キスギ×JK
世界が眩かった。自然と、私はぱちりと目を開けた。カーテンから差し込む日光が白い壁紙と天井を照らして、蛍光灯なんかよりも、ずっとずっと眩しかった。
頭はぼんやりと重いし、喉もカラカラだけれど、これを清々しい朝だと言うのだろうか。
って、嘘! 嘘! これが清々しい朝なら、風邪を引いた日の朝の方が全然マシに思える。なぜ、私よりずっと年上のはずの恋人は、こんなぐぅぐぅ寝ているんですか?
土日泊まりにきて、と言われて、なにかあるかもと期待したら一日中、興味もないガンダム鑑賞! 夕飯はコンビニ、それでそのまま寝て、朝は遅起き? 廃人じゃないん だから、キスギさん!
そりゃ、恋人に対する正しい形としては、疲れているんだね、って寝かせてあげるのが良いのかもしれないけれど、さすがに貴重な土日のお休みを、寝て過ごすのは勘弁。
私は自分の腰に巻きついたキスギさんの手を、数度強く、ぺちぺち叩いた。ぺちぺち、というよりは、ばしんばしんの方が合っているかも。キスギさんは腕の力を全く緩めないまま、眉をひそめると小さく唸った。
「ん、朝……?」
「ほら、キョウヤさん!いい加減起きて! 今何時かわかります!?」
私は先程起きたばかりの自分のことを棚に上げて、キスギさんの耳元で大声を出した。キスギさんは、眠たそうに顔をくしゃくしゃにした後、甘えるように私の肩口に頭を埋めた。キスギさんの寝起きの体温は温く、力が抜けた体で寄りかかられると、重かった。
「いや、もうちょっと……寝かせてくれ……」
「ねぇ、重いし! 起きて、絶対起きてください! 今日こそ有意義な休日過ごしましょう! ね?」
早朝のご近所迷惑なんてひとつも考えずに、私はキスギさんに声を張り続けた。こんなに躍起になってキスギさんを起こすのにも、それなりの理由がある。
まず、ひとつ! 見栄をはりたい! 学校帰り、いつだかにキスギさんがお迎えに来た日、私は女子高生ながら社会人の男性とお付き合いしていることが周りにバレてしまった。それで言われたことがこれである。
羨ましい! あんなカッコよくてセレブそうな人なら、遠くへ連れて行ってくれたり、奢ってくれたりするでしょう?
ん、なわけあるかー! と、騒がなかったこと、褒めてほしい。キスギさんってば、そとっつらばかりだ。あと、たまーに少し優しいくらい。
GBNのチャンピオンとして君臨し続けることは、並大抵の努力ではないようで、その辺の部活が忙しい男子の三倍は忙しい。一にガンプラ、二にAGE、三、四がなく
て、五にお仕事だ。私は八くらいかな、と思う。
遠くへ連れてくって、キスギさんと過ごした時間は大体、お互いの家か私の通学路だし、奢りだって、私から誘いづらくならないよう、ほとんど割り勘にしているんだ。キスギさんって、なんで私と付き合ってくれてるのか、イマイチわからないけど、私が子供な分、気を遣わずに余裕を持って過ごせるのが楽なのかなぁと。
だから、土日一緒に過ごすことは、大チャンスだと思った。ざっくり数えて、四十八時間一緒にいるんだ。これでなにか起こらないほうがおかしくない? あと二十四時間、より短いけど、その時間でなんとかしたい。
これでキスギさんとなんの進展もなかったら、さすがに落ち込んでしまう。家にいると結局ガンダムから離れられないんだから、どこかにお出かけしたい。
そう、これがふたつめ。もっと、恋人らしいことがしてみたい。
私がうじうじ悩んでいる間にも、時間は刻刻と過ぎていた。先程より心做しか太陽は高いし、なにより私を抱き枕にするキスギさんは、船を漕いで半分夢の世界だ。さすがに、寝言で愛機の名前を呼ぶのはやめてほしい。えっと、えいじつー、まぐなむ? よくわからないけど、ガンプラより私の名前でも呼んだら? そっちのほうが、まだ普通の人っぽいのに。
実際、キスギさんとお付き合いをして長続きする方って、少ないんじゃないかと思う。なんか変な人だもの。オフ会の様子を見せてもらったことあるけれど、やっぱり、軽く引いてしまうくらいガンダム好きの集団の中で、てっぺんに立つキスギキョウヤはどこかおかしい。 どこかネジのようなものが外れている。
あーあ。昨日の夜はあんなに優しくキスをしてくれたのに。ココアは優しくて甘かった。きちんと、すきだよ、って、言ってくれたし……。
背中を叩こうが頭を小突こうが、全く起きる気配のないキスギさんに面倒くさくなってきて、私は彼の項を爪で抓った。さすがに痛かったのか、キスギさんは跳ね起きた。きっと怒ってはないけれど、紫色の瞳が潤んでいた。
「敵襲か!」
「敵襲、って。キョウヤさんここ、リアルですよ? いつまでも寝ぼけてないでください。ほら。起きてくださいよ」
キスギさんが再度寝こけたりしないよう、私はベッドの上の毛布を畳んだ。キスギさんが飛び起きたせいか、せっかくの綺麗なシーツが皺になってしまっている。
「あぁ、君か。あれ、なぜここに?」
「なんでって……! はぁ!? ありえない、ありえない! キスギさん! さいてー!!」
私が感情任せに叫び、枕を投げつける。楽々とキャッチしたキスギさんは、バツが悪そうに笑いながら頬を掻いた。
「すまない。つい、からかいすぎてしまう。もちろん覚えているよ。昨日、あんなに素直でかわいかったんだから」
「もう。つまらない冗談ですね、キョウヤさん」
寝起きにも関わらず、キスギさんの立ち姿はスラリとしていた。朝日に照らされくっきりと浮き出る輪郭は、芸術的と言えるほど完成されている。例えそれが、流行遅れのパジャマ姿でも、だ。窓際に立った逆光のキスギさんは、頬に薄く微笑みを浮かべた。よく絵になる人だ。
私は投げつけた枕を彼から受け取ると、ベッドの上に置いた。キスギさんの方を向く。彼は目を細めた。
「ねぇ、素直じゃなかったら、かわいくない……?」
