朝起きて②
キスギさんは、私の耳を触りながらしばらくぼんやりとしていた。床に視線を落としたまま、こちらを見ないキスさんの顔を私はまじまじと見つめて、彼の目の隈が深いことに気がついた。
どうしても気になって、つい隈へ無言で手を伸ばす。キスギさんの目の下の窪みは、その暗い色からは想像できないほど手に吸い付くように、触り心地が良かった。
キスギさんは、ゆっくりと視線を上げると、微笑んだ。その微笑みは、視線が私の瞳とかちあって、驚いたのか少し目を丸められて、瞳の膜が日光に輝いて揺れて、目が細められて、薄い唇の皺が伸びて、そのようにして出来たものだった。その一連の流れは、本当に自然に、まるでそこにあるべきものであるとでも言うように、存在しているのだった。
キスギさんは、微笑みを絶やさないまま私と同じように、私の頬に触れた。薄く開いた口の隙間から、白い歯が見える。歯の白さは、どんどんと目を眩ませるように面積を広げて、私はつい目を逸らした。見てはいけないものを見てしまっている気分になるのだ。キスギさんが何か言っているが、その口の動きは、見えない。
「昨日も思っていたんだが……」
私はキスギさんを見なかった。キスギさんは、そんな私を気にせずに続けた。
「僕は君を、寂しがらせているかい?」
キスギさんがどんな顔をしていたかはわからない。ただ、声だけは嫌に繊細に響いた。
「寂し……って、それ昨日の夜も言われました」
「うん。でも、否定はされなかったじゃない?」
「私、ね、キョウヤさん」
キスギさんは頰に添えた手に少し力を込めて、私の顔の向きを変えた。視界が動いて、キスギさんの顔が目に入る。キスギさんは決して目を逸らさずに、一度深く強く頷いた。キスギさんの視線の強さが私を射抜いて、神経を直接撫でられてるような気分になった。
「寂しい……寂しいけどね、キョウヤさんがガンダム好きっていうの、わかるし……まぁ、もう少しは構って欲しいかも……だけど……」
だんだんと恥ずかしくなってきて、私の語尾は尻すぼみになっていった。キスギさんは話を遮らずに、黙って聞いてくれていた。
「キョウヤさんは、都合が悪くなったらすぐ話を逸らす人だし、実際昨日もそうされたけど……、こうやってもう一回、私の話を聞いてくれているんだから、嬉しいっていうか、わたし……それだけで十分だよ……?」
自分の気持ちを上手く伝えるのは難しいな、だなんて実感をしながら、なんとかしどろもどろ話し終えた。キスギさんは、時が止まってしまったかのように動かない。
呼吸音すら聞こえてしまいそうな程、この部屋は静か。それを意識すると急に、キスギさんの手の分厚さを意識してしまう。
自分がなんてことを言ったのか理解が追いついてきて、なんだか顔が熱すぎるような、穴に埋まりたくなってしまうような。
キスギさんは頰に乗せた手を滑らせて、人差し指の側面を私の唇へ当てた。上唇と下唇の間に、キスギさんの指がぴったりとはまり込んで、私は口を開くわけにはいなかくなった。
キスギさんは、指が硬い。体温は、少しだけ低くて、指からはいつも塗料の臭いがする。
「愛しいよ」と、キスギさんは呟いた。こんな状況で、こんな表情をされたら、誰だって、どんな意味か嫌でもわかっちゃう。
「愛しい、かわいい、君が、ごめん、いつも我慢させて、健気で、僕は君みたいな子に彼女になってもらって、本当に幸せだと思う」
先程まで黙っていたのが嘘のように、キスギさんは話し出した。今のキスギさんは、普段の気障ったらしい台詞を吐く彼と全然違う。眉を少し寄せて、それでも目だけは蕩けそうに優しくて、泣きそうに目尻が赤らんでいる。
私はキスギさんになんと言っていいかわからなかった。たとえ言いたいことがあったとしても、唇に添えられた指のせいでそれは叶わなかった。
「僕、僕は……今一人暮らしをしているけれど、たまにどうしようもなく寂しくなる。そんな時、君に連絡をして、あと二年経って大学生になったら一緒に暮らそうと言いたくなるけれど……それすらもできない、怖い。だから家にいて、ただじっとガンプラを弄っている」
怖い、とまたキスギさんは繰り返した。そうして私は、心臓が口から飛び出てきそうな程、驚いていた。とても、それはもう、今が夢なのかと疑いたくなってしまうほど。
私はもしかして、キスギさんのことを誤解していたのかもしれない。一人暮らしなのだからたまに寂しくなることはあるのかもしれないと思っていたが、そんな時キスギさんは外に出て遊んだり、同年代の男性を呼びつけているのかと思っていた。あるいは、女の人とか……。
