩く。
陸遜は、毒気を抜かれたようにふっと視線を逸らす。
いつもなら「私は忙しいので」と一蹴するところだが、呉を遠く離れたこの異郷の地で幼馴染とも言える二人の顔を見ると、意地を張り続けるのも馬鹿らしくなった。
「……一杯だけですよ」
「そう言って一杯で済んだ人を、私は知らないけどねぇ」
「俺も」
その予言通り、一杯では済まなかった。
陸遜には珍しく何杯も酒を飲み、朝には○と陸遜は酔いつぶれて寝ている淩統の膝で眠っていた。
周囲には割れた酒瓶が散乱し、○も陸遜も泣いた跡があるが記憶がない。
なんとなく淩統に聞いた話では、泣き上戸になった陸遜につられて○も泣いて、収拾がつかなくなっていた…気がすると言われた。
部屋に戻ってきた孫尚香が驚いて起こすまでぐっすり眠って、陸遜はしっかり二日酔いになっていた。
翌朝、荊州の空は恨めしいほどに晴れ渡っていた。
昨夜の酒が残り顔色の悪い陸遜の背中を、○は「ほら、シャキッとしなさいよ!」と遠慮なく叩く。
「う……。やめなさい、脳に響く……」
「情けないわねぇ、あの程度で。ほら、貸して」
○は甲斐甲斐しく陸遜の荷造りを手伝いながら、ポツポツと話をする。
「全く…気まぐれにあなた達の飲み会になど、参加するんじゃなかった」
「なんで~?楽しかったでしょ」
「決意を新たにしました。絶対にあなた達とは酒を飲みません。大体あなたは…」
と、小言を並べようとした陸遜を○が遮る。
「……あのさ、陸遜」
「なんですか。まだ言い訳があるなら……」
「もう私たち、前みたいにいつでも会えるわけじゃないんだからさ。次、会えるまで生きていられるかも分からないんだし。……会える間だけでも、もうちょっと仲良くしようよ」
○は寂しげに眉を下げて、少しだけ弱々しく微笑む。
陸遜よりも背の高い○が小さく見える。
陸遜は次の小言を吐き出そうとしていた口を、そのまま固く結んだ。
○の寂しそうな顔を、彼は正面から受け止めることができない。
(分かっています。そんなこと、私が一番、分かっているのに……)
「……仲良く、ですか」
陸遜は視線を落とし、衣を畳んでいた手を止める。
「……私は、あなたと喧嘩をしているつもりはありません。ただ……あなたがこの地で、一人で戦っているかと思うと、つい……これでも心配しているのです」
陸遜はそこまで言って言葉を濁し向き直る。
「せいぜい、自重しなさい。何かあればすぐに文を送ること。いいですね」
「……うん!」
○はいつもの明るい笑顔に戻り、陸遜の肩を再び強く叩いて舌打ちをされた。
ついに、呉の面々が発つ。
城門の前には馬や馬車が並び、別れを惜しむ声が響いている。
「流石に、寂しくなるな」
凌統がそう言ってポンポンと力強く背中を叩く。
○もその腕を叩き返し、鼻の奥がツンとするのを堪えた。
「凌統もね。……父上によろしく。甘寧にも、よろしく言っておいて」
「ああ。○の親父さん、寂しがってたからな。たまには手紙出してやれよ」
凌統は快活に笑って馬に飛び乗る。
孫尚香も、大喬や侍女たちと涙を浮かべて手を取り合っている。
そんな中、陸遜だけは少し離れた場所で、なんとも言えない顔をして佇んでいた。
○は彼のもとへ歩み寄る。
「ほら陸遜。お別れの挨拶は?」
「……」
「昨日の夜、私があんな寂しいこと言ったから、気を遣わせちゃったかな。じゃあ…お小言をどうぞ。全部聞くわよ」
○がわざと明るく振る舞ってそう言うと、陸遜は懐から一通の、ずっしりと重みのある書簡を取り出した。
「言い出したらキリがなかったので。……これを」
「え、なにこれ。でっか」
○が不思議に思ってそれを受け取り、封を開くと顔を引きらせた。
そこには、小さな文字で「小言」がビッチリと書き連ねられていたのだ。
「こ…、アンタ…」
と、声にならない声を上げて震える。
「今朝、頑張って仕上げました。口で言っても忘れてしまうし、文句を言われますからね」
「あの短時間でここまで書くって…こわ~」
陸遜は満足げに、そしていつもの不遜で自信たっぷりな笑みを浮かべる。
その表情を見て、○は少しだけ安心した。
これこそが、自分の知っている「嫌味な陸遜」だったから。