なんとか勇気をだして絞り出した声は、消え入りそうに小さかった。キスギさんは、意外そうに目を見開くと、口の端を上げて笑った。
「ん、言い方が悪かったかな。素直じゃなくても素直でも、大好きだよ」
キスギさんは膝を折り曲げて私と目線を合わせると、頭を撫でながら愛しそうに言った。撫でる力が普段より強く感じられる。だが、決して雑ではない。
どのような顔をして、どんな態度で受け入れればいいか迷って、私は固まっていた。それに気がついたキスギさんは、私に近づくと、「大丈夫?」だなんて言いながら、おでこの髪を退かしてキスをした。私の額よりキスギさんの手のひらはずっと大きかった。外国人のような頻度でキスをしてくる人なのだ。スキンシップ、激しい。
手のひらが離れる瞬間、遠くなる体温を恋しく思った。昨晩、バルコニーで触れ合った肩と肩、見つめあった瞳の温度、抱きしめあった腕の逞しさ。
私はほとんど衝動的に、キスギさんの手首を掴んだ。そうしてそのまま、引き寄せて、私の頭に、キスギさんの大きな手のひらを乗せた。キスギさんは、一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに余裕を取り戻して、
「どうしたの?」
「ぅあ〜〜! なに、なにやってるんだろう、私! 恥ずかしい……。これは、あの、その、違うんですよ? キョウヤさん……」
「違うって、なにが?」
つい、焦ってしまって上目遣いに見つめると、キスギさんは笑いながら私の髪を掻き回した。くしゃくしゃになっていく髪の毛に視界を阻まれて、キスギさんの顔がどんどん見えなくなってくる。どんな、どんな顔をしているんだろう。こんな時、身長差があるのを不便に感じる。
「頭、撫でられるの好きなのかい?」
手を止めずに、キスギさんは尋ねてきた。キスギさんの声は、恥ずかしくなるほど甘ったるい。こちらの頰まで熱くなるのを感じながら、私はこっそりと一度頷いた。
本当に小さな頷きだったのに、目ざとくもキスギさんは気がついたのか、頭を撫でる腕の動きは、どんどん激しくなった。力強くぶんぶんと揺さぶられた。髪の毛の擦れる音が耳元で響いている。
男の人の腕だ、と思った。
同級生の、部活をやっている男の子のように、筋肉に覆われた腕じゃない。はたまた、ひょろっとした男の子の白くて細い腕じゃない。
キスギさんの腕には、彼の生きてきた証が乗っているように見えた。血管は浮きで、筋になっている。手のひらは大きく広く、また指は決して細くない。所々、引っ掻いたような赤い線がある。だが爪は綺麗に切りそろえられていた。
この手で、ガンプラを作っているのだ。
キスギさんの手も腕も、男の子と全然違う。お父さんとも違う。私とはもっともっと離れているし、よくわからなくなってしまう。
髪の毛はくしゃくしゃ鳴る。胸がどきどきしてくる。
揺さぶられすぎて頭がくらくらしてきたころ、キスギさんはようやく手を離してくれた。
そうそう、私はこんなことをしている場合じゃない。今日こそ出かけると、起きて早々決めたのだ。
「キスギさん」と私は彼の名前を呼んで、「今日こそどこか出かけましょう?」と誘った。
「いいけれど……。どこか行きたいところあるのかい?」
そう言われると困ってしまう。そのどこかに、地名はないのかもしれない。
「うーん、どこって感じじゃないです……。ただ、あなたと出かけたら楽しいだろうなぁって思うし……。家にずっといるのって、不健全じゃないですか?」
下を向きながら早口に呟いて、不健全、の部分で私は彼を見上げた。距離が近いから、目を合わせようとすると、首を大きく傾けなければいけなくて痛かった。
私を見下ろしたままキスギさんは、目を細めた。含みを持ったように笑うと、目尻を下げて言った。
「不健全は、いや?」
私の目を真っ直ぐに見据える。
「いや、ってわけじゃ……」
ライラック色の瞳がゆらゆら揺らめいていた。
「じゃあ……好き?」
「好きでもないけど……」
朝日が室内を眩しく照らしている。白い壁も天井も嫌になる程光を反射して、私の目に焼きつきた。見慣れたキスギさんの部屋が、全く別の世界に思える。光が充満していた。
「眩しくない?」と、唐突にキスギさんは、私の目の周りに、手で覆いを作った。急遽作られた影の中で、私の頬は緩んでいった。
「なにかおもしろいの?」と、キスギさんは私の顔を覗き込んで、「寝癖、ついちゃってるよ」
私の髪をひと房とると、手櫛で梳いた。
キスギさんの声は小川の流れのように柔らかく、優しい。
「あっ、ありがとう、ございます……!」
「うん、昨日、君良く眠っていたもんね」
「キスギさんはぐっすり眠れました?少し隈できてません?」
「君の寝顔をずっと眺めてたから、あまり」
「もう……!」
脳みそがとろけていくような、体温が上がっていくような、段々とキスギさんのペースに乗せられていく感覚は、嫌いじゃない。
「だから」
キスギさんがしっとりと呟いた。
「いまはすごく眠たいんだ。いいだろう?」
言いながら、私の腰に手を回す。キスギさんの手の平は分厚い。キスギさんはそっと私の肩を押して、柔らかいベッドの上に転がした。
「今日は寝ていよう」
「ちょ、キスギさん!」
抱きしめられながら耳に届いた声は、くぐもっていた。キスギさんは、唇を私の髪に寄せる。顔を胸板にぎゅうぎゅうと押し付けられて、苦しくなる。私は何度か非難の声を上げたが、返ってくるのは「おねがい」か「すまない」の一言だけだった。
要するに、家にいたいだけなのだ。私の誘いをなんとなく了承したものの、すぐに面倒くさくなったのだろう。
「キスギさん、私出かけたいって言ったじゃないですか。キスギさんも初め頷いてくれたでしょう?」
「家じゃだめかい?」
私達は、決して対等じゃない。
「私、思い出ほしいです」
「こうやって二人でだらだらするのも思い出にならない?」