そういうキスギさんの夜遊びに私は付き合えないのだし、なんだか彼にお情けで付き合ってもらっているような気が、しないわけではなかったから、なんというか、浮気はされても仕方がないと思っていた。なんたってキスギさんは、優しくて顔もかっこよければ口も上手いし、責任の伴わない付き合いならいくらでもできると思うのだ。
だから、キスギさんは寂しいとき、黙ってガンプラを弄るようにしているとは、思ってもみなかったのだ。
キスギさんはまた指を動かすと、唇に乗せていた人差し指と親指で、私の下唇を挟んだ。感触を確かめるように数度ふにふにと摘むと、キスギさんはまた言った。
「君はまだ若くて、明るい未来がたくさんあるから、僕が壊してしまうんじゃないかと……恐れている」
そんなことはない、と反論しようとした瞬間、口元の指が気になってしまう。ここで口を開けたら、キスギさんが口の中に指でも入れてくるのじゃないかと、そんな変な想像をする。
「僕は、甲斐性のない男だよ。GBNじゃあ、チャンピオンだなんだと慕ってもらってはいるが、本当はこんな人間だ。君と一緒にガンプラバトルを楽しみたいと思いながらも、君を縛ることが怖くて、それでも誘ってしまう。もっと、ずっとずっと長く過ごしていたいけれど、それは君にとって良くないことのような気がしてきてしまって、いっそのこと君から嫌ってくれないかと……思う時すらある」
キスギさんは思っていることを全て吐き出すように、隠し事を無くしていくように私に言い立てた。また、キスギさんは泣いているように見えた。涙はこぼれ落ちなかったけれど、何故かそう見えて、そんなキスギさんを私が確認しようとする度に、窓からの日光が眩しくて見えなかったり、ふいにこちらの目頭が熱くなったりした。
言いたいことを言い終えたのか、キスギさんはひとつ息をついた。私の口を縛る指を退かさないまま、空いているほうの手を私の背中に回した。
キスギさんは大きな手で、私を動かして、硬い胸板に私の顔を押し付けた。キスギさんから塗料の匂いがするだとか、あのいい匂いはシャンプーの匂いだったのか、とか、手が優しいだとか暖かいだとか、なんだか、いろいろな、本当にいろいろな発見をしてしまって、私は泣きそうになった。
息が苦しくなるほど片手でぎゅうぎゅうに抱きしめられて、それでも物足りないのかキスギさんは私の唇から手を離して両手を全身に回した。
キスギさんの腕は、長い。二の腕にはいっぱい筋肉がついていて、筋の浮き出た腕が、好き。
キスギさんは私の耳元で、「不健全は嫌い?」と囁いた。少し苦しくなってきて、胸板を叩くと腕が緩まる。言いたいことは沢山あった。その中でも最優先に伝えたいのは――。
「あなたが、すき」
キスギさんは次の言葉を待つように息を呑んだ。唾を飲み込む音が、頭上から聞こえてきて、キスギさんの体臭が少し変わった気がした。キスギさんも緊張しているのかと思うと、私まで恥ずかしくなってくる。
「確かにキョウヤさんって、ひどい人だと思います。誤魔化しがちだし、私の事好きなのか好きじゃないのかわからないし」
私の話を遮るように、キスギさんは「好きに決まっているじゃないか」と言った。普段より語勢が強くて、これは本当なんだろうと信じられた。
「でもすき、って言われると、とても胸がどきどきするの……」
私は自分の言っていることにこれまでにないほど恥ずかしい思いをしていたのだが、これは言うべきだろうと思ってなんとか言葉を紡いでいた。キスギさんの胸の中は、暑くて、汗が首筋に垂れた。
目を開けていると、微妙に入り込んでくる光のせいで視界が赤っぽく見えた。まるでそれは、強く目をつぶっていて久しぶりに開けたときのようだった。新しい私が誕生するのだと、そんな、気分。
「貴方のことが好きだよ。キョウヤさんは私の人生が壊れるとか、よく分からない心配してるみたいだけど、私は幸せなんです、あなたと一緒にいれて、こっちが感謝なの」
「でも、僕と付き合っているときは同級生と付き合えないだろう? 僕はね、君を連れてどこかへ行くのが怖いんだよ。ごめんね、わかる? 君のこと、妹とかと間違われるのが怖いんだ」
「あら、キョウヤさんって思ったより臆病なんですね。というか、私たちの年齢差って意外と珍しくないですよ?」
髪に、唇が触れている感じがした。キスギさんはそのまま、「君は僕のことを尊敬しすぎている気がしてきたから、こんな奴でごめん」と呟いた。