「……読み終わる頃には、また会えるかもしれませんね。では……○、達者で」
陸遜は最後に、ほんの一瞬だけ真剣な眼差しを○に向けると、ポンと腕を叩いて優雅な所作で馬に乗った。
○は呆れながらも、その重たい書簡を大切そうに胸に抱く。
走り去る呉の軍勢を見送る○の隣に、いつの間にか見送りの列に加わっていた趙雲が歩み寄る。
「……賑やかな方々でしたね。寂しくはありませんか?」
「あ、趙雲様。……寂しくないと言ったら嘘になりますけど…これだけ小言を貰っちゃいましたから、当分は退屈しそうにありません」
○は手元の書簡を趙雲に見せて、カラリと笑ったが、いつまでの一行が去った方向を見つめている。
趙雲はその背中を少し離れた場所から見守った。
○の堂々たる体躯は、戦場では誰よりも頼もしく映るはずなのに、今の彼女の背中は、枯れそうな草の様にどこか心許なく見える。
○は左右に人がいないのを横目に確認すると、そっと手のひらで頬を拭う。
「○殿」
趙雲が穏やかに声をかけると、○は急いで振り向いた。
振り向いた○の顔はいつも通りだった。
「あ、趙雲様!すみません、ぼーっとしてしまって。昨日飲みすぎてしまったかもしれません」
いつものように快活に笑うと、城に向かって歩く。
その歩幅に合わせて趙雲もついて行った。
「賑やかな友人が去るというのは、心に穴が開いたような心地になるものですからね」
「そうですね…本当に。でも、時間が解決することも分かっているので、大丈夫です。慣れですよ、慣れ」
○は自分に言い聞かせるようにそう言った。
趙雲はそんな彼女の横顔を、慈しむような、けれどどこか熱を持った眼差しで見つめる。
「○殿。先ほどの書簡、陸遜殿から『小言』を頂いたと仰っていましたね」
「ええ。もう、見てくださいよこれ。どんだけあるんだって話で…見るだけで吐きそう…」
「その中に……『趙雲と話をするな』という項目はありましたか?」
「いやぁ、流石にそこまで細かい事は書いてないでしょうけど…項目がありすぎて…」
「書いていないのなら、お茶に付き合ってください。今日これからでも、私は構いません」
そう言って手を差し出した趙雲に、○は固まる。
そして少し目を泳がせてから頭を下げる。
「あ、あの…すみません!呉の皆が、その……散らかしていった物がたくさん残っていて。片付けをしなくちゃダメで…せっかく誘ってくださったのに、本当に申し訳ありません! また、今度……また必ず誘ってください!」
○はそう一気に捲し立てると、逃げるように、けれど深々と一礼して、その場を走り去ってしまった。
一人残された趙雲は、空中に取り残された自分の手を見つめ、少しだけ驚いたように目を瞬かせる。
彼が誰かに…それも明らかに自分を慕ってくれているはずの女性に誘いを断られたのは、記憶にないほどの珍事だ。
趙雲は遠ざかる○の背中を見送りながら、彼女が抱えた寂しさと、それを隠そうとする意地に、静かに息をついた。
その日の午後。
○は宣言通り、呉の面々が宿泊していた離れの部屋を必死に掃除した。
宴の残骸を片付け、拭き掃除をし、孫尚香の部屋も整える。
そうやって体を動かしている間だけは、胸に空いた穴を忘れられる気がした。
掃除が一段落した頃、○は窓辺に腰を下ろす。
夕暮れ時の淡い光が、誰もいなくなった静かな部屋に差し込んで綺麗だった。
○は懐から、あの分厚い陸遜の書簡を取り出す。
『一、ガニ股で歩かないこと』
『一、大食いをしないこと』
『一、子供相手に賭博をしないこと』
(本当にやめた方が良い事ばっかりだわ…)
○はそう呟きながら、陸遜の几帳面すぎる文字を指でなぞった。
ビッチリと書かれた小言の数々を、あの朝の短時間で書き上げた事に脱帽する。
窓の外を見れば、遠く西の空が赤く染まっていた
その先にある呉の国へ、今頃陸遜や凌統が馬を走らせているはず。
「よし…頑張らなきゃ。私は大丈夫」
○は書簡をぎゅっと抱きしめ、独り言を漏らした。
陸遜の言葉通り、自分は「呉の将」としてここにいる。
趙雲に甘えて、その優しさに寄りかかってばかりではいられない。
けれど、静まり返った部屋に広がる「寂しさ」は、陸遜の小言をもってしても、すぐには埋まりそうになかった。