「だって、みんな遊びに出てるんですよ……」
「みんなって誰?」
キスギさんの声は子供に言い聞かせるように優しかったが、絶対に退かないという意思が感じられた。もうここまでくると、私が退くしかないことを、私は経験で知っていた。
急にしんと静かになった私に、キスギさんは満足そうに頷いた。腕を緩め、密着していた体が少し離れる。
気になるのか、キスギさんは私の髪の寝癖を、また触った。
「寝癖、治らないね」
甘えるような声でキスギさんは言った。私は答えなかった。腕の中に包まれて、全身の匂いを感じながらあることを考えていた。
私は今まで、無遠慮に髪に触られるのも、寝起きだとか寝る前のぼんやりとした姿を見られるも、異常なほど嫌いだった。
気を許している仲の良い友達ならまだしも、修学旅行のお風呂とかに、よく知らない友達に裸を見せるのも嫌だったし、髪が濡れたままタオルを首にかけ、男子とか先生に会うなんてもっともっと嫌だった。
自分でもよくわからない感情だ。私は潔癖ではないし、神経質でもない。
が、しかしだ。キスギさんに会ってずいぶん変わった。普段の私なら考えられない。寝起きも寝癖もパジャマ姿も、見られたくない。見られたくないはずだった。
なぜ今、こんなに無防備なんだろう。キスギさんに全てさらけ出してしまうくらい。キスギさんは家族ではない。恋人ではあるが、一般の恋人の関係とはなんとなく違う気がする。
かっこ悪い姿を見せてもいいのが、好きってこと? でも、好きな人とはばっちり化粧と髪をセットして、会いたいものじゃないの?
ふと、キスギさんの声がした。
「なにか考えてる?」
言いながらキスギさんは、私の頬を撫で、愛しそうに微笑んだ。
「ううん、なにも」
「ほんとかい?」
「ほんと」
くっついているから、体が温まって眠くなる。起きたばかりのころはあんなに素敵な休日にすると意気込んでいたのに、ぬるま湯のような環境から抜け出せなくなる。
私は、頭のてっぺんをキスギさんの顎につけると、匂いを思いっきり吸い込んだ。キスギさんの匂いは落ち着く匂いがする。汗臭くもなくて、香水のような甘い匂いがするわけでもない。ただ、これは良い匂いなんだと思う。
「お腹すいた」
「お昼ご飯なにがいい?」
「まだ朝も食べてないのに」
私が皮肉っぽく言うと、キスギさんは苦笑した。苦笑、といっても顔が見えないから、声だけで判断したのだけれど。
視界がキスギさんの胸でいっぱいの中で、なんとか壁掛け時計を確認する。まだ朝の七時くらい。二度寝にしては、遅すぎない? 私、朝ごはんは決まった時間に食べたいんだけど。言いたかったことは全部、キスギさんが私のために新しく買ってくれたパジャマの、ふわふわな生地に吸い込まれていく。
枕元の携帯に手を伸ばしなから、私は、
「アラームセットするから、何時に起きるか言ってください」
「じゃあ、大体九時くらいで」
あと少しのところで、携帯にまで手が届かない。キスギさんが取ってくれる。私に巻き付けていた腕を外して、重みが無くなって少し寂しい。
携帯のブルーライトに目をそばめ、アラームを設定する。なんとなく、こっそりとスヌーズ機能をオフにしてみる。
キスギさんが私から携帯を受け取り、ベッドボードに置く。木と携帯電話が、こつんと優しい音を立てる。
私はキスギさんに擦り寄り、目を瞑る。「一応、おやすみなさい」と言う。キスギさんも私の髪に頭を埋める。少し重い。「おやすみ」と柔らかな声が返ってくる。
私達は丸まって、胎児のように眠る。登った太陽が容赦なく窓ガラスから差し込んで、部屋中をぴかぴかに染め上げながらも、私達は目を瞑る。
朝はもう始まっていて、隣人もそのまた隣人も、私のお母さんもお父さんも、どこかの遠くの面識のない人ですら、起きて動いているというのに、私達は体を寄せて、二度寝をする。
少し、優越感。
結局、空腹のせいかアラームより先に覚醒してしまった。眠い眠いと言ってた割に、キスギさんもどうやら熟睡できなかったようで、私が起きるとキスギさんも目を開けた。
「おはよう」と、示し合わせたかのように同時に言った。そしておかしくなって、笑った。
「カーテン閉め忘れてたから、眩しくて眠れなかったよ」
キスギさんがお茶目に言った。
「閉めにいけばよかったじゃないですか?」
「君を抱いて眠るの心地よすぎて……離したくなかった」
よくもまぁ。ここまで歯が浮くような台詞を、躊躇なく口にできるのは、逆にすごい気すらしてくる。キスギさんは当たり前のように私の頭に手を伸ばすと、ぽんぽんと二回軽く叩いた。手がどいてから覗いたキスギさんの顔は、心底幸せそうだった。
「朝ごはん作りましょう。お腹空きました」
ベッドから立ち上がると、逃げるように私はキッチンに向かった。赤く染まった頰を、パジャマの袖で隠しながら。
キッチンで冷蔵庫を開けると、中はほぼ空に近かった。キスギさんは私の真後ろに立って、「あれ? もう食材なかったっけ?」とほざいた。あまりの無頓着さに震えながらも、私は朝食になりそうなものを探すことにした。
白米は炊いてある。あとは……。
「ふりかけならあるよ!」と自慢げにキスギさんは持ってくる。ないよりはましだけれど、さすがに白米にふりかけだけの朝ごはんは味気ない。
許可を取ってほかの段も探す。野菜室には、ネギとトマト。冷凍室には保冷剤と氷。立派な冷蔵庫なのに、中があまりにも残念すぎる。キスギさんみたい。
また、冷蔵室を開けて、私は卵が三つほどあることに気がついた。
「これを使いましょう」と、振り返ってキスギさんに声をかけた。キスギさんは私に寄り添うように後ろに立っている。顔の距離が、思ったよりも近いことに驚いた。
「卵かけご飯?」
「目玉焼き!」