どうしても気になって、つい隈へ無言で手を伸ばす。キスギさんの目の下の窪みは、その暗い色からは想像できないほど手に吸い付くように、触り心地が良かった。
キスギさんは、ゆっくりと視線を上げると、微笑んだ。その微笑みは、視線が私の瞳とかちあって、驚いたのか少し目を丸められて、瞳の膜が日光に輝いて揺れて、目が細められて、薄い唇の皺が伸びて、そのようにして出来たものだった。その一連の流れは、本当に自然に、まるでそこにあるべきものであるとでも言うように、存在しているのだった。
キスギさんは、微笑みを絶やさないまま私と同じように、私の頬に触れた。薄く開いた口の隙間から、白い歯が見える。歯の白さは、どんどんと目を眩ませるように面積を広げて、私はつい目を逸らした。見てはいけないものを見てしまっている気分になるのだ。キスギさんが何か言っているが、その口の動きは、見えない。
「昨日も思っていたんだが……」
私はキスギさんを見なかった。キスギさんは、そんな私を気にせずに続けた。
「僕は君を、寂しがらせているかい?」
キスギさんがどんな顔をしていたかはわからない。ただ、声だけは嫌に繊細に響いた。
「寂し……って、それ昨日の夜も言われました」
「うん。でも、否定はされなかったじゃない?」
「私、ね、キョウヤさん」
キスギさんは頰に添えた手に少し力を込めて、私の顔の向きを変えた。視界が動いて、キスギさんの顔が目に入る。キスギさんは決して目を逸らさずに、一度深く強く頷いた。キスギさんの視線の強さが私を射抜いて、神経を直接撫でられてるような気分になった。
「寂しい……寂しいけどね、キョウヤさんがガンダム好きっていうの、わかるし……まぁ、もう少しは構って欲しいかも……だけど……」
だんだんと恥ずかしくなってきて、私の語尾は尻すぼみになっていった。キスギさんは話を遮らずに、黙って聞いてくれていた。
「キョウヤさんは、都合が悪くなったらすぐ話を逸らす人だし、実際昨日もそうされたけど……、こうやってもう一回、私の話を聞いてくれているんだから、嬉しいっていうか、わたし……それだけで十分だよ……?」
自分の気持ちを上手く伝えるのは難しいな、だなんて実感をしながら、なんとかしどろもどろ話し終えた。キスギさんは、時が止まってしまったかのように動かない。
呼吸音すら聞こえてしまいそうな程、この部屋は静か。それを意識すると急に、キスギさんの手の分厚さを意識してしまう。
自分がなんてことを言ったのか理解が追いついてきて、なんだか顔が熱すぎるような、穴に埋まりたくなってしまうような。
キスギさんは頰に乗せた手を滑らせて、人差し指の側面を私の唇へ当てた。上唇と下唇の間に、キスギさんの指がぴったりとはまり込んで、私は口を開くわけにはいなかくなった。
キスギさんは、指が硬い。体温は、少しだけ低くて、指からはいつも塗料の臭いがする。
「愛しいよ」と、キスギさんは呟いた。こんな状況で、こんな表情をされたら、誰だって、どんな意味か嫌でもわかっちゃう。
「愛しい、かわいい、君が、ごめん、いつも我慢させて、健気で、僕は君みたいな子に彼女になってもらって、本当に幸せだと思う」
先程まで黙っていたのが嘘のように、キスギさんは話し出した。今のキスギさんは、普段の気障ったらしい台詞を吐く彼と全然違う。眉を少し寄せて、それでも目だけは蕩けそうに優しくて、泣きそうに目尻が赤らんでいる。
私はキスギさんになんと言っていいかわからなかった。たとえ言いたいことがあったとしても、唇に添えられた指のせいでそれは叶わなかった。
「僕、僕は……今一人暮らしをしているけれど、たまにどうしようもなく寂しくなる。そんな時、君に連絡をして、あと二年経って大学生になったら一緒に暮らそうと言いたくなるけれど……それすらもできない、怖い。だから家にいて、ただじっとガンプラを弄っている」
怖い、とまたキスギさんは繰り返した。そうして私は、心臓が口から飛び出てきそうな程、驚いていた。とても、それはもう、今が夢なのかと疑いたくなってしまうほど。
私はもしかして、キスギさんのことを誤解していたのかもしれない。一人暮らしなのだからたまに寂しくなることはあるのかもしれないと思っていたが、そんな時キスギさんは外に出て遊んだり、同年代の男性を呼びつけているのかと思っていた。あるいは、女の人とか……。