フライパンを準備すると、油を引いて火をつけた。ぱちぱちと油が鳴った頃、卵を入れる。熱いフライパンの上に乗せると、卵の白身が色づいて、固まってくる。ある程度して水を入れると、激しく大きな音を立てながら跳ねた。キスギさんが大げさなほど仰け反る。蓋を閉める。
「ちょ、キョウヤさん。オーバーすぎません?」
「そうでもないさ。少し、びっくりしただけ……。少し」
「キョウヤさんって普段料理つくります?」
何気なく聞いたひとことだった。
「実は、あまりしないかな。一人暮らしだけれど、いろいろ買ってしまうから、大抵のものは作らずにすんじゃぅんだよね。元々、食事にあまり執着しない質なのもあるかもしれない」
キスギさんはお金もあるしなぁ。それとも一人暮らしってそんなものなのかな。ふとした瞬間感じる、価値観の違い。
ふぅん、とだけ返事をすると、私は蓋がぐんぐん曇っていくのを見つめた。卵は隠され、ついに見えなくなる。
「だから、君が作ってくれるならとても嬉しいんだけど」
私に向けて言っているのか、それとも独り言なのか、区別がつかない呟きだった。また私は、ふぅんとだけ返した。
目玉焼きが出来上がって、キスギさんから差し出されたお皿の上に乗せる。途中途中、「座って待ってればいいのに」と提案した私をキスギさんは、「君が料理をしているところを見たいから」と取り合わなかった。
二人で食卓につくと、すぐにいただきますをした。朝ごはんを食べるのには遅い時間帯すぎて、ともかくお腹が空いていた。キスギさんと私は、食べるスピードも一口の大きさも、全然違かった。キスギさんが食べ終わっても、私はまだ半分ほどで、私が一口一口食べるのを、キスギさんはずっと見つめていた。
朝ごはんは一瞬だった。簡単なメニューだったし、なにより見られながら食べる居心地の悪さに、私はいつもより頑張って噛んだのだ。
「美味しかった。ありがとう」と、ただ卵を焼いただけの料理に、キスギさんは心からの感謝を伝えてきた。
二人で洗い物をしながら、何度も肘と肘がぶつかった。手にかかり、食器を伝って跳ねる水は冷たかった。落ちてくる袖をまくってくれたキスギさんの触れ合った肌の、滑らかな感触。キスギさんは私の腕を撫でると、もう一度、ありがとうと消えかかりそうに呟いた。誰に言ったか、わからなかった。
洗い物を終えると、どちらからともなくラグに寝転がった。キスギさんの家のラグは、ふわふわしている。なんだか、あんなに朝出かけに行きたがっていた気持ちは嘘のように消えて、このままキスギさんと、ずっと一緒にいたくなってしまう。
キスギさんの部屋は広くない。大きな窓から差し込む日光だけで、照明がいらなくなるほど明るくなるし、なにより棚はガンプラでいっぱいで、息苦しくなる。本棚はぎゅうぎゅうで天井に届きそうだし、キスギさんが大きいからベッドも大きい。そのくせ、テーブルだのソファだのテレビだの、家具も沢山起きたがるものだから、意外と空いているスペースは少ない。
でも、この息苦しさが心地良い。昼は、夜と違って家具がはっきり見えるから、圧迫感がある。
狭い世界でキスギさんと、ふたりきり、になった気がする。
薄くつぶっていた目を開くと、キスギさんも少し離れたところに寝ていた。横倒しになった世界で、私はキスギさんにゆっくりと手を伸ばした。指先の温もり。
「もう、寝すぎて眠れないです」
「はは、僕も」
キスギさんはくつくつと笑った。
「なにかする?」
「んー、ガンプラ以外で」
「じゃあおしゃべりだ」
指を絡ませたり、離したり、くだらない手遊びをしながら会話した。覚醒しきっているようでまだ、頭の奥がふわふわとしている。
「そういえば先週くらい、この辺ですっごい人なっつこい猫見つけたんです。飼い猫さんなのかなぁ、あれで野生だったらすごいんですけどね」
「あぁ、それなら知ってる。このマンションの隣の隣に、 日本家屋みたいな家あるだろう。そこの猫だよ。犬と猫、一匹ずつ飼ってるみたい」
「いいなぁ」とつい呟くと、キスギさんは私の親指の腹を撫でた。
「飼う?」
「ペット飼うのって、なんか怖くありません?」
親指を撫でる手は止まらない。皮膚と皮膚の擦れ合う音が、部屋中に木霊するかのようだった。
「なんで?」
「別れるのが」
つらいんです。
キスギさんは私がなにを言おうとしたのか察してか、上げていた口角を戻して、とても、人間らしい顔をした。黙ったまま、指の筋を撫でて撫でて、人差し指の根元から先まで行ったりきたりして、キスギさんはうっとりとした微笑みを浮かべた。
「君の指は細いね。僕と大違い」
「話、そらさないで」
私の声は、泣いているかのように震えている。だが頬を触っても、冷たいものなんてひとつもない。とても、熱い。
「亀でも飼ったら、長生きしてくれるよ?」
「長くいればいるほど、家族になって、別れが辛いじゃない」
「そんなこと言ったら僕だって、君より先に死んでしまう」
私はクッションを引き寄せるとうつ伏せになって、顔を埋めた。キスギさんが見えなくなる。
「女性のほうが、長生きだもん」
濡れた唇はクッションに拭われる。声がくぐもって、届かなかったかもしれない。
日光がこんなに気持ちよく降り注いでいるのに、変な話するのが嫌になった。もっと楽しい話をしたい。いつか、キスギさんと別れてしまうのなら、ずっと笑って過ごしたい。お互いのことをもっと、知り合いたい。
「この話やだ」
ぼそりと呟いたのすらキスギさんに聞こえたのか、キスギさんは笑いながら私の頭を撫でてくれた。
「そうだね、やめよう」優しい声でそう言うと、頭に置いていた手を滑らせて、耳の後ろに添えた。
頭はぼんやりと重いし、喉もカラカラだけれど、これを清々しい朝だと言うのだろうか。
って、嘘! 嘘! これが清々しい朝なら、風邪を引いた日の朝の方が全然マシに思える。なぜ、私よりずっと年上のはずの恋人は、こんなぐぅぐぅ寝ているんですか?
土日泊まりにきて、と言われて、なにかあるかもと期待したら一日中、興味もないガンダム鑑賞! 夕飯はコンビニ、それでそのまま寝て、朝は遅起き? 廃人じゃないん だから、キスギさん!
そりゃ、恋人に対する正しい形としては、疲れているんだね、って寝かせてあげるのが良いのかもしれないけれど、さすがに貴重な土日のお休みを、寝て過ごすのは勘弁。
私は自分の腰に巻きついたキスギさんの手を、数度強く、ぺちぺち叩いた。ぺちぺち、というよりは、ばしんばしんの方が合っているかも。キスギさんは腕の力を全く緩めないまま、眉をひそめると小さく唸った。
「ん、朝……?」
「ほら、キョウヤさん!いい加減起きて! 今何時かわかります!?」
私は先程起きたばかりの自分のことを棚に上げて、キスギさんの耳元で大声を出した。キスギさんは、眠たそうに顔をくしゃくしゃにした後、甘えるように私の肩口に頭を埋めた。キスギさんの寝起きの体温は温く、力が抜けた体で寄りかかられると、重かった。
「いや、もうちょっと……寝かせてくれ……」
「ねぇ、重いし! 起きて、絶対起きてください! 今日こそ有意義な休日過ごしましょう! ね?」
早朝のご近所迷惑なんてひとつも考えずに、私はキスギさんに声を張り続けた。こんなに躍起になってキスギさんを起こすのにも、それなりの理由がある。
まず、ひとつ! 見栄をはりたい! 学校帰り、いつだかにキスギさんがお迎えに来た日、私は女子高生ながら社会人の男性とお付き合いしていることが周りにバレてしまった。それで言われたことがこれである。
羨ましい! あんなカッコよくてセレブそうな人なら、遠くへ連れて行ってくれたり、奢ってくれたりするでしょう?
ん、なわけあるかー! と、騒がなかったこと、褒めてほしい。キスギさんってば、そとっつらばかりだ。あと、たまーに少し優しいくらい。
GBNのチャンピオンとして君臨し続けることは、並大抵の努力ではないようで、その辺の部活が忙しい男子の三倍は忙しい。一にガンプラ、二にAGE、三、四がなく
て、五にお仕事だ。私は八くらいかな、と思う。
遠くへ連れてくって、キスギさんと過ごした時間は大体、お互いの家か私の通学路だし、奢りだって、私から誘いづらくならないよう、ほとんど割り勘にしているんだ。キスギさんって、なんで私と付き合ってくれてるのか、イマイチわからないけど、私が子供な分、気を遣わずに余裕を持って過ごせるのが楽なのかなぁと。
だから、土日一緒に過ごすことは、大チャンスだと思った。ざっくり数えて、四十八時間一緒にいるんだ。これでなにか起こらないほうがおかしくない? あと二十四時間、より短いけど、その時間でなんとかしたい。
これでキスギさんとなんの進展もなかったら、さすがに落ち込んでしまう。家にいると結局ガンダムから離れられないんだから、どこかにお出かけしたい。
そう、これがふたつめ。もっと、恋人らしいことがしてみたい。
私がうじうじ悩んでいる間にも、時間は刻刻と過ぎていた。先程より心做しか太陽は高いし、なにより私を抱き枕にするキスギさんは、船を漕いで半分夢の世界だ。さすがに、寝言で愛機の名前を呼ぶのはやめてほしい。えっと、えいじつー、まぐなむ? よくわからないけど、ガンプラより私の名前でも呼んだら? そっちのほうが、まだ普通の人っぽいのに。
実際、キスギさんとお付き合いをして長続きする方って、少ないんじゃないかと思う。なんか変な人だもの。オフ会の様子を見せてもらったことあるけれど、やっぱり、軽く引いてしまうくらいガンダム好きの集団の中で、てっぺんに立つキスギキョウヤはどこかおかしい。 どこかネジのようなものが外れている。
あーあ。昨日の夜はあんなに優しくキスをしてくれたのに。ココアは優しくて甘かった。きちんと、すきだよ、って、言ってくれたし……。
背中を叩こうが頭を小突こうが、全く起きる気配のないキスギさんに面倒くさくなってきて、私は彼の項を爪で抓った。さすがに痛かったのか、キスギさんは跳ね起きた。きっと怒ってはないけれど、紫色の瞳が潤んでいた。
「敵襲か!」
「敵襲、って。キョウヤさんここ、リアルですよ? いつまでも寝ぼけてないでください。ほら。起きてくださいよ」
キスギさんが再度寝こけたりしないよう、私はベッドの上の毛布を畳んだ。キスギさんが飛び起きたせいか、せっかくの綺麗なシーツが皺になってしまっている。
「あぁ、君か。あれ、なぜここに?」
「なんでって……! はぁ!? ありえない、ありえない! キスギさん! さいてー!!」
私が感情任せに叫び、枕を投げつける。楽々とキャッチしたキスギさんは、バツが悪そうに笑いながら頬を掻いた。
「すまない。つい、からかいすぎてしまう。もちろん覚えているよ。昨日、あんなに素直でかわいかったんだから」
「もう。つまらない冗談ですね、キョウヤさん」
寝起きにも関わらず、キスギさんの立ち姿はスラリとしていた。朝日に照らされくっきりと浮き出る輪郭は、芸術的と言えるほど完成されている。例えそれが、流行遅れのパジャマ姿でも、だ。窓際に立った逆光のキスギさんは、頬に薄く微笑みを浮かべた。よく絵になる人だ。
私は投げつけた枕を彼から受け取ると、ベッドの上に置いた。キスギさんの方を向く。彼は目を細めた。
「ねぇ、素直じゃなかったら、かわいくない……?」
なんとか勇気をだして絞り出した声は、消え入りそうに小さかった。キスギさんは、意外そうに目を見開くと、口の端を上げて笑った。
「ん、言い方が悪かったかな。素直じゃなくても素直でも、大好きだよ」
キスギさんは膝を折り曲げて私と目線を合わせると、頭を撫でながら愛しそうに言った。撫でる力が普段より強く感じられる。だが、決して雑ではない。
どのような顔をして、どんな態度で受け入れればいいか迷って、私は固まっていた。それに気がついたキスギさんは、私に近づくと、「大丈夫?」だなんて言いながら、おでこの髪を退かしてキスをした。私の額よりキスギさんの手のひらはずっと大きかった。外国人のような頻度でキスをしてくる人なのだ。スキンシップ、激しい。
手のひらが離れる瞬間、遠くなる体温を恋しく思った。昨晩、バルコニーで触れ合った肩と肩、見つめあった瞳の温度、抱きしめあった腕の逞しさ。