そういうキスギさんの夜遊びに私は付き合えないのだし、なんだか彼にお情けで付き合ってもらっているような気が、しないわけではなかったから、なんというか、浮気はされても仕方がないと思っていた。なんたってキスギさんは、優しくて顔もかっこよければ口も上手いし、責任の伴わない付き合いならいくらでもできると思うのだ。
だから、キスギさんは寂しいとき、黙ってガンプラを弄るようにしているとは、思ってもみなかったのだ。
キスギさんはまた指を動かすと、唇に乗せていた人差し指と親指で、私の下唇を挟んだ。感触を確かめるように数度ふにふにと摘むと、キスギさんはまた言った。
「君はまだ若くて、明るい未来がたくさんあるから、僕が壊してしまうんじゃないかと……恐れている」
そんなことはない、と反論しようとした瞬間、口元の指が気になってしまう。ここで口を開けたら、キスギさんが口の中に指でも入れてくるのじゃないかと、そんな変な想像をする。
「僕は、甲斐性のない男だよ。GBNじゃあ、チャンピオンだなんだと慕ってもらってはいるが、本当はこんな人間だ。君と一緒にガンプラバトルを楽しみたいと思いながらも、君を縛ることが怖くて、それでも誘ってしまう。もっと、ずっとずっと長く過ごしていたいけれど、それは君にとって良くないことのような気がしてきてしまって、いっそのこと君から嫌ってくれないかと……思う時すらある」
キスギさんは思っていることを全て吐き出すように、隠し事を無くしていくように私に言い立てた。また、キスギさんは泣いているように見えた。涙はこぼれ落ちなかったけれど、何故かそう見えて、そんなキスギさんを私が確認しようとする度に、窓からの日光が眩しくて見えなかったり、ふいにこちらの目頭が熱くなったりした。
言いたいことを言い終えたのか、キスギさんはひとつ息をついた。私の口を縛る指を退かさないまま、空いているほうの手を私の背中に回した。
キスギさんは大きな手で、私を動かして、硬い胸板に私の顔を押し付けた。キスギさんから塗料の匂いがするだとか、あのいい匂いはシャンプーの匂いだったのか、とか、手が優しいだとか暖かいだとか、なんだか、いろいろな、本当にいろいろな発見をしてしまって、私は泣きそうになった。
息が苦しくなるほど片手でぎゅうぎゅうに抱きしめられて、それでも物足りないのかキスギさんは私の唇から手を離して両手を全身に回した。
キスギさんの腕は、長い。二の腕にはいっぱい筋肉がついていて、筋の浮き出た腕が、好き。
キスギさんは私の耳元で、「不健全は嫌い?」と囁いた。少し苦しくなってきて、胸板を叩くと腕が緩まる。言いたいことは沢山あった。その中でも最優先に伝えたいのは――。
「あなたが、すき」
キスギさんは次の言葉を待つように息を呑んだ。唾を飲み込む音が、頭上から聞こえてきて、キスギさんの体臭が少し変わった気がした。キスギさんも緊張しているのかと思うと、私まで恥ずかしくなってくる。
「確かにキョウヤさんって、ひどい人だと思います。誤魔化しがちだし、私の事好きなのか好きじゃないのかわからないし」
私の話を遮るように、キスギさんは「好きに決まっているじゃないか」と言った。普段より語勢が強くて、これは本当なんだろうと信じられた。
「でもすき、って言われると、とても胸がどきどきするの……」
私は自分の言っていることにこれまでにないほど恥ずかしい思いをしていたのだが、これは言うべきだろうと思ってなんとか言葉を紡いでいた。キスギさんの胸の中は、暑くて、汗が首筋に垂れた。
目を開けていると、微妙に入り込んでくる光のせいで視界が赤っぽく見えた。まるでそれは、強く目をつぶっていて久しぶりに開けたときのようだった。新しい私が誕生するのだと、そんな、気分。
「貴方のことが好きだよ。キョウヤさんは私の人生が壊れるとか、よく分からない心配してるみたいだけど、私は幸せなんです、あなたと一緒にいれて、こっちが感謝なの」
「でも、僕と付き合っているときは同級生と付き合えないだろう? 僕はね、君を連れてどこかへ行くのが怖いんだよ。ごめんね、わかる? 君のこと、妹とかと間違われるのが怖いんだ」
「あら、キョウヤさんって思ったより臆病なんですね。というか、私たちの年齢差って意外と珍しくないですよ?」
髪に、唇が触れている感じがした。キスギさんはそのまま、「君は僕のことを尊敬しすぎている気がしてきたから、こんな奴でごめん」と呟いた。
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