私はほとんど衝動的に、キスギさんの手首を掴んだ。そうしてそのまま、引き寄せて、私の頭に、キスギさんの大きな手のひらを乗せた。キスギさんは、一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに余裕を取り戻して、
「どうしたの?」
「ぅあ〜〜! なに、なにやってるんだろう、私! 恥ずかしい……。これは、あの、その、違うんですよ? キョウヤさん……」
「違うって、なにが?」
つい、焦ってしまって上目遣いに見つめると、キスギさんは笑いながら私の髪を掻き回した。くしゃくしゃになっていく髪の毛に視界を阻まれて、キスギさんの顔がどんどん見えなくなってくる。どんな、どんな顔をしているんだろう。こんな時、身長差があるのを不便に感じる。
「頭、撫でられるの好きなのかい?」
手を止めずに、キスギさんは尋ねてきた。キスギさんの声は、恥ずかしくなるほど甘ったるい。こちらの頰まで熱くなるのを感じながら、私はこっそりと一度頷いた。
本当に小さな頷きだったのに、目ざとくもキスギさんは気がついたのか、頭を撫でる腕の動きは、どんどん激しくなった。力強くぶんぶんと揺さぶられた。髪の毛の擦れる音が耳元で響いている。
男の人の腕だ、と思った。
同級生の、部活をやっている男の子のように、筋肉に覆われた腕じゃない。はたまた、ひょろっとした男の子の白くて細い腕じゃない。
キスギさんの腕には、彼の生きてきた証が乗っているように見えた。血管は浮きで、筋になっている。手のひらは大きく広く、また指は決して細くない。所々、引っ掻いたような赤い線がある。だが爪は綺麗に切りそろえられていた。
この手で、ガンプラを作っているのだ。
キスギさんの手も腕も、男の子と全然違う。お父さんとも違う。私とはもっともっと離れているし、よくわからなくなってしまう。
髪の毛はくしゃくしゃ鳴る。胸がどきどきしてくる。
揺さぶられすぎて頭がくらくらしてきたころ、キスギさんはようやく手を離してくれた。
そうそう、私はこんなことをしている場合じゃない。今日こそ出かけると、起きて早々決めたのだ。
「キスギさん」と私は彼の名前を呼んで、「今日こそどこか出かけましょう?」と誘った。
「いいけれど……。どこか行きたいところあるのかい?」
そう言われると困ってしまう。そのどこかに、地名はないのかもしれない。
「うーん、どこって感じじゃないです……。ただ、あなたと出かけたら楽しいだろうなぁって思うし……。家にずっといるのって、不健全じゃないですか?」
下を向きながら早口に呟いて、不健全、の部分で私は彼を見上げた。距離が近いから、目を合わせようとすると、首を大きく傾けなければいけなくて痛かった。
私を見下ろしたままキスギさんは、目を細めた。含みを持ったように笑うと、目尻を下げて言った。
「不健全は、いや?」
私の目を真っ直ぐに見据える。
「いや、ってわけじゃ……」
ライラック色の瞳がゆらゆら揺らめいていた。
「じゃあ……好き?」
「好きでもないけど……」
朝日が室内を眩しく照らしている。白い壁も天井も嫌になる程光を反射して、私の目に焼きつきた。見慣れたキスギさんの部屋が、全く別の世界に思える。光が充満していた。
「眩しくない?」と、唐突にキスギさんは、私の目の周りに、手で覆いを作った。急遽作られた影の中で、私の頬は緩んでいった。
「なにかおもしろいの?」と、キスギさんは私の顔を覗き込んで、「寝癖、ついちゃってるよ」
私の髪をひと房とると、手櫛で梳いた。
キスギさんの声は小川の流れのように柔らかく、優しい。
「あっ、ありがとう、ございます……!」
「うん、昨日、君良く眠っていたもんね」
「キスギさんはぐっすり眠れました?少し隈できてません?」
「君の寝顔をずっと眺めてたから、あまり」
「もう……!」
脳みそがとろけていくような、体温が上がっていくような、段々とキスギさんのペースに乗せられていく感覚は、嫌いじゃない。
「だから」
キスギさんがしっとりと呟いた。
「いまはすごく眠たいんだ。いいだろう?」
言いながら、私の腰に手を回す。キスギさんの手の平は分厚い。キスギさんはそっと私の肩を押して、柔らかいベッドの上に転がした。
「今日は寝ていよう」
「ちょ、キスギさん!」
抱きしめられながら耳に届いた声は、くぐもっていた。キスギさんは、唇を私の髪に寄せる。顔を胸板にぎゅうぎゅうと押し付けられて、苦しくなる。私は何度か非難の声を上げたが、返ってくるのは「おねがい」か「すまない」の一言だけだった。
要するに、家にいたいだけなのだ。私の誘いをなんとなく了承したものの、すぐに面倒くさくなったのだろう。
「キスギさん、私出かけたいって言ったじゃないですか。キスギさんも初め頷いてくれたでしょう?」
「家じゃだめかい?」
私達は、決して対等じゃない。
「私、思い出ほしいです」
「こうやって二人でだらだらするのも思い出にならない?」
「だって、みんな遊びに出てるんですよ……」
「みんなって誰?」
キスギさんの声は子供に言い聞かせるように優しかったが、絶対に退かないという意思が感じられた。もうここまでくると、私が退くしかないことを、私は経験で知っていた。
急にしんと静かになった私に、キスギさんは満足そうに頷いた。腕を緩め、密着していた体が少し離れる。
気になるのか、キスギさんは私の髪の寝癖を、また触った。
「寝癖、治らないね」
甘えるような声でキスギさんは言った。私は答えなかった。腕の中に包まれて、全身の匂いを感じながらあることを考えていた。
私は今まで、無遠慮に髪に触られるのも、寝起きだとか寝る前のぼんやりとした姿を見られるも、異常なほど嫌いだった。
気を許している仲の良い友達ならまだしも、修学旅行のお風呂とかに、よく知らない友達に裸を見せるのも嫌だったし、髪が濡れたままタオルを首にかけ、男子とか先生に会うなんてもっともっと嫌だった。
自分でもよくわからない感情だ。私は潔癖ではないし、神経質でもない。
が、しかしだ。キスギさんに会ってずいぶん変わった。普段の私なら考えられない。寝起きも寝癖もパジャマ姿も、見られたくない。見られたくないはずだった。
なぜ今、こんなに無防備なんだろう。キスギさんに全てさらけ出してしまうくらい。キスギさんは家族ではない。恋人ではあるが、一般の恋人の関係とはなんとなく違う気がする。
かっこ悪い姿を見せてもいいのが、好きってこと? でも、好きな人とはばっちり化粧と髪をセットして、会いたいものじゃないの?
ふと、キスギさんの声がした。
「なにか考えてる?」
言いながらキスギさんは、私の頬を撫で、愛しそうに微笑んだ。
「ううん、なにも」
「ほんとかい?」
「ほんと」
くっついているから、体が温まって眠くなる。起きたばかりのころはあんなに素敵な休日にすると意気込んでいたのに、ぬるま湯のような環境から抜け出せなくなる。
私は、頭のてっぺんをキスギさんの顎につけると、匂いを思いっきり吸い込んだ。キスギさんの匂いは落ち着く匂いがする。汗臭くもなくて、香水のような甘い匂いがするわけでもない。ただ、これは良い匂いなんだと思う。
「お腹すいた」
「お昼ご飯なにがいい?」
「まだ朝も食べてないのに」
私が皮肉っぽく言うと、キスギさんは苦笑した。苦笑、といっても顔が見えないから、声だけで判断したのだけれど。
視界がキスギさんの胸でいっぱいの中で、なんとか壁掛け時計を確認する。まだ朝の七時くらい。二度寝にしては、遅すぎない? 私、朝ごはんは決まった時間に食べたいんだけど。言いたかったことは全部、キスギさんが私のために新しく買ってくれたパジャマの、ふわふわな生地に吸い込まれていく。
枕元の携帯に手を伸ばしなから、私は、
「アラームセットするから、何時に起きるか言ってください」
「じゃあ、大体九時くらいで」
あと少しのところで、携帯にまで手が届かない。キスギさんが取ってくれる。私に巻き付けていた腕を外して、重みが無くなって少し寂しい。
携帯のブルーライトに目をそばめ、アラームを設定する。なんとなく、こっそりとスヌーズ機能をオフにしてみる。
キスギさんが私から携帯を受け取り、ベッドボードに置く。木と携帯電話が、こつんと優しい音を立てる。
私はキスギさんに擦り寄り、目を瞑る。「一応、おやすみなさい」と言う。キスギさんも私の髪に頭を埋める。少し重い。「おやすみ」と柔らかな声が返ってくる。
私達は丸まって、胎児のように眠る。登った太陽が容赦なく窓ガラスから差し込んで、部屋中をぴかぴかに染め上げながらも、私達は目を瞑る。
朝はもう始まっていて、隣人もそのまた隣人も、私のお母さんもお父さんも、どこかの遠くの面識のない人ですら、起きて動いているというのに、私達は体を寄せて、二度寝をする。
少し、優越感。
結局、空腹のせいかアラームより先に覚醒してしまった。眠い眠いと言ってた割に、キスギさんもどうやら熟睡できなかったようで、私が起きるとキスギさんも目を開けた。
「おはよう」と、示し合わせたかのように同時に言った。そしておかしくなって、笑った。
「カーテン閉め忘れてたから、眩しくて眠れなかったよ」
キスギさんがお茶目に言った。
「閉めにいけばよかったじゃないですか?」
「君を抱いて眠るの心地よすぎて……離したくなかった」
よくもまぁ。ここまで歯が浮くような台詞を、躊躇なく口にできるのは、逆にすごい気すらしてくる。キスギさんは当たり前のように私の頭に手を伸ばすと、ぽんぽんと二回軽く叩いた。手がどいてから覗いたキスギさんの顔は、心底幸せそうだった。
「朝ごはん作りましょう。お腹空きました」
ベッドから立ち上がると、逃げるように私はキッチンに向かった。赤く染まった頰を、パジャマの袖で隠しながら。
キッチンで冷蔵庫を開けると、中はほぼ空に近かった。キスギさんは私の真後ろに立って、「あれ? もう食材なかったっけ?」とほざいた。あまりの無頓着さに震えながらも、私は朝食になりそうなものを探すことにした。
白米は炊いてある。あとは……。
「ふりかけならあるよ!」と自慢げにキスギさんは持ってくる。ないよりはましだけれど、さすがに白米にふりかけだけの朝ごはんは味気ない。
許可を取ってほかの段も探す。野菜室には、ネギとトマト。冷凍室には保冷剤と氷。立派な冷蔵庫なのに、中があまりにも残念すぎる。キスギさんみたい。
また、冷蔵室を開けて、私は卵が三つほどあることに気がついた。
「これを使いましょう」と、振り返ってキスギさんに声をかけた。キスギさんは私に寄り添うように後ろに立っている。顔の距離が、思ったよりも近いことに驚いた。
「卵かけご飯?」
「目玉焼き!」
フライパンを準備すると、油を引いて火をつけた。ぱちぱちと油が鳴った頃、卵を入れる。熱いフライパンの上に乗せると、卵の白身が色づいて、固まってくる。ある程度して水を入れると、激しく大きな音を立てながら跳ねた。キスギさんが大げさなほど仰け反る。蓋を閉める。
「ちょ、キョウヤさん。オーバーすぎません?」
「そうでもないさ。少し、びっくりしただけ……。少し」
「キョウヤさんって普段料理つくります?」
何気なく聞いたひとことだった。
「実は、あまりしないかな。一人暮らしだけれど、いろいろ買ってしまうから、大抵のものは作らずにすんじゃぅんだよね。元々、食事にあまり執着しない質なのもあるかもしれない」
キスギさんはお金もあるしなぁ。それとも一人暮らしってそんなものなのかな。ふとした瞬間感じる、価値観の違い。
ふぅん、とだけ返事をすると、私は蓋がぐんぐん曇っていくのを見つめた。卵は隠され、ついに見えなくなる。
「だから、君が作ってくれるならとても嬉しいんだけど」
私に向けて言っているのか、それとも独り言なのか、区別がつかない呟きだった。また私は、ふぅんとだけ返した。
目玉焼きが出来上がって、キスギさんから差し出されたお皿の上に乗せる。途中途中、「座って待ってればいいのに」と提案した私をキスギさんは、「君が料理をしているところを見たいから」と取り合わなかった。
二人で食卓につくと、すぐにいただきますをした。朝ごはんを食べるのには遅い時間帯すぎて、ともかくお腹が空いていた。キスギさんと私は、食べるスピードも一口の大きさも、全然違かった。キスギさんが食べ終わっても、私はまだ半分ほどで、私が一口一口食べるのを、キスギさんはずっと見つめていた。
朝ごはんは一瞬だった。簡単なメニューだったし、なにより見られながら食べる居心地の悪さに、私はいつもより頑張って噛んだのだ。
「美味しかった。ありがとう」と、ただ卵を焼いただけの料理に、キスギさんは心からの感謝を伝えてきた。
二人で洗い物をしながら、何度も肘と肘がぶつかった。手にかかり、食器を伝って跳ねる水は冷たかった。落ちてくる袖をまくってくれたキスギさんの触れ合った肌の、滑らかな感触。キスギさんは私の腕を撫でると、もう一度、ありがとうと消えかかりそうに呟いた。誰に言ったか、わからなかった。
洗い物を終えると、どちらからともなくラグに寝転がった。キスギさんの家のラグは、ふわふわしている。なんだか、あんなに朝出かけに行きたがっていた気持ちは嘘のように消えて、このままキスギさんと、ずっと一緒にいたくなってしまう。
キスギさんの部屋は広くない。大きな窓から差し込む日光だけで、照明がいらなくなるほど明るくなるし、なにより棚はガンプラでいっぱいで、息苦しくなる。本棚はぎゅうぎゅうで天井に届きそうだし、キスギさんが大きいからベッドも大きい。そのくせ、テーブルだのソファだのテレビだの、家具も沢山起きたがるものだから、意外と空いているスペースは少ない。
でも、この息苦しさが心地良い。昼は、夜と違って家具がはっきり見えるから、圧迫感がある。
狭い世界でキスギさんと、ふたりきり、になった気がする。
薄くつぶっていた目を開くと、キスギさんも少し離れたところに寝ていた。横倒しになった世界で、私はキスギさんにゆっくりと手を伸ばした。指先の温もり。
「もう、寝すぎて眠れないです」
「はは、僕も」
キスギさんはくつくつと笑った。
「なにかする?」
「んー、ガンプラ以外で」
「じゃあおしゃべりだ」
指を絡ませたり、離したり、くだらない手遊びをしながら会話した。覚醒しきっているようでまだ、頭の奥がふわふわとしている。
「そういえば先週くらい、この辺ですっごい人なっつこい猫見つけたんです。飼い猫さんなのかなぁ、あれで野生だったらすごいんですけどね」
「あぁ、それなら知ってる。このマンションの隣の隣に、 日本家屋みたいな家あるだろう。そこの猫だよ。犬と猫、一匹ずつ飼ってるみたい」
「いいなぁ」とつい呟くと、キスギさんは私の親指の腹を撫でた。
「飼う?」
「ペット飼うのって、なんか怖くありません?」
親指を撫でる手は止まらない。皮膚と皮膚の擦れ合う音が、部屋中に木霊するかのようだった。
「なんで?」
「別れるのが」
つらいんです。
キスギさんは私がなにを言おうとしたのか察してか、上げていた口角を戻して、とても、人間らしい顔をした。黙ったまま、指の筋を撫でて撫でて、人差し指の根元から先まで行ったりきたりして、キスギさんはうっとりとした微笑みを浮かべた。
「君の指は細いね。僕と大違い」
「話、そらさないで」
私の声は、泣いているかのように震えている。だが頬を触っても、冷たいものなんてひとつもない。とても、熱い。
「亀でも飼ったら、長生きしてくれるよ?」
「長くいればいるほど、家族になって、別れが辛いじゃない」
「そんなこと言ったら僕だって、君より先に死んでしまう」
私はクッションを引き寄せるとうつ伏せになって、顔を埋めた。キスギさんが見えなくなる。
「女性のほうが、長生きだもん」
濡れた唇はクッションに拭われる。声がくぐもって、届かなかったかもしれない。
日光がこんなに気持ちよく降り注いでいるのに、変な話するのが嫌になった。もっと楽しい話をしたい。いつか、キスギさんと別れてしまうのなら、ずっと笑って過ごしたい。お互いのことをもっと、知り合いたい。
「この話やだ」
ぼそりと呟いたのすらキスギさんに聞こえたのか、キスギさんは笑いながら私の頭を撫でてくれた。
「そうだね、やめよう」優しい声でそう言うと、頭に置いていた手を滑らせて、耳の後ろに添えた。